「へえぇっ、温泉かぁ!いいなぁ!羨ましい!」

 幼児を相手にそれはそれは真剣な調子で叫んだのは葛城ミサトだ。
 彼女の目の前には精一杯に胸を張る惣流アスカの姿があった。
 そしてその隣には精一杯に微笑んでいる綾波レイの顔も並んでいる。
 待ちに待った温泉旅行は5日後の朝に出かける予定だ。
 そこでその嬉しさをミサトお姉さんに披露したわけである。
 まさかここまで羨ましがられるとは思ってもいなかったので、アスカとレイとしては嬉しくてたまらない。

「ぐふふ、いぃ〜でしょっ!」

「おんせん、たのしみ。おそとのおふろで、すごくおおきいの」

「おおっ、露天風呂ね!ああ!私も入りたいなぁ!」

「へっへっへ、ミサトおね〜さんはだぁめっ」

「そう、だめなの」

「ひっどぉ〜い!アスカちゃんとレイちゃんは私に意地悪するんだ」

「だって、ミサトおねえさんがきたら、ごちそうぜんぶたべちゃうもんっ。ねぇ〜、レイちゃん!」

「そう。おなべをひとのみしちゃうもの」

「うおっ、お鍋!って、さすがの私もお鍋を一気には無理よ。火傷しちゃうじゃない」

 二人がこんなことを言うにはわけがある。
 あの夏休みの海水浴が原因だ。
 ミサトは飲むは食うは泳ぐは陽に焼くはと、さすがのアスカたちも目を見開かんばかりの大はしゃぎ振りだったのだ。
 中でも飲む方と食べる方は物凄いものだった。
 運転するのは自分じゃないからと、持参していた缶ビールの山をぐいぐいとあおる姿はアスカの目に初めての姿だ。
 ミサトが、ではなく、お酒をがぶがぶと呑む人間は彼女の周りに一人もいなかったからである。
 しかもそれで酔っ払うわけでもなく、その後にアスカが仕出かした騒動(日焼けクリーム事件)の時には
 アルコールを大量摂取したとは思えないほど機敏な動きをしたと聞く。
 聞く、というのは当事者であるアスカは自分のことで手一杯だったからミサトの様子までは覚えていなかったからだ。
 後日、母が曽祖父にこの事件のことを話していた時にそのことも話題になったから知っていたわけだが。
 ともあれ、お弁当の時間にミサトが現れると園児たちは一斉に一生懸命咀嚼しだすという現象もある。
 彼女につまみ食いされるのを恐れてのことだ。
 ただし彼女の名誉のために言っておくが、実はミサトは一度もつまみ食いをしたことはない。
 言葉の上だけで「いいなぁ、お姉さんにもわけてよぉ」と迫るだけなのだ。
 それなのに園児たちは「きたっ!」とばかりに食べるわけで、逆に嫌いなものをミサトに処理させようと考えた
 知能犯(言わずと知れたアスカだったが)もいたがそれは「ちゃんと食べないと駄目よ」と叱られてしまうのだ。
 日頃、ミサトの教育係である水野先生は“身体の大きな園児仲間”と思われているのではないかと苦笑していた。
 今もそうだ。
 アスカとレイの目の高さと合うようにしゃがみこんだ、大柄なミサトはかなり大袈裟な身振りで話し込んでいる。

「きじをたべんの。アタシ、うまれてはじめてなのよ」

「わたしもはじめて」

「わおっ、雉っ。ああっ、雉と来ればビールじゃなくて日本酒よねっ」

「ミサトおね〜さんはたべたことあるの?きじ」

「あるわよ!大学の時にゼミ旅行で信州の方に行ってね。雉尽くしってやつよ。ああっ、たまんない」

「うふっ、そんなにおいしいんだ。やったね、レイちゃん!」

「ふふふ、おにくもおいしいの」

 最近はアスカ並みとはいかないまでも、お肉をパクパクと食べることのできるレイである。
 彼女もまた雉料理を楽しみにしていたのだ。

「お鍋に焼き物に刺身に親子丼、雉って卵もすっごくいけるのよねぇ、ああっ、涎出てきた」

 これ見よがしに拳で口を拭うミサトを見て、アスカとレイは素直に歓声を上げた。
 まだ食したことのない、雉への憧れは二人の小さな胸に余るほどにどんどん膨れ上がったのである。
 さて、そんな3人の近くでは碇シンジが友達二人にからまれていた。

「ええのぉ、うまいもんくいにいくんやって?」

「はは、うん、そうだよ」

「くそっ、こいつはっきりいいやがった」

「それにおんせんもはいるんだよ」

「おんせんやて!あのおふろにいれるあれかっ」

「トウジ、それはちがうぞ。こいつはほんもののおんせんにいくんだ」

「くおおおぉっ!ええのぉ」

「ごめんね。おみやげかってくるから」

「おんせんまんじゅうかっ」

「ええっと、わかんないけど、アスカちゃんたちといっしょうけんめいえらぶから」

「よっしゃ。ほんならそれでゆるしたるわ。なっ、ケンスケ」

「しかたないな。あ、じゃ、えはがきかってきてくれよ」

「えはがき?」

 シンジは少しの間考えた。
 そして相田ケンスケの家に遊びに行った時に見せられた宝物を思い出したのだ。
 紙のケースに入った写真のはがきのことを。
 質問してみると、やはりそれのことだとケンスケは誇らしげに語った。

