アスカは交差点の真ん中で腕組みをしていた。

「きょ〜はどっちにいこ〜かなぁ」

 いちいち声に出すところがアスカのアスカたる所以だ。
 声を出すことによって誰か…いや犬や猫でさえも相手になってくれたらそこから冒険がはじめると思っている。
 もちろん彼女の望むような冒険は起こってくれた例がない。
 何しろここは地方都市の上、元武家屋敷が並んでいた静かな町。
 人通りも少なければ、獣通りも少ない。
 
「う〜ん、じゃ、あっちにいくわよっ」

 やや細めの小道を選んだアスカはその方向をしっかりと指差して宣言した。
 どうやら今日の冒険は探検ごっこと決めたようだ。
 その小道は家と家の間をくねくねと曲がっている。
 まるで迷路のように。

 きききっ。

 アスカが足を踏み出そうとしたとき、大きなブレーキ音がした。
 このブレーキの音は耳慣れている。
 彼女は声をかけられる前に振り返った。

「ごくろ〜さまですっ」

 ぴしりと右手で敬礼。
 自転車の主はアスカの敬礼に慌てて自分も敬礼して返す。

「あっと、こんにちはあっかちゃん」

「きょ〜はピストルうった?」

 おまわりさんはサドルから降りると、苦笑いしながら自転車のスタンドを立てる。

「まさか、ここでピストルを撃つような事件は起きないよ」

「わかんないわよ〜。うちゅうじんやかいじゅ〜がでてきたら?」

「はは、そんなの相手じゃピストルくらいじゃダメだよ」

「ふ〜ん、じゃにげるの?」

「ああ、逃げるよ」

「アタシたちをおいて?」

「馬鹿な」

 日向マコト巡査はぴしっと敬礼して、真面目な顔で宣言した。

「本官は最後まで市民の避難誘導任務にあたるであります!」

 ぱちぱちぱちとアスカが拍手する。
 
「すっご〜い。よくわかんないけど、がんばってね」

 マコトは頬を緩めた。
 彼はアスカのことが好きだった。
 いや、厳密に言うとアスカの母親のことを大好きだった。
 将を射ようと思えばまず馬から。
 そういう下心も手伝うのか、彼はアスカによく声をかける。
 もっともアスカの母親の方にはほとんど声をかけられないのだが。
 犯罪のほとんど皆無なこの町だが幼児の一人歩きはやはり危ない。
 彼の職務は街の人々の安全を守ること。
 したがって、実は彼もアスカの脱走を取り締まる側の人間だったのだ。
 アスカは話をしながらも退路を探してる。
 見え見えの動きで。
 その動きを当然マコトも見ている。
 じりじりと横に移動するアスカだが、簡単に逮捕されそうな間合いである。
 もちろん逮捕というのはアスカの考えていること。
 マコトの立場ではそれを保護と呼称する。
 
「あっ、あれはなにっ?」

 注意を逸らそうとアスカはマコトの背後を指差した。
 彼が振り向いた隙に路地に走りこもうと計画していたのだが…。

「さあ何だろうね。鳥でも飛んでいるのかな?」

 笑顔のマコトは視線を逸らしてくれない。
 指を指した姿勢のまま固まってしまうアスカ。

「う、う〜ん、えんばんとか」

「そうか、円盤かぁ」

「うん、えんばん…」

 もう無理だ。
 逮捕されて牢屋に放り込まれてしまう。
 アスカは覚悟した。

「あら、あっかちゃんにおまわりさん、こんにちは」

 神様の助けだ。
 アスカはゆっくりと歩いてきた神様を見上げた。
 その神様は買い物籠から大根と白ねぎを覗かせている。

「あっ、こんにちは!」

 神様に捧げるその笑顔の素晴らしいこと。
 なるほど心からの笑顔だけに神様は彼女を助けようと思ったのかもしれない。
 実際はおまわりさん相手にいつも通りに世間話をはじめただけなのだが。

