来週の日曜日には碇ゲンドウとシンジの父子が引っ越してくる。
 東京からの荷物を載せたトラックに便乗してくるそうだ。
 自家用車を処分したらしい。
 この町で住むには歩く方が都合がいい上に、わざわざ駐車場を借りてまで手元に残しておくほどの事もないからだと、ゲンドウは義理の母に電話で説明した。
 もちろん話を聞いた碇ハルナはその言葉の裏にあるものを感じていた。
 理屈では彼の言うとおりなのだろう。
 だがその影には彼の決意と哀しさが垣間見られた。
 ハルナは知っていた。
 処分した車を購入する時に選んだのが今は亡き娘ユイであることを。
 長身のゲンドウが身体を折りたたむようにして乗り込んでいた、そしてその外見とは不似合いな小さな可愛い車。
 彼の容姿から考えると黒塗りの大型外車がぴったりなだけに、そのアンバランスさに思わず口元が緩んでしまう。
 ウケを狙ったのではないかという周囲の者の声にユイはむきになって反論したものだ。
 みんなあの人の可愛らしさがわかってないのだと。
 当のゲンドウはそれが嬉しいのか照れくさいのか腹を立てているのか、何も感想を漏らさずただ無表情で運転していた。
 何だかそんな光景が遠い過去のように思える。
 まだ3年も経ってはいないというのに。
 ハルナは仏壇のユイの写真に微笑んだ。
 彼女の位牌はゲンドウが持っていた。
 小さな仏壇とともに。
 だからハルナは碇家の仏壇にはユイの写真を2枚、位牌代わりにおいている。
 1枚はまだ入院前に撮ったまだ赤ん坊のシンジを抱いているもので、
 もう1枚は揃って逆縁の姉妹が制服を着て並んでいる写真。
 綾波レイの母親になる、その妹の方は位牌もここにある。
 その夫のも彼女に寄り添うように並んでいた。
 綾波家には二人の墓や仏事の面倒をみようという身近な親類がいなかったのである。
 これは逆にハルナにとって幸いだった。
 娘と彼女の愛した男を自分で弔っていけるからだ。
 さて、ゲンドウはどうするのだろうか。
 ハルナは考えた。
 ユイの選んだ車を処分するのにハルナに了解を求めるように連絡してくる。
 そんな気の弱さと愛情の深さが同居しているのが碇ゲンドウという男だ。
 もう数年彼を見てきたハルナにもそれはわかるようになっている。
 そして彼が赤木リツコと再婚したいと息子に反対されても尚願っていることも。
 仮に二人が再婚できた場合、ユイの位牌とまだ新しい仏壇はどうなるのか。
 ハルナはそれをひきとってもいいと思っている。
 そのことでゲンドウやリツコを恨むことなど絶対にない。
 だが…。
 ハルナは写真のユイに笑いかけた。

「あなたのゲンドウさんはそうしないでしょうね。リツコさんもあなたの面倒を見てくれるような気がするわ」

 あの二人ならそうしそうだ。
 ユイをハルナに押し付けることができるような人間ならシンジの反対など強引に押し切っていただろうから。

「でも、どうでしょ、あなたの方は。後妻に弔われるのって」

 線香の煙が微かに揺らぐ。
 母にからかわれても、写真の彼女は笑顔だった。
 4年前そのままの。



「アスカ、バケツのお水を入れ替えてきて」

「しょ〜ちっ!」

「わたしもてつだう」

 黒ずんだ水が入っているバケツを惣流アスカと綾波レイが二人で運んで行く。
 よいしょよいしょと声と力を合わせている二人の後姿は実に微笑ましい。
 惣流キョウコもその祖父トモロヲも手を止めて思わず笑顔になってしまう。

 今日は引っ越し前の大掃除。
 わざわざそのために東京からやってくるというゲンドウをトモロヲはこれは大家の仕事だと一喝した。

 人の仕事を取るものではない。
 お主は東京で引越しの準備をしなさい。
 ほれ、挨拶まわりもあるじゃろうが。
 そもそもお主は無愛想な面をしておるのじゃからの。
 きちんとお世話になった方に礼を言わんといかんぞ。
 おお、そうじゃ、それからの……。

 電話口でくどくどと説教を始めたトモロヲを見て、アスカとキョウコの母と娘は居間で笑い転げたものだ。
 それから5日後。
 明日は大掃除だから遊べないのときっぱりと宣言したアスカにレイは密かに決心した。
 自分もお手伝いをしようと。
 
「アスカちゃんのところでおそ〜じをおてつだいしてきますっ」

 気合の入りまくった眼差しで、この朝レイは宣誓した。
 祖母たるハルナがこんな孫を見て歓ばないわけがない。
 まあまあまあと、何がまあなのかよくわからないが、
 とにかくまあまあを連発しながらハルナは孫の衣装を掃除用に整える。
 それからお昼前に差し入れを持って行きますからと伝言も頼んだ。
 その場で伝言を二回繰り返し、レイは大きく頷いて意気揚々と碇家を出発したのだった。
 あれが一年前には部屋の隅で従兄と二人していじいじと無言ですごろくをしていたレイだろうか。
 ハルナは嬉しげに首を横に振り、惣流家の方角へ向って手を合わせた。
 あっかちゃん、ありがとうね。

 もしアスカがハルナの心からのお礼を聞いたとしても首を傾げていただろう。
 別にアスカはレイに特別なことをしたわけではない。
 ただ仲良くなりたかっただけだから。

「アスカちゃん、いれすぎ」

「うぅ〜、がんばったら、もてるかもぉ〜っ」

 表面張力の限界まで水を蓄えた大きなバケツを幼女二人がかりでも持ち上げられるわけがない。
 かと言って、せっかく溜めた水を流してしまうのはもったいないではないか。
 それはアスカもレイも同じ気持ちだった。
 
「そう、おはなにみずをあげましょう」

「おおっ、レイちゃん、ナイスなみょ〜あん!」

 手を叩くアスカは嬉々として如雨露を取りに走る。
 右手にキョウコ用の大きなプラスチック製の如雨露。
 左手にはアスカ専用の金魚の形をしたブリキ製の如雨露。
 これはアスカが押入れの箱の中から発見したものだ。
 もともとはキョウコの母、アスカの祖母にあたる惣流ミキコが幼い頃買ってもらったものだ。
 翡翠神社の夏祭りでトモロヲが買い与えたもので、
 父親からのプレゼントなど滅多にもらえなかった彼女は宝物のように大切にしていた。
 そして、トモロヲと大喧嘩をして日本から飛び出して行った日。
 その金魚の如雨露が部屋の真ん中にぽつんと置き去りにされていたのだ。
 トモロヲはそれを彼女の置いていったものと一緒にして押入れに放り込んでいたわけだ。
 まだ3歳だったアスカが嬉しそうにその如雨露を持って現れた時、
 トモロヲは不覚にも涙をこぼしそうになってしまった。

「ねぇ〜ねぇ〜、じ〜じ〜、このおさかなさん、アスカにちょうだい」

「そ、そうか、欲しいのか?」

「うんっ、おさかなさん、あかくって、すっごくかあい〜もんっ」
 
「アスカは赤いものが好きだからな」

「うんっ、それにおさかなさん、かあい〜んだもんっ。ちょ〜だい、ちょ〜だいっ?」

 所有者はもうこの世の人ではない。
 トモロヲが拒否できるわけがなかった。
 こうして金魚の如雨露はアスカの宝物の一つになったのである。

 さて、その真っ赤というよりもオレンジ色に近い、金魚の如雨露。
 レイの目が釘付けになっている。

「へっへぇ〜ん、かわいいでしょっ」

「うん、かわいい。とても」

 レイは渡されたプラスチック製の如雨露を見下ろした。
 可愛くも何ともない。
 まさに機能面だけを追及した代物である。
 彼女は少し唇を尖らせた。
 だが、そっちがいいからよこせなどとも口が裂けても言えはしない。
 だから、指をさした。
 金魚の如雨露に。

