「さあっ、なにしてあそぶ?かくれんぼ?それともおにごっこ?
 あ、かいじゅ〜たいウルトラマンでもいいわよ!あ、と〜ぜん、アタシがウルトラマンっ」

 誇らしげに変身ポーズをとってみせるのは惣流・アスカ・ラングレー、通称“あっかちゃん”である。
 因みに親友である綾波レイは何故かバルタン星人がお気に入りで、この二人は数々の名勝負を繰り広げてきた。
 なにしろ勝敗がつかないのだ。
 スペシュム光線(実は見えない)を発しようが、八つ裂き光輪(実は座布団)をぶつけようが、
 レイバルタンは指をはさみにして「ふぉっふぉっふぉっ」と立ち上がってくる。
 そのうちに何故か武蔵対小次郎になったり、忍者同士の対決になってしまったり。
 またある時は正義と悪が逆転する。
 何故ならレイは仮面ライダーがお気に入りなのだ。
 彼女が変身した場合、アスカは自然に悪の組織のエージェントとなってしまう。
 おしとやかに見えるレイもけっこうアクティブな遊びをするのである。
 ところが、彼女の従兄妹であるこの碇シンジはどうだろう?
 どう見ても武闘派には見えない。
 実際、この時も彼はアスカから少し身を退いていた。
 
「ぼくはあんまりそういうのは…」

「うそっ!ウルトラマンとかみてないのっ」

「みてるけど…」

「じゃ、いいじゃないっ。あそぼ!」

「う、うん…」

 シンジは俯いてしまった。
 その様子を見てアスカは眉を顰めた。
 おとなしいのではない。
 友達の一人、洞木ヒカリはとてもいい子だからおとなしく見える。
 但しそれは見かけだけで中身は元気なことをアスカはよく知っている。
 ただこの引っ越してきたシンジという男の子は…。
 はっきりしないのだ。
 レイもヒカリも本当にイヤなら「いやだ」と意思表示する。
 幼稚園の男の子たちもそうだ。
 鈴原トウジや相田ケンスケなどは腹が立つくらい自己主張してくるのに。
 なるほど、レイが不服そうにするはずだとアスカは何となく思った。
 
「それじゃあ、アンタはなにしてあそんでんの?ままごと?」

「しないよ、そんなの。ほんをよんだり、チェロをひいたりとか」

「ちぇろってなに?」

「がっき」

「そんなのわかってるわよ!で、なに?」

「えっと…あ、こんなの」

 シンジの表情が少し柔らかくなった。
 彼は背負っていたリュックサックから一冊の本を取り出す。
 その大きめの本の表紙が見えたとき、アスカが叫んだ。

「おおっ、そのえほんっ!」

「もってるの?」

 嬉しそうな顔でシンジが言う。

「ううんっ。アタシがもってんのはきつねさんのおはなし。でもおんなじでしょっ」

 アスカはどたばたと本箱へ突っ走る。
 2mほどの距離で全力疾走ができるのは幼児の特権だ。
 彼女は一番下の段から、えいやっと大型の絵本を抜き出すと再び全速力でシンジの前に戻る。
 畳で火傷してしまわないかと思うくらいの勢いで座ると、シンジが置いた本の横に彼女の絵本も並べる。
 絵と題名は違うが、一目見て同じ作者のものだとわかる。
 
「ええっと、ほらおんなじだよ。ろくちゃんってひとがかいてるんだよ」

「はは、そうだね」

「かわい〜よね、きつねさん。アスカ、このえほんだいすきなのっ」

「ほんとう?」

「うんっ。だって、きつねのこんちゃん、とってもかわい〜んだもん」

「うんっ、そうだよね。すっごくかわいいよねっ」

 うんうんと頷き合う小さな頭が二つ。
 さっきまでシンジに不快感を持っていた事などアスカはすっかり忘れていた。
 
「アタシ、ろくちゃんがだぁ〜いすきなのっ」

「そうなんだ」

 輝くような表情のシンジにアスカは再び本箱に全力疾走する。
 そしてよいしょよいしょと運んできたのは数冊の絵本。
 どれもこれも可愛い表紙の絵本だった。
 その表紙にはすべて『ろくちゃん』と作者の名前が記されていた。
 
「へへへ、ろくちゃんのえほんはねぇ、ぜ〜んぶもってんの。
 このまえにね、さいごにのこってたのをかってもらって……あれ?」

 アスカは目を丸くしてシンジが取り出した絵本を手にした。
 タイトルは『ぎこぎこ、しぃ〜っ』。
 大きなチェロとその半分くらいの背しかない少女が描かれている。

「これ、なぁに?アスカ、みたことないっ」

「うふふ、そうでしょ。だってまだうってないもん」

「えっ、うってないのにど〜してアンタがもってんのよ。まさか、アンタどろぼ〜?」

「ちがうよ。もらったんだよ」

「ふ〜ん、そうなの?ねぇ、あのね、いい?」

 アスカとしては精一杯のおねだりだった。
 さすがに初対面の子から本を奪い取れるものではない。
 だから『ぎこぎこ、しぃ〜』の絵本を指さしてお願いをするだけである。
 もちろん、本の持ち主は拒否や意地悪などしない。
 
「うん、いいよ。よんでよ」

「アリガト!」

 アスカは絵本を手にした。
 まさに嬉しくてたまらないという感じである。
 
「うれし〜なぁ。アタシ、このえ、だぁ〜いすきなの」

「ほんとう?きっとよろこぶとおもうよ」

「え…、アンタ、もしかしてしってんの?ろくちゃんをっ」

「うん」

 アスカにとっては驚愕の事実を彼は実にあっさりと認めた。
 
「うそっ!じつぶつにあったことあんの?ろくちゃんにっ」

「うん、だって…」

 言葉を継ごうとするシンジを彼女は凄い勢いで遮った。

「ねっ、ねっ、びじん?ろくちゃんってびじんなのっ?」

「え?」

「あんなかわい〜えをかくんだもん。すっごくびじんにきまってるわよ。もちろんアタシのママにはまけるけどさ」

「あ、あのさ、びじんじゃないよ、うん。だって、おとこだもん」

「ええっ!おとこなの!しんじらんないっ」

「ぼくのおとうさんだもん」

 シンジの言葉を咀嚼するのにたっぷり10秒は掛かった。
 彼が“お父さん”と呼ぶ人間はあの……。
 背が高く、髭もじゃで、サングラスをかけて、ぼそぼそと喋る、少し怖い人。
 アスカは絵本たちを見下ろす。
 どれもこれも可愛らしく、そして読む人たちへの愛がいっぱいに感じられる絵柄だ。
 彼女はゆっくりと首を振った。
 母親のキョウコとも話したことがあったのだ。
 こんな可愛い絵を描く人はどんな人だろうか、と。
 二人の統一見解は可愛らしい女の人でメガネをかけているのではないかというイメージにおさまった。
 しかし作者は男で、可愛らしくもなく、しかもかなり怖い雰囲気がある。
 当たっているのはメガネをかけているということだけだ。
 ただし、サングラスだが。

