赤木リツコは悩んでいた。
 碇ゲンドウの妻となる道が、彼女の目の前に広がってきたにも関わらずだ。
 悩みのためは能力不足である。
 もちろん、目出度く就職した市民病院での仕事の能力ではない。
 そちらの方は新参者ながら的確な腕を周囲に認めさせているほどだ。
 問題は、家事である。
 無論、一通りの家事はできる。
 東京でひとり暮らしをしてきたのだから。
 ところが主婦としての家事能力はどうかと問われれば、実に心もたないと言えよう。
 掃除はどうか。
 この分野にかけてはそれほど心配はしていない。
 洗濯はどうか。
 現代社会は彼女に全自動洗濯機という魔法の機器を提供できる。
 数十年前から存在する魔法の機器ではあるが、これを用いれば大抵の衣服はことが足りる。
 あとは特別なものを洗う時にどうすればいいかだが、これについても一度学習すれば大丈夫だろう。
 この分野における一番の問題はアイロン掛けである。
 これは練習するしかない。
 次に最大の問題である、炊事である。
 インスタントは当然大丈夫だが、それでは主婦にはなれない。
 家庭の味をゲンドウとシンジに提供できないと、妻であり母であるとは言えないからだ。
 花嫁学校…という直接的なネーミングのものは今や存在しないが、
 それに近いものはこの田舎町にもあった。
 しかし、意志というハードワークに従事するリツコには決められた時間に学びに行くということができない。
 本人のやる気云々を論じる前に物理的に不可能だ。
 さすれば、親に教えてもらうという手がある。
 ところが、女手一つでリツコを育ててきた赤木ナオコは家事を放棄していたのである。
 そう、赤木家にはお手伝いさんというものがいた。
 しかし、リツコが東京へ出てからはもう雇っていない。
 その上、リツコと一番仲がよかったおばさんは県外の息子の家へと引っ越してしまっているのだ。

「無様ね」

 ナオコは熱いお茶を啜りながら言った。
 誰のせいで困っているのかと、リツコは母親を睨みつける。
 その眼差しの意味は百も承知だが、自分はできないのだからどうしようもない。
 だから別の人間、若しくは方法を考えるべきだ。
 実にドライな考え方だが、赤木先生はこういう人だと町内で知らない人は居ないのだ。
 当然、リツコも別の方法を模索したが、いいアイディアは浮かばない。
 それでこの夜、母親に愚痴をこぼしたのだが、一刀両断されたわけである。

「母さんに嫌味を言っても始まらないわね」

 そんな嫌味をリツコは口にした。
 嫌味と認識したのかどうか、ナオコは涼しい顔で熱いお茶を飲む。

「最近、背中が丸くなってきたんじゃないの?」

「まさか。日本人が日本茶を飲む時は、こういうポーズを取らないといけないの。知らない?」

「知りません」

 まさに暖簾に腕押し。
 実はリツコには目的があったのだ。
 炊事能力を上げ、“リツコおねえさん”の株を上げる。
 今、シンジのお弁当はゲンドウが作っている。
 その味は可もなく不可もなく、なのだが見た目が悪い。
 あんなに可愛い絵本を描く男なのに、どうも弁当の美的センスは皆無に近いようだ。
 それでもシンジは文句も言わず、むしろ礼を言って空のお弁当箱を持って帰ってくる。
 しかし、彼は内心そのことに不満を持っているのだ。
 リツコは確かな情報筋からそれを入手したのだ。

「あのね〜、シンジちゃんはアタシのおべんと〜がすっごくうらやましいんだって!ぐふふふふ」

 情報源は天狗になっていた。
 アスカにとっては自分(のお弁当である、正しくは)が褒められているのと意味が同じようだ。
 リツコも一度、そのお弁当を見せてもらったことがある。
 なるほど和洋折衷であり、子供がいかにも喜びそうな様子に仕上げて、
 それでいて栄養のバランスもしっかり考えているようだ。

「これは…凄いわね」

「へへん!でも、あげないわよっ。いっくらおししょ〜でもねっ。あ、でもでもプチトマトさんくらいならたべてもいいよっ」

「遠慮するわ」

「ぐふう…」

 どうやらアスカはプチトマトが苦手だったようだ。
 その処理を目論んだのだが、やはりお師匠様は手強い。
 見事に見破られて、計画はあっさり頓挫した。

「しっかたないなぁ。じゃ、このアタシがたべてあげるとしますか。おいしいのになぁ、プチトマトさん。ホントにいらない?」

「いりません」

 鰾膠(にべ)もない。
 しかしそんな態度をされても腹がたたないのだ。
 それはなぜかなどアスカは考えない。
 お師匠様はいい人である。
 アスカにとってはそれで充分なわけだ。
 リツコに対しては好き嫌いがはっきりとわかれる。
 冷静でつっけんどんな対応をするから、嫌いな人間はとことん嫌ってくる。
 親友のミサトのように多くの人に好意を持たれるようなタイプではないのだ。
 しかし、彼女の内面を知る者は外見や言動で不快感を持たなくなる。
 不思議な話だが、患者の側にはリツコを嫌う者が少ない。
 おそらくは、患者と接する時に無意識に彼女の内面が出てきているからかもしれない。
 と、いうのはナースセンターの噂話である。
 因みに噂をする看護士たちからもリツコの受けはいい。
 指示が的確で無駄がなく、無愛想のようだがふっと見せる笑顔が可愛い。
 そう。可愛い、と言われているなど、リツコは想像もしていないだろう。
 寧ろ同僚上司の方に煙たがる者がいるようだ。
 もちろんそれは患者や看護士の中にも存在する。
 そしてそのほとんどの理由が“愛想がない”というもので、
 当然のごとくすべて男性である。
 女性に優しさを要求するタイプの男性にはリツコはまったく好まれないのだ。
 もっともリツコ本人にそんな男性には興味も何も感じないのだ。
 彼女が興味を持っている異性はゲンドウだけだ。
 そのゲンドウが女性に求めているのは“優しさ”ではなく“愛”なのである。
 少し脱線したが、何はともあれアスカはリツコが大好きである。
 
