第七巻
−−−− あっかちゃん、シの音が出せないの巻 −−−−

 

 月の光幼稚園入園式の日のその朝。
 アスカとレイはしっかりと手を繋いでいた。
 
「アスカちゃんといっしょ。アスカちゃんといっしょ」

 お題目をブツブツと唱え続けるレイ。
 もちろん、黙って口をへの字にしているアスカも願い事は同じだった。
 心の中で「レイちゃんとおなじくみ」と唱え続けているのである。
 あの御神籤の有効期限がいつまでかは翡翠神社も保障してはいないが、
 レイの大吉御神籤ならまだ充分効き目があるかもしれない。
 いや、レイはそう信じていた。
 今朝も仏壇の横に置かれている、あの御神籤に拍手を打ってきた。
 同じ幼稚園に通えるだけではダメだ。
 そこには組というグループ分けが存在し、自分たちも入園されると組分けされることを知った。
 そうなると、お願いがまたひとつ加わったのである。
 人間の欲望には際限がないことを幼い彼女たちが知るはずもないが、
 それでも二人は自分の願いに忠実だった。

「も〜すぐよ、レイちゃん」

 少し強張った声音のアスカにレイはぎこちなく頷く。
 子供達がこんなに緊張していると、後ろに控えているキョウコとハルナも喉がからからになってしまっていた。

「はぁ〜い、次は誰かな?」

 にっこり笑ったその受付係があのペンギンのお姉さんであることにも気づかない。

「アタシがいくわっ。そ〜りゅ〜・アスカですっ!」

 一歩前に進んだアスカが叫ぶようにきっぱりと名乗る。

「おっ、あっかちゃんか。えっと、アナタはひまわり組さんよ」

 にっこり笑って名札を手渡される。
 
「ありがと〜ございますっ」

 受け取って一礼。
 この一種アンバランスな礼儀正しさに受付係の葛城ミサトは笑いを必死に押さえ込んでいた。
 アスカとレイが緊張している理由は百も承知の上にミサトはその答えを知っているのだから。

「どういたしまして。いいお返事ですね〜。じゃ、ひまわり組の教室で待っててね」

「はいっ」

 返事はするが、アスカは当然動きはしない。
 親友の組がどこかわかるまで、いや、今にもレイが倒れそうに見えるのにその横から動けるわけがないではないか。

「はい、では次の人。お名前は?」

 レイはびくんと身体を震わすと、それでもハルナに教えられた通りにこくんと頭を下げる。

「あやなみ、レイ、です。よろしくおねがいします」

「うふっ、今度はレイちゃんね。レイちゃんは…おおっ、なんとアナタもひまわり組!」

 暗雲は晴れた。
 がしっと音がするくらいの勢いで抱き合ってその場で何度も飛び上がりながら喜ぶ二人。

「やったぁっ!」

「おなじくみ、おなじくみっ」

 丹精込めてアイロンをかけた二人の制服はあっという間にもみくちゃになる。
 もっともそのことでキョウコとハルナの機嫌が悪くなろうはずがない。
 その二人とも心の中では小さき子たちと一緒になってはしゃぎたいところだったのだから。
 
「ははっ、喜べ喜べ!」

「よかったね、レイちゃん」

「あっかちゃん、悪いけどレイの面倒を見てやってくれるかな」

「だぁ〜いじょ〜ぶっ、まっかせてっ!」

 顔だけ振り返ったアスカはニンマリ笑顔である。

「何言ってるの。レイちゃんに迷惑かけるんじゃないわよ、アスカ」

 こつんと母に頭を叩かれても今のアスカはご機嫌さん。
 
「ひまわりぐみはあっちっ!レッツゴ〜」

「こっち、アスカちゃん」

 さくら組の教室に向って駆け出しそうになったアスカの腕をレイはぐっと掴んで引き戻す。
 アスカはてへへと笑って、正しい方向へ足を踏み出した。
 二人は手を繋いでひまわり組の教室でまっしぐらに駆けていった。
 こうなってしまうと子供は非情なものだ。
 保護者の存在など完全に忘れている。
 
「はい、こちらは保護者の方が持ってくださいね」

「すみません、すっかり舞い上がってしまって」

 頭を軽く下げるキョウコにミサトはとんでもないと右手を振る。
 幼稚園に来るのが楽しくないとねぇと笑う、
 彼女その人が今回の組分けに暗躍していたことをさすがのキョウコも察しがつかなかった。



 ミサトはプール飛び込みペンペンふれあい組の5人を
 ひとつの組にまとめておいた方がいいと強硬に主張したのだ。
 そしてベテランの先生に任せた方がいいと。
 ベテランの先生は眉を顰め、まだ2年目の先生は感謝の眼差しをミサトに向けた。
 先生たちはみんなあの日の5人の姿を見ているのだ。
 茶色と緑色の泥だか何だかわからないものに塗れて嬉しそうに笑っている5人を。
 当然、この子たちは要注意とみなの頭に刻まれたのは言うまでもない。

「だぁ〜いじょうぶよぉ。私も手伝うからさ。安心してよ」

 あなたに手伝われる方がとんでもないことが起こる様な気がする。
 そう反論しようとしたがミサトの横で柔らかな笑みを絶やさない園長の前では言えやしない。
 もっともベテラン先生は「こいつはっ」とは思ったもののすぐに心の中で盛大な溜息を吐いた。
 まったく畑違いの水産学を学んできたミサトを熱心に指導しているのは当の彼女なのだ。
 卒業間際だった大学をわざと留年して、編入試験まで猛勉強し教育学部にもぐりこんだ、
 そんな離れ業をしでかしたミサトと夜更けまで祝賀会を完遂したのも彼女だ。
 第一種免許を取るためには4年制大学で単位を取得しないといけないのである。
 先生になるだけなら短大や専門学校での2年間の単位でいい。
 しかしミサトは園長の跡を継ぐ気だ。
 そうなると第一種免許が必要になる。
 
 そもそも、ミサトには家業である幼稚園を継ぐ気がさらさらなかった。
 大好きな海の学問を生涯続けていこうと固く心に決めていたのだ。
 父親が不慮の死を遂げるまでは。
 人間はいつかは死ぬ。
 だが、ミサトはあの頑丈で豪快な父親があんなにあっさり死んでしまうなど想像もしていなかった。

