レイは唇を尖らせて俯いていた。
 絵に描いたような落胆のポーズである。
 キョウコという母親を得るためにアスカに結婚を強要したレイだったが、
その野望はトモロヲの一言でいとも簡単に粉砕されてしまったのだ。
 女の子同士では結婚できない。
 こういうことは誰かに教わるものではない。
 日々の生活を送っていく上でいつの間にか常識として植えつけられるものだ。
 だがレイの場合、両親の記憶がない上に、周りの親たちが何故か片親ばかり。
 したがって、父親が男で母親が女であるということに固定観念が薄かったということもあったのだろう。
 同性同士でも結婚できるという先進的な考え方を抱いたということもおかしくはない。
 しかし、老人であるトモロヲにとっては笑止この上ない考え方に過ぎず、
レイの要求はあっさりと退けられたのだ。
 アスカの方は常識的に異性同士が結婚するという知識を一応持っていたが、
親友の考え方を一蹴することができずに曽祖父に泣きついたわけだ。
 もっとも落胆するレイを見ていると、シンジでなくてレイと結婚してもいいかもと思ってしまうのはまだ幼児であるからか。
 ままごとでは女の子ばかりで家族が形成されているのだからなおさらである。
 
「でも、アスカちゃんのおかあさんがいいの」

「ふむぅ、それを聞いたらキョウコも喜ぶとは思うがの。しかし、アスカは女の子じゃからな」

「それじゃ、アスカちゃん、おとこのこになって」

「えっ、そ、そ、それは…」

 さすがのお転婆アスカも男の子になりたいとは一度も思ったことはない。
 
「いや?」

「ぐ、ぐふぅ…」

 頭を抱えずに、腕を組んだ辺りは一考の余地がある問題だとアスカも思ったらしい。
 そんな曾孫娘の姿にトモロヲは苦笑した。

「これこれ無理を言ってはならんぞ。生まれた時に男か女かは決まっているのだからの」

 頭の固いトモロヲであっても、性転換云々というような話題は耳にしたことはある。
 しかしながら、常識は常識だからここは押し通しておきたい。
 だから彼は決め付けるようにレイに言葉をかけたのだ。

「キョウコの子供はアスカだけじゃから仕方がな…」

「おおっ!めいあん!」

 ぱんと手を叩いてアスカが立ち上がった。
 その姿をレイは期待を込めて見上げ、トモロヲは何を言い出すかと眉をひそめた。

「ママにおとぉ〜とをつくってもらえばいいのよ!」

 その名案を聞いてトモロヲは吹き出してしまったが、レイはなるほどと大きく頷いた。
 発案者は受けのいい方に眼が向くものである。
 レイの喜ぶ顔を見て、アスカはにんまりと笑みを溢した。

「へへん、どぉ〜お?アスカ、えらいでしょ?
 おとぉ〜ととけっこんしたら、レイちゃんもママのこどもになれるわよ!」

 うんうんと大きく頷くレイ。
 なるほど、その方法ならばキョウコの子供になれる。
 この数日で結婚について詳しくなった子供たちは彼女たちにとって最善の方法をあみ出したのだ。

「これこれ、アスカ。弟はよいが、子供を産むにはお父さんが必要じゃぞ」

「おっ、そ、それは!」

 アスカは立ち上がったままで腕を組んだ。
 確かに曽祖父の言うとおりである。
 現在、彼女には父親という存在がいない。
 父親がいない限り、弟はできないではないか。
 レイは再び表情を曇らせ、それを横目で見たアスカはううむと呻き声まで上げはじめる。
 これはあまりに難問過ぎる。
 そんな子供たちの姿を見て可哀相になったトモロヲは解決策を口にしてしまった。

「まあ、キョウコが結婚すれば弟でも妹でもできるじゃろうがのぉ」

 彼がそんな言葉を発したのはただの慰めだったのだろうか。
 答えは否である。
 今回の温泉旅行で、トモロヲは孫娘の恋心に気がついた。
 色恋には疎い彼だが、おそらくこの読みは外れていないと確信がある。
 その相手の日向巡査も悪い男ではない。
 問題は相手がどう思っているかなのだ。
 もし変なことをしてキョウコが失恋するようなことになれば大変だ。
 だからむやみに仲人口を出すわけにもいかない。
 出すわけにはいかないが、外堀を徐々に埋めることは差しつかえあるまい。
 そう判断したトモロヲだった。
 アスカに弟が欲しいと言わせればどう反応するか。
 
 トモロヲはその根底で大きな誤解をしていた。
 孫娘が日向マコトに恋心を抱いているのを察したところまではよい。
 その点では頑固で色恋沙汰に疎い彼としては大いに及第点を与えられよう。
 しかし、彼はキョウコの劣等感に気がついていなかったのだ。
 日本人のトモロヲにとって、白人そのものの容姿のキョウコは美人だと断言できた。
 孫だということを度外視しても、世間に自慢できる容姿ではないか。
 その証拠に周囲の者はお世辞抜きにキョウコが美人だと誉めそやしてくれる。
 子連れであることは大いなるハンデにはなるだろうが、あれほどアスカをかわいがっているのならば問題ないのではないか。
 しかしそれなのに、日本人よりも自己アピールがうまいはずの外人(今は日本人扱いだが)のキョウコが日向巡査に恋心を打ち明けないのはなぜか。
 それは相手に気がないのをわかっているからに相違ない。
 トモロヲはキョウコのコンプレックスを理解していなかったがために、そのように結論付けてしまったのだ。

「ママがけっこん?おおっ!そのてがあったか。さすがはとうりょう!」

「あっかちゃん、とうりょうってなぁに?」

「ん〜。あのね、しのびのものでいちばんえらいひとのことなの。こうがげんよ〜さいとかまふ〜いかじちまるとか」

 かわいそうにそれは悪者側の棟梁の具体例である。
 しかしアスカの出した例をトモロヲは知らず、ご家老というのは先祖の墓石の上で胡坐をかいているようでどうにも居心地が悪いが棟梁と呼ばれるのも悪くないものじゃと思ってしまうトモロヲだった。
 さて、アスカは早くも脱線気味であったが、本日は結婚にご執着のレイのほうはこのネタに飛びついている。
 
「けっこんはだれとするの?あっかちゃんのママ」

「うむ、相手がいるよのぅ。例えば…」

 トモロヲはわざと別の男の名前を挙げた。
 さすがに伊達に年をとっていない。
 いきなり目的の男の名前を出すのは不味かろうと判断したのだ。
 しかしその判断は薮蛇となってしまった。