「あ、そうだ。こんど、レイちゃんのおべんと〜もみてみたら?おいしいわよぉ」

 見るだけでは美味しさはわかるまい。
 相変わらずのアスカに苦笑するリツコだったのである。

 ともかくアスカの情報によりシンジがかわいいお子様向けお弁当を欲しているのはわかった。
 センスには自信はない。
 さらに味にも自信はない。
 誰かに教授を求めたくなるのは当然だ。
 現在は自宅で自主学習に勤しんでいるのだが、歯に衣着せぬ母親の暴言に耐えるしかない状況なのである。
 それでもその不味い食事を食べてくれるのだから、母親というものはありがたい。
 もっとも自分で作る気はないし、買いに行くのも面倒だ、という理由らしいが。
 赤木ナオコという女性もなかなかに素直ではないようだ。

 

 その頃…というのは、時間にすると午後7時。
 惣流家では晩御飯はすでに終わっている。
 これまでならアスカが漫画番組を熱心に視聴し、その傍らでトモロヲが夕刊を丹念に読む。
 そして、台所からキョウコがちらちらと顔を覗かせているというのがパターンである。
 因みに彼女が居間の様子を窺っているのは、娘や祖父を気遣ってのことではなく、
 アスカの見ている番組が気になるからである。
 実は大人向けの恋愛ドラマよりもこういった番組の方が好きな25歳の母なのだ。
 今日は…というよりも、最近その生活スタイルが少し変わってきている。
 メンバーが一人増えたのだ。
 敷地の一角にある長屋から少年がお邪魔してきている。
 父親が仕事をしているのを邪魔したくないと、小さな音でテレビを見ている彼をアスカが強引につれてきたのだ。
 夜とはいえ、両家の間は徒歩にして1分弱。
 走れば30秒もかからない。
 無論それは幼児の足でである。
 創作という仕事の性格上、決められた時間にきちんきちんと仕上げていけるものではない。
 構想が浮かんだ時に机に向かうのが一番効率がいいのだ。
 そんな不規則な生活パターンであるだけに、シンジが寂しい思いをしているのではと気が気でなかった。
 そこへ惣流家からのお誘いだけに、ゲンドウもこれには助かっていた。
 心配もない上に、シンジも毎日楽しそうだ。
 おまけに仕事もはかどる。
 不器用に礼を言う男に、トモロヲもキョウコも笑いをかみ殺しながら、安心して息子さんをお任せくださいと告げたわけだ。
 これには、アスカもシンジも大いに喜んだのである。
 何しろ遊びの時間が増えたも同然だからだ。
 さすがに夜だけに家の中を走り回って遊ぶわけにもいかないが、本を読んだり絵を描いたりゲームをしたり…。
 話を聞いたレイが羨ましがるのも無理はない。
 で、当然のようにアスカがレイも来ればいいとあっけらかんと言ったのだが、
 さすがに徒歩10分以上の碇家から遠征するわけにもいかない。
 それにレイはきっぱりと言ったのである。
 お祖母さんが寂しくなるから駄目、と。
 年寄り思いなのはアスカも同様だ。
 じゃ、駄目だねと泣く泣く断念したのである。
 レイも同じだった。
 夜になっても友達と遊ぶというのは何と魅力的なことだろうか。
 その未知の領域に思いを馳せ、幼女たちは溜息を吐いたのである。

 さて、今宵はシンジが初めての体験に目を輝かせていた。
 場所はお風呂。
 真っ裸の彼の隣には同じく真っ裸のアスカがいる。

「す、すごいや。これにはいってもいいの?」

「あったりまえじゃない。ふふんっ。すっごいでしょ。きのおふろよ」

「うんっ、すごいや。はじめてみたよ」

「ふふふふんっ」
 
 アスカはご満悦である。
 惣流家自慢の木のお風呂だ。
 これを手入れするのは大変で毎日掃除をしっかりとしないといけない。
 アスカももちろんその手入れに参加しているのだが、
 どうやらシンジには自分が中心になってしていると吹聴したようだ。
 それくらいの嘘は神様も許してくれよう。

「え、えっと、どうやってはいるの?さきにからだをあらってきれいにしてから?」

「はぁ?もちろんちゃあんとまえとうしろはあらってはいるにきまってんじゃない」

「え?せっけんであらわないでいいの?」

「それはいちどおふろにはいってからでしょ。このわからんちんね」

「わから…ってなに?」

「もうっ。ぐずぐずいってないではいんなさいよ!」

 アスカは木の桶でお湯をすくってシンジの下腹部めがけてぶちまける。

「わっ」

「こらっ、おどろいてないでさっさとあらいなさいよ」

「う、うん」

「それともじぶんでできないの?だったらアタシが…」

「アスカ、いい加減にしなさい」

 そう、ここらで止めないと拙い事になる。
 いくら5歳でも…っと思ってしまうのは大人の目が汚れているのかどうか。
 そこのところはわからないが、母親として娘のそんな行為は止めるのが当然だろう。
 もっともアスカの方は何故叱責されたかなど知るはずもなく、
 「はぁ〜い!」と大きな声で返事し、さっさと自分はかかり湯をしてお風呂に入る。
 それを見て、シンジは“なんだ、いつもとおなじか”と安心して、それでもしっかりアスカの真似をした。
 そんな動きにシンジの性格が見えて、キョウコは笑みを浮かべたのである。
 
