ぐううううう。
 その音が部屋の中に響いた時、顔を赤らめたのは腹の虫を泣かせた当人ではなかった。
 彼女の母親の方だ。
 惣流キョウコは誰にとも無く「ごめんなさい」と呟いた。
 しかしながら音源たる幼女は悪切れもせずに、お腹を押さえて笑っている。

「くふぅ、おなかすいたよぉ」

「こら、アスカ。もう少し我慢しなさい」

「だってぇ〜」

 待つ身は辛い。
 洞窟風呂を堪能したアスカたちだったが、新婦とその母、坊主と巫女、そしてお巡りさんの5人組はまだ到着しない。
 途中で電話連絡が何度か入ったが、温泉に到着するのは早くても8時30分にはなるらしい。
 となれば、結婚式を執り行うのは早くても午後9時になるのではないか。
 そして今はまだ午後7時。
 子供3人はお風呂の後に強制的に夕寝をさせられた。
 さもなくば間違いなく、結婚式の最中に眠ってしまうことは間違いない。
 惣流アスカと綾波レイはいざ知らず、
 今回の結婚式における最重要人物の一人である碇シンジ君が眠ってしまっては大変だ。
 ぶうぶう文句を言うアスカを叱りつけ、何とか3人を寝かしつけたキョウコである。
 幼稚園児にしては長旅と、洞窟温泉でのはしゃぎ振りのためか、意外に早く瞼を閉じてくれたのは幸いだった。
 そして1時間半ほどして起きだしてきた3人は隣の部屋にいる大人たちに合流したわけだ。
 それがほんの5分ほど前のこと。
 平机の上に湯飲みしか載っていないことへ、腹を空かせた子供たちは落胆の色を顔に浮かべたのである。
 そのことはよくわかっているのだが、母親たるもの、ここで娘を諌めねばなんとする。
 キョウコはわざと明るい調子で窘めた。
 
「お腹を鳴らすなんて無作法ですよ」

「べつにアタシ、おなかにめいれ〜なんかしてないもん。かってになるんだもん」

 アスカはぷうと頬を膨らまし、唇を尖らせた。
 
「言い訳なんかするんじゃありません。レイちゃんもシンジちゃんも我慢してるでしょう」

「レイちゃんなら、さっきならしたよ。きゅうううって」

「えっ」

 キョウコたちがいささか驚いて、アスカの傍らに座っている物静かな幼女を見ると、
 レイはにっこりと微笑み指を3本立てて見せた。

「3回?ってこと。レイちゃん?」

 こくんと頷き、彼女はお腹を押さえた。

「ほぉらっ、レイちゃんのおなかのむしもおなかすいたってないてるのよっ」

「うぅ〜ん、まあ確かに…」

 キョウコも自分のお腹を押さえた。
 幸いにもお腹の虫は自己主張していないが、空腹であることは間違いない。
 本当ならこの時間には雉鍋をメインにしたご馳走を前にしていたはずだ。
 それが急な結婚式のために、宴は大きく時間を遅らせることになった。
 今、調理場では大忙しで旅館の人たちが準備をしているところである。
 何か食べるものを少しだけ用意してくれないかと頼めるようなものではない。
 これが少しでも大きな旅館であれば、売店や自動販売機で食べ物も調達できようものではあるし、
 外に出ればコンビニや土産物屋などで購入することも可能だっただろう。
 だがここは山奥の湯治場。
 外に出ても店舗どころか、農家がちらほらあるだけだ。
 こういう状況では我慢する以外にどうしようもなかった。
 何より、結婚式をしたいと言い出したゲンドウなどは、
 大きな身体を小さくし恐縮して窓際の安楽椅子で心の中で「すまん」と繰り返している。
 その心の声は届くわけもない上に、たとえ届いたとしてもアスカたちの空腹感は収まらないだろう。
 子供というものは単純なのである。

「ほら、あっかちゃん。お茶をお飲み」

 碇ハルナとしても湯飲みにお茶を注いで子供たちに勧めるくらいしか手はない。
 これが逗留客という立場でなければ、調理場に出向き腕を振るうことでもできようものなのだが。
 勧められたアスカは文句のひとつも言いたいところだが、何しろ年寄りには優しい彼女である。
 がっくりと肩を落としながら、両手で湯飲みを捧げ持ちちびりちびりと茶を啜る。
 これでもう4杯目のお茶なのだ。
 お腹の中が温泉になっちゃうよぉ!と大声で叫びたい気持ちを必死に抑えるアスカであった。

 その時である。
 彼女だけでなく、一同すべての顔が一斉に綻んだ。
 扉をノックし、「失礼します」と入ってきた女将は大きなお盆を手にしていた。
 その上にあったのは、おむすびが山のように積まれた大皿に漬物。
 これくらいのものしか用意できなくて申し訳ないと恐縮する女将に一同は心からのお礼の言葉を並べ立てた。
 アスカたちも同様である。
 ところがそんな子供たちに女将はまだ食べたら駄目だと慌てて告げる。
 そうしないと、アスカがお皿めがけて突進しそうだったからだ。
 事実、彼女は両掌を大きく広げて、二つのおにぎりを鷲掴みにしようとしていた。
 その動きを止められて、アスカは大きく目を見開き、不服を満面に表した。
 しかし女将は慌てず騒がず、にっこりと微笑んでこう言った。

「子供さんには特別料理を用意してますから…。ああ、来ました」

 その言葉に誘われて開け放たれている扉の方を見ると、若女将がお盆を捧げて入ってくるところだった。
 お盆の上には蓋をされた丼が3つ載っている。
 子供向けの特別料理と言われたからには、あれこそがそうに違いない。
 そう判断したアスカは急いでレイとシンジに命じた。

「ほらっ、あんたたちもここにならんでおむかえするのよっ」

 うん、と素直に二人はアスカの両脇に並ぶ。
 にこにこわくわくどきどき。
 一様に揃った3つの表情に、若女将の笑顔も大いに緩む。

「あらあら、そんなに期待されちゃ困ります。ただの雉丼ですから」

「おおおおおっ、きじっ!」

 今回の温泉旅行における大いなる目的のひとつが雉を食べることにある。
 アスカが歓声を上げるのは当然だろう。
 その歓声を聞いて、部屋の中にいた大人たちはこぞって微笑んでしまう。
 キョウコや惣流トモロヲにしても、困ったヤツじゃと苦笑したくても微笑ましげに感じてしまう。
 何しろ正座していたのに、雉丼と聞いてぴょこんとお尻が持ち上がり膝立ちの姿勢になってしまったのだから。
 そのアスカの動きにつられて、一呼吸遅れてシンジが真似をするところもおかしい。
 レイの方はそのままの姿勢でにこにこと正座しているからなおさらだ。
 平机の上に3つの丼が置かれ、お箸も並べられる。

「スプーンの方がよかったかしら」

「だいじょぉ〜ぶっ。アタシはおはしのプロだから」

 豪語するアスカだが、確かにプロとまでは行かないまでもこの年頃の子供にしてはアスカは箸使いが巧い。
 おそらくは母子で競うようにして練習してきたからだろう。
 生まれてこの方ずっとフォークで過ごしてきたキョウコがお箸を使いこなすようになるにはかなりの努力が必要だった。
 それを傍らで見、負けず嫌いの性格のアスカが自分も努力したのは自然の成り行きだろう。
 レイと出会った頃は豆腐もスプーンで食べていたのに、今はお箸で食べられるようになっている。
 これは幼稚園入園というものが大いに影響していたのだ。
 同世代の子供に負けたくない、凄いと言われたい。
 そんな虚栄心も手伝って、アスカはお箸を猛練習したのだ。
 またレイの箸使いが巧みだったこともアスカの特訓を後押しした。
 そして今や充分自慢してもいいほどの箸使いを会得したアスカだったのである。
 そんなアスカの隣にいて、「僕はスプーン」とはもう言えないシンジだった。 
 彼は心の中で誓った。
 がんばろう、と。