「日向さんや、回覧板見たよ。ひったくりだって?怖いねぇ」

「あ、ご覧になりましたか?防犯のお知らせ」

「ええ、ええ。この町でねぇ。物騒なことですよ」

 じりっ。
 アスカの右足が動く。

「幸いこの近辺では何も起こっていませんが、でもご注意くださいよ」

 じりっ。
 アスカの左足も動く。

「そりゃあ、ここでは日向さんがいつも熱心にパトロールしてくれているから」

「それは本官の職務でありますから」

 ぴしっと踵を揃えるマコトだが、その目はしっかりとアスカをとらえている。
 その視線に肩を強張らせるアスカ。
 これでは逃げ出せない。

「いえいえ、日向さんはよくしていただいてますよ。そうそう、ところで、日向さん?」

「はい、なんでしょう」

 メガネの奥の優しい眼差しでおばさんに答える。
 しかしその眼差しはアスカの動きは捉えていても、おばさんの目がきらりと光ったことにはまったく気付かなかった。
 アスカにとっての神様、神田横丁の元用人の末裔である洞木家の刀自は面倒見のよいことで有名だった。
 その面倒見の中には仲人口を持ちかける趣味があるということも含まれなければならない。
 そして、惣流キョウコに惚れている日向マコト巡査はもちろん独身だった。
 
「貴方、恋人いらっしゃる?」

「えっ!」

 メガネの中の目が大きく見開かれた。
 まったく予期しない展開。
 マコトは思わずアスカを見下ろした。
 俺が好きなのはこの子のお母さん。
 咄嗟に口が開いた。

「いません!本官には恋人なんかまったくいませんであります!」

「あらまぁ、それはもったいない」

 洞木家の刀自はほくそえむ。
 どこの娘にしようか。
 このおまわりさんは純情そうだからぐっとインパクトのある娘さんがいいんじゃないかしら。
 それにちょっと姉さん女房の方がいいんじゃないかしら。
 あ、そうそう、葛城さんのところのあの娘。
 あの娘さんには恋人がいないみたいだから。

「よろしければ、お見合いなんかいかがでしょうか?」

「えええっ!」

 マコトの視界からアスカは消えた。
 いや、まだアスカ自身は逃走していない。
 マコトがそれだけ茫然自失したということ。
 
「あらあら、結婚願望はありませんの?」

「いえ、結婚はしたいです。はいっ!」

 マコトは正直者だった。
 直立不動で敬礼までしかねないほどの勢いで洞木家の刀自に答えた。
 確かに彼は結婚したかった。
 アスカの母親と。
 
 思えば、彼女との出会いは突然だった。
 それは2年前。
 彼がこの町に赴任してきた時のことだった。
 挨拶も兼ねて一軒一軒の家を訪問していた、ある春の日。
 『惣流』と流麗な字で書かれた表札を眺め、彼は格子戸が開くのを待っていた。
 インターホンから聞こえた声はまだ若い女性だったから、彼は無意識に制服を整えている。
 そして、格子戸が開いた時、彼は言葉を失った。
 春の陽射しに輝く金色の髪。
 朱もさしていないのに、鮮やかに目に焼きついたピンク色の唇。
 固まってしまった彼を訝しげに、しかしそうでありながら優しげに見えた紺碧の瞳。
 あまりに場違いな女性の出現に彼は我を忘れた。
 直立不動のまま自分を呆然と見つめているメガネの制服警官にキョウコは自然に笑みが零れた。
 キョウコも女である。
 自分の容姿を認めてもらえると嬉しい。
 マコトにしてみれば大好きな古い西洋映画の画面からヒロインが飛び出してきたようなものであった。
 グレース・ケリーやエヴァ・マリー・セイントに憧れながらも自らのいかにも東洋人的風貌に苦笑を漏らしていた彼だ。
 一目惚れしてしまってもおかしくはない。
 しかもこのヒロインは吹き替えではなく自分の言葉で日本語を喋るのだ。
 彼女に娘がいることがわかってもマコトの恋心は少しも変わらなかった。
 むしろつのるばかり。
 だが、彼は一言も自分の気持ちをキョウコに言えなかった。
 はなから諦めていたのである。
 不釣合いだと。
 しかし、いくら恋心の成就を諦めていても彼女を好きであることには変わりがない。
 できることなら結婚したい。
 交際したいのではなく、彼女と夫婦になりたいのだ。
 そのまま2年、マコトはアスカの母親のことをずっと恋焦がれていた。

 さて、そんなマコトを洞木家の刀自は格好の獲物と認識した。
 結婚願望のある若い男。
 しかも職業は警察官で真面目を絵に描いた様な好青年だ。
 これは仲人口の聞き様がある。
 
 この瞬間、マコトは己の将来をこの夫人に握られてしまったことに気づきもしなかった。
 事実、1年後。
 初夏のすっきりと晴れわたった日。
 彼の結婚式に主賓として座っていたのはこの洞木家の刀自であった。
 そのときの彼女はすこぶるご満悦だったという。
 そんな未来絵図には思いもよらず、この時のマコトはただひたすら頬を熱くさせていた。
 寒い2月の初めというのに。
 