「アンタ、うそついたらはりせんぼんで、しかもえんまさまにしたをぬかれるのよ」

「うそじゃないよ」

 アスカは疑わしそうに目の前の少年を窺った。
 だが、彼はそんな視線をものともせずに笑顔のままでいる。
 
「でもでも、アンタはいか…いか…」

「いかりシンジ、だよ」

「じゃ、ちがうじゃないっ。いかりちゃんじゃないもん。あ、それとも、いかりろくちゃんっていうの?」

「あのね、おとうさんのまえのなまえがろくぶんぎっていうんだよ。だから、ろくちゃんなんだ」

「……」

 アスカは大きく息を吸った。
 どう考えても信じられることではない。
 だが、彼女は直感していた。
 目の前の少年は嘘を吐いていない。
 もう一度、彼女は愛する絵本たちを眺めた。
 最後にアスカはさらに念を押すことにした。

「しょ〜こはあんの?」

「しょうこってなに?」

「しけいにならないですむためのものよ。アリババとか」

 刑事モノは時代劇ほどは見ていないアスカだった。
 それに普通死刑にするための証拠なのだが。
 警察の視点で考えると。

「アリババってわかんないや。でも、ほんとうだよ。ぼくのおとうさんがこれをかいてるんだ」

「アタシ、すっごうでのおまわりさんとおともだちなのよっ。ホントにホントっ?」

 日向マコト巡査がこれを聞いたら、真っ赤になって照れることだろう。
 もちろんマコトのことなど少しも知らないシンジはカッコいい刑事を想像していた。

「うん、ぜったいにほんとうだよ」

 きっぱりと言い切る彼に、アスカはさらに大きく息を吸い込んだ。
 シンジの言うことを信じ、そして驚きを表明するために。

「うそぉっ!あのヒゲのおじさんがっ。しんじらんないっ!」

 その声は子供部屋から廊下を激走し、台所でおやつとお茶の準備中のキョウコにまで到達した。
 無論、その時にはわんわんと意味不明の叫び声と化していたが。
 彼女は一瞬どきりとしたが、そこは母親だ。
 叫び声の雰囲気で危険はまったくないことはわかった。
 だから、何が娘をあんなに驚かせたのか、それを知るために準備のスピードを少し上げたのであった。



「わぁっ、あの人がろくちゃん?信じられないっ」

 やはり母と娘だ。
 さすがに大人のキョウコは“髭サングラス”と言いたいところをぐっと飲み込んで“あの人”に留めていたが。

「そうなのよっ。わがやにろくちゃんがきたのっ。すっごいでしょ!」

 何故かアスカが天狗になっている。
 キョウコを見上げて腰に手をやって得意満面。

「本当にびっくりしたわ。女の人だって思い込んでたから」

「おとうさんはおとこだよ!ぼく、しってるもん」

「ごめんね、シンジちゃん。ああ、でも凄いわね。ろくちゃんがうちに引っ越してくるなんて」

「でしょっでしょっ」

 絵本を抱きしめてぴょんぴょんと飛び跳ねるアスカ。
 そんな彼女を見てシンジは嬉しかった。
 照れ屋の父親からあまり言うなと告げられていたのだが、やはり親のことを自慢したくなるのは子供である。
 だが東京ではあの絵本の作者が父親だといくら言っても誰も信じてくれなかった。
 逆に嘘つきだと虐められたこともある。
 従兄妹のレイは最初からそのことを知っているだけに、逆に驚いたり感動したりはしてくれない。
 それに爆発的に売れているわけでも文部省推薦書籍でもないのだ。
 絵本自体を知らないと言われることが多かった。
 それがこの引越し先のどう見ても外人そのものの少女は信じてくれたばかりか、父の描いた絵本が大好きだという。
 こんなに喜ばれるとは思っても見なかった。
 できることなら自慢してやろうと思って未発売の絵本をリュックサックに詰め込んできたシンジである。
 だからこそ、彼の喜びは大きかった。
 
「それにね、それにね。シンジちゃんはチェロってがっきをひけるんだよっ。すっごいでしょっ!」

「へぇ、凄いんだ。チェロって難しいんでしょう?うちのアスカなんてハーモニカでも苦労してるのにねぇ」

「ママっ!」

 そのことは言うなと膨れっ面。
 だが、母の一言ですぐさまわくわく顔に変わる。
 
「おじいさまもびっくりされるでしょうね」

「うんっ、アタシがいうのっ」

「あら、ママに言わせてよ」

「だぁめっ。じ〜じ〜をおどろかせてやるんだからっ。アタシがいうのぉっ」





「どうした、シンジ」

「う、うん」

「窓の外に何かいいものでも見えるのか?」

 列車を乗り継いで、新幹線に乗ってもなお笑顔の息子を碇ゲンドウはからかった。
 
「アスカちゃん…だったか。随分はっきりした子だったな」

「うん。おとうさんのえほんがだいすきだって」

「ああ、そう言ってたな」

 キラキラした瞳で見られたのは久しぶりのことだった。
 絵本と自分の外見のイメージがあまりに違うので、ほとんど読者と彼が接触することはない。
 何度かあった対面の儀式はたいてい子供が引き攣った顔で、しかも残念そうに自分を見ていた。
 それで見かけよりもはるかに繊細な彼の心は傷つくのが常だったのである。
 だが、今日は違った。
 赤金髪の少女は澄んだ瞳で、まるで映画スターを見るかのようにゲンドウを見上げていたのだ。
 そして、彼女は言った。
 握手してください。サインしてください。ちょっとでいいから絵を描いてください。
 ゲンドウは照れた。
 これ以上ないくらいに。
 彼はうろたえながら小さな白い手を握り、絵本にサインをし、そして絵本の裏表紙に描いた。
 少女の絵を。
 それは黒一色で描かれていたのにもかかわらず、誰の目にも髪の毛の色が金色に見えたのである。
 さすがは絵本作家だということか。
 キョウコも惣流トモロヲもすっかり感心してしまった。
 もちろん、モデルとなったアスカが狂喜したことは言うまでも無い。
 くるくる回ったり、飛び跳ねたり。
 あそこまで喜ばれて悪い気がするわけがない。
 ゲンドウは思い出し笑いをした。
 そして、それが息子と同じ行為ではないかと苦笑に変じる。
 もっともその違いがわかるのはこの世界で少数の人間だけなのだが。

「いい人たちだったな。惣流家の人は」

「うんっ、そうだね」

「シンジ、少しは寝ていろ。明日も幼稚園だぞ」

「えっ、まだいくの?ぼく、ひっこすんでしょ」

「まだ先だ。そうだな、あと一月はかかるだろう」

「なぁ〜んだ。あ、じゃ、ぼくうそついちゃった。どうしようっ」

 途端に笑顔が引っ込んだ。

「む、どうしたんだ、シンジ」

「あのね、こんどチェロをひくってやくそくしたの。あのこと」

「そうか。だが、今度なのだからいいのではなか?」

「だって、あのこ、こんどってあした?っていってたんだよ」

「ほう…」

 サングラスの奥でゲンドウは目を細めた。
 なるほどそういう言葉を投げかけてきそうな少女だった。

「だから、ぼく、あしたじゃないよっていったんだけど…」

 不安そうな表情の息子を父親は大きな手でその髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜるようにもみくちゃにする。

