今日は待ちに待った遠足の日。
 とは言え、年少組さんはたいした遠出はしない。
 それどころか年長さんたちが嬉々としてバスに乗り込むのを指を咥えて眺め、
 ほとんどの園児が物心がついてから少なくとも10回以上は行っている場所が目的地だ。
 だが、目的地の方に文句を言っている子供は皆無である。
 彼らが羨望の眼差しで見ているのはその移動手段である。
 バス。
 そう、バスなのだ。
 月の光幼稚園には幼稚園バスがない。
 つまり歩いて通園できる距離の園児ばかりなのである。
 したがって、バスにみんなで乗るということにみんな憧れを抱くわけだ。
 しかしどんなに憧れを抱こうがアスカたちは年少組である。
 年少組はみんな仲良くおててを繋いで、お城へ遠足。
 惣流アスカと綾波レイは二人並んで先頭を行進。
 これは不思議な現象である。
 最初は前から5番目にいるのだが、しばらく歩いているうちに何故か先頭に立っている。
 別に前の子を押しのけていっている訳ではない。
 気が付いてみると先生の後ろに満面笑みの金髪の子と微笑みを浮かべている少し髪の色の薄い子がいる。
 それはいつもの事となってしまっているので、先生も注意しないようになってしまった。
 もっともこのスタイルの方が組の統率が取りやすいことに気がついた所為もあろう。
 アスカを先頭にして頑張らせるとみんな無意識についていく。
 ハーモニカの時もそうだった。
 あんなに吹けなかったアスカがドレミができるようになったのである。
 誰もが彼女は一生懸命に練習したのだとすぐにわかった。
 そして数日後にはいささか元気が良すぎるきらいはあるが『チューリップ』も演奏できたのだ。
 その時の誇らしげな顔といったらなかった。
 がんばれば結果はついてくるということをアスカが身をもって示してくれたのである。
 教師としてはそういう存在の生徒を利用しない手はない。
 見習いたる葛城ミサトに説明すると彼女はうんうんと頷いた。

「そうよねぇ、そういう子を言葉巧みに動かすのって快感だもんね」

「ミサトさん?貴女ね」

 教育者ともあろうが何たることを!と説教しようと考えた先生ではあるが、
 実際にそういう感情がないとは言い切れない。
 事実、このハーモニカの件でも「よしっ!」と一人でガッツポーズをしていた自分がいた。
 彼女は少し照れながら、それでも教育的立場は崩さなかった。

「まあ、悪い方向に導かないことが肝心ね。わかる?」

 そこが一番不安なのだが、とミサトの笑顔に苦笑する。
 もっとも、天衣奔放のようで意外に基本路線は外していない。
 そこは羨むべき素質というものかもしれない。
 彼女は来年に先生デビューする予定の現在の生徒兼未来の園長への教育へ更なる意欲を燃やすのだった。



「待ったぁ、そこでストップ!信号が点滅してるわよ!」
 
 大仰に両手を広げて立ちふさがるミサト。
 もちろん、彼女は先頭ではない。
 そこまでの大役を任せるほどの信頼はされていないわけだ。
 もとより教師ではないのだから対外的にも問題だからなのだが。

「わかっとるって。もうとまっとるわ」

 歩行者用信号を横目で睨みながら鈴原トウジが嘯く。
 本来ならこの少年がガキ大将としてこの組で君臨してもおかしくないのだが、
 どうも彼にはその気がないようだ。
 ミサトにはわからなかったが、どうやらこれは遺伝のようだ。
 女刑事鈴原エツコは非常に有能だが上に立つのを嫌がっている。
 現場に出たいというのがその本音なのだが、基本的にボスになりたいという気持ちがまったくないということもある。
 因みに彼女の名誉のために言っておくが、鈴原刑事の同僚後輩への面倒見はとてもいい。
 また彼女曰く情けないというご主人の頭を押さえ込んでいないことも確かだ。
 以上がそんな母親によく似ているといわれるトウジくんの遺伝的素養というものだ。
 さて、そのトウジくん。
 手を繋いでいるのは友人である相田ケンスケではない。
 先生は男女で手を繋がせていないのだが、なんとひまわり組は女子は奇数なのだ。
 しかも今日はその大人であればお神酒徳利とでも言われたであろうケンスケが遅刻が確定だったのだ。
 何故ならばその前日が大安吉日の日曜日。
 ケンスケにとっては叔母さんに当たる、母親の末の妹が目出度くも華燭の宴という運びになったのだ。
 当然両親は出席する必要があり、父親は勤務先に欠勤届を提出した。
 一人息子のケンスケも幼稚園をお休みするはずだったのだが…。
 その日が普通の月曜日なら彼も駄々をこねなかっただろう。
 だが、今日は遠足。
 結局、相田家の3人は夜行で帰る羽目になった。
 それでもこの田舎町に直通の夜行はまったくない。
 一番近い大都市に朝6時30分に到着し、そこから乗り継いで2時間45分。
 お城に直接連れて行きます、と母親が先生に連絡することになったのである。 
 さて、そんな理由でこの朝は男子も奇数になってしまった。
 そしてあぶれたのはいつもケンスケとコンビのトウジだった。
 先生は女子の中からすぐに3人の候補を選出する。
 アスカにレイ、そして洞木ヒカリだ。
 トウジの個性に対抗できる強固な意志を持っている女の子はひまわり組にはこの3人だけである。
 アスカがそういう意味では一番よさそうなのだが、どうみても二人には一触即発というイメージが強い。
 しかも口喧嘩にとどまらず取っ組み合いにまで発展する可能性も高いのだ。
 こうしてまずアスカが選に漏れた。
 次はレイ。
 おそらくはクラス一強情で頑固な子だろうというのは、園内での統一見解である。
 そういう意味ではトウジの首根っこを押さえるという点で最適かもしれない。
 ところが、そのレイ。
 いち早く危険を察知したのだろう、もうすでにアスカの傍らでその手を一生離すものかという雰囲気たっぷりに立っている。
 おまけにどうかしらと言わんばかりに選考中の先生に微笑みかけている。
 どうしようかしら、この手を無理矢理外させればとんでもないカタストロフが待っているような予感がする。
 少し弱気になった先生がその近くに立つ少女を見やる。
 あ〜あ、またレイちゃんにアスカちゃんを獲られちゃった…とそれでも笑って見ているヒカリである。
 トリオで一人あぶれている上に、責任感が強く、さらに先生の言うことはとてもよく聞く。
 こうした経緯で今、トウジと手を繋いでいるのはヒカリだったのだ。
 そしてその彼女はトウジの照れがわからない。
 もちろん男女の差や違和感というもの、身体の構造が異なるものへの無意識な嫌悪感というものはある。
 だが、まだ5歳だ。
 先生に手を繋ぎなさいと言われれば、そのことにそれほどの反発を感じてはいない。
 だが、鈴原トウジ。
 ガキ大将的風貌でいながら、実は意外に男女間の意識については機敏だ。
 それがどこから生まれているかというと、当然両親からである。
 豪快な母親と少し情けなげな父親。
 父の方は多くを語らないが、母は喋る。
 よく喋る。
 トウジが赤ん坊の時からまるで子守唄のように聞かされてきた。
 齢5つの幼児にして、彼は両親の馴れ初めから結婚に到るまでの経緯を諳んじている。
 そんな彼だから運命の赤い糸で結ばれた男と女は大人になったら結婚するものと了解していた。
 それに彼は冗談半分で母親に尋ねてみたのだ。

「そやかてそのうんめ〜のあかいいとって、だれにもみえへんのやろ?
 おかんはみえたんか?」

 エツコは大真面目な顔で言ったものだ。

「そんなん見えるわけないやろ、アホか。かみさん(神様)だけに見えるんや」

「ほな、なんでおとんがうんめ〜のあいてやってわかるんや。へんや、そんなん」

「アホ。びびぃ〜んと来たんや。お父ちゃんと手が触れたときにな」

 エツコは愛しげに自分の右手を見る。
 歩道の縁に座ってひん曲がってしまったトランペットを情けなさそうに見ていた青年。
 犯人逮捕の礼を言っても生返事で座り込んだまま。
 「ほら、立たんかいな」と手を差し伸べる。
 そのエツコの右手を彼は無意識に掴んだ。
 その瞬間だ。
 エツコのハートにびりびりっと来たのは。
 因みに彼女の夫は、「あれは静電気やで」とにべも無い。
 だがエツコは絶対にそうではないと言い張る。
 その証拠はというと、今自分が幸せだからだと。
 
「それともあんたは不幸せやと言うんかぁ?」

 ヤクザをも一瞥してびびらせるその眼光を夫に向ける。
 気弱な彼はそっと俯く。
 そしてそれはそれは小さな声で言うのだ。
 
「そんなことあらへんで。ごっつい幸せや」

 ごつん。
 エツコの愛情表現は直接的で肉体的だ。
 
「なんで、そないにちっちゃい声なんよっ」
(どうして、そんなに小さな声なの?)