 居間の方ではトモロヲが苦笑していた。
 さすがにあの歳では男と入浴と言われても、“なにっ”と一瞬考えるだけだ。
 そのうち、自分ともお風呂に入ることはなくなるのだろう。
 それは何年後のことなのか。
 考えると一抹の寂しさはある。
 実は最初にアスカとお風呂に入った時は、トモロヲは勝手がわからずに往生したのだ。
 娘が幼い時は母親とばかり入浴していたので、よく考えると子供とお風呂に入り面倒を見るなど初めてだったのである。
 トモロヲの回想は連鎖した。
 日本式の風呂に途惑うキョウコ。
 このようにするのだと口で教えても、簡単な日本語しか解せない彼女は困り果てた。
 もちろん教える側のトモロヲもである。
 そして彼は意を決した。
 まさしく毛色の違ううら若き女性ではあるが、実の孫ではないか。
 何を臆することやある。
 城代家老の末裔は、キョウコに語りかけた。
 「今から私が手本を見せる。わかるか?」
 頷くキョウコを脱衣所の外に待たせ、トモロヲは素っ裸になり腰にタオルを巻く。
 鏡の中の自分の裸身を見てまるで痩せ蛙のようだと苦笑し、そして彼は曾孫を抱く孫娘の前でデモンストレーションをした。
 あの時は内心火が出るほど恥ずかしい思いだったのだが、今となっては懐かしい思い出の一つだ。
 たどたどしい片言の日本語しか話せなかったキョウコが、もう日本生まれだと言ってもおかしくないほど流暢に話ができる。
 しかし…。
 そこでトモロヲは鹿爪らしい表情となった。
 
 キョウコはこのまま結婚をせぬままに一生を送るのか?

 まだあんなに若いではないか。
 無論、ろくでもない男は駄目だ。
 しっかりとした男で、アスカも含めて愛してくれるような男でないと。
 わしの目の黒いうちは断じて変な男は近づけぬわ。

 そして、また彼は苦笑した。
 結局、誰一人許さないような気がする、と。
 キョウコもアスカも可愛くてたまらない。
 あの世にいる妻と娘が自分のこんな姿を見て、笑い転げているに違いない。
 生前はそんな姿は決して自分には見せなかったが、それは彼女たちの本意ではなかった。
 自分が厳格な父親という姿で家の真ん中に居座っていたからだ。
 どうしてそういう一面でしか接することができなかったのだろう。
 今も厳格な一面はあるが、気持ちに余裕がある。
 張りつめたような家庭の雰囲気は今はまったくない。
 歳を取ったことがそうさせているのだろうが、あの頃の自分に会うことができれば正座させて説教したいくらいだ。
 
 お風呂ではアスカとシンジが洗いっこをしている。
 シンジは痛いと叫び、アスカはこそばゆいと笑う。
 二人とも性格がよく出ていると、湯船の中のキョウコはニヤニヤ笑った。
 トモロヲが熱めのお湯が好きだから、お湯は43度に設定している。
 最初はそんな熱いお湯に浸かることができなかった。
 ドイツではほとんどシャワーだったし、入浴用のお湯をこんなに熱くするなんてキョウコの常識を超えていた。
 もちろん、当初は赤ん坊のアスカと一緒にお風呂に入るのだから、トモロヲからするとぬるま湯のような温度だった。
 それが、アスカがトモロヲと入るようにもなり、やがて祖父が自分の入った後に水を足しぬるくしていることを知ったのだ。
 キョウコは負けず嫌いだった。
 だから「もったいないのでそのままにしておいて下さい」と頼んだのだ。
 初めて43度のお風呂に入った時、彼女は指先を湯船に入れ小さく悲鳴を上げた。
 その悲鳴が今のトモロヲにまで聞こえたのではないかと、キョウコは自分を恥じたのである。
 そしてもう絶対に泣き言は言わないと決心し、声にならない叫びを喚き散らしながら湯船に浸かったのであった。
 30秒耐えた。
 ざばんと水しぶきをあげて湯船から飛び出したあとは、蛇口を全開し冷水を桶に溜め、それを頭から浴びたのだ。
 入浴後、キョウコの白い肌は見事に赤らんだ。
 その姿を見て、トモロヲからはやめた方がいいと言われたのだが、言われると余計にキョウコは依怙地になった。
 やはり、彼女も惣流家の一族だったわけだ。
 それに母が懐かしかった。
 亡き母が漏らしていた言葉。
 日本の父が熱い風呂を好んだ、と数回聞いたことがある。
 そして、熱いお風呂に入りたいなぁ、とも。
 子供だったキョウコがそれなら入っているではないかと言うと、母は優しく笑ったのだ。
 日本にいるあなたのおじいちゃんは叫び声を上げたくなるような熱さのお風呂に入るのよ、と。
 確かにその通りだった。
 その後、キョウコは鍛錬した。
 41度から始めて、身体を慣らしていったのだ。
 熱いお風呂は身体に悪いと知っても、負けず嫌いと慣れてしまえば気持ちがいいことがわかり、
 結局、彼女も、そしてアスカも平気で43度のお風呂に入るようになったのである。

 だが、シンジは違う。
 だから、キョウコは40度に設定しておいた。
 湯加減はどうかと聞くと、「きもちいい」と返事が帰ってきたので一安心。
 ところが、アスカは不満だったのだ。
 こんな水みたいな風呂は風呂じゃねぇ、などと時代劇で覚えた台詞を頭の中で喋り、
 そして、そっと操作盤に手を伸ばしたのである。
 デジタル表示が43を示すと、可愛い悪魔はにやりと笑った。
 その後で、洗いっこに励んだわけだ。
 泡はすでにすくっておいていた桶のお湯で落とした。
 シンジがキョウコに髪の毛を洗ってもらっている間に、アスカは湯船に入る。
 ああ、これだ。
 43度がいいのよ、これ、これっ。これでないとお風呂に入った気がしない。
 すっかりご満悦の表情でアスカは顔をほんのりと赤らめていった。
 
「はい、次はアスカよ。シンジちゃんと交代して」

「はぁ〜い!」

 ざぶんとアスカが湯船に立つ。
 そしてシンジはよいしょと湯船の縁に足をかけた。
 その時、彼は思った。
 あれ?何か熱いような気がするぞ…。
 気のせいかな?
 足の先をつけると、確かに熱い。
 思わず声が出た。

