キョウコはなかなか寝付けなかった。
 隣の部屋の様子はわからないが、この壁の向こうにマコトが眠っているのである。
 もしかすると彼は壁際の布団で寝ているのかもしれない。
 とすると、このすぐ向こう…、壁で隔てられてはいるが直線距離ではほんの1mも離れていないのではないか。
 そう思うと、キョウコは胸が高ぶってくる。
 部屋の中で聞こえてくるのは、すうすうというアスカの寝息。
 我が娘の寝息が一際高いというのは、母親として恥ずかしい限りなのだが、
 時々はっきりとした寝言をレイが言うのでまあ五十歩百歩だと許してもらうことにした。
 
「いただきます。ふぅ…」
 
 またレイの寝言だ。
 あれだけ食べたのにまだ夢の中で何かを食べているのだろうか。
 キョウコは微笑むと、再び自分の世界に戻る。
 
 マコちゃん、起きてますか?
 起きているはずがないか、とキョウコは苦笑する。
 泥酔という状態ではない。それはどちらかというと、龍巖寺のお坊様の方だ。
 マコトはどうもお酒に弱いようである。
 可愛いなぁ。
 恋する女性にとっては、その相手の情けない様であっても幸福の種になるようで。
 そこまで想われている事など露ほども知らず、マコトは窓際の布団で夢も見ずに熟睡していたのである。

 さて、離れの方では新郎新婦が眠りについていた。
 下世話なことを言うと、そのために女将は二人に離れの一室を用意したのであったが、
 ゲンドウとリツコはその好意に甘えられなかったのである。
 気恥ずかしいからではない。
 寧ろ二人は飢えていたといってもよい。
 しかし、二人の布団の間には子供用の布団があり、しかもそこはほとんど寝乱れていない。
 シンジはリツコお姉さん改めリツコママの布団にしっかりもぐりこんでいるのだ。
 リツコの手をしっかりと小さな手で握っているのに、さすがに初夜の儀式はできかねる。
 そうなることは充分予測できていたので、シンジちゃんはみんなと一緒にと女将たちは勧めたのだが、
 他ならぬシンジにその配慮がわかる訳がない。
 彼としては新しいママと父親に挟まれて寝るという状況に胸を躍らせたのだ。
 惣流家の敷地にある借家では、子供部屋でひとりで眠らないといけないのだから。
 それでも、ゲンドウとしてはシンジが眠ってしまったら…と甘い期待も抱いたのだが、
 リツコにぴしりと釘を刺されてしまった。
 明日は夜勤だからちゃんと眠っておかないといけないの、と心にもないことを言われて。
 ともあれ、二人の初夜は結局静かに熟睡するだけで終わった。
 それでも虎視眈々と機会を窺おうとしたゲンドウも、久しぶりのアルコールで10分もしないうちに眠ってしまったのだ。
 ずっと眼を覚ましていたリツコは苦笑した。
 眠たいのをせっかく我慢して起きていたというのに、肝心の相方があっさりあきらめて眠ってしまうのだから…。
 やはり女性にとって“初夜”というものの重みは男性とは違うようだ。
 今日はおとなしく寝ましょう。
 そう決めてしまうと3分も経たないうちに、彼女は寝入ってしまう。
 彼女もまた日頃の仕事の疲れと久しぶりのアルコールで肉体的には限界を超えていたようだ。
 結婚式を済ましたばかりの、碇家の家族3人はこうして川の字になって熟睡したのである。

 朝が来た。
 まだ布団の中でまどろんでおきたいと願うキョウコの耳元でアスカが騒ぐ。

「はやくママおきないかなぁ。ろてんぶろにはやくいきたいよぉ」

「アスカちゃん、そんなにおおきなこえだったら、おばさんおきちゃうわよ」

「ぐふふ、おきたほうがいいもん。ああっ、はやくおきないかなぁ、アタシのママ」

 アスカのヤツ、頭をぼこすか叩いてやる…。
 かなり物騒な思いを抱いて、キョウコはさらに抵抗して眼を固く瞑った。

「これ、あっかちゃん、露天風呂なら私が連れて行くから、お母さんは寝かせてあげなさい」

「そうよ、私も昨日はお風呂に入れなかったから、露天風呂が楽しみなの。お姉さんとじゃ嫌かな?」

「いやじゃないけど…。まっ、しかたないか」

「うふっ、ここの温泉の効能はお肌がすべすべになって美人になるんですって」

「おおっ、びじん!レイちゃん、がんばろっ」

「なにをがんばるの?」

「ええっと、かたまでつかって200までかぞえる!」

「りょうかい」

「それから、うたも…」

 昨日の洞窟風呂の影響か、アスカがそう口走った時、頃合いを見計らっていたキョウコが突然起き上がった。

「朝から歌は駄目!」

「うわっ」

 母の間近でぺたんと座っていたアスカがびっくりして腰を浮かす。
 美人の湯と聞いたからには寝ているわけにはいかない。
 愛しい人に振り向いてもらえるならば、とキョウコは肩まで浸かって300まで数える決意だった。

 露天風呂もまた男女に分かれていた。
 しかし幼児にとっては男女の区別などない。

「そうだ。レイちゃん、シンジちゃんもさそおっ!」

「うん、りょうかい。じゃ、おこしにいこう」

 廊下を駆け出そうとした二人をキョウコとハルナがそれぞれの被保護者を慌てて抱きとめた。
 
「おおっ、でんちゅ〜でござる!」

「アスカちゃん、なに、それ?」

「あこぉ〜ろ〜しってのでやってた。ぶしのなさけ〜、はなしてぇ〜…ちょ〜だいっ」

 語尾がおねだり調の浅野匠乃頭とはなかなか斬新な演出である。

「あのね、まだみんな眠っているかもしれないわよ」

「こっちはみんなおきてるじゃない!」

 アスカの言う通りである。
 最後まで寝ていた赤木ナオコでさえ、温泉に来てお風呂に入らずに帰るのは…と起きだしてきたのだから。
 浴衣姿でタオルを手にして、女部屋の全員が廊下にいるのだ。

「でもね、こういう朝は…その…なんて言えばいいのかしら」

「初めて家族が揃ったのだから、ゆっくりさせてあげなさい」

 ハルナの言葉にアスカは首をひねった。
 まったく意味がわからないのだ。
 また意味がわかっていても頓着しない者もいる。

「かまわないわ。起こしてこようか」

「ナオコさん。あなたって人はまったく」

「それでも母親ですか?って。まあいいじゃない。どうせ昨日は川の字よ」

 さすがは医者というべきか、どうなのか。
 ともあれナオコの推察は正しかったが、新婚+αの離れに乱入することはさすがに見送られたのである。

「レイちゃん、かわのじってしってる?」

「かわ…。おみずがいっぱいながれてる、かわ?」

「うぅ〜、かわってかんじは〜」

 最近、アスカは漢字を覚え始めていた。
 家にある本の中には漢字が出てくるものもあるからだ。
 ろくちゃんの絵本には漢字は少ないが、怪獣図鑑は漢字だらけである。

「アスカちゃん、かわせみじんじゃは?」

「おおっ、それかも!かわせみじんじゃのかわのじは…」

 アスカは腕組みをして考える。
 文字の形は出てくるのだが、書けといわれれば絶対に無理だ。
 翡翠神社の4文字の中で他の場所で出てきて読めるのは“神社”の方だ。
 しかしこの発想をそこであきらめるようなアスカではない。
 この場にはその当の翡翠神社の巫女がいるのである。

「マヤおねーさん、かわのじって、かわせみじんじゃのかわ?」

「ふふ、違うわよ。そのかわは川。水が流れる川なの。あっかちゃん、漢字わかる?」
 
 ううむとばかりに首を捻るが、残念ながら怪獣の名前に川のつくものはない。
 それにお相撲には興味がなかったのだ。
 だから、怪獣という難しい字は書けるくせに、山とか川といった字が書けないアスカであった。
 うふふと笑って、こういう字よと蹲って廊下に指を這わす。
 埃も湿気もないから文字は浮き出てこないが、それでも単純な三本線の漢字は二人の幼児にも思い当たったのである。

「おおお、これかっ」

「わたしもしってる。これが、かわなのね」

「そうよ。それで、この真ん中の小さいのがシンジちゃんね」

「わおっ、じゃ、このふにゃってまがってるながぁ〜いのがろくちゃんね!」

「ろく…ちゃん?」

 どこかで聞いたことのある、その名前の響き。
 学生時代は大きな本屋さんで半日立ち読みで時間を潰したこともあるマヤだった。
 かくして、また一人。
 絵本作家の秘密を知る者が増えたわけである。