 そして、この時彼の意識からアスカの存在が消えてしまっていたことを責める訳にはいかないだろう。
 もちろん、この後アスカが事故にでも遭えば責められたかもしれないが。
 如何せん、この物語ではそういう事件は起こりそうもない。
 ともあれ、アスカはここぞとばかりに姿を消した。
 彼女の小さな身体がいなくなっていることにマコトが気づいたのは3分ほど経過してからだった。
 がっくりと来るよりも刀自の連続攻撃を如何に避けるか、しかも相手の気持ちを損なうことなく。
 マコトはそれだけで手いっぱいだった。
 生真面目で優しいおまわりさんにとってはそれは非常に困難なことだったが。





「ああっ、これはっ」

 アスカは前方2mほどの場所をぴしっと指さした。
 そこに転がっているのは40cmくらいの棒切れ。
 
「わっ、むらさめっ」

 アスカはその棒切れを拾い上げた。
 そして、それをぐっと空にかざす。

「おおおっ、これこそまさに…えっと、なんだっけ、ま〜いいわ。
 これをせっしゃはさがしもろめていたのじゃ」

 曽祖父と一緒に見ている時代劇の影響。
 ぶんぶんと振り回す。

「うむ、これこそ、め〜と〜…あれ?よ〜と〜だっけ?ま、どっちでもいいか」

 何しろこれはただの棒切れ。
 本物の刀ならば名刀と妖刀では恐ろしい違いがあるのだが、この場合は支障はまったくあるまい。
 アスカはぶんぶんと空気を切り裂くと満足げに名刀だか妖刀だかを腰に収めた。
 
「ぐふふ、これよりパトロール…じゃなくて…ん〜、わすれちゃった。ま、いいか。むむっ」

 アスカはぐっと気合を入れた。

「これよりいちばんたいしゅつど〜っ!」

 棒切れ…もとい、愛用の菊一文字を天に突き上げるは新撰組の沖田総司か。
 なにぶん一番隊と言ってもアスカ一人。
 仕方がないので一歩下がって「おおっ!」と叫ぶ。
 隊士が一人では様にならないと思ったのか、アスカは都合五歩下がった。
 そして慌てて元の場所に駆け戻ると、また剣を突き上げる。

「いくぞぉ〜」

 今度は配下の返事はなし。
 もう先に進むことしか頭になかったから。
 アスカはずんずんと進んだ。
 敵はいないかと目を皿のようにして。

「わっ!」

 驚いたのではない。
 これは歓喜の叫び。

「でたなぁっ!ばくふのいぬっ!」

 前方3m。
 そこでぽかんとアスカを見ているのは、小さな子猫。
 新撰組の方が幕府の犬だということをアスカに教えても混乱するだけだろう。
 トモロヲが見ている時代劇は一作二作ではないのだ。
 歴史を知らないアスカがわかるのは、いいものとわるもの。
 勧善懲悪が彼女のすべてだった。
 さて、その犬ならぬ猫は僕切れをぐっと突きつけられて身がすくんでしまったようだ。
 アスカはにやりと笑って、そのまま前へじりっと歩みだした。
 
「ダメよ、そんなことしちゃ」

 背後から声がかかる。
 みやぁ。
 一声残して子猫は身を躍らせた。
 さっと板塀の隙間に身体を潜り込ませると、そのまま姿を消す。

「あ…」

「よいしょっと」

 アスカの身体の傍にどすんとトランクが置かれた。
 
「これも送ればよかったわね。本当に不様この上ないわ」

 自嘲する様な女の声にアスカが仰ぎ見る。
 アスカがすっぽりと入ってしまいそうな大きなトランク。
 そんなずっしりとしたトランクにその女は溜息交じりに腰を下ろした。
 さっと足を組み、ポケットから煙草を取り出す。
 しかしその中身が空っぽだと気づくと、また大きな溜息を吐いてぎゅっと箱を握りつぶした。