「あ、いいよ。じゃ、レイちゃんがきんぎょさんね」

「ありがとう」

 アスカは物分りがいい。
 親友であるレイが如雨露を取り上げてしまおうと考えているなどとは思いもかけない。
 ただ貸して欲しいと思っているだけだとアスカは了解していた。
 この場合はその判断が正しかった。
 もしレイが真剣にアスカの宝物を欲しがったとすれば、彼女も真剣に戦っていただろう。
 幸いにもこの二人の間にはまだ一度もそういう修羅場は発生していなかったのだ。
 アスカは寛大だった。
 レイがそれの方がいいというのもよくわかったからだ。
 プラスチックと金魚ではどっちがいいかなど明白すぎる。
 だが、一言だけ彼女は言わずにはいられなかった。

「かえしてね、あとで」

「うん」

「じゃ、はい、ど〜ぞ」

 金魚の如雨露を手にしてにっこりと微笑むレイ。
 
「ふふふっ、こっちのほ〜がいっぱいおみずがはいるもんねっ」

 それでもアスカは負けず嫌いだった。
 バケツの中に如雨露を沈める。
 ぶくぶくと大きなあぶくが上がってきて、バケツの縁から水があふれ出た。
 水をこぼすのが嫌さに如雨露を使うことなどすっかり忘れてしまっている。

「よぉしっ、じゃ、アタシはあじさいさんにおみずをあ〜げよっと」

「あ、ずるい」

 レイも満開のアジサイを狙っていたのだ。
 彼女は慌てて金魚をバケツに沈める。

「じ〜じ〜のぼんさいにはぜっていにおみずはだめだよっ。
 めちゃくちゃおこられるんだからっ」

「りょうかい。わたしもあじさいさん。あっちから」

 どうやらアスカは盆栽に勝手に水をやりトモロヲに叱責されたようだ。
 二人は庭の紫陽花に水やりを始めた。
 そもそもの用件が何であったのか完璧に忘れて。



「遅いのぉ。アスカたちは」

「きっと用事を忘れて遊んでるんですわ。まったく、あの子たちったら」

 キョウコは腰に手をやって頬を膨らませた。
 片やトモロヲの方はそんな子供らしさが微笑ましくてならない。
 自分が親の立場だった時は叱責しお尻を叩いたりもしたものだが、今はとんでもない。
 悪いことをしたときはもちろん怒ることは間違いない。
 しかし、この程度のときはまあいいではないかと思ってしまう。
 ところがキョウコの前でそういう顔はできない。
 顔を引き締めてひとことふたこと小言を言うわけだ。
 この時も「いかんの、自分の仕事を放ったらかしにしては」などとぶつぶつ言っては見せた。
 そんな演技もどうやらキョウコには見透かされているようだが。
 彼女は祖父をちらりと見て大きな溜息をついた。
 トモロヲにはその溜息の中に「おじいさまが甘やかすからですわ」という苦言が聞こえたような気がした。

「仕方ない。ちょっと叱ってきます」

「ああ、それならわしが」

「私が行きます。おじいさまは…」

 と言いかけて、キョウコはくすりと笑う。
 その笑みにトモロヲはぽりぽりと頭をかいた。

 3分後。
 しゅんとなったアスカとレイが無言でバケツを運んできた。
 その背後に腕組みをしたキョウコが続く。

「ごめんなさい」

「これからちゃんとします」

 バケツを置いてから二人は殊勝に頭を下げた。
 怒鳴り声は聞こえなかったものの、キョウコのことだから迫力たっぷりに叱ったのだろう。
 トモロヲは慰めてあげたかったのだが、孫娘の目が怖い
 文字通りの意味だ。
 何故なら彼女は幼女たちを睨みつけているのではなく、トモロヲに睨みを利かせていたのだから。
 それから15分あまりは二人ともおとなしく掃除をした。
 その静寂がトモロヲには息がつまるように感じられ、何とかしてくれと言わんばかりにキョウコをちらちらと見る。
 だがそのキョウコは澄ました顔で拭き掃除を続けていた。
 そして、またバケツの水が真っ黒になった時、彼女は普段通りの声で言った。

「さて、じゃ誰かにバケツの水を替えてきてもらおうかしら?」

「はいはいはぁ〜い!アスカがいくっ」

「わたしもっ」

 二人の目は名誉回復の想いに燃えていた。

「よぉし、じゃ二人に頼もうか」

「しょ〜ちっ、いってきますっ!」

「りょうかい。いってきます!」

 ばたばたとバケツに向って突進する二人。
 
「慌てて溢すんじゃないわよ!」

 バケツの水交換の世界記録でも狙っているかのような勢いだった。
 その動きを見送ってキョウコは楽しげに笑みを浮かべた。

「あれは絶対に廊下にこぼすわね。ぶちまけてくれなかったらいいんだけど」

 

 被害はそれほど大きくはならなかった。
 廊下に数箇所、小さな水溜りができた程度で済んだ。
 それもすぐにレイがきちんと拭き取った。
 どう?ちゃんとできたでしょっと胸を張るアスカのおでこをキョウコはちょんと突いた。
 それを見て、レイも私もとキョウコを見上げる。
 さすがに彼女のおでこを突くことはできず、その頭をぽんぽんと撫で叩く。
 それでもレイは満足そうににこりと笑った。

 お昼になってハルナが差し入れのおにぎりを持って登場する。
 中に何が入っているのかアスカとレイは興味津々で、お鮭だお昆布が梅干だとかしましい。
 たかがおにぎりでここまで盛り上がれる子供が愛らしくてたまらない。
 おにぎりと沢庵とお茶だけのお昼ご飯なのにこんなに美味しくて楽しい。
 大人の三人はそれぞれ家族とは本当にいいものだと思っていた。
 一度はなくしてしまっていたのだからその想いがより強く、深いのは言うまでもなかろう。
 そして、みなが思った。
 この子たちは幸せに暮らして欲しい、と。



 3時前。
 アスカとレイは暇を出された。
 夕方までに掃除を終えないといけない。
 そのためには可哀相だが二人が邪魔だった。
 もっとも「お外で遊んでらっしゃい」と言われ、にこやかに頷いた二人はもう掃除に飽きていたのだろう。
 「いってきます!」と大声で言い、外へ飛び出していった。
 行先は龍巌寺方面。
 別に目的があったわけではない。
 何となくである。
 幼稚園で習ったばかりの歌を歌いながら、手を繋いで歩く。
 付き合いだした頃はアスカのペースに息を乱していたレイだったが、
 最近は二人してずんずん歩く。
 車も走らない路地だからまず安心。
 気をつけるのは自転車くらいだ。
 いや、逆に低速で移動するものの方が危ない。
 勢いたっぷりのアスカたちが突っ込んでいく可能性があるからだ。
 そう。おばあちゃん、おじいちゃんたちだ。
 アスカは何度も急ブレーキをかけたり、急ハンドルで衝突を回避している。
 そして明るい挨拶。
 最初は人見知りしていたレイもすぐにアスカと同じように挨拶が出来るようになっている。
 
「こんにちはっ」「こんにちは」

「おやおや、あっかちゃん、今日も元気だねぇ。レイちゃんもいつも可愛いねぇ」

「ありがとっ」「ありがとう」

「今日はどちらへ?」

「わかんないっ」「たぶん、あっち」「うん、あっちっ」

 レイが前を指差したのでそれが進む道に決まった。
 ぶつかりそうになったおばあさんに手を振って二人はまた歩き出す。

「レイちゃん、どこいくの?」

「しらない」

「あ、そ。ま、いっか」

 簡単に納得したアスカだった。
 散歩というにはずんずん歩いていっているのだが、まあこれは散歩に他ならない。
 目的など何もないのだから。
 その目的が急に発生したのは、龍巌寺の門前だった。