 そんな話をずっと立ち止まってしていたわけではなく、気がついたときにはもう露天風呂の看板の前だった。
 ここまで来るともうシンジを呼びに行こうという気はどこかに消え去ってしまったようで、
 アスカとレイは歓声を上げて脱衣所へと足を踏み入れたのだ。
 ところが問題のシンジはもう露天風呂の中にいたのである。
 ここが女性用露天風呂であるからには、彼と一緒にいたのは新婦リツコ以外には考えられない。
 夕べの式に参列した女性一同が現れたのを見て、リツコは軽く会釈をする。
 よもや昨晩はどうだったかと訊ける訳もなく、興味自体は大いにあるもののキョウコたちはそんな質問をごくりと飲み込むのである。
 但し、一同の中にそんな事に気を使わない者が一人だけいた。
 さすがに大声では質問しなかったものの、リツコは傍に寄ってきた母親にずばりと訊かれたのである。

「どうだった?できた?」

「馬鹿ね。シンジちゃんがいるのに」

「子供なんて寝てしまえばどうにでもなるじゃない」

「彼の方が先に寝ていたわ。シンジちゃんよりも」

「あらま。それはそれは」

 ナオコは鼻で笑い、リツコは微かに溜息を吐いた。
 そんな母子のやり取りを聞き、大人の女性たちはそうだったのかと好奇心を満たしたのである。
 子供の女性たち、アスカとレイはそんな話はまったく耳にとめていない。

「シンジちゃん、おはよっ!」

「おはよう。はやいのね」

「おはよう!ぼくもいまきたところだよ」

 リツコの腕にしっかりと抱きついて眠っていたシンジは、やはり少し甘えん坊なのかもしれない。
 一番に眼を開いたのはシンジで自分のしていたことに5歳とはいえ照れたのだろう、
 慌てて身体を離したのでその動きでリツコも目を覚ましたのだ。
 そして彼女は我が子となったシンジに微笑んでお風呂に行くかどうか訊いたのである。
 ここの露天風呂の経験者であるシンジは、僕が案内すると意気揚々とリツコと手を繋いできたわけだった。
 因みにゲンドウも遅れて目覚めたのだが、混浴露天風呂がない以上家族での入浴はあきらめざるを得ない。
 もう一つ因むと、そのゲンドウ。
 夜中に目を覚ましたのだが、むくりと身体を起こしてみると新妻は我が息子にしっかりと確保されていて、
 己の欲望を果たすこともなく、また横になり眼を閉じたのであった。
 心の中で、シンジの馬鹿め、と大人気ない悪態を一言吐いて。

「あさごはんはなぁにかなぁ〜?」

「えっとね。ごはんとおみそしるとたまごやきとおさかなのやいたのと、え〜とそれからなんだっけ?」

「おおっ、ごぉ〜かけんらんっ」

 アスカの言葉を聞き、傍らのレイはうんうんと大きく頷く。
 朝からお魚とは何と贅沢なのだろうか。
 そう思うのは、旅館に泊まったことのない二人の幼女と、そして金髪の大人だけだ。
 
「ハルナさん。朝から焼き魚なんですか?」

「小さなお鮭か何かですよ。そんなに期待したら魚が可哀相」

「えっ、期待なんかしてませんよ。私、アスカほど食いしん坊じゃないです」

 キョウコは慌てて否定したが、わずかに赤らんだその頬は湯あたりではなかろうとハルナとマヤは睨んだ。
 そしてマヤはあとでこの情報をマコトに教えてやろうと思ったのだ。
 まさか食べ物で釣れとなどアドバイスはしないだろうが、教えてあげた時の彼の反応が楽しみだ。



 さて、そのマコトたち男性陣はすぐ近くにいた。
 竹囲いの向こうが男性用の露天風呂だ。
 何とかすれば覗きも可能だろうが、生憎今日のメンバーにはそういう輩は一人もいない。
 シゲルならばと思われそうだが、この男、案外口だけというところもある。
 マコトをからかうためになら覗きを示唆するようなことも口にしようが、檀家のトモロヲがいるのにそうもいかない。
 仕方がないので、マコトの傍でさらっとこう言っただけだ。

「どうだ、マコト?ほんの数メートル向こうにお前の恋しい金髪美人がオールヌードだ。ん?」

「そのすぐ近くにお前のジュリエットもいるぞ。もちろん、裸でな」

「それはそうだ。風呂に水着を着て入る馬鹿はおらんわい」

 親友相手にはさすがのマコトでもすぐに切り替えしができる。
 ただし、やはり彼もトモロヲとゲンドウの耳が気になるようで、声はしっかり落としていた。
 何しろその二人は一言も喋らずに、ただ温泉に浸って目を閉じているのだから
 若者二人としては言葉をつい選んでしまおうものである。
 坊主と巡査という身分では仕方のないところでもあるし、
 マコトにとってはキョウコの祖父に変なことを聞かれでもしたらと思うと慎重になるわけだ。
 まして、マコトには昨日の披露宴でも記憶がほとんどない。
 勧められたものを飲んで食っているうちに意識が無くなり、気がつけば朝。
 シゲルとゲンドウの二人がかりで部屋に運ばれ、布団に寝かされていたわけである。
 そのビジュアルはけっこうインパクトが強かった。
 浴衣姿のマコトが、法衣のシゲルと袴姿のゲンドウに抱えられて去っていく。
 腋の下から手を入れ上半身を抱えるシゲルに向って、キョウコは心の中で願っていた。
 お願い、もうちょっと優しく運んでください、と。
 できることならば、自分が頭の方を(足ではない)抱えたいものだが、さすがにそうもいかない。
 立候補することもできずに、彼女は寝ぼけ眼のアスカを背に愛しい人が搬送されていくのを見守るしかなかったのである。
 ただ、キョウコは酔いつぶれたマコトの姿を見てもその恋心を覚ますことはなかった。
 不甲斐ないとも思わずに、ただ可哀相にと思ったのは、彼女の優しさか、それとも痘痕もえくぼの類なのか。
 恋するものは前者を採り、世間一般的には後者だと決め付ける。
 恋愛とはそのようなものであろう。
 マコトの方は酔いつぶれたまま部屋に運ばれたという事実を知り、大いに恥じ入ったのである。
 友人や仕事仲間の中での話ならば、苦笑して頭をかく程度でことで済ませるだろう。
 ところがその場にいたのは、この世で一番愛する女性だったのだ。
 おそらくはかなり顰蹙を買われてしまったに違いない。
 頭を抱えてしまいたいマコトであったが、この朝はそれより前にすべきことがある。
 それは彼がキョウコの祖父であるからだけではない。
 マコトの性格ならば、赤の他人であっても謝意を示さずにはいられなかっただろう。
 もっともマコトの心の隅にトモロヲに嫌われては拙いという気持ちがなかったかというと否定はできない。
 彼とて聖人君子ではないのである。
 耳まで真っ赤に染めたマコトの「昨夜は醜態をお見せしてしまい本当に申し訳ございませんでした」という言葉に、トモロヲはまあまあと顔を上げるように言った。
 我々がどんどんと酒を勧めたのが悪かったのだ、と。
 それよりも露天風呂に行こうと言葉を継いだ。
 トモロヲにとっても久しぶりの深酒だったのだ。
 その提案にはマコトやシゲルも一も二もなく賛同した。
 そして女風呂と同様に岩風呂に先客を発見したわけだ。
 簡潔且つ丁寧に、昨夜の礼をゲンドウに言われ、3人はごく普通の返事をした。
 昨晩がどうだったかなどは彼らの関係では問えるわけもなく、ゲンドウとしてはかなりほっとしたのも事実だ。
 秋ともなれば気温は涼しくなっているので、露天風呂の温度はやや高めになっている。
 
「どうだ、マコト。酒は抜けたか」

「ああ、多分」

「しっかり抜いておかないと、検問に引っかかって首になっちまうぞ」

「大丈夫だよ。頭もすっきりしているしな」

「ふふん、昨日の宴のことは覚えてないくせにな」

「お、覚えてるぞ」

 マコトは大嘘を吐いた。
 彼が覚えているのは酒と料理とオレンジジュースを惣流家の3人にかわるがわるに勧められたところまでだ。
 かなり乱暴に扱われて布団へと連行されたことすら覚えてない。