「さすがに貴方は持ってないでしょうね?」

 幼児が煙草を持っていれば怖い。
 だが、アスカには法律はわからない。

「もってないよ。おばさん」

「おば…」

 女は苦笑した。
 まあ、おばさんに違いない。
 親友がそう言われたなら激怒するはずだが。
 
「そう。じゃ、仕方ないわね」

 アスカは見たことのない女に眉をひそめた。
 こいつは敵なんだろうか。
 何しろ見た目がおかしい。
 自分の母親が金髪だからこの女の髪の毛の色をとやかく言うつもりはない。
 だが妙なのはそのくっきりとした眉毛だった。
 キョウコの眉はやはり金色。
 髪の毛よりも少し濃い目だが、この女のように真っ黒ではない。
 疑問が湧くと解決したくなるのがアスカだ。

「ねぇ、ど〜してくろいの?へん」

「変…よね。そりゃそうか。あのね、おばさんの髪の毛は本当は黒なの」

「ええええええっ」

 アスカは仰天した。
 彼女の育った場所は元武家屋敷の界隈。
 そしてほとんど若いものがおらず、大抵が年寄りの家庭だ。
 髪の毛を紫色に染めるようなおばあさんもいなければ、茶髪の若者もいない。
 たまに買い物に出てもそういう髪の色の人間だと了解していたのだった。
 
「ど、ど〜して?さ、さては、にんじゃっ」

「え…うふっ」

 幼児の発想に赤木リツコは笑みを零した。
 自嘲でも苦笑でもない、愉快な笑みを。
 そして、棒切れで身構えるアスカに笑いかける。

「忍者でもないわ。ただの趣味。似合わないかしら」

 最後の一言は独り言だった。
 だが、そんな微妙な言葉のやり取りができるアスカではない。

「わかんない。くろいのみてないもん」

「ふふ、そうね。そのうち戻そうかしら。この町には合わないわね」

「ねぇねぇ、おばさん」

「なぁに?」

 リツコは自分の膝に頬杖をついた。
 不思議だった。
 あの子と話すときはもっとぎくしゃくしていた。
 気持ちに余裕もなく、むしろシナリオに書かれている台詞をただ喋っているような感じだった。
 こうやって自然に話ができたなら、あの町から逃げ出してきたりはしていなかったかもしれない。
 彼女はまた自嘲した。
 後悔しても仕方がない。
 もう終わってしまった話なのだ。

「ど〜してアタシをとめたの?」

「あ、さっきのこと?猫がかわいそうだったから」
 
「アスカ、ねこさんをぶったりはしないよ〜。あそんでただけだもん」

「貴方はね」

 リツコはすっとアスカの髪に手を伸ばした。
 まだ金髪とは言えない赤みがかった髪の色。
 
「貴方は決して猫をぶとうとは思わなかった。
 でも猫にそのことがわかるかしら?
 現に棒で叩かれると思って身をすくませていたわ」

 アスカの髪を撫でながらリツコはゆっくりと話した。 
 幼児にもわかるように。

「アスカ、わるいこなの?」

 リツコを見上げたアスカの目にはうっすらと涙が滲んでいる。
 言われたことの意味はよくわかった。
 ただチャンバラごっこをしていただけのことだ。

「いいえ、まだわからなかっただけのことよ。
 ただ弱いものには剣を振りかざしてはダメ。
 それが正義の味方でしょう?」

「うぅ、わかった。アスカはせいぎのけんしなの」

「そうか。アスカちゃんっていうのか…」

「うん、アタシアスカっ!」

 気張って自分の名前を言うと、その名前は『あっか』と聴こえる。

「綺麗な髪」

 さらさらとリツコの指からこぼれていく赤めの髪。

「でもアタシのあかいの。ママみたいにきれ〜なきんいろじゃないの」

「大きくなったら金色になるわよ。きっと」

 アスカは少しだけ喜色を浮かべ、でも口を尖らせた。

「ママもそ〜いうの。でもしんじらんないよ〜。だってあかいもん」

「うふふ、そういうものなのよ」

 リツコはアスカの頭を撫でた。
 不快ではなかった。
 見知らぬ、しかもこの町としては異様な風体をした女性に頭を撫でられたのに。
 アスカとしては自分にわかるように猫のことを教えてくれたのだ。
 悪い人のはずがない。
 弱きを援け強きをくじくのが、時代劇で教えられた正義の味方なのだ。
 となれば、この人は…。