「心配するな。惣流さんの電話番号を聞いておるから明日にでも電話しておこう。
 なんならレイちゃんに頼もうか?あの女の子の親友だからな」

「だめだよっ。レイちゃんはぼくのこときらいなんだから、ちゃんといってくれないもん」

「そうか。なるほどな。まあ、お礼がたわたしが電話しておこう」

「うん、おねがい」

「ああ、わかった。寝ておけよ、東京に着くのは夜中だ」

「ねむたくないよ、ぼく」

 それから15分も経たないうちにシンジは安らかな寝息を立てていた。
 息子の寝顔を見ながらゲンドウは思った。
 この引越しの意味をシンジが知ったとき、どんなに反抗し泣いたり暴れたりするだろうか、と。
 そのことに対して何の対策も採らないままに、彼はあの町への引越しを決めた。
 愛する女を追いかけて。
 ゲンドウと赤木リツコは散々話し合った末に別れることを決めた。
 再婚はシンジがどうしても許してくれなかったのだ。
 そして、彼は息子と二人でずっと生きていこうと決心していたのである。
 しかしその決心は脆いものだった。
 別れて1ヶ月も経つと彼女の携帯に連絡しようとしている自分に慄然とした。
 絵本の執筆も全然はかどらない。
 もしかすると肉体が異性を欲しているのかもしれないと、
 渾身の勇気を振り絞って風俗営業店に足を運んだこともあった。
 確かに快感は得たがそれは一時のことで、寧ろその後の罪悪感の方が強いくらいだったのである。
 何があっても二度とそういう場所には行くまいと彼は即決した。
 やはり彼が求めていたのはリツコの心だったのである。
 もとよりそのことは重々承知していたのだが。
 別れた後一切の連絡を取っていなかった彼はリツコの住まいを訪ねた。
 そのワンルームマンションの表札はすでに別人の名前になっており、ゲンドウは慌てふためいてしまった。
 ようやく彼女の行方を突き止めたのはその1週間後。
 実家に帰ったということで、逆に彼は少し安心した。
 ということは自分と別れたことは彼女にとってかなりのショックだったということであろう。
 そんな虚栄など自己満足に過ぎず、彼はすぐに渇望感に包まれてしまったのだ。
 自分の住む町に彼女はいない。存在していない。
 そう考えると彼は完全に打ちのめされてしまった。
 もし一人身であったなら、酒に溺れていたかもしれない。
 だが、彼には息子がいた。
 亡き妻がこの世に残した二人の愛の証。
 彼には小さな息子を育てる義務があった。
 いや、それは義務だけではなかったが。
 愛していた妻の面影を残す息子を彼はもちろん心から愛していたのである。
 息子の微笑み、息子の寝顔、息子の膨れっ面…。
 どの表情もユイの面影がそこにあった。
 ただひとつだけ、あの表情だけは妻の顔に見た事がなかったのだ。
 それは泣き顔。
 リツコと再婚することを泣きながら拒否した時の顔。

 ユイもあんな風に泣いたのだろうか…。

 一度も自分に泣き顔を見せたことのない、死んでしまった妻のことをゲンドウは想う。
 窓の外はすっかり暗くなっている。
 時々、ネオンや街灯の光が闇を横切って流れていくだけ。
 
 ユイ…。

 口の中でゲンドウは呼びかけた。
 
 お前は許さないということか?シンジはお前の気持を代弁しているということか?
 しかし、俺は…。

 ゲンドウは瞑目した。
 二人を同時に愛することはできなかっただろう。
 現にユイが生きていたときはリツコのことはゲンドウの人生においてその他大勢の登場人物に過ぎなかったのだ。
 ユイと先に出会った。そして愛した。
 いつからリツコのことを愛するようになったのだろうか?
 リツコのときもそうだった。
 先に愛したのは女の方。
 その事実にゲンドウは慌てふためき、気がついた時には抜差しならない状態になっていた。
 彼の心の中を彼女が大きく占めていることにようやく気づく。
 今もそうだ。
 綺麗さっぱり忘れた、いや忘れるつもりだったのに、その前よりも彼女のことを愛している自分に苦笑する。
 シンジの気持ちもわかるのだが、もうリツコのことをあきらめることはできない。
 だから何の打開策もないのにリツコの町へ引っ越そうとしている。
 息子にはその目的は何も知らさずに。
 それどころか、お母さんの生まれた街に住むんだと嘘ではない嘘を吐いた。
 シンジの気持を煽った。
 それだけでも地獄に堕ちようというものだ。
 
 どうやら長いトンネルに入ったらしい。
 走行音が変わっている。
 この時、ゲンドウは窓に惹きつけられていた。
 武骨な指がすっと窓に伸びた。
 少しだけ曇っていたガラス窓がキャンバスになる。
 そこに小さく描かれた女性の顔。
 最後にその左の頬に彼はちょんと指を置く。
 新幹線はトンネルを抜けた。
 街の灯りがリツコの顔を浮き上がらせた。
 ろくちゃんのタッチだから、実物よりも可愛らしく見えると書けばリツコに失礼だろうか。
 だがその窓ガラスに描かれた彼女の顔は少し哀しげに見えた。
 泣きぼくろが本当の涙のように水滴がたまり、そしてつぅっとガラスをつたう。
 ゲンドウは苦笑すると、ごしごしと拳で愛する女性の姿を消し去った。
 目を覚ましたシンジに勘ぐられないように。




 
 アスカはむっくりと起き上がった。

「そうだ!レイちゃん!あのいじわるっ!」

 布団の上で彼女は親友の名前を叫んだのである。
 何故、意地悪かはその8時間後に明らかになった。
 その前に興奮する小さな胸を落ち着かせて眠らないといけなかったのだが。





 月の光幼稚園。
 園児たちは土日の休みに何をしたかを喋りあうので忙しい。
 旅行に出かけたものもいれば、風邪で寝込んでいたものもいる。
 
「レイちゃんっ!」

「アスカちゃん、おはよう」

「あ、おはよっ」

 レイを追求しようと心待ちに待っていたアスカはおはようの挨拶を失念するするほどハイテンションだった。
 さすがに教室のど真ん中で親友を詰問するほどアスカも愚かではない。
 こちらにおいでとばかりにレイの手を引っ張って教室の隅に行く。