「とうちゃんがずっとあつめてたんだぜ。それをおれがぜんぶもらったんだ」

「へぇ、すごいね。ぜんぶなの?」

「ああ、おれがとうちゃんのしゅみをうけついだんだ」

 胸を張るケンスケを横目に見て、鈴原トウジは超特大の溜息を吐く。

「ええのぉ、うちのおとんのしゅみはこれやさかいな」

 トランペットを吹く真似をするトウジを見て、ケンスケは楽しげに笑った。

「そうだな、トウジにはむりだな、あれは」

「そやなかったら、りょうりやで。わしはどっちかゆうたらたべるほうがええんや」

「だな」

 漫才の掛け合いのように喋る友達だったが、シンジはふと思った。
 お父さんが楽器を弾けるということは物凄く羨ましい、と。
 何故ならシンジはこの歳でチェロを習っているのに、その父の鼻歌すら聴いた事がないのだから。
 歌えないのか、歌わないのか、シンジにはわからない。
 もちろん彼が父親相手にそのことを話題にしたことは一度もない。
 ただ、母親はよく歌ってくれた。
 子守唄やわらべ歌、アニメソングの類もだ。
 そのことを思い出して、そして彼は考えた。
 
 リツコおねえさんは歌は巧いのだろうか。



「そうか、無理か」

「ええ、温泉に行きたいからと新参者が勤務の交代など言えません」

「ふん、それはそうだ」

 もし、赤木リツコという女性をよく知らなければ、その言葉の調子や内容からさぞかし冷徹な女と思うことだろう。
 もし、碇ゲンドウという男性をよく知らなければ、その素っ気無さから情のないハードボイルドな男と決め付けることだろう。
 しかし、この二人はお互いのことをよく知っている。
 だからこそ夫婦という存在になることを欲しているのだ。
 ともあれ、この時二人とも大いに残念に思っていた。
 現状では婚約はしているものの、それはあくまで大人の世界でのこと。
 肝心の息子のシンジは未だに“リツコおねえさん”のままで、そのお姉さんが父親と結婚するとの意識は無い。
 先だってリツコが母の記憶を奪い取ってしまうのではないということだけは了解できたが、
 かといってそのリツコが父親と結婚して同居するということがまだわかっていない。
 だからこそ、そんなシンジに気を使い二人は結婚を見合わせているのだが…。
 それが大人の思い込みだとは誰もが気がついていなかったのである。
 
 そこのところがアスカには不思議でならないのだ。
 どうしてさっさと結婚しないのか。
 シンジはもう認めているではないか。
 絶対にシンジちゃんは「いいよ」と言うに決まっている。
 アスカはそんな風にお風呂で母親に力説した。
 惣流キョウコは娘に微笑むと、こう言ったのだ。
 
「その時はいいよって思っても、後で後悔するかもしれないでしょ。
 だから本当にあなたのお師匠様をお母さんにしてもいいって心の底から思わないといけないの」

「ぐふう、アタシはいっつもこころのそこからぜぇ〜んぶおもってるわよっ」

「アスカは単純だからね」

「うわっ!ママの意地悪っ」

「はい、出てきなさい。頭洗ってあげる」

「うんっ」

 意地悪と膨れていたのに、アスカはにこやかに湯船から出た。
 それはそうだ。
 だって母親に髪の毛を洗ってもらうのは、彼女にとって幸せこの上ないのだから。
 そこのところが単純なのだということを彼女にわかるはずもない。



 その翌日のことだ。
 キョウコは悪しき謀略を推し進めた。
 ことの起こりは来る温泉旅行にリツコが不参加だということをゲンドウが惣流家に説明した時に始まる。
 無論彼はそのことをわざわざ言いに来たのではない。
 息子を迎えに来たついでに、その彼としては残念極まりない結果を述べたに過ぎない。
 だが、それはキョウコに甘い夢を見させることになった。
 なぜなら彼女もまた無念一杯でいて、そしてその無念を何とか晴らそうとしていたからだ。

 アスカが日向マコトを温泉旅行に誘ったわけだが、残念なことに彼は旅行の日は夕方までの勤務だったのである。
 今日も派出所の前で、思っている1/10以下の残念さを込めて、二人で会話をしたところだ。
 もっとも本音で喋っていたならこの二人、とっくの昔に交際を始めることになっていたはずだが、
 如何せん臆病者の二人は自分の本心を取り繕って会話をしている。
 ともあれ今日の交番前逢瀬(二人ともにそう思っていた)では、マコトがどうしても行けないと笑いながら告げたのだ。
 もちろんそれは完全なる作り笑いというものなのだが、すっかりフィルターがかかってしまっているキョウコの目にはそれがわからない。
 恋心というフィルター越しにしか相手が見えない二人はそれでもよいのだろうが、
 それでは話が前になかなか進んでくれない。
 そこでキューピットに話に参加していただくことにした。
 関西弁で子持ちの女刑事に。
 
「おはようさん、今日もええ天気や」

「あっ、おはようございます!エツコさん」

「ご、ご苦労様です!あ、おはようございます、鈴原刑事」

「で、どないしたんや、二人とも引き攣った笑い浮かべて。気色悪いったらあらへんで」

 岡目八目。
 さすが刑事と言えば、即座に鈴原エツコは呆れて「アホか」と返すことだろう。
 誰が見てもわかるわな、と。
 しかしこの場の彼女は自分の方針に忠実に行動した。
 この金髪美人に恋をしているおまわりさんを応援するという方針に。
 そして温泉旅行に行けないというマコトの話を聞くと即座に一言だけ漏らす。