「わっ、あれ?あのさ、これ…」

「どぉ〜ぞっ!」

 哀れ、いたいけな贄は非情な悪魔に手を引っ張られ、未知の温度を経験することになる。

「ぎゃあああああああああちあちあちあちちちちち!」

 浴室の3人はすべて驚いた。
 悪魔であるアスカもこんな気持ちのいい湯加減で大騒ぎをされるなど予想もしていない。
 キョウコもいつの間に追い炊きされていたのか気がついておらず、慌ててシンジを洗い場に回収し、水をかぶせて冷やす。
 シンジはぼろぼろと涙をこぼしながら、「あついよぉ」と繰り返すだけ。
 
「ごめんね、シンジちゃん。熱かった?」

「ひぃっ、ひぃっ、あついよぉ。たすけて」

「アスカ!あなたでしょう!」

「だっていつもの43にしただけだもん」

「シンジちゃんはこんな熱いお風呂に入ったことないの!本当にごめんね。痛くない?」

「あついよぉ。やけどするぅ」

「おぉ〜ばぁ〜ね、こんなのでやけどするわけないでしょ」

「アスカっ。後で、お仕置きするからね!」

「どぉ〜してよぉ!ママだってあついのがいいっていつもいってるじゃないっ」

 お仕置きだと言われ憤懣やるかたないアスカが大声で不平を上げる。
 場所は浴室。
 わんわんと響く上に、幼女特有の金切り声だ。
 シンジは泣く。
 アスカは叫ぶ。
 キョウコは頭がおかしくなりそうだった。



「いや、それはすみませんでした」

「と、とんでもない!うちの馬鹿アスカが」

「ふぅ〜んだ!シンジちゃんとはもうぜったいにおふろなんかはいってあげないもん!」

「あんな、あついの、ぼくだってやだもん。あっかちゃんとははいらないもん」

「ふんっ、このよわむしっ。ぜっこうよ。アンタなんか。くちもきいてあげないんだから」

「こらっ、まだ言うか!」

 ごつん。
 キョウコに拳骨を食らって、アスカは頬をぷぅっと膨らませた。
 
「いったぁ〜〜〜い!なくぞっ」

「泣けるものなら泣いてみなさい」

「うぇ〜〜〜〜ん!」

 いくら嘘泣きでもほどがある。
 こんなに元気に泣き声を上げられては、ゲンドウとしても苦笑するしかなかった。

「どうも私が長風呂なもので、ぬるいお湯なんですよ。それでこいつも慣れてなかったんでしょう」

 ゲンドウは息子の髪をかき混ぜるようにいかつい手をごしごしと動かした。
 濡れ髪なので引っ張られて痛い。
 シンジは父親を見上げて唇を尖らせる。

「それにいつもの温泉もそんなに熱くなく…、あ、知り合いの実家が温泉旅館を経営してましてな。
 こいつと年に何回か行くんですよ」

「おんせんっ!」

 その魅惑的な単語にアスカはすぐさま反応した。
 テレビでしか見たことのないものだ。
 
「おんせんって、あのっ、おおおおおお〜〜〜〜っきなっ、おふろっ?」

 身体の限界までアスカは手を広げて見せた。
 哀しいかな、いくら広げてもビニールプールほどにもならないのだが、その意気はみなに知れた。
 おそらくは、大露天風呂か、大ジャングル浴場か、テレビで見たマックスの広さを表現したのだと。

「ほほう。あっかちゃんは温泉に行ったことがあるのかな?」

「ないよっ。おうちにきのおふろがあるもん!」

「ほう、檜風呂ですか。そいつはすごい」

「いのきじゃないよ。きだよ。きっ」

 そろそろキョウコはアスカに猿轡をはめたくなってきた。
 
「さあ、ひのきかどうか。そんなに凄いものじゃありま…」

「そんなことないよ!おじいちゃんはあれはうちのじまんじゃっていってるじゃない!」

「アスカは黙りなさい」

「ぐふう…」

 幼いアスカに大人の会話の機微などわかりはしない。
 もっともキョウコも日本に来て驚いたことのひとつだったが。
 自慢すべきものは大いに自慢していいではないか。
 それなのに日本人は謙遜するのだ。
 最初は馬鹿らしいと思っていたが、これはこれで“察する”という能力が向上するということがわかった。
 “察する”能力が高いと近所付合いが巧くいく。
 因みにキョウコは周囲にこう思われていた。
 惣流さんの異人さんはべっぴんさんなのに顔を褒めるとえらい勢いで謙遜する。
 やっぱり日本人の血が流れているんじゃなぁ。
 単にキョウコはドイツにいた時の容姿に対するコンプレックスがあったために、
 美人だと言われてもまったく同意できなかっただけのことだ。
 まさか日本に来て“美人”だと持て囃されるとは夢にも思わなかったのである。
 ただし、母はそんなことを言っていた。
 日本なら凄い美人で通るのにねぇ。
 すこしばかりおちびさんで、痩せていて、顔のつくりが小さいだけじゃないか。
 だから胸を張って歩きなさい、と。
 しかし、彼女はうつむき加減でおどおどと歩いた。
 道で知り合いに会うたびにびくびくして。
 そんな反応が面白いから、連中はキョウコをからかっていたのだ。
 今はそんなキョウコも大いに胸を張って歩いている。
 張ってもミサトほどのボリュームはないのが悩みの種だが。

「あ、あのね、おっきいんだよ。まわりがいしでできててね。いけみたいに」

「いけっ!プールよりおっきい?よ〜ちえんの」

 自慢したくて仕方がないシンジはついに口を出した。
 アスカが温泉を知らないとわかって嬉しくなったのだ。
 そのアスカは、絶交で口もきかないと言ったことを完璧に忘れた。

「う、うん。おおきいよ。おそとにあるから、すっごくきもちいいんだ」

「うわぁあ、いいなぁ。シンジちゃん、おんせんのプロねっ」

「えへへ」

 温泉旅館一軒の経験のみでプロになれるのだから、子供はいい。
 喧嘩をしていたはずの二人がすっかり仲良くなってしまったのを見て、キョウコとゲンドウは顔を見合わせ微笑みあった。
 