「どうしたの?」

「レイちゃん、アンタ、アタシにいじわるしたわねっ」

「わたし?」

 レイは視線を天井に上げる。
 どのことだろうかと考えているということは覚えがいろいろありそうだ。
 
「このあいだ、うわぐつをさかさまにしておいたこと?」

「おおっ、あれはレイちゃんのしわざだったのねっ」

 左右逆に置いてあった上靴に気付かず「えいやっ」とばかりに履こうとしてバランスを崩してずっこけたアスカである。

「あら、ちがったの?じゃ…」

「まだあるのっ?」

「おべんとうのふりかけにまつたけのおすいものをかけたのは?」

「えっ、あれいじわるだったの?」

 アスカがきょとんとなったのも無理もない。
 数日前にレイがポケットから出してきた袋を微笑みながらさっさとご飯の上にかけてくれた。
 最初は少しだけだったが、それが美味しかったので結局袋の中身を全部かけてもらったのだ。

「うん。でも、アスカちゃんがおいしいっていったからしっぱいなの」

「ぐふう。もしかしてそれってレイちゃんのおべんとのおさかなのふらいのふくしゅ〜?」

 松茸のお吸い物をふりかけと称した、その前日のことだ。
 アスカはレイのお弁当の中に入っていた白身魚のフライに
 自分が持ってきていたプチパックのマヨネーズをかけたのだ。
 もちろんそれはいたずらではなく良かれと思ってしたことだった。
 それなのにレイは見る見る瞳を潤ませたのだ。
 それが歓びのあまりでないことくらいアスカにもわかる。
 レイは白身魚のフライをとんかつソースで食べるのが習慣だったのである。
 魚のフライはタルタルソースの惣流家とは違ったのだ。
 因みにタルタルソースなど一度も食べたことのなかったトモロヲは
 主婦である孫娘に従容としてその食習慣に馴染んでいったのだった。
 だが碇家ではとんかつソース。
 アスカは慌てた。
 こんなことでレイと喧嘩をしたくない。
 何度も謝って、その場はフライとペンペンかまぼこのトレードで話がついた…筈だった。
 しかし、どうやらレイは根に持っていたようだ。
 
「げっ、じゃ、あれってかたきうちなの?」

「うん、でもダメ。おいしいっていわれたんだもの」

 アスカはどうしたものかとしばし悩んだ。
 しかしよく考えると悪いのは自分だし、その上レイの復讐は失敗したのだ。
 ここは水に流して、肝心の問題に移らないといけない。

「いいわよ、もう。それじゃないの、あのね…」

「じゃ、あれ?それともあのこと?」

「ちがうわよっ。そんなのじゃなくて、もっともっとすごいことなのっ」

 綾波レイはどうやら悪戯好きなようだ。
 いや、厳密に言うとそれはアスカと知り合ってから頭をもたげてきた性格。
 それまでは友達もなく家に閉じこもっていたのだ。
 だがアスカはそんな悪戯好きなレイの方が好きだ。
 それに一緒になって悪戯をすることが多いのでもあるわけだから。
 アスカはひそひそ声でレイの耳元に囁いた。

「ろくちゃんのひみつ。レイちゃん、かくしてたでしょ」

 赤みがかった瞳が輝く。
 微笑みも深くなって、彼女は囁き返した。

「おどろいた?ふふふ」

「あったりまえじゃないっ。アタシ、ろくちゃんだいすきなのしってるでしょ」

「うん。だからおかしかった。いつも」

「いじわるレイちゃん」

「おじさんにだれにもいったらダメっていわれてるもの」

「ぐふぅ、しょ〜がいのともなのにぃ」

「みたかった。アスカちゃんのおどろいたかお」

「おどろいたのなんのって。おしゃかさまでもきがつくめえって」

「なにそれ」

「ながやのはっつぁんがいってるの。よくわかんないけど」

 時代劇で覚えた台詞を使いたがるのはアスカの癖だ。
 
「みなさん、おはようございます!」

 さらにひそひそ話を続けようとした二人だったが、そんな甘い時間は先生の到来とともに終わりを告げる。
 「おはようございます!」と我先に叫ぶ園児の中にしっかりアスカもレイもいた。





「へぇ、すごいね。ろくちゃんってレイちゃんのおじさんなんだ」

「アスカちゃん、くちがかるい」

「でへへ」

「かまへんやんか。へるもんやないし」

「そうだぜ。よんだことはないけど」

「うわっ、ケンスケちゃんいけないんだっ」

「ろくちゃんのえほん、よんでないなんておかしいっ」

「ケンスケちゃん、ひどい」

 女の子3人に一斉攻撃されてケンスケが冷汗をかく。

「お、おれはおとこだから。なあ、トウジ、おまえだってよんでないよな」

 慌てて友人に救いの手を求めるが、肝心の友はすぐに反応できなかった。
 トウジは即興で嘘を吐けるほどまだ擦れていない。
 
「おまえ、よんでるのか?えほんだぞ」

「いまはよんでないわい。おとんがすきでかってくるんや。な、なんとなく、たまにや」

「おおっ、トウジちゃん、えらいっ」

「えらいえらい」

「あのえほんはいいおはなしよ。ケンスケちゃんもよまなきゃ」

 がさつなトウジもこうも褒められると照れるしかない。
 幼稚園の運動場。
 お迎えが来る前のひと時に仲良し5人が頭を集めていた時に、
 アスカが我慢できずに秘密を漏らしてしまったのだ。
 もちろん、誰にも言ってはならないという常套句を頭につけてだったが。
 当然、秘密を明かされた3人は誰に教えてあげようかと考えていたのは間違いない。
 ヒカリは姉のコダマに。
 トウジはろくちゃんの絵本のファンである父親に。
 そして、ケンスケは…まずその絵本を読ませてもらおうとトウジの家に遊びに行く決心をしていた。

「ひみつってやくそくしたのに」

 唇を尖らせるレイだったが、その実彼女はご満悦。
 秘密を守ったがために驚くアスカの顔を見ることができなかったのだから。
 今回はケンスケはともかく、ヒカリとそして予想外のトウジの驚きの表情を間近で見ることができたのだ。
 こういうレイの姿をもしゲンドウが見ていたとしたら、亡きユイとの類似性に驚いたかもしれない。

「ごめんね。がまんできなかったの」

「おまえ、がまんってしっとったんか。こりゃびっくりや」

「なによ!うるさいわよっ、せっかくおしえてあげたのにっ」

「トウジちゃん、そんなこといっちゃダメじゃない」

 ヒカリに言われすんなりと黙ってしまう自分がトウジは不思議だった。
 母親に「あんたは言われたら倍以上にして返すタイプやな。はっはっは」といつもからかわれているにもかかわらず。
 先日の遠足の時に見た赤い糸の影響だろうか。
 好きだ嫌いだということなどさっぱりわからないのだが、あれからどうもヒカリのことを意識してしまう。
 そのことは誰にも言えなかった。
 何故だか恥ずかしかったから。