「はげぼ〜ず、いるかなぁ」

「おぼうさま、でしょ。アスカちゃんはくちがわるいんだから」

「でへへ。あ、いるいる。ほら、レイちゃん」

 耳に手をあてるポーズをするアスカの真似をすると、レイの耳にも聞こえてきた。
 電気の入ってないエレキギターの微かな音が。

「きこえる。うん」

「はげぼ〜ず、はげぼぉ〜ずっ」

 妙な節をつけてアスカは門に入った。

「マヤおねえさん、いるかな?」

「うふ、いるとい〜ねっ」

 本堂に入らずに脇からお墓の方に向う。
 もう何度もここに来ているから、お墓はもう怖くない。
 ただし、お日様の出ているときは。
 夜には一度も来た事はなかったが、雨の日にここを訪れた時である。
 二人にとっては怖いもの見たさというよりも、好奇心だったのだろう。
 恐る恐る足を踏み入れた彼女たちはぶるぶると背筋を震わせた。
 暗い林の奥に何かが潜んでいるような気がする。
 しとしとという雨音。
 雨に濡れた墓石。
 そこに鴉の一声で充分だった。
 二人はきゃあきゃあと叫び声を上げてその場から逃げ出したのだ。
 だが、今はさんさんとお日様が輝いている。
 怖いものなど何もない。
 
「おおっ!ひゅ〜がじゅんさっ」

「あ、いいにおい」

 別にレイの方が食いしん坊というわけではない。
 アスカは日向巡査の存在に敏感なのである。
 それは何故か。

 キョウコの所為である。
 日向マコトのことを異性として好意を持っていることを彼女は自覚していた。
 しかし、いくら日本に来て美人だともてはやされようがドイツでの20年余の日々は消えはしない。
 東洋人の血が混じったチビでガリ。
 好きになった男の子にはことごとく振られ、たった一人同棲に到った相手には妊娠がわかった段階であっさりと捨てられた。
 しかもその相手もキョウコから望んだわけではない。
 地方から出てきた大学生に声をかけられたのである。
 キョウコは知らなかったが、彼は家賃の負担を少しでも減らしたく、
 先輩のアドバイスで一緒に住む相手を探していたのだ。
 どうせならその相手は男よりも女の方がいい。
 キョウコが何人目に声をかけた女性だったのか。
 それは彼女の名誉のために明確にはしないでおこう。
 ただ彼が妥協したことを友人に漏らしていたのは事実だ。
 そのことを知らず、キョウコは好みとは違う彼を好きになろうと努力し結果的に夢中になった。
 そして、その恋ははかなくも消えた。
 だが、キョウコは後悔をしていない。
 そのおかげでアスカが産まれたのだから。
 もしかすると赤ん坊を抱いていなければ、トモロヲが日本にこないかと誘ってはくれなかったかもしれない。
 しかも今は彼の顔すらはっきりと思い出せないのだ。
 あの時の悲しみすら忘れてしまったような気がする。
 何日も何日も泣き続けたというのに。
 ともあれ、キョウコのドイツでの恋愛の戦績は惨敗である。
 この日本でどんなに容姿を賞賛されても未だにピンと来ない部分もあった。
 それに問題なのは好きになった男性にどう思われるかだ。
 日向マコト巡査は自分のことを嫌いではないと思う。
 いつも笑顔で相手をしてくれるし、時々真っ赤な顔で自分の顔を直視できないではないか。
 しかし、よく観察してみると、生真面目な彼は自分以外の人間にも赤い顔でうろたえていることが多い。
 彼の好意がどの程度のものなのか。
 そんなものがわかるならばキョウコは狂喜することだろう。
 マコトの彼女への好意はMAXのはずだから。
 だが、現実にはそんな測定器はどこにも存在しない上に、キョウコの気がいささか退けている。
 それはアスカの存在。
 独身男性の彼に子持ちの自分が似つかわしいわけがない。
 それが彼女の結論。
 だが。
 だが、恋愛感情というものは簡単に消し去ることなどできない。
 逆にキョウコにとっては成就することのない恋と決め付けているのだから、
 少なくともマコトが誰か素晴らしい女性と結婚するまではこの想いはこのままで置いておきたい。
 それくらいは自分にも許されてもいいだろう。
 キョウコはそんな風に感情の整理をつけていたのだ。

 で、アスカが何故敏感なのかだ。
 簡単である。
 そんなキョウコが好きな人のことを喋りたくなる気持ちは当然だ。
 だが、その相手は限られる。
 まさかトモロヲや職場の仲間とマコトの話題ができるはずもない。
 そこでアスカだ。
 まだ幼児で恋愛感情がよくわかっていない上に、マコトとも親しい。
 しかもアスカから彼のいろいろな話を聞くこともできる。
 一石二鳥ではないか。
 だからキョウコとアスカの会話でマコトの登場する頻度がどんどん増えていっているのだ。
 そのためにアスカが無意識のうちに日向マコトの存在を大きくしていっていたわけだ。
 
「やあ、あっかちゃん」

「おっ、チビすけども。匂いにつられて来たか。でも、やらんぞ、こいつは」

 やらんぞと言いながら、手にしたものを掲げてみせる坊主頭の青葉シゲルである。
 そこには湯気の立っている笹舟。
 ソースの香りも芳しいたこ焼きが手つかずで乗っている。

「おおっ、たこやきっ!ラッキーっ!」

「うふふ、わたし、たこやきすきなの」

 アスカがマコトに気をとられたのは一瞬のことで、すぐに匂いのもとに目が移った。
 
「おいっ、たった今やらんと言っただろうがっ」

「えええっ、いじわるっ」

「はげぼうずのくいしんぼう」

 レイまでが思わずシゲルの売り言葉を買ってしまっている。

「誰が食いしん坊だ。俺のたこ焼きを横取りしようとしてるそっちの方が食いしん坊ではないか」

「おい、シゲル。お前のって、それは俺が買ってきたたこ焼きだろうが」

「貰った瞬間に所有権は俺に移ってるわい。はっはっは」

 完全にシゲルは遊んでいる。
 彼の役どころは悪代官といったところか。
 遊ばれているアスカとレイは彼の掌上にすっかり乗ってしまった。

「ひっどぉ〜いっ!5こくらいちょ〜だいよぉっ!」

「アスカちゃん、よくばり。わたしは3こでいいから」

「バァカめっ。1個でもやらんわいっ。がっはっは!」

「あああっ、こ、このっ、えっと、ええっと、あ、おもいだした!この、なまぐさぼうずっ!」

「意味がわかって言ってんのか?ええ?」

「おい、シゲル。いい加減にしろよ」

「ふふん、ひゅ〜がじゅんさはアタシのみかただもんっ。せ〜ぎのみかたなんだからっ」

 このアスカの言葉はマコトを奮い立たせた。
 何しろ以前アスカは新しい父親はウルトラマンや怪獣退治の隊員といった正義の味方がいいと言ったのだ。
 アスカの新しい父親イコール麗しのキョウコの夫である。
 彼が燃えないわけがない。

