アスカは困り果てていた。
 窓の外は雨。
 外で遊ぶことはできない。
 まあ、それはどうしようもないことではあるし、これまでにも数え切れないほど何度もあったことだ。
 だが、今のような窮地は初めただ。
 正確に言うと“初めてのような気がする”なのだが、子供にとってはそのように感じるものだ。
 で、何が彼女を窮地に追いやっているかというと、人間だ。
 アスカと同じサイズの女児と男児。
 前門の虎後門の狼と言いたいところだが、二人ともに猛々しさはまるでない。
 女児の方は氷のような目付きで、男児はその視線から逃れるように首だけを反らしている。
 その真ん中でアスカは途方にくれた。
 何を言っても反応が返ってこないのである。

「ええっと、そうだっ。トランプしよっ。えっと、ババぬき!」

 反応なし。
 レイはちょこんと正座をしたまま目はじっと従兄の方を見据えている。
 シンジの方はいささか女っぽく足をずらして座り、レイの視線を逃れて窓の外を見ている。
 その真ん中でアスカは大きく溜息を吐いた。
 こういう時に他の誰かが一人でもいれば空気も大きく変わるのだが、生憎と今日は誰もお呼ばれはいない。
 幼稚園はお昼までで、惣流キョウコは市役所、碇ハルナは隣町へ所用、碇ゲンドウは絵本を執筆中だ。
 3人の面倒を見るはずの惣流トモロヲはお昼寝中。
 できることならアスカは曽祖父の傍らで横になり、夢の世界に逃げ込みたかった。
 しかし、彼女は逃げることができない。
 自分がしっかりしないといけないのだ。



 アスカがそう決意したのは、夏休みの間のことだった。
 その間、レイとシンジの冷戦…レイからの一方的なものではあるが…はずっと続いていた。
 シンジもアスカと二人だけでいるときや、鈴原トウジや相田ケンスケと遊んでいるときは実に子供らしく屈託ない表情でいる。
 ところがその場にレイが加わるともういけない。
 急に元気がなくなってしまうのだ。
 そんな彼の様子をアスカは見てきている。
 小さな頭を一生懸命に使い、彼女は結論を出した。
 
 レイちゃんがシンジを好きになればいいのだ。

 これは名案である。
 それを思いついたのは、お風呂の中だった。
 キョウコに髪の毛を洗ってもらっている時だったので、
 解答を見つけた喜びのあまり急に立ち上がったアスカは顔中に泡を擦り付けられることになってしまった。
 悲鳴を上げながらもいかにも嬉しげに笑っている娘を見て、その母は嫌な予感で一杯だった。
 また妙な騒動を起こさなければいいのだけど…。

 思い立ったが吉日。
 ただし携帯も持たない幼児ではその夜にいきなり行動というわけにはいかない。
 彼女がその名案をぶちまけたのはその翌日の朝だった。
 ラジオ体操が終ってアスカはレイの手をむんずと掴んだ。
 
「ちょっとレイちゃん。だいじなだいじなおはなしがあるの」

 付き添いの祖父は、遊ぶのは朝ごはんが終ってからじゃぞともっともなことを言い残して、シンジとともに家に戻った。
 まるで本当の孫のようにシンジと手を繋いで歩く曽祖父の姿を見ても、アスカは少しも腹を立てたりはしない。
 逆に嬉しくなってきたほどだ。

 アタシのようなおとなし〜いおんなのこだけじゃなくて、おじ〜ちゃんもやんちゃなおとこのこもほしいはずよ!

 アスカがまるで男の子のようなやんちゃな女の子であるなどという突っ込みはご遠慮いただきたい。
 それよりもここは公園に残った幼女二人に注目していただこう。
 
「なぁに、アスカちゃん?」

 レイは嬉しげに微笑んだ。
 今日は朝から一番の友達と話ができるということもあるのだが、このごろの彼女は複雑なのである。
 何しろ見ているだけで腹立たしい従兄がいつもアスカと一緒にいるのだ。
 嫉妬という種類のものではない。
 独占欲というものでもない。
 いや、それらの感情も少しは混じっているだろうが、少なくともそれらの感情には恋情などといった類のものは含まれていなかった。
 まだ幼稚園児なのである。
 キョウコたちはある程度彼女の心理を理解できていたが、かと言って言葉でどうこうできるものではない。
 物心ついたときから両親を知らないレイはずっとシンジと仲がよかった。
 彼がその母を亡くしてからはなおさらである。
 傷口を舐めあうような部分もあったことは否めない。
 だが彼女は真剣にシンジを慰めていた。
 可哀相に思っていたのだ。
 それがこんなに彼を敵視するようになったのは、シンジが父の再婚を拒否してからだ。
 新しいお母さんを要らないという従兄に彼女は憎悪を抱いた。
 もし、もしもである。
 これが新しいお婆さんを…という話ならレイの気持ちも違っただろう。
 碇ハルナの代わりのお婆さんはいない。いらない。
 だが、彼女は母を知らない。
 写真だけでしか知らない母に愛情を抱くことはできなかった。
 逆に自分ひとり残して死んでしまった母親を恨めしくさえ思っているのだ。
 だからレイは新しいお母さんという存在は羨ましく思うことはあっても、全身で否定するシンジの気持ちがわからない。
 わからないからこそ彼に腹を立てているのだ。
 いくらハルナに説明されても理解できなかった。
 いや、理解しようとはしなかったのだ。
 何しろ彼女は頑固者だったから。

「あのねっ、レイちゃん?レイちゃんはシンジちゃんとけっこんするのっ」

 この時のレイは表情が凍り付いてしまっていた。
 驚いたというよりも馬鹿らしいという気持ちの方が大きい。
 この親友はよく突拍子もない事を言い出すが、今朝のはいったいどういうことだろう。
 レイは慎重に言葉を選んだ。

「おままごとのこと?」

「ちがうわよっ!」

 おままごとのことではないとすれば、アスカは本当の結婚のことを言っているに違いない。
 レイは軽く溜息を吐いた。
 大人の仕草を真似しているかのように。

「アスカちゃんはこどもね。おとなにならないとけっこんはできないのよ」

「うそっ。じんせいゲームでできるじゃない!」

「もしかして、きょうじんせいゲームであそびましょうってはなしなの?」

「はぁ?だれがそんなこといってるのよっ」

 これくらいのことでめげていてはアスカの友達にはなれない。
 流すところはさらっと流さないといけないことは親友を自負している彼女は既に承知していた。
 何しろこの生涯の友ときたら、思考がぶっとんでいるのだから。

「じゃ、いまじゃないのね。けっこんするのは」

「いまできないってだれがきめたの?だいと〜りょう?」

 日本に大統領がいるのかどうかはわからない。
 しかし、とりあえずそうではないとレイは思った。
 彼女はふるふると首を横に振り、そして掌を静かに合わせて合掌した。

「かみさま。たぶん」

「わっ、そぉ〜なのっ!かみさまほとけさまいなおさま!」

「なに、それ。いなおさまってかみさまのなかま?」

「しんない。おじ〜ちゃんがちいさいときにいってたんだって」

 西鉄の稲尾投手もまさかこの現代でこんな幼女に名前を出されるとは思わないだろう。
 もう数十年前に流行った言葉である。

「そっか、かみさまがきめたのか。おとなにならないとけっこんできないのかぁ」

 アスカはせっかくの計画がおじゃんになったかと肩を落とした。
 そのあまりに露骨な落胆振りにレイは親友の肩をぽんぽんと叩くのだった。

「おしえて。どうしてわたしと…シンジちゃんが、なの?」

 アスカに隠し事はできない。
 彼女はすっかりと計画の概要を説明してしまった。
 
「でも、わたしはわるくないもの」

 レイはぼそりと呟いた。
 まるでアスカに非難されているような気になったからだ。
 その気配はアスカにも伝わった。

「レイちゃんはわるくないよっ」

「そう。わるいのはシンジちゃん」

「う、うぅ〜ん、シンジちゃんもわるくないとおもうんだけどなぁ」

「アスカちゃんはあまい」

「あまい?」

 彼女は子供であり、甘いものは大好物だ。
 だが自分の味が甘いか辛いか知る由もない。

「アタシがあまいかど〜かわかんないけど、ふたりともわるくないとおもうの。
 だからけんかしてほしくないのよ。うん」

 アスカは大きく頷いた。
 この件については絶対に自分は間違っていない。
 彼女の野性の本能がそう教えていた。

「けんかなんかしてない。でもおはなししたくないの。かおもみたくないし」

「うう〜ん、それってけんかじゃないの?」

「たたいたりしてないもの」

「アタシ、レイちゃんをたたいたことないけど、けんかはしてるじゃない、ときどき」

「あれはくちげんかなの。でも、くちげんかもしてないから。シンジちゃんとは」

 アスカは腕を組んでじっと考えてみた。
 ふむふむなるほど、そういえばそうだった。
 レイが睨みつけてシンジが顔を逸らして俯く。
 確かに言い合いなど二人は一度もしていない。
 
