第六巻
−−−− あっかちゃん、立ち回りを演じるの巻 −−−−



 この年の4月。
 アスカとレイは揃って、月の光幼稚園のひまわり組に入園した。



 この話はそれより少しだけ遡る。
 もうすっかり暖かくなってきた3月の26日。
 その日は月の光幼稚園の体験入園日だった。
 体験入園はこの日でもう3回目で最終日。
 しかも保護者とは門のところで別れなければならないのだ。
 まだ制服はできていないので動きやすい、汚れても構わない格好をしてくるように園から指示されている。
 とはいえ、アスカはいつもそんな格好をしている。
 年に数回はお出かけ用の服を着させられることがあるのだが、はっきり言ってアスカはそんな服が嫌いである。
 動きにくくて仕方がないからだ。
 今日は実に動きやすい。
 ジーンズのオーバーオールに長袖のTシャツ。
 門の時点でもう両の袖を肘の上まで捲り上げているのはご愛嬌だ。
 
「アスカ、いい?暴れちゃダメよ」

 いい子にしてなさいよ、ではない。
 キョウコに両肩を抑えられてアスカは地面に身体がめり込みそうな気がしてきた。
 
「いたいよぉ。いいこにしてるからぁ」

「いい子までママは言ってないでしょ。乱暴しちゃダメよって言ってるだけじゃない」

「アスカ、らんぼ〜なんかしてないってばぁ」

「したじゃないっ。この前」

 キョウコが必死になっているのはわけがあった。



 前回の体験入園日。
 2週間前の土曜日だった。
 その時、アスカは2人の男の子と立ち回りを演じた。
 正確には一人の男の子で、もう一人はレイの一撃でノックアウトされていたのだが、
 イメージというものは恐ろしい。
 被害者も傍観者もなぜかアスカ一人が暴れたような印象を受けていた。
 キョウコたちが慌てて止めに入る間に、
 アスカは髪を引っ張られキョウコが丹念にブラッシングした赤めの金髪が見事にざんばら髪。
 その乱れた髪の下でアスカは得意げに笑っていた。
 何しろその時のアスカは時代劇のヒーローになった気分だったのだから。
 虐められていた町娘を助けたのである。
 その町娘というのは洞木家の孫娘だった。
 そう、仲人好きの刀自がいる洞木家の三人姉妹の次女である。
 彼女、洞木ヒカリはその姉の影響で少しお姉さんぶるところがあった。
 この時もそうだ。
 先生が静かに待っていましょうねと言っていたのに、彼女の目の前で私語をやめない男の子二人。
 ヒカリが我慢できたのはほんの数秒だった。

「あなたたち、せんせいがしずかにしてっていってるわよ」

 先生の注意すら聞こえてなかった二人である。
 当然、青天の霹靂のような背後から聞こえてきた叱責の声に彼らは振り返った。

「なんやて?」

 自分に向けられた、はじめての生の関西弁。
 その影響はヒカリを精神的に数歩後退らせた。
 怖い。
 おまけにもう一人の男の子も眼を細くして自分を睨んでいる。
 因みにこの少年は別に凄んで目を細めたわけではない。
 幼稚園に上がる前だというのにもう近視の気があるのだ。
 しかし、ヒカリにそんなことがわかるはずもない。
 もうひとつ因もう。
 関西弁の少年も別に凄んだわけではない。
 「なんやて?」などはごく普通の日常会話語なのだ。
 残念ながら親族及び知り合いに関西人がいないヒカリにはそんなニュアンスは伝わらない。
 そこですんなり彼女が泣き出したなら、正義の剣士アスカの登場はなかっただろう。
 ヒカリは意地っ張りだった。
 彼女は逃げ出したい己の気持ちに打ち勝とうとことさらに声を励ました。

「しずかにしなさいっていってるのよ」

「はぁ?だれがや?」

「せんせいにきまってるじゃない」

「いうとるのはおまえやんか」

 お前と呼ばれたことは彼女の人生において一度もなかった。
 テレビで「お前」と聞いて何と汚い言葉だと思っていたくらいだ。
 恐れと、悔しさと、怒りが彼女を支配した。
 これがもう少し年長であれば言葉の応酬となっただろう。
 だが不幸なことに彼女たちはまだ言葉のボキャブラリーが大きく不足している。
 会話を為すことができない以上、発生するのは身体を使っての意思表示である。
 ヒカリは関西弁の少年の肩を突いた。
 ぽんとではなく、どんと。
 幼児は重心が高い。
 肩を突かれるとけっこう簡単に尻餅をついてしまうものだ。
 少年も例外ではなく、ぺたんと床にお尻をつけた。
 痛くはない。だが、小さな身体に大きなプライド。
 少年の心は大いに傷ついた。
 相手が女の子だから手加減するというようなプライドはまだ育っていない。
 まだまだ目には目をのお年頃なのだ。
 その上、彼の家庭では女性の方が強かったのだ。
 関西弁の少年は尻餅をついたまま、ヒカリを蹴った。
 もちろん座ったままだからその威力はたいしたことはない。
 しかし、女の子の中で育ったヒカリだ。
 妹にグーで叩かれることはあっても蹴りを入れられたことはない。
 しかも「このアホっ」という嘲りの言葉つきだ。
 先ほど示したようにヒカリには関西弁の耐性はない。
 したがって、蹴られた打撃以上に少年の言葉の方が彼女を傷つけた。
 その上、傍らの近視の少年がさらに酷いことを言う。

「ふん、いいこぶりやがってよぉ」

 予めはっきりさせておこう。
 洞木ヒカリはいい子ぶっているのではなく、紛れもないいい子そのものなのである。
 そしてこちらも彼らの名誉のために明言しておこう。
 現在悪者の役回りとなっている関西弁と近視の少年も別に悪たれではない。
 ただし限りなく初対面に近い彼らの印象が悪いだけだ。
 前回、第1回目の体験入園日はほとんどの子供が緊張していて、
 見ず知らずの同い年の幼児たちは目に入ってなかった。
 ヒカリも多分に漏れず、顔見知りの幼児数人としか喋ってもいないし、
 この二人のことは記憶すらしていなかった。
 彼らは屋敷町に隣接する新興住宅地の子供たちである。
 しかしながらそこに住んでいるのはほとんどが元からこの町の借家に住んでいた連中だった。
 めぼしい産業もないこの田舎町に外から流入してくる者は稀なのだ。
 関西弁の少年はその稀な方のタイプの住民である。