「レンタカーで追っかけたらええやないの。いくら安月給でもそれくらい出せるやろ」

「え…」

「おおっと、遅刻するわ。キョウコさんも急がなあかんのとちゃうか」

「わっ、本当!じゃ、またっ!」

 慌てたあまりに、また逢いたいという本音がぽろり。
 それには気づかぬままにキョウコは自転車を走らせた。
 もちろんキョウコが知っているのはそこまでだ。
 その後、マコトがエツコにアドバイスされたことは知らない。
 もっとも彼にとってそれはアドバイスではなく、上司からの叱責のごとく受け止めたのだが。
 何しろ彼は己の恋心を龍巖寺のなまぐさ坊主にしか知られていないと思い込んでいるのだから。
 さて、エツコが言ったのはこうだ。

「たった一人でワゴン車に乗って子供や年寄りを運ぶというのはどないやろ。
 行きも帰りもっていうのは、ちょっとしんどいんとちゃうか?事故を未然に防ぐのも警察の仕事とちゃうんかなぁ」

 マコトは慌てた。
 そして敬礼し、「事故を防ぐために考えるであります」と答えたのだ。
 しかしながら、その後彼は懊悩し続けた。
 向こうから言ってきてくれるならともかく、自分から立候補するのはおかしいではないか。
 いきなり惣流家を訪問し、「自分を運転手として採用してください」と頼み込むのか?
 おかしい、おかしい、おかしい、絶対におかしい。
 何かきっかけが必要だ。
 きっかけ、きっかけ、きっかけ!
 彼はどういうきっかけで惣流家を訪問するか考え続けた。
 交番のおまわりさんがこんな調子で務まるのだから、あっかちゃんの住まう町は平和そのものだ。



 さてさて、話を元に戻そう。
 失意のゲンドウが惣流家の玄関に現れた時だ。
 リツコが参加できない理由を聞き、キョウコの脳細胞は高速回転を始めたのである。
 マコトを参加させる絶好のチャンスではないか、と。
 そして、ゲンドウにとってまさに渡りに船と言うべき妙案を思いついたのだ。
 彼は内心踊りまわりたいほどの喜びを覚え、ただキョウコにはこれだけのことしか口にしなかった。

「うむ、問題ない。よろしく頼む」

 よろしく頼まれたキョウコはマコトを強制参加させるためのトークを考え始めた。
 自然にお願いしないと押し付けがましい女だと嫌われるかもしれない。
 そう考えると、きっかけが欲しい。
 きっかけさえあれば、自然な流れで話ができるではないか。

 30分後の8時45分。
 一念発起したマコトがきっかけを懐に惣流家にやってきた。
 インターフォンで彼が来たことを知ったキョウコは、どたばたと玄関へ走った。
 気持ちは全力疾走で、しかし実際は早歩きで。
 髪の毛を乾かし終わっていてよかったと思いながら。

「こ、こんばんは!夜分遅く本当に申し訳ありません!」

 最敬礼したマコトは頬を少し赤らめ、口の中でもう一度だけきっかけのトークを復習した。
 そして、キョウコの問いかけを待ったのだ。

「こんばんは。どうしたんですか?仕事の帰り?」

 あわわわわ。
 マコトのシナリオが崩れ、彼は少し慌てた。

「い、いえ、今日は普通番でありまして、定時に上がらせていただきました」

 こういう時には報告口調になってしまう自分が恨めしい。
 しかし、そんなことよりもきっかけなのだ。
 マコトは無理やりシナリオ通りに話を展開していった。

「つまり、こういうことです。仕事帰りに龍巖寺に参りますと、そこには私の親友がいまして」

「おおおおっ、くそぼ〜ずねっ!」

 町内の台風の目がいきなり現れた。
 玄関に向かった母を尾行してきたのだ。
 そして会話に参加する機会を窺っていたアスカだったのである。
 
「こらっ!アスカ!くそ坊主とはなんです。お坊様とおっしゃい。お坊様と」

「えええ〜、じゃ、くそぼ〜ずがダメなら、シゲぼうでいい?どっかのおばあちゃんがぼ〜さまのことをシゲぼうってよんでたよ」

 アスカの交友関係はやたらに広い。
 相手がどこの誰かはわからないが、そのどこの誰かは町内の有名幼児であるアスカのことはよく知っている。
 だから初対面の年寄りでも気さくに声をかけてくるのだ。
 そして結構話し込んでしまうアスカなのである。

「あのね、その“ぼう”は坊主の“ぼう”じゃなくて、坊やの“ぼう”……。ですよねっ?」

「は、はい、そうです!その通りです!」

 たとえ間違っていたとしても、マコトは否定しなかっただろう。
 
「ええっ、あんなにおおきくてはげぼぉ〜ずなのにどぉ〜して“ぼぉや”なのよぉ」

「昔からそう言われてたんでしょう。そうですよね」

「はいっ!小さい頃は、あいつはシゲ坊で、僕がマコちゃんでし……た」

 言ってしまった。
 あの当時のことを思い出したからか、自分のことを“僕”と称したばかりか、
 幼稚園児の頃の呼び名まで明かしてしまったのだ。
 恥ずかしいことこの上ない。
 しかしその場の二人はそれを聞き、大いに喜んだのである。

「わわわっ、かわいい!マコちゃんってゆ〜の?ひゅ〜がじゅんさがっ」

 母親の方は言葉にもできなかった。
 彼女は口の中で“マコちゃん”を何十回も唱え、その甘美な呼び名に心を奮わせたのだ。
 これからはこれでいこう。
 もちろん、実際に口にはしないが、妄想の中では彼のことを“マコちゃん”と呼ぼうと心に誓ったのである。
 しかし、ここはそんな事をおくびにもせずに、娘をたしなめた。