「そっか、そうよね。うぅ〜ん…」

 あっかちゃん、唸ってばかりの夏の朝。
 
「だから、けっこんなんかしなくていいの。わかったでしょ」

 だからも何もない。
 しかしレイにとっては飛躍した結論ではない。

「うぅ〜ん、でもさ、やっぱり…」

 せっかく考え出した名案だ。
 このまま引っ込めてしまうのはアスカにとって残念極まりない。
 このしつこい性格がもう一押しという行動に出て、それがとんでもない将来に繋がるとは彼女は夢にも思わなかった。

「ほら、こんにゃくしゃっていうのもあるじゃない」

「こんにゃく?おでんにいれるあれ?」

「うぅ〜ん、ほら、くそぼ〜ずとマヤちゃんのアレよ」

「ああ、わかった。こんやく、ね」

「それそれっ!その、こんやくってうのでもいいじゃない。おとなになったらけっこんするの」

「いや」

 きっぱりとレイは言い切った。
 仲直りすることと結婚は別物だとどうしてアスカはわからないのだろう。
 レイは困ってしまった。

「ダメだよぉ。こんやくしてよ。おねがいだから」

 地団太を踏まんばかりにアスカは懇願する。
 その時、レイは思いついた。
 素晴らしい逃げ道がある。
 これならアスカは絶対に引っ掛かるだろう。

「わかった。じゃ、しょうぶ」

「へ?」

 真剣な表情でレイはじっとアスカを見据えた。

「しょうぶして、わたしがまけたらアスカちゃんのいうとおりにしてあげる」

「おおっ、しょうぶねっ」

 アスカの戦闘意欲は旺盛である。
 勝負と言われると血が騒ぐのだ。

「なにでしょうぶ?けっとう?」

「じゃんけんでいいわ」

 レイはできるだけさりげなく言った。
 その言葉を聞くとアスカの表情が輝いた。
 ジャンケンでの彼女たちの対戦成績は明らかにアスカが有利だ。

「3かいしょうぶにしましょう。でも、もしわたしがかったら、そのときはアスカちゃんがシンジちゃんとこんやくするのよ、いい?」

「しょうちっ!アタシ、ぜったいにまけないもん!」

 アスカはぐるぐると右手を振り回した。
 レイは絶対に一度目はグーを出す。
 だからこっちはパーを出せばいいのだ。
 それで1勝。
 その次はチョキで、その次はパー。
 つまりレイはいつも、グーチョキパーの順番で出してくるのである。
 その法則を知っているアスカは負ける気が全然しなかった。

「よぉ〜しっ!いっくわよぉ!さいしょは、グゥッ!ジャンケン、ぽんっ!」

 5本の指すべての先までに力を入れて、アスカはパーを出した。

「げっ!ど、ど〜して!」

 レイの指は握られてなく、二本の指が突き出されていたのだ。

「わたしのかち。さいしょはグー。じゃんけん…」

「あ、まってっ」

「ぽんっ」

 慌てて出したのは最初と同じパーだった。
 これを出して勝たないとあとの3つにつながらない。
 
「ええっ!」

 レイはまたチョキを出していた。

「2しょうめ。はい、さいしょはグー」

「だ、ダメ!まって…」

「まったなし。じゃんけん、ぽんっ」

 アスカ、3連敗。
 彼女は賭けの内容よりも3連敗したことのショックの方が大きかった。
 
「どうして…、アタシがまけるのよ」

「ほんきをだしたから」

「えっ、じゃいつもはほんきじゃなかったのっ」

「うん」

 こくんと頷いたレイは、いつも別に勝とうと思わないでジャンケンをしていたと告白した。
 だから今回はいつもとは違う様に考えたのだ。
 それを知ったアスカはがっくりと肩を落とした。

「そっかぁ、そうなんだ。ううむ、レイちゃん、おぬしやるなっ」

 勝負に負けたことは悔しいが、アスカの心は爽やかだった。
 この時だけは。

「ふふふ、じゃ、アスカちゃんがこんやくするのよ。シンジちゃんとは」

「えええっ!」

「やくそくしたでしょ。アスカちゃん、しょうちっていったわ」

「げげっ!」

 アスカは数分前を思い出した。
 確かにレイはそんなことを言っていたような気がする。
 自分が勝つと思い込んでいたから受け流していたのだが…。

「アタシが…こんやくするの?シンジちゃんと」

「そうよ。ぶしににごんはないの」

 流石に親友である。
 アスカのツボをよく知っている。
 武士に二言はないなどと言われれば、侍を自負しているアスカは文句を言えない。

「たいへんね、あんななきむしさんとけっこんするのは」

「う、うぅ〜ん、どうしよう…」

「それとも、まいりましたっていう?アスカちゃんがそういうならなかったことにしてあげる」

 寛大なレイの提案に彼女は飛びつくべきだったかもしれない。
 だが、アスカは負けん気が強かった。
 参りましたとは口が裂けても言えなかったのである。

「じ、じゃあさ、アタシがシンジちゃんとけっこんするから、レイちゃんはなかなおりしてくれる?」

「いや」

 きっぱりと言われてしまった。
 かくして、シンジのいない場所で、しかも彼の意思はまったく関係なしに、彼とアスカとの婚約が決定されたのである。



 だが、そこは子供である。
 婚約と言ってもそれに束縛されたわけではない。
 いわばままごとの延長線上にあるようなものだ。
 婚約が成立したと言ってもそれはアスカとレイの二人だけのことであり、シンジ本人にも母親にも誰にもそのことは伝えていない。
 アスカにとっての問題は婚約云々ではなく、レイとシンジの仲たがいにあるのだから。
 そこで彼女は何かと二人を仲良くさせようと気を配ってきたのであるが、残念ながら不発の連続。
 不発が続くから余計に二人の間の空気は悪くなる一方だった。
 
「ねぇねぇシンジちゃん、チェロひいてよ」

「え、う、うん…」

 場の空気を変えようとしたアスカの提案にも彼は煮え切らない。
 弾くとも弾かないとも言わずに、その場でモジモジしている。
 惣流アスカはよく今まで我慢したものだ。
 そして、ついに堪忍袋の緒が切れた。

「ばかシンジっ!」

「えっ」

 禁止されたはずの“馬鹿シンジ”が復活した。

「ごにょごにょいってないで、アタシのいうとおりにしなさい!」

「う、うんっ!」

 勢いというのは怖いものだ。
 アスカに怒鳴られてシンジはすぐに腰を浮かしてしまった。
 恐怖心からではない。
 寧ろ彼はどんなに凄まれようが咄嗟にピンと来ないような鈍感さを持っている。
 だが、この時彼はまるで感電したかのように素早い反応を見せたのだ。
 めったにどたばたとした足音を立てない彼が廊下を走って行く。
 雨の中をどうやって母屋までチェロを運ぶかなど二の次だ。
 とにかく早くしないといけない。
 強迫観念に囚われているかのようにシンジは急いだ。
 結局、チェロを運んだのはゲンドウだった。
 血相を変えてチェロを持ち出そうとする息子を呼び止めて、その理由を知ると彼はふっと鼻で笑った。
 彼には遠い未来が見えたのかどうかは知らないが、とにかく大家の娘の言いつけをシンジは守らねばならないようだ。
 もっとも彼が手伝ったのは、彼らの家から母屋までの短い距離だったが。
 