 末期癌。
 自分の身体については一言も苦痛を訴えず、病床の父親はただミサトにだけこっそりと言い残した。
 「あいつのことを頼む」と。
 しかしその時父親はミサトに返事をさせなかった。
 だから父親の遺言が母親の身を意味するのか、
 それとも母親が副園長をしている幼稚園を頼むと言いたかったのか。
 どちらを意味するのかを確かめることが怖くて、ミサトは父親が息を引き取るまでその話題ができなかった。
 その遺言が意味するところが明らかになったのは通夜の席。
 幼稚園をこれからどうするのだと親戚に問われ、母親はこのまま続けていくときっぱり言い切った。
 「でもミサちゃんは跡継がないんだろう?あんた一人じゃ無理だってば」などと決め付ける親戚に、
 母親は「大丈夫ですよ。なんとかなります」と微笑みを浮かべるだけ。
 ミサトはその席にいたたまれずに、そっと部屋の外に抜け出した。
 家の裏手がそのまま幼稚園の敷地になっている。
 夕方から降り始めた雨が夜中になってもしとしとと音を立てていた。
 ぬかるんだグラウンドを横目にミサトは廊下を歩いて行く。
 薄暗い4つの教室すべてに作りかけの千羽鶴がかかっているのが見える。
 赤、青、黄、緑、白、紫、色とりどりの鶴が、小さな指で折られた精一杯の鶴が数え切れないほどそこにいた。
 病室にかけられた千羽鶴を涙を溜めて見ていた父親。
 園長室にも千羽鶴をかけようと二つ目のそれがもうすぐ完成するところだった。
 そして最後に父親が言い残した言葉が「つるを」だった。
 
「鶴をどうするの?どうしたらいいの、父さん?」

 ミサトの問いに父親はもう答えなかった。
 瞼をふさいだままの父の顔にはっとなりベッドサイドの医師を見る。
 彼はただ腕時計を見てカルテにその時間を書きとめた。
 それが父の人生の終わりの瞬間。
 何か言葉が出てくるかとふと思ったが医師はただ頭を誰にともなく下げ静かに病室を出て行っただけ。
 その従者の如き看護士が扉を閉めたときを契機として親類が泣き出す。
 こういう時は泣かないといけないのか、そんなことを考える自分は薄情者なのか。
 しかしそんな自虐的な思いも母の一言までだった。
 
「鶴はちゃんとお棺に入れますよ、あなた」

 まだ温かみの残る夫の手を両手で包み、いつものように静かに語りかけた。
 そんな母の姿をぼぅっと見ているうち頬を伝ってきた雫に、ようやくミサトは自分が泣いていることに気づく。
 なんだ、私泣いてるんじゃない。
 しかし、母親の方はついぞ人前で涙は見せなかったのである。

 その千羽鶴のふたつめがまだ未完成のままそれぞれの教室にある。
 4つの教室全部を眺めてまわり、ミサトは園長室の扉を開けた。
 豪奢な調度品はまったくないその部屋。
 創始者、つまりミサトの亡き祖父が使っていたそのままにこの部屋はあった。
 あの椅子に座っていた祖父と同じような姿勢で父親は仕事をしていた。
 ミサトがこの幼稚園にいたときも、そして数ヶ月前までも。
 それがもう父親はこの部屋に帰ってくることはない。
 あの椅子に座ることもないのだ。
 彼女は目を瞑り、そして唇を固く結ぶと元のように扉を閉める。
 そして再び足を向けたのは教室のひとつ。
 ミサトが年少の時に使っていたさくら組の教室だった。
 がらがらと扉を開けその中に足を踏み入れる。
 教室の方は改装をしてあった。
 自分のときは木の床だったが、今はリノリュームが敷き詰められている。
 あの時のような油の匂いはここにはない。
 ミサトは千羽鶴の前に立った。
 何とはなしに一つ一つの鶴に触れてみる。

「可哀相にね」

 母の声にミサトはびくっとした。
 振り返ると扉のところに母が立っている。

「驚かさないでよ」

「ごめんね」

「いいの?あっちは」

 母は大丈夫だと微笑を浮かべミサトの傍らに歩いてきた。
 そしてもう一度同じ言葉を繰り返す。

「可哀相にね」

「父さんが?」

「いいえ、子供たちが」

 その時、ミサトは母の目に涙が浮かんでいることに気づく。
 夫が死んだその時から、誰にも見せたことのない涙が。
 しかし、ミサトはその涙が父親に向けられていないことを直感した。
 母は園児達のために泣いている。
 そのことが彼女には腹立たしかった。
 どうして死せるものに対して泣かないのかと。

「みんながね、泣いたそうよ。今日、先生から園長先生が亡くなりましたって聞いて」

 ミサトは無言だった。
 それは泣くだろう。

「それからね、死んじゃったのは自分たちの所為だって言い出したの」

「どういうことよ、それ」

「園長室への千羽鶴が間に合わなかったからだって。
 ごめんなさいって一人が言い出したら、みんなそうだ僕たちが悪いんだって続いてね」

 子供らしい発想。
 それに集団心理。
 彼女の親友なら簡単に分析しただろう。
 しかし、ミサトは心を打たれた。
 おそらくこの瞬間だったのだろう。
 葛城ミサトが親の跡を継ぎたいと思ったのは。

 父親の葬儀は2日後だった。
 幼稚園の園長ともなると各方面との兼ね合いもあり、簡単に身内だけで済ませてしまうわけにもいかない。
 ただ今回についてはそれが幸いした。
 ミサトはあの後全ての教室にあった鶴の数を数えてみた。
 825羽。
 翌朝、ミサトは臨時休園のお知らせをすべく早朝に出勤してきた先生たちに提案した。
 千羽になるまで折って、千羽鶴を完成させましょう、と。
 それをお葬式の日に集まる園児に一人一羽ずつ折ってきて貰うのだとの提案に先生たちはすぐに同意した。
 あのベテラン先生がその提案にさらに付け加える。
 お別れの言葉とか絵があれば折り紙の裏に書いてもらおうと。
 足りない数の折鶴は先生やミサトたちが折る。
 先生たちも折り紙の裏にお礼の言葉を書いていた。
 ミサトも書いた。
 彼女らしいひねくれた書き方で。

 『孫の顔を見てからにしてほしかったな。
 当分あてがないから長生きしてもらう予定だったのに。
 それからしばらくはお母さんをそっちには行かせませんからね。
 今から園長になる資格を取ったり修行を積むのは大変だし、
 お母さんの助けが必要なんだから。
 そうね、お母さんには曾孫の顔も見てもらおうかな?
 これまでありがとう、お父さん。

 あ、お父さん、お願い。
 そのために、私に良さそうなのを見繕ってくれない?
 そんなのがいたら運命の出逢いとかセットしてよ。
 よろしくお願いします。   ミサト』