「こら、アスカ。日向さんに失礼でしょ」

「ぐふう、でもかわいいのにっ」

 可愛いと言われたマコトはすっかり照れてしまった。

「かわいくなくていいよ、あっかちゃん」

 照れているところも可愛い、などと思うのは恋するキョウコだからに違いない。
 もっともアスカの乱入で話は早くなったのだから、マコトもキョウコも感謝すべきだろう。

「あっ、じゃマコちゃんがうんてんしゅさんしてくれるのねっ」

 何が“じゃ”なのかわからないが、ともかく彼女は話の核心を突いた。
 
「そうなんですか、日向さん?」

「あ、いえ、つまり、私がレンタカーで後から行けば、帰りは碇さんがワゴン車を運転しなくて済みますし。
 ワゴン車を二日続けるよりも普通車で帰る方が楽かな、と…」

 最後の方は、ごにょごにょとなってしまったのは仕方がないだろう。
 彼としては人の心配をした振りをして、自分の欲求をかなえようとしたのだから。
 厚顔ではないマコトとしては穴があれば入りたい気持ちなのだ。
 しかし厚顔ではないが、彼よりも人生経験が豊富なキョウコはこれ幸いとその意見に飛びついた。

「あら、それならぴったりですわ。ちょうど困っていたことがありましたの。一緒に行きましょう!」

 さすがに手を引っ張ることはしなかったものの、キョウコはサンダルを引っ掛けて玄関を出る。
 マコトが続いた、と書きたいところだが、事実はアスカが続きマコトは一歩遅れた。
 キョウコが早足で進んでいくのは、裏手にある碇家の借家である。
 そこで不機嫌この上ない表情をしたゲンドウは、彼女の報告に万歳を三唱したい気持ちになった。
 もちろん彼がそんな真似をするはずもなく、こう言っただけだ。

「うむ、問題ない。リツコには私から言っておく」

 これでマコトとリツコの温泉旅行参加は決まった。
 勤務開けのマコトがレンタカーを借り、リツコを拾い、温泉へ走る。
 おそらく10時頃には到着するだろう。
 そして、翌朝9時にはゲンドウがそのレンタカーを運転し、リツコを乗せて町に戻るというスケジュールだ。
 リツコは午後3時から夜勤なのである。
 彼女としてはかなりの過密日程になるが、それを理由に断るはずもない。
 ゲンドウから連絡を受けたリツコは簡潔な言葉であったが大いに喜んで参加を表明したのだ。



「ほほう、それはお前としては思い切ったことをしたもんだな」

 にんまりと笑ったのは坊主頭の男である。
 龍巖寺の縁側はやはりお寺らしく長い。
 その縁側を磨き上げているのは、実は青葉シゲルその人なのだが、
 この男はそういう実直な行為をしているのを人に見られるのを嫌う。
 別に隠れたところで得点を稼ごうというものではない。
 単に照れ屋なだけだ。
 この時も、マコトが訪れてきたとわかった途端にバケツと雑巾はすばやく隠されている。

「俺だって…たまには思い切るよ」

「で、出汁にした、いや、しそこなった俺への礼か?このハイカラなドーナツという代物は」

 手も洗わずに袋からドーナツをつまみあげたシゲルは大きな口を開けて放り込む。
 因みにこのドーナツは全国チェーンのものではなく、町のパン屋さんで作られているものだ。
 もう一つ因むと、この町に全国チェーンのファーストフードの店は駅前のハンバーガー屋だけである。
 さらにもう一つ因めば、全国標準のメニューの1/2の豊富さでその店は営業していた。
 最後にもう一つだけ因んでおくと、営業時間は10時から20時までであった。
 そこまで切り詰めても赤字すれすれというのだから、他のチェーン店がこの町に進出しようとしないのは頷けるところであろう。

 さて、出汁というのは昨晩の日向マコト決死の惣流家突撃のことである。
 訪問するきっかけを欲していたマコトは、月見団子の包みを手にしていたのだ。
 龍巌寺に寄った時に、大量の月見団子を寄進されて困ったシゲルにお裾分けの処理を頼まれたという言い訳だった。
 かなりややこしい言い訳ですべてを説明するのに大変だと覚悟していたのだが、
 その包みを差し出すことはなく、話はとんとん拍子に進んでいったのではある。
 結局その団子は最後になってキョウコに手渡したのだ。
 しかもシゲル云々ということはまったく口の端に上ることもなく、
 「こんな手土産など気にしないでいつでも遊びに来てくださいね」などという天女のお言葉を拝したマコトだった。
 まさに天にも昇るような思いで惣流家を辞去したのだが、誰かにこの事を喋りたくて仕方がない。
 そこで彼の恋心を知る数少ない人間を手土産つきで訪れたわけだ。

「なるほどな、温泉か」

 シゲルはぐっと声を潜めた。

「ああ、俺も行きたいぜ。おっと、お前たちと一緒にじゃないぞ」

「わかってるよ。行けばいいだろ」

「秋祭りで忙しいんだよ。くそっ」

「そうか。あっちが忙しいんだな」

「おうよ。まあうちの寺も彼岸があるからな。まず忙しい」

 なるほどお寺も神社も秋は忙しいわけか。
 それでこの和製ロミオとジュリエットは温泉には行けないのだな、とマコトは了解した。

「でも、いいじゃないか。お前たちは愛し合ってるんだから」

「おう、しかし、最近は愛し合ってないがな」

「えっ、そうなんだ。喧嘩でもしたのか?」

 マコトは怪訝な顔をした。
 それはそのはずだ。
 今日も交番の前にわが町のジュリエットがニコニコと笑いながらやってきたのだ。
 もちろん平和なこの町のことだから、交番勤務のおまわりさんが知り合いと立ち話をしても何の問題もない。
 その時、伊吹マヤは買い物の途中で、別にいつもと違うところなど少しもなかったのである。