「わかりも〜した。おししょうっ」

 アスカは棒ッ切れ…ではない、刀を鞘に収めると深く一礼した。
 くすりとリツコが笑う。
 猫がかわいそうだっただけ。
 もしもっと大きな子供だったなら怒鳴りつけていたかもしれない。
 いや、ここまで大きなトランクを抱えて歩き、怒鳴る気力が失せていたからかもしれなかった。
 違う。
 トランクの所為じゃない。
 生きる気力、活力といったものは東京に置いてきてしまった。
 一生に一度の恋に破れたから。
 子持ちの男寡に恋などするものではない。
 元々無器用な性格なのに。

「さてと…」

 リツコは立ち上がった。
 久しぶりの故郷だったが、意外に和やかで心が温まる出だしだった。
 この小さな女の子のおかげだろうか。
 リツコはその幼女の頭を優しく撫でた。

「では、私はそろそろ参るとするか」

 見上げたアスカの顔がぱっと輝いた。
 自分のチャンバラごっこに乗ってくれた。
 初めて会った人なのに。
 アスカを見下ろすリツコの表情をもし自分で見ることができたなら彼女は驚いたことだろう。
 優しげでそして温かく、この町で親友たちと過ごしていた日々のような。
 東京ではすっかり忘れていた、そして今その頃を取り戻そうと、
 いやできることならばその頃に戻りたいと帰ってきたのだった。

「おししょうっ、いずこへ?」

「親元…よ。ふふ…。お母さんのところ」

「ふ〜ん、ママのとこかぁ。おししょうのママはきれい?」

「そうね、もう歳だから…。小さいときはこの世で一番綺麗な人だと思ってたけどね」

「アスカのママはせかいいちきれ〜だよっ」

 頬を膨らませて力説する幼女が羨ましい。
 自分にもそういう時代があったはずだ。
 おさななじみとどちらの母親の方が綺麗かと喧嘩になった。
 幼稚園の頃だったか、そのうち取っ組み合いの喧嘩にまで発展した記憶がある。
 そのおさななじみの母親は中学生の時に亡くなってしまった。
 人前では涙を見せなかった彼女は葬式の夜、リツコの部屋でわぁわぁ泣いた。
 彼女の胸に取りすがって、まるで子供のように。
 
「そう…、いいわね」

「うんっ、パパはいないけどママがきれ〜でやさしいからいいのっ」

 リツコは息を呑んだ。
 そういう家庭の子供だったのだ。
 なのにこの子からはそういう雰囲気は感じられない。
 自分とは大違いだ。

「でもときどきおこるの。すっごくおこるの」

 アスカは唇を尖らせた。

「だけど好きなんでしょう。お母さんのことが」

「うんっ!」

 間髪を置かない返事だった。
 そして最上級の笑顔。
 リツコはトランクを持ち上げた。
 軽い。
 さっきよりも随分と軽い。
 きっと心が軽くなった所為。
 彼女はいとも簡単に正解の答を導いた。
 
「じゃあね、アスカちゃん」

「ははっ、さらばでござ〜る」

 一礼すると思えば、にこやかに手を振られた。
 おやおや、本当に子供ね。
 まったく予想通りにしてくれない。
 いや、こう動くはずと決め付けてしまうのが間違いなのかもしれない。
 大人とは不便なものだ。
 リツコは手を振り返した。
 そして、すっと身を翻すと、彼女の道を進む。
 おそらく、母親は怒り、呆れ、蔑むだろう。
 だが、彼女は母親が住まう処を目指す。
 母の懐に戻るために。
 
 ごめんね、ミサト。
 私には母がいるの。
 貴女のことを考えると辛いけど。
 そのうち、呑みにいきましょう。
 奢ってあげるから。5杯目くらいまでなら。
 その後は自分で払いなさい。
 破産したくはないからね、貴女の呑みっぷりのおかげで。

 師匠の背中が小さくなっていく。
 アスカは自分の道を探した。
 弟子は師匠とは別の道を歩むもの。
 探検なのだから附いて行っても仕方がないのだ。
 アスカは細い小路を選んだ。
 
 その先に生涯の友が潜んでいるとは露とも知らず。



 

 ずんずんずん。
 アスカは歩いた。
 腰の名刀だか妖刀だかを携えて。
 さすがに閑静な町だ。
 その後は幕府の犬にも師匠にも行き当たらない。
 しかたがないから、道端を進む蟻にまで話しかける始末。
 
「ねぇねぇ、わるもんはいない?」

 蟻たちは聞く耳を持たず戦利品を掲げて彼らの王宮へ一途に進んでいる。
 アスカはどうやらその王宮を突き止めることにしたようだ。
 うずくまって蟻たちの一列縦隊を一心に見つめたまま、じわりじわりと蟹さん移動をする。
 石畳の上を運動靴がじゃりじゃりと音をさせて少しずつ動いていく。
 