 2回目であるからヒカリも知らない相手に注意をできたのだ。
 遊戯室はそれほど広いわけではない。
 ずんずん進むのが好きな、そして物怖じしないアスカがこの騒動を見過ごすわけがない。
 しかも瞬間的に判断すると、どう見ても女の子が二人の男の子にいじめられているようにしか思えない。
 正義の剣士であるアスカがこんな理不尽を黙って見ていられるわけがなかった。
 そして、保護者のキョウコは油断していた。
 “しんゆ〜”として紹介されていた綾波レイの祖母より懇切丁寧な挨拶を受け、
 それから子供達の話に花が咲いていたわけだ。
 小声で話していたから余計にアスカの動きに即座に対応できなかったのであろう。
 赤金色の髪が幼児の群れを縫うように駆けていった。

「あっ、アスカどこに行くの?」

 もちろん、返事なし。
 聞こえてないのだ。
 神経は前にしか向いてない上に、キョウコもいつもの大声が出せなかった。
 ギャラリーを意識してしまったわけだ。
 ああ、しまったと思っても後の祭り。
 アスカがあんな風に走って行くと大抵天を仰ぐような結果になる。
 そのキョウコの目の前をアスカの背中を追ってちょこちょこと走っていったのはレイ。
 こちらも祖母が静止する暇もなかった。

「どうしたのかい?あの子たちは」

「わかりません。でもきっと後で頭を下げないといけなくなると思います」

「ほう…そうかい」

 碇ハルナは嬉しそうに笑った。
 その笑顔を見てキョウコは少し首を傾げる。
 そんなキョウコの肩をハルナは軽くぽんぽんと叩いたのである。

「私はねぇ、楽しみなんだよ。
 うちの孫が悪さをしてすみません。
 子供のしたことですので許してやってくださいな。
 ほら、ちゃんと謝りなさい、レイ。
 そうやって、相手の玄関先で頭を下げるのさ。
 そういう日が来るなんて思いもかけなかったよ」

 キョウコは胸を打たれた。
 娘の親友は殆ど外に出なかった子だったらしい。
 確かに家で挨拶を交わしたときも礼儀は正しかったが余り口数は多くなかった。
 それに遊んでいる時も聞こえてくるのは娘の素っ頓狂な声ばかり。
 では面白くないのかと思えば、にこにこして娘と他愛も無い遊びをしている。
 そんな光景を見ていると文字通り毛色の違う二人だけど案外馬があっているように感じる。
 確かにあの娘ならばこれまで保護者に迷惑などかけたことなかろう。
 これからはアスカに引きずられてどういうことになるか申し訳ない気もする。
 ところが、この老女はそれを逆に喜んでいるのだ。
 実はその気持ちもわからないではない。
 だから胸を打たれたのだ。
 これまでの彼女の苦しみを思って。

 ハルナの歓びは理解できるものの、母親としてアスカの暴走は見逃せない。
 失礼しますと言い残し、キョウコは娘の背中を追おうとした。
 こういう時にあの金髪は役に立つ。
 しかも入園前で幼児たちがこぞって制服ではないこともアスカの居場所を認識できた。
 だが、キョウコは全速で娘を追いかけることができない。
 何故なら足元には幼児の群れ。
 まさか蹴散らしていくわけには行かない。
 そろりそろりとアスカに近づいていったときにはもう遅かった。

「せ〜ばいしてやるっ」

 アスカの叫びとともに少年の悲鳴。
 そして、ドンという音とともに別の少年が悲鳴を上げた。
 キョウコは天井を仰ぐ。
 間に合わなかった。

 少年たちに怪我は無かった。
 レイに突き飛ばされた近視の少年が少し床で後頭部を打ったが
 たんこぶもできない程度だからなく程度で済んだ。
 関西弁の少年の方はアスカに体当たりされたが
 起き上がろうとしたところだったのでごろごろと転がっただけだ。
 しかし、男たるものやられているだけではいけない。
 彼らも男なのだ。
 それに女だから手加減するというような意識もまだ芽生えてない。
 実際関西弁の少年は父親よりも母親に対して肉体的な接触が多かったこともある。
 線の細い父親よりも母親の方が身体を使って遊んでくれていたのだ。
 本気で叩いても「まだまだ!」と笑い飛ばすような母親に育てられて、彼が女だからと甘く見ることは無い。
 女の方が強いと思い込んでいる節もあったかもしれない。
 少年はすぐに起き直るとアスカに掴みかかった。
 どこを掴んだかというと、アスカの身体で一番ボリュームのある場所である。
 彼は無意識にそこを掴み上げた。

「ぐぁっ、い、いたいっ!」

 髪の毛を引っ張り上げられて、アスカは悲鳴を上げた。
 どんっ。
 レイに突き飛ばされて少年はまた尻餅をつく。
 ざんばらになってしまった金髪を押さえてアスカは顔をしかめた。
 そして、傍らのレイに笑いかける。

「アリガト、レイちゃん」

「うん。いたくない?」

「だいじょ〜ぶ。ほんと〜のたたかいはこれからなのよっ!」

 5mの距離にまで近づいたキョウコは息を呑んだ。
 まずい。
 本当の戦いなど始められてしまったらどういうことになるか見当もつかない。
 そんなものは見たことも無いのだから。

「アスカ、やめなさい!」

 聞こえません。
 アスカは尻餅をついている少年の肩を突き、そして仰向けに転がった彼のお腹にどんと座った。
 うっと呻く彼にアスカはニヤリと笑った。

「わるもんはせ〜ばい!」

 どんどんどんどん!
 胸の辺りをグーで連打する。

「や、やめぇっ!うわっ、が、がははははっ!」

 少年は殴打されて笑い出したのではない。
 アスカに馬乗りされて身動きできない身体をレイに攻撃されたのだ。
 脇腹を突付かれて。
 殴打は痛くない。
 この程度なら母親によくやられているし、その一撃の方がよほど効果的だ。
 だがこそばされるのは我慢できない。