「いたいなぁ、暴力反対や」

 妻に拳固でこんと叩かれた頭をさする夫。
 子供の目で見ていても実に情けない姿だ。
 あんな男にはなりたくない。
 トウジは大好きな“おとん”ではあるのだが、
 こと夫婦の間のことになると“おかん”に頭の上がらない父親に幻滅していたのだ。
 但し、彼は知らない。
 相手にぞっこん惚れこんでいるのは“おかん”の方なのだ。
 そういう夫婦の機微が理解できるほどトウジ少年は聡明でもなければオマセでもない。
 もっともそんなことができる幼稚園児は気持ち悪いと思われるだろうが。

 さて、トウジ。
 少なくとも彼は二つのことを了解していた。
 夫婦となるべき男女は赤い糸なるもので結ばれているということ。
 その相手と接触した時に“びびぃ〜ん”と来ること。
 そして、トウジは決意した。
 そういう相手が現れたら“おかん”のように豪快に男らしくふるまうのだ。
 この決意を知ればエツコは物凄く怒っただろうが。
 誰が男らしくやねん!と。

 さて、再びトウジ。
 実は女の子の手を握るのはこれが初めてである。
 無論、物心がついてからだ。
 赤ちゃんのときは親戚やその他たくさんの異性にその小さな紅葉のような手を触られていたことだろう。
 だがその後は母親くらいである。
 合気道の心得のあるエツコの手は女性である彼女には悪いがいささかごつい。
 その少し男らしい掌の感触を女性の手のそれと認識していたトウジにはそれは物凄いショックだったのだ。

 それというのは、ヒカリの手である。

 な、なんや、これ。
 めちゃくちゃ、やわらこうて、おもいきりにぎったらつぶれてしまいそうやんか。
 うへぇ、こんなんあかんで。
 
 丁度その時、神様が悪戯をした。
 そう、アスカを使って。
 丁度雲の影に入っていたお日様が顔を覗かせた。
 今日に照らし出された強い光が傍らに立っていたアスカの紅茶色の髪の毛に反射したのだ。
 しかもその時、アスカは帽子を脱いでいた。
 その上、お城への遠足の楽しみにぴょんぴょん飛び跳ねていたのだから堪らない。
 ヒカリの掌の感触に戸惑い、お日様に目がくらみ、さらにその目の前を赤めの髪の毛が動き回っていたのだ。
 トウジは思った。

 あかいくものすや!いとなんかやあらへん、わわわわわっ。
 
 だがその妄想も一瞬瞑った目を開けると、それはもうどこにも見えない。
 あんなに一杯見えた赤い糸の断片でさえも。
 
「どうしたの?」

 乱暴な男の子は嫌いだと思っているヒカリも、彼のおかしな様子にはつい優しい言葉をかけてしまう。
 目をぱちくりさせているトウジは改めて彼女の顔を見る。
 その時、恋が芽生える。
 わけがない。
 ただ彼の心にあの猛烈な赤い糸の群れとヒカリという存在は強烈に植え付けられたのは確かだ。
 この後、女を女とも思わず横柄な態度を示す彼が何故かヒカリにだけは頭が上がらなくなっていく。
 その原因は実はこの時にあったのである。
 むろん、そんな先の話はトウジにわかるわけがない。
 今を生きることに一生懸命。
 子供はそれでいいのだ。





 さて、娘アスカが背後の二人を赤い糸で絡めてしまったことなど露知らず、
 惣流キョウコは今日も市役所で仕事に励んでいた。
 英文やそれに近いように見える言葉…ドイツ語やフランス語、スペイン語にロシア語。
 とにかく西洋風の文字で綴られた手紙やメールは彼女の元に届けられる。
 
「課長!私が読めるのは英語とドイツ語だけです!フランス語でも辞書片手なのに…」

 キョウコが手にしているのはプリントアウトしたオランダ語。
 
「あ、そ、それは、アレだ。ほら、オランダはドイツのお隣さんじゃないか。ええっと、そうだよね?」

「じゃ、課長は日本のお隣さんの言葉を読み書きできるんですか?」

 腰に手をやって課長の席の前で仁王立ちするキョウコ。
 まわりの職員は笑いを堪えている。
 このキョウコの抗議は今回が初めてではない。
 何故ならば、キョウコの机の背後。
 そこはもともと共有ファイルの保管ロッカーだった。
 その一段を占有しているのは彼女が使用している辞書たち。
 得意な英語、ドイツ語はもとより、訳さねばならない言葉が増える度に辞書の数も増えていく。
 すっかり頭が薄い課長はお得意の愛想笑いで怒れるキョウコの機嫌をとろうとする。
 
「すまんっ」

 手を合わされてしまうキョウコ。
 これもいつものことだ。

「私は仏様でも観音様でもありません」

「頼むっ、では、マリア様」

「私の名前はキョウコです。もう…」

 キョウコは苦笑する。
 今回もこれくらいでいいだろう。
 同僚の中にはよくあそこまで言うわねぇと感心されているが、
 彼女の育った国ではこれくらいのことは当然だと思っていた。
 そうでなくては仕事など、いや生活自体ができない。
 日本にやって来て一番不快で不可思議だったのが、この曖昧さである。
 すべてに亘ってではない。
 計画を立てそれに沿った行動を取るのは、母国ドイツに引けを取らないくらいの素晴らしい能力が
 日本人にはあるとキョウコは思っている。
 だが、その計画外のことが起きると急にいい加減になる。
 キョウコの職場でもそうだった。
 惣流キョウコの立場というと、市観光課臨時職員である。
 正式な公務員ではないわけだ。
 だが、この小さな市にとっては彼女の存在は稀有なものなのだ。
 英語を話す職員は確かにいる。
 だが彼女のように流暢なわけではない。
 しかもキョウコはどう見ても白人女性。
 そこが大きなポイントなのだ。
 大都市には姉妹都市との交換職員といった形で外国人の職員がいるところがある。
 だがこの街には姉妹になってくれるような都市がない。
 お城はあるがわずか二層の小さな天守閣。
 江戸時代の姿そのままに残っているのは嬉しいことなのだが、
 逆にそれがネックになって再建が出来ない。
 もとは五層の大天守閣だったのだが、江戸時代中期に落雷により焼失。
 財政難に苦しんでいた、この藩は再建するつもりはなかったのだが、
 幕府から元通り五層の天守を作れと命令が下った。
 明らかに金を使わせて弱らせようという魂胆が見え見えなのだが逆らうことは到底できない。
 そこで何とか手づるを使い五層から二層まで引き下げることに成功したのだ。
 時の江戸家老はそのことで胸を張っていたのだが、
 報告のため藩に戻った時に“お天守騒動”なる事件が起きた。
 今、遥か昔の話を詳しく述べても仕方がない。
 いずれお話しするときが来ると思うので、ここでは現在のお城の天守閣はわずか二層しかないということだけを了解していただければよい。
 問題はその天守閣なのだ。
 何も国宝白鷺城や大阪城、名古屋城といった贅沢は言わない。
 せめて松山城や和歌山城、犬山城くらいの規模でもあればそれでよい。
 いや、寧ろ何もなかった方がよかった。
 維新の際に天守を潰しておけば、戦国時代の五層に似せた天守閣を建立できたのだ。
 現にそうやって新しい天守閣を作っている町は多い。
 それでお城を目玉に観光収入で大いに潤うことも可能だった。
 だが、しかし現実に本丸には二層の天守閣が存在する。
 しかもそれは重要文化財に指定されているのだ。
 もっと立派で派手なお城に化粧したくても不可能。
 閑静な城下町を売り物にしてそこそこの観光客を誘致するしか手はなかったのである。
 それがこの街の現実だった。

 さて、キョウコである。
 いくら旧家にして市役所でそれなりの要職にあったトモロヲの孫とはいえ、
 彼女が臨時職員に雇われたのはその能力が秀でていたことに他ならない。
 それに市長の方針とも一致していたことも幸いした。
 城を新装も改装もできない以上、ゆったりと過ごせる城下町としてアピールする。
 国内はもとより海外からの観光も積極的に取り入れようとしたのだ。
 何故ならば、外国人も観光に来るような場所であれば、日本人もそれにつられてこの町にやってくる可能性が高いからだ。
 そういう計画を打ち立てていたとき、突然現れたキョウコの存在は市上層部からすると渡りに船。
 何より貧乏な市なのだから、容姿が白人で英語とドイツ語ができ、さらに日本語が堪能なのである。
 そして何と言っても、美人だ。
 母子家庭だというのに生活にやつれてもいない。
 イメージガール…というには少し年嵩だが、彼女なら十分被写体になる。
 観光パンフレットにもキョウコはモデルとして引っ張り出されることにもなったし、
 実は娘のアスカもそのパンフレットには何枚か登場している。
 外国人の客が市役所に来ればその通訳もする上に、ガイドもしないといけない。
 惣流キョウコは貴重な戦力なのだ。
 