「ほほう、それではあんな大胆なことをしたのは、わかっててしていたというわけか」

「はぁ?」

 にんまりと笑うシゲルのその顔は、幼い頃から見慣れた邪悪なものが溢れていた。
 しかもマコトにしか聞こえないくらいの大きさで喋っているからなおさらにそう思えてくる。
 
「どういうことだ。まさか…」

 マコトにはこれまで酔いつぶれた経験がほとんどないだけに、その妄想はとんでもない方向へと飛躍する。
 まさか、酔いつぶれて醜態を晒した?
 まさか、酔っ払って裸踊りを?
 まさか、キョウコさんに愛を打ち明けた?
 いや、そんなことをしたならば、惣流さんは笑って許してくれるわけがない。
 悪い想像を彼は頭から追い出した。
 しかし、気になる。
 ただでさえ、繊細なところのある彼なのに、恋する人と同席していたのだから気になりだすと止まらない。
 マコトは声を潜めて親友に問うた。

「おい、シゲル。俺は…」

 シゲルのにやにや顔に腹が立つが、このままにはしておけない。
 マコトは腹に力を入れて、空を睨みつけ喋った。

「キョウコさんに、まさか、その、俺が何か変なことををしたんじゃないだろうな」

「キョウコさんに、か?それはなかったな」

「そ、そうか。なら、よか…」

「キョウコさんと、何かをしたんだ、お前は」

「何だとっ」

 声高になってしまったのは当然だろう。
 日本人の男性の間で“ナニ”という発音をするとかなり際どい内容を意味する。
 昨夜の記憶のないマコトとしては仰天してしまうのも無理なからぬところ。

「これ、和尚様。そんなにからかうのは可哀相じゃぞ」

「おや、聞こえてましたか。あっはっは」

 何とわざとらしい笑い声だろうか。
 マコトはトモロヲの言葉の中にあった「からかう」というフレーズに一安心するとともに、
 シゲルの発した職業笑いに腹が立った。
 頭を一発ぼこんと叩いてやろうかとも思ったが、それこそトモロヲの目前でできるわけがない。
 仕方がないので、精一杯の恨みを込めてシゲルを睨みつけた。

「からかったのか?おいっ」

「うむ、からかった。しかし、ナニはともかくとして、まああれだ。
 確かにお前は惣流家のキョウコさんと…うむ、本人に訊け。それがよい」

「おいっ」

「それでよろしいな。惣流殿」

「和尚。殿はやめい。さんでよいわ。何かお主に言われると、尻がむず痒い」

「はっはっは、なるほど。とにかく、マコト、そういうことだ」

 マコトは溜息を吐いた。
 シゲルはともかくとして、何故惣流さんが俺をからかうのだ?
 もう一度小さな溜息を漏らし、彼は横目でトモロヲを見る。
 彼はじっと目を瞑っていて、肩の辺りまで湯に浸っていた。
 だが実は、トモロヲは薄目を開けている。
 そうしておいて、マコトの様子をそっと窺っているのだ。
 何故なら、彼は孫娘に対する疑惑を持ったからなのである。
 もしかすると、キョウコは日向マコトという青年に恋をしているのではないか、と。
 それが片思いであるのか、その恋心は打ち明けてしまっているのかどうか。
 惣流家の人間は偏屈な一面があり、一度決めたなら真っ直ぐにしか進めない。
 亡き娘もそうだったではないか。
 ドイツ人に恋をして、彼とともに故国を去り死ぬまで二度と日本には戻らなかった。
 現に自分もそうだ。
 とっくに娘の行為を許していたのに、そのことを告げられないままに終わってしまった。
 娘への償いの意味もあり、誰一人頼る身もないキョウコとアスカの母娘を日本に連れ戻ったのだ。
 この数年、キョウコを見ていると確かにその容姿に惣流家の血は感じにくいが、
 彼女の言動はまさに惣流家の血筋に相違ない。
 頑固で一直線なくせに、どこかしら自分に自信がない。自信がないから虚勢を張る。
 おそらく孫娘は失恋を恐れて、何も言えないに違いない。
 まあ、恋心自体あるのかどうか確信はないが…と、トモロヲは苦笑した。
 しかし、この近隣にいる男の中では日向家の次男ならばまだましな方ではないか。
 いやいや先走ってはならぬ。
 ここはまずじっくりと状況を見極めないといけない。
 娘の時のようなことをしてはならないのだ。
 一時の憤懣や、目先の環境に囚われてしまうと、キョウコやアスカの幸せを逃がしてしまうかもしれない。
 あと何年生きられるかわからない老人なのだから、彼女たちの将来をきちんと考えねば…。
 トモロヲは岩風呂の反対側に位置するマコトを見つめた。
 そのマコトは

「なぁ、シゲル。俺は何をしたんだ?教えてくれよ」

「さあな。俺に訊くな。キョウコさんに訊ねてみろ、直接な」

「お、おい」

 もっと声を落とせとマコトは小さく叫ぶ。
 シゲルは聞こえやしないよと、にんまり笑った。
 確かに今の言葉はトモロヲたちのところまで届いていなかっただろう。
 
「とにかく残念だったな、覚えてなくてよ。なんだぁっ!?」

 最後の素っ頓狂な叫びは竹囲いの向こうから聞こえてきた音に反応したのである。
 その音とは、マヤの悲鳴だった。

『や、やめっ、もう、いいっ。あっかちゃん、ありがとっ、も、もう、いいから!ひゃはははっ!レ、レイちゃんもぉっ!ふはははははっ!助けてぇっ!』

 和尚だとか何とか気取っていても、恋人の前ではただの若者である。
 何事かと立ち上がったシゲルは慌てて竹囲いの向こうを見た。
 顔のすぐ近くを通過したものに顔をしかめ、マコトは1mほどさっと離れる。
 健常なる男ならば、当然といえる反応だろう。

「馬鹿。気の回しすぎだよ」

 その後、聞こえてくるのはマヤの悲鳴のような笑い声と、アスカの不服そうな声だった。
 どうやらアスカとレイがマヤの背中を洗ってあげると言いだしたようである。
 その結果がこれだ。

「はっはっは、あれはくすぐったいぞ。わしにも覚えがある」

「うむ、堪えるのが大変だ」

 ゲンドウも珍しく会話に参加した。
 シンジに背中を洗ってもらった時のあの力加減は幼児ならではのもので、大人にとってはくすぐられているのと同様なのだ。
 まして今回はダブルである。
 アスカとレイに背中の半分ずつを分担され、その両方から攻撃されてはたまらない。
 幼児との入浴経験のないマヤは、初めての経験に悶え苦しんでいる。

「もうっ、そんなにうごいたらちゃんとできないじゃないっ」

「こしょこしょしてないのに、どうしてわらうの?」

「ねぇ〜、レイちゃん!そっか、もっとゆっくりすればいいのよ」

「りょうかい。じゃ、じわぁ〜とする」

 タオルの速度はさらに遅くなり、マヤは涙を零しながら笑い続けるしかなかった。
 その姿を見て、現時点での被害者であるキョウコとハルナは顔を見合わせ笑い、
 リツコは来る日のシンジによる攻撃に覚悟を決めた。
 そして、赤木ナオコは娘の肩にぽんと手を乗せたのである。

「ちょっと、リツコ。背中、洗って頂戴」

「あら、くすぐって欲しいの?」

「とんでもない。もう介護でも受ける立場にならない限り、あなたに背中なんて洗ってもらえないでしょう」

 ナオコは素っ気無く言い、背中を向けた。
 母の裸身などまじまじと見た記憶はない。
 歳相応に肌の張りを失った母親の背中を見つめ、リツコはくすりと笑った。
 
「じゃ、悲鳴を上げるぐらい、力を入れさせていただくわ」

「ふん、好きにすれば?」

 憎まれ口を叩く母の背に向う、リツコの目は心持ち潤んでいたのである。
 そんな母と娘の姿を母を亡くしたキョウコと二人の娘を失っているハルナは、胸を熱くして眺めていた。
 


「おおおっ、ごうかけんらん!」

 朝ごはんを前にしたアスカは手を叩いて喜び、レイはうんうんと笑顔で頷く。
 大人たちにとれば、ごく普通の旅館の朝食なのだが、何分二人は初めてなのだ。
 そしてもう一人、初めて旅館というものに泊まったキョウコはまるで娘に戻ったかのようにしげしげと膳の上のものを検分している。
 豪華絢爛とまでは思わないが、日本の食事で朝からこんなに食べていいのかな?と彼女は感じた。
 ドイツにいた時はこれくらいの朝食の量は常識的なものだったが、すっかり日本風の考え方に身体も馴染んできたのかもしれない。