「おいおい、マコトよ。本当にお前は、天然というか、あっちの方は疎いというか…」

「あっち?」

「ああ、あっちだ」

 シゲルはきっぱりと言い切った。
 しかもマコトの目をしっかりと見つめて言うのだから恐れ入る。

「はっきり言えよ。何のことだ」

「いいのか、はっきり言って。俺を逮捕するなよ」

「何言ってるんだよ。いくら俺が警官でも…。待て」

「よし、わかれば、よし。まあ、そういうことだ」

「あのなぁ、お前坊主だろうが。何と言う不謹慎な」

「うちの宗派は妻帯も肉も魚もOKだ」

 にんまりと笑うなまぐさ坊主をマコトは睨みつけた。
 このシゲルはともかく、あのマヤが…。
 そんな不謹慎な想像などはすぐにやめた。

「だったらさっさと嫁にすればいいだろう?ひっさらってこいよ」

「きついのぉ。親友の癖に何ときついことを申すのじゃ」

「その口ぶりやめろよ。嘘臭い」

「ふん、こういう口調も必要なんだよ、俺様の、いや拙僧の仕事はな」

 神妙に正座していたシゲルは豪快に脚を崩した。
 板敷きに脚を伸ばし、大きな欠伸をする。

「まあ、俺の方はいい。それより、お前だよ、マコト」

「俺は駄目だよ。全然駄目だ。でも、それでもいいとも思ってるんだ」

「情けないこと言うな。見守ることが愛だなんてカッコつけるには、お前は恋愛経験が足りない」

 この野郎、と言い返そうとしたがマコトは何も言えなかった。
 確かにそうだろう。
 シゲルが言いたいのは、逃げるなということなのだ。
 たぶん。
 しかし、告白することはできない。
 何故なら告白した途端に、これまでの関係は保てないからだ。
 道で会っても挨拶すらできなくなるだろう。
 だから…。
 と考えること自体が、逃げているのかもしれない。
 マコトは苦笑し、そして胡坐をやめて友人と同じように足を前に投げ出した。
 
「そのうち、勝負しないといけなくなる。このままというわけにはいかないな」

「わかってるよ」

「馬鹿野郎。お前のことじゃない。俺のことだ」

 シゲルは剃り上げた頭をつるりと撫でた。



 さて、アスカたちが待ちに待った温泉旅行の日がやってきた。
 ゲンドウがレンタカーに乗って惣流家の前まで帰ってきた時、すでに一行の準備は万端である。
 中でもアスカの舞い上がりっぷりは…、いつものことだ。
 レイとシンジの3人で門の近くで走り回って遊んでいる。
 ワゴン車に真っ先に乗り込んだのも子供たちだった。
 そして、意図したことではなく、助手席には惣流トモロヲが座ったのである。
 子供たちはもとより危険だからと後部座席と決めていたわけだが、助手席には誰が座るとも特に決めていなかったのだ。
 トモロヲの頭では何となくキョウコが座るものだと思い込んでいた。
 おそらく運転上の手助けなどが必要かもしれないので、若い人間が適当だろうと考えていたのだろう。
 ところがそのキョウコは子供たちに続いて、娘たちと話をしながら後部座席へ入っていった。
 そして中から碇ハルナを手招きする。
 その時はトモロヲは別のことを思った。
 年配の者より先に乗るとはまだまだ日本の慣習に馴染みきっておらぬわい、と。
 不思議に思ったのは助手席が空なのに目を留めたときだ。
 しかし、この時はわしが助手席かと思っただけである。
 トモロヲはよいしょとばかりに座席に座った。

「安全運転で頼むぞ。子供たちが乗っているのだからな」

 最年長者らしく念を押すと、ゲンドウはただ頷いただけだ。
 当たり前だといわんばかりのその仕草は可愛げの欠片もない。
 もっともトモロヲには男性に可愛げなど覚える趣味嗜好はこれっぽっちもなかった。
 したがってゲンドウのそんな応答も、むっつり黙りこくったまま運転する姿も、少しの興味も持たずに
 フロントガラスから見える光景をぼんやりと眺めていたのである。
 運転席と助手席は静かなものだ。
 しかしそのすぐ後ろの席はといえば、これはまた姦しいという一言に尽きる。
 女という字を3つ合わせて、姦しいとなるわけだが、
 3人の子供のうちシンジは当然男である。
 その上、彼ははしゃぎまわる性格ではない。
 レイは女ではあるが、彼女もまたどちらかと言えば静かなものだ。
 となれば、姦しいのはもちろん我らがあっかちゃんという事になる。
 彼女一人で3人分の喧騒を生み出しているのだ。
 もっともアスカが一人だけで騒いでいるわけではない。
 残りの二人もしっかり巻き込んでいるのである。
 車が駅前を通る時に彼女は叫び声を上げた。

