アスカは驚いてしまった。
 確かにこの家は大きいし、その場所には誰も住んでいない。
 だが、まさかそこにあの弱虫とその父親が住むとは思いもかけなかったのだ。



 トモロヲはその場所が長屋だといった。
 アスカもキョウコも長屋と言われてもよくわからずに首を捻っていたが、
 何とアスカの方が先に了解した。

「あっ、じだいげきにでてくるあれ?
 おおやのむすめがなんとかやにねらわれて、はっつぁんやくまさんががんばって、
 さいごはももたろ〜ざむらいとかあばれんぼ〜しょ〜ぐんがたいじするあれでしょっ」

 ああ、なるほど、あの長屋のことかとキョウコも理解する。
 だが、テレビで見るあんな長屋がこの屋敷の中にあったかしらと考える。
 惣流家は戦前には今の3倍の大きさがあったという。
 今でも家の中でかくれんぼや鬼ごっこが充分できる広さなのだ。
 日本人の家はウサギ小屋だと学生時代に蔑まれた経験のあるキョウコにしてみれば、
 なんと大きな兎だろうかと来日して家の中を案内された時に目を丸くした覚えがある。
 そんな広い家が昔はもっと大きかったと聞いてさらに驚いた。
 維持することができずに、東京オリンピックの頃に裏手で市道に面した1/3をまず処分した。
 そこには一戸建てのこじんまりとした家が6つ並んだ。
 そして15年ほど前に市が歴史資料館を建てたいと打診してきたのでその隣の1/3も売り払った。
 残ったのは屋敷側と小さな平屋がぽつんと建っている部分だけ。
 つまり今は凸型の敷地になっているわけだ。
 突起の部分の右側が歴史資料館で左側が住宅。
 そしてその突起の部分というのが問題の親子が引っ越してくるという場所なのだ。
 惣流家の門は薬医門であり、よく見られる長屋門ではない。
 したがって物置や使用人の住まいは裏側にあったわけで、その部分を始末したのである。
 つまるところ突起の部分とは使用人たちの長屋があった場所で、
 戦前から住んでいた元使用人がその当時はまだ居住していたのだった。
 キョウコが帰国する数年前にそこは無人になったのだが、
 すでに一人暮らしとなっていたトモロヲは日々を無為に過ごしていたのでそのまま放置していたわけだ。
 その場所にある親子を住まわせていいかどうかをキョウコとアスカに尋ねたのある。

「おじいさまはどうなんですか?」

「うむ。身元ははっきりしておるが、親子といっても男やもめに男の子の二人じゃ。
 うちはその、なんじゃ、つまり、それじゃ、ほれ、わかるじゃろう」

 トモロヲははっきり言えずに苦しんでいた。
 これはアスカの前で話すべきことではなかったからだ。
 男やもめに未亡人が同じ屋根の下ではないが、同じ敷地に住んでいるというのはどうだろうか。
 そういうことを言いたかったのだが、知りたがりのアスカが根掘り葉掘り質問してくることは火を見るよりも明らかだ。
 そこで口篭ってしまったというわけだった。
 無論、キョウコも祖父が言いたいことはよくわかる。
 
「むぅ、じ〜じ〜、わすれちゃったの?
 おとこのこのおなまえ?それとも、えぇ〜と、すきなテレビ?」

「アスカ、少し黙って。おじいさま、その件は大丈夫。
 変な男ならおじいさまが最初から断っていますでしょう?
 こうやって相談されているということはおじいさまの眼鏡にかなっているという事なんですから」

 正座をしているキョウコは背筋を伸ばしてはっきりと言い切った。

「ママ、じ〜じ〜のメガネってろ〜がんきょうでしょ」

「黙ってなさいってば、アスカ」

「ぶう…」

 膨れるアスカを見てトモロヲは微笑んだ。

「では、この年寄りに任せるということでいいんじゃな」

「はい。あ、でも…」

 どうしたとばかりに孫娘の顔を見るトモロヲ。
 キョウコは苦笑してアスカの頭に手を置く。

「男の子ってどんな感じの子かわかります?
 私はともかくアスカが心配で」

「ど〜してアタシがしんぱいなのよ。しつれいしちゃうわ」

「母親は心配するものなの。で、いかがですか?」

「その男の子はなぁ、実はじゃ…」

 トモロヲの話を聞いてアスカは目を見張った。

「あっ、アタシ、しってる。よわむしこむしのなきむしシンジ」

「これっ」「こらっ」

 母と曽祖父に叱られて、アスカはしまったとばかりに顔を歪めた。

「レイちゃんが…そういってたの」

「その、シンジ君…だっけ?」

 こくんと頷くアスカを確認してからキョウコは娘に向き直った。

「アスカはそのシンジ君とお話ししたことはあるの?」

 怪訝な顔で首を横に振る。

「だったら、そんな言い方をしたらダメじゃない。
 本当にそうかわからないでしょう?」

「だって、レイちゃんはうそなんかいわないもん」

「でもそれはレイちゃんの意見でしょう。アスカが自分で確かめてみないとわからないじゃない」

「ぶう…」

 唇を尖らせたアスカのおでこをちょんと突付く。
 キョウコはシンジのことを知っている。
 綾波レイの祖母の碇ハルナはシンジの祖母でもあるからだ。
 半ば笑い話としてシンジの事は聞いていた。
 昔は明るい子だったのだが、母を亡くしてからは暗い子供になってしまった。
 それは当然のことなのだが、最近はレイからも泣き虫だと軽蔑されている始末だと。
 
「アスカ、よく聞きなさいよ」

「ぶぅ、しょうち」

 小さな声で膨れながらも娘は母を仰ぎ見た。
 キョウコは自分の娘に見た目や評判で人を判断する人間になって欲しくなかったのである。
 それは彼女自身の生い立ちや今の環境が影響していたのだろう。
 ドイツにいた時は混血児でチビ扱いされていたのに、ここではマドンナのような扱い。
 その待遇のあまりの落差が彼女を有頂天にしなかったのだ。
 だからこそ、アスカをしっかり教育しようと考えているのである。
 そんな孫娘の姿が微笑ましく、また頼もしくも見える。
 しかし、あまりアスカに厳しくするなよとも思ってしまうのは年寄りの情けないところだとトモロヲは心の中で笑っていた。