「おお、あの男も独身じゃの。竜巌寺の和尚」

「くそぼぉ〜ずぅっ?」

 叫んだのはアスカだけだったが、ぶるんぶるんと凄い勢いで首を横に振ったのは二人とも同時だった。
 それはそうだろう。
 ご町内のロミオとジュリエットを知るアスカとレイなのだ。
 ロミオとジュリエットというのはいったい何のことかさっぱりわからないが、ロミオが坊主でジュリエットが巫女であることは承知している。
 そしてアスカの母親は決して巫女ではない。
 巫女は翡翠神社の伊吹マヤでないといけないのだ。
 したがって、坊主の相手にキョウコは決してなってはならないのである。

「おや、なぜ和尚ではいかんのじゃ?」

 あまりに早い返答のためにトモロヲは素直に問いかけた。
 素直には素直が一番。
 脊髄反射的にアスカは大口を開けた。

「だってね!くそぼぉ〜ずはロ…」

 ロミオであることは告げられなかった。
 “ミ”の音を出す前に、背後に回ったレイにアスカの口はふさがれてしまったのだ。
 もっとも身体が小さな幼児だからじたばたどたばたは避けられず、挙句の果てにすってんころりん。
 おやおやおやとトモロヲは二人を起こすが、その間にレイはアスカの耳にそっと囁いた。
 「ひみつ」というその一言でアスカは肝心のことを思い出す。
 あわわわわっと自分で自分の口をふさいだアスカは挙動不審この上ない様子でトモロヲを見た。

「なんでもないよぉ。うん、ぜんぜんなんでもないのぉ。えっとね、だからね、あ、そうだ、おしょうさまはロリコンなのよ」

 アスカはシゲルとマヤの二人に初めて出会ったときに、マヤが使っていた言葉を思い出してとっさに使った。
 もちろんシゲルの名誉のために記しておくが、あれはからかわれて出た言葉であり決して彼にそんな趣味があるわけではない。
 さて、アスカが龍巌寺の跡継ぎ坊主のことを和尚様と呼ぶ時点できな臭い臭いがぷんぷん漂っている。
 しかしながらトモロヲは曾孫に突っ込みを入れはしなかった。
 熟練した彼の手にかかればアスカの口を割らせるなど他愛もないことだと思う。
 だが、それは単なる降って湧いた興味解決の問題であり、彼の当面の課題は龍巌寺の坊主のことではなく孫娘の恋愛問題なのだ。
 それに話題を変えたほうがアスカも助かるというものだ。
 ここは素知らぬ顔で騙されてやろうとトモロヲは思った。
 もっともロリコンという言葉の意味を彼がまったく理解できていなかったことも手伝っていただろう。
 もし知っていたならば、いたいけな幼児に何という言葉を教えたのかと激怒しその者の名前を聞き出して成敗の二字を宣言していたことだろう。
 先祖代々伝わる名刀(もちろん危険なのでアスカにはその存在を教えていない)を持ち出しそこに直れとまではするまいが、呼び出しをかけてそこに座りなさいと説教をされていたことは間違いない。
 惣流トモロヲがいくら丸くなったとはいえ頑固親父にして清廉の士であることに違いはないのだ。
 翡翠神社の巫女、文字通りの危機一髪であった。

 さて、ロリコンなどという世界とは無縁のトモロヲはアスカの言葉を聞き流し、ふむふむそうかと頷いた。

「それではキョウコの夫にはなれんの」

 その言葉を聞いて、アスカとレイは顔を見合わせにっこり笑う。
 うまく誤魔化せた!

 うまく誤魔化されてやったわい。
 しかし、えらく寄り道してしもうたのぅとトモロヲはどこで間違えたかと振り返った。
 なるほど龍巌寺を例にしたのがまずかったかと彼は方法を変えた。

「ではの、誰だったらアスカのお父さんになってもいいかのぅ」

 その瞬間、アスカの目がらんらんと輝いた。
 ちなみに隣のレイの赤い瞳もきらきら輝く。

「あのね!ウルトラマンにへんしんするひと!」

「わたし、あばれんぼうしょうぐんさまがいいとおもうの」

「おおっ、そのてがあったか。さすがはレイちゃん、てだれのものよ。あ、それなら、あかかげさんでもいいな」

「待て。待つのじゃ。テレビはなしじゃ、テレビは」

「ぐふぅ」

 アスカは頬を膨らまし、レイは上目遣いになる。
 これだから子供の相手は難しいのじゃとトモロヲはひそかにため息をついた。
 ドイツに出奔した一人娘ミキコが小さい頃、トモロヲはほとんど相手をしておらず妻に任せきりだった。
 それがいまだに悔やまれてならないのだがもしあの時娘が飛び出していかなければ、ここにキョウコとアスカは存在しなくなってしまう。
 そのことを考えるとあれで良かったのかもしれないと思うほかない。
 ミキコには可哀相なことをしたが、もう仕方のないことなのだ。
 あと何年か後、あの世というところで娘に出逢えたならば詫びねばならぬとトモロヲは自分を納得させていた。
 だが、しばらくは妻と娘には待っていて欲しいと仏壇に語りかけることがあるトモロヲだった。
 キョウコとアスカが二人きりになっても大丈夫かどうか、保護者としての思い。
 それよりもっと切実なのが、アスカが大人になるまで見守っていたい、娘にできなかったことを曾孫にしてやりたいという考えなのだ。
 しっかり見届けた上で、あの世ですべてを喋ってやろう、自分がドイツから連れ帰った母娘がどんな道を歩んだかを伝えるのだとトモロヲは誓っていた。
 きっと二人は誉めてくれるだろう。いや、茶化されるかもしれない。もしかすると、娘には恨まれるかもしれない。
 自分にはそんな甘い顔をしなかったと。
 その時は胸を張って言おうではないか。
 すまん、と。

「テレビではなくの、この家の周りにいる人でいないかの?」

 トモロヲはさらにもう一歩前に進んだ。
 大人でなくとも中学生くらいならばそろそろ怪しんでくるくらいの領域にまで踏み込んできているが、幸か不幸かアスカもレイも実に素直に話を聞いてくる。

「あ、じゃっ」

「アスカちゃん、ろくちゃんはだめよ。おししょうさまがけっこんしたんだから」

「おっ、わかってるわよ。それくらい、しょうちのすけ!」

 アスカが大口開けて何者かの名前を叫ぼうとしたとき、すかさずレイが先手を打った。
 承知の助からあとにすぐ名前が出てこないところを見ると、よく考えもせずに身の回りにいる一番物理的に近い男の名前を出そうとしたようだ。
 しかし…とトモロヲは考えた。
 日向巡査の名前が出てこないということはアスカにはまったくそのような気持ちがないのだろう。
 となれば、キョウコにはアスカが難関ということになるだろう。
 そのアスカはう〜んう〜んと唸りだした。
 何故ならば彼女の世界は案外狭いし、そこでの登場人物の平均年齢はかなり高い。
 さすがのアスカも自分の父親におばあさんに先立たれたおじいさんたちを選ぼうとは思えないようだ。
 