 ちょっと長かったかな?ふざけすぎかな?と一瞬気になったが、うふっと彼女は小さく笑った。

「まあ、こんな方があなたの娘らしいでしょ。ね、お父さん」

 机の上に飾られた幼稚園時代の家族の写真にミサトは話しかけた。
 両親の真ん中でにんまりと笑っている制服姿のミサト。
 背景は園の門前だった。
 シャッターを押したのは当時のミサトの組を担当していた先生。
 あの懐かしい優しげな微笑を浮かべた母に、ことさらに厳しい顔をしてみせている父親がいる。
 思えば自分が幼稚園の時、我が子だからこそか他の子よりも厳しくされていた。
 みんなと一緒に悪戯をしても叩かれたのはミサトだけ。
 他の面々は口で叱られただけだった。
 そのことに対してミサトは不満は持ってなかった。
 寧ろこんな特別待遇は歓迎だった。
 何故なら幼稚園に入るまでとくに父親にはそれほどの接点がなかったからだ。
 逆に怒られたいがために悪戯を繰り返していたのかもしれない。

 ところが、そんなある時、一人の女の子がその不公平さを不満に思い文句を言ったのである。
 これまでミサトと一緒に騒いだこともない、そのおかっぱ頭の子は園長に面と向かい胸を張った。

「たたくのならみんなたたかないとおかしいとおもいます。
 ひとりだけたたくのは、そう、りくつにあわないんじゃないですか」

 その子と今になっても親友として付き合っているなどとあの頃のミサトにはわかるはずもない。
 まして、その女の子が園長たちを黙らせてしまったあと、二人は取っ組み合いの喧嘩をしたのだから。
 
「ちょっと、あんた。かおかしなさいよ」

 腕を組んで精一杯凄んでみせるミサトにも女の子は怖がりもしない。
 残念ながら月の光幼稚園にはトイレの裏も体育館の裏もない。
 建物の裏手にあるのはこじんまりとした園長の家。
 つまりミサト自身が住んでいる家だ。
 しかしミサトは知っている。
 両親が家に帰ってくるのは夕方になってから。
 それまでは邪魔者は家には来ない。
 女の子が自宅に帰ってこないことで騒動になるであろうことは当然気がまわるはずもなかったが。

 のしのしと歩くミサトの背後を女の子はすたすたとついて行く。
 決闘の場に選んだのはミサトの子供部屋。
 その散らかった部屋の様子に初めて女の子の表情が動いた。
 口の中で「きたない」と呟く。
 そして、部屋の中央でミサトが振り返った。

「あんた、よけ〜なこというんじゃないわよっ」



 リツコは首を捻った。
 何故、こんな昔のことを唐突に思い出したのだろうか。
 考えること数秒、答は出た。
 この髪の所為だ。
 彼女はその髪を指で軽く持ち上げてみた。
 1年と数ヶ月ぶりの黒髪。
 金髪の医者など診察室には入れないと母親にきっぱりと言われていたのだ。
 5月になりゴールデンウィークがゆっくりと過ぎた頃、リツコは学生時代の馴染みだった美容院に行った。
 相変わらず朗らかな店主のおばさんはリツコの金髪を見てまずは目を丸くしたのである。
 やがて元の黒髪になり、髪を揃えられたリツコの顔を大鏡で眺めながら彼女は腕を組んで言った。

「リッちゃん、こっちの方がいいわ。あれはちょっとこの町の景色に合わなかったわよ」

 なるほどその通りだろう。
 散歩していてもどこか視線が気になる。
 東京にいたときはまったく気にならなかったのに。

 彼女が金髪に染めて周囲を唖然とさせたのはインターンの研修満期が終わりを告げようとする頃。
 その研修先の総合病院に就職が内定したばかりだった。
 すぐに病院の人事部に呼び出されせっかくの就職を取り消される。
 続いて研修を世話した医大の教授にも顔を潰したと説教。
 理由を問われたが彼女は頑として口を開かなかった。
 結果的にはその時期でよかったともいえる。
 この騒動がもっと早ければ研修の終了を認められなかっただろうから。
 
 彼女が髪を染めた理由。
 それはいずれ語るときがくるだろう。
 短い髪の毛をさらに切るには彼女の美意識が邪魔した。
 そこで髪を金色に染めたということだけをここでは記しておこう。

 さて今は久しぶりの黒髪のおかげで唐突に思い出したミサトのことだ。
 もちろん入園式の前からあの目立つミサトのことは嫌でも目に入ってきていた。
 派手で園児たちの先頭に立ちやたらに明るい彼女のことはどちらかというと子供心に鬱陶しかった。
 そんな虫の好かないミサトを何故庇ってしまったのか。
 その時はよくわからないままに口と身体が動いてしまったのだが今ならわかる。
 鬱陶しかったのも庇ってしまったのも、結局は自分とは全然違う性格の彼女が羨ましかったのだ。
 自分にできないことをいとも簡単にしてのける子。
 その存在が眩しくて、そして悔しかった。
 自分があんな子供だったらお母さんはもっと可愛がってくれるだろうか。
 いい子にしていたら、かしこい子なら母親は褒めてくれる。
 だからこそ自分は頑張ってきた。
 母親の笑顔が欲しいから。
 お医者様でいつも忙しく疲れている母親が可哀相で仕方がなかった。
 3歳にしてそんな決心をした彼女は自分を抑えることを習慣にしてしまっていたのである。
 他に家族がいればそうでもなかったのだろうが、赤木家の家族構成は母一人子一人。
 彼女はお手伝いさんに育てられていたのである。
 自分を抑えると周囲が見えてくる。
 見えているから、抑えているから、自然体にしか見えないミサトのことが羨ましく妬ましかったのだ。
 
 そこまで考えてリツコは苦笑した。
 自分で自分を過大評価していたのだ、あの頃は。
 いくら利発でもまだ幼児。
 ミサトが表面上で悪戯好きで明るい子供を演じていたことなど、見抜けるわけがなかった。
 そのことが何となくわかったのは、生まれてはじめて取っ組み合いの喧嘩をした後のこと。
 
「あんた、よけ〜なこというんじゃないわよっ」

「どうして、よけいなことなの?」

「うるさいわねっ。あんなこといったら、おと〜さんがおこってくれないじゃない」

「わからないわ。へんなこ。おこられてうれしいの?」

 幼児にこと細かく自分の心理を説明できるわけがない。
 そんなことをしようとすると、逆に頭が制御不能になるのが落ちである。
 ミサトは取っ組み合いの喧嘩なら日常茶飯事だ。
 男の子とでも平気でつかみ合いの喧嘩をしている。
 冷静なリツコに彼女はいともあっさりと飛びついていった。
 赤木リツコ、5歳。喧嘩はなんと初体験だった。
 