「アスカのパパはいる?」

「いないよ。かみさまがつくるのわすれたの。へんよね、ホント」

「レイちゃんもいないわよね、パパ。それからママも」

「うん、しんじゃったんでしょ。レイちゃん、かわいそう」

「シンジ君のママも死んじゃったの」

「でも、レイちゃんはないてないよ。アスカだって」

「それはね、二人とも記憶がないからよ」

「きおく?きおくそ〜しつ?」

 時代劇でかじった言葉で聞き返す。

「あのね、アスカはパパの顔も知らない。そうよね」

 キョウコは同棲していた男の写真はすべて捨て去っていた。
 いや、それどころか最近は顔すらあやふやになってきているのに気づいた。
 そのことを寧ろ彼女は喜んでいる。
 アスカを授けてくれたことには感謝しているが、それ以外の事は思い出したくもないからだ。

「レイちゃんも写真でしか知らないの。両親の顔は」

 頷くアスカに母は微笑んだ。

「だから、あまり悲しくないの。でも、シンジ君は違うのよ。
 あの子はママの顔を知っているの。抱いてもらったことも一緒に遊んだこともちゃんと覚えている」

 そこでキョウコは一呼吸置いた。

「もしママが死んじゃったらどう思う、アスカは?」

 一瞬、アスカはきょとんとした。
 そして、母の質問を考えてみた。
 母のいない世界。
 母のいない家。
 少し考えただけなのに、急に悲しくなってきた。
 幼女は見る見る大きな目に涙を浮かべると、顔を歪めた。
 まずいっ。
 ちょっとやりすぎちゃったかしら?
 キョウコの後悔はアスカの号泣を止めることなどまったくできず、
 しばらくはキョウコとトモロヲの二人がかりでアスカをあやさねばならなかったのである。

「落ち着いた?」

 鼻をぐしゅぐしゅ言わせながら、アスカは頷く。

「ね?アスカも泣き虫さんになっちゃったでしょ」

「だって、ママがへんなこというんだもん」

 またもや顔を歪めるアスカに慌てて宥めにはいる大人二人。
 特にトモロヲにとって曾孫の泣き声は確実に寿命を縮めていると思われる。
 娘のときはこんなことはなかった。
 50年近くも前の記憶に少し涙腺が緩みそうになり、トモロヲはぐっと気を引き締めたのである。
 
「わかったでしょう、アスカ?シンジ君が悲しくなる理由が」

 アスカは大きく何度も頷いた。
 確かによくわかった。
 なるほど、そういうことなら泣き虫さんになるのは当たり前ではないか。
 そして彼女は使命感に燃えた。
 
「わかった!じゃアタシがよしよししてあげる!」

「え?」

「アタシがついてるからだいじょ〜ぶっていってあげんのっ」

 アスカは晴れ晴れとした笑顔を向けた。
 


 親友の説明を受けてレイは首を捻った。
 アスカの言っていることはわかる。
 だが、そんなことで怒っているのではないような気がするのだ。
 さすがに幼稚園児だけに自己分析の能力は低い。
 だから何をどう説明すればいいのか彼女は悩んでしまった。
 片や黙り込んでしまった友達の姿に、意気揚々と語ったアスカは少し不安になる。
 怒ってしまったのかもしれない。
 遠くの方でヒカリの声が聞こえた。

「もうい〜かい?」

「まぁだだよっ!」

 条件反射的にアスカは叫んだ。
 もう充分に隠れてしまっているのだが、アスカの思考はレイの方に向ってしまっているのだ。

 今日はせっかくの土曜日なのに雨。
 外で走り回って遊ぶことができないので、アスカの家に集合したのである。
 アスカとヒカリの母はレイの家でハルナから料理の講習を受けている。
 そこで親たちに相手をしてもらえない3人が遊ぶ約束をしたわけなのだが、
 通り雨のようだが結構大粒の雨の中を走り回って遊ぶわけに行かない。
 そこでアスカの家で雨宿りを兼ねて遊ぼうというわけだ。
 最初から家で遊ぶ約束であればおとなしくゲームか何かをしていただろうが、
 外でかくれんぼをはじめたばかりだったので流れでその続きをしようということに自然と話はまとまる。
 さて、惣流家はかくれんぼには最適の家だ。
 家から出てはいけないというルールを決めてもなかなか見つけられるものではない。
 以前は普通のかくれんぼをしていたのだが、これだと鬼はいつまでたっても鬼でいないといけない。
 それに家の中を走り回ることになるので、さすがに女の子でも襖や障子の損傷が時折発生してしまう。
 その度に廊下に正座して反省をするのだが、酷い時には一日に二度三度。
 これでは曾孫娘に甘いトモロヲもたまったものではない。
 帰宅したキョウコに拳骨をもらったり、
 恐縮したレイの祖母やヒカリの母の手土産つきの訪問を受けるのも再々では困りものだ。
 そこでいつの間にかローカルルールが取り決められたのである。
 一度隠れたらその場所を動いてはならない。
 見つかった時点で鬼の勝ち。
 これで動きの少ないかくれんぼとなったのだが、実はアスカは不満たらたらだった。
 スリルとサスペンスが減ってしまったからだ。
 だが、ヒカリのほっとした顔を見るとそう我儘も言えない。
 仕方がないので走り回るかくれんぼは児童公園で男の子たちも含めて大々的に開催することに決めて、
 我が家でのルールは不承不承これで納得したアスカである。
 さて、今日二人でもぐりこんでいるのはキョウコの部屋だった。
 衣文掛けの裏側にちょこんと座っている。
 そこにはスラックスなどが掛かっていてぱっと見ただけでは裏側に隠れているとはわからない。
 その上、レイの意見ではヒカリはいい子だから大人の部屋にはずかずかと入ってこないということだ。
 アタシならずんずん中に入るんだけどなぁとアスカは思ったが、ここはレイの意見を受け入れた。
 その衣文掛けの後ろでアスカは昨日母親に教えられたことを伝えたのである。
 シンジを泣き虫と言ってはいけない、と。
 ところが、レイは簡単に納得してくれない。