「あっかちゃん、俺はたこ焼きを二つ持ってきた。そのひとつをあっかちゃんに全部あげよう!」

 だが、アスカは友達思いだった。
 せっかくのマコトの奮発もびしりと決めることはできなかったのである。

「レイちゃんのぶんがないじゃないっ。はげぼ〜ずのなまぐさぼ〜ず、そっちはレイちゃんにあげなさいよっ」

「はんっ、知らぬわっ。さて、温かい内に食わんとなぁ」

 これ見よがしにシゲルは爪楊枝をたこ焼きに刺し直した。
 その時である。
 凛とした声が響いた。
 
「こらっ、シゲルったら。本当に意地悪なんだから」

 声のほうを見ると、木立の前で巫女姿の伊吹マヤが腕組みをしている。

「あっ、びじんのおね〜さんっ」

 レイはぽんぽんと拍手を打って、マヤを拝む。

「うふふ、安心してね。意地悪坊主は成敗してやるから」

「お、おい。変な攻撃はするなよな。たこ焼きが落ちるぞ」

 マヤの登場でシゲルの声音はいつもの調子に戻る。
 
「じゃ、まずそれを私に頂戴。そうしないとひとつもあげないんだから」

「わ、わかってるって。芝居じゃないか」

 シゲルは苦笑しながら笹舟を恋人に差し出す。

「よろしい。よくできました」

 受け取ったマヤはにこりと微笑み、たこ焼きの匂いを吸い込む。

「ああ、いい匂い。全部食べちゃおうかしら」

「わっ、ひどいっ!」

「ごくあくひどう」

「うふふ、冗談よ。みんなでわけっこしましょう?」

 おどけるマヤにアスカとレイはぱちぱちと手を叩いて喜んだ。

「お〜い、クソ坊主には分け前はなしか?」

「こらっ、食べる時にそんな言葉使っちゃダメ。本当に下品なんだからっ」

「げひん、げひん!」

「えっと、15個入りね。ふたつで30個だから、一人6個。
 ねぇ、あっかちゃんにレイちゃん。意地悪坊主にも同じだけあげてくれる?」

「うんっ、いいよっ」

「じゃあね、あっかちゃんはマコトくんのたこ焼きからもらってね」

 マヤは素早くマコトにウィンクする。
 恋しい人の娘と少しでも仲良くなれればという友情に彼は頬を掻きながら頷く。

「レイちゃん、ごめんね。意地悪坊主と一緒でいい?」

「いいの。たこやきはたこやきだから」

 悪びれもせずにレイはちょこちょことシゲルの前に走る。
 そしてシゲルに向って手を合わせた。
 シゲルに手を合わせたのか、彼の持つたこ焼きの笹舟にだかわからないが。

「おいおい、調子がいいなぁ」

「文句言わないの。あげないわよ」

「はい、あ〜ん」

 レイは爪楊枝をたこ焼きに刺すとそれをシゲルに持ち上げた。
 その重みと柔らかさにたこ焼きがすぐに落ちそうになる。

「おおっと!」

 すかさずシゲルはパクリと口の中に。

「おいしい?いじわるぼうずさん」

「ああ、うまいぜ。はふはふ。綾波のレイちゃんは優しいなぁ。
 どこかのじゃじゃ馬巫女と違って、いい彼女になれるぞ」

「ちょっと貸して」

 レイの頭をよしよしと撫でていると、急にマヤがシゲルの手から笹舟を奪い取った。

「ほら、口開けなさいよ」

「お、おいっ」

 続けざまに二個。
 たこ焼きがシゲルの口にねじ込まれた。
 いや、その形状から押し込まれたと言った方が正しかろう。
 たこ焼きの中身は外側よりもかなり熱い。
 幼女に嫉妬した恋人にたこ焼きを口の中に強制的に放り込まれたシゲルは目を白黒。
 はふはふさせてたこ焼きを冷ます余地は咥内にはなく、必死に少しずつ咀嚼するより他に手はない。
 世にも珍妙な表情のシゲルにマヤは冷たい目を送る。
 
「ああっ、ダメだよぉ。たこやきはいっぺんにたくさんおくちにいれられないんだよ」

 アスカにはマヤの感情はわからない。
 早く食べさせてあげようと焦ったのだと解釈していた。
 それはレイも同様で目の前で起きた騒動に目をぱちくり。
 二人とって男女の機微はまだまだ未知の領域ということだ。

「こぉ〜やって、たべさせてあげんのよ。みてて」

 アスカはぐさりと爪楊枝をたこ焼きに突き刺した。

「はい、ひゅうがじゅんさ。あぁ〜んしてくださいねぇ〜」
 
 恋する女性の娘に阿たわけではない。
 日向マコトという男は生真面目で素直なだけだった。
 アスカに言われるがままにまるで母鳥に餌を貰う雛鳥の如く口をあんぐりと開けた。

「はい、ど〜ぞ」

 ぱくん。たこ焼きを口の中に入れてから、マコトは真っ赤になった。
 異性から食べさせてもらうなど初めてのことだ。
 もちろん、病気の時に母親からおかゆを食べさせてもらった経験は除かれている。
 ほとんどの人間にとって母親は異性などという領域に位置していないのだから。

「はい、よくできました」

 その活発な言動からアスカはおままごとを好まないと思われがちだ。
 しかし、案外彼女はこういう遊びをするといい母親役になるのだ。
 洞木ヒカリもがんばるのだがどこか平凡な母親どまり。
 アスカの場合は芝居っ気たっぷりなのである。
 赤ん坊をあやしたり、炊事洗濯掃除と目まぐるしく家事をする。
 それが見ていて面白いのだ。
 因みにレイの役はお父さん。
 亭主関白のお父さんを見事に演じていると思ったら、そのモデルが“ろくちゃん”と判明した。
 碇ゲンドウの言動を真似ていたのである。
 そのネタがわかってもレイのお父さんぶりは最高だった。

「あら、おかえりなさい。おふろ?それともごはん?」

「うむ、そうだな」

「そうだなじゃありませんよ。まず、ただいまでしょ?」

「ああ」

「ヒカリちゃん、おと〜さんにおかえりは?」

「えっ、わたしこどもやくなの?さっき、おきゃくさんになってみててって」

「そうだっけ?まあいいじゃない。ねえ、あなた」

「うむ、もんだいない」

「ぐふふ、でたでたっ。もんだいないがでたわよっ。で、ごはんなの?おふろ?」

「むう、おかずはなんだ?」

「ビィ〜フステ〜キよっ」

「にくはきらい……だ」

「もうっ、ダメですよ!すききらいしたらおおきくなりませんよぉ〜」

「えっと、アスカちゃん、おとうさんはおおきくならないんじゃ」

「もぐもぐもぐ、うごぉ、きょだいろくちゃん、しゅつげん」

「おっ、でたなっ!きょ〜あくかいじゅ〜めっ。へんしんっ!でゅわっ!」

「あ、あの、おままごとは?わたしはどうすれば?」

 話を戻す。
 
 マコトはたこ焼きをはふはふさせた。
 その表情が面白かったのだろう。
 マヤに注意したくせに、アスカは次のたこ焼きに爪楊枝を刺した。

「ま、待って…ほふ…まだ、口に…はふ…ち、ちょ…」

「はい、どぉ〜ぞ」

「はげぼ〜ずさん、もう1こ。あ〜ん」

「ほら、シゲル!口開けなさいよ」

「ま、まて、お前ら…おぅっ!」

 男性陣にもう一度目を白黒させてから、彼女たちはその口にたこ焼きを頬張り舌鼓を打った。
 たこ焼きは美味しい。
 実に美味しい。
 アスカとレイはソースと青海苔を口の周りにつけて、にんまりと笑いあった。



「そう?あんなの美味しい?」

 キョウコは顔を歪めた。
 前にも触れたことがあるが、キョウコは未だに蛸が苦手だ。
 いくら流暢に日本語が喋れるようになり、見事にお箸を操ることができても、
 あの生き物が食物になるとは考えたくもない。
 本音で言うと、目の前でトモロヲやアスカが蛸を食べているのでさえできれば見たくないのだ。
 ただお弁当に入れるたこさんウィンナーは別だ。
 あれはウィンナーであって、蛸ではない。
 しかも実物の蛸はあんなに可愛くないではないか。

「おいしいよぉ!すっごくおいしいよ」

 アスカがいくら力説してもキョウコは顔を顰め首を振った。
 トモロヲはお風呂に入り、今日一日の疲れを癒している。
 母と娘は居間でキウィを食べている。
 アスカはキウィを口に放り込んでもぐもぐと噛んだ。