「お〜い、トウジ」

 いつもの声にトウジは手を上げた。
 毎日の如くお迎えに来ているのは彼の父親。
 スーパーのパートは7時から12時までなので毎日のお迎えができるのである。
 因みに家の周りの子供たちの保護者が彼にお迎えを任せているのはギブアンドテイクということらしい。
 刑事である母親エツコは時間が不規則。父親の方は6時30分には二人分のお弁当を作って出勤している。
 だからトウジを幼稚園に送ることができず、周りに住む園児の保護者にお願いしているわけだ。
 その代わり帰りのお迎えは欠かさず彼がするということで。
 幼稚園から児童公園までの300mほどだがやはり男性が一緒に歩いていると安心だ。
 この町で物騒なことは起きたことがないが、テレビや新聞で子供が狙われたという事件を聞くと心配になるのも当然であろう。
 ということで、トウジの父・鈴原イチロウは毎日幼稚園にお迎えに来ているのである。

「こんにちはっ、トウジちゃんのおと〜さん!」

 誰よりも早く挨拶するのはいつもアスカ。
 レイやヒカリも負けじと続く。
 みんな、イチロウの笑顔が好きだったのである。
 決して爽やかな笑みではなかったのだが、人懐っこくそれでいてはにかんだ様な表情が人気だった。
 キョウコたち奥様連中は、きっと敏腕女刑事はあの笑顔に参ってしまったのだろうと憶測している。
 男勝りの女性には彼のようなタイプは庇護欲をそそられるのか。
 もちろんそれだけではなかろう。
 やはりエツコ曰くの“赤い糸”ではないだろうか。
 トウジとケンスケ、そしてあと数人の園児を引き連れて彼は園から出て行った。
 
「さよならっ、またあしたねっ」

 無言で手を振り返すトウジとケンスケとしては言葉を返すのは躊躇われるのだろう。
 「ばいば〜い」などと返事をするのはその中の女の子だけだ。
 
「きょうはね、ピアノのひなの。だからあそべないの」

 見送ったヒカリが残念そうな表情を浮かべる。
 ヒカリは週の半分がお稽古事で埋まっていた。
 ピアノに、習字に、水泳。
 まったく習い事をしていないアスカとレイにとっては彼女が大変に見えてならない。
 もっともヒカリの母もアスカやレイと仲良くなった娘を見ていると少し無理をさせすぎたかと後悔しているようだ。
 ただ途中でなかなか止められるものではなく、今日のような日は後ろ髪を引かれながらヒカリは帰途に着くのだ。
 そして残されたのは二人。
 いや、碇ハルナはかなり早く姿を現していたのだが、仲良しとさよならをするまで二人を急かさずにじっと待っていたのだ。
 もう遥か昔のように感じるが娘たちをこの幼稚園に送り迎えしていた時はこんなに余裕はなかったような気がする。
 まだ幼稚園に留まっていたいと見るからにわかる子供の背中を押すように、手を引くようにして家に戻った記憶しかない。
 今は違う。
 友達たちと仲良く喋っている孫の姿を離れて見ているのが楽しい。
 できることなら時間を忘れていつまでも眺めていたいほどだ。
 しかしいつまでもこうしているわけにはいかない。
 何故なら曾孫の帰りが遅いと今頃碇家の周りをうろうろと歩き回っている老人がいる筈だから。
 




 だが、惣流トモロヲはずっと待ち続けることとなった。
 彼は携帯電話をもっていないので、ハルナが一人で帰宅するまでの間いらいらじりじりと待っていたのである。
 アスカとレイがどうなったかと言うと、途中でちょっとした事件が起きたのだ。
 それは薬師町の交差点での出来事だった。
 人だかりがしていたので、物見高いアスカがその中に突入したのだ。 
 アスカはそこの光景を見て驚いてしまった。
 青色のスクーターが転んで色々な部品が散乱している。
 そして、呻き声を上げている男の人の脇に蹲っているのは、あのお師匠様。
 そう、赤木リツコだった。
 
「大丈夫よ。骨は折れているけどこれなら繋がるわ。ヘルメットをちゃんと被っててよかったわね」

 彼女の冷静な声音が逆に安心させている。
 今彼女のできることをてきぱきとしながら、怪我人に絶えず話しかけていた。
 アスカのような幼女から見てもその姿は医者そのものだった。
 
「アスカちゃん、どうしたの」

 人ごみをすり抜けてきたレイがアスカに尋ねる。

「こ〜つ〜じこ」

「わっ」

 レイが目を見張る。
 二人にとってははじめて見る交通事故だった。 
 胸がドキドキする。

「だいじょうぶなの?しんだりしてない?」

「あ、それはだいじょ〜ぶっ。だって、おししょ〜がだいじょう〜ぶっていってるもん」

「おししょうってだれ?」

「ほら、いったじゃない。ときどきあうひとよ。すごいひとなのっ」

「ふ〜ん、そうなの?おいしゃさま?」

「かも」

「しらないの?へんなアスカちゃん」

「でへっ」

 その時ようやく二人の下に辿りついたハルナは事故の光景にまず胸が締め付けられた。
 そして、介抱をしているリツコの存在に気が付いたのだ。
 ハルナはゲンドウとリツコのことをもちろん知っている。
 娘婿から真っ先に相談を受けたのだ。
 再婚したいのだが許してもらえるだろうか、と。
 その相手が何度か面識がある赤木医院の一人娘だという。
 偶然にもあの広い大都会で知り合った。
 それはユイが入院していた病院に見舞いに赴いたときだった。

 これが縁というものか。





 その時はまだ娘が死に至る病に侵されているとは露ほどに知らぬ時であった。
 リツコは自分から名乗ったりはしなかった。
 ハルナの方から、赤木診療所の娘さんではないかと声をかけたのである。
 こちらを向いた彼女の笑顔はわざとらしくもあり、ぎこちなくもあった。
 その表情に少し違和感を覚えたハルナである。

 思えば、すでに赤木リツコは碇ユイの死期を知っていたのだろう。
 ユイの葬儀が執り行われた数日後、ふらりと赤木ナオコ医師が碇家を訪れた。
 診療中だったので葬式に参列できなかったことを詫び、
 そしてまだひよっ子の娘の所為で身内の方に辛い思いをさせたのではないかと頭も下げた。
 もちろん、ハルナはそんなことはないと本心から否定した。
 娘さんがあの病院にいてくれて、ユイも故郷の話ができて嬉しかったと言っていた、と。
 心や身体が弱くなると人間は故郷のことを懐かしく思うものなんですねとハルナが言った時、
 ナオコはどうもそのようだと苦笑した。
 リツコからの手紙によく碇家の人たちのことが書かれていたのだと彼女は明かしたのだ。
 懐かしく、そして哀しくなる、と。
 
「ねぇ、ハルナさん」

 ナオコは女子高の先輩に微笑みかける。
 高校ではハルナが2年上で、しかも言葉を交わした事は数回くらいしかなかった。
 それでも同じ高校に在籍していたということが、卒業して何年も経ってから妙な連帯感を互いに抱くようになったのである。
 ナオコは赤木家の跡取り娘で、ハルナは福永家の次女だった。
 福永家は名字帯刀を許されてはいたが本来は雅楽の家系で武士の家柄ではない。
 それは代々医術をもって仕えてきていた赤木家も同様。
 そのあたりがハルナが碇家に嫁してきてからの二人が、
 親友といわぬまでも道端で立ち話をする仲になった元なのだろうか。
 