 ただし、そんなきらびやかな仕事が毎日続くわけがない。
 去年一年でキョウコが通訳をしたのは僅か三回。
 パンフレットの撮影だって1週間もあればおつりが来る。
 されば残りの時間は何をして働いているかというと…。
 役所に舞い込んで来る英語やその他の西洋文字で書かれた手紙やメールの翻訳。
 これがけっこう多い。
 そして他の課の職員からの質問。
 パソコンのソフトウェアが英語表記で何が書かれているのかわからない。
 水道局や警察から、英語の通訳の依頼。
 まさに便利屋である。
 
 しかし、キョウコは楽しかった。
 帰宅してもまだ堪能ではない言葉の勉強も怠ってはいない。
 口では不平を漏らすが、いや態度も口について回ってはいるのだが、
 彼女は毎日の仕事が面白く、そして嬉しかった。
 ドイツにいた時は、日本の高校に当たるギムナジウムを中退していた彼女にろくな仕事はなかった。
 そこは進学のための学校であり、そしてキョウコは日本人との混血だったからだ。
 そのため彼女はなかなかいい仕事に就くことはできなかったのである。
 何故中退したかというと大学生の男と同棲したからだ。
 結婚の前に同棲するというのは別にドイツではそう珍しいことではない。
 結婚を焦って後に離婚などすると慰謝料など面倒なことが多いからだ。
 一緒に暮らしてみてうまくやっていけるかどうか試してみる。
 アスカの父親は普通にそう考えていた。
 だが、キョウコは違った。
 彼女はその男に夢中になっていたのである。
 試しになどという軽い気持はひとつもなかった。
 だからその男を繋ぎとめるためにわざと安全日でピルも飲んでいるのだと嘘をついたのである。
 その結果、計画通りに新しいいのちが胎内に宿り、計画とは大きく異なりキョウコの元から男は去った。

 市役所はお城のすぐ近くにある。
 課長に許可を貰ってキョウコは庁舎から外に出て、堀の傍をゆっくりと歩いていった。
 遊歩道を歩いているうちに憤慨はどこかへ消えてしまっていたのである。
 彼女は足を止めた。
 そういえば、今日はアスカがお城に遠足だと言っていたではないか。
 きょろきょろとお城の石垣やを見渡したが、子供の姿は見えない。

 まだこちらに向っているところかな?
 
 キョウコは無意識に欠伸をして、慌てて周りを見渡す。
 運良く誰にも今の大きな欠伸は見られていないようだ。
 今朝はアスカの望むようにお弁当を作った。
 そのために先日はレイのお祖母さんに弟子入りまでしていたのである。
 それはアスカの一言がきっかけだった。

「あのね、レイちゃんのおべんと〜にはかわい〜たこさんがいるの」

 蛸!おくとぱす!でびるずふぃっしゅ!
 
 さすがのキョウコも未だに蛸だけは苦手だ。
 アスカのように生まれてからずっと日本で育ったわけではない。
 まだ5年余りなのだ。
 これまで食べたことのなかった日本食も頑張って食べ、そして調理もできるようになっていった。
 だが、蛸だけはダメだった。
 お寿司を食べてもにぎりの皿の中で蛸だけは箸をつけない。
 いつもアスカに食べてもらっているのだ。
 「すききらいはいけませんよ〜」とからかわれながら。
 但しアスカは蛸のにぎりは大好きなので、しっかり口の中に入れてしまうのだが。
 それでもトモロヲが蛸の酢の物を食べたかろうと、
 背筋に悪寒を走らせながら蛸を調理しているところはキョウコはやはり負けず嫌いだった。
 出来合いのものを買わずに調理しようと頑張るところが彼女らしいところなのである。
 それでも彼女はそうやって苦労して作った酢の物でさえ蛸だけは食べない。
 彼女の前の小鉢の中には胡瓜しか入っていないのである。
 そんなキョウコだから、お弁当の中に“たこさん”が入っているということにかなり驚いた。
 しかし、よく話を聞いてみるとその蛸は赤いそうだ。
 “たこさん”の正体はわかった。
 だが、キョウコの作る“たこさん”は4本足になってしまう。
 それにアスカにこんなのではないとダメ出しをされた。
 困ったキョウコはサンプルを何とか持って帰ってくるのだと娘に命令。
 数日後、アスカはレイに貰った“たこさん”を弁当箱に大事に保管して帰還した。
 それを見たとき、キョウコは思った。

 日本の匠の技。

 鉢巻に、蛸の顔もちゃんとあるではないか。
 負けるものか!
 キョウコは燃えた。
 そして一時間後に赤ウィンナーの在庫が切れるとともに、彼女は不完全燃焼のまま燃え尽きてしまった。 
 だが、それであきらめてしまうようなキョウコではない。
 そして、彼女は碇ハルナに急遽弟子入りしたのである。

 ふふふふふ。

 堀端でキョウコは不敵に笑った。
 アスカ、驚きなさいよ。
 “たこさん”だけじゃないわよ。
 今日のお弁当には秘密兵器が入ってるんだから。




 マコトは溜息を吐く。
 もう何度目の溜息だろうか。
 もちろん傍らのシゲルはその回数を数えるほど暇人ではない。
 
「おい、いい加減にしてくれないか。部屋の中がお前の溜息で充満しそうだ」

 親友の嫌味にも日向マコトは溜息で応じるだけだ。
 青葉シゲルは首を左右に振ると饅頭に手を伸ばす。
 この饅頭はマコトの手土産だ。
 お供えという名目だが、ご本尊に供えられた例はない。
 ことごとくシゲルの腹の中に納まってしまうのだ。
 文句を言っても結果は同じことだと笑い飛ばされるだけ。
 このつるつる頭の親友に口で勝つことはまず不可能だ。

「で、なんだ?せっかくの非番をお供え付きで俺の顔を拝みに来たわけか」

 言い返す気力もないようで、マコトはただ膨れっ面で饅頭を手にした。

「市役所に行くとかすりゃあいいだろうが」

「用事がない」

「馬鹿か」

 いつものクソ真面目な返答に、いつもの簡潔な感想。
 シゲルは天井を仰ぎ、そしてすっと立ち上がった。
 
「こら、おまわり」

「なんだよ」

「出ていけ」



 饅頭を口に頬張ったまま、マコトは龍巌寺から追い払われた。
 こんなところで愚痴を言っていても何の進展もない。
 市役所に行けないのなら街をぶらつけ。
 ここにいるよりは何かが起きる可能性があるではないか。
 シゲルは厳かにそう言っていた。
 マコトを足蹴にしながら。

「俺は犬かよ。まったく」

 犬も歩けば棒に当たると言うではないか、はっはっは。
 山門で豪快に笑った坊主頭へマコトは「クソ坊主」と捨て台詞を残し町の方に歩き出したのだった。
 だが、言葉や態度はともかく親友の説はもっともだ。
 それはわかるのだが…。
 かと言って、用もないのに市役所へ行くなどできるわけがない。
 マコトは真面目すぎるのである。
 だが、しかし。
 用もないのに市役所に現れるような男であるならば、キョウコは挨拶もしてくれなかっただろう。
 が…。
 会いたい。
 その気持は時間を追うごとに強くなるばかりである。
 
「本屋でも行くか…」

 マコトといえば自転車が相棒のようだが、非番の時は彼は歩くことにしている。
 急ぐ必要はどこにもないからだ。
 この町の時間はゆっくりと動いている。
 そのことはマコトにはよくわかっている。
 この町で生まれ、育ち、働いているのだから。
 そして、悲しいことに彼にはその時間の流れが早くなっていくことがなかった。
 楽しくて、嬉しくて、流れていく時間が惜しくなるような日々はやってきてない。
 もっともそうは言っても彼が不幸ということは決してない。
 父親を亡くしてはいるが、母との暮らしは幸福だ。
 だが、彼は知っている。
 その暮らしはあともう少しで終わることを。
 先だってのゴールデンウィークに帰省してきた兄に頼まれたのだ。
 会社を辞めてこの町で仕事を始める。
 できれば住居の資金を浮かしたいのでこの家に住みたいと。
 「義姉さんはそれでいいって言ってるのかい?」とマコトはまず嫁姑のことを気にした。
 警察には寮があるから大丈夫だと彼は笑った。

 母親と二人だけでいるよりも甥や姪が賑やかな家の方がいい。
 何よりも孫と一緒に暮らせてお袋も喜ぶだろうな。
 
 素直にそう喜ぶ弟に兄は頭を下げたのである。
 兄たちが引っ越してくるのは夏から秋にかけてらしい。
 何も出て行かなくてもと母は言ってくれたが、
 甥たちに子供部屋を提供しないと叔父として面目が立たないじゃないかとマコトは冗談交じりに返した。
 
「それよりも、義姉さんをいじめるなよ」

「私はそんな鬼じゃありません」

 そう膨れっ面をする母親はまだまだ若い。
 それに若かりし頃は横丁のマドンナだったらしい。
 確かにその当時の写真を見れば実の息子でも綺麗だなぁと思うくらいだ。
 ただし、彼の心の大半を占めている金髪の女性には比べようもないのだが。
 マコトの母はまだ50をほんの少しだけ過ぎただけだ。
 もっとも彼女は永遠の49歳らしいが。