「わっ、ロスバーガーだぁっ!ねぇねぇ、たべたことある?アタシ、ないっ!」

「わたしも、ない」

「ぼく、あるよ。とうきょうで」

「うわあああっ、いいなぁ、シンジちゃん。おいしかった?なに、たべたの?おみせのなかでたべたの?」

「えっと、ハンバーガーと…ポテトと、ジュースだよ。おみせのなかでたべて、えっと、そうだなぁ、ふつうだった」

「ふつうってなによっ。ふつうにおいしいの?ふつうにまずいのっ?」

「まずくはなかったけど…」

「いいなぁ!アタシもたべてみたいなっ。ハンバーガーはそとでたべたことないの」

「アスカちゃんのママのがおいしい」

「えっ、アスカちゃんのおかあさんってハンバーガーやさんしてたの?」

「もうっ、ばかシンジねっ。いたっ、ぐふう、うしろからたたくなんてひきょうなりぃ〜」

 最後部の座席で苦笑していたキョウコは“馬鹿シンジ”が出た途端に、白い手を伸ばしアスカの頭をこつんと叩いた。

「アスカちゃんのママはおりょうりがいっぱいできるの。おししょうさまにもおしえてるのよ」

 レイがいともあっさり秘密を明かした。
 運転席と後部座席の大人たちは苦笑するしかない。

「へぇ、リツコおねえさんが?そうなんだ」

「えっとね、シンジちゃんのおべんと〜をつくりたいから…ぐわっ!」

 もう秘密も何もあったものではない。
 アスカにしっかり口止めし、約束させたのは何だったのか。
 キョウコは娘の口を塞ぎながら溜息を漏らした。

「えっ、ぼくの?あはは、うれしいなぁ。いつつくってくれるんだろ」

「それはむり」

 あっさりレイに言われて、シンジは顔を曇らせた。

「どうして?」

「ぐわわわっ」

 アスカに余計なことを言わせまいと、キョウコは口を挟んだ。

「あのね、シンジちゃん。リツコさんはかなり上手になっているのよ」

 最初を知っている者ならそう言える。
 料理の段取りやレシピのことをマニュアルだと言ってのけたリツコは確かに腕を上げている。
 もとよりインスタント食品はマニュアルが明記されているから間違いなく処置(なの?とキョウコは思った)できていたのだ。
 何しろカップ麺の3分を携帯電話のストップウォッチ機能で計測するほどの女性だったのである。
 そこはだいたい3分でいいのよとキョウコに言われ、真剣な眼差しでリツコは問い返してきた。
 それならばどうしてマニュアル(つくり方だってばとキョウコは思った)に約3分と書かれていないのか、と。
 アバウトな日本人だから自分で判断して、3分を約3分として読み取っているのではないか。
 容姿が白人で育ちはドイツのキョウコはそう思ったが、そんな返答では納得すまいと思う。
 結果的にリツコは苦し紛れの言葉であっさりと了解した。
 どれか一つの食材にかかりきりになっているほど、料理は暇じゃないの。
 一家の食事をつくるのは言わば戦場のようなものなの。と。
 リツコは頷いた。
 なるほど、手術ならばその場に何人もいるが台所は孤独な戦いの場なのかと、彼女は腹に落としこんだのである。
 万事がこの調子だった。
 合理主義者というよりも、知らない分野についてはこの女性はマニュアル頼りになるわけだ。
 キョウコはまずそのマニュアルという概念を崩すことに苦心したのだ。
 今はもう、胡椒を一振りというのは具体的に何gの分量かといったような質問はなくなった。
 味の方はそれなりに上達している。
 問題は可愛くお弁当を作るという方だと思っていたのだが、これにはキョウコの方が驚いた。
 日頃の言動とは裏腹に、実は可愛いものが好きなのだという一面が露見したのだ。
 ただリツコができなかったのは、自分の思い描いた通りに料理ができないという事である。
 頭の中に素晴らしい構図が浮かんでいるのに、絵筆をとると似ても似つかないような絵になってしまう。
 そのようなものだ。
 だからそれがわかると、キョウコは基礎と技術を教えた。
 たこさんウィンナーやペンペンかまぼこをつくるためのナイフ(包丁)テクニックや、子供の好む味付けなどなど。
 リツコの上達は凄まじいものだった。
 家で試食させられた赤木ナオコ先生は娘に真顔で言ったものだ。

「結婚に反対していい?あなた、うちで食事つくりなさい」

 リツコはそんな母親に口の中で「無様ね」とつぶやいた。
 そして、返事がわかりきっているのにこんな提案をしたのだ。

「母さんも習えば?あっかちゃんのママさんはかなりのものよ」

「馬鹿ね。そんな暇があったら、弁当屋にのり弁でも買いに行くわ」

「そう言うと思った。じゃのり弁当でも作ってあげようかしら」

「あら、残念。寿司屋の出前にでもすればよかった」

「それは残念。私は寿司の握り方まで教わってませんから」

 この母子の間ではこうした会話が最上の雰囲気といえよう。
 見知らぬものが見れば、ただの皮肉やあてこすりの応酬にしか聞こえないだろうが、
 こういう関係の親子もいるということだ。
 さて、そんなリツコの料理の腕は格段に上がっているらしい。
 そんなキョウコの発言を耳にして、ワゴン車の運転手はかなり動揺していた。
 もちろん彼のことであるから外見上は変わらないが、その実大いに喜んでいたのだ。
 何しろ彼は東京時代にリツコの手料理を食した数少ない人間の一人だったからである。
 インスタントのものがそれなりの味であるのは当然だが、焼き飯や味噌汁になるとどこか違和感があった。
 幼いシンジが「お母さんの方が美味しい」とむずかったのも当然と言えよう。
 ああ、食べてみたい。
 彼は心底からそう思っていた。
 そしてその息子も。