「あの子、医者には向いてないのかもしれないわね」

「まさか。私にはいいお医者様になるように見えましたよ」

「お世辞ばっかり。リツコは情が濃すぎるのかもしれない…」

 話はそれで終わった。
 ナオコは別の話題を持ち出して、ハルナもこのやりとりのことはすっかりと忘れてしまったのだ。
 それを思い出したのは娘が死んで一年以上過ぎてからのことだ。
 ゲンドウとシンジの親子が彼岸の墓参りに訪れた時のこと。
 沈痛な顔をした娘婿がシンジが眠ってしまってから、ハルナにいきなり土下座をしたのだ。
 わけを訊ねる義理の母親にゲンドウはぼそりぼそりと重い口を開いていった。
 頭を下げたままの彼が何故か微笑ましく見える。
 ユイの母親としてはここは叱責すべきところなのだろうが、
 彼女もゲンドウのことをもう数年見てきている。
 この無器用な男が父子家庭となりまだ小さな子供を育てている姿は見るに見かねるところもある。
 何よりハルナはシンジを引き取って育てようと申し出たことが何度もあったのだ。
 歳も同じレイを育てているのだから手間はそんなに違わないし、シンジにとってもその方がいいだろう、と。
 だが、ゲンドウはその申し出をかたくなに拒否した。
 彼はユイの面影を残す息子とともに暮らしたかったのである。
 しかも彼は絵本作家だから仕事は家でできる。
 だから大丈夫だと東京に残っていたのであった。
 ハルナは彼に頭を上げるように優しく語りかけた。

「ユイは死んだのですよ。浮気なら絶対に許しませんが、再婚なのですから何もそんなに恐縮しなくても」

「しかし、まだ、こんなに早く…」

「シンジちゃんには母親が必要ですよ。まだ小さいのですから。
 あ、でも、シンジちゃんのことを邪険にするような人が相手なら…」

「あ、いや、それは、リツコはそんなことは…」

 ぽろりと名前が転がり出てきた。
 その名前と赤木リツコがすぐに一致したのは何故だったか。
 それは不思議だったが、ともかくハルナにはゲンドウの再婚相手が赤木リツコに他ならないとわかったのである。
 そして、急に思い出した。
 葬儀の数日後に聞いたリツコの母の呟きを。
 彼女は娘のゲンドウへの想いを知っていた、または本人から聞いていたのではないか。
 死に往く女の夫を好きになってしまったのだと。
 あれはそんな娘を持った母の独白だったのか。
 ともあれ、ハルナの直感は正しくゲンドウはやっとのことで相手の名前を口にしたのだ。
 見た目は家庭よりも仕事といった感じのリツコだったから、いい奥さんや母親になれるかどうかは少し疑問だった。
 もっともそれはあくまで見た目の問題。
 意外に家庭的な女性かもしれない。
 ゲンドウが言うには、何度か遊びに来たリツコにシンジは別に不機嫌になったりはしていなかったらしい。
 ハルナはそのことに安心した。
 そして反対するどころか、しっかりやりなさいよとゲンドウを励ましさえしたのだ。
 その上、姓は元の六分儀に戻してもかまわないし、赤木家が望むなら再び養子になってもいいではないかとまで彼女は口にした。
 碇家が自分の代で絶えてもいいと本心から思ったのだ。
 ただその点については既に二人の間で結論が出ていた。
 リツコは碇リツコになる、ということで。
 この時、ハルナもゲンドウも再婚には何の障害もないと確信していた。
 まさか、シンジが猛反対するとはまったく予想していなかったのである。
 リツコお姉さんは嫌いじゃないけど、僕のお母さんはお母さんだけなんだ。
 その一点張りである。
 リツコは落ち込んでしまい、ゲンドウは手を変え品を変えなんとかシンジに許可を貰おうとしたが会話はいつも平行線。
 いや、会話にならないで、シンジが泣き出してしまうのだ。
 そうしているうちに、リツコが力尽きてしまった。
 やはり碇ユイには勝てないのだと身を退いてしまったのだ。
 
 そのリツコが目の前にいる。
 彼女がこの町に帰ってきていることはよく知っていた。
 レイを連れて赤木医院に行くことが何度もあるので、その時にナオコからリツコの帰郷は聞いていた。
 ただ、顔を合わすのが心苦しい。
 それはリツコも同様だったのだろう。
 
 ただ、一度だけハルナはリツコを見かけたことがあった。
 夕食の準備のため出かけた商店街からの帰りだった。
 彼女はこの町にはそぐわない染めた髪を陽の光に煌かせて大股で歩いていた。
 あの道は河川敷に続いている。
 散歩にしては一瞬見えたその横顔があまりに真剣そのものだったが。
 無論、ハルナは声をかけなかったし、リツコもそれは迷惑だっただろう。
 上手くことが運べば今頃は義理の義理の娘になっていたはずだ。
 世間話のひとつも、いや笑い話でさえも交わしていただろう二人が今は避けあっている。
 そう考えると悲しいものである。





 今、ほんの数メートル向こうにいる赤木リツコの表情はその時とはまったく違って見えた。
 あの時はまるで彫像のような固さが見受けられたのだが、同じ真剣な表情でも今日の彼女の顔は生きていた。
 ああ、綺麗だ…と、ハルナはその横顔に暫し見惚れる。
 あの不器用な婿養子が心底から惚れてしまうのも無理はない。
 しかしやっぱり家事は苦手そうな雰囲気だと思ってしまった自分を戒める。
 やはり亡き娘とどこかしら比べてしまうのだろう。
 ハルナはこれからはそういうものの見方はすまいと誓った。
 これではシンジと変わらないではないか。
 
「救急車はまだ?」

 顔を上げたリツコはハルナの顔を真っ向に見た。
 瞬間、彼女の時間が止まった。
 だが、ハルナは優しく微笑みを浮かべ、そして軽く頷いただけだ。
 リツコもそれにつられるように会釈する。

「もうすぐ来ると思うんですけど…」

 通りすがりの主婦だろうか、リツコの傍で蒼い顔をしている女が携帯電話を片手におずおずと話す。
 彼女に礼を言ってリツコは再び怪我人に話しかけた。

「痛いでしょうけどね、今はこれ以上はできないの。許してね」

 その時だった。
 野次馬の中にいた学生がさっと前に飛び出すと、携帯電話を構えた。
 かしゃりと音がする。
 その音にリツコは顔を上げた。
 中学生くらいだろうか、その男子学生はにやついた顔で撮影画像を確認している。
 ハルナは携帯電話のことをよく知らない。
 だからこの場の空気が少し変わったことを咄嗟に理解できなかったのである。
 リツコがすっと立ち上がり、学生の前に歩いて行く。
 