「そうだ。アスカちゃんも…いや、みなさんで行きませんか。温泉に」

 キョウコが反応する前に、アスカが機敏に反応した。

「わわぁっ!ろくちゃん、だぁ〜いすきっ!」

 幼女はゲンドウに飛びついて喜びを表現しようとしたが、何しろ彼の背は高い。
 腰の辺りに抱きつき損ねて体勢を崩すも、その勢いでくるくるくるとゲンドウの周りを走り出す。

「あ、こらっ、アスカ」

「やたっ!あわわわあわわわほっほ!」

 誰が教えたかインディアンの踊りも加わった。
 
「ふふん、いやこんなに喜ばれるとは…」

 困ったような表情を浮かべるゲンドウをキョウコは訝しげに見上げた。
 これは…照れているのか?
 大家という意識は無いが、隣人として親しく接するには実にわかりにくい男だ。
 あのアスカのお師匠様はこの男のどこがいいのだろうか。
 キョウコにはとんとわからない。
 彼女の美意識でいくと、まず髭が気に入らない。
 そして無愛想なところも。
 もっとも逆ににやにや笑っているというのも嫌だ。
 眼鏡はいいが、サングラスはいけない。
 それにたまにうろたえてあたふたしているところを見せてくれるというのもいいではないか。
 ああ、マコトさん…。
 はぁ…。
 キョウコは黙然した。
 ゲンドウを密かに吟味していたはずなのに、どうして好意を抱くマコトに意識が飛んでしまったのだろう。
 しかも意識が飛んだその隙に、いつの間にやらインディアンは二人に増えていた。

「はいほ〜、おんせん、おんせん!あわわわわっ!」

「わっしょいわっしょい!」

 どうやら踊りはインディアン風だが、掛け声はお祭りそのもの。
 もっともシンジとしてはお祭り気分なのだろう。
 さっきまで涙目で拗ねていたというのに、とキョウコは微笑んだ。
 シンジちゃんはお母さん似なのね。
 大きくなったらけっこう可愛い男の子になりそう。
 でも、マコトさんの方が…。

「ごほんっ」

「何でしょうか?」

「あ、いえ。すみません。あの、温泉ですが…」

「おんせん!ひゃっほぉ〜!」

「アスカ、静かにしなさい」

 言葉だけで静かにできるわけがない。
 歓喜の踊りを舞うインディアン娘は母親に羽交い絞めにされた。
 相方が確保されてしまい、シンジは踊りと嬌声を止め、きょとんとした顔で見上げてくる。
 その相方の方は脱走しようと母の腕の中で暴れるが、キョウコとて伊達にアスカの母を5年もしていない。
 窒息しないように巧みに口を塞ぎながら、暴れる両手両足を見事に封じ込めている。
 その技術にゲンドウは感服した。
 そして、思った。
 これはぜひ使わせてもらおう。
 彼のこのキョウコの姿を心のデッサン帖にしっかりと刻み込んだのである。
 だが…。
 ゲンドウは思った。
 ユイやリツコにはこの芸当はできまい。
 惣流家のこの奥様は並の人間ではないのだと。
 彼は甘い。
 母親を5年もしているとこれくらいはできて当たり前なのだ。

「私の知り合い…いや、編集の実家が温泉旅館で、年に何度か招待してくれるのです」

「まあ、凄い」

 惣流キョウコ。
 日本に来てすっかりとお風呂が好きになってしまった。
 しかし、温泉旅行をするような余裕は惣流家にはない。
 家屋敷を維持するのと、日々の暮らしを楽しく過ごすのが精一杯なのだ。
 日帰りでどこかへ行くのが関の山。
 見かけの雰囲気とは異なり、実につつましく生きている一家なのである。
 したがって、彼女もまたゲンドウの言葉の魔法にかかりはじめていた。

「いや、そんなに凄い旅館ではないのですが」

「そんなことないよ。おっきいよ。ごはんもごちそうだし」

「ごぢぞぶっ!」

 キョウコの掌越しに、絶叫が飛んできた。
 おそらく掌にはべっとりと唾液がついたことだろう。

「まあ、美味い。山の中だから冬なら牡丹鍋や鴨鍋が」

「うんっ、ぼたんなべ、すっごくおいしかったよ」

「ぼだむがべっ!」

 もう、いい。
 キョウコはアスカを開放する。
 スカートにハンカチを入れておいて本当によかった。
 そんな母の思いを知らず、アスカはシンジに迫った。

「ぼたんをおなべにいれるのっ?」

「え…っと、たぶん」

「げぇっ、シンジちゃん、あんなのたべんの?しんじらんないっ!」

 アスカはあんなのを凝視した。
 ゲンドウの着ていた開襟シャツのボタンを。
 その視線を3人ともに追う。

「アスカちゃん、このボタンじゃないのだよ。猪の肉のことだ」

「いのしし!ね、うし、とら、う〜〜〜〜〜〜」

 兎で止まってしまったアスカだったが、猪が何たるかは知っていたようだ。
 
「アスカ、たべたことないっ」

「私もっ……です」

 アスカの勢いにつられて上ずった声を出してしまい、キョウコはさっと赤面した。

「ほほう、そうですか。だが、今は鍋物のシーズンでは…」

 そう、まだ早い。
 紅葉狩りにもまだ間がある時期だ。
 
「えっ、たべらんないの?ぼたん。ぐふう〜」

「ううむ、あれは冬だ。秋は…マツタケにきじか?」

「まつたけのおすいものっ!」

「こらっ、やめなさい!恥ずかしい…」

 惣流家の名誉のために補足しておこう。
 アスカたちは本物の松茸を食したことは何度もある。
 県内の山間部にある小さな町から、年に何度か贈り物が届くのだ。
 秋には松茸が届き、その度にトモロヲが腕を振るう。
 最初はその味に物足りなさのあったキョウコだが、慣れるにしたがって美味しさがわかってきた。
 日本育ちのアスカはもとよりだ。
 しかし、あのお吸い物の松茸の香りは強烈そのもの。
 アスカがついそっちを連想したのも仕方がなかろう。