「ちがう。どこか」

「どこがちがうの?」

「もうい〜かい?」

「まぁだだよっ!ねぇ、ママがまちがってるの?」

「わからない。どこ?」

 聞き返されてもアスカにわかるはずもない。
 答はレイの心の中にあるのだから。

「ああ〜ん、もういい?アスカちゃぁ〜ん、レイちゃぁ〜ん!」

「まぁだだよってばぁ〜」

 まだだまだだと放置されているヒカリの声音に泣きが入りはじめた。
 
「なきむしシンジはよわむしこむしじゃないけど、でもなきむしなの」

「う〜ん、よくわかんないよぉ」

「あのね、あたらしいおかあさんをいらないっていうの」

「へ?」

 アスカは天地がひっくり返ったかのような衝撃を覚えた。
 新しいお母さんとは一体なんなのだ。
 
「あたらしい…ってなに?ママがあたらしくなるって、ど〜ゆ〜こと?」

「え…っと」

 幼稚園児には難しい問題であろう。
 もっともこういう話題を知っている方が可哀相だとも言えるが。
 
「だから、せっかくあたらしいおかあさんができるのに、
 なきむしシンジはいやだってないてるの」

「うぅ〜ん、レイちゃん。だから、あたらしいママってなんなのよぉ」

「わたしにそんなのいやだっていうから、たたいてやったの。バシンって」

「えっ、たたいたの?」

「うん、あたまをグーで」

 手加減のできる年齢ではない。
 
「いつ?このまえ?えんそくのとき?」

 レイはううんと首を横に振った。
 
「ようちえんにはいるまえ。アスカちゃんにあうまえ。おしょうがつ」

「ふぅ〜ん、おしょうがつかぁ」

「そう、おしょうがつにゴツンってしたの。
 なきむしはわぁわぁないたけど、わたしはおばあさんにゴツンとされてもなかなかった」

 偉いでしょうとばかりにレイは胸を張った。
 
「すごいっ、レイちゃん」

 そんなことで威張るんじゃないとさらに叱られるべきところだが、
 子供とはこういうものである。
 
「あ、そうだ。で、あたらしいママってなに?」

「なきむしシンジのおかあさんはしんだの。まえに」

「ええっ、そうなの?じゃ、まほうとかひかりのくにのつかいとかそういうので、ふっかつするの?」

 サンタクロースを信じるアスカはまだまだファンタジーの世界に生きていた。
 逆にレイの方はほんの半年前に枕元にプレゼントを準備する祖母の姿を確認してしまっている。
 翌朝、そのプレゼントをサンタクロースからだと笑顔で告げられ、ああそういうことかとわかってしまったのである。
 もちろん、そのことを口にしないだけの思いやりを彼女は持ち合わせていた。

「ちがうわ。しんだひとはかえってこないの。ちがうひとがおかあさんになってくれるの」

「ええっ、ちがうママ?わかんないよぉ」

 アスカは自分の知識の範疇にない事項に戸惑っていた。
 
「アスカちゃんのおかあさんがしんじゃったあとに、ほかのおんなのひとがおかあさんになってくれるの」

「アスカのママはしなないもんっ」

「もしもってこと」

「もしでもイヤだもん」

「あのね、さいこんってしってる?」

「さいこん?ああ、しってるしってる。コンピュータの…」

 レイは力なく首を横に振る。

「じゃぁね、こくじんさんでおもしろ〜いひとの…」

「それはサンコンさん」

「じゃ、じゃ」

「しらないのね」

 えへへと笑ってアスカは頷いた。

「アスカちゃん、おとうさんがいないでしょ」

「うん、かみさまがまちがえたの」

「でもね、おばさんがだれかとけっこんしたら、そのひとがアスカちゃんのあたらしいおとうさんになるのよ」

 アスカは絶句した。
 そんな魔法のようなことがあるのか。
 
「だれ?だれがアスカのパパになるの?」

「しらない。もしものはなし」

「びっくり。アタシにもパパができるんだ」

「そう、さいこんしたら」

「へぇ、さいこんっていうんだ。レイちゃん、てんさい!」

 素直に褒められてレイは薄く頬を染めた。

「さいこんかぁ。ママ、しないかなぁ」

「おとうさんがほしいの?」

「うんっ、レイちゃんはほしくない?」

「ほしいわ。だから、なきむしシンジがゆるせないの」

 ようやく話が本道に戻ってきたようだ。
 もっともレイにしてもシンジの家庭の問題がなければ、再婚などという言葉を知らなかっただろうが。
 アスカにもやっとレイの気持ちがわかった。
 なるほど、新しい母親ができるというのに、それを嫌がって泣いているのはアスカにも許せないような気がする。
 
「そっか、そりゃあそのなきむしがわるい」

 アスカは評価をごろりと変えてしまった。
 白か黒かしかない年頃だ。
 それはそれで仕方ないだろう。
 そして二人でシンジのことを悪く言っているとき、襖ががらりと開いた。