「いい?じゃ、せぇのっでふたをあけるのよ。かってにあけたらせっかんだからね」

 「りょうかい」「うん」と返事をして、二人は蓋に手をかけた。
 もっともまだ幼児だけに片手で開ける自信が無いために、3人揃って両手で蓋を持っているところはなんとも微笑ましい限りである。
 忙しいはずの女将と若女将もこの場面を見逃してなるものかと部屋から出て行けない始末だ。
 他の大人たちも先におにぎりを頬張ることもできず、アスカたちの挙動を見守っている。
 アスカは高速稼動で首を左右に動かした。
 レイとシンジの準備ができているか確かめたのだ。
 そして、にんまりと笑うと視線を丼の蓋に集中させた。
 この向こうにご馳走がある。
 彼女の目はらんらんと輝いた。

「いっくわよぉっ。せぇのぉ!いっただきまぁっすっ!」

「いただきます」「あ、いただきます」

 シンジだけコンマ5秒送れて挨拶した。
 しかし蓋を取ったのは3人同時である。
 そして感動の叫びを上げたのも。

「おおおおおっ」「わっ」「うわっ」

 蓋の下から3つの色が彼らの目に飛び込んできた。
 錦糸玉子の黄色、細く切った海苔の黒、そして色よく焼かれた雉肉の茶色だ。
 焼き鳥を食べたことはある(もちろん家で)が、こういう感じで丼にしたことはない。
 したがってアスカだけでなく、シンジやレイも初めて見る丼であった。

「こ、これ、食べていいのっ」

 思わず口走るアスカだったが、もうすでにその右手にはお箸がしっかり握られている。
 もし駄目だと言われても食べていたことだろう。

「はい、どうぞおあがり下さい」

 若女将が胸を熱くさせながら幼児たちに勧めた。
 大人に料理を褒められるよりも、子供たちの言葉で素直に言われるとその感動はとんでもなく大きい。
 忙しい最中に雉丼を用意してよかった。
 女将と若女将は心の底からそう思ったのである。
 アスカたちはもう一度「いただきます!」と大きな声で叫んで構えたお箸を丼に近づけた。

 これはグルメ小説でないので、丼の詳細は描写しない。
 しかし、キョウコたちは一様に思った。
 情けない話だが、子供たちが羨ましい、と。
 自分たちは漬物におにぎり。
 この落差は大きい。
 彼らは他の者に覚られないようにして、雉丼の匂いを吸い込みながらおにぎりを食べたのである。



「おい、マコト。腹が減った」

「駄目だ。寄り道はできないぞ」

「寄り道?自動販売機ひとつ見えないが、寄り道すれば何かありつけるのか?」

 嫌味たっぷりのシゲルの発言だったが、車中の者すべてがそう思っている。
 ハンドルを握るマコト自身でさえ空腹を必死で我慢していたのだ。
 マヤが準備していたガムや飴はもうすでに在庫切れ。
 
「たぶん、あと30分くらいで着くから。我慢しろよ」

 空腹を訴えているのは…この場合は口にしているのはという意味だ…シゲルだけだ。
 だからマコトもつい乱暴気味な口調で答えてしまう。

「おい、マコト。お前は馬鹿か」

「誰が馬鹿だ」

「日向マコト巡査だ。他にもあれこれ肩書きをつけようか?とにかくお前のことだ。馬鹿」

 坊主は聖職者のはずだが、誰もこんな発言を不快に思わないということはそれだけ空腹度が強いということか。
 自分たちの気持ちを代弁しているかのように思っているのかもしれない。

「おい、冷静に考えてみろ。温泉に着いたらどうなる?
 お待ちしてましたと丁重に言われるまではいい。
 その後はどうだ?すぐに結婚式に取り掛かるんだぞ。手洗いに行けるかどうかも俺は疑問だ」

「うっ」

 なるほどその通りだ。
 マコトは何も言い返せなかった。
 
「しかしだな、ほら、新郎新婦は衣装替えするじゃないか。その隙にだな」

「む、り、だ。俺の経験上、あれこれ挨拶をしているだけで終わりだ。隙も暇もない。
 まあ、参列者に過ぎない、お前には暇はあるだろうがな。え?」

 痛いっ!
 マコトは首筋に突き刺さる様な視線を感じた。
 一行の中で参列者は自分だけだ。
 新婦にその母、坊主に巫女。
 警察官の自分は会場の警備などする予定も必要もない。
 シゲルの指摘はまさしくマコトを針の筵へと誘ったのである。
 彼は内心泣き言を漏らしながら、アクセルを踏んだ。
 キョウコさん、僕を助けてください。
 ワゴン車は対向車も来ない田舎道をひたすら進んでいった。
 


「あ、ありがとうございます!」

 運転席から降りたマコトはキョウコに最敬礼した。
 彼女に渡された水筒とお皿はすでに車内に持ち込まれ、飢えた者どもの口に運ばれている。
 周りが真っ暗でよかった。
 場所は旅館へ入る砂利道にさしかかったところで、車の中を覗き見る輩はいない。
 食料を運んできたのは、キョウコとアスカだけだったからだ。
 キョウコは一人で行くと言ったのだが、娘は荷物を持つ人間がいるからと言う事を聞かない。
 もっともこのことを思いつかせたきっかけはアスカなのだから、苦笑交じりに許すしかなかった。
 さらにあまり言い争いを続けていると、キョウコの思惑まで崩れてしまう。
 “マコトさん”に感謝されたい。
 その欲望を得たいがために、車を待ち非常食を到着前に提供する役どころを買って出たのだから。
 彼女の思惑は当たった。
 当たりすぎるくらいに。
 安全運転で車を走らせてきたマコトは、懐中電灯を振り回すアスカを確認し停車する。
 そしてそこに立つ“愛しのキョウコさん”を見出し、マコトはエンジンを切ってすぐに外へ飛び降りたのだ。
 旅館に着く前にもしお腹を空かせている人がいるならと、ラップされたお皿をキョウコは微笑みながら差し出した。
 マコトが何度も礼を言うのは空腹のためというよりもキョウコの好意に対してであることは紛れもない。
 何故なら彼は現時点では空腹感を忘れてしまったからだ。
 キョウコが今目の前で微笑んでくれている。
 そして、彼を針の筵から救ってくれた。
 その感動で胸いっぱいの、お腹いっぱいなのである。
 しかしいくら精神的に満たされようが、胃袋は物質的な何がしかを欲しているのだから直に空腹感には気がつくだろう。
 
「あの…、まこ…」

 ちゃんと言いかけキョウコは慌てて“と”を口にする。

「と、さんはお腹は空いてないんですか?」

「はいっ、断然空いてます!」

「えっ、じゃ、早く食べてください」

「へんな、ひゅ〜がじゅんさ」

 アスカは素直に思った。
 どうしてお腹が空いているのに、おにぎりを食べないのだろうか。
 車の中の人たちは食べているのに。
 そこまで考えると誰が乗っているのか気になるアスカである。
 開いている運転席の扉から顔を覗かせると、真っ先に目が合ったのは法衣姿のシゲルだった。

「おおおっ、くそぼぉ〜ず!」

 キョウコの反応は早かった。
 シゲルが言い返す前に、素早く移動し娘の頭をごつんと一撃したのだ。
 
「いったぁ〜いっ」

「くそ坊主とはなんですかっ。お坊様って仰いって何度言えば…」

「だってぇ…。ひゅ〜がじゅんさだって、みこのおね〜…」

「はっはっは!拙僧はくそ坊主で結構!」

 あわやのところでシゲルは高笑いでごまかした。
 巫女のお姉さん=マヤと仲がいいことがアスカの言葉で露見しそうだったからだ。
 町内のロミオとジュリエットとしては困るわけである。
 そんな機微などアスカにはわかりもしないが、この場合はシゲルの面白い反応で気が逸れてしまった。
 その意味では大成功である。