「おとうさん、きじってなに?ぼく、たべたことない」

「うむ、この時期に行った事はないからな。きじは……鳥だ」

 一瞬考えたゲンドウは、それ以外の説明が思い浮かばなかった。
 
「とり?にわとり?」

「いや、違う。うぅむ、そうだ。日本の国鳥だ」

「こくちょう…?」

 これにはアスカの声にキョウコも唱和してしまった。
 耳慣れない言葉だったからだ。

「国の鳥です。ドイツにもあるでしょう?」

「ああ、ヴァイスシュトルヒ!シュバシコウです。日本で言うと、コウノトリ」

「ほう…、ではあの赤ん坊を連れてくるというあれ」

「ええ、凄く縁起のいい鳥で……あの、国の鳥を食べるんですか?」

 素朴な疑問にゲンドウは口ごもった。
 確かにそうだ。
 国鳥が狩猟対象なのは日本だけだと聞いたこともある。

「う、うぅむ、それは…、うまいからだ、うむ、そうに違いない」

「やたっ!おいしい!ごちそう!」

「やきとりよりおいしいのかなぁ」

「おおっ、やきとりよりおいしいんだったら、すごいっ!アスカ、つくねぐしがすきっ。あっ、でもでも、かわのもだいすきっ」

「ぼくもすきだよ。だけど、きもはちょっと…」

「ぐふぅ、アタシもきもはだめなのぉ」

「だよねっ。あんなのだめでいいよね」

「あったりまえよっ。でもはぁ〜とはたべられるわよ!」

「ぼく、ししとうのはだいじょうぶだよ。にがいのもあるけど…」

「へぇっ、シンジちゃん、すごいっ」

「えへへ」

 アスカに褒められて、シンジは満面の笑み。
 放っておくとアスカは脱線したままシンジと一緒にどこまでもいってしまいそうだ。
 すっかりアスカのペースに乗せられて、いつの間にやら温泉旅行。
 何だか困っちゃったなぁとキョウコは、るんるん気分のアスカを回収し母屋の方に戻ったのである。

 トモロヲはやきもきしていた。
 シンジの父に謝りに行くというというので、それは当然だと送り出したもののやはり心配だ。
 外は暗く、同じ敷地内とはいえ、男やもめの住む場所に行くのだ。
 アスカやシンジが一緒にいるのだから何の心配もないはずなのだが、ついいらぬ気を回してしまう。
 テレビの音を消して耳を澄ましてしまう老人を笑うことはできない。
 なにやらアスカが大騒ぎしているようなので、ほっとしたトモロヲである。
 そして二人が帰ってきて、温泉の話を聞くといささか憮然とした顔になった。
 いかに子供がおろうが、いくらゲンドウが赤木家の娘と恋仲であろうが、
 一人身の男女が温泉場などに行ってはならないではないか。
 言語道断である。
 しかしアスカがいる前では説教ができない。
 ところがそうしなくて正解だったのだ。
 温泉行きは4人だけではなかった。
 
「なんと、わしもか」

「ええ、そうなんですよ。一人で留守番など困るんだそうです。それからレイちゃんとおばさまも」

「ほう…、それは大人数じゃの」

「ぐふふ、きじってとりのごちそうをたべるの。それから、おっきなおふろにみんなではいるのよっ」

 アスカの興奮はまだおさまっていない。
 レイの家に行ってこの喜びを伝えると言い張るのだが、当然のごとく却下。
 明日幼稚園でのことにしなさいと命じると、不承不承アスカは頷いた。
 そして雉のことを調べてくると自分の部屋に走った。

「ワゴン車を借りるんですって。それに乗ってみんなで」

「で、あやつが全部出すというのか?うぅむ…」

 年長の者として、また大家として、そんな饗応に与っていいものだろうか。
 トモロヲは腕を組んだ。

「私も言いましたよ。自分の分は出しますって」

「何と言った?」

「原稿料が入るんですって。それに…」

 キョウコは声を潜めた。
 
「これは私の推理なんですけど…」

 彼女は悪戯っぽく目を輝かせた。
 日本に来た当初はこういう表情を見せなかったものだ。
 母を亡くしてからずっとおどおどとした感じで、涙をためているような娘だった。
 だからこそトモロヲは放っておけずに日本に誘ったのだ。
 このままにしておくと赤ん坊と一緒に心中してしまいかねない。
 そんな印象があったのだ。
 もし今のような表情を見せていたなら、声をかけていなかったかもしれない。
 だがそんなことをもし彼女に伝えたなら、トモロヲは赤面させられていただろう。
 キョウコは間違いなくこう言うはずだからだ。
 “おじいさまが変えたんですよ、私を”と。

「どうやら、私たちは出汁のようです」

「出汁、じゃと?」

「はい。本当に誘いたい人は…。ほら、わかるでしょう?」

 トモロヲは得心した。
 なるほど、そういうことか。



「あら、私も?いいのかしら」

 電話の向こうの男の声は、短かったが、いくばくかの照れを含んでいた。

「問題ない。その…うむ、問題ない」

 ああ、テレビ電話だったなら…!
 リツコは愛する男の表情を見たくてたまらなかった。
 おそらくゲンドウは思い切り目を険しくさせていることだろう。
 
「わかったわ。来月のシフトを調べてみます。ええ、嬉しい。大勢で旅行なんて久しぶりだから」

 別にゲンドウを甚振るつもりはなかったが、彼女の言葉は彼を動揺させた。
 彼はできれば二人きりで旅行したかったのだから。
 しかし、シンジを置き去りにもできず、また預けていくなどとんでもない。
 嘘をついてどこかで待ち合わせするなどという、そんな芸当ができるような器用な男でもないのだ。
 この“みんなで一緒に温泉旅行”にリツコも誘うというのが関の山だ。
 そもそもそれを思いついたのは、キョウコたちを温泉に誘ってからのこと。
 思いついたその瞬間の心の動きをすかさずキョウコに察知されたということも気づいていない。
 容姿はともかくも、愛すべき男なのだ。
 電話を切ったリツコは嬉しげに笑った。