「こりゃっ!アスカ、そこにおるんじゃろうっ」

「ひえっ」

 曽祖父の叱責に悲鳴を上げて衣文掛けから慌てて顔を覗かせると、
 襖のところにトモロヲが泣き顔のヒカリの手を握って立っている。

「あわっ、わすれてた!」

「忘れていたとはどういうことじゃっ。可哀相にヒカリちゃんは泣きながらずっと待ってたんじゃぞ」

「ごめんねっ、ヒカリちゃん」「ごめんなさい!」

 駆け寄ってきた二人によしよしされ、余計に涙がこみ上げてくる。

「何をしておったんじゃ、かくれんぼを忘れて」

 アスカはトモロヲを見上げた。
 そして、真剣な顔で言ったのだ。

「あのね、ママのさいこんもんだい」



 帰宅したキョウコはすぐさま仏間に呼び出される。
 惣流家で一番荘厳な雰囲気のある場所だ。
 さすがのアスカもここでは暴れられない。
 仏間とトモロヲの部屋はかくれんぼでも使えないようにしているのであった。
 キョウコのこれまでの経験上、この部屋に呼び出されるのは大抵が叱責されるときだ。
 いくら孫や曾孫に甘いとは言え、もともと厳格な男なのである。
 目に余ったことはぴしりと言わないと気が済まないトモロヲなのだ。
 
「そこに座りなさい」

 トモロヲの真向かいにぽつんと座布団が。
 ただし客用のものではないので、長時間の正座には不向きこの上ない。
 さすがに正座にも慣れては来たキョウコだが、この体勢で小言を聞くのは拷問に他ならなかった。

 何かしら?最近はお皿とか花瓶を割った覚えはないし。
 やっぱりアスカかしら?幼稚園で何かやった?
 ううん、それならおじいさまより先に私に連絡が来るはず。
 ということはご近所で何かしでかしたのかも。
 ガラスを割ったとか、喧嘩をしたとか。
 あの子のことだから、小さい子と喧嘩したとは思えないし…。
 でも、あのおじいさまの顔といったら…。
 物凄く怒ってる。ううん、悲しんでるのかしら。
 何かとんでもないことなのね。

 キョウコは居住まいを正した。

「キョウコさんや」

「はい、おじいさま」

 キョウコさん、かぁ。
 心の中で彼女は危険度がさらに増したことを噛みしめた。
 普通はこういうあらたまった雰囲気では「キョウコ」と呼び捨てにされる。
 それが彼女には不満でもないし、寧ろ嬉しかったくらいだ。
 ただし今日のように仏間に呼び出されて最初の呼びかけが「キョウコさん」なのだから、
 彼女の背筋が伸び、そして緊張するのは無理のないことだろう。
 ドイツでは両親以外の肉親と接することのなかったキョウコはこういう緊張感には不慣れである。
 不慣れではあるが、それが奇妙なことにいろいろな感情が混ざり合っていたりもするのだ。
 恐れ、喜び、不安、安心、絶望、希望…。
 矛盾する感情が入り混じった不思議な気持ち。
 但し、今回は不安が強い。
 おそらくその原因はトモロヲの表情だと思う。
 怒りと悲しみ…、そして寂しげな。
 そんな表情で彼は再び黙ってしまった。
 どう切り出せばいいのか迷っているのだ。
 だが、じっと待っているようなキョウコではなかった。
 彼女は嫌いなものから先に食べる性格なのだ。
 
「おじいさま、何でしょう。私?それとも、アスカですか?」

「う、うむ、それは…」

 彼はじっと孫娘を見据えた。
 その視線で問題は自分にまつわることだとキョウコは察知する。
 彼女は微笑んだ…つもりだったが、その笑みはいささか引き攣っていたことを否定はできない。

「どうして、わしに相談してくれないのじゃ。決まってから話してくれるのは寂しい…いや、不意打ちは卑怯というもの」

「卑怯?私が、何を?どういうことです?」

 キョウコの闘志に少し火がついた。
 祖父と孫娘との間に視線がぶつかる。
 
「うむ、つまりじゃな、わしたちは家族なのじゃ」

「当たり前です」

「う、うむ、そうじゃの」

 現在のところキョウコが優勢。
 アスカはそう判断していた。
 彼女がどこにいるかというと隣の部屋。
 詰問の席に同席などトモロヲが許すわけもなく、子供部屋で待ってなさいと厳しく言われたのだ。
 こういう場合、アスカがじっと待っているわけもなく、当然こっそりと仏間に向った。
 抜き足差し足忍び足、アスカは心の中でそう呪文を唱えながら足を進めたのである。
 古い武家屋敷をそのままに改修して現在に至る惣流家だ。
 廊下を使っての移動よりも部屋から部屋への移動が容易にできる。
 未だにヒカリたちは惣流家の構造を把握し切れていないが、
 アスカは物心がついてからずっとこの城代家老の屋敷で過ごしてきている。
 考えるまでもなく最適の移動ルートで隣の部屋までやってきていた。
 襖一枚向こうは緊迫した二人が対峙している。
 その二人は真剣そのものなのだが、アスカといえば好奇心丸出しで余裕そのもの。
 彼女としては母親と曽祖父が喧嘩をするとはまったく思っていない。
 だからこそ笑顔でこっそり動いているわけだ。
 どうもアスカは自分を忍者と見立てているようだ。
 盗み聞きをするのだから鼠小僧ではないということである。
 最初は襖に耳を当てていたのだが、やはりよく聞こえにくい。
 だから音を立てないように慎重に、すこぶる慎重に、彼女は襖の隙間を広げた。
 中の二人は緊張この上なく、襖が少しばかり揺れても気づかない。

 うぉっ、ママつよいっ。

 アスカは隙間をもう少し広げた。
 これで角度を変えると二人の顔がそれぞれ見える。
 少し怒っているような感じの母親と、戸惑いを表情に浮かべている曽祖父。
 アスカは忙しい。
 隙間から一度に二人の顔が見えないからだ。
 何度か忙しく顔の位置を変えた挙句、彼女は結論を出した。
 もう少し隙間を広げようと。
 両方の人差し指を隙間に突っ込み、音をさせないようにじわじわと広げ、その幅5cm。
 さすがにこれくらいが限界だとアスカはそこで我慢した。