「それより、マコト。あなた、いい人はいないの?」

「うるさいな。今は仕事でそれどころじゃないんだよ」

 大嘘つきである。
 惣流キョウコは決して彼の“いい人”ではないが、できることなら是非ともそうなっていただきたいと熱望している。
 
 そんなことをぼけっと考えながら、マコトは町を歩く。
 日差しは柔らかく、心地よい。
 ずっとこの町に住んでいる所為だろう。
 大きな道を使わずに無意識に路地を縫って歩いている。
 ふと彼はアスカのことを思い出した。
 こういう路地をずんずんと歩いているアスカのことを。
 その瞳はいつもキラキラと輝いている。
 歩いて行く先に何か面白いことがあるのではないかと。
 そう言えばずっと小さな頃。
 シゲルたちと町を駆け回って遊んでいたではないか。
 その時は、見慣れた町も毎日何か新しいものが見つかったような気がする。
 今はどうだろう?
 新しいことよりも懐かしんで見ることの方が圧倒的に多い。
 それが年齢を重ねるということなのか。
 まだ24歳だというのに随分と爺むさい考え方だとマコトは苦笑した。
 そして思いついた。
 視線の変化かもしれない、と。
 小さな子供は当然下から見上げる。
 そこが違うのではないか。
 マコトはその場にしゃがんでみた。
 確かに違うなぁ、と彼は周りを見渡した。
 いつもは何てことのない塀が覆いかぶさってきそうに見える。
 路地の向こうもそれほど先まで見えない。
 確かにこの先に何かありそうに感じるのもありそうなことだ。
 で、今の自分はどうなのだろうか。
 わくわくするような何かが期待できるのか。
 マコトはぽりぽりと頬を掻いた。
 自分にとっての何かというと、キョウコ以外の何があろう。
 目を落とすと石畳を横切って蟻が行進をしていた。
 食べ物を運んでいるものもいれば、手ぶらのものもいる。
 手ぶらで帰って女王蟻に叱られないのだろうか。
 立っていた時には蟻たちの存在にまったく気が付かなかった。
 彼はしばらくその行進を眺めていた。

「お腹痛いの?日向巡査」

 その声が誰かという認識よりも、見上げた時の印象の方が遥かに強かった。
 太陽を背にして、煌く金髪。
 逆光で表情は見えないが彼にとって世界で一番美しい人。
 その人が目の前に立っている。
 マコトは声が出なかった。

「あら、本当に痛かったの?大丈夫?」

 これは幸運だった。
 ただあまりに予想外の出来事にマコトの思考は上手く働かない。
 無言でいる彼の様子をいぶかしんだキョウコはすっと蹲った。

「日向さん?」

「あ、あの」

「はい」

「足…」

「足?」

 下着でも見えているのかと咄嗟にキョウコは思った。
 市役所の制服で歩いてきたのだが、ちゃんとスカートの裾を挟んで蹲っている。
 膝もきちんとくっつけていた。
 変な格好ではないはずだが?と彼女はマコトを見る。
 その彼は少し頬を赤らめて、そして指をさした。



「ふふっ、何かと思えば蟻なの?」

 人気のない路地で大人が二人、頭をくっつけるようにして蹲っている。
 かなりシュールな光景だ。

「まるで、アスカみたい」

「ああ、そうですね。あっかちゃんもよく蹲って何かを見てますよね」

「ただ、あの子は堪え性がないの。
 すぐに飽きちゃってね。棒で蟻を進行妨害しようとして、レイちゃんに叱られたりしてるのよ」

 マコトは笑った。
 いかにもその場の情景が浮かんできそうだ。
 ちがうわよっありさんをいじめようだなんておもってないわよっちょっときになっただけよっ。
 精一杯自己弁護するアスカにレイがたった一言。
 めっ。
 
「あら、その笑いって…。日向巡査ってもしかして、アレ?」

「アレ?アレって何ですか?」

「ロリコン」

 愛する女性にあらぬ嫌疑をかけられたマコトは真っ赤な顔で反論した。
 自分は断じてロリコンではない、と。

「へぇ、そうなんだ。じゃ、どうして笑ったのかなぁ」

 明らかにからかわれているとわかっていた。
 それでも反論したくなるのはどうしてだろうか。
 マコトはしどろもどろになりながら、自分がいかに品行方正かと主張する。
 そんな彼をキョウコはにこにこ笑いながら見ていた。
 もちろんその笑顔を彼は直視など出来るわけがない。
 視線の殆どは蟻たちに向けられ、その視界に見え隠れする彼女の膝小僧にはっとする。
 慌てて顔を上げキョウコの笑顔にぶつかり、再び目を落とす。
 品行方正どころか不審この上ない。
 彼はまったく気づいていなかった。
 そんなマコトをただ笑って見ている彼女が彼の思いに気づいていることを。

 ドイツではもててなかったキョウコだったが、来日してからは美人だ美人だともてはやされている。
 デートや飲み会の誘いは市役所の職員からだけではない。
 彼女はそういう類の誘いを受けるたびに子供をダシにして断ってきている。
 中には娘さんも一緒に遊園地に行きましょう、などと思い切った誘いをかけてきた者もいたが、
 キョウコは断固として断っていた。
 無論その中にはキョウコの目から見てもカッコいい男もいたのは確かだ。
 彼女の心が動いたこともある。
 ああ、デートかぁ…と、アスカを身ごもる少し前からご無沙汰のデートに夢見る。
 まだ25歳なのだ。
 異性との交遊を考えて何が悪かろう。
 だがそれでも彼女は思いとどまっていた。
 その意識の表面上はアスカのことが建前になっていた。
 ただキョウコが踏み切れないのは潜在的な恐怖心からだったのだろう。
 男性が怖いのではない。
 いつかは捨てられるのではないかという恐怖心だ。
 この日本でのもて様から考えるとそれは杞憂なのではないかとも思うのだが、
 そのもてはやされ方があまりにドイツとは違いすぎる。
 結局は自分の容姿が日本人の好みだということだけなのじゃないか。
 そういう結論に到ってしまうキョウコなのだ。
 彼女としては心も身体も両方愛してもらわないと不安なのだ。
 もっとも彼女の重々承知しているのである。
 交際もしていないのに彼女の心まで愛せるわけがないではないか、と。
 それでもこの町で大人気の金髪美人は試すことができない。
 何故?
 話は簡単だ。
 恐れを抱く自分の心を打ち消して相手に向っていく勇気がないから。
 つまりそんな勇気を奮い起こさせてくれるような相手が現れていないだけの話なのだ。
 そう、彼女は理屈立てていた。
 
 そういうことにしておこう。
 
 さて、路地に蹲っている青年と金髪女性である。
 何度も言うが実にシュールな光景だ。
 青年の方はやがて一世一代の言葉を吐こうと決意した。
 間違いなく、親友に「出て行け」と言われ寺から…家だが…追い出されたことが影響したのだろう。
 彼は口を開いた。

「あ、あっかちゃんたちを見て、笑ったのは…」

 ごくりと唾を飲み込もうとしてからからの喉に気が付く。
 マコトは蟻の行進を見つめた。
 こんなこと、とてもキョウコの顔を見てなど言える筈がない。
 
「あ、あんな可愛い子の父親になってみたいなぁ…、な、なんて、思ったようなわけで」

 なんて、より後の言葉はかなり早口になってしまった。
 沈黙が周囲を支配する。
 大胆な発言でキョウコは驚いているのだろうか。
 それとも怒っているのだろうか。
 もしかするとこれでもう二度と自分は愛する人と話ができないのではないだろうか。
 なんてことを言ってしまったんだ、この俺は。
 マコトの心は千々に乱れた。
 
「日向巡査…」

 顔を上げなくてはならない。
 宣告の時が来た。
 キョウコの落ち着いた声はまったくその内容を予測させなかったのだ。
 青年の心は後悔と恐怖に包まれている。
 彼は精一杯の勇気を奮い起こして、その顔を上げた。
 キョウコは…、青い瞳の麗しの君は、素晴らしい笑顔で微笑んでいた。
 マコトは予期せぬ…いや、熱望していたが到底叶えられぬ展開と言い直そう…、
 そんな彼女の笑顔に舞い上がってしまいそうになった。
 そう、なっただけだ。
 頭から冷水をかけられたも同様だったから。

「そうねぇ、レイちゃんって可愛いものね」

 違います!
 人違いです!
 本官が言ったのは、屋敷町一丁目二十三番の惣流アスカちゃん、通称あっかちゃんのことなんですよぉっ!
 