「あなたも、するの」

 レイは傍らで立ち尽くしているヒカリを見つめた。
 そのヒカリは途方にくれていたのである。
 こんな騒動になるとは想像もしていなかった。
 だが、彼女は決意した。
 何者かわからないが、この毛色の違う二人の女の子は味方なのだ。
 それだけは間違いない。
 正義の味方に手伝えと言われて逆らうわけには行かない。
 ヒカリの逡巡は一秒も無かった。

「げええっ、た、たすけ、げへへへ!がはは!ぐごごごぉ!」

 もはや文字にもできない叫びを少年は上げていた。
 足だけは動かせるが、それはバタバタと床を鳴らすことしかできない。
 両の脇腹を別々の手で突付かれこそばされ、
 少年は生まれて初めて体験する攻撃に涙を流してのた打ち回っていた。
 
「アスカっ!」

 ようやく到達したキョウコにアスカの身体は宙に浮いた。
 お腹のところを母親にがしっと抱きかかえられ、アスカは少年から引っ剥がされる。
 だが少年は復活できなかった。
 両サイドからのくすぐり攻撃に完全にグロッキーとなっていたのだ。

「やめなさい!二人とも」

 いい子のヒカリは見ず知らずのキョウコの声に我に返り、攻撃の手を引っ込めた。
 いい子ではあるが執拗な性格のレイはそれでもつんつんと指を突付く。
 ごんっ。
 そんなレイの頭に拳が落とされた。
 顔を歪めて振り返るレイの目に鬼のような形相をしている祖母の顔が見えた。

「いい加減にしなさい、レイっ」

 初めて祖母に頭を叩かれた。
 それが嬉しいと思えるわけもなく、レイは見る見る顔を歪めていった。
 あの優しい祖母に怒られている。
 あっという間に瞳が潤むと、すぐに大粒の涙が頬を伝いだす。
 そして喉の奥から微かに嗚咽が漏れ出した。
 孫の初めての泣き声にハルナは不謹慎だがほっとした。
 これまでは涙を浮かべることはあっても何かに耐えるようにしか泣かなかった彼女だ。
 今のように普通の子供のようにボロボロ涙を零しひぃひぃと泣き声を上げる光景は、
 ハルナの頬を少し緩めさせ、そして慌てて厳しい顔に引き戻す。
 孫を叱責しながら笑っていれば鬼婆と言われてしまうではないか。

 そんなハルナの心の動きがキョウコにはよくわかった。
 嬉しいんだろうなぁと微笑みそうになった彼女を現実に引き戻したのは腕の中の娘の存在。

「ママっ、おろしてよぉ!」

「あなたたち、3人がかりでなんです!」

「し、しらないわよっ。アタシ、かせ〜してなんてたのんでないもんっ」

「結果的にそうなってるでしょう。ほら御覧なさいよ、可哀相に」

 関西弁の少年はまだ横隔膜をひくつかせながら仰向けになったまま。
 近視の少年は座り込んで頭を抱えている。
 二人とも保護者が共働きのために駆け寄ってくれる人がすぐにはいない。
 こういう時、男子は不公平である。
 明らかに被害は二人の方が大きいのだが、
 ひくひく泣いているレイと我に返ってとんでもないことをしてしまったと泣き出したヒカリのビジュアル効果が強い。
 騒ぎを聞きつけてきた先生たちはまず男の子が悪いという先入観で見てしまった。
 だからその誤解を解くのにハルナとキョウコは大変だった。
 泣きじゃくる二人とざんばら髪で不貞腐れている一人の女の子の方が悪いのだと説明しても、
 なかなか理解してくれなかった。
 身体は小さくても大きなプライドを持つ少年二人も庇われているのが不愉快なようで、
 何も喋らずむすっとした表情を続けるから余計に印象は悪くなるばかり。
 結局、先生は喧嘩両成敗を持ち出すしかなかった。
 喧嘩をしちゃダメですよと言われて、保護者に背中をつつかれるように「は〜い」と返事する。
 保護者つきでない少年二人は不承不承が全身に満ち溢れ、
 知り合いと外で喋っていて事の成り行きを後で知った洞木家の奥様は少し顔を青ざめさせている。
 まさかあんなにいい子の次女がこんな騒動を起こすとは想像もできなかったからだろう。
 そのいい子は母親の顔を満足に見られなかった。
 そして、アスカとレイは…。
 実に礼儀正しく頭を下げて、先生と少年二人に詫びた。
 レイはアスカの動きを見習って。
 しかしこれは周囲の評価を高めはしたが、少年たちは逆に不満が募った。
 これではいかにも謝られている方が悪いような印象を受ける。
 その表情を見てキョウコはまずいなぁと感じた。
 新たな火種が生まれてしまったような気がしたからだ。

 そんな騒動があったものの体験入園はとりあえずつつがなく終了した。
 早く帰ってアスカに説教しないといけないと意気込んでいたキョウコだったが
 門のところで洞木家の奥様に呼び止められた。
 何かしら因縁でもつけられはしないかと身構えていたのだが、話は違った。
 娘が騒動を起こしてしまってすみませんと深々と頭を下げられてしまった。
 ヒカリの方も母親に習って頭を下げる。
 その肩をアスカはぽんぽんと叩いた。