 喧嘩慣れしていたミサトは手加減というかそういうものを知っていた。
 だが、リツコは違う。
 こういう時には動物的な本能が目覚めてしまうものなのかもしれない。
 喧嘩の勝者はリツコだった。
 噛みつかれたり引っ掻かれたりしたミサトは反撃する余裕もなく泣き出してしまった。
 それはもう大声で。
 その泣き声で我に返ったリツコは唖然とした。
 長い髪は乱れに乱れ、ぺたんとお尻を畳につけて、天井を見上げて泣き喚く。
 痛いよぉ〜という訴えにミサトの身体を見れば、腕や足にくっきりと歯形や蚯蚓腫れが見るからに痛々しく残っている。
 中には血まで滲んでいる場所もあるではないか。
 リツコはそれが自分のしでかしたことだと認識した途端に恐怖を覚えた。
 そして流石に医者の子だからか手当てが必要だと気づいた。

「だれかいませんかぁ〜」

 リツコの叫びは誰もいない家の中に消えていく。
 叫ぶこと数回。大きくなっていくリツコの叫びに触発されてか、ミサトの泣き声もさらに大きくなった。
 そして、リツコも泣き出した。

 やがて園長の家の方から聞こえてくる、幼児の泣き声二重唱に気づいた先生が二人を発見。
 こんなものは赤チンを塗っておけばいいと心にもないことを言う園長は無視されて、ミサトは近くの医院に送られた。
 赤木ナオコ先生は手際よく治療をし、泣き止んだミサトの頭を撫でて「ごめんね」と微笑む。
 そして鬼の形相に瞬時に変わるとひょいと傍らの娘の小さな身体を持ち上げる。
 自分の膝の上にうつ伏せにするとまだ泣きじゃくっている娘のお尻をむき出しにした。
 つるんとした卵のような白いお尻に少しも容赦なく、衆人環視の中ぱしんぱしんと平手打ち。
 いい子で通してきたリツコにはこれが生まれて初めての母からの折檻だった。
 痛いというよりも怖い。
 いきおい、許しを請う。
 
「ごめんなさい、もうしません。しませんからぁっ」

「ダメよ。人の病気や怪我を直す医者の子供が人様を傷つけるなんて、お母さんは許しません!」

 ぱしん、ぱしん!
 リツコの小さな白いお尻はあっという間に真っ赤になる。

「赤木先生、そのくらいで勘弁してあげてくださいな」

「いいえっ、うちの子の躾けですから」

 ミサトの母のとりなしも聞く耳を持たず、
 結局ミサト本人が「もうやめて!」とナオコの腕に縋り付くまでリツコのお尻は叩かれた。
 


 リツコはそっと自分のお尻を撫でた。
 あれから何年、いや何十年になるか。
 あの時の痛さは忘れない。
 それともうひとつ決して忘れられない思い出がある。。
 その夜、まだ腫れのひかないお尻が痛くて布団の中でうつ伏せになっていた。
 晩御飯の時はむすっとしている母の顔色を窺いながら痛いのを我慢して椅子に座った。
 痛いといえば嫌われると思い、必死に耐えたのだ。
 おかげで大好きなハンバーグの味は覚えてない。
 結局あれから母親とは一言も口を聞いてなかった。
 布団の中のリツコはお尻は痛いものの何となく嬉しかった。
 母親に本気で叱られたからだろう。
 これまでいい子で通してきたから叩かれたこともなかったのだ。
 そこでふと気づいた。
 お父さんが怒ってくれないとわけのわからないことを口走ったミサトの言葉の意味が。
 リツコはクスリと笑った。
 その時だ。
 襖を開けて母親が部屋に入ってきたのは。
 ナオコは苦笑しながら黙って掛け布団をめくるとパジャマをゆっくりと捲った。
 そして軽く息を吸う。
 豆球の灯りでもお尻の赤みは見えた。

「少しやりすぎたかしら」
 
 その呟きがリツコにはたまらなく嬉しい。

「ううん、わたしがわるかったんだから」

 枕カバーのくまさんを見つめながらいい子が言う。
 ナオコはふっと笑って、お尻に手を伸ばした。

「ひっ」

「痛かった?」

「ううん、つめたくて」

 翌朝、リツコはほんの少しの身体の痛みと、充分すぎるほどの幸福感を胸に幼稚園へ向った。
 片やナオコの方は子供用の布団で添い寝した所為で身体の節々が痛かった。
 もっともその感覚は和やかな笑みをもたらすものではあったが。
 物心ついて以降、リツコが母親に添い寝してもらったのはこの時が最初で最後だった。
 だからこそかけがえのない思い出になったのかもしれない。
 
 情熱的な性格を抑えて努めてクールに装っている女、リツコと、
 寂しがり屋で泣き虫な性格を押し殺してホットに仕向けている女、ミサト。
 ただし、三つ子の魂百までという。
 幼児の時から別の自分を演じてきた所為か、
 本来の自分と違う人格が今や彼女たちを支配していたのである。
 二人の母親と親友同士のそれだけかもしれなかった。
 今現在、本当の彼女たちを知るものは。
 いや、違った。
 もう一人いる。
 医者であるリツコが髪を金色に染めるという暴挙の元になった男は、
 彼女が本当は情熱的な女だということを知っている。

 だが今、リツコの心はあの頃を彷徨っている。
 幼き日のあの懐かしき時間を。
 あの男の記憶から逃げたいという意味で彷徨っているのかもしれないが。
 この町に帰ってきたことと同じ理由で。

 その喧嘩の後、二人は急に仲良くなった。
 ことの初めはこうだ。

「ねえ、いたかった?」

「いたかったわ」

「ふ〜ん、じゃこれで…えっと、なんていうんだっけ?」

 腕組みをしたミサトが首をかしげた。

「いみはよくわからないけど、かしかりなし、ってことばだとおもうわ」

「あっ、それ!じゃ、そういうことでわたしとあんたはこれからおともだちってことでよろしくっ」

「わけがわからないわ。きのうあんなけんかをしたのに」

「へっへっへぇ、なんならもういちどしょうぶしてもいいわよ。こんどはまけないから」

「しないわ。けんかするりゆうがないから」

「くぅっ、にっくたらしいわね。じゃ、けんかじゃなくてゲームでしょうぶしない?わたしのおへやで」

「そうじしてる?かたづけてないのはいや」

「ぐう、おかたずけさせられたわよ。こんなへやをみられたなんてはずかしいっていわれちゃった」

「じゃ、いくわ」

 自分でも不思議なほど簡単に返事が出た。
 もちろん、この後も数知れないほどの喧嘩はしたし、それと同じ数だけの仲直りもした。
 リツコはミサトにとってただ一人の涙を見せられる親友となったのである。
 あの優しい母親が事故死した時もミサトはリツコの部屋でだけ泣きじゃくった。
 だが中学生の彼女が母を亡くし、高校になった時、新しい母親を迎えた時には彼女の目には涙はなかった。
 その母親、現在の園長が小さな時からよく知っていた女性であったことがその大きな理由だったのだろう。
 ミサトの机の上の家族写真。
 そのシャッターを押した新任の先生、
 いやもうその頃には超ベテランのオールドミスだった彼女が父親と再婚したのだ。
 おずおずとミサトに了解を求めに来た二人にミサトは心から祝福した。
 その後リツコの部屋に飛び込んで行ってほやほやのニュースを暴露した彼女は少しも泣きはしなかった。
 リツコに呆れられるほど素直に、そして喜んでこの現実を受け入れたのである。