「ほらねっ。くそぼぉ〜ずでいいっていってんでしょ。だから…」

「駄目っ」

 子を叱る母は反対意見を認めないものだ。
 この場合は道理もキョウコ側にあるだけにどうしようもなかろう。
 そんなやりとりをしているうちに車中の女性陣も空腹感を癒せたようだ。
 唇をハンカチで拭って窓から顔を出す。
 キョウコは赤木母子とは顔馴染みだが、巫女姿の若い娘は誰だかわからない。
 この時、キョウコは会釈するマヤをまだ10代だと誤解した。
 まさか自分と一歳しか違わないとは思いもかけなかったわけだ。
 後にマヤの年齢を知らされた彼女は、密かに東洋人はずるいと思ったとか。
 ともあれ、この時はそんな感想を持つはずも無く、ああこの娘が神式代表の巫女さんかと認識しただけだ。
 何しろ、この直後のキョウコには彼女にとって重要な案件が発生したのだから。

「おっ、悪い、マコト。全部食っちまった」

「えっ!」

 即座に反応したのはマコトではなく、キョウコの方だった。
 彼女の気持ちはわかる。
 キョウコがこうしておにぎりを持ってきたのは、誰のためでもなく、マコトのためなのだから。
 もちろん、心情的な理由に違いないのだが。
 
「お、おい。酷いよ、そりゃあ」

 マコトが反応が遅れたのは精神的に満腹になっていたからで、
 現実の空腹感の方は今の友人の発言でじわりと思い出させてくれる形になった。

「すみませんが、あっかちゃんのお母さん」

 やけに神妙な声音でシゲルが語りかけた。
 内心マコトはびくびくしてしまう。
 余計なことを言うんじゃないか、この馬鹿。

「はい」

 言葉少なく返事をしたのは、愛しい彼の分まで食べられてしまったからに他ならない。
 宗教人の癖に何て人なの、最低っ。
 そんなキョウコの憤懣はシゲルの要望で消し去られた。
 駐車場に向うワゴン車のテールランプを見送って、キョウコはニコニコ顔。
 お皿を手にしてご機嫌な母親の姿をアスカは水筒をえっちらと持ち直しながら見上げる。

「ママ。はやくいかないと。おにぎりつくるんでしょぉ〜」

「わっ、そうだった。いくわよっ、アスカ!」

「あわっ、まってよぉ〜」

 これは大変だと砂利道を駆け上がるキョウコは慌てて速度を落とす。
 このスピードでは間違いなくアスカは転倒してしまうからだ。

「へへへ、アタシえらい?」

 手を繋いだ母を見上げ、アスカは満面の笑みだ。
 キョウコは娘の頭を撫でてあげたいところだったが、
 片手にはお皿、そしてもう片方の手はアスカの小さな手が握られているのでそうはいかない。
 だから言葉で褒め称えた。
 これは母親としてではなく、恋する女としての気持ちだったのだろう。

「うん、偉い。よく気がついたわね。マコトさんたちがお腹空いているって」

「えへ、アタシ、てんさいだもん」
 
 実際にはアスカはおにぎりの残量を数えただけだ。
 キョウコたちが雉丼の匂いをおかずにして食べ、お皿の上にはおにぎりが3つだけ残っていた。
 子供たちはゆっくりと雉丼を堪能していたのだが、アスカはその3つのおにぎりを見て何気なく言ったのだ。

「その3こ。アタシたちの?」

「こらっ、アスカは美味しいのを食べてるんでしょ。まだ欲しいの?」

 本音を指摘され、アスカは慌てた。
 丼といっても大きな器ではなく、あくまで結婚式が終わるまでの中継ぎとしてのものだ。
 子供にしても満腹になるような量ではない。
 したがってついおにぎりの数を確認してしまったわけだ。
 そして、アスカは言い訳を探した。

「あのね。3つでしょ。ほら、いっしょじゃない。アタシたちは3にんで、ママたちは4にんでしょ」

 それでもキョウコの目は疑わしげにアスカを睨みつけている。

「それから、ひゅ〜がじゅんさやおししょ〜は…ええっと、なんにんだっけ」

 最後はぼそぼそになってしまったが、大人たちには違った意味で伝わった。
 一行は5人。
 おそらくひたすらにこの温泉に向っているに違いない。
 きっと何も食べていないはずだ。
 トモロヲたちは気恥ずかしげにみなの顔を見回した。

「これは、まずかったの」

「おいしかったよっ」

「アスカは黙ってなさい。その不味いじゃないの。でも、困りましたね」

 キョウコの脳裏では一心不乱に運転するマコトの姿が浮かんでいた。
 あの真面目この上ない素敵な人なら、一目散にこちらへ向っているはず。
 自分の空腹など一生懸命に堪えて。
 可哀相に他の4人の空腹の事は、この時点では彼女の眼中になかったようだ。
 そして恐縮しながら女将に頼み、あと10個のおにぎりを追加してもらったのだ。
 もちろん、アスカが本当にマコトたちのことを考えたのではないことはよくわかっている。
 しかし、そのことを思い出させてくれたことは事実だ。

「よしっ、じゃあ、がんばっておにぎりを作りますか」

「アタシも!アタシもつくるっ」

「アスカは駄目。レイちゃんたちと一緒に待ってなさい。あなたのお師匠様にもちゃんとおめでとうございますって言うのよ」

「おおっ、しょぉ〜ちっ!」

 どうやら彼女の頭の中で時代劇ばりの大仰な挨拶が浮かんできたようだ。
 キョウコは女将にどういう風にお願いすべきか、作戦を練る。
 食べ損ねた可哀相で素敵な人が…あら、可哀相が余計…じゃなくて素敵が余計ね。
 追加のおにぎりをつくらせてください。
 うぅ〜ん、これだけじゃ、「じゃつくってさしあげますよ」ってあっさり言われちゃいそう。
 それじゃ拙いのよね。私が作ってあげないと。
 だって、お坊様に頼まれたんですもの。仕方ないじゃない。仕方ないのよ。私がしないといけないの。

 結局、キョウコの迫力に負けた女将は調理場の一角を明け渡す。
 外国の人なのに…というのは偏見かもしれないけど…世話好きでいい人ね、と女将は思った。
 世話が好きなのではなく、マコトという男が好きなだけなのだが、
 基本的にはキョウコも人の世話が嫌いというわけではないのでまあその感想も善しとしよう。
 そして、親類縁者の互いの挨拶や坊主や巫女との打ち合わせをしている間に、
 ただの参列者に過ぎないお巡りさんは愛しい人の手作りおにぎりを至福の面持ちで味わったのである。
 恥ずかしくてキョウコは席を外してしまったので、小さなロビーで食べているマコトの姿を確認することはできなかった。
 肉体的にも精神的にも充足された、いささか締まりの無い笑顔を。



 さて、仏式の結婚式。
 経験者は皆無である。
 実はシゲルは学生時代に教授(この人も坊主。仏教の大学だから)から、仏式結婚式というものを教わってはいる。
 しかし、彼はそれを知らないことにした。
 彼の名誉のために言っておくが、それは面倒だからとか、腹が減っているとか、そんな理由ではない。
 いや、もう時間も遅くなっているので、旅館の人の面倒を考えると格式通りにするのも何だと思ったこともある。
 だが一番大きな理由はこれに尽きていた。
 好きな者同志が一緒になるんだからわずらわしい儀式なんかいらねぇじゃないか。
 ロミオであるシゲルの本音であろう。
 だから彼は旅館の人や関係者に所要時間は15分だと言い切った。
 ありがたいお経と、ありがたい説教をするから、まずは式の前にここにいる巫女より清めのお払いを受けなさい、と。
 マヤにはそれらしくハラタマ(払いたまえ清めたまえ)の動作をしておけと耳打ちし、むっとした表情をされている。
 もっとも彼女としても本式にしても仕方が無いだろうと思ってはいた。
 ジュリエットであるマヤとしても、さっさと結婚させてしまえばいいんでしょうと自分の叶わぬ夢を託す気持ちだったのだ。
 
 かくして、簡易版仏式結婚式は始まった。
 ゲンドウは紋付袴だが、リツコは白無垢ではなく、所謂晴れ着である。
 さすがに白無垢は緊急レンタルができなかったわけだ。
 それでも、アスカとレイはうっとりした目で花嫁を見ていた。