 アスカが彼のチェロを聴くのはもう5回目くらいである。
 正直言って聴いていると眠たくなる。
 実際に眠ってしまったことだってあるのだ。
 だが、それで彼は傷ついたりはしていない。
 キョウコのナイスフォローがあったからだ。

「眠ってしまうってことはいい子守唄になっているってことね。シンジちゃん、上手なのね」

 その夜、アスカがキョウコに叱られたことは余談だ。
 しかし、シンジは嬉しかった。
 確かに眠ってしまわれた時は悲しかった。
 一生懸命に弾いているのに、どうして眠ってしまうんだろう。
 きっと僕が下手だからだ。
 そのように思っていたのだ。
 ところが子守唄のように上手だと言われ、素直に喜べた。
 褒められると嬉しくなるのは子供らしさの表れだろう。
 これは彼だけではなく、アスカやレイも同じなのだから。

 いや、子供だけではなかった。

 日向マコトもそうである。
 彼はにやついていた。
 午前8時35分からで、もう何時間になるだろうか。
 つまりキョウコが派出所を通過していった時間だ。
 いいや、性格には通過ではなく、出発時刻だった。
 彼女が派出所に到着するのは8時32分なのだ。
 これまでは8時35分に現れ、挨拶をして、すぐにペダルを漕ぎはじめていた。
 だが、彼女の派出所到着時刻は徐々に、数秒単位で早くなっていったのである。
 そしてそれに比例して滞在時間が増えていく。
 その限界が8時32分だったのだ。
 それ以上早く家を出ることはできなかった。
 洗濯物を干すのをトモロヲに任せるわけにはいかない。
 取り込むのはお願いしているのだから、自分の下着が恥ずかしいとかそういうことではない。
 朝の家事をしっかりしてしまわないといけない。
 中途半端でし残すことが彼女の性格上できなかったのである。
 で、今日の8時32分である。
 雨合羽を着込んだキョウコが派出所前に到着した。
 これまた雨合羽を着たマコトはその到着を待ちわびていたのであった。
 「おはようございます」にはじまり、天気の話題になる。
 そして、昨日の夜から考えていた今日の一言を彼女は口にした。

「たこ焼き、本当に上手でしたよ。美味しかった」

 ただそれだけ。
 これだけのことを言うのに彼女はどんなに練習したことか。
 誰にも知られないようにと、寝る前に布団を被って。
 隣の部屋のアスカに気取られないように。
 もっとも熟睡爆睡、ただし目覚めは爽やかのアスカはいつもぐっすり眠っているから、
 これはキョウコ自身の気恥ずかしさから来る行動だろう。
 25歳の大人の女性とも思えない、まるで女子中学生のような行為だった。
 そうなのである。
 あの夏の日から、キョウコの想いは日増しに膨れ上がっていたのだ。
 その原動力となったのは嫉妬心。
 葛城ミサトとマコトの二人の雰囲気が良さそうに見えた。
 異民族である自分が割り込む隙間がないように感じられた。
 もっともそれは彼女の主観に過ぎない。
 マコトに好意を持っているから余計に周りの女性に対して過敏になっているだけなのだ。
 ただし、最大の問題はそこではない。
 マコトの想いとは他に、彼とミサトを結び付けようと考えている、厄介な人たちがいたのだ。
 洞木家の刀自とその嫁である。
 洞木サクラの仲人道楽に最近その嫁も自ら追随していた。
 二人の次の作戦はもうしばらく先で述べよう。
 今はピュアで無器用この上ないキョウコとマコトの姿をいま少し追ってみよう。

「そ、そうでありますか?」

「ええ、とっても」

 キョウコは精一杯の微笑みを試みた。
 意識したから逆にぎこちないものになってしまったが。

「だって、蛸の食べられない私が30個も食べたんですよ」

 キョウコは嘘をついた。
 
 神様、お許し下さい。
 でもいいですよね。
 22個を切り上げて30個にしただけですから。

 彼女はどの神に祈ったのだろうか。
 ドイツにいた時は無論カトリックの信者だったのだが。
 
「そ、そうなんで…そうでありますか。こ、光栄です」

 水しぶきをあげて敬礼するマコトに彼女は微笑んだ。
 そこで時間切れ。
 8時35分を過ぎてしまい、キョウコは慌ててペダルを漕いだ。
 これで今日一日がんばれる!
 顔に降りかかる雨しずくも何のその、にんまり笑って彼女は市役所へ。
 その後姿を見送ってからずっとにやついたままのマコトであった。
 
「おいおい、そんな夢見心地な顔で交番勤務していていいのか?」

 派出所の外から声をかけてきたのは青葉シゲルだった。
 僧装束に大きなこうもり傘。
 風呂敷包みを肩に引っ掛けて、彼は傘を差したまま呆れ顔を向けている。

「日本が平和だって証拠だねぇ。警察官がこの調子じゃ」

 すべてを知っている親友相手では言い訳も利かない。
 となれば、ふて腐れるしかないではないか。

「何とでも言え。確かに平和だからな」

「おうおう、開き直るか、何ともはや…」

 シゲルはニヤリと笑った。

「よほど、舶来女性の裸体がお気に召したと見える」

「ば、馬鹿言え!水着だ!水着!裸なんて……とんでもない」

 出だしの勢いはどこへやら、語尾はだんだん小さな声になっていった。
 そんな純情な警官にシゲルはかっかっかっとわざとらしく笑った。

「中に入って茶の一杯ももらいたいところじゃが、生憎とお勤めがある」

「派出所は喫茶店じゃない」

「硬いことを言うな。そうだ、マコト?」

 急に友達口調になって、シゲルは真剣な表情を向けた。

「何だ」

「その、海のことだがな。ミサトさんは相変わらずのグラマーだったか?」

「はぁ?」

「一緒にいたんだろうが。ああ?」

「う、うん。いたぞ、そりゃあ」

「水着だったんだろ。え?」

「そりゃあそうだ。海だからな」

「ビキニかっ!んん?」

「ああ、大胆で真っ赤なビキニだったぞ」

「赤かっ、ううむ、凄かったか?」

「大きさか?」

「おおっ、無論!」

 こんな助平な男のどこがいいのだろうか?
 マコトは伊吹マヤの嗜好を疑った。

「やっぱり大きいのはいいだろうが。ええっ?」

「馬鹿か、お前。大きければいいってもんじゃないぞ」

 きっぱりと言ってのけたマコトの脳裏にはキョウコの水着姿があったのは当然だ。
 彼のような男が水着越しにその中身を推察することなどとんでもない。
 したくても無理なのだ。
 経験面においても、学習面においても、一般男子よりも劣っているマコトなのだ。
 
「うむ、よし。されば、よし。まあ、あれだ。がんばれ、マコト」

 二度三度、軽く頷いてシゲルは背を向けた。
 そしてその装束には似合いもしない、しかし今の天気にはピッタリの歌を口ずさんだ。
 Singin' in the rain…♪
 
 頼むからその格好で踊るなよ、馬鹿。

 心の中の悪罵とは裏腹に、マコトの表情は温かかった。
 だが、シゲルが彼の心を試したことには気付いてもいない。
 ただいつものようにからかっただけだと思っていたのだ。
 
 同心町のとある家の祥月命日のお勤めを終えた後、彼は洞木家に立ち寄った。
 そして洞木家の刀自に深々と頭を下げたのだ。
 この仲人口には竜巌寺としては手助けできないと。
 日向マコトの友人としても同様である。
 彼はかなわぬ恋をしているのだから、と言い残し除去したのだが、
 実は彼のこの一言が刀自の闘志に火をつけてしまったことなど思いもよらなかっただろう。