「だいじょ〜ぶ。アンタはぜんぜんわるくないんだからっ。わるいのはみ〜んな…」

 あいつらだと胸を張って言おうとしたその瞬間アスカの頭に拳骨が振ってきた。
 見上げると目を吊り上げた母親の顔。
 すかさずアスカは言い換えた。

「えっと、アタシがわるいのよ…って、いったらいいんでしょ」

 いささか膨れながらアスカが嘯く。
 
「ううん、わるいのはわたしなの。わたしがあのこをたたいたから」

 また涙ぐみそうなヒカリの肩を今度はレイがぽんぽんと叩く。

「だいじょうぶ。こしょこしょしたのはわたしだから。あなたはわたしにめいれいされただけ」

 一見無表情に見えるそのレイの顔に優しさをヒカリは見て取った。
 いきなり味方になってくれた二人だがただの乱暴な女の子ではなさそうな気がしている。

「そ〜ゆ〜ことっ。ま、これからアタシたちがいっしょだから、お〜ぶねにのったきでいなさいよっ」

 キョウコの拳骨を頭に乗せたまま金髪の少女が胸を張った。
 外国の人なのに日本語を喋ってくれている。
 それが嬉しくもあり不思議でもあり。

「あの、あなた…」

 待ってましたとばかり、アスカは頭の上の拳骨を払いのけて前に出る。
 
「アタシ、アスカっ」

 いつもの名乗り。
 アスカが“あっか”にしか聞こえない、あの早く新しい知り合いに自分の名前を教えたいという意識の現われ。
 
「あっか?」

「アスカよ。わたし、レイ」
 
 アスカが名乗るなら自分も名乗らねばとレイも続く。
 
「あ、わたし、ほらきヒカリです」

「ヒカリ?ヒカリちゃんねっ?じゃ、きょ〜からおともだちっ」

 当然といった顔でアスカがニヤリと笑った。
 その隣のレイもにこりと微笑む。
 4歳の子供に利害意識はない。
 友達になるのは実に簡単だ。

「うん、おともだち」

 ヒカリは母に承諾を求めることも無く自らの意思で決めた。
 もちろん母親の方もそれに慌てることも無かった。
 彼女は子供たちも見ていたが、その背後に佇むハルナとキョウコのこともしっかりと確認している。
 その年齢にふさわしく落ち着いた感じのハルナと、
 外国映画の女優のように美しいのに気さくで身なりもけばけばしくない。
 寧ろ普段着そのままのジーンズ姿に、よそ行きの服を選びに選んで着てきた自分が恥ずかしくなるほど。
 
「ねぇ。きょ〜、あそぼ。ねっ、あそぼっ」

 青い瞳をくりくりさせてアスカが誘う。
 この誘いを断れるものは未だいない。
 風邪をひいて熱が出たレイが約束だからと出かけようとしたほどだ。
 この日もあっという間に洞木ヒカリの惣流家訪問が決定した。
 家が近いレイが迎えに行ってアスカの家に。
 ハルナはそのまま洞木家に居座って刀自に挨拶したいと告げた。
 それじゃ早く帰って家の掃除をしなきゃと冗談を残して洞木家の母娘は先に帰っていった。
 アスカは手が千切れそうな勢いで「バイバ〜イ!」と。
 その横でつつしまやかに、だがしっかりと手を振るレイ。
 角を曲がる前にヒカリも二人に大きく手を振り返した。
 二人の姿が消えたとき、きゅっと軽いタイヤの鳴る音がした。
 その聞き慣れた音に惣流家の母と娘が示し合わせたかのように振り返る。

「あっ、ひゅ〜がじゅんさ!」

「あら、こんにちは」

 アスカが敬礼をして、レイもそれに習う。
 制服姿のマコトは自転車を降りてそんな二人に笑顔で敬礼を返す。
 そしてふと見るとキョウコまでも敬礼しているので慌ててまじめな顔を彼女に向けた。
 きちっと敬礼をする。いつもの朝のように。
 
「なんや、ひゅうがじゅんさやんか。パトロールちゅうちゃうんか?」

 そんな所に現れたのはあの少年たち。
 関西弁の少年はズボンのポケットに手を突っ込んで顎をぐいっと上げていた。
 その顔を見て慌てたのはマコト。
 さっと敬礼したものだから倒れそうになった自転車をキョウコがすかさず支える。

「鈴原刑事の息子さんではありませんかっ」

「ふ〜ん、こいつらとともだちかいな」

「ええ、それはもう。こいつら…でありますか?」

 キョウコたちのことをこいつら呼ばわりされて、マコトの笑顔がこわばる。

「まあ、ええわ。おかんにいうとくわ」

 ただそれだけ言い捨てると、少年はさっさと幼稚園を後にした。
 その後姿を見送ってアスカが首をかしげた。

「け〜じってけ〜じのこと?」

「け〜じってなに?」

「はんにんをたいほするひとよねっ、ひゅ〜がじゅんさ?」

 マコトは頭をポリポリと掻いた。

「おまわりさんも逮捕できるんだけどな。あっかちゃん」

「おかんってなに?」

「ああ、それは関西弁でお母さんのことだよ」

「ママがおかん?へんなのっ」

 レイもアスカに賛同してうんうんと頷く。

「あの子はね、市警の鈴原刑事の息子さんなんだよ」

「かっこいい?けーじは」

「ああ、そうだね。あの人はカッコいい女刑事さんだ」

 マコトの言葉にアスカは目を輝かせた。
 時代劇ばかり見ている彼女だが、たまには子供向きの番組で刑事が活躍している作品を見ることがあった。
 その中で登場した女刑事は颯爽と戦って最後には悪者に手錠を嵌めていた。
 時代劇に登場する女剣士ほどではないが、アスカは彼女をカッコいいと思った。

「かっこいいっ!すごいっ」

「その人、美人?」

 その明るくからかうような声音にマコトが振り返るとキョウコがニヤニヤ笑っていた。

「ええ、美人だと思いますよ」

 あなたよりは数段落ちますが、とマコトは心の中で付け加えた。

「へぇぇ、そうなの。美人の女刑事ねぇ。そんな人と親しいのね、日向さんは」

「と、とんでもない。親しいだなんて。同僚達とお鍋をご馳走になっただけですよ」

「そこから禁断の愛が始まったりして」

「まさか。あんなに大きな子供がいるんですよ」

 キョウコ絶句。笑顔のままで。
 ただ、これにはマコト自身もしまったと思った。
 鈴原トウジ君と惣流アスカ嬢はこの度揃って月の光幼稚園に入園するのだから。
 彼はうろたえた。
 