 マコトの心からの叫びは言葉になっては出てこなかった。
 それはこの場合、結果的によかったのだろう。
 
「何しとるんじゃ、こんなところで?」

 嗄れ声がすぐ傍でした。
 二人は呼吸を合わせたようにその方向を見た。
 怪訝な表情の皺だらけの顔がそこにあった。

「あっ、長谷川さんの大おばあさん!」

「何じゃ?わしをしっとるあんたは…おお、おまわりさんではないかいの」

 仏頂面は変わらずに腰の曲がったお婆さんはマコトの正体を見抜いた。
 急には立てないものだ。
 しかも相手の顔が同じ高さにある時は。
 マコトは蹲ったまま、さっと敬礼を返した。

「はい!日向巡査であります!」

「今日は…仕事かいな」

「いえ、非番であります」

「休みか。で、その休みに何をしとるんかいな、こんなところで?」
 
「そ、それは…」

 マコトは口ごもった。
 愛の告白に類したことを言ったのですが勘違いされてしまいました。
 そんなことを言えるはずもなく、また気の利いたことを言って誤魔化すこともできない。
 実に無器用な男だ。
 いや、彼の場合は不器用と言うよりもシゲル流にクソ真面目と言った方がいい。
 目を白黒させているマコトを面白そうに見ていたキョウコはさっと腰を上げた。
 その動きにお婆さんも首を曲げる。

「これはまた…大きい外人さんじゃないか。女優さんかいの?」

「まあっ」

 そう言われて嬉しくないわけがない。
 キョウコは少し気取って微笑んだ。

「違いますよ。惣流さんの…えっと」

 何と紹介すればいいのだろうか。
 お孫さんです、でいいのか。
 
「あっかちゃんのお母さんです」

 咄嗟に出たのがこれだった。
 だがこのお婆さんにはこれで大正解だった。

「おおっ、あっかちゃんの。これはこれは、そう言えば、あっかちゃんによく似ておるわい」

「おばあさん?あっかちゃんがお母さんに似ているんですよ」

「あっかちゃんはのぉ、よくわしとお喋りしてくれるんじゃ。いい子じゃ、本当にのぉ」

 すっかり柔和になったお婆さんに娘を褒められキョウコは嬉しくなる。
 が、それと同時にいやな予感がした。
 先日の夕方、アスカがぶすっと膨れた顔で帰宅したのだ。
 どうしたのかと訊いてみると知らないお婆ちゃんに捕まって離してくれなかったらしい。
 ずっと話相手をさせられていたそうだ。
 トモロヲと暮らしていることもあり、また自分もお年寄りには親切にしなさいと教えている。
 その教え通りにアスカは振舞ったのだが、その結果はずっとそのお婆さんの話を聞かされたこと。
 「アスカ、こんなかおになっちゃったんだよっ」と固まった笑顔をして見せたアスカを思い出した。
 その時はいいことをしたのよと娘をたしなめたキョウコだったが、いざ自分がその被害を受けるとなると話は別だ。
 何故なら彼女は勤務中。
 オランダ語の辞典を購入に本屋に向っている途中なのだ。
 少しくらいの道草なら大目に見てくれようが、2時間は拙い。
 非常に拙い。
 キョウコはアスカの愚痴を必死に思い出した。
 相手のお婆ちゃんの名前がその中に出てきたはずである。
 そして、その名前を記憶の古池から何とかサルベージできた。

「ちょっと、日向巡査?」

 小声で囁くキョウコにマコトは顔を上げた。
 まだ彼は蹲ったままなのである。

「このお婆さんの名前は…もしかして、かおるさんって言うんじゃ…」

「あっ、ご存知だったん…」

 ですか、まで言葉は発することはできなかった。
 
「ありがとうございます!では、失礼します!」

 大きく頭を下げるとキョウコはマコトの手を掴んで引っ張り上げた。
 だらしなくも「わっ」と悲鳴を上げて立ち上がるマコト。
 
「行くわよっ、日向巡査!」

 マコトはお婆さんに何の挨拶もできなかった。
 ただ手を引っ張り走って行くキョウコの背中を追い、途中で首を捻じ曲げて不自然に頭を下げただけだ。
 疾風のように去っていった二人を見送って、お婆さんは口をぽかんと開けた。

「まったく、最近の若いもんは…。落ち着きがないのぅ」



 掌が熱い。
 思えば、これが初めての肉体的接触だと言える。
 これまでも案内プリントを渡した時に軽く指が触れたことはあったが、
 こんなにしっかりとキョウコの身体に触るなど信じられない。
 あのお婆さんが妖怪のように追いかけてでも来るかのごとく、キョウコは走った。
 手を繋がれているマコトもそのスピードに合わせて走るしかない。
 できることならこのままずっと手を繋いでいたいのだから。
 女性に引っ張られるようにして走るなど考えようによってはいささか情けないかもしれないが、
 この時のマコトにそんな考えは一切入り込む余地がない。
 このままどこまでも二人で走っていきたい。
 ただそんなことだけを考えていた。

 時間にして30秒足らずの幸福だった。
 路地を二つ抜けるとそこは商店街。
 はぁはぁと息を弾ませてキョウコはマコトを振り返った。
 その瞬間、彼女の白い手は彼の掌からすっと離れてしまった。
 思わず「あ…」と漏らしそうになり、マコトは慌てて咳払いをする。

「危ないところだったわねぇ」

「ええ、あのお婆さんに捕まったら大変なことになっちゃうんですよ」

「あら、日向さんも捕まった事があるの?」

「ええ、何度か…。それはもう喋りだしたら止まらないって…」

 マコトはその時、物凄い違和感を感じた。
 それは不吉なものではなく、心がぱっと沸き立つような感触だったのだ。
 今のは何なのだろうか?
 彼は数秒記憶の時間を戻した。
 そして、問題の部分に気がついたのだ。

 き、来たぁっ!
 ひ、ひ、ひ、日向、さんっ!
 巡査じゃなくて“さん”じゃないか!

「どうしたの?変な顔して」

 嬉しい顔ってどんな顔?
 嬉しさを噛み潰した自分の顔はどうやら物凄く変な顔のようだ。
 
「いや、あの、それは、つまり…」

 マコトは調子に乗った。
 
「名前で呼んでくださったのでびっくりしたんですっ」

 敬礼もつければいいくらいに見事な直立不動だった。
 そんなマコトに彼女は怪訝な顔をした。

「あら、これまでも呼んでなかったかしら」

「呼んでません。いえ、呼んでくださってませんっ」

「まあ、家ではいつも日向さんって言ってるんだけど」

「えっ、で、でも、いつも日向巡査とか、おまわりさんとか」

「へぇ、そうだったんだ。気がつかなかった」

 いたって真面目な顔でキョウコは言った。
 当然、マコトはそれを信じた。
 が、嘘。
 キョウコは内心大いにうろたえていたのである。
 特に意識はしていなかったのだが、彼の前でなければ普通に“さん”で呼んでいたのだ。
 鈴原刑事と喋っている時でも、近所の人と井戸端会議をする時も、みんなと一緒で呼び方は“日向さん”だった。
 しかし、それはごく普通ではなかろうか。
 だが、彼女にとっては面と向かってそう呼ぶのはどこか気恥ずかしかったのだ。
 何故か。
 そこまで彼女が考えていないところが、マコトの不幸であり、これからの数ヶ月に渡る騒動の源だったのかもしれない。
 ともあれ、現時点ではマコトは一歩前進したことを素直に喜び、まさに天にも昇らんという心持ちだったのだ。
 
「うわっ、もうこんな時間!ねっ、パトカーない?」

「えっ、パトカー?」

「オランダ語の辞典を買いに行くって出てきたんだけど、もう40分になってる。怒られちゃうわ」

 これも、嘘。
 まず怒られはしないだろう。
 あの、身が張り裂けそうな思いで過ごしていた、ドイツでの彼との日々。
 こんな悪戯心など起こしたこともなかった。
 思えば、小さな時は悪戯っ子だったはずだ。
 そのことは自分が一番よく知っている。
 成長するにしたがって同じ白人なのに、顔のつくりや身体が微妙に違ってくる。
 日本人の血を呪ったこともある。
 その頃から少し卑屈な娘になっていたのかもしれない。
 それが日本で暮らすうちに本来の性格が頭を擡げてきたのだろう。
 またそうでなくてはこの町でキョウコが人気を得ることもなかった。

「い、今、非番なんです」

 見ればわかる。
 わかっているから言っているのだ。

「まあ、困ったわ。自転車は、日向さん?」

「あ、じゃ急いで取ってきます!」

「ええっと、二人乗りなんだけど、いいのかなぁ?」

 背を向けたマコトがぴたりと静止する。
 クソがつくほど真面目な彼はジレンマに悩んだ。
 ただし、警察に奉職するまでは彼だって二人乗りは何度もしている。
 余談ながら、後の人間はシゲルばかりだったが。
 
 ああ、市警本部長様。
 日向マコト巡査はどうすればいいのでしょうか。

 悩んでも答はひとつしかない。
 マコトは心を鬼にしてキョウコに向き直った。

「二人乗りは法律違反です」

「やっぱりダメか。じゃ、私をおんぶして走ってくれるとか?」

 流石のマコトもこの時点で気がついた。
 からかわれていると。
 そして、思った。

 俺ってマゾだったのか?
 からかわれてるのに、嬉しいじゃないか。



「ありがとうございましたっ、また、よろしくお願いします、キョウコさん」

 むかっ。馴れ馴れしく名前を呼びやがって!