 かなわぬ恋ならさっさとあきらめて、この良縁に身をゆだねるべきだと。

 刀自は次の手にとりかかった。
  


「決まったわ、市立病院」

 赤木リツコは素っ気無く言った。

「そう、よかったわね」

「ええ、これでただ飯食いの厄介者とはおさらば」

「ということはここから通うわけ」

「当たり前でしょ。こんな狭い町なのに」

「お弁当は作らないわよ」

「食堂でなんとかなる。食べる時間があればだけど」

「まあ、やる気満々ね」

 淡々とした会話だった。
 赤木医院の昼食は診療が終わってからになるので午後2時を過ぎるのが普通だ。
 晩御飯も9時頃になる。
 朝食の時間は8時頃にして、実は朝食が一番きちんと食べているかもしれない。
 急患や往診にいつ何時かりだされるかわからない。
 だから一番余裕のある食事にウェートをかけておこうという話だ。
 したがって今日の昼ご飯も簡単なものだ。
 おにぎりにインスタントの味噌汁、そして朝の残り物の煮物に漬物。
 それだけだ。

「あっちではお昼もきちんと食べなさいよ。パンとかで済まさないで」

「時間があればね」

「お茶」

 赤木ナオコは湯飲みを差し出した。
 いや、突き出したと言った方がいいかもしれない。
 しかしリツコは文句も言わずに湯飲みを受け取り、ポットへと向う。
 ナオコは飲み物はホットが好みだ。
 冷えてしまうと躊躇なく熱いものに差し替える。
 夏でもそうだ。
 うすら汗を浮かべながらちびりちびりと熱いお茶を飲む。
 リツコにとっては見慣れた母の姿だ。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。で、リツコ?」

「なに?」

 母の前に座り、自分のお茶を飲む。
 ナオコはじっと娘を見据えた。
 いい加減な返事じゃ許さぬという感じで。

「あの人のことはどうするの?」

「どの人?…って、言っても叱られるだけね。さあ、どうしようかしら」

 まるで他人事の様に言い、リツコは自分の湯飲みを見つめた。
 茶柱が立ちそうで立たない。
 微かな波紋に微妙な角度で揺れ続けている。
 別に茶柱に自分の運命を託しているわけでも占っているわけでもない。
 御神籤など引いたこともない彼女なのだから。
 ただその動きが何となく彼女の気をひきつけているのだ。

「はぐらかしたら怒るわよ」

「ふふ、怖いわね」

 リツコは目を上げた。
 母と娘は視線を真っ向から合わせる。

「嘘を言っても仕方がないし。あきらめようとしたけど駄目だった。もう少しあがいてみる。…以上よ」

 その瞬間、茶柱が立った。
 だが、リツコがそれを見る前に、ほんの数秒で茶柱は横倒しになり、もう二度と立とうとはしなかったのである。
 
「どう、あがくの?」

「あら、母さんには珍しくしつこいわね」

「あなた一人のことじゃないからね」

「大丈夫。あの子から父親を奪ったりはしない。そう思われるようなこともしない。
 文通や電話くらいはするかもしれないけど」

「随分と初々しいわね」

「シンジ君の留守を狙って逢引き?とんでもない」

 リツコは鼻で笑った。
 肉体の疼きがないかと言えば嘘になる。
 だがそんなものに意識が支配されるものではない。
 彼女が欲しているのはゲンドウの肉体ではなく、彼とともにいることで得られる心の充足感なのだ。
 
「この町にもラブホテルくらいあるわよ。町の中にはないけど」

「これでも母親かしら?娘にそんなことを唆す?普通」

「抑圧された精神の解放のために肉体を用い…」

「母さんは内科と小児科じゃなかった?いつから精神科もするようになったの?赤木医院は」

 ナオコは答えなかった。
 彼女はおいしそうに茶を啜り、そしてテーブル上の一輪挿しを見つめた。
 これは20年以上前からの習慣だ。

「リツコ…、知ってた?再婚しようと考えたこと」

 50歳を過ぎた女が自嘲するかのように顔を少し歪めて声を吐き出した。
 さしものリツコもこの不意打ちには驚いてしまった。

「母さんが?驚いた?いつのこと?」

「そうね、いつかしら。あなたが小学校…いや中学に入った頃かしら」

「覚えてないの?」

「別にねぇ。今となってはいい思い出でもないしね」

「愛してたんじゃなかったの?」

「その時はそう思ってた。正直言って、あなたのことなんか忘れていた時もあったわ」

「まあ、危なかったのね、私」

「ふふ、殺そうとは思ってなかったけど?でもね、ふっと醒めたのよ。あの時に」

「どの時?」

「子供が欲しいって言ったの」

「向こうが」

「私が」

「母さんが?」

「おかしい?」

 数秒、母娘は見つめあった。

「まだ40前だったのよ」

「じゃ、小学生じゃない。私」

「あ、そうね。それじゃ訂正。あれはあなたが小学生の頃だった」

「もう…母さんったら」

 リツコは苦笑した。
 しかし、それは別におかしいことではない。
 彼女も欲しい。
 できることなら、ゲンドウとの子供が。
 愛の証ということなのか、種族保持の本能なのか、まったくわからなかったが。
 
「でもね、あの男は言ったの。あっさりとね」

「いらないって?」

「ううん。その間、収入はどうするんだ、医者は辞めるのかって」

「あらま」

「そうなの。そう言われた瞬間に100年の恋も醒めちゃった」

「金目当てだったの?」

「いいえ。ちゃんと収入のある人だったわ。でも、強欲だったのね」

「なるほど。仕事の前に儲けが出たのね。最低」

「こんな男のどこに惚れたのかしらって、情けなくなったくらい。
 これじゃあなたを仕込んでさっさと死んだあの人の方が1億倍上よ」

「1億倍、ね」

「まあ、結婚式の前に死んじゃう男も最低だったけどね」

 赤木リツコはその父を写真でしか知らない。
 その写真も仏間にはなく、母の机にさりげなく飾られていた小さな写真楯二つだった。

「あ、思い出した。母さん、それって私が5年生の冬…いいえ、1月の…15日じゃないの。
 しばらくしまってあった写真が元の通りに飾られた日」

「まあ、あなたって…。そんなの覚えてないわよ、記念するようなものじゃないし」

「ああ、あの頃だったんだ。母さんがそんなことをしたいたのは。全然気がつかなかった」

「よく覚えてるわね。そんなことを」

 リツコは笑った。
 この家に帰ってきた時、彼女はその写真楯の父にそっと挨拶をしている。
 「お父さん、ただいま」と。
 もちろん、母親に見られないように。
 彼女にとっての父は写真の中にしかいない。
 明らかに学生で、一枚は母の隣でぎこちなく笑っている無愛想そうな男。
 それにひきかえ、母は信じられないくらいに朗らかに笑っている。
 ゲンドウを愛してしまったと自覚した時、彼女は思ったものだ。
 彼の中に父を見たのだろうか、と。
 
「あのね。私にはかけがえのない父親なのよ。実物は見た事がないけど」

「そうね。それはそうだ」

「それじゃ、母さんが本気になったのは写真楯が消えたとき?でも…あれは、確か、ミサトの誕生日の…。
 12月8日よ。一ヶ月前?たったの?」

「まあ、びっくり。随分と灼熱の恋だったのね」

「自分のことでしょ」

 リツコは呆れた。
 本当に忘れたのか、惚けているのか。
 しかし、どうして母はこの話を今しているのか。
 意味もなく思い出話をする様な母ではない。
 彼女は結論を出した。

「あの人は言ったわ。好きなようにしろってね。
 医者をしたいのならすればいいって、素っ気無く」

「放任主義?」

「いいえ。そんな度胸のある人じゃないもの。きっと内心ビクビクしながら言ったはずよ」

「で、あなたは何と答えたの?」

「酷い女よ。あなたの収入で家族全員養えるのかしらって…」

「そんなことを?最低ね」

「ええ、最低。彼、困ってた。ぶつぶつと年収がどうのって言ってたわ」

「我が娘がサディストだったとはね。どうせその時のあの人が可愛いなんて言うんでしょう」

「図星」

「それに出産費用とか考えないといけないでしょう。子供だってできるんだし」

 淡々と喋る娘から視線を離し、ナオコはポケットから煙草を取り出した。
 そして、口に一本咥えると、すっとリツコに差し出す。
 彼女は指を使わずに顔を近づけてそのまま唇に咥えた。
 