「いや、あの、大きな子供がいてもその、あの、あれです。つまり、えっと、何があったんですか?」
  
 話をはぐらかすしかない。
 そして確かに話ははぐらかされた。
 しかしそれはキョウコに不安感を与えたのである。
 アスカたちに酷い目にあわされたあの少年はマコトの知り合いの刑事の息子。
 知り合いと言っても直接の上下関係はないのだが、その女刑事は随分やり手だという。
 もし今回のことでマコトの身に何かあるのなら大変である。
 まさかクビとかにはなるまいが、今の仕事から外されたらどうしよう。
 毎朝出勤途中に顔を合わす事ができる、あの交番勤務でなくなったら。
 もしかしてもっと田舎の交番や駐在所に飛ばされたなら。
 こういう場合、いい方の想像はできないものだ。
 表面上は「大丈夫ですよ、あの方はそんな度量の狭い人ではないですから」と
 笑っているマコトに調子を合わせた。
 しかし、キョウコも母親なのだ。
 子供のことで母親がまともな判断ができなくなることは身をもって知っている。
 何とかしないといけない。
 キョウコは人知れず決意していた。
 


 キョウコがアスカに暴れるなと言い聞かせていたのはこういうわけだったのである。
 できればいい子でおとなしくしていて欲しい。
 しかし、それが果たして可能なことはどうか考えてみるまでもない。
 法事の席で黙って座っていられるのは10分が限界のアスカだ。
 おそらく自分も小さいときならそうだったと確信できる。
 となれば、とにかくまた騒動を起こさない程度で充分だ。
 上司の息子と騒動を起こしてマコトに迷惑がかからないように。
 
「ぶう、わかったわよ。レイちゃんがあばれたらしっかりとめてあげるわよ」

「レイちゃんはアンタがそそのかさない限り自分から騒動を起こさないんだってば」

「アスカ、そそのかしてなんかないもん。で、そそのかすってなに?」

 キョウコは対話を打ち切った。
 アスカと別れてから、彼女にはやらねばならないことがあったからだ。
 再度暴れるなと釘をさしてから、キョウコは幼稚園を後にした。



 その頃、龍巌寺では悩める青年が愚痴をこぼしていた。

「ふむふむ、すると何か、お主はあっかちゃんの母親に懸想するのを諦めると」

 青葉シゲルは丸めた頭をつるりと撫でながら嘯いた。

「そんなことは言ってないだろ。それにその喋り方やめろよな」

「わしが思うところによるとお主の懸念は、それ相手の境遇じゃな」

「境遇って…別に子持ちだからなんて、俺は」

「違う。お前が気になっているのは年齢差とかそういうのだろ?」

 ふざけた口調はやめて真顔でシゲルが言った。
 からかうだけがシゲルの友情ではないのだ。

「う…。た、確かに」

「まあな、片や恋愛経験…もとい女性との交際経験ゼロ。
 彼女いない歴24年になろうとする真面目だけがとりえのメガネのおまわりさんだ」

 言われるがままのマコトは言い返すことはできない。
 全て事実なのだから。

「そしてそのおまわりさんがのぼせ上がっている金髪美人は、
 幼稚園に入ろうとする女の子を産んでいる大人の女性だ。
 まあ、格が違うというか、そんなところだろ」

 がっくりと首を落とす。
 その通りだったのである。
 あの後、アスカがあの幼稚園に入るということを考えてみると、自分とキョウコの格差が大きすぎるように感じ、
 それでこのように坊主の親友の前でうなだれていたわけだ。

「ところで、日向巡査よ」

「なんだよ」

「お前、相手の素性とかは調べてないのか?」

 はぁ?とシゲルを胡乱な眼差しでマコトは見つめた。

「馬鹿言え。面と向かって訊けるか」

「馬鹿はそっちだ。お前の職業はなんだよ。知りたければいくらでも手段はあるだろうが」

「ば、馬鹿もん!それは職権乱用だ!」

 真面目にクソのつくマコトは真剣に憤っているが、
 シゲルの方は柳に風と涼しい顔をしている。

「まあ、お前じゃダメだろうなぁ。チャンスがあっても自分でダメだと戒める方だからな」

 当然だといわんばかりに頷くマコト。

「それじゃ、質問だ。その金髪美人の歳はいくつなんだ?」

「そ、それは…」

「知らないんだろ、え?ほれ、いくつだと思ってるんだ」

「う、う〜ん、27か8くらいかと」

「ほうほう、では24歳のマコト君より三四歳は上と思っているわけだ」

「お、俺はあの人が30を越していてもだな」

 気色ばんだマコトを制するようにつるつる坊主はゆっくりと右手を上げた。

「25、だ」

 一瞬、マコトは言葉が出なかった。
 これまで幾度となく自分に嘘をつきからかってきた、その親友の顔をじっと見つめる。
 彼はニタニタ笑っているだけ。

「冗談、だろ?」

「ほほう、それでは拙僧が惣流家にお邪魔して、お主の言葉をありのままに伝えてもいいのじゃな。
 奥さんは年よりも老けて見えると日向マコトが言っておったと」

「ば、ば、ば、馬鹿野郎!」

「あっかちゃんから仕入れたネタだ。疑うのか?」

「し、しかし」

「凄いよなぁ。俺たちとひとつしか違わないんだぜ。ってことはマヤともひとつ違いってわけだ」

「そうは見えないな」

「だろ?マヤは時には高校生に見られ…。ふんっ、いい加減にしろ」

 自分で言い出したことにさすがに恥ずかしくなり、シゲルは悪態をつく。 
 いくら坊主ぶっていてもこういうところはまだまだ学生臭さが抜けていない。

「本当に25…なのか?」

「知るか。気になるなら自分で調べろ」

 言い返せない自分が情けない。
 いや、言い返せないからではない。
 本当に彼女が25歳ならば、この自分はなんなのだ。
 まだまだ子供みたいな24歳。
 ほんの1年しか生きている時間が違うだけで、この差はなんなのだ。