「いたわ。わたし、わかった。ひゅ〜がじゅんさ」

「ん?」

 反応が悪すぎるではないか。
 日ごろアグレッシブなアスカの言動を見慣れたトモロヲにとって、この反応は異常に悪い。
 トモロヲのほうをチラッと見たアスカはどこで覚えたのか気障っぽく肩をすくめた。

「ちっちっち、レイちゃん、あまいわよ。にっぽんではにばんめね」

 トモロヲは怪訝な表情でアスカを見た。
 この言い回しについてはよくわからないが、レイとのやり取りから考えると日向マコトはアスカにとって父親としては論外ということか。
 あの年頃の男性の中では一番親しげだと思っていたのでトモロヲは少なからず驚いてしまった。

「じゃいちばんはだれ?わたしはそのときまかおにいたわ」

「ああっ、ちがうってぇ。そのときまかおはわるもんでしょ。にばんめはよ〜じんぼ〜じゃない」

「いちどしかみてないから。でもあっかちゃんずるい。わたしもずばっとがいいの」

「ふっふっふ、はやいものがちよ」

 にんまりと笑うアスカに向かってレイはぷぅっと膨れっ面をした。
 出逢ったころから考えると大いに表情が豊かになったものである。
 もっともレイ本人もアスカもそのことは忘れてしまっている。
 周囲の大人、特に碇ハルナなどは以前の孫娘のことを考えると胸が熱くなってしまうのだが、幼児たちには何ヶ月も前のことに心を奪われる余裕がない。
 今のことで手一杯、胸一杯なのだ。
 さて、レイの表情を見てアスカは友人に対して最大の譲歩を示した。

「しっかたないわねぇ。じゃ、レイちゃんがずばっとね」

 その言葉を聞いて、レイはにっこり笑い、鳴らない口笛を吹く。
 そしてアスカと同じように肩をすくめたのだが、大仰なポーズをやり慣れていないためかラジオ体操的な動きにしか見えないのはご愛嬌だ。

「でね、アスカはらいだ〜ぶいすり〜よ!いっしょにあくのそしきをたおすわよ!」

 可哀相だがその二人のヒーローを演じている人は同じなのでそのような設定は迷惑この上なかろう。
 
「しょうちした。で、あくのそしきはどこ?」

「あっち!あたしのおへやにあくのそしきのだいしゅりょうをみたんだから。きっとあそこがひみつきちなのよ!」

 となれば、その秘密基地で寝起きしているアスカその人が悪の組織の大首領ということになるが、そんな野暮な突込みをレイがするわけがない。
 目を輝かせたレイは立ち上がって握りこぶしを固めた。
 「へんしんっ」と声を上げ手を顔の前で交差させる。

「これでよかったっけ?」

「わかんない。アタシもケンスケちゃんところでみただけだもん。そんなのでいいんじゃないの。じゃ、あたしも」

 鼻息荒く、アスカが手をぐいっと伸ばしたとき、トモロヲが慌てて声をかけた。

「待て、アスカ。おまわりさんは何故…」

「とめてくれるな、おっかさん。おいらはいかなきゃなんねぇんだ。へんしんっ!」

 仮面ライダーV3の変身の方はアスカは熟知していた。
 特撮番組のチャンネルだけでなく、時代劇のチャンネルも視聴しているのは台詞の前半部分で明らかだ。
 これほど熱心にケーブルテレビを見てもらえれば、ケーブル会社も嬉しかろう。
 びしっばしっと小気味がいいくらいに手足を動かし最後はジャンプ。
 本人は10m以上も飛んだつもりだが、実際の数値は18cm。
 見事に着地したアスカ、いやV3は格好良く台詞を吐いた。

「いくわよ、ずばっと!じんるいのへいわはあたしたちがまもるんだから!」

「わかった」

 二人のヒーローはどたばたと廊下を駆けていく。
 その足音を聞きながら、トモロヲはこりゃいかんわいと首を振るのだった。
 うまく気持ちを引き出すつもりが、おそらくああいう会話をしたことでさえすぐに忘れてしまうだろう。
 しかし…。
 あの時、日向巡査の名前がレイの口から出てきたときのアスカの様子は少しおかしかったのではないだろうか。
 自分のほうをちらりと見たのは何のためだったのか。
 トモロヲは腕組みをしてううむと考えたが、何もわかるわけがない。
 おやつの準備でもしてやるかと台所のほうに向かうのだった。
 おそらく全力で地球平和のために戦っていることだろうから喉が渇くに違いないと。
 




 悪の組織、といってしまえば実に失礼千万なのだが、惣流家、及び日向マコトの側から見れば、まさしく平和を乱す悪の組織に他ならない。
 その組織の首領が口を開いた。

「のう、ヒカリや。ミサト先生はどうじゃ。おまわりさんのことを話すときはあるかいの?」

「おまわりさんのおはなし?ううん。ミサトおねえさんはごほんはあまりよんでくれないの」

「ヒカリ、ご本じゃなくて、お話でよ」

 副首領が言葉を添えた。
 祖母と母を前に、ぺたんと畳に座ったヒカリには尋問されているという意識はない。
 軽く首をひねりながらヒカリは日ごろのミサトのことを思い出していた。

「おはなし?えっとね、うみとかおさかなのおはなしがおおいかなぁ」

「海じゃと」

 首領、もとい洞木サクラは目を光らせた。
 しかし、副首領・洞木ワカバは違いますよと義理の母に首を振るのだった。

「お義母様、あの海水浴のことではなく、普通の海のことですよ。ミサト先生は大学で海のことを勉強されていたので詳しいんです」

 そういうことかとサクラはふうむと鼻で息をした。
 腕組みをして考え込む姿は正直に言うとヒカリにすればあまり見たくない祖母の姿だった。
 普段は孫を可愛がる優しいおばあちゃんなのだが、時々こんな感じで怖くなってしまう。
 いい子のヒカリは日ごろ怒られることなど皆無といえるので余計に嫌な感じに見えてしまうのだろう。
 しかもまだ幼稚園に入ったばかりのヒカリでは、祖母が何故怖くなってしまうのかが理解できない。
 仲人口をきくのが趣味で、この道数十年。今回の話をまとめると、百件目となる記念碑的な問題だけにいつもよりさらに力が入っているのだからたまらない。
 正座をしたヒカリはいつになったらこの仏間から退散することができるのだろうかと泣きたい気分になっていった。