「このご時世に医者が煙草ってよくないわね」

「そうね。もっともだわ」

 ナオコは高価なライターを使わない。
 所謂100円ライターだ。
 深く吸い込まず、まるで距離を競うかのように煙を吹き出す。
 母子だから似たというよりも、その職業的なものから来る煙草の吸い方なのかもしれない。
 だが、今はこの同じ動きが二人を苦笑させた。
 
「じゃ、せいぜいがんばることね。後悔しないように」

「後悔ならこの1年でもう充分したわ。逃げ出した私が馬鹿だったの」

 リツコはほんの少ししか吸わなかった煙草を灰皿に揉み消した。

「はい。これが私の生涯最後の煙草」

「あら、禁煙?」

「ええ、当然」

「就職するから?」

「まさか。シンジ君が嫌うの。煙草の匂いのする人は嫌いだって」

「阿るわけね。でも、父親も煙草を吸うんでしょう?ただの方便じゃないの?」

「ええ、きっとそう。でも、方便もまた真理に近いって誰か言ってなかったかしら」

「聞いた事がないわ」

「そう?じゃ、たぶん、ミサトあたりが言ったのね」

 リツコは立ち上がった。

「ちょっと行ってくる」

「雨よ。散歩?」

 歯磨きをするために洗面所へ向った彼女は背中で答えた。

「敵情視察」



 レイは眠っていた。
 さすがの彼女も眠気には勝てなかったようだ。
 不満げにシンジのチェロを聴いていたが、やがてこくりこくりと舟を漕ぎ出した。
 そのうちにぼそりと「わたしねるの」と呟くと、その場に横になった。
 これは仕方がない。
 時間はちょうど2時くらい。
 お腹はいっぱいだし、子守唄のように心地良い音楽が奏でられているのだ。
 
 そして、シンジもまた眠っていた。
 レイが寝るのを見て、彼はチェロを弾くのを止めた。
 「どうしたの?」と問うアスカにシンジは目をしょぼしょぼさせた。
 自分も眠たくてたまらないと言った彼はチェロをようやくケースにしまうと、
 その場にころんと転がった。

 アスカは?
 彼女も昼寝をしようと思ったが、その前にすることがあったのだ。
 自分がしっかりしないといけないのだから、何の準備もなしに眠ってしまった二人をこのままにしておくわけにいかない。
 
「まったく、レイちゃんもシンジちゃんもこどもなんだから、こまっちゃうわね」

 肩をすくめるアスカも子供。
 だが、ちゃんとお昼寝用のものをそろえないといけない。
 枕にタオルケット。
 枕は座布団を使うとして、タオルケットは他の部屋から持ってこないとならなかった。
 よいしょよいしょとタオルケットを抱えてきて、二人のお腹にかける。
 そして、座布団を頭の横に置いて、うぅむと唸りながらレイの頭を持ち上げ少し開いた隙間に座布団を足で押し込んだ。
 レイは少し身じろいだが目を覚ますことなく、またすやすやと寝息をたてる。
 続いてシンジの番。
 これも見事に枕をあてがうことができ、アスカはご満悦だ。
 腕を組んでうんうんと頷いたが、何かが足りないことに気がついた。
 そう、褒め言葉である。
 誰かに「偉いね」と褒めて欲しいのだ。
 こんなにがんばったのだから。
 そんなことを考えてしまうと眠気は吹っ飛んでしまった。
 アスカは大きく頷いた。
 ここは曽祖父の出番だ。

 惣流トモロヲ未だ就寝中。
 無理矢理起こしても褒められるどころか叱られる可能性の方が高い。
 アスカはそろりそろりと曽祖父の部屋から退散した。
 自分の部屋に戻るとレイとシンジは離れた場所でぐっすり眠っている。
 ぷうと頬を膨らまし、少なからず不機嫌なアスカは自分の座布団を枕に仰向けになる。
 羊さんの数を数えるまでもなかった。
 眠たくないっ。
 アスカは起き上がると、刺激を求めて部屋を彷徨い出たのである。

 惣流家の門前には赤木リツコが佇んでいた。
 惣流家には自分をお師匠と呼ぶ“あっかちゃん”が住んでいて、
 その敷地内に碇ゲンドウとシンジの親子が住まっている。
 彼女の家からここまで徒歩15分もかからない。
 東京にいた時は地下鉄を使わないと赴けないほどの距離だった。
 それが何と近い距離にいるのだろうか。
 彼がこの町に引っ越してきてから一度も顔を見たこともないが、その気持ちはわかっているつもりだった。
 自分を追いかけてきてくれたのだと。
 そしてまだシンジが再婚を許してくれないということも察しはつく。
 そうでなければ疾うに自分を迎えに来てくれるはずだ。
 自惚れているわけではないが、あの気弱な男が東京からここまでは来たのだから間違いはない。
 ああ、しかしその残り15分の距離はどうして埋めようか。
 リツコは溜息を吐いた。

 その時である。

「おおおおおっ、おししょ〜はっけんっ」

 開いた門のその奥、玄関からアスカの叫びが直球で飛んできた。
 拙いと思った瞬間にはもうアスカのからころという草履の足音が近くまで来ていた。

「ここ、アタシのおうちなのっ。おししょ〜、しってた?」

「知ってるわ。一度、送ってあげたじゃない」

「あっ、そうだっけ」

「クリームソーダをご馳走してあげたでしょう」

「あああ、おもいだした!えっと、あのときはごちそうになりも〜した」

 まるで侍のように一礼をするアスカにリツコは目を細めた。

「で、きょ〜は…あっ、わかった。あそびにきてくれたのねっ」

「いや、違う」

 というより先にしっかりと手を掴まれてしまった。
 ここで自然にその手を振り解けるようなリツコではない。
 アスカに玄関まで引きずり込まれてしまい、さらに家の中にまで誘われる。

「いまね、だ〜れもアスカのあいてしてくれないの」

「あっかちゃん、お留守番なの?」

「ううん。おじいちゃんがいるけどおひるねなの」

「ああ、そうなの。でもね、挨拶もしてないのに中には入れないわ」

「ぐふう…」

 膨れるアスカだが、これはいくらなんでもリツコが正論だ。
 ところが彼女にとっては間の悪いことにそこにトモロヲが目を覚まし玄関にまで出てきた。
 アスカと大人の話し声がすれば、惣流家当主としては威儀を正して出馬せねばなるまい。
 悪徳セールスマンならばどうする。
 だが、玄関先で相手を掴んで離さないのはアスカの方。
 その相手はどこかで見た事があるようなないような。
 挨拶を受けると赤木医院の娘とのことで、彼女がアスカがよく口にする“お師匠”とわかった。
 一見冷たそうな印象を受けるがアスカが懐いているのである上に、彼女の母親もそんな雰囲気である。
 曾孫に甘いトモロヲとしてはアスカが主張するように家に上がれと言葉を添えたわけである。
 リツコは苦笑しながらも靴を脱いだ。
 彼女の向う先に問題の少年がすやすやと眠っていることも知らずに。

 足を出せば頭を蹴飛ばせる場所に、シンジの頭はあった。
 「おひるねしてるからしずかにね〜」という言葉の意味がよくわからなかった。
 小さな子供が寝転がっているのを確認し、そしてその一人が碇シンジであることがわかったとき、
 さすがのリツコもどうすればいいのか途惑ってしまった。
 襖のところで立ち止まってしまったリツコにアスカは顔を上げた。

「おししょ〜、どうしたの?ね、ねっ、ほめてっ。アスカがよしよしってふたりをおひるねさせたんだよ!」

 誇張を含んだアスカの言葉はリツコに届いていない。
 臨機応変という言葉は親友のミサトの方に似つかわしい。
 リツコの場合はデータを収集し分析し判断することに秀でているのだ。
 さて、困った。
 困っている間に、アスカの声でシンジの身体がむずむずと動き出してしまった。