「ありさんの〜おうちはどこでしょね〜」

 でたらめな歌を口ずさみながら、アスカは蟻の動きを追う。
 蟻たちにとっては巨人の存在であるはずのアスカのことは目に入っていない。
 彼らはひたすら進む。
 そして、その行程は遂には終わる。
 石畳の隙間に彼らは次々と姿を消していく。

「うぅ〜、みっけっ。ここがおうちなのね〜」

 アスカは石畳の隙間に顔を近づけた。

「みえないよ〜。ありさんのおうち、どんなの〜」

 好奇心旺盛なアスカは石畳をどうにかすれば、蟻たちの王宮が見えるのではないかと考えた。
 そして、指先を石畳の縁に伸ばした。
 その時である。

「だめ」

 声が降ってきた。
 子供の声が。
 アスカはきっと顔を上げた。
 しかし頭上には人間の姿はない。
 アスカは立ち上がった。
 ゆっくりと周りを検分する。
 そこは少し狭めの小路。
 石畳の道を挟んで家の裏手になる。
 ただしアスカの住んでいる辺りと違って家屋敷はやや小ぶりだ。
 したがってその道に面しているのは塀ではなく、家の壁そのもの。
 当然、その壁には窓がついている。
 だが、なにぶん2月のこの寒さ。
 どの窓も開いていない。
 しげしげと近くの窓を睨みつけたアスカは、次に首をぐっと後に曲げた。
 青い空。
 天使の姿どころか、鳥一羽飛んでいない。
 アスカは知恵の回る方だ。
 彼女はにやりと笑うと蹲った。

「さぁ〜、ありさんのおうちはどこでしょねぇ〜」

 声が大きすぎる。
 しかし、魚はあっさりと餌に食いついた。
 アスカは蹲ってはいたが、顔は上を向いていたのだ。
 真上の窓が静かに開いた。
 へへへ、アタシって天才っ。
 
「みっけぇっ!」

 と、アスカは叫ぼうとした。
 その窓から人の顔が覗いたその瞬間だった。
 ところがアスカは言葉が出てこなかった。
 白い顔。
 アスカもキョウコも白人の容姿だから肌は白いのだが、その顔はもっと白かった。
 アスカも驚いたのだが、相手はもっとびっくりしたのだろう。
 隠れることも忘れて、アスカを見つめていた。
 二人とも同じような年恰好。
 一人の髪は赤く、もう一人は薄い水色。
 一人の瞳は蒼く、もう一人は赤い。
 しばらくして沈黙を破ったのはアスカの容赦ない一言だった。
 思いついたままに口に出たのだった。

「おと〜ふ…」

 昨日の夜、食卓で格闘した豆腐の白さを連想したのである。
 だが、当然その言葉が自分の肌の白さを意味することを相手は承知していた。
 見る見る顔が歪むと、ふいにその顔が消えた。
 小さくどすんという音が聞こえ、続いてしくしくと泣き声が壁の向こうから微かに聴こえてきた。

「げっ」

 アスカは焦った。
 自分の一言で相手が泣き出したことは火を見るより明らか。
 『ただ弱いものには剣を振りかざしてはダメ。それが正義の味方でしょう?』
 師匠の言葉が甦る。
 このままでは自分はわるものになってしまう。
 惣流アスカは正義の味方なのだ。
 アスカは泣き声の漏れる板塀を叩いた。

「ちょっとっ、ねぇっ、ごめんっ、なかないでよぉっ、ねぇったらぁっ」

 一瞬、泣き声がやんだ。
 さっと顔を綻ばせたアスカだったが、すぐにもっと大きな泣き声に変わって胸がぐりぐりと痛み出した。

「ごめんってばぁ、なかないでよぉ〜!おと〜ふなんてうそだからぁ」

 また豆腐という単語で泣き声がさらに大きくなる。

「ひぇ〜、おねがいよぉ、なかないでぇ、そ、そんなの、アスカもなきたくなっちゃうよぉ〜」

 言うが早いか、アスカの大きな目に涙が溢れだした。
 もう、止まらない。
 アスカはぺたんと小路の石畳にお尻をつけると、大声で泣き出した。
 負けるものかと部屋の中の泣き声も大きくなる。
 閑静な町中に幼女の泣声の合唱が響き渡った。