「ヒカリ?アスカちゃんのことなんだけど」

「はい」

 いつもは優しい母親もまた、今日は厳しい表情をしている。
 お父さん助けて!と援軍を呼びたくても、父親はまだ仕事中で帰宅していない。
 小学生の姉もまだ学校にいるはずで、あとはベビーベッドですやすやおやすみ中の妹だけなのだが、当然彼女では何の助けにもなるわけがない。
 ヒカリは健気にも覚悟を決めた。

「なぁに?」

「お母さんに恋人はいらっしゃるのかしら?」

「こいびと?」

 少し考えるがそもそも“こいびと”という単語がわかるわけがない。

「サクラさんや、それはヒカリにはまだ早かろう」

「そうですね。では言い直しましょう。アスカちゃんに新しいお父様はおできになるのかしら?」

「え、えっ、お父さん?新しい?えっと、わからないよ」

 目を白黒させるヒカリを見て、祖母と母親は顔を見合わせて小さく首を横に振った。
 どちらの家でも幼児からの事情聴取は簡単にはいかないようであった。





 さてさて、話題の渦中となっている当の日向巡査はどうしていたのだろうか。
 朝から溌剌と交番の立ち番、そしてパトロールに勤しんでいたのだが、時折頭に浮かんでくるのは愛しき女性の笑顔である。
 お城の西側の通りに面している交番だが、実はその担当地域は交番の向かい側ではなく背後の屋敷町一帯となっていた。
 そのため交番が町の門、そこに立つおまわりさんは門番のように思えるわけだ。
 空き巣などの被害もほとんど発生しないのは彼らのおかげだと信頼されていた。
 その信頼に応えるため、マコトは自転車でパトロール中だ。
 迷路のようになっている路地を効率的に回るには順路が必要でこれが狂ってしまうとその後の修正がなかなか難しい。
 そして計画した時間通りに交番に戻るのも結構大変なのだ。
 もっとも時間を遵守することが目的ではなく町の治安を守ることが最大の目的なのだから、途中で話好きのお年寄りに捕まってしまっても無碍にすることはできない。
 今日もパトロール最大の難敵といえる長谷川のおばあちゃんに確保されたマコトは横山巡査が待っているだろうなと気になりながらも孫の自慢話に耳を傾けることしかできなかった。
 緊急連絡などが入ることなど考えられないし、アスカたちの登場によって状況変化をいくら期待してもただ今彼女たちは家庭にて尋問を受けているところなので姿を見せることはない。
 そこに正義の味方が現れた。
 城西通から左折してきた車がゆっくりと走ってくると、こちらに向かってじわりじわりと迫ってくる。
 明らかに意図を持って接近してきているのだ。
 ただ、マコトは危険車両と判断して特に身構えることもなく、見事な徐行運転だと頷いて見ていたがドライバーの顔を確認して「あ…」と小さく声を上げた。

「助かりました。こんな都会で運転することなんて最近ないですからもう緊張して身体ががちがちですよ」

 この町を都会と呼ぶ人に生まれてこの方出会ったことがなかったマコトだったが、それをからかうような彼ではない。
 むしろ長谷川のおばあちゃんがはりめぐらせた蜘蛛の巣から救ってくれたことで感謝状を送りたいほどの気持ちだったのである。

「これでも学生時代は東京で車を走らせたこともあったんですけどね。ここ数年、村ではほとんどオートバイか軽トラですし。例の温泉があるJAで車を借りて、おっかなびっくりここまでやってきたわけで」

 緊張の連続から開放されたためか、運転手は汗を拭き拭きよく喋る。

「荷物がなければバスと電車を乗り継いでくるんですが、JAどころか村の連中まで喜んでこれを持ってけ持ってけとこんな調子ですからね」

 彼が示すようにライトバンの後部には農作物がたくさん積まれている。

「ポスターのお礼ですか?」

「正式契約しに来たんですけどね。先生の気が変わらないうちに。最初はお土産程度だったんですけど…」

 なるほどお土産どころか朝市が開けそうなほどの量である。
 
「これって贈賄になんてなりませんよね」

 時田シロウは冗談のつもりかそんなことを問いかけるのだがマコトはさすがに即答できず、その間にもしやと焦った時田は「ただのお土産ですよ」と何度も呟いた。
 マコトは微笑んで、誘導するので付いてきて下さいと時田に言った。
 その途中交番に寄り、横山巡査に駐車できる場所まで案内しますと報告し、JAの名前が書かれている車の前を自転車で走る。
 時折後ろを振り返ると、時田は真剣な表情でハンドルを握っており、逆にその真剣さが危ないなぁと感じるほどだった。
 屋敷町は基本的に駐車禁止の場所ばかりなのだが、唯一の例外が市立歴史資料館、すなわち元惣流家の敷地の一角にある建物の側面が法的に駐車できる場所なのだ。
 何しろ歴史資料館といってもそこ目当てで来る観光客など皆無なので駐車スペースがなく、視察や搬入などのためにその20mほどだけが容認されているのである。
 その場所に車を止めた時田が礼を繰り返すのをまあまあと抑えながらマコトは惣流家裏手の勝手口へ案内した。
 そうすれば離れの碇家に行きやすいからである。
 門からでは惣流家の人に案内を頼まないといけないこともあり、アスカの脱出口でもある勝手口が碇家の主たる出入り口となっているわけだ。
 ただし防犯的な問題もあるので勝手口も施錠されているのが普通でチャイムで呼び出さねばならないことに表門との違いはない。
 勝手口の方にはチャイムが二つあり、それぞれトモロヲの筆で惣流、碇と書かれた札が添えられている。
 もちろんマコトがチャイムを押すことはないのだが、さすがに緊張しきっている時田の表情を見るともう少しだけ手伝ってあげようかという気になってしまう。
 碇の方のチャイムを押すと、インターホンではないためしばらく反応がなく3分ほどしてから扉の向こうで声がした。