「な、なんだよ。文句ある?」

「文句を言われるかもしれないという自覚くらいはあるのね。消しなさい」

「うるさいなぁ、ばばあ。いいだろ、別に。スクープ。特種ってやつじゃん」

 ばばぁ扱いされたことはリツコの頭には入ってこなかった。
 そのことがしっかりインプットされ、思い切り腹を立てたのはギャラリーにいる弟子のアスカであった。
  
「ばばあですって!あいつはわるもん、けっていっ」

「うん、せいばいしなきゃ」

 ここ最近はアスカに倣って時代劇をよく見ているレイである。
 ただし、この二人の会話はこそこそ話。
 さすがに大きな学生相手に喧嘩は売れないと思ったのだろう。
 だが、リツコは真っ直ぐだった。
 
「それを新聞社にでも持ち込むの?せいぜい仲間に見せて吹聴するくらいでしょう。消しなさい」

「えらそうにっ。何様のつもりだよ!」

「まったく…。信じられないほど愚かね。あなたには好きな子はいないの?」

「はあ?なんだよ、いきなり」

 彼だけではない。
 野次馬一同、リツコの言葉に途惑ってしまった。
 リツコは腕組みをした。

「大好きな女の子がいたとして。もしその女の子が大怪我をしたとき、
 誰かがその様子を写真に撮っていたら、あなたはどう思うかしら?」

 ざわめきが走った。
 ハルナも、そしてアスカとレイもなるほどと頷いたのである。。

「すごいわね、おししょうさま」

「でしょっ。だからおししょ〜なのよ!」

 ハルナも小さな二人に心の中で同意した。
 お師匠云々というのはよくわからないが、リツコの持ち出してきた例えには本当に感心した。
 
「で、でも、新聞や雑誌とかで…」

「あなたの話をしてるの。どう?」

「そ、そんなこと関係あるもんかっ。いいじゃないか、記念だろ、ただの」

「記念?いい加減にしなさい」

「そうよ。あなたももうわかってるんでしょう?意地なんか張らないの」

 リツコの声ではない。
 新たな声はアスカたちのずっと右の方からした。
 そちらを見ると顔なじみの女性が少し頬を赤くして立っていた。
 
「おっ、じんじゃのきれ〜なおね〜さんっ」

「きょうはみこさんじゃないのね」

 素早く囁きを交わす二人。
 どうやら勇気を奮い起こしてマヤは発言したようだ。
 頬の赤さがそれを示している。
 彼女がそうしたのは学生時代に憧れていた赤木先輩への想いから出たものなのか。
 
「最近ね、お葬式でも携帯で亡骸の顔を撮影する人がいるのよ。
 とくに都会から来ている親戚なんかでね。
 遺族の方も不快に思ってるんだけどあんな場所だからなかなか言えなくて。
 でも、この間お坊さまが…」

 その瞬間、アスカとレイは顔を見合わせてにっこりと微笑んだ。
 絶対にあの“はげぼ〜ず”に違いない、と。
 大正解である。

「ぴしりと叱りつけたの。撮ってくれとも遺言ならまだしも、抗議することもできないのにそんなことをするんじゃない、とね。
 それから、それでも撮りたいのなら御主が撮影しているところを写真にとってもよいか。
 そこまで腹を括って写真を撮るというのならもう何も言わんが」

 マヤは少し酔っていた。
 無論、酒にではない。
 いつもは超然としている(ように彼女には見えている。恋は盲目)彼が徳の高いお坊さまのように叱咤したのだ。
 もちろん、このエピソードはあのシャイな(ということを彼女だけは知っている)彼から聞いたのではない。
 葬儀に参列していた近所の人から噂話として入手し、本人に確かめたら思い切り照れたので確証を得たわけだ。
 そういうわけでマヤは日ごろ隠さねばならないシゲルへの恋心をここぞとばかりに発露したのである。

「君も軽い気持ちだったんでしょう。そんなに意地を張るものじゃないわ」

 リツコの詰問よりもマヤの語りの方が思春期の少年には効果はある。
 彼は思わず背後にいる友人を振り返った。
 仲間に援護射撃を期待したのではない。
 逆にこのあたりでやめておけよと言って欲しかったのだ。
 ところがその中に一人だけお調子者というか、無責任男がいたのが彼の不幸だった。

「おい、美人だからって負けるんじゃないぞぉ。ははは」

 そんな風に笑われては引っ込みがつかなくなるのが当然だ。

「う、うるさいっ、死んでないんだからいいじゃないか」

 唇を尖らせて叫ぶ姿はまさしく子供そのものだった。
 対応に困ったマヤがリツコの方を見ると、彼女は既に怪我人の傍らで話しかけている。
 それはそうだろう。
 苦しんでいる人間を放りっぱなしで口論しているわけにはいかない。
 これって私ひとりで戦えってことですか?
 マヤが心の中でシゲルに救いを求めたその時である。

「すみません!道を開けてください!」

 聞き慣れたその声にアスカはきょろきょろと彼の姿を探す。
 制服姿の日向マコトは野次馬の輪の向こうから顔を覗かせた。
 交通課ではないが人だかりを見て何事かとやってきたのである。

「わっ」

 事故の様子を見て小さく声を上げるところは頼りなげなおまわりさんである。
 そして、怪我人のところへ歩み寄るとリツコの傍らに蹲った。

「あの、救急車は?」

「それはこっちが聞きたいの。連絡済。まだかしら?」

「すみません、本官は通りすがりでして…すぐ確認をします!」

 相手がすぐにリツコだとわかったが挨拶を交わす気もない様子にマコトは通信機のスイッチを入れる。
 さすがにきびきびとしたその言動にアスカは少し彼を見直す。
 いつものキョウコの前でうろたえたりしているマコトではないのだと。
 その通信中に救急車のサイレンが聞こえてきて、本署と連絡を取りながらマコトは群衆の整理をはじめた。
 そして通信を終えると、群衆の中で睨みあっている親友の恋人と男子学生に首を捻った。
 これは何を意味しているんだ?
 その時、ズボンがぐいぐいと引っ張られた。
 見下ろすとそこには輝かんばかりのアスカの笑み。

「あっかちゃん」

「あのね、おしえてあげる。
 けがをしたひとのしゃしんをとったから、おししょ〜がおこって、マヤちゃんもおこったの」

 実に的確にまとめてくれた。
 思い切り端折っていたが、マコトにはおおよその成り行きは見て取れた。
 そして、マヤが困ってしまっていることも。
 マコトは少年の前に立った。