 その時、トモロヲが決断した。
 彼は瞑目し、そしてかっと目を開く。

「では言おう。キョウコさんや、その、再婚したいという男とはどこの誰じゃ」

 形勢逆転。
 そう、アスカの目には見えた。
 母の目は大きく見開かれて、口元に手を押し当てている。
 これが笑いをこらえているというポーズだとアスカにわかるわけもない。
 
 キョウコはあきれ果てていた。
 自分が再婚するなど初耳ではないか。
 どこからそんな話が舞い込んできたのか。

「確かにわしは年寄りじゃ。この年寄りの身を案じて言いにくかったのかもしれんが、
 そこはそれ、わしたちは家族ではないか。じゃからして、わしに遠慮なくそういう大事なことはじゃな…」

 もう我慢できなかった。
 誤解だとわかって必死に笑ってはいけないと、右手で口を押さえもう一方でふくろはぎを抓っていたのだが、
 限界の時はやってきた。

「ごめんなさい!」

 そう彼女は叫ぶと身体をくの字に曲げて笑い出した。
 それももうおかしそうに、畳をたたきながら。
 
「き、キョウコ、どうしたんじゃ」

 最初はぎこちない笑顔だけしか見せなかった孫娘だが、
 日本の生活に慣れてくると予想外な面をたくさん見せてくれたキョウコである。
 思春期になると反抗的な態度を取ったまま海外へ飛び出していった、
 今は亡き娘にもこういうところがあっただろうか。
 トモロヲは折に触れてそんなことを思ったものだ。
 この時もそうである。
 まるで子供のように笑い転げている。
 いや文字通り彼女の肩をぽんと突いたなら、畳の上でころころ転がりながら笑っていた事だろう。
 かなりの覚悟でキョウコを呼び出したのだが、まったくもって予想外の展開だった。
 それはトモロヲのみならず、アスカも同じだった。
 彼女にしてみれば剣豪の時代劇かはたまた怪獣映画か。
 いずれにしても派手な対決シーンが見られると、わくわくしながら見守っていたのに期待はずれ。
 ただしばらくは爆笑しているキョウコを呆然と見ているほかなかったのである。



「犯人はアスカねっ」

「ちがうよぉっ。アタシはなにもいってないよぉ」

「わしはアスカからお前の再婚問題をレイちゃんと話しておったと聞いて…」

 キョウコの前で小さくなっているトモロヲとひきかえにアスカは顔をしっかり上げている。
 もっとも彼女にすればキョウコが再婚するとは一言も言っておらず、
 すべてはトモロヲの早とちりだったわけなのだから母を前に萎縮する必要はないわけだ。
 よく話を聞いてみれば、この前に話題になったレイとシンジのことからこんなことになったようだ。
 そのことがわかると、キョウコも真顔になって腕組みをした。

「そうかぁ…。レイちゃんの気持ちもわかるわね」

「でしょでしょ。だから、あのこはなきむしでいいでしょ」

「そいつは違うぞ、アスカ。こういうことは簡単に白黒を付けられるものではない」

 トモロヲも腕組みをする。
 大人二人を見て、アスカも同様に腕を組む。

「むずかしいもんだいよね〜」

 アスカの言葉に思わず大人たちもうんうんと相槌を打つ惣流家だった。



 雨上がりの路地にレイが空を見上げている。
 微笑みながら、後ろ手を組んで。
 そこへ通りかかったのが非番の日向マコト巡査だった。
 
「おや、どうしたんだい、レイちゃん?」

 アスカを通じてすっかり顔なじみになっている彼にレイはちらりと目を向けた。

「にじ」

「虹?」

「うん」

 レイは空に向けて人差し指を突き上げた。
 その先には微かではあるが確かに虹が見える。

「ああ、本当だ。気がつかなかったなぁ」

 龍巌寺を出てからまったく虹の存在に気がついていなかった。
 何度か空を見たことがあるはずなのにと、マコトは苦笑する。

「きれい」

「そうだね、綺麗だ」

 そして、彼はとんでもないことをこの幼女の口から聞くことになる。

「今日はあっかちゃんと一緒じゃないんだね」

「アスカちゃんはたいへんなの」

 口数の少ないレイの言葉には重みがある。
 だからこそ、アスカの母に懸想しているマコトとしてはその言葉を聞き流すことなどできなかったのである。

「大変?けが?それとも病気?」

「ちがうの。さいこんもんだいで…」

「再婚っ!」

 レイがびくんと視線を虹からマコトに移した。
 龍巌寺のつるつるぼ〜ずと違い、マコトはいつも優しいオジサンなのだ。
 そのいつも笑顔のマコトが真剣な表情で自分を見下ろしている。
 彼女は驚き、そして少し怯えてしまった。

「再婚ってキョウコさんがっ?ま、まさか!う、嘘だろっ」

 いきなり肩を掴まれて、レイはただ小さく首を横に振るだけ。
 その動きをマコトは詳しいことはわからないという意味にとった。

「ああ…」

 レイの肩から離した手で頭を抱える。
 しばらくその姿勢でいたマコトはやがて大きく息を吐いた。

「ごめんね、レイちゃん」

 石畳を駆け出していく彼の背中をレイはきょとんと見送った。
 アスカの曽祖父もそうだったが、“再婚”という言葉には男の人を変にする効果があるのかもしれない。
 従兄妹のシンジもそうなのかも、と彼女は何となく思った。
 男って変だ。
 そう結論をつけて、再び見上げた空に虹はもう欠片も残っていなかったのである。
 レイは寂しげに唇を尖らすと、溜息を漏らすのだった。