「ねぇねぇ、レイちゃん。おししょ〜きれいねっ」

 こそこそと囁かれたレイはアスカを嗜めた。

「アスカちゃん。おししょうさまじゃないの。もうシンジちゃんのおかあさんなの」

「あ、そうか。じゃ、シンジちゃんのママ、きれいねっ」

「うん、きれい」

 二人のうっとりとした目以上にうるうるしている目がもう二組。
 言わずと知れた、キョウコとマヤである。
 恋愛願望と結婚願望を持つ二人。
 しかも今この場に彼女たちの相手が存在しているのだ。
 花嫁の姿と恋しい男の姿にちらちら目を移し、訪れはしないであろう自分たちの結婚式に思いを馳せる。
 意外と真面目なシゲルは式の進行に集中しているが、マコトの方は当然のように妄想モードに入っている。

 ああ、キョウコさんと結婚式をしたい!あ、そのためには、こ、こ、恋人にならないといけないか。
 でも、やっぱり恋人は無理だよなぁ。俺なんて、どうせ。まあ、出来の悪い弟って感じか?
 その程度だよな、俺なんてさ。ああ、おにぎり、美味しかったなぁ。
 そりゃあキョウコさんにつくってもらったたこ焼きとかも美味しいけど、
 何しろおにぎりはあの白くて綺麗な手で握ってくれてるんだから…って、おいマコト、警察官としてそういう想像はどうなんだ?
 日向マコト巡査にはそんな妄想を勝手にしておいていただくとして、他の人はどうだろう。
 
 碇ハルナは亡き娘に思いを馳せていた。
 ユイが死んだために、この二人が夫婦となった。
 皮肉でも嫌味でもなく、彼女はそのことを自然に受け止めている。
 全力疾走で人生を駆け抜けていった娘たちは、あの世でどう思っているのか。
 過去はもういい。
 ハルナは傍らで行儀よく座る孫娘の横顔を見た。
 レイの横顔は伯母に当たるユイの方に似ている。
 但し、ユイの愛想良さはなく、母親にあたるメイの凛々しさみたいなものが顔立ちに表れている。
 綾波家に嫁いだメイは姉よりも生真面目だった。
 決して無愛想というわけではなかったが、いつも何か必死なところが見受けられていた。
 明るくて優秀な姉の背中をいつも追っかけていたのである。
 ハルナは折につけ、そんなメイに無理することはない、お前はお前なんだからと語りかけていた。
 だが、二歳違いの妹はやはり姉の後を追いかけた。
 結婚も早かったのは姉を意識したのかどうか。
 ところが、綾波メイは愛する姉を追い越してしまった。
 ユイが死ぬ3年前、メイは早産で赤ちゃんを分娩し、そのままこの世を去ったのだ。
 その通夜の席で碇ユイは彼女の棺から離れようともせず、何事かずっと語りかけていた。
 何を喋っていたのかとハルナが訊ねると、ユイは苦笑し首を横に振っただけであった。
 あれは、いったい何を…?
 もしあの世とやらで二人に会えたなら、ハルナはそれを聞いてみたいと思っている。
 だが、それはずっと先にしたい。
 何故なら、私はこの子をしっかりと育てないといけないから。
 ハルナはレイの横顔を見て微笑んだ。
 少なくともこの子が結婚するまでは…。
 そんな祖母の想いを察しはしないだろうが、レイはふとハルナの方を向きにっこりと笑ったのだ。

「はなよめさん、きれい」

「ええ。シンジちゃんも嬉しそう」

 確かにゲンドウの隣にちょこんと座っているシンジはにこにこと笑っていた。
 ただ、シンジは正座が苦手だった。
 今も足が痺れはじめているようで、微妙にお尻が左右に動いている。
 普通なら足を崩しているところだが、さすがに親の結婚式だということを意識しているのだろう、
 泣き言を言わずに一生懸命に我慢しているのだ。
 そんな息子の姿をゲンドウは気づいていない。
 彼としては自分のことで手一杯で、それどころではないのだ。
 さすがの冷静なリツコも自分の結婚式ともなれば心は平静でいられぬようで、
 すぐそばにいるシンジの様子には眼が届いていない。
 因みにこの大きな座敷の上座にシゲルが座り、その前に向かい合う形でゲンドウとリツコがいる。
 シゲルの傍らには巫女姿のマヤが控え、愛する男の結婚式を取り仕切る姿を半ば陶然と見つめていた。
 さらに新郎新婦(この場合は旧郎ではなかろう)の間、シゲルの真向かいにシンジが座っていたのだ。
 言わば式の見届け人という形で、今回の結婚についてはその意味から言っても大いに正しく見える。
 ほとんど思いつきのような感じで人々の配置を決めていったシゲルだったが、
 こうして式を進めていくうちに自分の判断が正しいことを自分で賞賛していたのだ。
 さて、シンジ。
 シンジのお尻がむずむずと動いているところは、参列者から丸見えであった。
 アスカたちはシンジから2mほど離れたところに並んで座っているのである。
 大人たちは健気なシンジに感心していたのだが、アスカはそうではない。
 おかしくておかしくて堪らないのだ。
 足が痺れたのなら足を崩せばいいのに、と思う前に、足が痺れるというのがよくわからない。
 物心がついたときから行儀作法についてはトモロヲに厳しく躾けられている。
 まして母親と競うように学んでいったのだから、その上達振りは周囲の子供たちからも抜きん出ていた。
 で、正座の得意なアスカはシンジのお尻の運動を見ていると笑えてくるのだ。
 他に注視するものでもあればよいのだが、生憎今はシゲルのありがたい読経中。
 何を言っているのかわかるわけがないので、アスカの興味はシンジのお尻に集中していたのである。
 そしてその運動は左右だけでなく、上下の動きも加わった。
 その珍妙な動きについにアスカは笑いをこらえきれなくなった。

「ぶっ」

 本来ならば「くわっはははははっ!」と大笑いしているところだろうが、さすがに母親である。
 キョウコが娘の口をさっと押さえた。
 そのタイミングの素晴らしさにトモロヲはうむと頷き、最後列のマコトは凄いなぁと感心する。
 因みに完全に第三者である参列者Aのマコトは新郎新婦に目もくれず、
 最後列の特権を生かしひたすらキョウコの後姿に魅入っていた。
 一度は経を読むシゲルにひしと睨みつけられ苦笑し目を逸らしたのだが、すぐに視線は愛しの人に。
 その愛しの人をアスカは膨れっ面で仰ぎ見た。
 キョウコはこらっと声に出さずに叱り付け、しぃっと唇に人差し指を当てる。
 さすがのやんちゃもこの場が大事なものであることはわかっているから少しは反省したのか、
 ごめんなさいと軽く首を前に倒すと視線を尚も動き続けているお尻から逸らした。
 逸らしはしたがやはり気になる。
 ちらちらと見ているうちにアスカはシンジが気の毒に思えてきた。
 よく考えると、以前彼が正座が苦手だと言っていたことを思い出したのだ。
 足を崩せばいいのにとは思うものの、結婚式ではそういうことをしたらいけないのかとすぐに思い直した。
 時代劇の結婚式で「たかさごやぁ〜」などとお年寄りが歌っているときはみんなちゃんと正座して聞いているからだ。
 ううむ、これは困ったと、アスカは腕組みをした。 
 どうすればシンジちゃんを助けることができるのだろうか。
 彼女はアニメで見た一休さんさながらに目を瞑って考えたのである。
 そして、答は出た。
 半ば目を瞑り経を唱えるシゲルに目がけて、アスカは精一杯のアイコンタクトを仕掛けた。
 大きな目を何度もぱちくり。ウィンクとは見えないまでも、何かを訴えていることは明確だ。
 その姿に真っ先に気がついたのはマヤだった。
 斜め45度の角度でシゲルを見ていた彼女は、赤金色の幼女が奇妙な動きをしているのを目の端に留めた。
 よくよく見ると、アスカがあっちを見ろと示しているのはシンジである。
 そのシンジは微妙に妙な動きをしているではないか。
 ああ正座が辛抱できないんだ、と了解したマヤはにこりと微笑みすっとその場に立ち上がった。
 恋人の行動を坊主は片目で追うが、経は淀みなく唱え続ける。
 立ち上がった巫女は経のリズムに会わせる様にふわりふわりとした足取りで、
 ゲンドウの背後の方からシンジの傍に近寄っていった。
 自分たちで手一杯の新郎新婦を除き、皆は何が始まるのかと巫女の動きを目で追う。
 マヤはシンジの傍らにそっと膝をつくと、彼に手にしていた大麻(おおぬさ)を持たせたのだ。
 どういうこととキョトンとするシンジに巫女は、
 こうするのよと小さな手に持たせた大きな大麻をさばっさばっと左右に振る。
 そして彼を立たせるが足が痺れていたシンジはよたよたと足元が定まらない。
 仕方がないのでマヤは彼を抱くようにして、新郎新婦に向って大麻をゆっくりと左・右・左と振る。
 そう何度も祓うものではないが、これは正式な神道結婚式ではないから目を瞑ってもらおうとマヤは決めていた。
 こんなことをしていると父親に知れたらきつく叱られるに違いないとは思ったが。
 そうこうしているうちにシンジの足の痺れは軽くなってきたようで、マヤは彼の身体を離し一人で動かせた。
 シンジは真剣な表情で父と新しき母に向って、自分の顔よりも大きな大麻を動かす。
 これでOKかなと振り返ったマヤはこれは困っちゃったなぁとすぐに視線を逸らした。
 期待に満ちた小さな瞳が4つ見えたからだ。
 アスカとレイが自分にもさせてくれるのではないかと顔を輝かせていたのである。
 さすがに今彼女たちに大麻を手渡すわけにはいかず、どうしようかと考えているうちに名案を思いついた。
 確かにこれは名案である。
 マヤは悪戯っぽく瞳を煌かせてアスカの傍にすっと近寄ると、「後でね」と囁いたのである。