「ママはダメ。おいしいとは思えないわ」

「たべずぎらいはダメですよぉ」

 アスカはニヤリと笑った。
 レイとの出逢いを契機としてあれほど苦手だった豆腐が食べられるようになった彼女は胸を張る。

「じゃ、納豆食べる?」

「ぐふぅ、あれはにおいがいやなの」

「それじゃ、ママの蛸も許してよ。ね?」

「うぅ〜ん、どうしよっかなぁ」

 アスカは生意気にも腕組みをして首を傾げる。
 そんな小娘に阿る様にキョウコは笑いかけた。
 情けないとは思うもののこれだけは死守しないといけない。
 本当に蛸だけはダメなのだ。
 見るだけでも背筋に寒気が走るというのに、アレを食べる、口の中に入れ、お腹の中に入れて消化するなど…。
 ぶるるる。
 考えただけでもキモチワルイ。
 元々日本人の祖父はともかく、白人の血が濃いはずのアスカがどうしてアレを食べられるのか。
 そうだ。これは理屈ではないのだ。
 キョウコは開き直った。
 ダメなものはダメなのだ。
 死ぬまで蛸だけは絶対に食べない。

 そう心に誓った数秒後。
 キョウコの決心を大いに揺るがす言葉をアスカが口にした。
 
「でもね、ひゅ〜がじゅんさもだいすきなのに。アスカもたこやきだいすきっ」

 アスカがたこ焼きを世界一好きだろうとキョウコの決心は変わらない。
 だが、問題はその前に出てきた名前の方だ。
 
「アスカ?」

「ん?なぁに?」

「誰がたこ焼きを好きなんだって?」

「アスカっ」

「アナタじゃなくて、もう一人の方」

 キョウコの声は震えていた。
 嫌な予感がする。
 これまでの人生をひっくりかえされそうな予感。

「ん、ひゅ〜がじゅんさだよ。30こもたべられるんだって。すごいねぇ〜」

「さ、30ぅもですってぇっ?」

 言葉のお尻が完全に裏返った声になっていた。
 悪魔の魚の肉が入った食べ物を30個も!
 しかも一度にだ。
 そんなに好きならば、これまでの人生で彼は何百、いや何千、いや何万個のたこ焼きを食べているはず。
 キョウコは目の前が真っ暗になった。
 その真っ暗な画面に恋しい彼の笑顔が浮かぶ。
 一人寝の寂しい夜が明けるたびに愛しい気持ちが増していくように感じる今日この頃だ。
 子持ちの年上の白人女だと恋の成就はあきらめてはいるものの、
 それでも恋心は止めようがない。
 いや、あきらめているからこそ募っているのかもしれない。
 だが、脳裏に浮かんだ彼のはにかんだ笑顔が固まる。
 そしてその肌に見る見る吸盤が…。
 
「Nein!! Bitte nicht!! Lass ihn nicht 'nen Kraken!!」(註1)

「ママ、それどこのことば?めりけんご?」

 思わずドイツ語で叫んでしまったキョウコである。
 我に返った彼女は精神的にはムンクの叫び状態だった。

「ママったらぁ」

「アスカ…」

 キョウコの目は据わっていた。
 いや、実際は決意に燃えていたのだが、アスカの目には不気味に見えたのである。

「私、決めた。たこ焼きにチャレンジするわっ」





「こんにちは、おじさん」

「おお、こりゃあ、あっかちゃんのママさん。毎度っ」

 今日で五日目。
 毎日市役所からの帰りにキョウコはこの公園横のたこ焼きの屋台に寄っていた。
 アスカからの情報でここのたこ焼きが一番美味しいと聞いている。
 しかもその意見にはマコトも同意しているとか。
 ここのたこ焼きにトライせずしてどうする。
 
「嬉しいねぇ。毎日食べてくれるなんてよ。今日も一舟でいいかい?」

「ええ、い、いいえ、ふたつお願いっ!」

 気合を入れて注文するキョウコだった。
 
 初日。
 キョウコは1個だけ口に入れた。
 結果、蛸以外を咀嚼し、その蛸自体はそっと口から出した。
 二日目。
 キョウコは1個だけ食べた。
 蛸も二回だけ恐る恐る噛んで、無理矢理飲み込もうとする。
 しかしすぐに見るも情けない顔になり、洗面所に走った。
 三日目。
 キョウコは1個だけ食べた。
 目を固く瞑って早いスピードで何度も蛸を噛む。
 そしてぐっと蛸を飲み込んだ。
 手で口を押さえ、真っ青な顔で必死に耐える。
 戦果、1個で精一杯。
 四日目。
 キョウコはまず1個、ゆっくりと食べた。
 昨日と同様に喉元が気持ち悪い。
 吐き出したくなるのも同じだった。
 しかし、彼女は食べた。
 「ママ、がんばれっ」と娘の声援を受けながら。
 そして、2個目に爪楊枝を突き刺す。
 都合6個。
 キョウコは頑張った。

 そして、今日。
 彼女の目標は一舟。
 10個すべてを食べようと考えていた。
 
「いい、アスカ?ママと勝負よ」

「しょう〜ぶっ!で、なにをたたかうの?」

「どっちが先に食べ終わるか。ママが負けたら…そうね、何か本を一冊買ってあげるわ」

「おおおっ、しょ〜ちっ!アスカ、かつもんっ!」

「よしっ、じゃいくわよ、キョウコ!」

「あわっ、ママずるいっ。はぐっ」

 1個目を口に運んだ母にアスカは慌ててたこ焼きを頬張った。
 必死になって咀嚼するアスカ。
 それを見てキョウコも昨日とはまったく違う速度で口を動かした。
 二人は黙りこくってただ口と手を動かしていた。
 まったくこの親子は…と、観戦しているトモロヲは苦笑した。
 たこ焼きに慣れる為に勝負をだしにしているのは見ていてすぐにわかった。
 好き嫌いを失くす為にいい歳をした大人があきれたものだ。
 そんな風に孫娘を見ている彼は、キョウコがそんなに頑張っている本当の理由を知らない。
 好きな男の好物を食べられるように頑張っているとは。

 勝負は決着した。
 アスカは明日本屋で忍者大図鑑を買ってもらうことを約束してご満悦。
 負けたキョウコも満足していた。
 これでもう大丈夫。
 吐き気や不快感はもうない。
 酢の物や寿司はまだ自信はないが、たこ焼きなら食べられる。
 
 彼女は次の計画に着手した。
 せっかく食べられるようになったのだから、それを知らさないでどうする。



「えっ、本官がつくるのでありますかっ?」

 マコトは素っ頓狂な声をあげた。
 すっきりと晴れた土曜日の空の下、彼は愛しのキョウコを前にしている。
 派出所は今日も暇。
 人通りがあれば、頬を染めたマコトを見ることができただろう。
 今日は市役所が休みだから、キョウコの姿を拝むことができないと思っていたのである。
 それが突然、キョウコのマウンテンバイクが派出所の前に鋭いブレーキ音を響かせたのだ。
 
「ええ、そうよ。で、できるの、できないの?」

「た、確かにたこ焼きは好きですし、学生時代にアルバイトで1ヶ月してましたが…」

「へぇ、それじゃぴったりじゃない。ねぇ、引越しの歓迎会なんだから、何とかして頂戴。ねっ」

「か、歓迎会でたこ焼きですか?お蕎麦とかお寿司とかじゃなくて?」

 実は舞い上がっていた。
 好意を寄せている女性に頼みごとをされたのだ。
 普通の男なら即答しているだろう。
 だが、生真面目なマコトは確かめずにはいられない。
 もっとも確かめることで今のやりとりが夢の中の出来事ではないと確認しようとしていたという意味もあったのだが。

「だって、子供もいるでしょ。たこ焼きの方がみんな喜ぶんじゃないかしら」

 寿司でも喜ぶと思う。
 マコトはそんなことを思ったが、それを口にするほど馬鹿ではない。

「それはそうですが、でも、あの…」

「はい、何かしら、日向さん?」

「歓迎会でみんなが食べるほどのたこ焼きをどうやって作ればいいのでしょうか?」

「どうやってって…。私はつくれませんわ」

「はあ」

 面と向かってこんな風にはっきりと言われても困る。
 もともと白黒のはっきりとしたキョウコだが、ときどき頓珍漢のまま突進することがある。
 それもまた愛らしいとマコトは…もっともすべてを美化しているからでもあるが…思っている。
 ただし、今回はそうとばかりは言っていられない。
 