「ひくっ、ひくっ」

「まだ落ち着かない?あっかちゃん」

 ううんと首を振り、アスカはずずずっとストローを吸い上げた。
 冬だけど、子供はジュースが大好きだ。
 アスカは横隔膜をひくひくと揺らせながらも、器用にジュースを飲んでいく。
 丸い平机に置かれたもう一杯のグラスはまったく減っていない。
 そのオレンジジュースをあてがわれた主は平机ではなく、祖母の背中に隠れているから。
 アスカはジュースを飲みながら、ちらちらと白い顔の幼女を窺う。
 彼女はアスカの視線とぶつかると慌てて大柄な背中にさっと隠れる。
 まだ50歳にもなっていないその祖母はアスカに微笑みかける。
 二人は顔なじみだった。
 もっともアスカを知らない者の方がこの小さな町ではもぐりかもしれないが。
 町で遊ぶ自分に声をかけてくる、この女性のことをアスカは覚えていた。
 貴女はいつも元気でいいわねぇ、と笑いかけてくる。
 当然、アスカは知らなかった。
 その言葉の影に彼女の孫の存在があった事を。
 綾波レイはアルピノだった。
 彼女が胎児だった時に父親が交通事故死したことが母体に影響を与えたのだろうか。
 そして、母親の方は予定日より2ヶ月も早く彼女を産んだ時その命を落とした。
 名付けるべき親を生を享けたときに失ってしまった、その孫娘の名前をレイと定めたのが碇ハルナだった。
 綾波家にはレイの面倒を見るような親類がいなかった。
 したがって早くに連れ合いをなくし一人暮らしをしていた彼女が
 誰に求められるわけでもなく、レイの世話をすることになった。
 結局、孫娘の入院は1年8ヶ月に亘った。
 無論退院した後はハルナの家がレイの住まいとなる。
 病院で育ったおかげで治療の傍ら、しっかりと教育も受けた。
 だから身体は少し小さいが、知能の点では同い年の子供とは見劣りはしないレイだった。
 ただし、彼女は人見知りした。
 物心がついたころ、病院のチャイルドルームであどけなく遊んでいた時、
 他の子供たちからおばけ扱いをされた。
 むろんナースたちのいる場では窘められたがレイは傷ついた。
 退院してからも孫娘は外に出たがらなかった。
 これが娘ならば怒ってでも連れ出していただろうが、レイは目に入れても痛くないといわれる孫だ。
 つい甘やかしてしまう。
 そのままずるずると今まで到ったわけだ。
 そんな家で一人遊びをしている孫と暮らしているからこそ、
 明るく毎日を過ごしているアスカが眩しくて仕方がなかった。
 妬みや嫉みなど持ちようがなかった。
 それほどアスカには邪心が見えなかったのである。
 
「おかわり、欲しい?」

 最後の一滴まで吸い上げようと派手な音を立てていたアスカに思わず聞いてしまった。
 アスカはぱっと顔を輝かせたが、少しも減ってないグラスが目に入った。
 彼女は小首を傾げた。
 こんなに美味しいものをどうして飲まないのだろうか?
 そして、答を思い出した。
 自分も泣き出した所為で、何が原因でこうなったのかすっかり忘れていたのだ。
 アスカは立ち上がった。
 両手を腰にやり足を踏ん張ると、まっすぐにレイを睨みつける。
 思わずびくんと身体を震わせるレイ。

「わるかったわっ。あやまるわよっ!」

 いつもこう言っては、キョウコにお尻を叩かれる。
 それでは悪いと思っていることが相手に伝わらないと。
 この時も、レイはその大声にまた瞳を潤ませてしまった。
 ただし、彼女が身体を隠していた祖母の方は一気に心が温かくなってしまった。
 ハルナはアスカに賭けていたのだ。
 同世代の子供の方がレイの心を開いてくれるかもしれない。
 しかもアスカは同性だ。
 レイの従兄妹に当たる男の子は引っ込み思案だから何度遊ばせても巧く行かなかった。
 アスカならぐいぐいとレイを引っ張って行ってくれるかも知れない。
 ああ、年寄りは計算高すぎる。
 ハルナは自嘲していた。
 だが、このアスカのまったく悪気のない謝罪の言葉にそんなもやもやは消えてしまった。
 自分がもし子供ならこの子と友達になりたい。
 ずいぶんと面白い毎日を過ごせそうだ。
 文字通り天衣奔放なアスカはハルナの反応は見ていない。
 何故なら謝っている相手はその後に隠れているのだから。
 こんなにしっかりと謝っているのに反応がない。
 アスカは考えた。
 そして、いつもキョウコに叱られていることを思い出したのだ。
 正義の剣士としてはどうすべきか?
 いろいろなケースをアスカは頭に思い描いた。
 もっともいろいろなと言っても、それは曽祖父の隣に座って見ている時代劇ばかり。
 時代劇での謝罪となるとやはり定番のこれになってしまう。