 リツコの回想はそこで終わりを告げた。
 再婚というフレーズが彼女に苦笑をもたらしたから。

「したいわね、再婚。あら、イヤだ。吹っ切ったはずなのに」

 結婚すれば初婚になるはずの彼女は大きな溜息をつくと、椅子から立ち上がった。
 ちょうど買い置きの煙草も切れたので、気分転換に散歩がてらにでもと思ったのだ。
 



「おおおおっ、かみがっ!」

 リツコの気分転換は10分も経たずに為された。
 この町には一筋の川が流れている。
 昔はよく氾濫を起こし住民を悩ませていたのだが、江戸時代末期に治水が行われた後は台風の時にも洪水を起こしたことはない。
 彼女は散歩の道をこの河川敷に選んだ。
 穏やかな水の流れが目に優しい。
 それにどういうことだろう。
 たまたま出くわしたおばあさんがリツコに「こんにちは」と挨拶をしていく。
 慌てて会釈と返事をかえすリツコに老人は笑みを浮かべてゆっくりと通り過ぎていった。
 帰郷してからこれまでに何度か顔を合わせている記憶がある。
 しかし一度も挨拶はしたことはなかった。
 染めたのが栗色だったらどうだっただろうか?と、リツコはおかしかった。
 やはりこんな田舎町では金色の髪の毛など見ることがないからか。
 そう結論付けようとした時、リツコは己の間違いに気づいた。
 この町には金髪の人間がいたことを。
 
 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ…。
 ふぃっ。

 いきおいよく吹かれた音符が蹴躓く。
 ハーモニカの音源をリツコが見やると、赤いがかった金髪の幼児が川っぺりのコンクリートにちょこんと座っていた。
 その小さな背中に彼女は見覚えがあった。
 この町に帰ってきた日に出逢った女の子。
 通称“あっかちゃん”、本名アスカだ。
 その後顔を合わした事はないが、彼女の武勇伝は親友からよく聞いている。
 まるで小さい頃のミサトそっくりじゃないのとからかうと、ミサトは手を振って苦笑したものだ。

「私とは違うのよねぇ。何と言うか、人に対する影響力が物凄いのよ。あれは天性のものだと思うわ」

 そう言って缶ビールをぐびぐびと飲む彼女にリツコは笑った。
 あなたも私に十分影響を与えてるわよ、と心の中で微笑みながら。
 
 さて、自分の知らないところでけっこう酒の肴になっているアスカ。
 今日は珍しく一人でいる。
 リツコはその背後にそっと近寄った。

 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ…。
 ふぃっ。

 さっきとまったく同じように“シ”のところで音がきちんと出ていない。

「こんにちは、あっかちゃん」

「ひいっ!」

 予期せぬ背後からの攻撃にアスカはかなり大仰に身体を震わせた。
 そして、手から落としそうにしたハーモニカをまるで泥鰌掬いの様に必死に受け止める。
 ようやくハーモニカを手にしっかり収めた彼女は恐々と振り返った。
 リツコの顔を見て、首を傾げる。

「あら、忘れちゃった?」

 少しばかり落胆しながらリツコが問いかけた。
 眉を顰めたアスカの目が忙しく上下してリツコを検分する。
 そして、その顔がパッと輝いた。
 目じりの黒子が数ヶ月前の出逢いを思い出させたのである。
 で、冒頭の台詞となったわけだ。

「おおおおっ、かみがっ!」

 狼でも女将でもない。
 アスカの知っている彼女は金色の髪に黒い眉毛だったのだ。
 あまりにインパクトの強い髪の色だっただけにすぐにわからなかったのも無理はない。

「ええ、これが本当の私の髪の色。変?」

 おずおずと訊くリツコにアスカはびゅんびゅんと首を横に振った。

「ううんっ、すっごくきれいよっ!」

「そう?ありがとう」

「でもびっくりしちゃった。やっぱりおししょ〜はにんじゃなの?
 そんなにかんたんにかみのけのいろをかえるなんてっ」

「ふふ、染めたのを戻しただけだからね」

「アスカもそめたいっ。きれ〜なきんいろに」

「そんなに焦らなくてもいいわ。大きくなったら綺麗な金髪になるわよ」

「おおきくなったらってアスカはいつおおきくなるの?しょ〜がくせいになったら?」

「小学生じゃまだかな?でも楽しみは取っておく方がいいのよ」

「うぅ〜、いまたのしいほ〜がいいよぉ」

 ぷぅっと膨れてみせるアスカの頭にぽんと手をのせて、それからその横に腰を降ろす。
 ジーパンを履いてきてよかったとこの時は思った。
 コンクリートのすぐ下は小さなテトラポットが不規則に並んでいた。
 脚を垂らすとそのテトラポットの天辺に乗せることができる。

「あっ、いいなぁ」

「え?これが?」

 リツコはテトラポットの上を靴でぽんぽんと叩く。

「うん。アスカなんてこれだもん」

 隣に座ったアスカの脚からテトラポットまでははるか彼方。
 
「おししょ〜はおとなでいいな」

「そうかしら。子供の時に戻れるならそれも嬉しいわよ」

「むぅ、へんなの。おとななのにっ」

「そうね。やっぱり逃げてるのかな、私は」

「ん?なにからにげてんの?いぬ?それともおかっぴき?」

「そう。愛かしら」

「あい?うちのくみにアイちゃんっているよ。あのアイちゃん?」

 リツコは笑い出した。
 おかしそうにお腹を押さえて。
 小首を傾げてその様子を見ているアスカはしかめっ面をして唇を尖らせた。
 お師匠の言うことはよくわからない。
 でもだからこそお師匠なのだ。
 時代劇に出てくる剣豪の師匠はたいていよくわからないことを言っているから、
 その意味ではリツコはアスカにとって充分師匠という格付けになるのだろう。
 リツコは両手を支えにして空を仰ぎ見た。
 東京では滅多に見られない、雲ひとつない青空。
 
「煙草、持ってないよね」

「またぁ。アスカはそんなのもってないってば。
 それにママだってアスカをうむときにやめたっていってたよ。
 じ〜じ〜もこないだ3かいめのきんえんにちょ〜せん…えっと、4かいめだっけ?」