「あの人…。まさか二人だけ別室とか、そんな恥ずかしいことしないでしょうね」

 確かに恥ずかしい。
 新婚ではあるまいし、そもそもまだ婚約もしていないではないか。
 そんな関係なのに二人で一部屋などとんでもない。
 とんでもないが、魅力的だ。
 シンジに“リツコおねえさん”として再認識されてから、二人の肉体接触はたったの一度だけだ。
 ある昼下がりにもらいものの西瓜を届けに行った時、ついキスをしてしまった。
 しかも、やはり大人のキスの方を。
 そして、ふたりとも気まずくなってしまった。
 何故なら、まだ日は高く、しかもそこは借家で大家さんはほんの少ししか離れていない場所にいるのだ。
 いくらなんでもそんな場所でそれ以上の行為に及べるわけがない。
 そんな分別めいた意識が働くのも大人なのだが、身体も確かめ合いたいと思うのも大人ならではだ。
 はっきり言うと、最後に二人が愛し合ったのは東京で、もう8ヶ月以上前のこと。
 愛する人の肌が恋しいと思うなど、リツコのような恋の味を知らなかった女としては驚き以上のものがあった。
 だから勢いで何ヶ月か振りのキスをした後、実に気まずくなってしまったのだ。
 その後、リツコは二人だけになろうとしなかった。
 ゲンドウも自分が抑えられるかどうかわからなかったので、それには異を唱えなかったのである。
 しかし、やはり寂しい。
 心だけでなく、体の隙間も埋めたかったのだ。
 もちろん、今回の温泉計画でもリツコと二人でどうのこうのとまではゲンドウも思ってはいない。
 いや、嘘はいけない。
 少しばかりの期待も込めて、ゲンドウはリツコを誘ったのだ。

 しかし、ゲンドウの期待は市民総合病院の勤務シフトという分厚い壁に遮られてしまった。



「リツコさん、駄目なんですか」

「ええ、二日目は休みなんですけど。土曜日の方は勤務。運がよければ6時くらいで開放されるかもしれないけど…」

 リツコはいつになく饒舌だった。
 その口の軽さが余計に悔しさというか残念さというか、とにかく彼女の気持ちを表現していたといえる。

「いずれにしても、そんな時間からあの温泉までは移動できません」

「そうですか。車があればいいんですけどね…」

 このモータリゼーションの日本にあって、何故かアスカの周辺に車持ちの家庭は少ない。
 洞木家と相田家、それに翡翠神社と月の光幼稚園くらいなものか。
 因みに龍巌寺にはない。
 和尚は飲酒運転するに違いないと自主規制のため免許を返上し、息子のシゲルが持っているのはミニバイクだけだ。
 但し町の噂では貧乏寺の龍巌寺では車が買えないのだとも言われているが。
 ともあれ、今回の計画でもゲンドウが大型のワゴン車を借りて、みんなを運ぶことになっている。
 温泉は車で5時間も走る場所にあるのだ。
 
「ですから残念ですけど、今回は不参加」

「あ、リツコさん。それは先に入れちゃ駄目です」

「えっ、順番があるの?あら、ごめんなさい」

 リツコは胡椒の瓶を降ろした。
 キョウコは微笑んだ。
 生徒としては優秀だが、こと料理に関してはオリジナリティがないようだ。
 教えればきちんと受け入れ二度と間違わないが、それを他の料理に応用できない。
 いや、違う。
 応用できるほどの知識や能力がまだないのだ。
 それがわかっているからこそリツコは料理を習おうと考えたのである。

「これは何故ゆっくりかき混ぜるのかしら」

「……ごめんなさい。わかりません」

「そう。わかったわ」

 わからないのがわかったということか。
 ああ、どうして私なんかを選んだのですか、アスカのお師匠様。
 キョウコは自分の知識不足を嘆いた。
 料理については母に学んでいる。
 だから意外と容易に日本料理に馴染んだのだ。
 しかし、ノウハウ的なことはわかるが、何故と問われれば言葉に詰まってしまう。
 しかも生徒は極めて論理的なリツコである。
 合理的に結果だけを求めてくるのであれば、キョウコとしてもよかったのだが。



 実はリツコが料理の師として白羽の矢を立てたのはキョウコではなかったのだ。
 彼女が頭を下げに行ったのは碇家だった。
 しかし碇ハルナはリツコの依頼を断ったのである。
 微笑みながら。

「リツコさん。貴女はまた間違いを犯そうとしてますよ。私では駄目です」

 ハルナは説明した。
 確かに目の付け所はよかった。
 シンジの、そしてゲンドウが馴染んだ味は当然ユイの料理である。
 したがって、ユイの味を仕込んだハルナに教えを請うというのは間違いではない。
 しかし、ユイの味を模倣しようということが根本的に誤っていたのだ。

「先日、その間違いに気がついたばかりでしょう。
 ユイの代わりではシンジ君は認めてくれないのだと。
 貴女は貴女。貴女の味で勝負しなさい」

 正論である。
 しかし、その自分の味が困りものなのだ。
 恥を忍んでそう言うと、ハルナは暫し考えた。
 リツコの周辺の者で料理が美味く、面倒見の良さそうな女性は…。
 考えた末に紹介したのがキョウコだったのだ。
 彼女は驚き辞退しようとしたが、ハルナに問われれば拒否しきれない。
 まして理由が理由だ。
 キョウコは背筋に冷汗を流しながら頷くしかなかったのである。
 そして、今このように二人して台所に立っているというわけだ。

 今日は土曜日。
 たまたまリツコも休みである。
 アスカたちは家にはいない。
 天気がいいのに家で遊ぶなどもったいない。
 公園に行ったか、街中を走り回っているのか。
 元気に遊んでいることは間違いなかろう。