「誰だ?」

 無愛想この上ない声は考えるまでもなく訪問先である碇ゲンドウに違いない。
 やっとのことでポスター製作を了承してもらった時田はここぞとばかりに声を張り上げた。

「じ、じぇ、JA大山奥の時田でございます。先日はありがとうございました!今日は正式に契約の…」

「描く。いや、描いている。問題ない。帰れ」

「は?あ、も、もう、描いていただいてるんですか!ありがとうございます!あ、でも、契約が…」

「うるさい。帰れ」

「あの…お願いします」

 喜びと悲しみがごっちゃになった表情で時田が門の向こうに語りかける。
 勝手口といっても普通の家屋のそれではない。
 漆喰塗りの白塀がぐるりと囲んだその中は首を伸ばそうが見えはしない。
 中を覗こうとするならば梯子を用意して塀に立てかけ瓦葺の屋根に上らないといけないが、梯子に足をかけた段階で日向巡査に御用だと肩を叩かれるだろう。
 その日向巡査が見かねて口を挟んだ。

「あのぅ、日向です。交番の。いずれにしても村から野菜などが届いてまして、これはさすがに持って帰る訳にはいかないと思うのですが…。惣流さんにお預けしておきましょうか?」

 マコトの問いかけにはすぐに言葉は返ってこなかった。
 どうすればいいのか考えているのか、それとも警察相手にさすがにこの喋り方ではまずいと言葉を選んでいるのか。
 できれば惣流さんに預けるというのがいいなぁとマコトは思っていた。
 この時間でキョウコに会えるとは思っていないが、アスカにいいところを見せて母親に吹聴してもらえれば大いにありがたい。
 しかしその考えは甘いというもの。大家に預けておいてくれなど借家人が言えるわけもない。

「うむ。少し待ってくれ」

 閂の抜ける音がして扉が開く。
 もっとも扉も閂も表門に比べると1/4以下でアスカのような幼児でも閂の抜き差しができるサイズだから、碇ゲンドウのような大男が出入りするには身を屈めねばならない。
 したがって扉が開くとそこにゲンドウが立ちふさがっているという構図になる。

「こ、これは先生!突然お邪魔して申し訳ございません。お仕事中のところ…」

「サインすればいいのか。どこだ」

「あ、あの…」

 どぎまぎする時田にマコトは耳打ちした。

「契約書でいいんじゃないですか?まさか野菜の宅配と勘違いされていることはないでしょう」

「で、ですよね。はい!しばしお待ちを」

 背広の内ポケットから封筒を出す時田の背中にマコトは「では本官は失礼いたします」と言い残し自転車にまたがった。
 時田の感謝の言葉とゲンドウのぶっきらぼうな「すまんな」という言葉を受け取って、彼は交番へと向かった。
 今回は吹聴大作戦は不成功だったかと苦笑しながら。

 もしもう少し現場に残っていたとしても、その後すぐに姿を現したアスカの記憶には彼の目論見などまったく残らなかっただろう。
 何故ならば、そこには正義の味方、の仲間である、時田がいたからだ。

「おおおおおおおおおおっ!」

 惣流家の裏手で幼女の叫びが響き渡った。
 ヒーローごっこに新たな展開を望み、つまりは誰かに新キャラを担当させようと、シンジが帰宅してないかと離れに向かってアスカとレイが突進しているところだったのである。
 まず目に入ったのは勝手口に立つゲンドウの大きな身体で、そしてその背中越しにJAの諜報員が見えたのだ。
 時田シロウはJapan Agricultural Cooperativesの職員であって、特撮番組『ジェットアローン』に登場する世界平和を守る特務機関ルリコーンの秘密諜報員では断じてない。
 だが、アスカたちにはそういうことになってしまっているのだから、時田としては彼女たちの世界に調子を合わせるほかない。
 彼女たちには大いなる恩があるからだ。
 2年以上も口説いていたがいい返事がまったく返ってこなかったゲンドウなのに、アスカたちが(わけのわからない)口添えをするといともあっさり承諾してくれたのである。
 たまたま着想が沸いた、と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもアスカがいなければ絶対にこういう展開にはならなかったということは時田にもわかった。
 だからこそ、彼はあの後しっかりと勉強したのである。
 幸いにも今はインターネットという強い仲間がいた。
 文字通り山奥の大山奥村でも『ジェットアローン』を学ぶことは可能だったのである。
 そして、付け焼刃ではあるものの、彼はまさかの時のために知識武装してきたのだ。
 その、まさかの時がやってきた。

「レイちゃん!ルリコーンがきたわよ!」

「うん、ろくちゃんにひみつの…おてがみをわたしてた」

 文書という単語が出てこずに、幼稚園でよく聞くお手紙にすりかえるとはレイもなかなかに知恵者の素養があるようだ。

「おてがみ!ろくちゃんにひみつしれい!おおおっ」

 どたばたと騒々しい物音を立ててアスカが突進してきて、そのすぐ後ろにレイがくっついてくる。
 最初の雄叫びの段階であの女の子達だと了解していた時田は学習の成果を披露するときが来たとばかりににんまりと笑う。

「こんにちは、お嬢ちゃんたち」

「むっ、むむむっ」

 まずはこいつは何者だ?という演技をするところはアスカも芸が細かい。
 そしてもしかすると仲間ではないかというように手をぽんと叩く。

「ナポレオンのきりふだは?」

 来た来た来たっ!
 時田は大声で叫びたいところだったが、ここは演技派の相手に合わせようと声を潜めた。

「ハートのエース」

「おおおおおおおおおっ!レイちゃん、このおじさんはなかまよ!」

「なかま、なかま!」

 時田はそれぞれの手をアスカとレイに握られぶんぶんと上下に振られた。
 まさしく歓待そのものである。
 この光景をすぐそばで見ていたゲンドウはつまらんという表情だったが、実際はこういう状況は何かに使えるのではないかと心のメモにせっせと記入していたのだ。

「ねぇねぇ、きょうはなんのひみつしれ〜なの?」

「あっかちゃん、わたしたちにおしえたらひみつにならないわよ」

「あ、そっか。ざんねんむねん」

「ああ、今日は二人にも秘密指令を手伝ってもらおうかな。もちろん他の人に言っちゃ駄目だよ」

 時田が小声で言うと、アスカとレイはぱっと顔を輝かせた。
 子供にとって、秘密は最上級のおやつであり、他人に言っては駄目と付け加えられでもすればお変わり自由のジュースとアイスクリームがついてくるようなものだ。