 どうしたものか…。
 ここまで駆けて来たものの、マコトに惣流家の扉を叩く度胸はない。
 彼はその立派な門の前で佇んだ。
 こうして彼女の家の門を改めて見ると、やはり彼女のことは高嶺の花なのではないかという気になってしまう。
 封建時代の世ではないことは百も承知しているのだが、
 こんな立派な、しかも由緒のある薬医門を構えている家はこの町に数軒もない。
 日向家もこの藩の下級武士であった。
 おそらくその時には上代家老の家人と言葉をかわす機会すらなかっただろう。
 そのことを考えると、今は夢を見られるだけマシになったのか。
 時々そんなことを思ってしまうマコトだった。
 彼は閉ざされている門を見つめて、そっと目線を落とした。
 もし彼女と顔を合わすことができたとして、自分は何を言うつもりなのか。
 再婚のことを確かめるのか、いや確かめてどうしようというのか。
 好きだと告げて考え直して欲しいと頼むのか?
 マコトは苦笑する。
 おそらく自分はお祝いを言うのだろう。
 精一杯の作り笑いで。
 それが日向マコトという情けない男だ。
 そのことは自分が一番よく知っている。

「お前はな、俺みたいにカッコよくないんだから、まああれだ、
 無理するな。それしかねぇよ」

 今日もまた親友にそう言われてきたところだった。
 顔がどうこうと言う意味ではない。
 親友・青葉シゲルのように個性的な顔立ちをしているわけでもなく、
 また彼みたいな行動力もない。
 マコトにできるのはただ実直に動くことだけだ。
 もちろん朴念仁でも石部金吉でもないつもりなのだが、
 周囲からはマコトがその代表格のように思われていた。
 ただ彼は自分でわかっていた。
 堅物というよりも、臆病なだけだと。
 今も門の前で佇むことしかできない。
 実際に確かめてみることもできない。
 結果を知ることが怖いから。
 結論が出るよりはずっと片思いでいる方がいいから。
 シゲルがこの場にいたなら迷いもせずに扉を叩いていただろうに。
 そこまで考えて、マコトは盛大に溜息を吐いた。
 帰ろう。

「おおおっ、ひゅ〜がじゅんさっ!」

 不意打ちだった。
 背中からアスカの大声。
 恐る恐る振り返ってみると、声の主より先に目に入ってきたのは麗しの君の笑顔。
 キョウコとアスカが手を繋いで立っていた。

「こんにちは、日向さん」

「あ、その、どうも、こんにちは」

「うふ、こらアスカ、ちゃんと挨拶しなさい」

「はぁ〜い。こんにちはっ!」

 きちんと頭を下げて挨拶をするアスカにいつものように慌てて敬礼をしてしまうマコトだった。
 幼稚園に入ってもアスカの礼儀正しさは変わっていない。
 三つ子の魂百までとは言うが、これはトモロヲのおかげだとキョウコは心から感謝している。
 自分だけではこうも礼儀正しくは出来なかった。
 もっともアスカの場合は、日頃の言動が大仰で大胆なだけに
 見え隠れする礼儀がよりクローズアップされるという利点もあったのだが。
 マコトは思った。キョウコ一人でなくてよかった、と。
 
「で、どうしたの?うちの前でぼけっとして」

「えっ」

 いきなりの攻撃に答など用意していないマコトは絶句する。
 だが、これはいつものことなのでキョウコはそのことに不審など抱いていないようだ。
 
「ご用?おじいさまがいらっしゃっるはずなんだけど…」

「あ、い、いえ、用ってわけでは…」

「あら、じゃ、何かしら?」

「そ、それは…」

 口ごもる彼の背中を押したのはアスカだった。

「あ、わかった!レイちゃんにきいたんでしょっ、ねっ?」

「ええっ、ど、どうしてわかっ…、あわっ」

「ああ、そうなんだ。それはご苦労様です」

「はい?」

 風向きが違う。
 さすがのマコトもそれくらいはわかるというものだ。
 キョウコは決して無口ではない。
 調子に乗ると相槌も打てないほど舌が回りだすのである。
 
「やっぱりお巡りさんって大変なんですよね。
 引っ越してくる人がいるって聞くたびに確認するんですか?」

「あ、あの…」

「あのね、あのね、なきむ…じゃなかった、シンジちゃんっておとこのことおと〜さんがひっこしてくるんだよっ」

「相手は子持ちですかっ」

 また風向きが悪くなった。
 しかも再婚相手は子持ちらしい。

 ああっ、そんな男よりも俺の方が新鮮で手つかずで…。
 ああっ、そんなことは褒められたことでないかもしれないけど…。
 いやっ、他の女に目もくれず生涯一人の人を…。
 いやっ、キョウコさんのことではなくて俺のことで!

 マコトはうろたえてしまっていた。

「子持ち?ええ、そうよ。奥さんを病気で亡くしてね。
 その奥さんがレイちゃんの死んだお母さんのお姉さんで…。
 で、よかったわよね、アスカ」

 一気に喋った内容が不安で娘に確認する。
 うんうんと頷いたアスカはさらに要らぬことまで補足した。

「でもね、でもね、シンジちゃんがさいこんってのにはんたいしててね」

「こら、アスカ。よそ様のことを喋るんじゃありませんっ」

 マコトは大変である。
 まるで嵐の中の小舟のように二人から迸る情報に翻弄されている。
 再婚相手の息子が結婚に反対しているのに、その親子が惣流家に引っ越してくる。
 矛盾しているようだが、もしかすると強引に結婚してしまおうというのか。
 同棲という事実を先に作ってしまおうというのか。
 次から次へと飛び出してくる驚愕の情報を噛み砕くのにマコトは必死だった。

「だけど、だけど、ひゅ〜がじゅんさはおしごとでぜ〜んぶしらないといけないんだもんっ」

「そこまでは知らなくてもいいのっ。プライバシーってものがあるんだから」

「プラなんとかなんてアスカしんないもんっ」

「ごめんなさいね、日向さん。余計なことまで教えちゃって」

「い、いえ」

 冷汗、油汗、涙汗。
 いろいろな種類の汗がマコトの背中を流れていく。

「でも、このことはみなさんには秘密にしてくださいよ」

「ひみつ、ひみつっ」

「アスカっ。調子にのらないの!さっきその秘密をベラベラ喋ったのはアナタでしょ!」

「えへへ。ひゅ〜がじゅんさ、ひみつ、ね」

 悪戯っぽい顔でウィンクして見せたアスカだったが、
 今のマコトにはそれが可愛いと思える余裕は少しもなし。
 実はこのとき、彼は悲壮な決意をしかけていたのである。
 その少年を説得してキョウコが幸せな結婚ができるようにする。