 さてさて、シゲルの独断で進行する結婚式はいよいよ佳境に入った。

「これでこの二人は紛う事もない夫婦じゃ。と、わしが言うだけじゃ何だから、誓いの接吻でもしてもらおうか」

「えっ!」

 と、叫んだのはリツコでもゲンドウでもなく、マヤだった。

「ちょっと。そんなこと仏前でするの?」

「ふん。仏前で巫女が舞うこと自体聞いたこともないわ」

「でも、それじゃ教会じゃないの」

「指輪でもあればそれでもいいが。やっぱりここは式を締める意味でもくちづけの一つでも必要じゃな」

「こ、子供がいるのに?」

「キリスト教とかホテルの意披露宴でも子供の前でしとろうが。変に気を回す方がおかしいぞ」

 早口且つ小声で言い合う坊主と巫女のすぐ前だったが、ゲンドウの耳にはそのやり取りは入ってきていない。
 再婚の彼ではあるが、ユイとは結婚式も披露宴も正式には行なっておらず、人前でのキスなど未経験もいいところだったのだ。
 したがって今の彼は冷汗油汗その他諸々が背中を濡らしていたのである。
 結局、その場に立ち向かい合った新郎新婦は肩を抱くとかということはせずに、
 まるで大昔の純情な恋人たちのように顔だけを近づけてくちづけたのである。
 その二人の前でまだ大麻を振っているシンジの姿はいささかご愛嬌ではあったが、参列者全員からの拍手を受けたのだ。
 
 そしてその後は宴である。
 シゲルとマヤは皆の了解を貰い浴衣に着替えさせてもらった。
 それは新郎新婦も同様である。
 無礼講とまではいかないだろうが、借り物の衣装や、正式な衣装を汚してはたまらない。
 彼らの衣装替えの間に、女将たちは大急ぎで宴の準備を整えた。
 膳を囲んでというスタイルならばそれらしいが、元々鍋を囲む予定だから披露宴とはいささか趣が異なってしまうことは仕方がない。
 都合2つの平机が置かれ、そのひとつには新郎新婦と関係者が座る。
 ゲンドウ、リツコ、シンジにナオコである。
 二つ目は惣流家の人々とハルナとレイだ。
 さて、それぞれの残りの席に坊主と巫女とお巡りさんが座らねばならないのだが、一つ目に2つ、二つ目に一つの空席となっている。
 
「では拙僧たちはこちらに座らせていただこうかの。おい、マコト、お前はそっちだ」

「おい!」

 本当は嬉しいくせに文句を言わずにはいられないのは何故だろう。
 惣流家の方の机へ行かされて、マコトは舞い上がりそうな気持ちを必死で抑えた。

「ひゅ〜がじゅんさ、こっち、こっち!」

 アスカに呼ばれるが、残念なことにその机の空席はハルナの隣しかない。
 これは各々の参加人員の数からいって仕方のないところだろう。
 しかも愛しのキョウコは対角線上に位置している。
 ただし、鍋に向うということはその向こうにキョウコが見えるということで自分を慰めるしかない。
 そして司会者もいない、結婚式の宴が始まった。
 


「ちょっとお坊さん。もっと飲みなさい」

「いや、その、ははは。では、遠慮なく。痛いっ」

 ナオコに酒を勧められたシゲルは隣のマヤに太腿を抓られる。
 ゲンドウは翌朝車を運転しないといけないし、二杯目を勧めた時はほやほやの新妻である実の娘に睨みつけられてしまった。
 まさかシンジの持つオレンジジュースのコップにビールを注ぐわけにもいかず、
 雉鍋に夢中になっていた坊主にナオコは矛先を向けたわけだ。

「いらないですって?ばばぁの酒なんか飲めないって?そりゃあお隣の神社の娘とは大違いでしょうよ。
 どうせこちとら一人娘を嫁に出して、家名断絶となった婆さんよ。そんな女の酒を飲んだら嫁の来てがなくなるって?
 はいはい、どうせそうでしょうよ。わかったから、飲みなさい。飲まないとぶっとい注射頭に突き刺すわよ」

「わかった。わかったから、そう絡みなさんな。赤木医院の跡継ぎなら、それ、嫁いだばかりの娘にだな、
 子供をどんどん産んでもらってその中で良さそうなのを養子に引っこ抜きゃいいんだ。痛っ!」

 またマヤに抓られた。
 あまり生々しい話をするなということだろう。
 ちらりと隣のマヤを見ると素知らぬ顔で鍋の中から椎茸を摘み上げている。
 シゲルは軽く舌打ちをすると、真向かいのシンジに話しかけた。

「なぁ、シンジちゃん。弟か妹、欲しいだろ?」

 さすがにシンジ相手には坊主臭い口調は引っ込めたようだ。
 まだ数回しか会った事はないが、アスカから「くそぼ〜ずははなせるやつだからねっ」と紹介されている。

「うん、おとうとがいいなぁ、ぼく」

「そら見ろ。よし、じゃ、坊主。おっと、シンジちゃん、よぉ〜く、おか…じゃない、ママにお願いしとくんだな。痛ぇっ!」

 アスカからの情報でシンジには“お母さん”が禁句だと思い出し“ママ”に差し替えたところまではよかったが、
 何分話の内容が拙すぎる。
 マヤに思い切り抓られても文句は言えないだろう。
 もっともこんな際どい会話をシンジに理解できるわけもなく、ただ顔を赤らめ俯き加減のリツコに素直におねだりしてしまう。

「えっと、ママ…。えへへ、はずかしいや」

「うふ、おねえさんでもいいわよ」

「あのね、やくそくしたんだ。アスカちゃんとレイちゃんと。おふろでさ。ねえ、おとうさんもきいてたよね」

「うむ」

 としか、ゲンドウは言えなかった。
 あの洞窟温泉の歌合戦の後で、小さき者たちは話をしていたのだ。
 今日、結婚式をするのだから、これからは“リツコお姉さん”ではなく“ママ”と呼ぶのだとシンジは約束させられた。
 しかし別にシンジはその要求に困った顔は見せず、ただ恥ずかしそうにしただけで大きく頷いたのだ。
 その様子を見て感極まりそうになりかけたゲンドウはトモロヲにぽんと肩を叩かれ、
 精一杯の虚勢を張って息子の真似をして大きく頷いたのである。
 ただしシンジとは違っていくらかギクシャクとした動きではあったが。