「4回目、ね。私もしてみようかな、禁煙」

「うんうん、それがい〜とおもう。たばこはめがいたいの」

「慣れよ、慣れ」

 まるで幼児に向って煙草を勧めているような感じだ。
 大人としても医者としてもいい会話ではない。
 そこで話題を変更することにした。

「今日は友達と一緒じゃないのね」

「ともだち?レイちゃん?ヒカリちゃん?それとも、ケイコちゃん?ミドリちゃん?アイちゃん?えっと…」

 この調子では組の女の子の名前が全部出てきそうな調子だ。
 リツコは微笑みながらミサトから聞いた名前を持ち出した。

「レイちゃん、だっけ?親友なんでしょう?いつも一緒にいるってミサトが言ってたわ」

「んん?もしかして、ミサトおねぇ〜さんっ!」

「ちょっと待って、あっかちゃん、あいつがお姉さんでこの私がおばさんなの?」

 初対面の時、アスカにおばさんと呼ばれたことをまだ忘れてないのはリツコも女だという証明だろうか。
 いささか語気が荒くなって、アスカを横目で睨みつける。

「ひぇっ、だ、だって、ミサトおねぇ〜さんはまだせんせいじゃないからおねぇ〜さんってよんでねって」

 ちっ。
 リツコは舌打ちをした。

「アイツはね、私の親友。幼馴染なの。だから同い年。28よ、28」

「28なの?じゃ、ママよりえっと…」

 アスカは指を折った。
 5,6,7,8。
 
「4つうえだ。えへへ」

 得意げに数がわかるところを示してみたアスカだったが、
 キョウコの年齢が25だということを話すと、28引く25だから3つ上になるんだと教えられる。
 家庭教師をした経験もなければ、自己研鑽を旨として突き進んできた彼女だけに、
 アスカに計算方法を教えるのには少し手間取った。
 もっともアスカが利発な子だから理解は早かったとも言える。
 そして教えている間、リツコは考えていた。
 自分よりも3つ年下なのにアスカみたいな大きな子供がいる。
 ミサトに聞いた話ではアスカは父親がおらず、その親友の方は両親ともに他界しているという。
 自分たちの境遇も併せて省みるとまるで不幸のオンパレードのようだが、
 そういう雰囲気は自分たちにもこの子供たちにもない。
 それはどうしてだろうか。
 女という生き物が強いから?
 母を失った悲しみから未だに打ちひしがれている男の子のことが脳裏を横切った。
 そしてその子の思いに負けてしまった自分を。
 
「わかった。こんど、ミサトおねぇ〜さんにホントはおばさんなのねっていってみるね」

「ダメよ、そんなこと言ったらミサトのヤツ、暴れ狂うわよ」

「おっ、じゃそのときはおししょ〜がたすけにきてよ」

「ふふ、それじゃ私がその場にいるときに言ったらいいわ。それまで我慢しなさい」

「うっ、がまんがまん。くくく、たのしみぃ」

 これについてはリツコも同感だった。
 そして彼女はアスカの手にあるものを見下ろした。
 ハーモニカである。

「練習してたの?」

 何気なく聞いたつもりだったが、その瞬間アスカの顔は真っ赤になってしまった。
 そして、がっくりと項垂れてしまう。

「ふけないのぉ」

「ん?“シ”が?」

「えっ、ど〜してわかんの?」

 聴けばわかる。
 ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、ふぃっ、なのだから。
 
「すっごぉ〜い、さすがおししょ〜」

「うまく出ないの?“シ”の音が」

 こくんとうなずくアスカ。
 少し悲しげな表情で俯く。

「レイちゃんもヒカリちゃんもちゃんとふけるの。アタシだけなの」

「あっかちゃん、“シ”は吸うのって知ってるわよね」

 またもやこくんと頷くアスカ。
 
「えっとね、ふいて、すって、ふいて、すって、ふいて、すって、で、ど〜してつぎもすうの?」

 笑っちゃいけない。
 リツコは耐えた。
 アスカの表情は真剣そのものだから。
 
「じゅんばんだったら、“シ”はふくんじゃない。ど〜して2かいつづけてすうのよぉ」

「理由はわからないわ。私がハーモニカを作ったわけじゃないから」

「ぶう〜」

「吹いてみて。あ、でも“シ”は吸うのよ」

「うん…」

 心細げに返事をしてアスカはハーモニカを構えた。
 すぅっと息を大きく吸い込んで、口をハーモニカにつける。
 ド!レ!ミ!ファ!ソ!ラ!ふぃっ〜〜〜!
 がっくりと首を落とすアスカ。
 
「やっぱりだめだよぉ。ど〜してみんなかんたんにふけんの?」

「あっかちゃん、今度はもっとゆっくり吹いてみて。力が入りすぎよ」

 ひとつの音ごとにビックリマークがつくほどの力強さで吹けば二回続けて吸うのは難しかろう。
 
「うぅ〜、せんせ〜もそ〜ゆ〜の。でもできないの」

 我慢できず、リツコは思わず笑ってしまった。
 元気一杯のアスカには力を抜けというのは難しいのかもしれない。
 本来リツコは子供が苦手な方だった。
 それが何故かアスカ相手には親身になってしまう。
 これがミサトの言っていたアスカの影響力というものなのだろうか。
 何と心地よい影響力だろう。
 こんな風にあの子と接すればよかったのだろう。
 変に構えたりせずに自然にお話をすればどうだったか。
 シンジ君は心を開いてくれたかもしれない。
 もう何もかも今となっては遅いのだがと、リツコは苦笑した。

「むぅ、がんばってみるっ」

「あまりがんばらずに吹いた方がいいわ。やってみて」

「よしっ」

 アスカに頑張るなという方が無茶なのだろう。
 気合を入れて一音ずつ吹いて吸っていったが、やはり最後は“ふぃっ”。
 がっくりと落ち込むアスカにリツコは別のやり方を試してみるように言う。
 ハーモニカ無しで吹いて吸ってをしてみる。
 やはりそれでも“シ”の時に普通よりも大きく吸ってしまっていた。
 それが他の音と変わらないようになるまで何度も繰り返す。
 どうしてこんなに必死になってるんだろうと、最初は微かに思っていたリツコだったが、
 そのうちにそういう意識もなくなってしまった。
 なんとかアスカがハーモニカをちゃんと吹けるようにしたい。
 しばらくそんな調子で二人で特訓を繰り返した。
 
 ド!レ!ミ!ファ!ソ!ラ!シ!ふおぉっ〜〜〜!