「たまご!レイちゃん、われる?」

「ふふ、あっかちゃんは?」

「とぉ〜ぜん!ここにいれるのねっ」

「アスカっ、慎重にしなさいよ!」

「ぐふぅ、しずかにしないとてもとがくるう〜」

 アスカの生卵割り成功確率はほぼ8割である。
 ということは20%の卵は悲惨な末路を辿ることであり、キョウコは布巾を手に傍らの娘の行動に備えた。
 それは彼女だけではない。
 他の者もすべて動作を止め、アスカの動きに見入ってしまう。
 こんと膳の角に卵を当てた時は息を飲み、中身が飛び散らなかったことに胸を撫で下ろす。
 続いて小椀の上で卵に指の力を加えていく時には固唾を呑んでじぃっと見つめてしまったのである。
 そして見事に卵の中身が割りいれられた時には、一同揃ってほっと息を吐いたのだ。

「へっへっへぇ、だいせ〜こう!」

「つぎはわたしなの」

 きっぱりと宣言して卵割りに挑んだレイもまた一同の注視を浴びる。
 あの赤木ナオコでさえ微笑みながら箸を止めて二人の行動を見ていたほどだった。
 レイもアスカ同様にちゃんと卵を割れ、彼女なりにどうよとばかりににこにこ顔となる。

「シンジちゃんは?」

「あは、えっと、あのね、ママがして。ぼく、へただから」

 一瞬、リツコは陶然となった。
 ママと呼ばれるのもいいものだ。

「わ、わかったわ」

 卵を割るのにこんなに緊張したことがあっただろうか。
 皆も流れ的にリツコが卵を割る姿を何となく見てしまい、彼女は手術以上に胸をどきどきさせたものの
 何とか大人の威厳は示すことができたのであった。
 
「うぅ〜ん、で、このたまご、ど〜すんの?」

「えっ、そ、それは…」

 キョウコが戸惑うのも当然だ。
 惣流家では卵ご飯の習慣がなかったのである。
 トモロヲが玉子焼き、アスカは目玉焼きがそれぞれ好きでそのどちらかが朝ごはんの食卓に上るのだ。
 もともと生卵を食べる習慣自体が日本独自なのだから、それをご飯にかけるという発想がキョウコにないのも当然といえよう。

「アスカちゃん、こうするの」

 卵ご飯は碇家には伝統的に存在していたのである。
 レイは少し得意気に小椀の卵を箸で溶き、そこに醤油を少し垂らした。
 そしてまた箸をちょこちょこと動かして卵をかき混ぜる。
 その動きをアスカは目を丸くして見ていた。
 最後にレイはご飯の上に溶き卵をかけたのを見て、アスカはわっと顔を輝かし、キョウコは露骨に顔を歪めてしまった。 

「な、生でご飯に?」

「ほれ、すき焼きに生卵を使うではないか」

 久しぶりのカルチャーショックを受けた孫娘にトモロヲは微笑みながら言葉をかける。

「えっ、で、でも、あれとこれとは」

 日本に来た当初はこういうことは日常茶飯事だった。
 片言の英語と日本語が飛び交い、ボディーランゲージで補足し、時には絵を描いて説明したこともある。
 人種というよりも、住む場所の違いで同じ食材でも大きく取り扱いが違うのだ。
 何より日本人は生食を好む。
 泣きそうな顔で冷奴に立ち向かった孫娘の勇姿をトモロヲは忘れられない。

「うどんにも入れますよね。月見うどん」

 ハルナも口を添えた。

「あ、そ、そうですね。市役所の食堂に確かにあります」

 気持ち悪いので食べたことがなかったが、きつねうどんにもわざわざ卵を割りいれる者を見たことはある。

「どうする?キョウコはやめておくか?」

 トモロヲはそう言いながら、自分は器用に片手で卵を割った。
 その姿は孫娘に喧嘩を売っているように見える。
 事実、彼はそのようにしてキョウコに日本の文化を教えてきたところもあったのだ。
 自分も、死んだ娘も、とにかく惣流の血筋の者は頑固で、一本気で、そして負けず嫌いなのだ。
 この時もキョウコは口をへの字に結び、ちらりと斜め前に視線を走らせた。
 当然、そこにいるのは浴衣姿のマコトである。
 彼はずっとキョウコを見ていたいのだがそういうわけにもいかず、卵ご飯の準備をしながら時折対面の様子を窺っていたのだ。
 この時、二人の視線はぶつからなかったが、キョウコは彼が生卵をご飯にかけたのを見とめた。

「私、やりますともっ」

 鼻息も荒く、キョウコは自分の卵を割った。
 その後、一同は添えられた海苔を卵ご飯にトッピングするのか、別物として戴くのかという討論をした。
 なんということもない討論なのだが、それが何故か楽しい。
 キョウコは海苔をほぐして卵ご飯に載せることに決めた。
 理由は簡単。誰かさんと同じ風にしたかっただけだ。
 その様子をすぐ傍らのトモロヲは微かに微笑んで見ていたのである。



 一同の食事が終わりかけた時だった。
 女将が現れて、ゲンドウの傍に向かい何事か告げた。
 すると彼は無愛想な顔をさらに険しくし、隣に座るリツコに「少し外す」と短く言い、部屋から出て行ったのである。
 
「しつこいな、君は」

「お願いします、先生。ここの良さはご存知でしょう?」

「それとこれとは別の話だ」

 ゲンドウは腕組みをし、応接セットの椅子に座っている。
 その前でスーツ姿の男が何事か懇願している。
 そんな二人の姿を食後の一同は発見した。
 ゲンドウの方も彼らを目の端に止めたらしく、すっと立ち上がった。

「これまでだ。もう帰らないとならん」

「先生っ」

 縋るように立った男も、浴衣姿の一団を見つけ、何故か顔を綻ばせたのである。

「あっ、奥様に!奥様に結婚のお祝いを申し上げたいのですがっ」

「うっ、それは…」

 いかんと言う暇もなく、目の前の男は素早く移動した。
 奥様が誰かというのは案外難しい問題である。
 可哀相だがハルナとナオコは最初に除外され、残りの大人の女性3人の中にゲンドウの新妻がいるはずだと男は急いで検分した。
 金髪か、ピチピチか、きつめか。
 これは難問だと、男は困ってしまい、変化球を使うことにした。
 やや離れたところから呼びかけたのである。

「碇ゲンドウ様の奥様っ」

 もちろん、その呼びかけにすぐに挙手などするリツコではない。
 この男は一体何者かと目を険しくしたのである。
 反応してくれた者がいないのを確認し、男は話を進めた。

「お初にお目にかかります。
 わたくし、Japan Agricultural Cooperatives、通称JA。JA大山奥の時田と申します!
 この度はおめでとうございます!」

 時田は深く礼をした。
 礼をしながら、目だけはどの女性が当たりなのかと上目遣いとなっている。
 お祝いを言われては、リツコも黙っているわけにはいかない。

「ありがとうございます。私が、碇リツコです」

 軽く会釈をしながら、リツコはとても重要なことに思い当たった。
 自分は碇リツコになるのだろうか?と。
 六分儀か、赤木か、碇か。
 考え方次第ではその3つとも可能性があったのだ。
 そういう話を飛ばして結婚式となったのだから、リツコは急に気になってしまった。

「あの、碇でよろしいですよね」

「うむ、問題ない」

 ゲンドウが返事をする前に、リツコの隣にいるナオコが「不様ね」と呟く。
 そんな母に軽く肘鉄を送るリツコだった。

「リツコさんと仰いますか。私、JAの時田です!」

 時田は頭を下げた体勢のまま、滑るようにリツコの前に移動する。
 だが彼の思惑とは違う場所から大きな反応が出てきたのだ。
 
「じ、じ、じぇぇ〜ええぇ〜っ!」

 身体全体から声を出したように周りには思えた。
 アスカは大きく目を見張り、何故か左手首を口の前に持ってきている。

「これ、アスカ」

「れ、レイちゃん、ジェイエ〜よ、ジェイエ〜!」

「あ、これね」

 隣のレイもアスカと同じように左手首を口元に運ぶ。

「とべ、ジェイエイ。ね」

「そうそう!たて!ジエイエイッ!まけるな、ジェットアロ〜ンっ!」

「あ、ぼくもしってる。かいじゅうとたたかうんだよね」

「あ、あのね。お嬢ちゃんたち。私のJAはそれとは…」

 苦笑する時田の言葉はアスカの叫びにかき消される。

「アタシ、だいすき!ジェイエイッ!」

「ああ、あれね。ケーブルテレビでやってる」

 キョウコが少し関心がない風を装って言った。
 もちろんそんな母親にアスカが突っ込まないわけがない。

「ああっ!ママだっていっつもいっしょにみてんじゃない!」

「そ、そうだっけ?」

「しょ〜たろ〜しょ〜ねんがかわいいって、いっつもいってる!」

「おおっ、あれか」

 ここぞとばかりにシゲルが口を挟んだ。
 時田は観念した。
 この一団がゲンドウの関係者だということはわかる。
 しかし金髪の母子がいる上に、ツルッパゲの若者まで。
 ただし、彼らが本来の装束を纏っていたならば、さらに困惑していただろう。
 法衣に巫女、白衣、巡査なのだから。
 ともあれ、この場はこの騒動が収まるまで口を挟まないようにしよう。
 そう決めた彼は愛想笑いを浮かべたまま、彼らの会話を傍観するのであった。