「わかった!」

「だいじょう〜ぶ。だれにもいわない」

「よし、それでは二人は今日だけルリコーンの特別隊員だよ」

「おおおおおおおおっ!ルリコーンのたいいん!」

「とくべつなの。うれしい」

 二人は手を取り合ってぐるぐるとその場で回る。

「ずいぶんと子供のあしらいが巧くなったようだな」

「ああ、いえ、童心に返っただけですよ。そういえば昔こういう遊びしてたなと思いまして」

「なるほどな」

「ああ、ではお土産を持ってきますので、できましたらその間にその契約書にサインをば」

「了解した」

 短く言うとゲンドウは離れに歩いていく。
 時田は二人の特別隊員を従えて駐車した車へと向かった。

「じ、じぇえいえいいっ!」

 車を見たとたんにアスカは叫び、レイは言葉にもならない感動を表に現した。
 アスカの指差す先を見れば、“JAゆうき”と書かれている。

「ゆうきをだして、があいことば!」

 うんうんと頷くレイ。
 さすがにそこまではインターネットには書かれていなかったので時田が話を聞くと、ルリコーン日本支部の女性隊員が主役を力づけるのに「勇気を出して!」という台詞をよく使うとか。
 車の“ゆうき”は有機栽培からネーミングされたこの地区のJAの愛称だったのだが、ここまで感動されると本当は…など言えるわけがない。
 ただ時田には上手な嘘をつく才能はないと自覚しているので、ここは大きく一度頷くにとどめた。
 それがさらに演出効果を高め、二人は完全に特別隊員になりきってしまったのである。

「たいちょう!なにをしたらいいの?」

「レイ、がんばる」

 おいおいいつから隊長になったんだ、俺は。
 瞬間戸惑ったものの時田はすぐに(自分としては最大級の)威厳たっぷりにワゴン車の後部扉を開け、山のように積まれた野菜を指差した。

「これを運ぶのだ。……落とさないように少しずつだよ」

 一言目は格好よく言ったつもりだが、アスカが両手で限界まで抱えようとするのを見て慌てて普段の口調で付け加える。
 
「落とすと…」

「かいじゅうがでてきちゃう?それともばくはつする?」

 期待をこめて問いかけたアスカだったが、そこはさすがに正義の味方ではないほうのJAの顔が出た。

「爆発はしないけど食べられなくなっちゃったら、一生懸命作った人が可哀相だよ。おいしく食べてもらえるようにって、毎日畑でがんばっているんだからね」

「わかった。レイ、ぜったいにおとさない」

「レイちゃん、ピーマンもって。アタシがもったらおとしそう」

「あっかちゃん、すききらいはだめ」

 へっへっへと笑うアスカは大きな大根を抱きこんだ。
 レイは自分の顔ほどもあるかぼちゃを両手で抱えようとしたが重さを思い知りその半分くらいの大きさのものに変えた。
 段ボール箱を抱えた時田はじゃあ行くよと歩き出し、その後をアスカとレイが続く。

「すっごいね、さすがてだれのちょ〜ほ〜いんよ。あんなにいっぱいもってあるいてるんだもん」

「おばあちゃんのかいものかごがあったらもっといっぱいもてるの」

「そっか、スーパーのかごがあったらいいのにね」

 秘密指令は意外に簡単で、3人はすぐに目的の碇家玄関に到着した。
 そこにはゲンドウが待っていて3人が持っているものを見て眉を顰めた。
 サングラス越しでもそれがわかるのだからゲンドウという男は面白い。
 因みにサングラスを着用するのは他人と相対するときだけである。
 シンジやリツコ相手ではもちろん素顔で、ここ最近は惣流家の人々にもサングラスなしで会話ができるようになっていた。
 ただし、今は時田が相手なので絶対にサングラスを外すことはない。

「それは何だ」

「おやさいよ」

「だいこん、かぼちゃ、きゅ〜りにおなす。ろくちゃんしらないの?」

 時田が答えるより前に、幼児たちが問いかけを額面通りに素直に答えた。
 ゲンドウは違うわいと心の中で思ったものの、これも使えるとはたまた心の中のメモにさらさらっと書く。
 
「JA。契約書には現物支給とは何も書かれておらんぞ」

「いやいやいや、それとこれとは違うんです、先生」

「ちがうよ〜。せんせいはようちえんだよ。ろくちゃんはろくちゃん」

「でもおししょうさまもせんせいよ。おいしゃさまのせんせい」

「あ、そっか。じゃ、ろくちゃんはえほんのせんせい。ろくちゃんせんせい!」

 碇ゲンドウ、今度はメモらず照れ入るばかり。

「これはみんなが、あ、生産者農家の皆さんが喜んでですね。先生に会いに行くならうちの畑で取れたものを持って行けとあれやこれやと。原付にはつめきれず、結局軽トラで運んだものでして…」

「すごぉ〜い!にんきもの!」

「すききらいしちゃだめなの」

「いや、うむ、困った」

 理由を聞いてはつきかえす訳にはいかない。
 大山奥村の好意のこもった品々を受け取らねば、それこそ時田は路頭に迷ってしまうだろう。

「うちは3人だからな。とてもじゃないが食べ切れんぞ」

「いえ、先生。まだ車にいっぱいあるんです」

「なにっ」

 ここぞとばかりにアスカは両手を大きく広げた。

「あのね!こぉ〜んなにいっぱいあるの!」

 アスカのこんなにいっぱいという表現は予想を大きく裏切った。
 ゲンドウが両手を広げたくらいが妥当だったのである。
 JAゆうきの車両の前でゲンドウは唖然として立ち尽くしてしまった。

「お、多すぎました…ですかねぇ…」

 村の衆がこんなに喜んでいるのだという証になると意気揚々と持ち込んできたのだが、ゲンドウが真剣に当惑している様を見ているうちに常識的な感覚が時田によみがえってきて、確かにこの量は少人数の家族では消費しきれないとわかった。
 
「あの…、何でしたら先だっての、温泉でご一緒されていた方々にお裾分けいただいても…」

「うむ、そうするしかないな。配ってきてくれ…というわけにもいかんか。とにかく中に運ぼう」

 さすがに配り歩くことは心情的には大丈夫だが今日中に借りた車を返さないといけないことを考えると長居はできないので、時田はゲンドウの出した方針にほっとした。
 30分後、サインをもらった契約書を携え、すっかり軽くなった車を運転して時田は笹百合市を去った。
 残ったのは碇家の玄関に積まれた野菜の山である。

「困ったな。来てもらうわけにもいかんし…」

 正直に言うとゲンドウはすぐに仕事にかかりたかったのだ。
 野菜の山と自由奔放なアスカの様子を見て、ポスターにさらなる発想が加わったのである。
 こういうものは思いついたときに描かないと逃げていってしまうものだ。