 雑誌を立ち読みしながらもその内容は何も見てはいなかった。
 そんなマコトはキョウコに親しげな口調で話しかける本屋の若旦那に頭に来ていた。
 彼は高校の2年先輩だったが正直言ってその当時から虫の好かないやつだと思っていたのだ。
 有力者の親戚とかで大きな顔をしていたこともあったが、
 何よりあの頃憧れの的だった、葛城ミサト嬢にさかんにモーションをかけていたのだ。
 しかも軽薄そのもののやり方で。
 詳しく思い出すと腹がたつので…、いや、今はミサト嬢よりも愛しのキョウコさんだ。
 数年前の憤懣は一瞬で消え、目の前の現実に彼は憤った。
 
 くわっ、あいつ、伝票を渡す時にわざと手に触れたな!なんて野郎だ!

 天狗花サブロウ。
 マコトに訊ねられたわけではないが、とりあえず名前だけは明記しておこう。
 彼はどう見ても下心丸出しの笑顔でキョウコに接している。
 マコトにとっての救いは彼女が至ってドライな表情をしていることだった。
 その表情がこっちを向いたときに微笑みを浮かべた。
 ぎくっと慌てて雑誌に目を落とす。
 
 マコトに微笑みかけている写真週刊誌のカラーグラビア。
 Gカップだか、Hカップとかのグラビアアイドルが水着の胸を誇張してポーズを取っている。

「わぁ、日向さんってこういう女の子が好みなんだ」

 遅かった。
 いつの間にレジからここまで移動してきたのか。
 ページを閉じる前にしっかりその露骨なポーズを確認されてしまった。
 まだヌードでなかっただけマシと考えるべきなのか。
 いや、無意識に開いていたページだけにマコトには痛烈な悔恨が残った。
 だが、キョウコは特にその話題を引っ張ろうとしなかったので、ひとまずほっとする。
 
「でも、ちょっと大きすぎない?」

「あ、あの、今のは、偶然で…」

「はい、これ持って」

 しどろもどろのマコトに辞書の入った袋を差し出す。
 ずしりと重い。
 その重さに袋を持ち直した彼にキョウコは微笑み、右手に持たれたままだった雑誌を引き取った。

「蘭英辞典よ」

「らん…。ああ、オランダですか?」

「ええ、オランダ。もう、堪らない。今度は辞書もないような国から来たらどうしようかしら」

「でも、よくありましたね。こんな辞書が」

 マコトは袋を掲げて見せる。
 蘭和ではなく、蘭英なのだ。

「私のために置いてあるんだって。冗談にもなりゃしない」

 キョウコは眉を顰めた。
 聞こえたのではないかとレジの方を見ると、若旦那は腕組みをしてこっちを睨んでいる。
 
「あの…聞かれてますよ」

「別にいいわ」

 あっさり言った彼女がちらりと振り返ると、そこは商売人、すかさず満面の笑み。
 さすがである。
 だが、マコトは気づかなかった。
 彼が睨んでいたのはキョウコの言葉の所為ではなかったのだ。
 彼女が微笑みかけている男、日向マコトを睨みつけていたのだとは。
 キョウコは手にしていた雑誌を陳列台に返した。
 その返し方がいささか乱暴だったことに誰も気がついてなかった。
 キョウコ自身も。






「いいですか。石垣の上に登っちゃいけませんよ」

「は〜い!」

 そのいい返事の大合唱の中に一人だけ大声で不平を漏らした子供がいた。

「ええええぇ〜、ダメなのぉ〜」

 園児と先生一同が音源を一斉に見つめた。
 アスカは頬を膨らませて身体全体で不満を表明している。
 キョウコを真似しているのだろう、腰に手をやって大地をずんと踏みしめている。

「ダメです。柵がないんですからね。落ちたら怪我ではすみませんよ」

 そこで一呼吸置いて、先生はみんなを見渡す。
 
「落ちたら、死んでしまうんですよ。絶対に石垣には登らないように」

 その言葉の迫力に殆どの園児たちは顔を見合わせて、
 「こわいね〜」と素直に言いつけを守ろうと心に決めていた。
 アスカはと言うと、当然まだ納得していない。

「アスカ、おちないもんっ」

「アスカちゃん、ダメです!」

「アタシ、何度も登ってるよ」

「今日は遠足でみんなと一緒ですからね。危険だから…」

「あ、それじゃ…」

「ミサトさんは黙ってて」

「……はぁ〜い」

 ミサトの助け舟は出航前に撃沈されてしまった。
 かくして、アスカの反抗は当然の如く未然に阻止されたのである。



「ミサトさん、ダメですよ。あんな甘いこと言っちゃ」

「言う前に黙らされたんだけどね〜」

「言われたら収拾がつかないでしょう?」

 横目で睨まれ首を竦める。
 
「どうせ、私が見張りをするから…とか言うつもりだったんでしょう」

「アタリ」

 舌を出すミサトのおでこを水野マサコ先生は人差し指で突付いた。

「甘すぎるわよ。何か事故が起きてからでは遅いの」

「でもねぇ。アスカの気持ちもわかるのよ」

「石垣の上に登りたい気持?」

 高いところに登りたがるのは…と想像してしまい、水野先生は笑ってしまった。
 
「石垣から見えるのよ、アレが。アスカはそれをみんなで見たかったんだと思うな」

「アレ?」

「ミサちゃんもそうだったわよね」

 柔らかい声が聞こえてきた。
 振り返ると園長先生が微笑んでいる。
 バスを使った年長さんの遠足ではなく、園長はいつもお城への徒歩の遠足に同行していた。
 園児たちと歩くことが好きだからだそうだ。

「お母さん……じゃなくて、園長、それはやめてよ」

 マサコ先生に睨まれて慌てて言い換える。
 ミサちゃんというのは幼稚園の時の呼び名。
 あの当時は担任の先生だった義理の母にミサトはそう呼ばれていたのだ。
 
「ミサちゃんとリッちゃん。あの時も二人で脱走して石垣に登ってくれたわね」

「えっ、ミサトさんが?」

 またまた横目で睨む先生に、ミサトは鼻の頭をぽりぽりと掻いた。

「だってさ、リツコのヤツ、一度も見たことがないなんて言うから」

「何を?」

「見てくればわかりますよ。行ってらっしゃい」

 園長に言われ、マサコ先生はお弁当を準備中の園児たちを一瞥してから背後の石段を上がった。
 つまりアスカのような園児がこっそり石垣に登らないように彼女たちは石段の前で立っていたわけだ。
 石段を登っていくと、視界の大半を占めていた青空からやがて石垣の向こうの景色が見えてくる。
 その景色の真ん中にあるのは堀端にある小学校だった。
 厳密に言うと、堀端ではなく、堀と堀の間に建っているのである。
 あの小学校には通っていなかったが隣町で生まれ育ったマサコはもちろんその存在をよく知っている。
 だからこそ、他の何かが見えるのかと周囲を見渡したのだ。

「ほらね、心躍る景色でしょ」

「どこが?どこのこと?」

 隣に立ったミサトに真剣に問う。
 ミサトはにっこりと微笑んだ。

「や〜ねぇ。年を取ると」

「4つしか違わないでしょうが」

「肉体の年齢じゃないわよ。精神年齢の方」

「ああ、それなら貴女とならかなり違いそう」

 思わず笑ってしまう。

「考えてみて。アナタが幼稚園の子供で、あの小学校に入学するのよ。未来にね」

「未来?」

「ええ。子供にとって2年先なんて遠い未来の話よ。毎日毎日を全力で生きてるんだから」

 マサコはもう一度、小学校を見下ろしてみた。
 体育の授業中なのか。
 おそらくまだ低学年なのだろう。
 小さな子供たちがドッジボールをしている。
 距離があるのでその声が聞こえるはずもないのだが、歓声が耳に届いたような気がした。
 ミサトに言われたように自分を園児に置き換えてみる。
 こういうイメージトレーニングは実際に何度もしていることなので、彼女は自然に幼稚園児の心へと思考を移した。
 今日は楽しい遠足。
 お城でみんなとお弁当を食べる。
 そこの石垣の上から見える小学校。
 その小学校は幼稚園を卒園すれば入学するはず。
 みんなで一緒に。
 だけど、それがいつなのかピンと来ない。
 でも、いつの日か、遠い未来にあの小学校に…。

「はは〜ん、なるほどね」

「わっ、さすが先輩。凄い凄い」

「叩くわよ」

 茶化すミサトに彼女は腕を振り上げて見せた。

「ごみん。でもね、あいつもそうだったのよ。実際に見るまではくだらないなんて言ってたのにね」

 あの日。
 先生の言いつけに従おうとするリツコを無理矢理石垣の上まで連れ出した。
 大人なら石段のところで見えるのだが、幼稚園児の背の高さでは上まで登ってしまわないと無理だ。
 今でもよく覚えている。
 雑草だらけの石垣の上。
 人の足で踏み固められた土の道に立ち、ミサトとリツコは手を繋いでいた。
 −あのしょうがっこうにいくのよ−
 −そうなんだ−
 −リッちゃんといっしょにね〜。でも、いつなのかなぁ−
 −7さいになったらっておかあさんがいってた。いまは5さいだから2ねんね−
 −2ねん!2ねんってどれくらいなのかなぁ〜−
 −わからないわ。そんなさきのこと−
 風がそよぎ、遠い未来のことに思いをめぐらせる二人は何故かわくわくしていた。
 いつかは小学校に行くんだという未来がまるで夢のように感じたからだ。
 