「眼鏡の少年が腕時計でロボットを操縦するヤツだろ」

「そぉ〜、そぉ〜っ!」

 ジャンプするかのようにアスカが喜ぶ。

「あれは俺たちが子供の時の特撮モンだぜ。ああっ、そうだ!」

 シゲルはニヤリと笑った。

「おい、マコト。そういや、あの章太郎少年はお前にそっくりだってよくからかわれてたよなぁ」

 キョウコの耳に届くように喋りながら、彼はマヤに目配せした。
 恋人だからか、幼馴染だからか。おそらくその両方の理由で、マヤは簡単に彼の意図を察した。

「そうよね、マコちゃん、自分でも喜んでしてたわよね。飛べ!ジェットアローン!なぁんて」

 空想の腕時計を顔の前にかざして、マヤはにっこりと笑う。
 これは確かに事実なのだ
 彼らが小学校低学年の時にテレビで放送された番組で、その時から眼鏡を使っていたマコトはその風貌からいつも主人公の少年役を担当していたのである。
 因みに彼の指示で動くロボットのジェットアローン役は暴れん坊のシゲルだった。
 
「お、おい。昔の話を持ち出すなよ」

 マコトは大いに照れた。
 何しろ愛しいキョウコの前なのである。
 少年時代のこととはいえ、子供っぽいと思われれば恥ずかしいではないか。
 だが、キョウコはといえば、自分の見立てが狂っていなかったことに大満足だったのだ。
 あの少年はマコちゃんだと…。
 そこで彼女は気がついた。
 どうしてあの巫女は、マコちゃんのことをマコちゃんと気安く呼ぶのだ?
 キョウコは思わずマヤをじろりと睨みつけてしまった。
 その視線に気がついたのはシゲルだけである。
 彼はかねがねマコトの片思いは、実は両思いなのではないか?という疑いを抱いていたのであった。
 この時のキョウコの眼差しは彼の疑問を大きく前進させた。
 そして彼はさらに火に油を注ごうとした。

「おっ、そういえば、翡翠神社の巫女様はいつもヒロイン役だったよな。ええっと、あれは…」

「サユリ!」

 と、アスカが挙手して叫ぼうとする前に、キョウコがぴしりと響くような声音で言った。

「ああああっ、ママ、ひっどぉ〜い!アタシがこたえをいおうとおもってたのにぃ!」

 この娘の発言で、キョウコの心の迷いはさっと晴れた。
 さすがは母親というべきか。
 
「あっ、ごめんね。私にもわかる問題だったから」

 実に言い訳臭い言い訳である。
 この時点でキョウコは遅ればせながら彼らの関係を了解した。
 この3人は幼馴染なのだ。
 だからこの巫女はマコちゃんのことをマコちゃんと。
 よし、許す。
 ドイツから来た愛の女神様(マコトの脳内では)は、寛大にも巫女の罪を許した。

「あ、あの…。よろしいでしょうか?」

 一瞬の空白を逃すものかと、時田氏はおずおずと口を挟んだ。

「私は…」

「おじさん、ジェイエ〜のなに?はかせ?」

 隊員の中にはこういう風貌の男はいなかったはずだと、アスカは彼を博士と思い込んだ。

「お嬢ちゃん、私は博士ではないんだよ」

「ええっ、はかせじゃないのぉ?つまんないっ」

 アスカがぷぅと膨れた。
 その隣でレイがぽんと手を打つ。

「わかった。ほら、ひみつちょうほういんのひと」

「おおっ、それかっ。おじさん、ホントっ?」

 きらきら光る瞳で迫られて、JA大山奥の職員時田シロウはほとほと困り果てた。
 こんなことなら、そのジェットアローというものをもっと知っておくべきだった。
 そういう子供向け番組の存在は知っていたのだが、ちょうど彼が高校生の頃の作品だったので
 リアルタイムで見ることもなければ、10年以上経って産まれた我が子を通じて再放送を見ることもなかったのだ。
 つまり彼にとってはタイミングが悪かったわけだ。
 ここはどう返事すればいい?
 実はそうなのだと調子を合わせればいいのかどうか。
 知らずのうちにアスカのペースに巻き込まれてしまっていることを彼は気づいていない。

「アスカちゃん、だめ。ひみつちょうほういんはしょうたいをあかしたらいけないの。ひみつなんだから」

 アスカの肩をぽんと叩いてレイが真剣な表情で言う。
 その動きが実に偉そうで、ギャラリーと化している大人たちはおかしくてたまらない。

「おっと、そうだった。ううむ、じゃ、ひみつのあいことばならいいよねっ」

 確認するアスカに、レイはにっこりと微笑んだ。
 秘密諜報員だから何も喋らなくてもいいと、ほっとしたばかりの時田にまた危機が訪れた。

「おじさん。あのねっ、ぐふふ」

 幼女の蒼い瞳がこれ以上はないかというくらいに煌いた。

「なぽれおんのきりふだは?」

「えっ、なぽれおん?」

 とっさにカタカナ変換できなかった時田は一瞬の間を置いて、それがフランス皇帝の名前と思い出した。
 まさか、トランプのゲームの名前とまでは考えなかったが。
 ナポレオンの切り札?ワーテルローって、負けたんだよな、ナポレオン。
 見当違いの方向を必死に考えている間、アスカとレイはわくわくしながら彼の答を待っていた。
 時田の雰囲気を見て、キョウコはこれは駄目だとすぐに察した。
 この男性はあの番組を見ていない。
 仕方がない、教えてあげよう。
 時田が目を彷徨わした時、彼は自分に語りかけてくる4つの口を見つけた。
 キョウコだけでなく、マコトたち3人の幼馴染も個々に教えてあげようと考えたのだ。
 ところが口パクで伝言するにはかなりの慣れが必要だ。
 いくら4人が“ハートのエース”と言っても、おいそれと通じるものではない。
 何しろフランス皇帝から連想しているのだから、トランプのカードへ繋げるのは困難だ。
 シゲルなどはハートを手を使って表現するのだが、彼の手ではハートマークには見えない。
 栗?ナポレオンと栗?
 親切にも正解を伝えてくれているのがわかるだけに、時田の焦燥はつのるばかりだ。
 その時、彼の世代にぴたりとはまるジェスチャーをマヤが見つけた。
 大学のサークルの余興で彼女はこのグループの真似をしたことがあるのだ。
 ピンクレディーの方を選んでなくてよかったと、マヤは彼のために思った。
 その歌の振り真似を見て、時田は即座に正解を口走った。

「ハートのエースがで…」

「おおおおっ、すごい!ほんものだっ」

 曲名を最後まで言い切ってなくてよかった。
 “ハートのエース”という合言葉を聞いて、アスカとレイは舞い上がってしまった。
 番組の演出で合言葉を聞くと「おおおおっ!」と喜んで握手をかわすのを見ているので、
 二人は先を競うように時田と握手を求めたのである。
 
 そんな騒動を横目にリツコはゲンドウの傍らに移動し問いただしていた。

「あの方、誰です?」

「JAの…」

「それは聞きました」

「むぅ、つまりあれだ。わしにポスターを描けと」

「ポスター…ですか?」

 そこに若女将が口を挟んできた。
 彼女は時田とゲンドウが話しているときから、近くに控えていたのである。

「申し訳ございません。時田さんは隣町の。山向こうですから隣と申しまして、かなり離れてますが。
 それで義理の弟のお友達でして…。高校で仲良くなったとか。
 ああ、その弟が東京で出版社に。そのご縁で碇様がこちらに」