「ねえねえ、ろくちゃん、ひみつしれいのつづきしていい?」

「ん?秘密指令?」

「うん、これみんなのところにもっていくんでしょ。アスカたちにおまかせ!」

 胸を張ったつもりだが、彼女のやる気よりも物量的な面の心配のほうが先にたってしまう。
 先ほどのようなやり方でアスカたちが動いてもほとんど減らないだろう。
 その時、ゲンドウから見れば神の助けがやってきた。
 母屋のほうからトモロヲがやってきたのだ。
 さすがに慣れてきたものか、アスカたちに混ぜっ返されないように離れた場所でトモロヲに説明し、ゲンドウは仕事にかかれるようになった。
 太鼓判を押したトモロヲは野菜の山を見て苦笑し、あとは任せろとゲンドウを仕事場に追いやったのである。
 そこから先はトモロヲの真骨頂だった。
 野菜を種類別に分け、まず碇家用の野菜を確保する。
 プレゼントされたものが他のものと公平に分けるわけにはいかないからだ。
 この選別作業はアスカたちも手伝い、トモロヲのメモには分ける先のリストが記された。
 碇家(ハルナの方)、赤木家、惣流家、交番、神社、お寺、と最後は名前でなく名称で書かれたが、6つでも量が多すぎるような気がする。
 そもそもナオコ一人の赤木家ではこの量は多すぎるし、どうせ持ってくるなら調理済みのものにしろと言いかねない。
 そこでトモロヲはさらに3軒追加することにした。
 シンジの友人の家2軒と洞木家だった。
 それならば適量で配分ができようというものだ。
 トモロヲはゲンドウの了承を得ようとしたが、仕事に夢中の彼はすべて任せるとしか言わない。
 追加の3軒のことも伝えたのだが聞いていたのかどうかも不明だ。
 だからといって、このまま放っておくトモロヲではなかった。
 彼はさっさと作業に入ったのだ。
 惣流家の分はこのまま置いておき最後に持ち帰ればいい。
 碇ハルナの分はレイが帰宅するときにアスカと二人で協力して運ぶ。
 交番は…キョウコに任せようとトモロヲは決めた。
 シンジの友人2軒は通りの向こう側で商店街だからアスカたちに任せるわけにも行かない。
 ここは交番のついでにキョウコに自転車で運ばせればよいではないか。
 となれば、あと3軒。
 神社とお寺に洞木家。
 ここはトモロヲとアスカ、レイで分担すれば大丈夫だ。
 洞木家ならば路地を縫って行けば交通事故の心配はまったくない。
 3人は野菜を入れた袋を手にまずは隣合わせになっている神社とお寺に向かった。
 えっちらおっちらと石段を上がり、まずは龍巌寺に赴いたが若和尚は不在で住職に野菜を預けた。
 客人と将棋を打っているとかでお礼の言葉と合掌を頂戴してすぐに住居のほうの玄関から出る。
 そこからアスカたちが主張する近道を通り翡翠神社へ。
 ただし近道というものの老人と幼児には距離的には近くとも時間はかかる獣道で、これならば石段を降りて上るほうがましだったとトモロヲは後悔した。
 しかし神社ではマヤがいたのでお礼とお茶をご馳走になり一服することができたのが幸いだった。
 宮司である父親はすぐに姿を消してしまうので留守番は大変だという話を聞いて、3人は神社を後にした。
 石段を降りてすぐの小川にかかる小さな橋の上でトモロヲは少し疲れたわいと息を整える。
 残るは洞木家だけとなったが、そこでアスカが奇妙なことを言い出した。
 それまでは率先してずんずん歩いていていたのに、ここで一休みしているとどうやら洞木家には行きたくないような様子を見せたのだ。

「なんじゃ。ヒカリちゃんと喧嘩でもしたのか?」

「ううん」

「それじゃどうして行きたくないんじゃ」

「いえないの」

「何故じゃ。わけがあるなら言えばよい」

「いえないもん、ぜったい」

 アスカは口をへの字にして、低い欄干越しに川面を見つめた。
 急におとなしくなってしまった彼女にレイもびっくりしている。

「きのうはいったじゃない。かくれんぼしてあそんだよ」

「うん。でも…」

 昨日は温泉のお土産を手にアスカとレイはヒカリのところへ遊びに行ったのだ。
 昨日はよくて今日は駄目ということは、間違いなく昨日洞木家で何かがあったということか。
 友人と喧嘩はしていないということだから…とトモロヲは考えた。
 そうすれば洞木家の誰かに何か言われたかされたのではないだろうか。
 よく考えてみると、あの家にはそういうことをしかねないものは一人いることをトモロヲは知っている。

「アスカ、ヒカリちゃんのおばあちゃんに何か言われたんじゃないか?」

 びくんとアスカは身体を震わせた。
 一生懸命首を横に振るが、どう見ても正解だ。

「あの馬鹿女。この歳になってもまだよからぬことをしでかすか」

 トモロヲの表情が険しくなった。

「アスカ。どうせやつのことじゃから、祟りとか呪いとかそういうことを吹き込んだのじゃろう」

「ち、ちがうもん!おしゃべりしたらたたりがあるなんていわれてないもん」

「アスカちゃん、たたりがあるっていわれたの?」

「どうしてそれを!」

 本気でびっくりしているアスカはもしや漫才師の素質があるのだろうか。
 レイに今自分で言ったと教えられ、アスカはがっくりときてしまった。

「でも、いえないもん。ぜったいにいえないもん」

 唇を尖らせたアスカは欄干に抱きつくようにして発言を全身で拒否した。
 仕方がないのぅとトモロヲはここで待っていろとアスカにきつく言いつけ、自分はレイと一緒に洞木家に向かった。
 川沿いの道を近道にすればものの数分で到着する。
 自分ひとりで行けば、もし洞木サクラが応対に出た場合口喧嘩へと突入してしまうことが火を見るより明らかだったからだ。
 そのためのクッション材としてレイを連れて行ったのである。
 きちんと一人で待っていたアスカだったが、その時通りかかったのは御勤め帰りのシゲルだった。
 彼はちゃんと僧装束に身を固め殊勝な面構えで歩いてきたが、アスカを見かけて糞坊主の顔に戻った。
 
「おう、あっかちゃん。ん?どうした?ずいぶんと景気の悪い顔をしてるな」

「アタシ、ケーキはすきだよ。いまはたべたくないけど」

「そのケーキじゃないぜ。まあ、あれだ、何かあったか?誰かにいじめられたか?」

 ううんと首を横に振るアスカ。
 それはそうだろうなとシゲルは思った。
 この幼児なら苛められても立ち向かっていくだろうし、そもそもアスカを苛めようという気概のある子供などこの近所にはいない。
 大人たちにしても彼女たち母娘は白人の容姿はしているもののすっかりこのお屋敷町に馴染んでいるのだから、愛されこそすれ疎まれるとは考えられない。
 