「でも、リツコさん。日帰りじゃ駄目?」

「無理。子供たちがかわいそう。私に合わせてそんなことはできないわ」

 確かにそうだ。
 向こうをお昼前に出ないと夕方までに戻ってこられない。
 大人だけならともかく、まだ幼児なのだ。
 彼らを中心にスケジュールを組むのが当然である。
 ゲンドウも残念に思っていることだろう、とキョウコは年上の恋人たちに同情した。
 ああ、私も日向さんと温泉に行きたい…。
 二人きりなんて贅沢…、ううん、それは最初から無理だとわかっているけど、みんなで一緒になら…。
 この前の海みたいに。
 まあ、今回は絶対に不可能だけど。
 何しろ合同家族旅行だものね。
 キョウコは苦笑した。



 運命というものを変えてしまうのはいつもアスカなのかもしれない。
 その運命のチビ女神は大声を上げた。

「おぉ〜いっ、ひゅ〜がじゅんさぁ〜っ!」

 愛する人の娘の叫びに、公務中のお巡りさんはききっとブレーキをかける。
 止まるが早いか、幼児3人はマコトの自転車の前に整列した。

「けいれ〜っ!」

 子供たちは時間差敬礼をするだ。
 アスカは真っ先に。
 続いてレイ。
 そしてワンテンポ遅れて、シンジが二人の真似をする。

「ごくろうさま」

「こんにちは」

「おつとめごくろ〜さんですっ」

「はは、ありがとう」

 あっかちゃん、その口調じゃ取り締まられる方の組織みたいだよ。
 マコトは口にすると説明が長引きそうなので、その言葉は飲み込みいつものように敬礼で返した。
 今日も平和で何よりだ。
 そして、運命のチビ女神はいつものようにあっさりと大事を明かしたのだ。
 
「あのねっ、おんせんにいくんだよっ。レイちゃんとシンジちゃんといっしょにっ」

「へぇ、温泉かぁ。いいなぁ」

「シンジちゃんのパパのうんてんでくるまでいくのっ。おっきなおそとのおふろで、きじのごちそうなのっ」

 見事に要約したアスカだったが、その要約にはマコトが一番知りたい情報は含まれていなかったのだ。

「そうなんだ。凄いね。で、お母さんもいっしょに?」

 どのお母さんかと悩む必要はなかった。
 3人の中でお母さんがいるのはアスカだけだからだ。

「とぉ〜ぜん!こんかいはおじいちゃんもいっしょで、レイちゃんのおばあちゃんもいっしょなの」

 うんうんとレイが大きく頷いた。
 
「ぼくのおとうさんがうんてんするんだよ!」

 シンジとしては精一杯の自己主張だった。
 自慢をするならばその点ではなく、ゲンドウの奢りでの旅行だというところなのだが、
 彼にとってはそういうわけのわからない部分で父親を誇りたくない。
 みんなを乗せて車を運転する方が余程カッコいい。
 それがレンタカーだとかどうとかなど全然問題ではないのだ。
 もちろんそれはアスカもレイも同意見だ。

「そうなの、みんなをのせてひとっとび」

「すっごいでしょ!ぎゅ〜んってはしるの。あ、レイちゃん、くるまはとばないわよ」

「とんだらいいとおもうの」

「そりゃそうよ。とんだらいいけど、とばないわよ」

 アスカに指摘されて、何とか隊の車は空を飛ぶのにとレイはぶつぶつ言う。
 その何とか隊という言葉で、マコトは思い出した。
 以前、アスカが言っていた事を。
 新しいパパにはウルトラマンに変身する隊員がいいとか何とか。
 その時は警察官も時にはモンスターと戦う(ドラマの上では)と主張したものだが、
 そんな記憶が甦った所為か、マコトは少しばかり愚痴をこぼした。

「いいなぁ。僕も行きたいな、温泉に」

 もちろん、キョウコさんと一緒にという言葉は飲み込んだ。
 
「ん〜、だったらくればいいじゃない。ね〜」

「うん、おとうさんにおねがいしてみる」

「シンジちゃん、えらい」

 つい先ごろまで生涯の仇敵とばかりに目の仇にされていたレイに褒められ、えへへとシンジは相好を崩した。

「えっ、で、でも、僕は…あ、いや、本官はっ」

 嬉しい。
 そう素直に言えないのが大人であろう。
 しかし、絶対に行きたい。
 混浴かどうかなど問題ではない。
 愛する人と同じ空間に存在できる。
 しかも行楽というハレの日にだ。
 したがって、マコトは可能性が少しでも高くなるようについ言葉を加えた。
 こういう計算高いのも大人であろう。

「あ、でも、運転する人の代わりはいた方がいいかも。一人で運転するのは大変だから」

 一斉に「おおおおお〜っ!」と感心されてしまい、穴があったら入りたいマコトだった。
 








 
 
あっかちゃん、ずんずん 第十四巻 「あっかちゃん、木のお風呂を自慢するの巻」 −おしまい−











(あとがき)

 第十四巻です。
 半年以上間が空いてしまいました。
 本当に申し訳ございません。次はそんなに空く様なことはしません。
 次回は温泉です。
 サービスカットはありません。個人的にはキョウコさんのサービスカットが…(おい)。

 2007.05.20 ジュン





はい、ジュンさんからあっかちゃん14話を頂きました。
今回のキーワードはズバリ! 「惣流一族の野望」「日本人の美徳は察しと思いやり」でございますね。
そして、次回はドキドキの温泉紀行の予感。
十重二十重の恋愛の行方は!? 果たしてぽろりはあるのか!? 
サスペンス劇場真っ青の展開は、湯煙の向こうへ消える。

続き、半年も待てない〜って方は、こちらから感想メールを出して是非ジュンさんをせっついてください(笑)


  最後に、掲載が遅くなってしまったことを、ジュンさん及び読者の方々にお詫び申し上げます。

もう本当に時間が…orz

(2007/6/10掲載)


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