「あのぉ、キョウコさんはたこ焼きをどうやって作るか、ご存知ですか?」

「失礼ね。知ってます。自分では出来ないけど、こうやって」

 キョウコは手真似をした。
 蛸を見たくなかったので直視することはできなかったが、
 どうやってつくるのか興味があった。
 虚空を見えないピックでくるくると回す。

「えっと、それはそうですけど、そのたこ焼きを作る前に」

「作る前に?」

「たこ焼き用の鉄板は?あるんですか?それとも借りる手配ができてるんでしょうか?」

「あ…」

 キョウコは小さく口を開けた。
 そして「あはっ」と口に出すと手を当てて笑い出した。
 肝心のものを忘れていたのである。

「そうよね、そうだわ。アレがないと作れないわよね。いやだ、もうっ。私って!」

「ええっと、何人くらいなんですか。何なら僕が用意しますが」

 今日はこのまま夜勤になるので無理だが、明日の朝非番になれば身体が空く。
 開店と同時に電気店に走ればたこ焼き機を購入できる。
 代金がいくらかは知らないがまさか何万円もしないだろう。
 恩を売ろうとまでは思ってないが、彼女の役に立ちたい。
 
「そうね…うちが3人と碇さんところが2人でしょ。それから…」

 キョウコは指を折った。
 手伝いに来るとハルナとレイ、洞木家の母と娘も顔を見せると言っていた。
 
「日向さんも入れて」

 少し力を入れてその名前を言ったことにその相手は気づいてくれたのだろうか。
 おそらくわかってくれない。
 キョウコは失望交じりの笑みを浮かべて言葉を続けた。

「ちょうど、10人ね」

「わあっ、それは無理だ」

 マコトは反射的に叫んでしまった。
 たこ焼き機はせいぜい一度に30個も作れないだろう。
 彼の経験上、一回の工程は15分くらいか。
 屋台のたこ焼きと違って火力が小さいからだ。
 まさかたこ焼きを作りおきするわけにもいかない。
 彼が汗びっしょりで一生懸命になってもそんなに大勢の人に食べさせるのは難しい。

「ああ、そうなの。がっくり」

 キョウコは肩を落とした。
 これが恋人であればその肩を抱けばいいのだが、マコトにそんな恐れ多いことができるわけがない。

「すみません」

「日向さんが謝ることはないわ。私の考え不足」

「ええっと…」

 マコトは渾身の勇気を振り絞ってキョウコに告げた。

「どっちにしても明日は非番ですから、私はお手伝いに行きます!男手が必要でしょうからっ!」

「ああっ、是非っ!」

 もうたこ焼きはどうでもいい。
 キョウコは現金だった。
 確かにたこ焼きを食べられるようになったことをマコトに知って欲しいのは事実だが、
 それはもう先送りでいい。
 明日は彼が家に来てくれる。
 これは腕によりをかけておにぎりを作らないと。
 ああ、上手く話を持って行って晩御飯も一緒にって!
 がんばれ、私っ!

 マコトは心の中で大きくガッツポーズをした。
 思い切って引越しの手伝いを申し出て本当によかった。
 よほど人手が足りないのだろう。
 あんなに喜ぶのだから。
 よしっ、明日は頑張るぞ、俺はっ!

 二人の気持が今日もまた微妙な距離ですれ違った瞬間である。
 お互いしか見えてなかった二人はごく間近で聞こえた声に驚いた。

「何してんの?あんたら」

 びっくりして声の方向を向くとそこに立っていたのは鈴原エツコ。
 にやにや笑いながら腕組みをしている。
 
「す、鈴原刑事っ!ご苦労様です!」

「あ、あら、エツコさん!こんにちは!」

 マコトが慌てて敬礼し、警察関係者でもないキョウコもつられて敬礼してしまう。

「はい、ご苦労さん。で、何してんの、お二人さん?こんな町中で逢引きかいな」
 
「あ、逢引き!ま、まさか、違うであります!」

「と、とんでもない!誤解よ、エツコさん!」

 エツコの言う逢引はあながち間違いではない。
 お互いにその共通認識がないだけで、本人の中では楽しい逢瀬なのだから。
 しかし、照れも手伝って慌てて否定したその言葉が相手の心を傷つける。
 ああ、やっぱり自分の独りよがり。

「なんや、違うんか。そりゃがっかり。で、何やの?」

 ずばずばと突っ込んでくるエツコにマコトはしどろもどろになって説明を始める。
 ところどころでその説明に補足を入れるキョウコだった。

「なるほどねぇ、たこ焼きか。で、キョウコさんはたこ焼きを食べれるようになったんかいな」

 おお、エツコさん、グゥトゥ(Gut:ナイス)突っ込み!
 待ってましたとばかりに、でも逸る心を抑えてキョウコは喋りだした。

「はいっ。私、生まれたのがドイツですから蛸はダメなんですよ。
 正直言って見るのも嫌なんです。お寿司も酢の物もっ」

 立て板に水とはこのことだ。
 それはそうだろう。
 キョウコは昨夜からずっとイメージトレーディングしていたのだ。
 でもマコトと面と向かっては上手く言えないような気がしていたのだが、
 幸いにも今ここにエツコがいる。
 彼女に向って喋れば臆するところは何もないではないか。

「ああ、そうなん」

「ええっ。でも、アスカがっ」

「あっかちゃんが?」

 そんなに強調されれば聞き返さずにはいられない。
 キョウコはしてやったりとばかりに大きく頷いた。

「ええ、アスカがっ。うちの娘が、引越しの後でたこ焼きパーティーをしようって言ったんです」

 アスカがこの場にいたなら、ぷうっと頬を膨らませて抗議していたに違いない。
 そんなことは一言も口にしてないからだ。
 そもそもたこ焼パーティーなる企画すら知らない。

「そっか、あっかちゃんが言い出したんか」

「ええ、ええっ。アスカがしようって」

 別にエツコが敏腕女刑事でなくともばればれの嘘だとすぐに見破られた。
 この時、彼女は決意したのである。
 キョウコの恋の後押しをしてやろうと。
 どうやら意中の男はこの真面目を絵に描いたような制服警官のようだ。
 エツコは別にキョウコの選択に文句はなかった。
 それはマコトが素晴らしい男だと承知していたからか?
 いや、彼には申し訳ないが違う。
 日向マコト巡査は真面目で責任感が強いが、男っぷりがいいとはお世辞にも思えない。
 キョウコの相手役としてはどう見てもアンバランスだ。
 だが、エツコはそうは思わない。
 当然だ。
 違う意味でエツコとその夫もバランスが取れてないのだから。
 刑事で偉丈夫…いや失礼、偉丈婦の彼女と、年下で気弱に見えるイチロウ。
 だからこそ釣り合いが取れているのではないかとエツコは胸を張っている。
 そんなことは本人同士で了解できていればいいのだ。
 何よりその相手が好きだという気持ちが大切なのだ。
 エツコは大きく頷いた。
 ここはこのお姉さんが一肌脱いで差し上げましょう、と。
 ああ、違う。
 こんな標準語ではなかった。
 ほんなら、うちが一肌脱ぎましょか、である。

「なるほどなぁ。で、それでアンタがんばったんか」

 エツコは水を向けた。
 キョウコは大仰に頷く。

「はい、この5日間、なんとかたこ焼きを食べることができるようにとがんばりました」

「で、どないなん。一個くらいは食べられるようになったわけか」

「ふふふ、10個」

 両手を広げたキョウコは得意気この上ない。
 その表情、仕草を目の当たりにしたマコトとエツコはそれぞれ同じことを思っていた。
 ああ、やはりこの女性はあっかちゃんの母親だと。
 
「凄いですねっ」

 あああ、やった!
 この瞬間を待っていたのよ、私は!