「あのね、さっきくそぼ〜ずのとこにおやさいもっていったんだよ」

「野菜?どうしてお前さんが野菜の配達なんかしてるんだ?」

「おすそわけなの。ねえ、おすそわけってなぁに?」

 くだらない話をしているという意識はあるが、こういう場合は黙り込んでいるよりも何かを喋っているほうがいいに決まっている。
 シゲルはアスカにお裾分けの説明をして、さらにどこからの野菜かを聞き出した。

「なるほどな。ずいぶんと喜ばれたもんだなぁ、絵本の先生は」

 シゲルは欄干に腰を下ろした。
 
「うらやましいぜ。絵の力で生活していってるんだからな。俺なんて音楽はただの逃避だったしな」

「と〜ひ?」

 首をかしげたアスカだったが、シゲルはそのことを説明しようとはしなかった。
 彼は空を見上げ、ゆっくりと流れていく雲を目で追った。
 いつのころだっただろうか。
 父の跡を継ぎ、僧になろうと考えたのは。
 中学生の時分はロックンローラーになろうと真剣に考えていたのだ。
 父親が死に進学をあきらめた優等生のマコトが警察官になると言い出したとき、咄嗟に口から出たのが「それじゃ俺は坊さんになるわ」だった。
 きっかけはそこだが、おそらくその前から漠然と進路を考えていたはずだ。
 音楽で食っていくと考えるにはあまりに才能がなさ過ぎた。
 努力してどうこうできるレベルではないことは自分でも承知しており、これは趣味として付き合っていくしかないなと考えたのは高校1年の文化祭だったか。
 演奏ミスをしたのは自分ではないがリーダーだったのにそれをカバーすることもできず、ぐだぐだのまま出番を終えてしまった。
 そのままバンドは自然解散し、いつしか仲間とも疎遠になったのだが、どうしてあそこでやさぐれる道を選ばなかったのだろう。
 
「何してんの?橋の真ん中で神様の声でも聞いたわけ?」

「馬鹿言え。それを言うなら仏様だ。南無阿弥陀仏…」

 声の主のほうを向こうともせず、シゲルは手を合わせ念仏を唱えた。

「あっかちゃん、さっきはありがと」

「マヤおね〜ちゃん、みこさんのふくぬいできたの?」

「だってあの格好で買い物には行けないでしょう?」

「にあってるからずっとあのままでいいのに」

「そうね。ずっと、か…。そうはなりたくないものね」

 その言葉はシゲルに向けたものではなく自分に対して投げかけたものだった。
 だが交際相手のほうはそう取らなかった。

「巫女役なんざ誰でもできるさ。そうだ、あっかちゃん、大きくなったら巫女さんのアルバイトでもするか?レイちゃんも似合いそうだぜ」

「あるばいとってなぁに?」

「お仕事をしてお金をもらうこと、でいいのかな?」

「違うだろ。それじゃ正社員と区別がつかなくなるぜ。学生をしながら仕事をするって感じか?まあ最近は大人になってもアルバイトってぇのも都会じゃ多いらしいが」

「アタシ、わかんない。でも、みこさんしたいな。れいちゃんと」

 アスカは自分とレイが翡翠神社で巫女装束になっているところを想像していた。
 もっともそれは現在の自分たちが巫女の格好をしている姿である。
 中学になったころの自分などイメージできるわけがない。

「それじゃあっかちゃんたちが大きくなったらお祭りの時には声をかけるね」

「今は駄目?」

「あら、いいの?巫女さんになっちゃったらお祭りを楽しめないわよ。金魚すくいをしたりわたあめ食べたりなんかできないんだから」

「げっ、そうなの?だったらやだ」

 顔をしかめたアスカを見て、ご町内のロミオとジュリエットは朗らかに笑った。

「それじゃ私は商店街に行ってくるね。いっぱいお野菜もらったから焼肉しようかなって」

「おうおう、神仏習合の名残はもう翡翠神社にはないのかねぇ。肉って牛か?豚か?」

「何言ってるの。あなたのところも肉食妻帯は禁じられてないでしょう。高くて買えないだけじゃない?我が家は牛よ、牛」

「この生臭坊主…じゃねぇ、宮司か。うちは鳥かなぁ。鳥だろうなぁ。せめてもも肉であってくれい」

 牛肉を買いに行く娘は西へ歩み、鶏肉を憂う男は東の石段を登っていく。
 残されたアスカはうちは何になるんだろうかと考えながら水面を見つめていた。
 小さな魚が泳ぐのが見えたが、あんなに小さなお魚さんを食べるのはかわいそうだなぁと思うのだった。

 祟りの件をアスカはしばらく忘れていた。
 洞木家から戻ってきたトモロヲもレイも何も言わなかったからだ。
 思い出したのはレイと別れ、曽祖父と二人で帰宅してしばらく経ったときである。
 




「どれもこれもみずみずしいのう。ほれ、かじってみんか」

 さっと洗った野菜をアスカに渡し、自分もその野菜にかぶりつく。
 しゃきっといい音がして、むしゃむしゃと噛み砕くと美味しさが際立つ。
 だが、傍らのアスカは目をまん丸にしてトモロヲを見上げるだけだ。
 二人は惣流家と日向巡査宅の二軒分の野菜を台所に運び、冷蔵庫に入れずに流しの横に積み分別はキョウコの帰宅を待とうということにしたところだった。

「どうした、アスカ。お前も食わんか」

「お、おじいちゃん、すきなの?きゅうり」

「ああ、大好きじゃぞ。このまま食べてもいいし、味噌を…」

 トモロヲは驚いた。
 アスカの顔が見る見る歪むと、大粒の涙がぼろぼろとこぼれてくるではないか。

「どうしたんじゃ。アスカはきゅうりは嫌いではなかろう」

「アタシ…いってないのに、なんにもいってないのに、たたりがぁ!」

「何と?祟りじゃと?何が祟りじゃ」

「おじいちゃんがカッパになっちゃったぁ!」

 その一言を最後にあとは泣くだけで言葉にならない。
 台所でへたりこみ、わんわんと泣くアスカをどうやってあやせばいいのか。
 トモロヲはなすすべもなく、ただ大丈夫じゃよと呟きながらアスカの背中を優しく撫でることしかできなかった。

 


 
 あっかちゃん、ずんずん 第二十巻 「あっかちゃん、祟りを恐れるの巻」 −おしまい−



(あとがき)

 第二十巻です。
 ずいぶんと長い間お待たせいたしました。
ようやく続きを書くことができましたが、文体とか台詞回しが微妙に変わっている気がします。
本当に申し訳ございません。この次は何年後なんてことのないようにいたします。

 2012.07.15 ジュン




(2012/7/22掲載)


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