「どうした。マコト?落ち込んだのか」

「少しな」

「ふん、相変わらず正直なやつだ」

「仕方ないだろ。事実だからな」

「うむ、確かに仕方が無い。あっちは男性経験があるんだからな」

 マコトは顔を上げた。
 見も蓋も無い言い方をする親友をにらみつける。
 だが、その友の顔にはふざけている表情は微塵も見られなかった。
 寧ろそこには覚悟を求めているような気がしたのである。
 マコトはやっとの思いで言葉を発した。

「そう、だな。確かにそうだ。あっかちゃんがいるんだから」

「当たり前だ。男女のことがないと子供は産まれん」

 今度はマコトにも余裕ができていた。
 鼻で笑うと、メガネをかけ直した。

「じゃ、俺も勉強しようかな。その男女のことを」

「ふんっ、お前みたいな僕ちゃんにそんな大人の勉強ができるかよ」

「うるさいな。あ、何ならマヤちゃんに…」

「馬鹿野郎っ!マヤに何を…!」

 思わず腰を浮かしたシゲルを見て、マコトは珍しく腹を抱えて笑い出した。

「こいつ!マコトの癖に俺をからかうなんて百万年早いわ!」

 シゲルは親友に飛びかかるとヘッドロックをかけ、そのまま畳をマットに格闘戦に入った。
 この光景をマヤが見たならきっとこう思っただろう。
 男の子って大人になっても子供みたいだ、と。
 



 アスカと幼稚園でわかれた後、キョウコはとある小さな3階建てのマンションの二階に立っていた。
 彼女の視線の先にはネームプレート。
 そこには鈴原と太いマジックで書かれている。
 キョウコはそのプレートを睨みつけて一度大きく頷いた。

 こんこんっ。

 インターホンがあるのに扉を叩いたのはキョウコの強い意思の表われか。

「は〜い!どなたっ」

 張りのある低い声に続いて扉がさっと引かれた。
 その瞬間、キョウコは相手を値踏みしてしまった。
 おそらく美人女刑事と言われていたからだろう。
 顔は勝った。
 背の高さでは負けてるけど。
 鈴原エツコは扉の向こうの白人女性に怪訝な顔をした。
 宗教の勧誘か、わけのわからない商品のセールスか。
 いずれにしても撃退する自信はある。
 エツコは笑みを漏らした。
 そして、ちょっと待てよと笑顔が凍りつく。
 英語なんかわからへんで。

「あの、すみません」

 よっしゃっ、日本語や。
 エツコは安心した。
 言葉さえ通じれば問題ない。

「あんた、誰や?」

「私、惣流キョウコといいます。鈴原トウジ君のお母様ですね」

「はははっ、お母様ってこの私が?そんな上等なもんかいな、おかんやおかん、それで充分や。はっはっは」

 豪快に笑い飛ばすエツコにキョウコは圧倒されてしまった。
 そのエツコは急に笑いと止めると、首筋に手をやって窺うような目でキョウコを見やった。

「あの…すんません。うちのバカ息子がなんかしましたか?」

 こんな美人の白人女性がこの近くに住んでいるとは聞いたことがない。
 とすれば、トウジとこの女性のつながりは何だ?
 エツコの刑事の勘は幼稚園と答を出した。
 今日は最後の体験入園日。
 たまたま休みだから一緒に行ってあげようと息子に言うと、
 トウジはしかめっ面で「そんなんせんでええ」と返事をされた。
 近所に住んでいる友達が今日も一人で行くから「同じでええんや」と。
 4歳児の男気にエツコは素知らぬ顔で「おおきに、ほなゆっくり休ませてもらいますわ」とだけ言った。
 父親に似ていない男らしさにはエツコの自慢の種だが、
 反面その男らしさが原因で色々な悶着を引き起こすことがある。
 この前は小学一年生と喧嘩して見事に、負けて帰ってきた。
 悔し涙を堪えながら帰ってきた息子の尻をぱしんと叩いてエツコは笑い飛ばしただけだったが、
 今回は何をしたのだろうか?
 窓ガラスを割ったとか、それとも何かいたずらをしたのか?
 ともあれ、ここは下手に出ておいたほうがいい。
 相手は犯人ではないのだから。

「いえいえ、したのはうちの娘の方。被害者はそちらなんです」

「へ?うちのあの暴れん坊が被害者?そんなアホな」

 エツコは眉を顰めた。
 あまりの意外な話の展開に彼女は客に玄関で立たせたまま話をするという非礼に気づかないほどであった。
 そして先だっての体験入園の騒動の顛末を聞き終えたエツコは怒るどころか爆笑してしまった。
 
「はははっ、うちのトウジが?あのアホ、そんなことなんも言わへんかったわ」

「プライドが傷ついたのでしょうね」

「はは、そやろね、きっと。あ、すんません、玄関先で。散らかってますけど中入ってちょうだい」
 
 散らかっていると言っていたが鈴原家の家の中は意外と片付いている。
 整理整頓を重んじるドイツ人の血が濃いキョウコが綺麗に片付いていると思うほどだった。
 女刑事に元気な少年の家庭だからもっと乱雑ではないかと想像していたのだ。
 ところがエツコはしごくあっさりとその秘密を打ち明けた。
 夫が綺麗好きで家事を担当しているそうだ。
 もともとは路上ミュージシャンとは名ばかりの
 ひとりぼっちでトランペットを吹いていた青年だったらしい。
 ミュージシャンを夢見て山陰から大阪に出てきたのだが食べていくのがやっとで、
 結局は音楽は趣味の領域でしかなかったことを自覚しただけだった。
 その二人が出逢ったのは青年がひったくり犯を捕まえた時だった。
 年金を降ろしたばかりの老女からバックを奪い取った自転車の男に持っていたトランペットを叩きつけ、
 そして格闘の挙句取り押さえた。
 付近を通りかかっていた非番のエツコが騒動を聞きつけ駆けつけたときには、
 犯人は近くの商店主たちに取り囲まれ、
 殊勲の青年はラッパの部分が見事にひしゃげてしまったトランペットを呆然と眺めていたのだ。
 その表情があまりに情けなかったので彼女は思わず声をかけた。
 それが二人のはじまりだった。