「そうなの?ぼくたべたいなぁ」

「あのねあのねっ」

 母の手から逃れたアスカは、目を輝かせて息せき切って喋った。

「おべんと〜なのっ。おししょ〜がつくってくれんのよ!」

「えっ、おべんとうって、ぼくの?ぼくのなの?」

「あたりまえ。おししょうさまはシンジちゃんのおかあさん…ちがった、ママになるのだから」

 左側に座るレイが微笑んでいた。
 右側のアスカも黙っているわけがない。
 先を越されてしまったとばかり、彼女は勢い込んで喋り始めた。

「そぉ〜よっ。おししょ〜はシンジちゃんのママになるんだから、シンジちゃんのおべんと〜をつくんのがとぉ〜ぜんじゃない」

 言っていることはレイと同じである。
 周りの大人たちははらはらしながら子供たちの様子を窺っていた。
 何故ならば、この前にリツコが父と結婚することを納得したシンジが何かの拍子にまた反対するのではないかと危惧してしまうからだ。
 ところが子供たちはそんなことに頓着しない。
 一度認めたのだから、当然もう絶対に大丈夫なのだと固く信じているからだ。
 
「あは、アスカちゃんのみたいにペンペンかまぼこはいってるかなぁ」

「はいってる。ぜったい」

「あったりまえじゃない。もっとすごいの、はいってたりするかもよ」
 
「うわぁ、たのしみだなぁ。いつたべれるんだろ」

「あしたかもよ、あした」

「こら、アスカ。明日は温泉でしょ。幼稚園はないわ」

「キョウコさん。幼稚園があってもまだ…」

 ハルナに言われて、うっかりアスカのペースに乗せられそうになっていたキョウコはあっと口に手をやる。

「そ、そうでした。あのね、シンジちゃん、お弁当はね…」

 言いながら、キョウコは言い訳を探した。
 その彼女の言葉をシンジはつぶらな瞳で待つ。
 
「その…。朝につくらないといけないから…」

「あっ、そうか。おししょ〜はいっしょにすんでないもんねっ」

 ナイス、アスカ!と娘に感謝したのは一瞬だった。
 その直後、アスカがとんでもないことを言い出したからだ。

「じゃあさ、シンジちゃんっ。おししょ〜とろくちゃんがけっこんすれば、だいじょ〜ぶよっ。
 けっこんしたら、おんなじおうちにすむんだもん。そうしたら、おべんと〜もオッケェ〜よ!」

「アスカっ」

「うん、そうね。だって、ママになるのをシンジちゃんはいいよっていったもの」

「あ、うん、いったよ、ぼく」

 大人たちからすればまるで綱渡りをしているかのような危険な会話である。
 中でもゲンドウにすれば、命綱も救命網もない、100mの高さでビニール紐を綱に渡っているようなものだ。
 そんな父の思いを知らずに、シンジは別にアスカたちに誘導されるわけではなく、ただ素直に自分の気持ちを口にしていた。

「そうよね〜。シンジちゃんはちゃんといったのに、どぉ〜してけっこんしないのかなぁ」

「ふしぎふしぎ」

 左右からシンジに迫る幼女二人に、キョウコは声をかけようとした。
 大人の事情というよりも、明らかにシンジの気持ちを気遣ってことを急いていないのだ。
 しかし、身を乗り出そうとした彼女の左手をハルナが優しく止めた。
 そしてハルナはそっと囁いたのだ。
 
「成り行きに任せましょう。何故かいい方に傾くのですから」

 ハルナたちは信仰といかぬまでも、ジンクスを担いでいる。
 アスカが暴走(大人の目から見ると)すると、どういうわけか物事が悪い方には進まない。
 素直な気持ちでアスカが接してくるから、素直に対応しているからなのかどうか。
 そこの仕組みはわからないが、とにかくこういう時は静観している方がいい。
 しかし静観するには途方もない忍耐力が必要とされるのだが。

「うん、そうだね。ふしぎだよ」

 当のシンジが首を捻っている。
 
「あ、そぉ〜だ、わかった!」

 アスカが素っ頓狂な声を上げた。
 すわこそとばかりに大人たちは気を引き締まる。

「ろくちゃんのおしごとがいそがしいんだよ、うん、そうにきまってる」

「あ、そうか」

 珍しくアスカは核心を外した。
 素直に納得する息子の声を背中で聞いて、ゲンドウは苦笑した。
 その隣でトモロヲが小声で言った。

「言ったらどうだ?忙しいなら、今ハンドルは握っておらんと」

 そんなアドバイスにゲンドウはただ苦笑するだけだった。
 内心臆病この上ない彼にそんな口を挟むことなどできるわけがない。
 しかし、今日は色白の天使が彼に救いの手を差し伸べてきたのだ。

「アスカちゃん、へん。おかしい、それ」

「へ?どぉ〜して?」

「だって、おしごとがおわったから、みんなでおんせんにいくんじゃない」

 ぽんっ。
 実に気持ちがいい乾いた音が車内に響いた。
 手を打ったアスカは、ほうほうと数回頷き、レイににんまりと笑いかけた。

「さっすが、レイちゃん!おぬし、するどい。ばくふのおんみつかっ」

 脈絡のないアスカの褒め言葉を受けて、レイは嬉しげに微笑んだ。
 そしてアスカはついにみなが待望していた、とんでもない発想を展開したのである。

「わかったぁっ!」

 気持ちとしてはぴょんと飛び上がったのであろうが、何しろシートベルトに腰が固定されている。
 飛び跳ねられない身体の代わりに、甲高い声が車内を飛び交った。

「あのね、あのねっ。ぐふふ!ろくちゃんとおししょ〜は、おんせんでけっこんしきするのっ!」

「えっ!」

 すぐに驚いたのは大人ばかりだった。
 レイとシンジは余りの発想の飛躍に目を丸くしている。
 そんな二人に向って、アスカは得意気に説明を始めた。

「ろくちゃんがね、おしごとがおわったからおんせんにいって、おししょ〜もあとからおいかけてくるんでしょ。
 けっこんしたらしんこんりょこ〜っていうのにいくらしいから、けっこんしきとしんこんりょこ〜がいっしょなのよ。
 でねっ、アタシたちは…ええっと、けっこんしきのおきゃくさんなの。
 きっとアタシたちをびっくりさせよ〜として、みぃ〜んなひみつにしてんのよ。
 でも、アタシはてんさいだからわかっちゃったの、えへへへ」