 マコトが漏らしたこの一言でキョウコの努力は報われた。
 彼女は満足だった。
 だが、その一方で臆病者のキョウコが警鐘を鳴らしていたのだ。
 ドイツ時代のチビで東洋人との混血でもてない女だったキョウコが。

“Du, vergiss nicht! So geht es nicht weiter.
 Du bist ja kein beliebtes Weib.
 Mit ihm kannst Du nie zusammenkommen.
 Weg damit! Kein Glueck wuenscht Dir was schoenes.”(註2)

“そうね、そうよね、わかってる。
 でも、今だけ許して。少しだけ儚い夢を見させて頂戴。”

「へぇ、そりゃがんばったんやなぁ。で、明日はたこ焼きパーティーっちゅうわけか」

「あ、それはダメでした」

「ん?なんでや」

 キョウコは説明した。
 自分の馬鹿さ加減を。
 たこ焼きを作る鉄板のことを考えてなかったのだ、と。




 
「おおおおっ、ひゅ〜がじゅんさ、まけるなぁ!」

「トウジちゃんのおとうさんってすごいね」

「くいもんつくるんは、おかんよりもおとんのほうがうまいさかいな…いてっ、なにすんねん!」

「黙れ、トウジ。あ、ヒカリちゃん、おばさんも料理は出来るのよ。誤解しないでね」

「カレーとかラーメンとかハンバーグとか」

「そうそう」

「ぜんぶインスタントやけどな……いてっ」

 まるで漫才である。
 この場合、夫婦漫才ではなく親子漫才とでも言えばいいのか。
 惣流家の裏手はわいわいと賑わっている。
 日曜日の3時過ぎである。



 時間は朝に遡る。
 碇家の荷物は午前8時前に到着した。
 予定よりも1時間早く、ゲンドウは待ち構えていた惣流家の人間に恐縮して頭を下げた。
 だが、彼らは6時には起きて準備万端、トラックの到着を待ち構えていたのだから何の問題もなかったのである。
 大型トラックが入ることの出来ない門前だったが、もとより碇家の荷物はそれほど多いわけではない。
 家具と言ってもユイが嫁したときのタンス一式、しかもかなり小型のものばかりだ。
 ゲンドウの住まっていたふた間とDKの小さな賃貸マンションが夢の新居だったのだから。
 そのタンスがトラックから降ろされ運び込まれる様をハルナは感慨深げに見ていた。
 しきたりだからとこの街からわざわざ東京へ発送したのだ。
 もったいないし、恥ずかしいと娘は嫌がったが、ハルナは譲らなかった。
 実家から出て行くのだから二度と帰ってくるのではないよという意味もあるのだ。
 そう諭されて、「わかってる。実家に帰るなんてことはしない」とユイは微笑んだ。
 確かに彼女は帰ってこなかった。
 帰ってきたのは嫁入り道具だけ。
 いや、ユイは帰ってきた。
 位牌となって、愛する者に抱かれて。
 
 晴れてよかった。
 キョウコはほっとしていた。
 一時はあきらめていたたこ焼きパーティーである。
 それが予想以上の盛況さだ。
 予定の人数よりも4人多い。
 鈴原家の3人と相田ケンスケ。
 しかしその4人の中で引越しの戦力になったのは一人だけ。
 鈴原エツコだけだ。
 夫であるイチロウは妻に早々に追い払われた。
 うろうろしてると邪魔だから食事とたこ焼きの準備をしろと。
 そんな暴言に彼は素直に従った。
 寧ろその方が喜んでいたくらいである。
 息子のトウジとその友人は荷物運びをするわけにはいかず、
 最初のうちはぶらぶらと庭をうろついていた。
 そして獲物の動きを目で追う。
 獲物とはシンジのこと。
 母親から「タイミングを見計らってあんじょう友達になりや」と命じられていたのである。
 ただきっかけがつかめない。
 最初に紹介された時に「いっしょにあそぼ」と言い損ねた。
 もっとも荷物を運び込む前にそれは拙かろう。
 で、様子を見ているうちに時間が過ぎていったわけだ。

「こら、アンタたち。いつまでぶらぶらしてんのよ」

「うるさいわい。あそんどるんとちゃうで」

「うそ。なにもしてないじゃない」

「わたしたちはトウジちゃんのおとうさんのおてつだいをしてるのよ。
 みんなもおてつだいしないと」

「しゃあないねん。おかんからめ〜れ〜されとんや」

「あいつとともだちになれってさ」

「アイツってシンジちゃんのこと?じゃ、さっさとともだちになればいいじゃない」

 アスカは簡単に言った。
 隣でレイとヒカリもうんうんと頷く。
 
「あんなぁ、タイミングってもんがあるんや」

「そうだぜ、タイミングだ」

 エツコに言われたがままにタイミングを連呼する。

「なに、タイミングって」

「レイちゃん、しらないの?アスカちゃんはしってるよね」

「しってる。あれよ、あれ。ほら、あれのことよね、トウジちゃん」

「せや、あれや」

 レイは首を捻った。
 もっともわかっている連中もおぼろげに何となく理解しているだけだ。
 幼稚園児に語句の説明は難しかろう。
 とにかくシンジと友達になる手段を考えねばならない。
 庭の片隅で彼らは頭を寄せ合った。
 彼に不満を持っているレイはいささかやる気がなさそうだがここは友人に同調するしかない。
 そして、綿密に練られた作戦は実行されたのである。

「ちょっと、シンジちゃん!アンタ、そこのれんちゅ〜とおともだちになりなさいよ!」

 小さな荷物を運びいれ彼の部屋となる場所から出てきたシンジの前で、アスカは仁王立ちした。
 びしっと指をさし、大声で叫ぶ。
 実にシンプルな作戦だ。

「えっと、どうしよう」

「シンジ、少し遊んできなさい」

「あ、うん。わかった、おとうさん」

 荷物を手に通りがかったゲンドウが息子の頭にぽんと手を置いた。
 シンジとしても働くより遊ぶ方がいい。
 彼はにっこり笑うと庭の方に出て行ったのである。
 その姿にうんうんと頷いたのはアスカだった。
 すっかり自分の作戦の成果だと決め付けたわけだ。

 さすがに大人がみんな働いているのにかくれんぼや鬼ごっこは拙い。
 幼稚園児でもそれくらいの知恵は回る。
 そこで彼らはアスカの部屋に集合した。

「なんだ、ゲームないのか」

「あるよ。すごろくとかじんせ〜ゲームとか」

「ちがうぜ。おれのいってるのはテレビゲームだ」

「はっ、あれね。あんなのうちにはないわ。ばっかみたい」

 うんうんとアスカの隣でレイが頷く。
 ハルナもテレビゲームが嫌いだったから、レイもアスカと同様にその手合いのゲームを滅多にしないのである。
 女友達ふたりが見得を切る中でヒカリは身体を小さくした。
 ヒカリの家にはゲーム機があり彼女も時々楽しんでいたからだ。