「だから、ママなんだ。えっと、ぼく、おとうとがほしいんだ。あ、でも、いもうとでもいいよ。うん、どっちでもいいや、やっぱり」

 朗らかに笑うシンジを相手にして、リツコは返事がすぐにできなかった。

「だめ?」

 この年頃の子供に、しかも天真爛漫に迫られて、嫌と言える大人はいまい。
 結局、リツコは指切りをさせられてしまったのである。

「ふふふ、うちのあの娘がこんな顔をするなんてねぇ。まったく信じられないわよ」

 ナオコは手酌でビールを注ぎ、そしてぐびりと飲んだ。
 気持ち的には飲み干したかったのだろうが、そこは年齢というものか適度なところでコップの角度を無意識に立ててしまった。
 シンジと指切りをしたばかりのリツコはアルコールの所為でなくほんのりと顔を赤らめ、母の悪態には何も言い返さない。
 こんな母親の様子を見て、リツコは心の中でかなり驚いていたのだ。
 この母と娘だけにわかるのだろう。
 母さんが浮かれている…。
 こんな姿はほとんど見た事がないのだ。
 愛想も少なく、どちらかというとつっけんどんに患者に接するナオコなのである。
 それは診察中だけでなく、実生活でも同様だった。
 しかし何故か嫌われることもなく、彼女は医師として町の風景に溶け込んでいた。
 腕がいいからかしらねぇ、と臆面もなく言う母に溜息を吐いていたリツコだったがその理由はずっとわからなかった。
 それが今、なんとなくわかったような気がする。
 この人は、人間が好きなんだ、と。
 その大好きな人間の苦しみを和らげてあげたい。
 とてもではないがそうは見えない態度を患者には示しているのだが、実際どうだろうか。
 あんな小さな病院なのに患者が途切れることはない。
 口の悪い無愛想な医者なのだが、町の人はナオコという女性の素顔を承知しているのかもしれない。
 もしかすると、母親の若い頃…少女の頃を知る老人たちが寧ろナオコの言動を微笑みを持って見ているのかもしれない。
 赤木の小娘がまた背伸びをしておる、と。
 そこまで考えが及ぶと、リツコは胸が締め付けられるような気になった。
 東京の医大に行く時には少しも思わなかった気分。
 歩けばすぐ傍の場所に住いを移すだけなのに、結婚するだけだというのに、そして赤木ではなくなるだけだというのに…。
 今度は随分と母から離れてしまうような気がする。
 ああ、だからドラマで嫁ぐ娘が涙を流すのかとようやく思い当たったリツコである。
 しかし彼女は涙をこぼさなかった。
 母の泣き顔を見たいとも思ったが、おそらく懸命に堪えているのであろうナオコの気持ちを尊重したのだ。
 おお、何と強情な母と娘であることか。

 宴は漫然として続く。
 歌う者もいなければ、演説する者もいない。
 ただ近くの者と談笑し、杯を傾け、美味い料理を口にしていく。
 それだけのことだが、何故か皆楽しかった。
 しかし、しばらくして、アスカは気がついたのだ。
 彼女はちょこちょこと反対側のレイのところに歩み寄った。

「レイちゃん、たべた?」

「うん、おなかいっぱい」

「アタシはまだまんぞくしてないの」

「えっ、まだたべるの?」

 レイが目を丸くしたが、アスカの方は違うとばかりに首を横に振ったのだ。

「ほらっ、これ!」

 彼女は足を踏ん張って幻の大麻を手にし、レイの前で左右に振ったのだ。
 その仕草で友人が何を伝えようとしているか、レイにはよくわかった。
 食べている時にアスカは目を輝かせて彼女に教えたのだ。
 あの白い紙のついた派手な“アレ”(大麻のこと)を「後で」触らせてくれるとマヤに囁かれたと。
 
「もう、あとよね!じゅ〜ぶん、まったもん。おなかいっぱいになってわすれそ〜になるくらいまったもん」

「うん、まった。わたし、すっかりわすれてたもの」

「レイちゃんったら!」

 アスカはぐふふと笑った。
 この生涯の友は実に暢気である。
 つい今しがたまで本当に幸せそうな顔をして、レイはお鍋を食べていた。
 それがあまりに嬉しそうに食べているから、アスカもなかなか切り出せなかったのだ。
 そしてお箸を置いた瞬間に、時は今と歩み寄っていったわけである。

「よしっ、レイちゃん、いっくわよっ!」

「うん、りょうかい」

 レイも立ち上がり、友に微笑む。
 これで勇気100倍、怖いものはない。
 もっとも元々の勇気自体が他の子の数倍あるのではないかと思われているアスカなのだが。

 アスカはずんずんとマヤに歩み寄っていった。
 その背後を送れまいとレイが続く。
 まさしくいつもの町で見かける図式通りだ。
 そしてほんのりと顔を赤らめたマヤの背後まで到達すると、アスカはその肩をぽんぽんと叩いた。