 いつもの若女将に似ず歯切れが悪い。
 だがリツコには大体の成り行きがわかった。
 ゲンドウの正体…というにはいささか可愛らしいものだが、それが絵本作家だとわかり、
 当地のJA職員である彼がポスター作成の依頼に来た。
 そういうことかとリツコが質すと、ゲンドウは重々しくうむと頷く。
 
「碇様がお出でになる度に時田さんがいらっしゃって。
 もう2年になるんですけどね。ずっとお断りになっていられるのに、なかなかあきらめが悪くて」

「そうなんですか」

 若女将の釈明のような言葉にリツコは微笑んだ。
 そして、夫を見下ろす。
 立たれてしまうと見上げねばならないが、今の状況なら見下ろして話せる。
 しかも逃げ出される心配がない。

「理由もいわずに断っていればあきらめないのが当然じゃないですか?
 まさか追いかけてくれているのが嬉しいからだとか?」

「馬鹿を言え」

 あら、怒った。本当に単純な人。だから、大好き。
 リツコはそんな感情など表にまったく出さずに言う。

「では、能力的に描けないという事ね。昔はイラストもしていたと聞きましたが」

「リツコ。わしは…」

「そろそろ覚悟を決めた方がよろしいのでは?」

「む、どういうことだ」

「気がつかない?ほら」

 振り返った新妻の視線の先には、時田と語る一同の姿がある。
 その意味がわからず、ゲンドウはサングラスの中の目を泳がした。

「時田さん、でしたっけ?もうすっかりアスカちゃんと仲良しになったみたいですよ」

「そのようだな」

 その彼の姿は仲良しというよりも、アスカとレイに振り回されているようにも見える。
 しかし、彼はいつの間にか膝を折って二人と同じ目線で喋っていた。
 最初は立っていたのに、握手をしたあたりから何となく雰囲気に流されだしたのだろう。

「あら?ご存知じゃなかったのですか?アスカちゃんと知り合うと、運が開けることを。
 今度はあの人の運の番になりそうですよ」

 ゲンドウは何か言い返そうとしたが、言葉が見つからない。
 確かにリツコの言うとおりだと思えたからだ。
 絶対に無理だとあきらめていたリツコとの結婚がこんなにも簡単に決まった。
 よく暗い顔を見せていた息子は最近ずっと笑顔ではないか。
 今も何がおかしいのか、アスカたちの近くでシンジはくすくす笑っている。
 外に出たがっていなかったレイのあの明るい顔はどうだ。
 トラブルメイカーという言葉はあるが、その逆はあったかどうか。
 奇蹟を呼ぶ少女。
 ミラクルガールか?いかん、安直なネーミングだ。どうもわしにはセンスがない。
 ゲンドウがふと考えているその間隙を突いて、アスカがずんずんと向ってきた。

「ろくちゃんっ!」

 物凄い剣幕である。
 その声音を聞いた瞬間、ゲンドウは覚悟した。
 なるほど、リツコの言うとおりだ。もう逃げられん。

「せかいのへいわのことをかんがえてんのっ?」

「何だと?」

 いきなり魔球を投げられては、バットを振ることすらできないではないか。
 ポスター製作と世界平和に何の関係があるというのだ、まったく。
 かなり背の高いゲンドウを見上げているから、アスカはまるでラジオ体操の様に胸を反らしている。

「あのねっ、あのひとはジェェ〜エェ〜の…ええっと、ひみつなんだけど、なかまなんだからっ!」

「仲間ではなく、職員だぞ。秘密ではない」

「もうっ、ひみつなのっ!だれにもいっちゃいけないの!おおきなこえでいっちゃダメなのっ!」

 アスカは大声でロビー中の誰にでも聞こえるように叫んだ。
 特撮番組『ジェットアローン』のことなどまったく知らないゲンドウにとっては話の展開はまったく見えない。
 向こうの方を見ると、時田が頭をかきながら笑っている。
 その引き攣った笑い様が何とも言えず腹が立つゲンドウであった。

「ジェェ〜エェ〜はねっ、さいしゅ〜かいでしんじゃうのよ!ちきゅうのへいわをまもるために!
 でねっ!あのおじさんはルリコーンのほみつちょうほういんでっ」

「ロリ…」

 新妻にごほんと咳払いをされ、ゲンドウは身長が10cmほど縮んだ気分。
 
「ルリコーンは、すべてはせかいのへいわのためにってみんなでがんばってんのっ!
 だから、ろくちゃんもきょ〜りょくするのっ!ぽすたぁくらいかいてあげてよっ!」

「むっ」

 幼女を身代わりにするとは何という悪漢かと、ゲンドウは時田を睨みつけた。
 その彼は手を合わせて拝むようにこちらに軽く頭を下げている。
 その向こうにシゲルのはげ坊主が見えているから効果は絶大だ。
 ゲンドウは唇を噛んだ。
 ここから逃げる術は…。

「で、ぽすたぁってなぁに?」

 言うべきことを全部言ってしまってから、アスカは己の疑問を問いかけた。
 時田からゲンドウがポスターを描いてくれないから困っているということだけを聞いて、彼女は突っ込んできたのである。
 “ろくちゃん”相手だから絵の事だとは何となくわかるが、ポスターという単語自体はまだ知らない。
 くすりと笑うリツコにああいうものだと壁に貼られた観光ポスターを指さされ、なるほどああいうものかと合点する。
 何のことはない、大きな画用紙に絵を描くだけのことではないか。
 それならば偉大な“ろくちゃん”にとっては簡単ではないか。
 アスカは大きく頷いた。

「へへん、あんなのだったらろくちゃんならちょちょいのちょいじゃない!3ふんでかけるよねっ!」

「3分など無理だ」

「じゃ、4ふん!」

「ふふ、この編集さんは厳しいわね」

「リツコ…」

 お前までかとゲンドウは横目で睨む。
 拙い、このままでは描かないといけなくなる。
 まったく図案が浮かばず、できる気がまったくしないから断ってきているというのに。
 彼はわずかに背中を丸め肩を落とした。

「うぅぅっ!ちょっと!レイちゃんにシンジちゃんもきてよぉっ!いっしょにおねがいして!」

 アスカの要請に二人は素直にやってくる。
 そしてアスカの両脇に立って、ゲンドウを見上げた。

「おじさん、おねがい。ききゅうへいわなの」

「おとうさん、ポスターかいて」

「ほらっ、ふたりもいってるじゃない!ねぇ、かいてよぉっ!」

 レイはともかく、シンジの方は『ジェットアローン』のことは知らないようだ。
 それでもアスカにつられて請願の仲間入りをしている。
 ゲンドウは困り果ててしまった。
 彼の性格では安請け合いなのできない。
 ここはどうすれば逃げることができるのか…。
 まったく大家の曾孫娘はガキ大将というか何というか。
 これなら猪や雉なんかでも引き連れて…。
 ……。

 サングラスの奥でゲンドウの眼がくわっと見開いた。

「むっ、描くぞ」

「うおっ!」

 彼の呟くような宣言を耳にし、アスカが歓喜の叫びを上げる。
 そしてくるっと背を向けると、見守っている母たちの場所に駆け戻った。

「おじさんっ!かいてくれるって!」

「おおおおっ」

 今度は時田、芝居でも成り行きでもなく、心から小さな女の子の手をとり感謝するのだった。
 苦節2年。ようやくゲンドウの了解を取れたのである。
 構想が浮かんだゲンドウの背中はしゃんと伸び、傍らのリツコはあまりにわかりやすい夫の姿に苦笑するのだった。
 かくして碇ゲンドウは山一つ越えた場所にある、JA大山奥のポスターを描くことになる。



 一時間後、帰宅第一陣は温泉を出た。
 本来ならばそれはゲンドウとリツコだけの予定だったのだが、
 予期せぬ結婚式のために参加人員が急増したため、第一陣にも分乗しないと定員オーバーになってしまう。
 そのために二人だけではなく、シンジやナオコ、そして坊主と巫女も加わった。
 車に乗り込むシゲルとマヤの装束を見てマコトは苦笑した。
 あんなのを乗せて運転してきたのか、俺は…。
 昼日中の陽の下で見るその光景ははっきり言って異様だ。
 一人ならまだしも、異なる宗教の衣装で乗り合わせているのだからコスプレにしか見えない派手さ加減である。
 
「なんだか、凄いですね」

「そ、そうですね。はは…」

 車を見送る一同の中で、キョウコの言葉にマコトは相槌を打つことしかできなかった。
 シゲルに揶揄された昨晩のことを確かめてみたいのだが、やはり直接訊くことなど彼にはできっこない。
 そこで彼は多少の危険は覚悟の上であの二人に質問することにしたのである。