「すごいや、アスカちゃん」

 シンジは心からアスカの知恵に驚き、レイは拍手する。
 
「そうだったんだ。ねぇ、おとうさん、おんせんでけっこんしきするの?ねぇ、ほんとう?」

 絵本作家の癖に応用力が拙いゲンドウは困ってしまった。
 この場合、違うと本当のことを言い切ってしまっていいのだろうか?
 
「うっ、そ、それは…」

「しっかり前を見て運転するんじゃ。事故を起こすんじゃないぞ」

 思わず助手席からトモロヲは口走ってしまった。
 それほどゲンドウの様子が危なげに見えたからだ。
 そもそもそれほど度胸が据わった男ならば、息子の反対を押し切ってでも再婚していたに違いない。
 六分儀の家の末裔というのに、この男はどうも気が弱そうだ。
 この頃にはゲンドウの見かけで誤魔化されずに、彼の内面を見て取っているトモロヲだった。
 
「ねぇ、どっちなの?」

「もう!シンジちゃんったら。ひみつなのに、そうだよっていえないじゃない。
 よかったね、これでおししょ〜におべんと〜つくってもらえるじゃない」

「うんっ!うれしいなぁっ!」

「よかったわね、シンジちゃん」

「あはっ、ありがとう、レイちゃん、アスカちゃん」

「いえいっ!」

 ミサト仕込みのハイタッチもどきで3人は手を合わせた。
 車は走る、温泉へ。
 ついでに、事態も大きく走り出してしまった。
 3列の座席の中で2列目の子供たち3人だけが異様にハイテンションで、大きな声で歌いだした。
 ♪ドはど〜なつぅ〜のドぉ〜〜♪
 3列目の女性陣は顔をつき合わせて密談をしている。

「どうしましょう。結婚式なんかしないって言ったら、シンジちゃん悲しむんじゃ…」

「まいったわね。こんなに喜ぶんじゃ、アレコレ考えずにさっさと結婚すればよかったのに」

「ええ。直接訊いたらよかったんですね。あ、でも、どうしましょう。あと1時間くらいで着きますよ」

「身内だけで内輪の式を…ああ、だめ。ナオコ先生がいない」

「旅館の人も困るでしょう?突然、結婚式をしたいなんて」

「温泉の近くに神社なんてあるかしらねぇ」

「教会…なんて余計にありませんよね」

 当事者ではないだけに、この二人がいくら考えても結論が出るはずがない。
 さてその当事者の一人である碇ゲンドウは、必死に平常心を保ち運転を続けていた。
 本当はハンドルなど放り出して、頭を抱えてしまいたいのだ。
 その隣にいるトモロヲは気が気でなかった。
 ゲンドウが今にも叫び声を上げて、運転を放棄してしまわないかと悪い想像をしてしまうのだ。
 まして、今は国道から県道に入り、センターラインのない道を走っているのである。
 スピードが制限時速の少し上辺りで安定していることが、トモロヲの不安を少しは解消している。
 彼はつくづく思った。
 運転免許を取っておくべきであったと。

 そして、目的地に着く2分前。
 ゲンドウがついに覚悟を決めた。
 こうなれば結婚式をしてやる。
 電話を借りて、赤木ナオコに連絡をとり、リツコが乗ってくる車に便乗してもらう。
 そうすれば、身内の式という形式は整うではないか。
 問題は誰が式を執り行うかということだが、それも何とかクリアすればいい。
 せっかくシンジが認めてくれているのだから、何としてもリツコを妻にするのだ。
 碇ゲンドウは大いに燃えていた。
 燃えながら、ワゴン車を少しばかりオーバー気味のスピードで旅館の前に到着させたのである。
 ぎゅっとタイヤが音を立てて停止し、トモロヲは早く温泉に入り動揺した心を癒したいと熱望した。

 その時、2列目の子供たちは揃いも揃って夢の世界にいた。
 はしゃぎすぎて、寝込んでしまったのだ。
 おかげで旅館の前に到着した時、アスカたちは寝ぼけ眼であったという。
 

 








 
あっかちゃん、ずんずん 第十五巻 「あっかちゃん、温泉へ行くの巻」 −おしまい−












(あとがき)

 第十五巻です。
 ようやく温泉に到着したところで終わってしまいました。
 どうやら温泉話は前中後編になるようです。
 次回は結婚式になるのかどうか。それよりも温泉だけなのか。
 何はともあれ、碇家の結婚問題については収まりそうな雰囲気です。
 

 2007.07.16 ジュン





ジュンさんからあっかちゃん15話を頂きました。
今回は温泉三部作ということで、感想はまとめて後ほど。

読者の方々はこちらから感想メールをジュンさんにお願いします


  最後に、またもや掲載が遅くなってしまったことを、ジュンさん及び読者の方々にお詫び申し上げます。
本当にすみませんorz


(2007/8/25掲載)


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