「マヤおね〜さん、あのねっ。これは?」

 マヤが振り向くと、アスカとレイは並んで大麻を振る仕草をしている。
 それを見て、マヤはああそうだったっけと自分の頭をこつんと叩いた。
 
「よしっ。じゃあ、やりますか」

 にこりと笑ったその顔は悪戯っぽく輝いていた。
 そして、マヤはアスカとレイを従え、マコトが座るテーブルを目指す。

「ちょっと、マコちゃん?」

 マヤの呼びかけに対し、マコトは真っ赤に染まった顔を上げる。
 この男、それほど酒は強くない。
 今日はこのまま泊まりだという安心感からか…、いや違う。
 やはりキョウコと同じ鍋を囲んでいるという高揚感からであろう。
 お鍋の湯気を挟んだすぐ向こうに愛しい人がいる。
 しかも今日は浴衣姿であった。
 マコト視点でなくても、色気が少しばかり混じった美しさというものがにじみ出てきている。
 その彼女の姿を永遠に記憶しておきたいと、マコトは何度も何度も鍋の向こうを見たのである。
 その結果。
 彼はお鍋の具をどんどん食べて行く羽目になったのだ。
 しかしそれはキョウコの手によってだから、マコトとしては幸福といわざるを得ない。
 鍋越しにキョウコを見ているということは、その視線に鍋も含まれている。
 見る人が見れば、お鍋の中身を吟味しているようにしか見えないわけだ。
 そしてそれを見ている人はまさか自分に好意を持たれているとは露ほども思っていないキョウコである。
 自分を見ていると思わないだけに、雉鍋に大いなる興味を持っているものだと誤解した。
 そして彼女はこの機に乗じたのであった。
 お箸を手にマコト専用の鍋奉行と化したのだ。
 日向さん…と呼びかけたのは、トモロヲとハルナが同席していたからだろう。
 さすがにマコトさんと呼びかけるのは躊躇した。
 日向さん、お嫌いなものは?まあ、好き嫌いなし?じゃ、まずお肉。それに椎茸。白菜、人参、菊菜……。
 あっという間に差し出されたマコトの椀は具が山盛りに積まれた。
 ありがとうございます!と言下に彼は箸を動かす。
 恋しいキョウコさんに取り分けてもらった食べ物なのだ。
 一生懸命に食べないといけないと、マコトはアスカが驚くほどのスピードで食べたのである。
 うわっ、全部食べられちゃうと自分の椀をてんこ盛りにしたアスカはキョウコとトモロヲに左右から窘められる。
 日向巡査はいっぱい働いてきたんだからお腹が空いてるんです、と言われたアスカは唇を尖らせて「はぁ〜い」と返事をした。
 そんな風に言われてしまうと、やはりマコトとしてはその通りだと証明するためにぱくぱく食べてしまう。
 椀を攫えるのを待っていたキョウコはすぐににっこり笑って彼の椀を要求する。
 またまた山のように積まれた肉や野菜をマコトは再び口にする。
 そんな二人を見て、トモロヲは誤解した。
 キョウコのヤツ、日向君を苛めておるわい。ここはこの爺が助け舟を出してやるとするか。
 その瞬間、彼の地獄が始まったのである。
 ほれ、日向君、まあ一杯飲まんか、と言われ、はい!と返事するマコトだった。
 別にトモロヲは飲めない男に酒を強いたつもりはない。
 事実、マコトは嬉しそうに入っていたビールをぐびぐびと飲み干し、空になったコップを差し出したのだ。
 そしてトモロヲへの返杯も忘れない。
 だが、歳はとっても惣流トモロヲは酒に強い方であった。
 うむうむと注がれたビールを飲んでから、わしはこっちの方がいいの、と徳利をつまみあげたのだ。
 そのまま手酌でお猪口に注ごうとするのを黙って見ている派出所のお巡りさんではない。
 マコトはすかさず私が…と大人のやり取り。
 注がれれば、返杯は必定。
 雉鍋とビールの上に、今度は日本酒も加わった。
 しかも助け舟を出したはずのトモロヲだったが、どうやらその助け舟は泥でできていたのかもしれない。
 あら、マコ…ちゃんと言いかけて、慌てて日向さんと言い換えたキョウコはにっこりと微笑んだ。
 日向さんは日本酒の方がお好きなんですか?と問われ、はいとしか答える選択肢しかマコトは持っていなかった。
 何しろキョウコの質問にはまず肯定するところから入らねばならないという先入観に凝り固まっている男なのだ。
 私も、大好き。
 そう言われた瞬間にマコトの頭の中は“大好き”というキョウコの言葉がピンボールのように跳ね動き出した。
 このあたりで拙いと認識できていれば、彼も地獄から脱出できたかもしれない。
 しかし、何よりこの“大好き”という自分に向けられた言葉はかなり効いた。
 まるで自分のことが好きだと言われたように感じてしまったのだ。
 それで正解だった。
 “私も”と“大好き”の間に、キョウコは心の中で、マコちゃんが、と呟いていたのだ。
 だから彼は妄想通りの言葉を受けていたわけなのだが、二人の意識は表面上に上ってきていないので今の時点では自意識過剰と思わざるを得なかった。
 そこでマコトは舞い上がってしまった恋心をそのままに、とりあえず当たり障りのない会話を試みた。
 ドイツといえばビールですよね。日本酒もいけるんですか?
 愛しい人に水を向けられてアスカの母親が胸を張らないわけがない。
 彼女はにっこり微笑んで、「日本酒って凄く美味しいですよね、お爺様」と敢えてトモロヲに同意を求めたのだ。
 人前で“お爺様”と呼ばれると、城代家老の家系の末裔としても気分がよくなってしまう。
 うむうむと頷き、まあお前も飲めとキョウコにも徳利を傾ける。
 その光景を見てマコトは羨ましかった。
 自分もキョウコにお酒を注ぎたい。
 しかし二人の間にはぐつぐつと煮えている雉鍋があり、その上でお酒のやり取りはさすがに躊躇われる。
 となれば、机の向こう側に赴けば良いものだが、マコトにはそんな根性はない。
 そうこうしているうちに地獄の追い討ちが来た。
 ひゅ〜がじゅんさ、アスカからもど〜ぞ、と目の前の幼女がしっかりと抱えているのは、ビール瓶でも徳利でもなくオレンジジュースの瓶である。
 かくして、日向マコトは腹いっぱいに鍋とビールと日本酒とオレンジジュースを詰め込まさせられたのであった。
 ちゃんぽんというよりも拷問である。
 しかも甘美な。
 キョウコに勧められれば、料理でもビールでも日本酒でも笑顔で受けてしまうのだから。
 しかもアスカにオレンジジュースは可哀相だからやめなさいと窘める姿を見て、
 ああキョウコさんは優しい人だと感動しているのだから、シゲルあたりが見れば「お前は馬鹿だ」と呆れ果てていたことだろう。
 さて、時間を元に戻す。
 恋の力は結局肉体の限界に負けてしまっていた。
 
 マコトはもはや“愛しのキョウコさん”を見ていられなかったのだ。
 彼の視線の先は机の上にあった葉っぱを模した箸起きであったが、見ていたのは間違いなく桃源郷に違いない。
 マヤに呼びかけられて顔を上げただけでもがんばっている方だ。
 もちろん、彼は顔を上げただけで返事はできていない。

「あらっ。マコちゃん、完全に酔っ払っちゃてるじゃない、うふふ」

 マヤは赤くなっているマコトのおでこをちょんと突いた。
 その瞬間、とてつもない精神波攻撃を彼女は受けていたのだが、
 酔っ払っていて気がつかなかった所為か、それともキョウコにそんな特殊能力がなかった所為か、マヤの身体に異常はない。
 キョウコとしてはマヤの存在は腹立たしいという以外の何者でもなかったのだ。
 それはそうだろう。
 キョウコは直接伊吹マヤという女性を知らない。
 神社の娘だという事はわかっているが、マコトの幼馴染であり、シゲルの人目を忍ぶ恋人だと知る由もない。
 だからこそ、彼女の目には馴れ馴れしい態度で迫ってきた悪女としか写らないわけだ。
 そして、コノオンナコロシテヤル、と渾身の力を込めてマヤの横顔を睨みつけたのだが、先に述べたようにマヤには何の影響も与えられなかった。
 落胆したキョウコは妄想する。
 実はこの女はマコトの恋人ではないのか?と。
 恋人はいないと前に言っていたが、それはこの女性の存在を隠していただけでは?
 悪い想像ほどどんどん広がっていくものだ。
 もしかすると、この温泉旅行にも強引に巫女が要るからと連れてきたのではないか?
 ひょっとすると、この後、みんなが寝静まってから、こっそりと、部屋を抜け出して、二人っきりで、露天風呂に、入って、それから、それから、それからっ!
 幸いなことにキョウコが握り締めていたのはお猪口だったので、それを粉砕するほどの握力を彼女は持っていなかった。
 キョウコは認定した。
 この女は、恋しいマコちゃんを惑わす悪女。巫女姿で正体を誤魔化す魔女なのだ。
 しかし、その認識は数分後に180度変わった。

「はい、じゃ、あっかちゃんのお母さんはこっちに座ってくださいね」

「は、は、はいっ」

「もうっ、マコちゃんったら、眠っちゃ駄目だってば。せっかく…」

 そう、せっかくマヤが素晴らしい展開を用意してくれたというのにこれでは駄目ではないか。
 アスカとレイに大麻を振る相手として、マコトとキョウコを用意しようとしたのだ。
 マコトの恋心を知る幼馴染としては出血大サービスである。
 大麻をこんなことに使ったと父親に知れれば、おそらくきついお叱りを受けることは間違いないからだ。
 しかし、マヤももう酔っている。
 シゲルと二人で結婚式を司祭したということで、彼女もまたいささか舞い上がり気味だったのである。
 アスカとレイとで3人がかりになって…といってもほとんどマヤ一人でだったが、何とかマコトを部屋の隅まで引きずっていった。
 壁を使わないと横たわってしまうからである。
 はっきり言ってほとんど彼は夢の中。アスカとレイがぴちゃぴちゃと頬を叩いているが、にこにこ顔で目を開けない。

「マヤおねぇ〜さん、ひゅ〜がじゅんさはねむっちゃってるよ。だれかべつのひとはだめ?」

「駄目よ。だって、花嫁さんはあっかちゃんのママさんなのよ」

 キョウコは強張った顔でぎくしゃくと頷いた。
 おお、何と良い娘さんなのだろう、この巫女さんは!
 評価は一変していた。
 マヤがトモロヲの元に進み出て、お酒を注ぎはじめたところまではまだ魔女扱いだった。
 ところが、彼女の言葉を聞いてキョウコの頭の中はお花畑と化した。

「あっかちゃんの曾お爺様?少しだけ、あっかちゃんのママさんを貸してください。二人にお祓いごっこをさせてあげたくて」

「ほほう。で、あの酔いどれ警官とうちの可愛い孫娘を新郎新婦に見立てるというわけかの?」

 トモロヲも久しぶりに痛飲していた。
 やはりこの日はこの旅館に泊まりだということで、いつもよりもお酒の量が増えていたのである。
 マヤの提案にトモロヲは膝を打って賛同したのだ。