 ようやく吹けた“シ”だったのに、次の“ド”ですっころんでしまった。
 そしてハーモニカを口から放したアスカとリツコは顔を見合わせた。
 
「ぷっ」「あははっ」

 アスカはごろんとコンクリートに仰向けになって脚をバタバタさせて笑った。
 それを見てリツコもアスカを真似る。
 アスカのように勢いよく転がれないので、腹筋を使ってそろりとまっすぐに青空に向かい合う。
 
「青いわね、空」

「うんっ、きれい!ねえねえ、おししょ〜」

「なに?」

「ドはふくんだよね」

 リツコは空に向ってにっこりと笑った。
 どこまでも前を向く子供だ。
 彼女は「そうよ」と言って、両手を頭の後ろで組んだ。
 
「よしっ、じゃこんどこそっ」

 お日様がやわらかい。
 だが、とてもじゃないが隣で鳴るアスカのハーモニカは子守唄にはなりはしない。
 それでも心は和む。
 一生懸命に練習する彼女が傍にいるだけなのに、自分も頑張らないといけないなぁという気になる。

 で、何を頑張ろうか…。
 髪の色を黒に戻したからには母も医者として認めてくれるだろう。
 診察させてくれるかどうかはわからないが。
 この町の総合病院って医者は募集してるのかしら。
 いつまでもぶらぶらしてるわけには行かないしね。
 ああ、それよりも…。
 
 ド!レ!ミ!ファ!ソ!ラ!シ!どひょぉっ〜〜〜!

「くぅっ、もうすこしっ!」

「あっかちゃん、がんばって」

「うんっ、アスカがんばる!ふはぁ〜」

 そう、私も頑張らないと。
 自分に自信が取り戻せたら、そうしたら…、もしかすると…。

 ド!レ!ミ!ファ!ソ!ラ!シ!ド!

「おおおっ、できたっ」

 アスカの満面の笑顔とリツコの微笑が交差する。
 しかし敢えてリツコは厳しいことを言った。

「よかったわね。でも一度だけじゃダメよ」

「とぉ〜ぜんっ。でも、も〜だいじょ〜ぶ!」

 人間はロジックではない。
 それがリツコの実感だった。
 何度も失敗してきたことがたった一度の成功で簡単にできるようになる。
 それが機械ならばわかる。
 ちゃんとしたプログラミングさえすれば機器が故障しない限りずっと同じ動きは保障される。
 だが、生身である人間はそうもいかない。
 失敗もすれば成功もするはずだ。
 でもそんな不安定な生き物である人間が一度自信を持つと、
 これまでの失敗がどうしてかわからないほどコンスタントに成功を繰り返す。
 この時のアスカもそうだった。
 ドレミもドシラも簡単に吹けるようになってしまった。
 まさに得意満面でハーモニカを吹いている。
 ところがリツコは知っている。
 その逆もあることを。
 それまで完璧にできていたことがわずかな心の動揺から失敗するようになってしまう。
 そして中には二度とできないようになってしまうことすらある。
 リツコが東京から逃げ出したのがそれだ。
 愛する男の子供、その男の子さえ許してくれるなら彼の母親になりたかった。
 そう碇シンジに願おうとした。
 だがまだ少年とも言えないような幼児は彼女を拒否したのだ。
 
 ド!レ!ミ!ファ!ソ!ラ!シ!ド!
 ド!シ!ラ!ソ!ファ!ミ!レ!ド!

 流暢にとはお世辞にも言えはしない。
 一つの音ずつにびっくりマークつきの勢いで吹かれている。
 そう、今は吹かれているだけ。
 奏でているのではない。
 しかし、リツコは思った。
 それはそう遠くない未来に叶えられるだろうと。
 つい今しがたまでハーモニカが吹けないと半ば泣き顔だったアスカなのだ。
 それがすぐ隣で顔を綻ばせながら、懸命に音を鳴らしている。
 きっとすぐに演奏できるようになるだろう。

 あら、何を演奏するのかしら。

 ふと疑問に思ったリツコは一呼吸を入れたアスカに質問してみた。

「チュ〜リップっ!」

 だそうだ。
 咲いた咲いたチューリップの花が。
 リツコは苦笑した。
 音符では出てこない。
 どうだっけ?
 いや、待て。
 あのミサトが先生になるということなのだから、彼女は音符がわかって、しかも吹けるということなのか。
 それはどうも納得できない。
 歌はともかく、楽器は自分の方ができたはずだ。
 リツコはアスカにハーモニカを借りた。
 慎重に口をつける。
 む…。
 唾がいっぱい。
 一瞬躊躇い、そして彼女はゆっくりとドレミを吹く。
 ほっとしたことに間違えず吹くことができた。
 とくに“シ”の部分では少し緊張してしまった。
 アスカを意識して。
 折り返しもちゃんと吹けた。
 
「おおおっ、さすがおししょ〜!」

 リツコは溜息混じりに唇を離す。

 さてと次は…。
 多分最初は“ド”だったはず。

 彼女は息を吹きかけた。
 ドレミ、ドレミ、ソミレドレミレ。
 ちゃんと「チューリップ」になっている。
 まずは一安心した。
 隣でアスカは目と口を丸くして感嘆している。
 先生や組の園児たちが吹けるのはアスカにとっては周知の事実。
 これまで吹いたことを見たことのない人が吹くからこそ感嘆するのだ。
 リツコは内心いささかながら天狗になって吹き進めた。
 ドレミ、ドレミ、ソミレドレミレ。

「あれ?」

「あら」

 最後はもうひとつ下がらないといけないのに、リツコは最初のまま吹いてしまった。

「ダメね、ふふ」

「はははっ、おししょ〜でもしっぱいするんだっ」

「当たり前よ。でも、これはちゃんと…」

 もう一度、唇を近づける。
 小学校一年生の音楽会で演奏することになってハーモニカで覚えた曲だ。
 その寂しげでいて懐かしい曲調がリツコの心に染み渡ったのだ。
 夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か。
 半音の出せないハーモニカだから微妙に狂ってはいるが、アスカにもその曲はすぐにわかった。

「ゆうやけこやけのあかとんぼさん!」

 リツコは目だけで微笑んだ。
 15歳で嫁に行くような姐やさんではなくがっしりとした中年に近いお手伝いさんであったが、
 仕事で忙しい母親に代わって物心ついたときにはその人に世話をされていた。
 医院と家は同じ敷地にあるのだが、母親が帰ってくるのを待っていては8時をまわってしまう。
 そこでリツコは一人で夕食をとることになる。
 お手伝いさんも家に帰れば家族が待っているため、彼女の世話をするだけだった。
 小さなリツコの楽しみはお手伝いさんに負ぶってもらって近くを散歩すること。
 そんな時に背中で聞いたのが色々な童謡で、その中に「赤とんぼ」もあった。
 その時の記憶が小学生のリツコに甦ったのだろう。
 以降、「赤とんぼ」は彼女の愛唱歌になっている。