「おおおおっ、これはっ!」

 素っ頓狂な叫びにミサトの回想は破られた。
 石段から振り返ってみると、ビニールシートの上でアスカが立っている。
 その手には可愛い弁当箱が。
 どうやらその中身に何かがあったようだ。
 ミサトはセピア色の記憶の中の自分たちをあっさり放棄して石段を駆け下りた。
 そんなミサトの背中を苦笑しながら見つめるマサコ先生。
 まだまだ先生というよりは“おねえさん”ね。

「どうしたの、アスカちゃん?」

「ほら、みてみてみてみてみてっ!」

 アスカは嬉々として手にした弁当箱を周囲の子に見せびらかしている。

「わっ、すごい」

「かわいいっ」

「へっへっへぇっ。いいでしょっ」

「なになに?おね〜さんにも見せて!」

「ほらっ」

 まず目に入ったのはたこさんウィンナー。
 碇ハルナに弟子入りして修行した血と汗と涙の作品だ。
 何度か包丁で指を傷つけたのだからまさに文字通りなのである。
 しかし、それ以上にインパクトのあるものがその横に納められていたのだ。

「わっ、ペンペンじゃないっ!」

「ねっ、ねっ、ペンペンよっ。ママ、すごぉいっ!」

 敢えて名前を付けるなら、ペンペンかまぼことでも言うのだろうか。
 色付きのかまぼこがはめ込み細工で組み合わさっている。
 さすがに羽の黒は水色にアレンジしてあるが、それでもペンギンだとはすぐにわかる。

「アスカちゃん、これ、おね〜さんにちょうだいっ」

「えっ…」

 アスカが絶句したのは当然。
 まず食べないといけないということを忘れてはしゃいでいたのだ。
 それでも食べるのなら自分で食べる。
 悪いが親友にもあげることはできっこない。
 何しろそれ一個しかないのだから。
 それをミサトがよこせと要求してきた。
 「ダメっ!」と叫ぶより前にびっくりしてしまったのである。
 しかし、ミサトの指がペンペンかまぼこに到達する前に、正義の鉄拳が彼女に振り落とされた。

「これ、いけませんよ」

 言葉は柔らかかったが、拳骨は手加減がなかった。
 
「いったぁ〜いっ」

「わぁ〜い、ミサトせんせったら、えんちょ〜せんせにどつかれとる」

「う、うるさいぞ、トウジ」

「よびすてしたらいけないんだぜ。ねぇ、えんちょうせんせい?」

 いつの間にかアスカのビニールシートの周りは人だかり。
 

「ええ、そうですよ。ミサトさん、もう一発…」

「ごめんなさい!」

 ミサトは母には敵わない。
 たとえ血は繋がっていまいと、母は母なのだ。
 
「それじゃ、みなさん。いただきましょうか」

「はぁ〜い!」

 本丸の公園に子供たちの声が響いた。
 まばらだが観光客はその光景に頬を緩める。
 アスカはお箸で狙いをつけた。
 まずは大人気のペンペンかまぼこだ。
 情け容赦なくペンペンのお腹にお箸を突き刺し、大きく開ける口の中に放り込む。
 むしゃむしゃむしゃ。
 味は普通のかまぼこだが、アスカは大満足。
 その思いにおそらくキョウコも同様に大満足することだろう。
 ただし、「おともだちにもペンペンあげるの〜」と大量生産を要求されるところまでは予想外だったが。

「おっ、ケンスケちゃん、さんじょ〜!」

 ペンペンかまぼこを飲み込んだアスカが広場の入り口の方を指差した。
 そこには結婚式帰りのケンスケが息を弾ませながら駆けて来る姿が。
 きちんと制服姿になっているのは余所行きの服を汚されたくないからちゃんと用意していたのだろう。
 さらにその向こうにはお父さんとお母さんも荷物を抱えて続いていた。
 マサコ先生と園長先生がその方へ歩み寄る。
 ケンスケはにこにこ笑いながら、トウジのところに到達した。

「やっときたんか、おそかったのぉ」

「ばかいえ、ちょうとっきゅうだ。マッハのスピードってヤツだぜ」

 因みにマッハはおろか、特急でさえこの町を通るJRの路線には走っていない。
 普通と朝昼夕方に1本ずつの急行だけなのだ。
 
「まあ、すわれや。べんとうあらへんのやろ、わけたるわ」

「へっへっへ、ちゃんとあるんだな。すごいぞ、ぶったまげるぞ。ちょっとまってろよ」

 にたりと笑うとケンスケは両親の元に走る。
 そこで何やら一生懸命に喋ったかと思うと、父親の手から包みを受け取った。
 園児たちは自分たちの弁当を食べるよりもそのケンスケの動きを目で追った。
 彼は楽しさを抑えきれない表情で、トウジの前でその包みを広げた。

「うわぁっ、なんじゃあこりゃあああ!」

 トウジの叫びは園児たちを呼び寄せる。
 もちろん、一番乗りはアスカだった。

「おおおっ、ごうかけんらん!」

「アスカちゃん、けんらんってなに?」

「わかんない、でもすごいってことにきまってるわよ!」

 ヒカリの突っ込みにアスカは当たらずとも遠からずという返答。
 もっともヒカリはその返事を聞かず、ケンスケのお弁当をしげしげと見つめていた。
 みんなが一様に連想したのはおせち料理。
 五段重ねならぬ5つのパックにぎっしりとご馳走が収められている。

「すっごいなぁ」「おいしそ〜」「ケンスケちゃん、ちょ〜だい」

 さっそくおねだりするちゃっかり屋さんの園児もいる始末。
 披露宴のご馳走を詰め込んでいるのだ。
 生ものは外してあるが、ローストチキンやロブスターなど子供が目を惹くものが目白押しだ。
 大評判に得意げなケンスケだったが、そこにレイが一言だけぼそりと言葉を漏らした。

「おかずばっかりなのね」

 その言葉でケンスケも気づいた。
 なるほど、ご飯もサンドイッチの類もない。
 5つのパックすべてがおかずばかりなのだ。

「うわぁ、ほんとうだぁ!」

「じゃ、アスカのおにぎりとこのえびさん、こ〜かんしない?」

 真っ先に一番豪華なものを狙うあたり、いかにもアスカらしい。
 ところがいともあっさりケンスケはOKしたのだ。

「おう、いいぜ。じゃ、もってこいよ」

「わっ、やった!」

 気が変わらないうちにといった感じで自分のお弁当に突進するアスカ。
 もちろん、他の子が黙ってみているわけがない。

「おっ、じ、じゃ、わいはこのとりのあしとこうかんしてくれへんか」

「いいぞ。なかにおしゃけのはいってるの、のこってるか?」

「あるで!のこっとるぞ!」

 トウジは自分の弁当箱を差し出した。

「よし、じゃいただき」

 何と気前のいい男だろう。
 園児たちは一瞬だけケンスケを讃えた。
 その賛辞はすぐに「こうかん!」に切り替わる。
 ご馳走の山は瞬く間にみんなに配分され、先生たちはその光景を微笑みながら見守っていたのである。
 中には「交換して」と弁当箱を持って行きかけたミサトがたしなめられた一幕もあったが。
 ケンスケがこんな割の合わない交換をしたのは簡単な理由だった。
 彼は前日の昼の披露宴で腹いっぱい食べている。
 そして母親の実家の夜ご飯もその残りが出てきたのだ。
 ご馳走にはいささか食傷気味だったのである。
 ただし、あまりにおにぎりばかりが集まったので途中からおかずに切り替えたが、
 それでもたこさんウィンナーとバイエルンウィンナーの交換だからレイもにんまり笑うだけ。
 ご馳走とともに出現したケンスケのおかげで年少組の昼の宴は予想外に盛り上がったのである。 



 そして、食後。 
 アスカはいつもの5人組と密談していた。

「い〜い?ちゃんすはいちどなのよ」

「いいわ。りょうかい」

「いいのかなぁ。おこられるよ」

「アホらし、なんでわしらまで」

「おれをりようするなんてきにいらないぜ」

「うっさいわねぇ、ケンスケちゃんはアタシのいうとおりにすればいいのよ」

 ケンスケが手にしているのは小型のデジカメ。
 少し旧式のものだが父親のお古を貰ったものだ。
 アスカが「なかよしさんでおしゃしんとるの〜」と明らかな作り笑顔で迫ってきた時、大人の誰もがその意図に気づいた。
 だが彼女たちは当然気がつかない振りをしたのである。
 それどころか、マサコ先生はケンスケの手からデジカメを取り上げた。
 先生が撮ってあげるからみんなで並びなさい、と。