「あ、あっかちゃん、ごめんなさい。私…」

 もう遅い。
 シンジはむっくりと身体を起こし、とろんとした目をアスカに向けた。

「あれ、ぼく…ねちゃったの?」

「そ〜よっ。へへっ、しょ〜かいしたげるっ。アタシのおししょ〜なのっ」

 アスカの指の先を追って、そして二人の目がまともに合った。
 シンジはその人の姿を即座に認識することができず、ぽかんと口をあけた。
 リツコの方は微笑まなきゃいけないと思いながらも、それは表情を引き攣らせただけに終わった。
 たっぷり5秒。
 シンジが顔を歪めた。

「ど、どうして、ここにコイツがいるんだよぉ」

「コイツ?アンタ、なんてくちがわるいのよ!おししょ〜にむかって!」

「待って。あっかちゃん」

「き、きらいだっ。こんなヤツ、だいきらいだっ!」

 このやり取りでレイも目を開けた。
 彼女もまたリツコはアスカの師匠としての存在としか知らない。
 だからどうしてシンジがこんなに叫んでいるのか理解できずきょとんとしていた。

「くそっ、おいかけてきたんだなっ」

「はあっ?なにいってんのよ、アンタばか?おししょ〜はアンタがひっこして…」

「あっかちゃん、駄目っ。言っちゃ…」

「くるずぅ〜とまえから、ここにいるのっ。はっ!」

 アスカの言葉の意味をシンジはじっと考えた。
 自分たちが引っ越してくる前にこの女はここにいた。
 ということは…。
 彼の目に涙が浮かんだ。
 追いかけてきたのは、この女ではなく、自分の父親の方だったのだ。

「とうさん、ひどいよ…。ぼくなんて、ぼくなんて、どうでもいいんだ」



 惣流トモロヲは静かに息を吐き出した。
 何とこれは修羅の場となったものだ。
 なるほど、あの赤木医院の娘が、あの髭面の相手だったのか。
 さて、ここはどうしたものか。
 トモロヲは襖一枚隔てた隣の部屋に端座し、そして目を閉じた。
 彼がもっと若ければここで仲裁に入っていたことだろう。
 だが、幸いにも彼は年老いていた。
 その長い人生の経験から…娘と生き別れになってしまった苦い思い出もあって、
 じっと我慢して様子を見ることを覚えていたのである。



 アスカも気がついた。
 こんなに興奮したシンジを見るのは初めてだ。
 だが話に聞いたことがある。
 父親の再婚を反対して泣き叫んだとレイから聞いていたのだ。
 その話と今の状況が繋がった。

「あんたの新しいママっておししょ〜だったのっ?」

「えっ」

 真っ先に反応したのは意外とレイだった。
 彼女はじっとリツコを見据えた。

「アスカちゃんのおししょうさまがシンジちゃんのあたらしいおかあさん?」

「ちがうちがうちがう!ぼくのおかあさんはこんなやつじゃないもんっ」

 泣きながらシンジが叫ぶ。
 リツコは唇を噛みしめた。
 時間は何も解決してくれなかった。
 当然だろう。
 場所が変わっただけで何も変わってはいないのだから。

 ばんっ。

「うわっ」

 シンジが尻餅をついた。
 レイに肩を突かれたのだ。

「レイちゃん!」

「ゆるさない。いいひとじゃない。こんなひとがあたらしいおかあさんだなんて…」

 レイは本気で怒っていた。
 この時期の子供が怒ると見境がなくなる。
 彼女は拳を硬く握り大きく振りかざした。

「待ちなさいっ」

 リツコが飛び出した。
 見ず知らずの少女だが、拳骨で殴らせるわけにはいかない。
 その時、彼女の心にふっと浮かんだのはミサトとの初めての喧嘩。
 喧嘩慣れしてない彼女は後の親友を拳骨で思い切り殴ったり引っ掻いたり噛み付いたり。
 そんなことを咄嗟に思い出した彼女はレイを背後から抱きとめた。

「はなしてっ」

「駄目。暴力はっ」

 暴れるレイはその目からぼろぼろと涙を零していた。
 何故泣いているのか自分でもわからない。
 


 トモロヲはわなわなと拳を震わせている。
 立ち上がろうとする膝をその拳で押さえ込んでいた。
 元々彼は熱い心の持ち主だ。
 だからこそ娘と大喧嘩をしてしまったのである。
 そんな彼に耐えることは至難の業だった。
 そこへタイミングよく玄関から「ごめんください」の声。
 彼はそそくさと、いやえっちらおっちらと立ち上がった。
 そして挨拶とレイを預かってもらっている礼をのんびりと言う碇ハルナにしぃっと自分の唇に指を当てて見せた。
 もちろん何のことかわからないハルナを手招きして、部屋から部屋を抜けていく。
 こういう時に日本家屋は都合がいい。
 部屋同士で繋がっているからだ。
 その間に状況をざっと説明する。
 
「詳しいことは知らんが、これはいい機会かもしれんのじゃ」

 トモロヲは囁いた。

「ほれ、レイちゃんもそうじゃったじゃろう?うちのアスカが絡むとの、何故か上手い様にことが進む。
 それを信じて少し待って欲しいんじゃ」

 ハルナもその言葉には頷いた。
 別にアスカ自身が名案を出すわけではない。
 だが確かにレイが外に出るようになったのはアスカとの出逢いがきっかけだった。
 レイとシンジの不仲は彼らが幼いだけにハルナの心を痛めている。
 もしこれで上手く行くようならばこんなに嬉しいことはない。

「ここは我慢じゃぞ。出て行きたくなってもじっと我慢の一手じゃ」

 偉そうなことを言うトモロヲは人目があるおかげで泰然とした態度で臨むことができる。
 そんな自分に内心苦笑しながらも、彼は隣の部屋の様子を窺った。



 レイはもう暴れてはいない。
 リツコに背後から抱きしめられて、だがじっとシンジを睨みつけている。
 そのシンジは尻餅をついたまま、目を逸らしぐすんぐすんと鼻を鳴らしていた。

「うぅ〜む、わかんないよぉ。おししょ〜だったらいいじゃない。ど〜してだめなのよっ」

「だ、だって、か、かあさんとちがうもん」

「ばか。あんなにいやがるからへんなひとだとおもったら、すごくいいひとじゃない。このまえ、かっこよかった」

「そ〜よ。しにそうになってるひとをたすけたんだから!」

「え…もしかして交通事故のこと?あれは死ぬなんてとんでもない…」

「おししょ〜はだまっててよっ」

「シンジちゃんがわるい」

「そ〜よそ〜よ。レイちゃんのゆ〜と〜りよっ。けっこんさんせいっ」

「さいこん。さいこんさんせい」

「そうそう、それそれ。さいこんよ。さいこん。ぜったいさんせいっ
 さんせいのひとはてをあげてっ。はいっ!」

 自分で言うが早いか、ぴっと真上に右手を差し上げるアスカ。
 レイも「はい」と手を上げる。
 一瞬つられそうになったリツコはぐっと拳を握って心の中で「賛成」と呟いた。
 部屋の中の圧倒的な圧迫感にシンジはぼろぼろと涙をこぼした。

「どうしてぼくをいじめるの?ぼ、ぼくのおかあさんだよ」

「だってまちがってるもの」

「うんうん。おししょ〜だったらだいじょ〜ぶっ!ハーモニカもおしえてくれるわよ!」

「そんなのかんけいないよっ。みんな、ぼくのことなんかわからないくせに!」

「あたらしいおかあさんができるんだからいいじゃない」

「あたらしいのなんかいらない!ぼくはほんもののおかあさんが!」

「だってしんでるもの」

 レイにズバリと言われて、シンジは泣き顔をさらに歪めた。

「こいつはおかあさんじゃないもん。ないもん。ないもん!」

「もしかして、あなた、レイちゃん?」

 優しげな声音ではないが、すぐ近くで聞こえた声にレイはこくんと頷いた。

「そう…やっぱり。ありがとう。でもね、シンジちゃんの気持ちもわかってあげて」

「わたしもおかあさんいないもの。でもあたらしいおかあさんはほしいの」

「そうね。ほしいわね。でも、あなたとシンジちゃんは違うのよ」

 腕の中のレイが首だけで振り返ろうとした。
 その動きに合わせてリツコは腕の力を緩め、彼女を自分の方に向かせる。
 そして両肩に優しく手を置いて、まっすぐに幼女の顔を見つめた。