「も〜しわけないっ。すべてせっしゃがわるかったっ!」

 畳に這いつくばるアスカ。
 おでこを畳にくっつけるまでぺたんと土下座している。
 これにはハルナは慌てた。
 微笑ましいと言ってはいられない。
 余所様の子供なのだ。
 
「こ、これ、あっかちゃん、頭をあげなさい」

 ばっちりだ。
 アスカは自画自賛した。
 自分の選択に間違いはなかった。
 何しろ、そのドラマ通りの台詞が返ってきたのだから。

「それはできませぬっ」

 アスカは頭を上げない。
 それどころか今必死なのだ。
 その後の展開をおぼろげにしか覚えていなかったから。

「れ、レイ。ほら、あなたからも何か言いなさい」

「わからない。なにをいえばいいの?」

 ぼそぼそと喋るレイ。
 彼女からすればアスカの行動はまったく理解できない。
 喋っている言葉も聞きなれないものばかりだ。
 ハルナの家では時代劇は見ないのだ。
 だから、さすがのレイもアスカに興味を覚えたのかもしれない。
 じわりと祖母の身体から姿を現した。

「そうね、もう怒ってないとか」

「わたし、おこってない。かなしかっただけ」

 ハルナは慌てた。
 こんな言葉を聞くとまたアスカが大声で泣き出してしまう。
 小路にへたり込んで泣くアスカを回収するのにどれだけ周囲に頭を下げたか。
 何しろ、あっかちゃんは町の人気者なのだ。
 その子が泣き叫んでいるのだから下手をすれば町からつまはじきにされてしまうかもしれない。
 
「じ、じゃ、もう大丈夫って言いなさい。ほら、レイ、早くっ」

「うん、じゃ、もうだいじょうぶ」

 呟くような言葉にアスカは困った。
 あの時代劇ではそういう返事ではなかった。
 女性をめぐっての三角関係の話だったのだが、そういうところに興味はないのでアスカは覚えていない。
 自称天才的な頭脳を駆使してようやく思い出した。

「それじゃ、ダメなのぉ〜」

「おばあちゃん、ダメっていってる」

「あらら、どうして?」

 アスカはおでこを畳につけたまま主張した。
 こう言えと。
 その主張はハルナを喜ばせた。
 そして、急かせるようにレイにその台詞を言わせたのだ。
 彼女はぼそぼそと言葉を紡いだ。

「あたまをあげよ。そちとわたしはこれからはしょうがいのともとなろうぞ」

「おおっ、そうしてくれるかっ!」

 アスカは頭を上げた。
 レイはきょとんとした顔でアスカを見ている。
 意味のわからないままに二人は誓いを交わした。
 生涯の友となることを。












 あっかちゃん、ずんずん 第二巻 「あっかちゃん、生涯の友と出逢うの巻」 −おしまい−









































(あとがき)

 第2巻です。
 レイちゃんとお友達になるだけの話の予定でしたが、
 他に二人登場させてしまいました。
 ということで、すぐに第3巻を書かないといけなくなっちゃいましたねぇ。
 因みにタイトルバックの絵はたんぼ様に描いていただきました。
 フルサイズの絵はうちのサイトで飾らせていただきます。
 ごめんねっ、三只様。

 2005.05.28 ジュン












 ジュンさんからあっかちゃんの二作目を頂きました。
 早い、早いよ、ジュンさん!!
 しかも、すんばらしいタイトル絵付きで眼福眼福なのです。
 たんぼさんもありがとう!
 今回登場したのは豆腐レディのレイちゃんですね。
 さてはて、タイトル絵のもう一人の重要人物が登場するのはいつでしょう?
 今回のサブタイトルは「生涯の友に会う」なら次回は「生涯の伴侶に会う」で決まりかな(笑)
 次回にも激期待です。
 続きが気になる貴方も一つジュンさんにメールしてみましょう。
 一言だけでも、作家にとっては凄く励みになりますからね。





(2005/5/29掲載)


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