 どう説得するのかは考えもつかないが、ともかく俺は…。
 
 自己犠牲に酔いかけていると、アスカが一気にその思いを覚ましてくれたのだった。

「ね〜ね〜、そのさいこんってのあいてのおんなのひとってどんなひとなのぉ〜?」

「ダメ。アスカに喋ったらあっという間に町中に広まっちゃうから」

「そんなことないもんっ。おしえてよぉ〜」

 地団太を踏むように母を見上げるアスカ。
 その額をちょんと突付いてキョウコは微笑んだ。

「絶対に教えません」

「うぇ〜ん、レイちゃんもしらないっていってんだよぉ。アタシ、しりたいよぉ」

 唇を突き出して膨れるアスカは傍らのマコトに救いを求めた。

「ひゅ〜がじゅんさもしりたいよねっ。さいこんあいてのおんなのひとをっ」

「き、き、キョウコさんではないんですねっ、じゃあっ」

 素っ頓狂な叫びが静かな町並みに消えていったあと、
 マコトとしては実に不本意だったがこの時点ではまず順当な展開となった。
 その場に蹲ってキョウコが笑い出したのである。
 それはもう可笑しそうに。

「ねぇ、ひゅうがじゅんさ」

「え、なんだい?」

「ママ、こわれちゃったの?」

 心配そうなその表情にマコトが真面目に返答しようとした時、アスカが背中から羽交い絞めされた。

「壊れてなんかないわよぉ〜。しっつれいね、アスカは。ぐふふふ」

「うわわわぁっ、たべられる!」

 アスカは必死で母の腕の中から逃れた。

「こらぁっ、ぷっ、あはは、やだ、とまらない」

 まるでティーンエイジの女の子の様に笑っている。
 アスカにすれば今日2回目の母の爆笑だ。

「私が再婚だなんて、どうしてみんな、ぶふっ、そんなこと思っちゃうんだろ、ああ、おかしい」

 マコトはまずほっとした。
 キョウコが再婚するという情報はガセネタだったのだ。
 気が楽になった彼は目の前でじゃれあっているようにしか見えない母と娘を微笑みながら見ていた。

「ママ、しないの?さいこん」

「しない、しない。相手だっていないし、アスカだっていらないでしょう?パパなんて」

「ん?アスカほしいよ、パパ」

「えっ、ホントっ?」

 キョウコの笑顔が真顔に戻った。
 そういえば、娘にそんなことを訊いた事がなかったのである。
 
「本当にパパが欲しいの、アスカ?」

 その返事を固唾を呑んで待っていたのはマコトも同じ。
 アスカは当然といった感じで頷くのだった。

「うん、ほしいよ。えっとね、カッコよくてねぇ、ハンサムで、やさしいパパがいいなぁ」

「へぇ、そうなんだ。ごめん、ママ知らなかった」

「じゃ、じゃ、さいこんすれば?」

「う〜ん、アスカがそうなら考えてもいいけどね。でもねぇ」

「あのね、あのね、アスカ、ウルトラマンがいいっ」

 右手を高く上げて変身ポーズをとる幼稚園児。
 蹲ったままキョウコは微笑んだ。
 
「それはママが困るなぁ。背が高すぎるし、それに地球上に3分間しかいられないじゃない」

「あ、そっか。じゃ、ウルトラマンにへんしんするおに〜さんとかかいじゅ〜をやっつけるたいいんさんとかっ」

「それはテレビの中。本当に怪獣なんかいないでしょ」

「いるもん。どっかに」

「いません」

 同じ目線で話をする母と娘の他愛もないやりとりにマコトは笑った。
 とりあえず、ウルトラマンを目標にはしなくて済みそうだ。
 ただ、アスカの理想の父親は地球防衛軍で怪獣や宇宙人と戦わなければならないらしい。

 俺は、せいぜい通信班とかのオペレーターくらいしか無理だよなぁ。

 あくまで自分の分をわきまえているマコトであった。
 ともあれ、キョウコの再婚疑惑は晴れた。
 まずは安心。
 だが、これで逆に心配もできたのである。
 アスカの後押しで彼女が再婚を真剣に考えるかもしれない。
 そのことで自分に有利になるとはこれっぽっちも考えられない、そんなマコトだった。



 その一週間後。
 惣流家の門を叩く親子連れがいた。

 元の使用人用の長屋を借りることになった碇ゲンドウとシンジの父子である。
 ゲンドウは言葉少なながらも丁寧にトモロヲとキョウコに礼を言い、
 その父を見習うかのようにシンジもきちんと挨拶をした。
 彼の様子を見て惣流家の三人は一様に心の中で首を傾げていたのでだった。
 噂の泣き虫とは全然違うような…。

「こんにちは。これからよろしくおねがいします」

 アスカのように語尾に“!”こそ付かないが、しっかりとした口調でしかも笑顔だ。
 だが、キョウコは思った。
 確かに顔立ちはレイによく似ている。
 ところがレイの方が凄く元気に見える。
 申し訳ないがアルピノの所為でいささか不健康的な外見に見えてしまう彼女なのだが、
 動きそのものはてきぱきとしている。
 このシンジという少年は内面からおどおどとした印象が浮き上がってくるように見える。
 それは生来のものなのか、それとも今回の再婚騒動の所為なのか。
 一瞬でそんなことを考えたキョウコはシンジに微笑を返す。
 