「いい?あなたはお母さんのことをほとんど知らないでしょう?物心ついたときにはもういらっしゃらなかったのだから」

 こくんと頷くレイ。
 その頭にリツコはそっと掌を置いた。

「でもね、シンジちゃんはお母さんの記憶があるの。お話したり、遊んだり、ご本を読んでもらったり、一緒にお風呂に入ったり…。
 だからね、こんな私とお母さんは違うって思っても仕方がないの。シンジちゃんの言うことは間違っていないのよ」

 これは本音だった。
 決して卑下して言ったことでなければ、同情させようと計算して言った言葉でもない。
 
「シンジちゃんがお母さんと私を比べるのは当然なの。だからそんなに言わないで頂戴。おばさんの言うことわかる?」

 レイはびっくりした。
 そして彼女の言葉の意味を大まかに了解していた。
 シンジが駄々をこねているのはおかしいことではない、と。
 そのシンジもまた驚いてしまっていた。
 彼の敵であるはずのリツコが自分を庇ってくれたのだ。
 まだ胸はひくひく言っているが、涙は止まっていた。



「ほほう、これはいい方向に向っているのではないかな」

「そうですね。シンジが泣き止んだようですから」

 トモロヲとハルナは顔を見合わせ、微笑を交わした。
 このままリツコとシンジが仲良くなれば何の問題もなくなる。
 だが、シンジは頑固者だった。
 襖越しに彼が「そ、そうだよ。だからぼくはいやなんだ」と言った小さな声が聞こえた。
 それを聞いてハルナがふっと溜息を吐いた。
 逆に自分の意見が肯定されたと思って、反対することに間違いはないのだと意志を固めてしまったようだ。
 これは拙い。
 そう年長者二人が感じた時だった。
 ずん!と畳を踏む音がした。



「おししょ〜、まちがってるわよ、それっ!」

 じっと腕組みをして考え込んでいたアスカが足を踏みしめて仁王立ちした。
 
「あっかちゃん、あのね…」

「おししょ〜はおししょ〜じゃない。シンジちゃんのしんじゃったママとはちがうよ!」

「そ、そうだよ、だからぼくは…」

「うっさい!ばかシンジはだまるのっ。アンタもまちがってんだからっ」



「申し訳ない」

 トモロヲは穴があれば入りたい心地でハルナに小声で詫びた。



「あのねっ、えっと、シンジちゃんのしんだママはそのひとだけなのっ。
 おししょ〜はおししょ〜で、しんだママといっしょじゃないんだもん。
 だからちがってもと〜ぜんなのっ。おししょ〜はそのままでいいのよっ」

 まず、リツコと襖の向こう側の年長者二人が彼女の言わんとすることがわかった。
 なるほどその通りである。
 亡き碇ユイの代わりになろうと考えたからシンジが態度を硬化させたのではないか。
 再婚という言葉を持ち出すまでは別にシンジはリツコを毛嫌いしていなかったのだから。
 リツコは愕然とした。
 どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのだろうか。
 彼女もゲンドウも口を揃えて、ユイの代わりにお母さんに…とシンジに説明したのだ。
 もっと別のやり方があったはずだ。

「アスカちゃん、どういうこと?」

「うぅ〜ん、わかんないかなぁ。 
 ええっとね、あっ、このまえみたテレビのアニメでね、すいそ〜のなかにおなじかおをしたにんげんがいっぱいいたの」

「すいそう?」

「うんっ、きっとかいぞ〜にんげんかなにかよ。だからね、おなじかおとかしてるのはかいぞうにんげんみたいなのじゃないとできないのよ」

「あっ、かいじゅうとかうちゅうじんも。バルタンもおなじかお」

 思わず知れず、指を鋏の形にしてしまうレイである。
 因みにバルタン星人はそれぞれ違うなどという野暮な突っ込みはなしである。
 レイもアスカも怪獣博士ではないのだから。

「そうそう!ふつ〜のにんげんはみんなちがうんだもん。
 あ、にんげんだけじゃないわよ。ウルトラマンのあとにセブンでしょ。
 セブンはすぺしゅ〜むこ〜せんだせないじゃない!」

 うんうんと頷くレイは、何となく話の意味がわかりかけてきた。

「えっと、だから、おししょうさまはべつのおかあさんになるのね」

「そうそう!さすがレイちゃん」

「わ、わかんないよ」

 わからないのが当たり前だ。
 だからこそ彼は悲しみの迷宮に迷い込んでしまったのだから。

「もうっ、わかんないやつねっ。だからぁ、アンタのしんだママはどこにもきえやしないのよ!」

「え…」

「ええっと、なんだっけ。ほら、このまえみたじだいげきできんさんがいってたのよ。ええええっとぉ」

 アスカが地団駄を踏んでいると、襖の向こうから声がした。

「おっかさんはお前の心の中でずっと生きてるんだぜ」

「おおっ、それそれ!って、おじ〜ちゃんっ!」

 振り返ったアスカが襖をぱしっと開く。
 そこには正座しているトモロヲとハルナがいた。
 つい口を出してしまったトモロヲはばつが悪げにぽりぽりと頭をかいている。

「リツコさん、お久しぶり」

「あ、こ、これは、ハルナさん」

 慌てて居住まいを正し、リツコは作法通りに辞儀をする。

「ご無沙汰しています。本来ならご挨拶にお伺いしないといけないところでしたが…」

「仕方がないわ。こういう状況で平然と挨拶できるような娘さんなら私の方で会いませんから」

 ハルナの微笑みを見て、リツコの胸のうちが熱くなる。

「こら、アスカ。話を進めんか」

 トモロヲは気が気でなかったのである。
 詰め将棋で言えば、あと2手ほどだ。
 ここで大人が口を出せば、揺らいでいるシンジがまた態度を硬化してしまうかもしれない。
 全てはアスカにかかっているのだ。
 そうとも知らず、アスカはいつもと同じように能天気だった。

「おっと、そうだった。えっと、つまりアンタのママはシンジちゃんがいきてるかぎりしなないの。わかる?」

「え。でも、おかあさんはしんでるよ」

「ああっ、わからんちんねっ。めをつぶってみなさいよ!」

「う、うん」

 素直に目を瞑るシンジ。
 アスカは彼のすぐ前に歩み寄り、仁王立ちして見下ろした。

「で、ママのことをかんがえんの。そうねぇ、ごほんをよんでるところ。どう?」

「うん。なんのほん?」

「う〜ん、ろくちゃんの。よんでくれたんでしょ」

「うんっ」

 目を瞑ったシンジの顔は明るくなっていた。
 入院した時もゲンドウの書いた絵本を読んでくれていたのだ。
 優しい声音で、演技力たっぷりに。
 そんな母の声、母の表情を思い出す。

「ほらねっ。しんじゃってるけど、いきてんじゃない」

「ほんとだ…」

「えっとね、だからおししょ〜はアンタのママをおいだすんじゃないの」

「そうなんだ…。じゃ、おかあさんはずっとおかあさんのままなんだね」

「とぉ〜ぜんっ」

 こんな二人のやり取りをレイはきょとんとした顔つきで眺めている。
 すかさずハルナが孫娘を手招いた。
 そして膝の上に座らせる。
 母親の話題に彼女が寂しい思いをさせないために。
 そして、リツコは固唾を呑んで小さな二人を見つめている。

「おかあさんはじょうずだったんだよ。おはなしをよむのが」

 シンジは嬉しそうに喋った。
 その表情を見てリツコは「かなわないわね」と苦笑した。
 もとより無茶な話だったのである。
 この子の母親に成り代わろうということ自体が。
 少年は喋り続けた。