「昨日の夜はたくさん食べたね」

「うんっ!きじなべおいしかった!」

「こいもたべれるのね。しらなかった」

 探検と称して旅館の周りを歩きたがった二人の監督を買って出たマコトであった。
 因みに隊長がアスカで副隊長がレイ、平隊員はマコト一名というずん胴型の隊編成だ。

「こい、およいでないかなぁ」

 小川を眺めるアスカだが、さすがにそうは都合よく鯉は泳いでいない。
 レイもその隣できょろきょろして水面を見つめる。

「アスカちゃん、こいわかる?」

「きんぎょのおっきいの。おほりにおよいでるのみた」

 平然と答えるアスカだったが、さすがに錦鯉の洗いなど料理に出ないだろうし食べたくもない。
 マコトはそんなことを思いながら、二人の背後から川を眺める。
 
「うぅ〜ん、あかいのおよいでないねぇ」

「ちっちゃいのはいるよ。しゅっしゅっておよいでる」

 マコトはすぐに行動が起こせるように背後で控えている。
 アスカとレイが川面を見るために身を乗り出しているからだ。
 
「うぉっ、あれ、たべられるかなぁ?」

「おさしみはだめ。ちいさいから」

「あっかちゃん、食べたいの?」

 マコトの問いかけにアスカは元気よく首を横に振った。

「ううん!おなかいっぱいだもん!いっぱいたべたもん、あさもけっこんしきも!」

 おお、ようやく話をそっちにもっていける。
 マコトは顔を綻ばせ、話題を夕べの宴に集中させようとした。

「雉は美味しかった?」

「うん!でもね、わかおおかみさんがいってたけど」

「わかおかみさん」

「えへ、それそれ。あのね、きじのたまごもおいしいんだって」

 ああ、話が逸れていく。

「へえ、そうなんだ」

「でもね、はるにならないとだめなんだって。アスカ、きじさんのおやこどんたべたい」

「レイも、たべたい」

「春か。じゃあ、まだまだ先だね」

「ぐふう、おいしいんだろ〜なぁ〜」

 その時日向マコトは、悪魔の囁きに耳を貸してしまった。
 これこそまさに、将を射んとする者はまず馬を射よ。
 警察官としてこれでいいのかと良心の叫びも頭をよぎったが、マコトはつい勢いで言葉を発してしまったのである。
 ごめんね、アスカちゃん。君は馬だ。

「あ、そ、そうだ。来年の春になったら、雉の卵をご馳走してあげるよ」

「ええっ!」

 威勢良く振り返ったアスカの顔は歓喜に溢れ、その隣で私は?と寂しげな顔をレイがする。
 当然マコトは彼女を2匹目の馬にするしかなく、かくて買収工作は成立した。
 そして喜ぶ二人に昨日何があったのかをようやく質問できたのである。 その結果、マコトは驚愕の事実に愕然となった。
 アスカを祭司に
して、キョウコを相手に結婚式の真似事をした……!
 それを知らないのは一同の中で自分だけだ。
 マコトは言葉を失った。

「ぐふふ、さいごははげぼぉ〜ずまでやったもんね、あれ」

「ふふ、おおぬさふりふり、たのしかった」

 子供が3人でかわるがわるに、そしてシゲルまでもが大麻を祓ったのである。
 
 アスカなどは10回以上祓ったはずである。
 何しろ誰も止めなかったのだから。
 キョウコはこれ幸いと至福の時を引き伸ばそうと何も文句を言わず、周りの面々はその光景を温かく見守っていた。
 ただし新郎役のマコトは前後不覚に酔いつぶれていて、その事実を今知ったばかり。
 夕焼けでもないのにその顔は真っ赤に染まり、彼はぐっと唇を噛みしめ空を見上げた。
 その表情は苦味切っていて、喜びなど微塵も見受けられない。
 そうなのだ、マコトはキョウコに迷惑をかけてしまったと誤解してしまったのである。
 酔いつぶれるという醜態を見せただけではなく、子供たちのための遊びに参加させてしまった。
 意識のない酔っ払いを相手に新婦の役どころを押し付けてしまったのだ。
 この場にシゲルでもいれば、いやマヤでもよい。
 彼がその心を素直に打ち明ける相手がいれば、キョウコが嫌がっていず寧ろ嬉々として花嫁役を演じていたことを伝えられていたことだろう。
 しかし、この場にいるのは幼女二人。
 マコトの表情の変化になど何も気がつかずに、魚の姿を無邪気に追っている。
 やがて、マコトはふっと肩を落とした。
 昨日のことで大きく株を落としたに違いない。
 そもそも株というものが自分にあったかどうかも疑問だが。
 自信のない男というものはこういうマイナス的な思考経路を辿ってしまうものだ。
 キョウコの中ではマコト以外の異性の株などありはしないのに、彼はそんな想いなどこれっぽっちも気がついていない。
 シゲルから彼女の方も憎からず想っている筈だと示唆されても悪い冗談だと片付けてしまう。
 いや逆に腹を立て喧嘩になって寺を飛び出してしまうのだ。
 それでもまたシゲルに会いに行ってしまう。
 口は悪いが真剣に友達の恋の行く末を案じてくれているのは間違いないからだ。
 マコトは苦笑した。
 まず謝ろう。
 いきなり偽結婚式のことなど言える訳もないから、酔いつぶれたことを謝って…。

「そろそろ帰る準備をせねばならんのではないか?」

「うわっ」

 まったく気がついていなかった。
 トモロヲとしても別にそろりそろりと近寄ったわけでもなく、明らかにマコトの意識がこの地になかったわけだ。

「あっ、おじ〜ちゃん」

「うむ、旅館に戻るぞ」

 は〜いと元気に答え、アスカとレイは手を繋ぎ砂利道を歩んで行く。
 マコトはまさかトモロヲと手を繋ぐわけもなく、しかし肩を並べながら歩いた。
 彼には既に昨夜の醜態の件は謝っている。
 さらに露天風呂でシゲルとやり取りをした時に、もう済んだ事だと言わんばかりにトモロヲは笑っていた。
 これではマコトとしては話のしようがない。
 
「いいところじゃの」

「そ、そうですね」

「戻ったら、碇さんに礼を言わねばならんの。実にいい温泉じゃった」

「ええ」

 言葉すくなに応じるマコトだったが、実はトモロヲの方も質問を切り出したくて仕方がなかったのだ。
 愛する孫娘がもしかするとこの青年に恋しているかもしれない。
 そうであるならば、彼としては何としてもその思いを遂げさせてやりたい。
 もちろん、この日向家の次男坊が間違いのない男であることがその大前提となっているのが。
 だからこそトモロヲは見かけだけでなく、彼の内面がどんなものであるかを知りたいのだが、
 この城代家老の末裔にそんなリサーチ能力はない。
 あくまで武骨で真っ直ぐな男なのだから、遠まわしに質問することもできず、
 また直球を投げ込んで孫娘の恋を無茶苦茶にしてしまわないかと躊躇ってしまう。
 そんな状況だから、世間話の域を出ない会話しかできない自分にトモロヲはかなり腹をたてていた。
 自分の知る限りは実にいい青年だと思う。
 まあ、少し頼りなさそうなところはあるが、警察官であるのだから根はしっかりしているはずだ。
 日向家の人間に問題があったことなど聞いたこともないというのもトモロヲの根底にあった。
 その知識は江戸時代にまで遡るのだから、古い町というものは恐ろしい。
 トモロヲの世間話もすぐに尽きた。
 そして沈黙が訪れるが、その空間がマコトには耐えられない。
 だから彼は話題を何とか捻出したのだ。

「あ、あの、JAの人、あっかちゃんに助けられましたね」

「うむ、そうだな」

「ここの人じゃないんですよね。確か、大山奥とか」

「あの山を越えていくんじゃ」

 トモロヲは右手の山を指差した。
 周囲を山に囲まれたこの地だが、指差された山もまたかなり険しい。
 
「トンネルがあるんですか?」

 自分たちの住む町からは最後に長いトンネルを抜けてきている。
 夜間運転をしてきたマコトはその新しそうなトンネルを思い出した。
 
「いや、細い峠道で車は大きいものは通れまいの。
 あの御仁もおそらく軽トラックかオートバイで来たんじゃろう。
 そもそも大山奥村というのは隠れ里のようなものでの、この村ほど大きくもない」