「それで、どうしたの?」

 身体を洗っているアスカに湯船のキョウコは先を促した。
 痛くはないかと思うくらい力を入れてタオルを使っているアスカ。
 ごしごしごしという音が聞こえるくらいだ。

「ん?おししょ〜?」

「ちがうわよっ。日向さん!」

「ひゅ〜がじゅんさ?」

「そうよ、話を途中で止めないでくれる?」

 じゃあ〜〜〜。

「ああっ、まだあらってるのにぃ〜。ママのいじわるぅっ」

 キョウコは湯船から手桶でアスカの身体にお湯を流す。
 せっかくの泡を落とされて娘は不満顔。
 
「早く続きを話さないと次は頭からかぶせるわよ」

「やめてよぉっ。まだシャンプ〜もしてないのに」

「だったら話しなさい。日向さんはどうしたのよ」

「ぶう、またあわあわしないといけないじゃないの」

 どうやらアスカは全身泡塗れになってからでないと気がすまないようだ。
 キョウコは変なところで几帳面な娘に微笑んだ。

「洗いながらでも話せるでしょう」

「わかったわよ。あのね、それでね」

 うんうんと目を輝かせるキョウコ。
 木製の湯船の縁に両腕を載せ手の甲に顎を置く。
 わくわくする気分を止めることができない。
 やはりこれは恋なのだろうか。
 しかも秘めておかないといけない恋。
 日向マコトはいつか素敵な恋人をつくり、そして家庭を持つだろう。
 その女性は残念だが自分ではない。
 自分は彼には不適格だ。
 だから、今を楽しむ。
 その時間がいつまで続くのかわからないが。

「わるもんのおに〜ちゃんのけ〜たいをね、ひゅ〜がじゅんさがさっととりあげたのよ」

「ま、いきなり?」

「うんっ、めにもとまらぬすばやいうごきってやつよ。ひゅ〜がじゅんさもさすがにおんみつよねぇ」

「隠密?お巡りさんが忍者ねぇ」

 脳裏で想像する忍び装束のマコトの姿。
 だが、その顔にはいつもの眼鏡がありどうしても様にはなってない。
 眼鏡を外してみたいのだが生憎キョウコはマコトのその顔を見たことがなかった。
 ああ、見たい。
 きっと、涼やかな顔なんだろうな…。
 とかく恋する者は相手を美化するものである。
 ドイツで生まれ育ったキョウコもその例外ではなった。

「でねっ、ひゅ〜がじゃんさったら、いきなりしゃしんをけしちゃったのよっ」

「えっ、いきなり?」

「うんっ、みんなびっくりしちゃった」

「はは〜ん、ボタンを押し間違えちゃったとかでごまかそうとしたのね」

「ちがうよっ」

 キョウコの予想は瞬時に覆された。
 
「ひゅ〜がじゅんさはさむらいなのよっ。そんなことしないんだもんっ」

 アスカがタオルを止めて湯船の母親を見上げた。
 忍びから侍に格上げされたことを先祖代々の日向家の墓に眠る人々は如何様に思うことだろうか。
 
「へぇ〜、そうなの」

「あのねっ、ひゅ〜がじゅんさはうったえるならうったえなさいってはっきりいったのよ」

「あらま」

「でもね、こんなところをしゃしんにとるのは…えっと、なんだっけ?」

「なに?なんて言ったの?」

「えっとね、そうそう、けんりとしてゆるされるけど…ひととしてはゆるされない…だったっけ」

 さすがに記憶力のいいアスカだ。
 意味はわかっていないが言葉は覚えていた。

「ねぇ、けんりってなぁに?」

「おじいちゃんにきいて」

「ええっ、ママ、ひっどぉ〜い」

 マコトの言葉を胸に刻み込むためにキョウコは娘の質問をはぐらかした。
 もっとも意味はわかるが、うまく娘に説明できる自信がなかったわけでもあったが。
 
「さあ、お湯かけるわよ」

 全身泡塗れの娘に母親は宣言した。
 惣流家のお風呂にシャワーなどという気の利いたものはない。
 湯船から直接手桶でお湯を掬うのだ。
 
「よしきた、がってんっ」

 アスカはぐっと目を瞑る。
 身体を洗ったあとは頭からお湯を被るのだ。
 そしてその後、髪を洗う順番になる。

「今日はママが洗ってあげるね」

「やたっ」

 ざぶぅ〜ん。
 もう一度、ざぶぅん。
 何が嬉しいのか自分でもわからないが、アスカはにっこり微笑んだ。

「よぉし、アスカ、シャンプー」

「しょうちっ」

 手探りで見つけたシャンプーをさっと差し上げる。
 目を瞑ったままだから適当な方向に。
 そんな娘の姿に頬を緩ませながらキョウコは湯船から出た。
 最初は木のお風呂に、しかも毎日お湯を一杯に張るなど実に非合理的な入浴法だと眉を顰めたものだ。
 だが、それも数日のことだった。
 身体に半分流れる日本人の血か、それともお湯に身体を包まれ、そして柔らかな木の感触が心地よかったのか。
 キョウコはすぐに日本流のお風呂が大好きになった。
 トモロヲに木のお風呂の手入れの仕方を教わり、毎日お風呂を洗うのは彼女の役目となったのである。
 市役所に出かける、朝の短い時間を彼女は独楽鼠のように働いている。
 食事の支度、お弁当の準備、洗濯、それにお風呂掃除。
 亡き妻以上に働き者の孫娘だとトモロヲは嬉しくてたまらない。
 最近はアスカも一緒になってお風呂掃除をしていた。
 トモロヲと一緒にラジオ体操をしてからお風呂の掃除に取り掛かるのだ。
 アスカは浴槽の中から、キョウコは外から。
 ごしごしごしごし。
 惣流家の朝は早めなのである。
 それが苦痛でもなんでもないということは、キョウコは幸せなのだろう。

「そうかぁ、いいこというわね。日向さんも」

「うんっ、カッコよかったよ。わるもんのおに〜ちゃんもごめんなさいっていってたもん」

 ああ、その現場を見たかった。
 キョウコは残念でたまらない。
 
「ひゅ〜がじゅんさもやるときはやるのよね〜」

「こらっ、生意気よ、アスカ」

 惣流家のお風呂場は暖かな湯気に包まれ、しばらくはマコトの話題で盛り上がっていたのである。





「はっくしょんっ!……は、は、はぁ……はくしょんっ!はくしょん!」

 派出所の机でマコトはくしゃみを連発した。
 よもや愛しのキョウコがアスカとお風呂場で自分のことを話題にしているなど想像できるはずもなく。
 きっと、今日の自分をマヤとシゲルが笑いものにしているに違いないと決め付けていたのである。




 
 あっかちゃん、ずんずん 第十巻 「あっかちゃん、大いに驚くの巻」 −おしまい−



(あとがき)

 第十巻です。
 ようやくシンちゃんも普通に登場人物の一員に。
 人間関係が入り乱れてまいりましたがお許し下さい。
 次回からシンちゃんはアスカと同じ敷地に住む仲となります。
 
 2006.3.11 ジュン






 ジュンさんから第十話を頂きました。もう十話目なんですよね〜。
 しかし、絵本作家というだけでも意外ですが、ろくちゃんという可愛らしいペンネームとのギャップは…あえて触れますまい(笑)
 入り乱れた関係がどのように収束するか、ジュンさんの手腕に期待致しましょう。
 まあ、仮に愛憎入り乱れたとしても、全然安心して拝読できるお話ですけどね。
 あっかちゃんが快刀乱麻を断つ活躍で全て収束(破壊?)してくれることでしょうから(笑)
 いつもいつもありがとうございます!なジュンさんに感想メールを!





(2006/3/15掲載)


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