「はい、こんにちは。ほら、アスカ。アナタもちゃんとご挨拶しないと」

「う、うん。アタシ、そうりゅうアスカ。つきのひかりよ〜ちえんのひまわりぐみさんなのっ!」

「こら、忘れてる」

 小声で注意する母にアスカは慌てて付け加える。

「こんにちはっ!」
 
 名乗りを上げるのに夢中で肝心の挨拶がなかった。
 
「ぼく、いかりシンジ。えっと、きみのことはレイちゃんからよくきいてるよ」

「ホントっ!」

「うん、すごくいいともだちだって、いつも」

「えへへ〜」

 アスカは褒められるとすこぶる弱い。
 それに褒めた人間が自分の好きな人ならばなおさら。
 レイが従兄妹に自分のことを褒めていたと聞き、満面の笑顔となった。

「レイちゃんもすっごくいいおともだちなんだよ〜」

「う、うん」

 この時、シンジの顔が少し曇ったことに大人たちは気づいた。
 このところレイに泣き虫だと邪険に扱われていることを知っているからだ。
 だが、アスカは気づいていない。
 
「ねっ、あそぼっ。アタシのへやにおいでよ!」

 アスカは笑顔で一歩、いやつかつかとシンジに迫った。
 この笑顔と迫力に勝てるものはなかなかいない。
 彼も多分に漏れず、了解を父に求めたのだ。

「えっと、いい?」

「ああ、問題ない。父さんは家を色々見せてもらわないといかんからな」

「家とは言えんかもしれんがの。まあ、直さねばならんところを見てもらわんといかんのは確かじゃ」

「お願いします」

 さすがにいつものサングラスは外しているゲンドウはゆっくりと頭を下げた。
 一見すると怖い印象を受けるが、礼儀は正しいし、物腰も意外に柔らかい。
 トモロヲの後に従い玄関から庭に回っていくその後姿を見送って、
 キョウコはその第一印象を修正しようと考えていた。
 
「さあ、シンジちゃん、どうぞ」

「ど〜ぞ、ど〜ぞ、ずずずいと」

「へ?ずずずってなに?おうどん?」

 どうやらシンジは時代劇の知識はそれほどないようだ。

「えっ、わかんないの?アンタ、ばかぁ?」

 ぽかんっ!
 言うが早いかアスカの頭上に拳骨が落下する。

「いったぁ〜い」

「こらっ。初めて会ったお友達に馬鹿とは何ですか」

「だってぇ、ついなんとなく」

「ごめんね、シンジちゃん。こういうお転婆だけど仲良くしてくれるかな?」

「はい」

 こくんと頷くその仕草はレイになんとなく似ていた。
 もしかすると、アスカが最初から馴れ馴れしく接したのはその所為かもしれない。
 ただキョウコとしてはそのシンジの態度が物足りなかった。
 膨れるでもなく、怒るでもなく、ただ笑顔。
 その笑顔がキョウコの目には愛想笑いに見えたのである。
 日本に暮らしてもう5年になる。日本人の血は半分流れている。
 だが、生まれてからずっとドイツで暮らしてきたのだ。
 自己主張をしないと生きていけない世界。
 そんな欧米社会で育ったキョウコには愛想笑いで感情を誤魔化すのはやはり好きになれない。
 特に子供の世界では。
 小さい頃はもっとおおらかに生きた方がいい。
 その教育方針を具現化しているのがアスカそのものなわけだ。
 口では彼女のことをお転婆だとか乱暴者と言っているが、心底からそう思っているわけではない。
 自分が考えているよりもいい子で育っていると胸を張って言いたい気分なのだ。
 しかし、ここは日本。
 謙遜が美徳の国なのだ。
 もしかするとキョウコが浮かべる苦笑は彼女にとっての愛想笑いなのかもしれない。

 この時、キョウコの顔に浮かんだ苦笑は初対面のシンジに屈託もなく接している娘を褒めたい気分を戒めているため。
 そして、もう一面ではシンジの暗い部分に接したため。
 この少年は笑いや態度で自分の気持を誤魔化す癖があるのだろう。
 それに安心していると、本心を出す。
 きっと再婚という話を持ち出すまではその女性にも笑顔を向けていたに違いない。
 なるほど、これは難物だ。
 キョウコは子供部屋に向って行進して行くアスカとその背中を少し小走りに追いかけているシンジを見送った。
 あのお父さんも苦労していることだろう。
 そしてその再婚相手の女性も。
 彼女は見ず知らずのその女性に同情してしまった。
 母としてではなく、一人の女として。

「さぁて、それでは美味しいおやつを準備しましょうか」

 台所へ向ったキョウコは、子供部屋で起きたアスカの驚愕の叫びを聞くことはできなかった。

 それは、部屋に入ってから5分後のことだった。

「うそぉっ!あのヒゲのおじさんがっ。しんじらんないっ!」

 さて、何がアスカをそんなに驚かせたのか。
 その目の前で誇らしげに胸を張っているシンジはいったい何を彼女に告げたのか。
 
 その答はアスカの手にしている一冊の本にあった。


 


 
あっかちゃん、ずんずん 第九巻 「あっかちゃん、弱虫に同情し損なうの巻」 −おしまい−










(あとがき)

 第九巻です。
 すみません、この続きを書くともっと長くなってしまいますので、ここで一旦幕を降ろさせていただきます(笑)。
 別に焦らすほど凄い秘密でもないのですが。えっと恋愛小説家ではありません。とりあえず。まあ、似たようなものですけど(汗)。
 前回は遠くからシンジを見ただけで会話もしていません。
 これからは同じ屋根の下ではないですが、同じ敷地の上で暮らす仲になるのですから、
 きっと二人の会話も増えていくことでしょう。
 
 2006.2.2 ジュン

 






 ジュンさんに第九巻を頂きました。
 ようやく二人屋根の下ってヤツですね。次回からの日常に期待です。
 そして謎が謎呼ぶゲンドウの職業。
 とりあえず、わたしは教えて貰いました。
 ヒントは……恋愛小説家でも恋愛漫画家でも錬金術師でもありません(笑)
 おおよその予想が付いた方もそうでない方も、乞うご期待。次回を刮目して待て! ですね。

 フライングで知りたい方は、是非感想メールで訊ねてみてはどうでしょう?




(2006/2/9掲載)


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