 トモロヲは思い出して喋っている風もなく、ごく自然に言葉にしていた。
 それを聞いていたマコトはさすがに城代家老の家の人だと感心してしまった。
 旧藩内のことならばかなりの知識を持っているようだ。
 もっともこの町もその大山奥という土地も、既に村という名称ではなくなっているはずだと思ったが。

「隠れ里ですか。まさかキリシタンとか平家とか…」

「そんな色気のあるものではないわ。まあ水利の悪い場所での。
 大きな溜池をつくるまではなかなかに問題が多く、寛永の頃に…」

 そこでトモロヲは大きな咳払いをした。

「まあ、どうでもよい。それより頼むぞ、帰りの運転を。酒は抜けておるじゃろうの?」

「あ、はい。それはもう」

「うむ、わしはあまり車慣れしておらんからの。あの助手席という場所はどうも好かん」

「ああ、大丈夫ですよ。安全運転しますから」

 マコトは話を逸らされたことに気がついていなかった。
 実は大山奥村と城代家老であった惣流家には関わりがあるのだが、ここでは語る必要がない。
 それはキョウコとマコトの恋路には何の関わりを持つものではないからだ。
 現在のところその恋路は見事に併走している。
 本人同士がそれに気がついていないだけなのだ。
 そしてこの時もそうだ。
 戯れの結婚式により進んだのは、マコトの自己嫌悪とキョウコの愛情の高まりである。
 マコトはより気後れするようになり、キョウコの方はほんの少しだけ大胆になった。
 そのことは30分ほど後に二人の行動に見受けられたのだ。

 結局、トモロヲは助手席には座ることがなかった。
 それはこういうわけだ。

「またおいで下さいね」

 玄関で女将と若女将が並んでお辞儀をする。
 その二人に対し大人たちが挨拶を返す前に、当然の如く意思表明をするアスカがいる。
 
「はぁ〜いっ!またきまぁす!きじさんのおやこどんをたべにくるねっ!」

「わたしも」

 にっこり微笑みレイも右手を上げた。

「まあ、この子たちったら」

「だぁって!ひゅ〜がじゅんさがつれてきてくれるってっ!」

「えっ、あ、あれは買ってきて…」

 はっきり言わなかった自分が悪い。
 マコトは観念して頬を掻いた。
 ええ〜いっ、ここは清水の舞台から飛び降りてやる!
 マコトは精一杯の笑顔で方針を大変更した。
 
「雉の卵は春だけらしいので、春休みかゴールデンウィークにでも…」

「そうか。では、旅行のために資金を捻出しておかないといけないのぉ、キョウコや」

「ええ、おじいさま。ハルナさんの方はどうされます?」

「いいねぇ、私もその雉の親子丼というのを食べさせていただきたいよ」

「決まりましたね。それじゃ新婚家庭の人たちも誘わないとね、ねぇ、アスカ」

「シンジちゃんのことっ?あったりまえじゃない!」

 マコトはまた頬を掻く。
 そして目が合ったトモロヲに軽く頭を下げた。
 正直言えば、かなり助かった。
 安月給の彼にすれば、冬のボーナスに毎月の積み立てで足りるだろうかと思いながらの決断だったのである。
 しかしトモロヲは素知らぬ顔をして、彼の礼には応えなかった。
 孫娘の恋云々から助け舟を出したわけではない。
 アスカの年頃の子供ならば、こういう旅行を家族で行くことは素晴らしいことではないか。
 自分の娘にはそれをほとんどしてやれなかった。
 幼稚園の時に一度隣の県にある海沿いの国民宿舎に行っただけだ。
 あの強情な娘はその事に何も言ってこなかったが、亡き妻に教えられた。
 母親にはみんなで旅行に行きたいと何度も何度もせがんでいたと。
 その都度市役所のお仕事が忙しい(現実にその通りだったのだが)のだと、娘は母に叱られていたらしい。
 だが直接その願望を聞いていればどうだったか…。
 彼は昔の自分に出逢えれば、拳でごつんと頭を殴ってやりたいと思っていた。
 融通の利かぬ頑固親父そのものの、あの惣流トモロヲの頭を。
 ともあれ、これでマコトの懐は助かった。
 そして、もっと助かったことも。

「それじゃ、また車を運転してもらえるんですねっ。ありがとうございます!」

 大袈裟に礼を言うキョウコを見習って、アスカとレイも深々と頭を下げる。
 
「今度はちゃんと最後まで起きていてくださいね。せっかくのお鍋があんまり食べられなかったでしょう」

「え…」

 マコトは咄嗟に反応できなかった。

「だって、ねちゃったんだもんねぇ〜」

「アスカがオレンジジュースをあんなに飲ませたからでしょっ!」

「おいしいのにぃ」

「うむ、わしも今度はほどほどにするようにしよう。キョウコも次から次へと肉ばかり勧めるんじゃないぞ」

「あら、ちゃんと白菜や椎茸や、ええっと牛蒡に…」

「そのようにてんこ盛りにして食べさせるから駄目なんじゃ」

「はい。ごめんなさい」

 キョウコはあっさりと謝った。
 そして、マコトに向ってぺろりと舌を出して見せた。
 それはほんの一瞬だったので、気がついたのはマコトただ一人だったかもしれない。

「あ、いえ。とんでもない。すみません!つぎはもっと鍛えてきます!」 

 直立不動で宣言するマコトの姿に、一同は大笑いした。
 そして女将たちに春にまた来ると口々に約束したのである。

 そんなやり取りの間、トモロヲは孫娘の様子をそれとなく見守っていた。
 キョウコがマコトに好意を持っているという直感が正しいのかどうか。
 もしそうならば、力になってやりたい。
 直接真意を質せればそれでよいことなのだが、トモロヲの性格ではそうもいかない。
 だからこそ彼女の一挙一動で判断するしかなかったのだが、
 数分後に駐車場からマコトが車を玄関前まで回してきた時だった。
 トモロヲが驚愕してしまうことが起きたのは。

「それじゃあ!まったねっ!」

「こらアスカ。そんな言い方がありますか。さようならっておっしゃい」

「ぐふぅ、みなさん、さようなら!」

 幼稚園そのままの挨拶で周囲を笑わせたアスカは助手席を狙おうとした。
 
「アスカっ!駄目っ!レイちゃんと後に座りなさい!」

「わ、わ、わかってるわよ。ち、ちょっといいかなぁ〜っておもっただけだもん」

 物凄い勢いで母に叱られ、アスカは慌てて後部座席に飛び込んでいった。
 そんな曾孫娘の姿にトモロヲは微笑みながら、助手席の方に足を踏み出す。
 するとどうだろう。
 
「まったく、アスカったら、油断も隙もないんだから」

 ぶつぶつと呟きながら、キョウコがさっさと助手席に収まったではないか。
 トモロヲは深く息を吸い込んだ。
 こちらに来る時は助手席など見向きもせず、彼女は後部座席に座った。
 これはやはり…。
 トモロヲは助手席のキョウコを見つめた。
 彼女は運転席に座る青年の方は見ずに、窓を開け女将たちに笑顔を振り撒いている。
 そして青年の方はただじっとフロントガラスを睨みつけていた。

「おじ〜ちゃん、はやくぅ!おいていっちゃうぞ!」

 アスカの冗談にトモロヲは鹿爪らしく頷いて、ワゴン車のステップに足をかけた。
 これからはもっと注意してキョウコを見守ろう。
 彼はそう決意し、隣に座るアスカの頭に皺だらけの掌を置いた。
 何も知らぬ彼女はニンマリと笑うと、大声で叫んだ。

「しゅっぱつしんこぉ〜〜っ!」










 
 
あっかちゃん、ずんずん 第十八巻 「あっかちゃん、世界平和に貢献するの巻」 −おしまい−














(あとがき)

 第十八巻です。
 ようやく温泉編が終わりました。長くなってすみません(汗)。
 さて時田氏登場は読めましたか?あんなのエヴァキャラじゃねぇやい!なんて抗議はなしにしてください。
 だって田舎といえば、JAじゃないですか。
 

 2007.11.15 ジュン


 ジュンさんから、あっかちゃん18話を頂きました。
 
 まあ、わたしは事前に伺っていましたけど、田舎=JAってのは非常に説得力があるもんですね。
 いやいや、時田氏も立派なエヴァキャラですよ?(笑)

共感された方は、是非ジュンさんへ感想メールを!

 最後に、掲載遅くなってしまって、大変申し訳ありませんでした。




 

(2008/6/7掲載)


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