「これ、キョウコ。ちょっと、手伝ってやらんか」

 祖父の一言だけではない。ママお願い、おばさんお願いと、二人も手を合わせて頼んでいる。
 仕方ないわねぇと心にもないことを言いながら、キョウコは空にも舞い上がらんばかりにふわりと立ち上がったのだ。 しかし、花婿殿はもはや夢の中。
 キョウコはアスカたちと一緒にマコトの頬をぺたぺた叩いて、目を覚ませたかったがそこまでの行動力はない。
 結局、新郎役は夢の世界に留まったまま、壁を背にして眠り続けている。
 片や、キョウコの方はすっかり酔いが醒めてしまっていた。
 戯れとはいえ、結婚式の真似事である。
 いや、問題は何をするかではなく、相手がマコトであることの一点だ。
 髪が乱れているのではないか、と手で髪を撫でつけ浴衣の裾や襟元を何度も確認する。
 
「あは、もうマコちゃんはあきらめましょう。駄目ねぇ、酔いつぶれちゃって」

「随分勧めちゃったから…」

 キョウコは後悔しきりである。
 こんなことならあんなにお鍋を勧めるのではなかった。
 終ぞお酒を注ぐことはできなかったのだが、マコトを(その肉体を)追い込んだことは事実である。
 
「仕方ないですよ。それじゃ、あっかちゃんのママさんはそこに座ってくださいな」

 指示された場所はマコトのすぐ傍である。
 キョウコはごほんと咳払いして、そこにきちんと正座した。
 そんな孫娘の動きを見て、トモロヲはお猪口を置き微笑む。
 何とも可愛げがある様に思えたからだ。
 そして、そんなキョウコの挙動にどこか覚えがあった。
 遠い、遠い昔の記憶が。
 それは何だろうか、とほろ酔い加減の頭を捻ってみる。
 結婚前のことか?それならば、もう50年以上前のことではないか。
 トモロヲはあっさりと記憶の古池のサルベージをあきらめた。
 
「よしっ、じゃ、まず…」

「アタシっ」

 と、アスカが手を上げるのと、レイがアスカを指さすのが同時だった。
 仲がいいなぁこの子たちはと、マヤは少し感心しながらアスカに大麻を手渡す。

「いい、あっかちゃん?これは大事なものなんだからね、振り回しちゃ駄目よ」

「しょ〜ちっ」

 アスカはぎゅっと大麻の柄を握り締めた。
 そして爛々と輝く瞳で目の前の二人を見つめる。
 マコトは寝息をたててがっくりと首を落とし、キョウコはさあ来なさいとばかりに顎を上げている。
 真似事というのに、何をそんなに気張っているのかとトモロヲは可笑しく思えてきた。
 座敷の片側ではシゲルとナオコがハルナを交えて、新郎新婦に何事か話しかけていた。
 その輪の中でシンジが一生懸命に何か喋っているのが聴こえる。
 だが、キョウコの耳には何も入ってきてない。
 聴こえるのは自分の胸の高鳴りだけだった。
 キョウコは目の前の娘を見つめる。
 わくわくさせた感情そのままに大麻を握り締めている、その愛娘に彼女は祈った。

 お願い、アスカ。
 ママはこの人が好きなの。
 好きで好きでたまらないの。
 あなたのパパになってもらえるように、力を貸して。

 キョウコは目を閉じた。
 わさわさっと大麻が振られる音がする。
 
「はい、つぎはレイちゃん。またかしてね。アタシ、あと10まんかいするの」

「あっかちゃん、10万回じゃ朝までかかるわよ」

「じゃ、9まんかい」

「もしかして1万ってどれくらいの数字かわかって言ってる?」

「いちまんごくの、まんでしょ。すっごくおおいかずにきまってんの」

 マヤとアスカのやり取りを聞いて、トモロヲははははと声に出して笑う。
 そして、ふとキョウコの表情に目がとまった。
 じっと目を閉じ何事かを祈っているようにしか見えない。
 頬が少し赤らんでいるのはアルコールのためか?
 その表情を見て、彼ははっとした。
 そうだ、高校2年の文化祭の時だ。

『ロミオには、惣流君を推薦します』

 すぐ隣の席で立ち上がり、そんなことをきっぱりと言った幼馴染の横顔。
 着席した後に自分の方を一度も見ず、少し頬を赤らめ、じっと目を閉じていた。
 “ジュリエット”の希望じゃ逆らえないなと同級生たちは囃し立てる。
 そんな周囲の喧騒を余所に、若きトモロヲはただ呆然と彼女の横顔を見つめていたのだ。

 そんな甘酸っぱい記憶がトモロヲの胸に甦る。
 その横顔がキョウコと重なって見えた。
 髪の毛の色や肌の色はまったく違うが、やはりどことなくキョウコはその祖母の面影を残している。
 毅然とした顎の辺り。
 目を瞑った時の目尻のかたち。
 セピア色の記憶が今まざまざと総天然色で甦り、トモロヲは顎をすっと上げた。
 目頭が熱くなった所為だ。
 長年連れ添った妻があの時のことを話したのはいつの頃か。
 病死する3年か4年前。
 場所は屋敷の縁側だ。

『あれはね、清水の舞台から飛び降りる思いでしたのよ。
 誰かさんがいつまで経ってもこの気持ちに気づいてくれないものだから。
 仮にも横丁小町だったのですからね。あの当時でも交際を申し込んでくる人もいたりして。
 中にはあなたよりも風采のいい人もいたりしましてね。
 このまま気づいてくれないようじゃ、いっそ他の人とお付き合いしようかなどと思ったりして』

 一人娘がドイツに飛び出していって数年。
 二人きりの暮らしにも慣れてきた頃だった。
 妻の述懐にトモロヲはまるで高校生のあの時のようなぶっきらぼうな調子で答えたのである。

『だからわしから言ったではないか。わしの嫁になれと』

『あらあら、あの時の詰襟の無愛想な人は、俺、と言いました。俺のお嫁さんになってくれって。
 付き合って欲しいではなくて、いきなりお嫁さんですからね。ついこちらも勢いで答えちゃいましたねぇ
 もっとも、乙女の祈りに応えてくれたんですから、私も嬉しくて』

 その時、トモロヲは老妻の横顔を見つめた。
 文化祭の劇が終わったその日の夕刻、河川敷で彼は制服の幼馴染に詰め寄ったのだ。
 まさにあの時は生か死かと思いつめていたのである。
 はっと息を飲んだ彼女はつと川の方を向き目を瞑って、そして大きく頷いた。
 頬を染め、毅然とした表情で。
 気の強いじゃじゃ馬の幼馴染だった彼女の、そんな横顔に惹きつけられたトモロヲだった。
 それはその時も変わりない。
 皺が増えた横顔であっても、トモロヲには愛しくてたまらなかった。
 もっと長生きして欲しかった。
 キョウコやアスカを見たなら、あいつは…サヤカは何と言っただろうか。
 仏壇の前に座り、トモロヲはそんなことをよく考えていた。
 
 そして、今。
 彼はキョウコの横顔に、彼はあの時の少女の表情を重ね見た。
 これは何を意味するのか。
 もしかすると、キョウコは、あの、隣で酔いつぶれている男に……。
 そうなのだろうか。

「よぉしっ!つぎはぜんせかいのエネルギーをこめるんだから!」

 息を飲むトモロヲが見つめる前で、アスカは渾身の力を込めて大麻を振るった。
 そして、キョウコはなおも静かに目を瞑り、何事かを祈っているように見える。
 孫娘の秘めた想いに、惣流トモロヲが気がついたのはこの時だった。









 
 
あっかちゃん、ずんずん 第十七巻 「あっかちゃん、結婚式に参列するの巻」 −おしまい−














(あとがき)

 第十七巻です。
 温泉がまだ続いています。そしてまだ次回も。
 いよいよ次回は予想もしていなかったあのエヴァキャラが登場します。
 それは誰か?正解した方には何も出ません(おい)。
 今回は申し訳ありません。宴の席での書き分けが巧くできてません。12人を同時に描くのって私の筆力ではどうも(汗)。






ジュンさんからあっかちゃん17話を頂きました。
今回は温泉三部作その3です。果たして次回に登場するエヴァキャラは誰なのか?

読者の方々も予想してはこちらから感想メールとともにジュンさんにお願いします。


 

(2007/10/28掲載)


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