「あは、それじゃぼくもばかだ。ゲームもってるから」

「はっ、じゃ、アンタはバカシンジでけってい」

「アスカちゃん、よびすてはだめよ」

「あわっ、だったらバカシンジちゃんでいい?」

「いいんじゃないの」

 そっぽを向いたレイが決め付けるように言う。

「じゃ、けってい。アンタはバカシンジちゃん」

「えっ、そんなぁ、かわいそうだよ。ダメよ、アスカちゃん」

「せや、バカはあかんで。アホやったらええけど」

「トウジちゃんはだまって」

「ああ、もう。わかったわよ。まあ、テレビゲームはないからダメ。
 トランプかなんかでしょ〜ぶ、しょ〜ぶ!」

 子供たちがアスカの部屋でばばぬきで盛り上がっていた頃、
 鈴原イチロウは昼食のおかずに取り掛かっていた。
 簡単につまめるもの。
 おにぎりは私が作るとハルナが譲らないので…、おっと、これでは残るふたりの主婦に失礼だ。
 キョウコはサンドイッチ。洞木ワカバはおにぎりの手伝いである。
 出来上がった昼食風景は当初の予想より遥かに豪華だった。
 「うちの旦那って凄いやろ?」とエツコが天狗になるのももっともに見える。
 古風な考え方のトモロヲまでもが唐揚げをつまみながら「適材適所ということか」と独り言を呟いたくらいだ。
 そのイチロウはさっさと自分のお昼を済ませると姿を消した。
 たこ焼きの鉄板を借りに走ったのである。
 パートで勤めているスーパーに出入りしているイベント会社からレンタル会社を紹介されたのだ。
 それならば大人数のたこ焼きも一度に作られるから。
 昨日、エツコは夫がスーパーでたこ焼きを作っていることもあるという話を思い出したのだ。
 そこですぐに夫と連絡を取り段取りをつけた。
 キョウコにすればあれよあれよという間に自分が思い描いていた形になったわけだ。
 
 お昼からも大人たちはせっせと働き、子供たちは邪魔にならないように楽しく遊んだ。
 この遊ぶというのにも意味はある。
 シンジも月の光幼稚園に中途入園するのだ。
 入園前に同性の友達がいるに越したことはない。
 大人たちの目論見通り、遊びを通してシンジとトウジ、そしてケンスケはすっかり仲良くなった。
 知ってか知らずか、アスカが男の子にやたら対決姿勢に出るので、
 当然トウジたちは劣勢にならないようにシンジを自分の陣営に引き込んだのだ。
 ただし、レイがシンジを見る目だけは冷ややかなままで変わりはなかったが。

 さて、待ちに待ったたこ焼きパーティーである。
 午後3時過ぎには家の中は殆ど落ち着いた。
 あとは住まう人間しかできない作業しか残されていない。
 だから、惣流家の縁側にはビールとジュースがずらりと並んでいる。
 その情景を見てゲンドウは自分を戒めた。
 酒には弱い方だから…誰も信じてくれないが…みんなに合わせて飲まないようにしなければ、と。

 さすがにイベント用の鉄板である。
 火力も強いし、何より一度で作られる個数が多い。
 イチロウは手馴れた手つきで次々にたこ焼きを作っていく。
 その姿に闘志を燃やしたのがマコトである。
 誰かさんがエツコに向って「あなたのお主人素敵ですね」などと喋っていたからだ。
 誰かさんが誰かなどと改めて言うまでもないだろう。
 いいところを自分も見せようとマコトが決意に燃えて立ち上がったのは当然の成り行きだった。
 自分は大丈夫だからと遠慮するイチロウの腕を引っ掴んでたこ焼き機から引っぺがしたのはエツコだ。
 恋のキューピットたらんとする彼女としてはこれも当然の成り行き。
 何故ならマコトがたこ焼き機に向って歩いていく姿を見て、目をキラキラさせている青い眼の友人がそばにいたのだから。
 マコトが学生時代のコツを思い出すのは結構早かった。
 たこ焼き機を借りることができたとエツコに聞いて、派出所の中で一晩中イメージトレーディングを繰り返していたことは秘密だ。
 この町が平和でよかった。

 キョウコは立ち上がった。
 それとなく。ごく自然に見えるように、それとなく、それとなく。
 その姿を見てエツコは顔を背けて笑った。
 知らない者は別として、察した者からすれば実に滑稽な動きだったから。

「日向さん、ご苦労様」

「いえっ、何でもありません!」

 タオルで鉢巻をして汗びっしょりでマコトが答える。
 その汗を拭いてあげたいとキョウコは思ったがさすがにこの場でそれは拙かろう。
 この場でなくてもできたものではないが。
 
「でも、夜勤明けで駆けつけてくださって、一生懸命に手伝ってくださってたんですもの。
 その上たこ焼きを作ってくださるだなんて、悪くって」

「とんでもないっ!そ、そ、それより!」

「はい?」

「た、たこ焼きは如何ですかっ!」

「まあ、嬉しい。いただけるの?」

「はいっ。特別に蛸を小さめにしておきました。まだ、な、慣れてらっしゃらないと思いましてっ」

「わっ、日向さんって優しいんですのね」

 言えた。
 何度も練習しておいたのだ。
 この台詞を言いたいがために彼女は歩いてきたのだ。

 聞いた。
 確かに彼は聞いた。
 この一言で今日の疲れは吹き飛んだ。 



「シンジちゃん、なにしてんの?」 

「あのね、たこやきがすごくおいしいから、おかあさんにもって」

 シンジの母の位牌はまだ惣流家に留まっている。
 家の中が落ち着いてから最後に仏壇に納めたいというゲンドウの申し出だった。
 惣流家の仏間の前、小さな平机の上にその位牌は置かれていた。
 アスカはシンジが新しいお皿にたこ焼きを乗せて縁側から家の中に入っていったのを見かけたのだ。
 彼女はただ好奇心で着いていっただけだ。
 その手にはしっかり自分のお皿を握り締めて。
 位牌の前にシンジはたこ焼きのお皿を供えた。
 そして手を合わせている時にアスカが声をかけたのだ。

「ふ〜ん、そうなんだ。じゃ、アスカのもあげるっ」

 ぱぱっと近づくとアスカは自分のお皿からたこ焼きを二個加えた。
 そして、手を合わせて目を瞑った。
 「なむなむなむ」とお経らしきものを唱えると隣のシンジも慌てて目を瞑って拝んだ。

 位牌の前に小皿に乗ったたこ焼きが5つ。

 手洗いに立ったゲンドウは開けっ放しの仏間の襖の間から小さな者が拝んでいる姿を見かけた。
 少しばかり頬を酒に染めた彼はそんな光景に目の奥が熱くなる。
 想い出は捨てはしない。
 だが、彼は新しい思い出を築いていこうと決意しているのだ。

 すまん、ユイ。

 彼は口の中で呟き、そして小皿をよく見て、苦笑するのだった。
 たこ焼きの数が少ないとユイが怒っているかもしれない、と。





 
 
あっかちゃん、ずんずん 第十一巻 「あっかちゃん、たこ焼きに舌鼓を打つの巻」 −おしまい−














(あとがき)

 第十一巻です。
 まずは感謝。
 作中のドイツ語をご教授いただいたAdler様。本当にありがとうございます。
 こういう日常で使うような内面の声というのは直訳(WEB翻訳)では難しい。
 いえ、私の能力不足。語学の才能はありません(涙)。
 ●×△で誤魔化そうと思いましたが、本当に助かりました。
 因みに洞木家のお母さんに名前ができました(笑)。洞木ワカバさん。
 これも東海道線の電車の名前です。因みにお婆さんはサクラさんの予定。
 次回はシンジが幼稚園に通い始めた頃の話…って、今回の翌日か(笑)。

(註1)
『ダメ!やめて!あの人を蛸にしないで!』

(註2)
『忘れるなよ。このまま上手くいくはずなんかない。お前はモテない女なんだぞ。
 彼と一緒になれるワケがないじゃないか。そんな考え捨てちまえ。
 幸運がお前を気にかけるようなことあるはずないだろう』

 2006.5.6 ジュン







 はい、早いものであかっちゃん11話目ですね。
 登場人物は増え、伴い人間関係が複雑化していくことでしょう。
 しかしながら、それこそが面白いドラマを産んでくれるはずです。
 その人物たちの重みに話が耐えうるのは、物語のフレームがしっかりしているからでしょう。
 舞台設定の構築の巧さ頑健さは、ジュンさんのお家芸ですね。
 
 作中の時間はゆったりじっくり進んでおります。 
 読者のみなさんも、ゆっくり堪能してくださいね。
 心に訴えてくるものがあるはずです。ジュンさんに感想メールをお願いします。





(2006/5/9掲載)


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