 キョウコは彼女のつまるところは惚気話をずっと聞かされる羽目になった。
 だが不快ではない。
 どちらかというと性格が正反対の二人の恋話は寧ろ聞いていて気持いいほどだ。

「あ、コーヒーでええ?って、缶やけどね。
 あの人がおったら美味しいの淹れてくれるんやけど、ごめんな。今、パートに行ってんねん」

 アスカの行為の謝罪はついに言えずに終わった。
 いや、何回も言おうとしたのだが、その都度エツコに遮られたのである。
 惚気話や世間話に。

「ええっ、あんた25かいな!そうは見えんで。まあ外人さんの歳はわかりにくいけどなぁ」

 マコトもこう素直に言えばよいのである。
 キョウコもこう言われても腹は立たない。

「女手ひとつでなぁ、大変やろうに」

「いえ、おじいちゃんがいてくれますから」

「そやかて旦那はおった方がええで。娘さんが嫁いだらあんたはひとりぼっちやでぇ」

「ふふ、ずっと先のことですよ」

「そんなことあらへんで。何とか矢の如し、や」

「光陰矢の如し」

「それそれ。あんたよう知ってるなぁ。もうかなわんわ」

 エツコは自分が「33歳のおばはん」だと自供した。
 それに実は「旦那は4つも年下やねん」と少し恥ずかしげに付け加えた。
 その顔がこれまで見た彼女の表情の中で一番愛らしく見えて、キョウコはいいなぁと思うのだった。

 その時、電話が鳴った。
 瞬間、エツコの笑顔が引き締まり、刑事の顔に変わる。
 機敏に立ち上がり受話器を取ったが相手を確認して表情は和らいだ。

「ああ、幼稚園の。ええ、トウジの母です。ええっ」

 言葉つきは驚いているが顔色はまるで変わっていない。
 少しばかりの騒動など堪えもしないという感じだ。

「それはすんません。えっ、相手は野犬。人間やないんですか。で、噛まれでもしましたか?」

 キョウコに向って目をくりくりさせて笑いかけるエツコだったが、しばらくして表情が変わった。

「別の子が怪我した?惣流やてっ?」

「えっ!」



 惣流アスカ、全治一週間の擦り傷。
 エツコともども幼稚園に駆けつけたキョウコはひとまず胸を撫で下ろした。
 右の膝小僧には包帯が巻かれ、左の肘には大きな絆創膏。
 そして、おでこにも絆創膏が貼られていた。
 その上、彼女は下着姿。
 それでもアスカはニンマリと満足げに笑っていた。
 真っ先に母親に言った言葉がこれである。
 
「アスカいいこにしてたよ!しょ〜どくされてもなかなかったもん」

 流石に怪我をしているおでこをこつんとはできない。
 キョウコは溜息をつくと、腕組みをして娘の前に立った。

「相手は野犬ですって?咬まれなかったから良かったものの」

「へへへ、せいぎのけんしはつよいもん」

 事の次第は既に先生に聞いていた。
 プールに侵入した野犬をトウジが見つけ追い出そうとしていたらしい。
 だがプールで見つけた獲物を前に野犬も一歩も引かず、居合わせた先生もおろおろするだけだった。
 そこへ棒切れを手にアスカが乱入したそうだ。
 「あぶないからレイちゃんとヒカリちゃんはここにいなさいよ」と言い残し。
 流石に話して聞く相手ではなく、名乗りをあげる前に吠え付かれてしまった。
 これはまずいと思ったアスカはすかさす攻撃に転じた。
 棒切れを手に突進していったが犬の方が身が軽い。
 あっさり避けられ、プールサイドに頭から転倒。
 おでこと膝と肘の傷はその時に。
 それでもアスカは少しもひるまず、野犬の獲物の前に立ち、大見得を切ったそうな。

「ここからさきにはいかせなわいわよっ!ど〜してもとおりたかったらまずこのアタシをたおしてか…」

 聞く耳を持たない野犬はそこでアスカに突進した。
 逃げる気のないアスカは棒切れを振り回す。
 奇跡的にもそれが犬の頭にかすり、逆に野犬を逆上させてしまった。
 吼えまくる野犬はじりじりとアスカに近づく。
 その時だった。

「こらっ!出て行かないとお仕置きよ!ってかっ!」

 ざぶんと水しぶきがプールサイドに上がった。
 決め台詞を叫んだ女性がバケツでプールの水をすくって野犬に浴びせかけたのである。
 頭から濡れ鼠ならぬ濡れ野犬になったためか、それとも真っ向から突きつけられた木刀に恐れをなしたのか、
 野犬は悲鳴にも似た泣き声をあげてプールから走り去っていった。

「うほぉっ!おね〜さん、つよい!」

 賞賛の言葉をかけたアスカも濡れ鼠ならぬ濡れアスカ。
 自分の状態よりも野犬を追い払った手並みに感動してしまったようだ。

「へっへっへぇ、そう?」

 不審者撃退用の木刀を手に新来の女性は得意げ。
 パチパチと周囲の小さな掌から拍手が響き、女性は嬉しそうに笑った。
 そして、アスカが怪我をしているのに気づき、濡れた服のまま彼女を抱き上げてすぐ近くの病院へ。
 赤木医院がお師匠の実家とも知らず、アスカはそこで治療を受け、服は乾かすために幼稚園へ。
 幼稚園への帰還は大きなバスタオルを身体に巻いてのこととなった。
 帰ってきたときにはほとんどの子供達は帰った後で、友達二人とトウジとその友達だけが残っていた。
 レイとヒカリの保護者は園長室で

「すまんの。わしのちからぶそくや」
 
 素手で野犬に立ち向かったことよりも、助太刀のアスカが怪我をしたことに責任を感じたようだ。
 トウジは少し膨れっ面でアスカに声をかけたそうだ。
 そのことを聞いて、エツコは大きな溜息を吐いた。