「ねっ、うたっていい?」

「いいわ。じゃ、最初から。はい」

 アスカにかかると寂しい曲も元気一杯になってしまう。
 おそらく歌詞の“負われて”は“追われて”と誤解して彼女は唄っていることだろう。
 「まあ、いい」とリツコは思った。
 そのうちわかる日が来るだろうから。
 アスカは1番しか歌詞を知らなかった。
 繰り返し1番を繰り返すアスカの喉が少し渇き気味に聞こえたのはリツコが医者だからか。
 何か飲み物をご馳走してあげようかという提案にアスカは飛び上がって喜ぶ。

「アタシ、クリームソーダ!」

 自動販売機にあったかしら?
 120円で済まそうと考えていたリツコは苦笑した。
 
「わかった。奮発するわ」

 笑顔のリツコはハンカチを出してハーモニカをぽんぽんと叩く。
 白いハンカチにできる染みの殆どはアスカの唾液だろう。
 その少しはリツコの口にも入っているはず。
 それを見て「あ」と頬を掻くアスカ。
 リツコに渡す時に自分の唾液を拭ってなかったことに気づいたのだ。

「ごめんね、おししょ〜」

「次から気をつけてね」

 うんと頷くアスカが可愛い。
 クリームソーダを奮発してもいいかとリツコは思った。
 可愛いからではなく、幼児との付き合い方を教えてもらったお礼かもしれない。
 おそらく東京にいたときのリツコなら無意識にハーモニカをハンカチで拭いてから唇をつけたことだろう。
 その行為でどれほど相手が傷つくか考えずに。

「喫茶店、どこだったかしら?」

 立ち上がったリツコは記憶を辿った。
 アスカを連れて行くのにミサトとよく赴いた照明の暗めな喫茶店は拙かろう。
 都会と違ってファミリーレストランなど郊外に出ないと逆にないから難しい。
 やっと思い出したのがお城の近くにあるおしゃれな喫茶店だった。
 ただ問題は少し歩かないといけないこと。
 それにアスカの家の人に承諾をもらっておいた方がよかろうという常識的判断だった。

「あっかちゃん、電話番号覚えてる?」

「しんない!」

 速攻で答えが返ってきた。
 もっとも世間の狭いこの田舎町だから電話でことを済ます人間は殆どいないのも事実だ。
 困ったわねと、ひとまず河川敷に戻ったところに神の助けが現れた。
 その使者は自転車に乗って警察官の制服を着ていた。

 ききっ。

 耳慣れたブレーキ音にアスカが顔を上げる。

「あっ、ひゅ〜がじゅんさっ!」

 ぴっと敬礼するアスカにマコトも敬礼を返す。
 
「こんにちは、あっかちゃん」

 そう言って微笑みながらも職務上リツコの風体を窺うことも忘れない。

「あの…おまわりさん。あっかちゃんとお知り合い?」

「はいっ、知り合いでありますが」

 不審者ではあるまいと思ったのはリツコが美人だからか、それとも記憶の中の赤木リツコが甦ってきつつあったのか。

「電話番号わかります?これから喫茶店に行きたいんですがお家の人に連絡しておいた方がいいと思いまして」

「おししょ〜とクリームソーダなのっ!いいでしょっ」

「おししょう?」

「ふふ、そういうことになってるの。よくわからないけどね」

 苦笑するリツコだが、アスカの時代劇好きを了解しているマコトには何となく雰囲気はわかる。

「電話番号ですか。わかりますが…」

 警察官が個人情報を教えるのは拙いのではないかというマコトの逡巡はリツコにもすぐに伝わった。

「私、赤木リツコといいます。赤木医院の…」

「えっ、赤木先輩!あ、そ、そうです、そうです!すみません、今思い出しました!」

 学生時代の憧れの人、葛城ミサトといつも一緒にいた彼女。
 ミサトと違い控えめにしていたリツコだった上に10年近くマコトは彼女を見ていなかったのだ。
 即座にわからなかったのも無理はない。
 リツコの方はまるでマコトのことを記憶していなかった。
 先輩と言うからには高校か中学の下級生だとはわかったが、
 記憶力のいいリツコでも彼の顔にはまるで見覚えがない。
 こちらについても仕方なかろう。
 彼女にとってマコトはその他大勢の後輩の一人に過ぎなかったのだから。

「わかりました。本官があっかちゃんのお家に直接、お伺いして連絡するであります」

 ぴしっと敬礼するマコトの本音がキョウコへの点数稼ぎだとリツコに気づくわけがない。
 「お願いします」とリツコは頭を下げ、そしてアスカも「ぐふっ、おねがいね〜」と手を振る。
 並んで歩いていく二人の背中をしばらく見送っていたマコトは軽く首を振った。
 リツコが魅力的な大人の女であるということが健康な青年としての彼の胸をドキドキとさせたわけだ。
 そして、彼は慌てて自転車に飛び乗った。
 キョウコ以外の女性の色香に迷ったように感じたからだ。

 いかん、いかん、一にキョウコさん、二にキョウコさん、三四どころか無限大にキョウコさんだ!

 職務中だということを失念気味にマコトはペダルを踏んだ。
 まだ役所から彼女は帰っていないだろうなと淡い期待を戒めながら。
 それでも自転車は徐々にスピードを上げて行く。
 夕方にさしかかろうとする河川敷にどこからかトランペットの音が聞こえてきていた。


 




 
あっかちゃん、ずんずん 第七巻 「あっかちゃん、シの音が出せないの巻」 −おしまい−


















(あとがき)

 第七巻です。
 あっかちゃんの出番が少ない。いや、真の主役と噂されているキョウコの出番はさらに少なくなっています。
 だがしかし、お待ちかねのシンちゃんがもうすぐ登場予定。
 次回は無理ですが、その次あたりに何とかしたいですね。ただし本当にいじいじしてますが(汗)。
  

 2005.11.07 ジュン





 はい、ジュンさんからあっかちゃん第七話目を頂きました。
 明かされるミサトの過去。親友リツコとのなれそめ(別名:腐れ縁?)
 また幾つか謎や伏線が追加されたかとは思いますけれど、ちゃくちゃくと外堀は固まり、物語の骨子は整いつつあります。
 もうすぐ、いよいよ満を侍してのシンジくんの登場なはずですが、真主人公ことキョウコが黙ってはいないでしょう。
 次回あたりは、今回出番がなかったぶん、彼女の大立ち回りが見られると勝手に予想しております。うーん、楽しみ(笑)
 続きが楽しみなかた、ジュンさんに感想をメールを出してみませんか?





(2005/11/10掲載)


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