「い〜い?せんせ〜が1たす1は?ってきいたらはしるのよ」

 アスカの確認に4人は頷いた。
 ファインダーを覗くマサコはおかしくて仕方がなかった。
 これで秘密を隠しているつもりなのだからあどけない。

「じゃ、撮るわよ。ち〜ず」

 カシャッ。
 撮影された画像には唖然とした表情の子供が5人。
 立ち直ったのはレイが一番早かった。

「せんせい、ダメなの。1たす1はってきいて」

「お、おう。せやないとあかんねん」

「せんせ〜。もう1まい!アタシ、へんなかおしてたから」

 確かにそうだ。意表をつかれて変な顔が5つ並んでいた。
 合図は「1足す1は?」だったようだ。
 マサコは必死に笑いを堪えた。

「わかりました。それでは、もう1枚ね。じゃ、1足す1は?」

 2ではなかった。
 「それ!」というアスカの掛け声とともに5人は背中を向けて石段をえっちらおっちらと登る。
 子供仕様の高さの石段ではないから大変なのだ。
 手を使ってよじ登るように、身体を引っ張り上げるようにして急ぐ。
 さすがに行動派のアスカとトウジが先頭を切った。
 だが、ヒカリが足を滑らしたので隣にいたトウジは無意識に手を差し伸べる。
 「ありがとう」と微笑まれて難しい顔になったのは何故か。
 そんなことはトウジにわかるわけがない。
 それに今はこの石段を登ることが最大級の優先事項だ。
 たった8段の石段だったが、彼らには物凄い高さに感じられる。
 はぁはぁと息を弾ませてアスカが最上段に登ろうとした時、目の前にミサトがいた。

「はぁ〜い、ご苦労様」

 石垣の上で座っていたので下からは見えなかったのだ。

「げっ」

 石垣に手をかけたままアスカは固まってしまった。
 それは残りの4人も同じ。
 大作戦は失敗。
 みんながそう思ったとき、ミサトはにっこりと笑った。

「ここから前には出たらダメよ。おね〜さんがこわぁ〜い先生に怒られちゃうから」

 ミサトが手にしていた棒で指したのは草のはえていない土の部分。

「こっからでもちゃぁんと見えるからね。あそこは」

「アリガト!」

 アスカが土の部分にすっと立った。
 他の者もそれに習う。
 土で汚れた手を無意識にぱんぱんと払いながら、レイたちはそこから見える風景を眺めた。
 
「がっこやろ、あれ」

「ああ、だいいちしょうがっこうだぜ」

「そうよっ!しょうがっこうよ!」

 さすがに男の子二人は石垣に登ったことがあるので他のものを探してしまった。
 だが、ヒカリとレイはここに上がるのは生まれて初めてだった。
 そして、小学校を見下ろすのも。
 地上から見たことは何度もあった。
 お堀端の歩道は市民の散歩道になっているのだ。
 そのお堀の向こうにあるのが小学校だというのも知っていた。
 しかし、アスカの言葉を聞くとその見慣れていたはずのものが違うものに見えてきたのだ。

「あの、しょ〜がっこうにみんなでいくのよ!
 レイちゃんもヒカリちゃんもトウジちゃんもケンスケちゃんもみんなでしょ〜がっこうにいくのっ!」

 あ、そうなんだ。
 いずれはここにいるみんなであの小学校に通うのだ。
 そのいずれはというのがどれくらい先の話だかピンと来ない。
 ピンと来ないから余計にそれが物凄く未来の話に感じてしまう。
 子供は未来には夢を追うものなのだ。

「ひろいなぁ。ようちえんのうんどうじょうがいっぱいはいりそうだ」

「おうっ、はしからはしまでかけっこしたいのぉ」

 さすがに男の子。運動場に目が行っている。

「おおきいねぇ。きょうしつがいっぱいあるんでしょうねぇ」

「1、2、3、4つもある。あのおおきいのはなに?」

「あっ、あれはね、こ〜ど〜だってじ〜じ〜がいってたよ」

「こ〜ど〜って?」

「しんない」

 ミサトは声に出して小さく笑った。

 さすがは家老の末裔のお年寄り。
 体育館と言わずに講堂ときたか。
 まさか尋常学校とか教えてないでしょうね…。
 
 だが、彼女は口を挟まなかった。
 子供たちのきらきら光る瞳がそうさせなかったのだ。
 未来を夢見る瞳が。



 結局、遠足に行った園児みんながそこからの風景を見た。
 かわるがわるに石段を上がって、小学校を見下ろす。
 もちろん、家族と来た時はここに上がってはいけませんよと注意を受けてだったが。
 それでもみんなは満足していた。
 月の光幼稚園に通う子はすべてあの第壱小学校の校区に住んでいるのだ。
 お城の中にある…と言ってもいい第壱小学校の立地条件がどんなに自慢できるものなのか。
 それは彼らにはまだわからない。
 他の無味乾燥した学校らしい学校というものを知らないのだから。
 だが、彼らは自分たちの未来にあるその小学校を確認しただけで充分気持が高揚した。
 
 園児が順番に小学校を眺めている間、一番最初に堪能したアスカたちは石垣に囲まれた広場で駆け回っていた。
 元は二の丸が立っていた場所だが、建物はなく更地になっているのだ。
 その場所は例の小さな天守閣へ向う観光客の順路になっている。
 ちらほらと通るその連中は楽しげに駆け回る制服の子供たちを微笑みながら見ている。
 アスカとレイとヒカリは3人で輪になってくるくると回っていた。
 別にゲームをしているわけではなく、ただ身体を動かしているだけ。
 それでも楽しいのだ。
 トウジたちはどうやら忍者ごっこのようだ。
 奇声を上げながら走り回っている。
 
「あ…」

 突然、レイが足を止めた。
 回転が急停止されて、アスカとヒカリはレイにぶつかる。

「ど〜したのよ。びっくりしたじゃない」

 アスカがわざと唇を尖らせて抗議すると、レイはただすっと指を差した。
 二人はその指先を追う。
 石畳を歩いている男の人と子供。
 背の高い男はサングラスに髭で、まるでテレビのアニメーションに出てくる悪者のようだ。
 その男に手を繋がれているのはアスカと同じくらいの小さな男の子。

「なに、あれ。ひょっとしてゆ〜かいはんっ!」

「ちがうの。あれがシンジ」

 指を差したままレイはいかにも嫌そうに言った。

「シンジ?レイちゃんの…えっと」

「いとこ。なきむしだからきらい」

「でも、ないてないよ。わらってるじゃない」

 ヒカリの指摘ももっともだった。
 彼は楽しそうに笑っていた。

「ふん。おとうさんにべったりなの。ひとりになったらすぐにべそをかくくせに」

 レイの口調は冷たかった。
 その意味をアスカが知るはずもない。
 彼女は見つめた。
 にこにこと笑って歩いてくる少年を。

 そこにも彼女の未来があったことを誰も知らない。


 


 
あっかちゃん、ずんずん 第八巻 「あっかちゃん、未来に夢を馳せるの巻」 −おしまい−










(あとがき)

 第八巻です。
 な、長い。ごめんなさい!三只様、読者様。3つくらいにわけるべきなんでしょうが、構成上難しい。
 つまりは構成がヘタなんですよ。申し訳ありません。と、謝ることで開き直ってます(大汗)。
 今回から徐々にその他の登場人物さんたちにも名前が付いていきます。
 水野マサコ先生は本来なら海王(みちる)(勝生)マサコとしたかったのですが、
 さすがに海王って姓はねぇ(笑)。そこで天才少女さんの姓をお借りしました。
 このお話ではアスカの義理のお母さんは当然出番がないので勝生真沙子さんには別の役でということで。
 因みに本屋の若旦那は当初時田という姓にしていたのですが、悪役ですので少し時田さんでは可哀相。
 そこであまりなさげな姓に変えました。昔の子供番組ではいかにもな名前が多かったんですよ。
 欲野張左衛門とか大金有兵衛とか。本当は天狗鼻だったのですが、あんまりにもあんまりなので花に変えました。
 でも、悪いヤツです。それだけは間違いありません。名前がサブロウですから、上にあと二人いるわけです。
 記憶の片隅に置いておいて下さい。
 あ、宣伝をひとつ。私のサイトにモデルにした学校の写真を掲載しています。
 こんな学校に通いたかったなぁと本当に思いますね。画像ファイルは重いのでこちらではやめておきます(苦笑)。

 さて、やっと…というよりも、三只様の脅迫に負けて(笑)、予定よりも早く登場しました。
 あっかちゃんの未来。まだ、台詞はありませんけどね。
 来年もよろしくお願いいたします。     長いのは変わらないと思いますが(滝汗)。
 

 2005.12.24 ジュン

 






はい、ジュンさんからあっかちゃん八話目をちょうだいしました。
キョウコとマコトの仲も進みつつある昨今、ようやく、ようやく、あの少年の登場です!

みんな待ってたんですよ、どうにか年内にシンジくんが出ました。もうジュンさん、脅迫だなんて人聞きの悪い(笑)
さてさて、そろそろこれでメインキャストは出そろいですかね。
来年からの続きも愉しみですね。
今年一年楽しませてくだすったジュンさんに感想をメールをお願いします〜。



(2005/12/27掲載)


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