「ほんまや、あんたもっと強うなり。女の子のほうが強いやんか」

 母の一声にトウジは口をへの字に結んでぐいと首を上げた。

「そのうちおかんよりもつよなったるわい」

 そんな親子のやり取りを見て、キョウコは思った。
 態度と口は悪いがこの男の子は男気のあるいい子の様だ、と。
 そこで思い出した。
 助けてもらった人にお礼を言わねばと。

 その人はプールにいた。
 あわや野犬の餌食になりかけた被害者…いや、被害鳥と一緒に。

「アスカ、どうしてペンギンがいるの?」

「わかんない。でも、かわい〜でしょ。ペンペンっていうんだよっ」

「ペンペン…」

 確かに可愛い。
 だが、何故幼稚園のプールにペンギンがいるのか。
 キョウコは予想を越えた状況に、ペンギンの傍に立っている女性にお礼を言うことすら忘れていた。

「ねぇ、アタシもプールはいっていい?」

「ダメよぉ。園児は水着着用なの」

「ぶう、ずる〜い。せんせ〜だけいいのぉ?」

 アスカに引っ張られるようにレイとヒカリもずるいずるいと連呼する。
 口には出さないがトウジとその友人もプールに入りたいと痛感している。
 ホットパンツにTシャツの女性はあははと豪快に笑った。

「私は先生じゃないわよ。う〜ん、園長補佐って感じ?まだ免許取れてないからね」

 長い黒髪をきゅっと首の後ろで結んで腰に手をやり、満面の笑みの彼女の名前は葛城ミサト。
 彼女が言ったとおり、先生の資格はまだ未取得。
 だがゆくゆくはこの月の光幼稚園の園長の座が約束されているだけに急いで取得しないとならない。
 何故なら、彼女はここの園長の一人娘なのだから。
 そして思い出していただきたい。
 洞木家の刀自がマコトとの縁結びを考えていた相手のことを。
 彼女がその葛城家のお嬢さんだったのである。
 さらに、葛城ミサトこそは高校時代にそのマコトが憧れていた年上の人に他ならなかった。

「あぁ〜ん、アタシもペンペンとあそびたいよぉ〜」

 アスカの叫びに答えるように「くえぇっ」とペンギンが叫ぶ。
 こんなタイミングで返事をされればたまらない。

「もうダメっ!アスカ、いくもんねっ!」

 せっかく乾かしてくれた服のままでなかっただけまだましというもの。
 膝のところが少し穴が開いてしまったオーバーオールとTシャツをぱっぱと脱ぎ捨てると、
 アスカは下着姿でプールに飛び込んだ。

「アスカっ」

「つめた〜いっ!」

 まだ3月。
 プールの水が冷たくないわけがない。
 おまけに掃除をしていないからプールの底はぬるぬるだ。
 飛び込んだアスカはその勢いでつるりと滑りざぶんと水しぶきを上げる。
 幼児用プールだから元々30cmくらいしか水位はない。
 したがって尻餅をついたアスカだが溺れるようなことはなかった。
 だが、パンツのお尻はぬるぬるで気持が悪い。
 立ち上がったアスカのお尻の所は緑色の大きな染みが広がっている。

「あちゃぁ、替えのパンツ持ってこなきゃ」

 キョウコが空を仰いだ時、レイとヒカリが頷きあってあっという間に二人も下着姿。
 アスカの失敗を見ているだけに慎重にプールに入っていく。
 
「わっ、つめたいっ」

「ぶるるっ」

 二人は手を取り合ってプールの真ん中に進もうとしたが、3歩も進まないうちにつるりすててん。
 アスカと同じ緑の染みが二つ並んだ。

「あの、私、二人の家の人に」

「いってらっしゃい。私は見張っときますわ」

 エツコに会釈するとキョウコは園長室に向って駆けていく。
 頑丈なアスカはともかく、レイとヒカリが風邪をひいたら大変だ。
 その背中を見送って、エツコは息子とその友人の頭にどんと掌を置いた。
 見上げた二人の瞳にはにやりと笑うエツコの顔。

「あんたら男やろ。すっぽんぽんで行ってこいっ」

「おうっ」「うんっ」

「はははっ」

 さすがに男の子は大胆だ。
 滑ろうがどうしようが速度を重視した。
 何度も転びながら中央のペンギンに突進する。
 その頃にはアスカはペンギンに抱きついていた。

「わっ、きもちいい〜。でも、くっさぁ〜い!」

「臭いかぁ、ま、仕方ないか。慣れよ、慣れ。ほれ、みんな寄って来〜い」

 ミサトは大声でレイたちを呼んだ。
 幼児たちの中でもみくちゃになったペンギンは機嫌がいいのか悪いのか。
 くえええっと一声高く叫び声が聞こえてきた。

 
 
 あっかちゃん、ずんずん 第六巻 「あっかちゃん、立ち回りを演じるの巻」 −おしまい−



(あとがき)

 第六巻です。
 今回は新登場が続々と。それでもシンちゃんはまだまだ。
 あ、ケンスケごめん。名前出てません。
 今回はトウジの家庭の方を重視しましたので。
 因みに女刑事エツコさん。モデルはご存知悦子さんです。
 ただしご主人は同じミュージシャンでもあの方とは大違い。
 登場はしていませんがキカイダーイチローさんを想像しておいて下さい。
 だって、悦子さんはビジンダーですからね。
 もひとつ書き加えるとキョウコさんは結局家には帰ってません。
 幼稚園には替えのパンツが置いてあるものですから。
 

 2005.09.17 ジュン

 追記。
 イチローさんはトランペットでした(大汗)。
 三只様のご好意で修正させていただきました。
 ご指摘ありがとうございます、TK様。

 2005.09.19 ジュン



 ジュンさんよりあっかちゃん六巻目です。
 新キャラ一家追加に、なんとキョウコに恋の予感。
 身内固めが着々と進行しつつありますね〜。(笑)

 しかし、本当に登場人物が増えました。
 一つ貴方もジュンさんに感想をメールして、キャラクター相関図でもおねだりしませんか?(笑)





(2005/9/18掲載)


戻る