「でもね、おとうさんはえほんをかけるのによむのはだめなんだ。
 ぼそぼそぼそぼそってかんじで」

「うふっ、わかるわかる!」

 アスカが楽しげに相槌を打った。

「それからね、リツコおね〜さんもね、へたなんだよ。
 みんなおなじかんじでしゃべるんだ。おとなもこどもも」

 はっと息を呑んだ。
 いつ以来だろう。
 彼の口から“リツコお姉さん”という呼び名が出てきたのは。
 そもそもその呼び名を決めたのはユイその人だった。
 おばさんでいいと言ったリツコに、優しく首を振ってシンジにそう呼びなさいと言い聞かせたのだ。
 
「おっ、そ〜なんだ。おししょ〜もだめねぇ。
 もっとしゅぎょ〜しないと。アタシのほうがぜったいにうまいわよ!」

「アスカちゃんはこえがおおきすぎるよ。えほんよむときも」

「んまっ、えらそうにっ。じゃ、これからえほんをよむわよっ!」

「えっ、いまから?」

「あたりきしゃりきのなんとかかんとかよ。えっと、じゃあね〜」

 さすがにトモロヲとハルナは巻き込まれなかった。
 幸か不幸か、ゲンドウの…いや、ろくちゃんの最新作『ぎこぎこしぃ〜』にはお年寄りは登場しなかったのである。
 割り振られたのは主役のチェロを弾く少女がレイ。その両親がアスカとシンジで、本文はリツコが読むことになった。
 リツコは正直に言うと逃げ出したかった。
 子供の時から朗読は苦手だったのだ。
 親友の超演技派を自称するミサトとは正反対に。
 だが、逃げるわけにはいかない。
 急転直下、敵情視察のはずが交戦状態になり、あろうことか平和的解決にまで至ろうかとしているのだ。
 彼女はごほんと咳払いした。
 リツコが言葉を発しないと何も始まらないのである。
 彼女の台詞から物語は始まるのだから。
 物語に登場しない二人のお年よりは気を聞かして茶の間に退散している。
 子供達は大丈夫だろうが、ギャラリーがいるとリツコに気の毒だからだ。
 彼女は読む前に子供たちを見渡した。
 いや、横目で見たといった方がいい。
 絵本を前にしてリツコが中央。
 右手にレイ。左手にシンジ。そして、アスカはちゃっかりとリツコの膝の上。
 レイは微かに微笑んで、アスカはわくわくしているのか赤金色の頭がゆらゆらと左右に揺れている。
 そして、シンジは?
 彼もまた楽しいようだ。
 一瞬、リツコを見上げて「はやく!」と言わんばかりににっこりと微笑んだのだ。
 よし、いくわよ、リツコっ。
 自分を奮い立たせ、彼女はそれでも冷静としか思えないような口調で喋りだした。

「あきちゃんはチェロを持っています……」





 ゲンドウは目を上げた。
 ようやくそのページが片付いたのだ。
 悠然と時計を見るともう6時であった。
 時間を確認した途端に彼は大慌て。
 もっとも周りの者から見るとまったく慌てているようには見えないのだが。
 シンジはまだ惣流家にいるようだ。
 ご飯は炊かなくてもいいが、今からすぐに用意できるおかずは…。
 彼は溜息を吐いて、晩御飯をレトルトカレーに決定した。
 サラダだけは冷蔵庫にあるものでつくることはできるだろう。
 まずはシンジを迎えに行かないといけない。
 チェロを持ち出しているからだ。
 雨もまだ降り続いているようだから。
 その時、窓の外からシンジの笑い声がした。
 足音も聞こえる。
 ゲンドウは自分に舌打ちをした。
 誰に送ってもらったのだろうか。
 ともあれ彼は急いで玄関に出た。
 ちょうどその瞬間、玄関の引き戸がガラガラと開いた。
 真っ先に目に入ったのはシンジの笑顔。
 そして傘に顔が隠れた、チェロのケースを片手の女性の姿。

「あ、すみま…」

 せん、までは言えなかった。
 傘を上げた向こうにリツコの顔があったからだ。

「リツコおね〜さん、ぼくのへやをみてよっ」

 シンジはさっと靴を脱ぎ板敷きに上がる。

「お、おねえさんだと?」

「あら、おばさんの方がよかったかしら?はい、チェロをお願い」

 リツコはそっけなく言うと、ケースをゲンドウに差し出した。
 彼は状況がまったく飲み込めない。
 絵本を2ページ書き進めた間に、この地球では何が起こったのだろうか。
 すっかり浦島太郎的に呆然とする彼を尻目に、リツコは靴を脱いだ。

「おじゃまします。とりあえずね」

 そしてリツコは微笑んだ。

「でも、大前進。きっといつか、ただいまって言うから。今はこれで」

「う、うむ、問題ない」

 一旦自分の部屋に駆け込んだシンジはあわただしく戻ってきてリツコの手を取った。

「ほら、はやくっ。えほんをよむれんしゅうするんでしょ!」

 ゲンドウに笑顔を残し、リツコはシンジに手を引かれて廊下を進んでいった。
 その二人を見送って、絵本作家はサングラスを外した。

「わからん。なにがどうなったのだ」

 経緯は知らない。
 だが、話はうまく進みそうな気がしてきた。
 ゲンドウは鼻で笑った。
 何はともあれ、カレーライスとサラダは3人分用意したほうがよさそうだ。
 彼は、踊りだしたい気持ちや歌いたい心を必死に押さえ込んで、台所へと向った。
 若干、スキップ気味に。



「どうっ、アタシ、すごいでしょっ!」

「本当ね。アスカ、偉いわよ」

「へへんっ」

 今回ばかりは褒めるしかない。
 このままずっとうまく進むかどうかはまだわかりはしない。
 だが、大いなる前進だ。
 
「ねえねえっ。おふろでたら、えほんよんでよっ」

「ええっ、アスカは一人で読めるでしょう」

「ぶう。きょうはママによんでもらいたいのっ。そ〜ゆ〜きぶんなのっ」

 湯船の中でアスカは膨れた。
 今日はみんなに褒められたのだ。
 リツコには頭を撫でられて、「本当にありがとう」と言われた。
 レイなどは目を丸くして「アスカちゃん、すごい」と拍手したほどだ。
 自分のしたことが予想以上に反応があったことなど忘れてしまって、アスカは大威張りだった。
 帰宅したキョウコは娘が長鼻の天狗になってハイテンションになっているのにあきれ果てたが、
 今日の成り行きを聞いてみるとこれは少しばかり増上漫になっても仕方がないかと思った。
 キョウコはそんな娘のおでこを人差し指で軽く突付くと、にっこりと微笑む。

「仕方がない。今日は特別。読んであげるわよ」

「やたっ!」
 
 言うが早いか、アスカはざんぶとお湯の中にもぐった。

「こら!さっき髪の毛洗ったのに!馬鹿アスカ!」

 母の怒鳴り声をお湯越しではわんわんとしか聞こえない。
 たっぷりのお湯の中でじたばたと身体をくねらせながらアスカはにんまりと笑った。









 
 
 あっかちゃん、ずんずん 第十三巻 「あっかちゃん、大いに威張るの巻」 −おしまい−
















(あとがき)

 第十三巻です。
 呆気なかったですか?シンジが考えを変えたことが。
 でもこれからなのです。すべては。
 だって、リツコは家事が苦手なのですから。まずは花嫁修業もしないといけないのです。
 そうしないとせっかくの「リツコおねえさん」の地位から転落してしまいますからね。
 さて、ジャンケンに負けたアスカはシンジと結婚する羽目になってしまっていますが、
 当然二人とも忘れてしまってます。
 新郎のシンジにいたっては、そういうことになっているなどとは夢にも思っていません。
 そのうち、どちらかが思い出すことでしょう。

 2006.10.11 ジュン







あっかちゃん十三話を頂きましたです。
今回はまた人物関係が大きく動いたようです。
その全ての基幹にあっかちゃんがいるってのが実に素晴らしい。
さながら幸運の女神…いやこの時点では座敷童でしょうか?
そして招来、彼女が女神のように美しくなったとき、果たして婚約は履行されるのでしょうか!?(笑)
壮大な伏線が消化されるのはまだまだ先でしょうが、続きが今から楽しみですね〜。

同じく続きが楽しみな方は、ジュンさんへ感想メールをお願いします。





(2006/10/24掲載)


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