葛城ミサトは、実に多くの問題点を抱えた人間である。

ズボラで無神経、だらしない上に慎みにも欠け、無類の大酒呑みでしかも寝穢い。

その挙句、掃除、洗濯、炊事に家計管理と、およそ家政に関わる一切の素養が破滅的なまでに欠落しているのだ。

弁護の余地すらないような体たらくでありながら、これで扶養者三名を預かる一家の大黒柱であるのだから、養われる側とすれば世の理不尽を嘆くしかない。

全く以て、人生とは侭ならぬものである。

その日、ミサトが布団から抜け出してきたのは、正午も一時間以上を回ってからのことだった。

拳が入る程の大口を開けて欠伸を漏らしながら、緩慢な動作で自室から姿を現した彼女は、開口一番、気怠げな口調で呻くように呟いた。

 

「う〜、気持ちワル……あと1時間は寝てたかったんだけどな〜……」

  

日も高くなった刻限に言うべき科白ではないと思うが、まあ帰宅したのが明け方もとうに過ぎた頃だったのだから仕方あるまい。

しかし、その不自然に蒼い顔色と吐き出す息に混ざる臭いは、彼女がまた床に就く前に多量の酒を摂取したであろうことの証左である。

寝不足についてはともかく、現在の気分の悪さに同情の余地はない。

ミサトは引き戸を開け放したまま、まろぶような足取りで冷蔵庫へ向かう。

無論、彼女にとっての毎朝の儀式とも呼ぶべき、迎え酒のためである。

いつものように激しく喉を鳴らして一息に缶ビールを飲み干すと、

 

「ぷっはぁ〜っ! やっぱ朝はこれよね〜!」

 

いつものように酒臭い息を撒き散らしながら歓声とも咆吼ともつかぬ声をミサトは上げた。

嘆かわしいこと限りない、著しく品性に欠けた振る舞いである。

と言うか、そもそも今は朝ではない。

空になったアルミ缶を専用のゴミ箱に捨てると(ちなみにゴミの分別だけには妙に細かい)、ふと顔を上げた姿勢でミサトは不意に動きを止めた。

視線を追って見れば、そこには壁に掛けられたカレンダーが表情も感情もなく月日を示している。

――西暦二〇一六年、九月。

取り立てて何の異常も見られないそれをしばらく凝視した後、ミサトは柔らかく頬を弛め、囁くように口を開いた。

 

「そっかあ。考えてみればもうそろそろなのね。

 ――ね、ペンペン」

 

「クェッ?」

 

突然話を振られたものの、彼女が何を言っているのか理解することができず、私は、一声鳴いて首を傾げたのだった。

 

 


 

Dear My Family

(前編)


 

 

「あ〜っ! もうヤダ! もうウンザリだわ!」

 

癇癪を破裂させたアスカの声が、リビングの空気を震わせた。

やれやれ、またか――私はちらりと呆れた視線を向ける。

視線の先では、私の同居人である二人のオスとメスが、テーブルの上にノートを広げていた。

オスの名は、碇シンジ。

この葛城家の家政を一手に預かる、私の生活環境にとって不可欠な人材である。

また、この葛城家の中では最も接点の多い人間であるため、個人的に私も親近感を寄せている。

付き合いだけならばミサトの方が長いのだが、シンジはミサトと違って細やかな気配りができるところが、一緒にいて心地好いと思わせるのだ。

一方、いま大声を上げて床に寝転がったメスの名が、なんとかアスカかんとか。

シンジほど家事に携わることはないものの、ミサトよりは遙かに秀でた家事能力を有するメスである。

しかし、時折り私の食事を用意することを失念したりするため、私の中での評価はシンジに対するそれより数段低い。

因みに私が彼女の姓名を曖昧に表記したのは、それが剰りにも冗長で口にするのが面倒だったために他ならず、正確に記憶することができなかったからなどという理由では断じてない。

卓越した知性を以てその長所とする温泉ペンギンたるこの私に、覚えられないことなどないのである。

その証拠に、手間を惜しまなければあのメスの本名を述べることなど容易い。

そう、彼女の正確な名は――

――――…………

……まあ、やはりあのメスの名を伝えるために無駄な時間を費やすこともあるまい。

そもそも名前など個体を識別するための記号に過ぎないのであって、多かったり長かったりすれば良いというものでもない。

うむ、今度アスカには私から直々に、本名を縮めるよう命令しておこう。

 

「もー、飽きた、疲れた、お腹空いたー!

 シンジ、冷凍庫からアイス持ってきなさい」

 

じたばたと手足を振り回しながら、我慢を知らぬ幼児のようにアスカが喚く。

どうやら彼女の中では、シンジは自分に隷属して然るべき存在という位置付けになっているらしい。

このようにアスカが感情のままにシンジに何事かを言い付けるという光景は、この葛城家の中では完全に日常のものと化していた。

如何なる理由を以て、アスカの中でそのような階層意識が確立されたのかは知らないが、シンジにとっては不幸としか言いようがないであろう。

テーブルの角を挟んでアスカの傍らに腰掛けたシンジは、頑是ない様子のアスカに途方に暮れた視線を向けた。

 

「サボっちゃダメだよ、アスカ。

 このままじゃ夏休みに補習やらなくちゃならなくなるって、先生も言ってただろ?

 それに、さっき夕ご飯食べたばっかりだし」

 

良くは解らないが、どうやらシンジたちは勉強の真っ最中であるらしい。

人間社会の倣いに従い、彼らは殆ど毎日をガッコウとやらいう教育機関で過ごしている模様なのだが、それだけでは足りないのか、しばしばこうして自宅でも教材を広げて頭を悩ませている姿を目撃する。

どうやら、秀でた叡知を生まれ持った非凡の存在である私と違って、凡庸なる彼らは毎日の中で反復的に学習を繰り返さなければ、学んだことを脳に定着させることができないようだ。

哀れむべきことではあるが、蔑むべきことではない。

むしろ、及ばぬ自らの能力を認め、それを補うべく努力と研鑽を積み重ねているのであれば、尊敬に値する行いと言えよう。

そうと考えれば、シンジの発言は至極尤もなものである。

しかし、アスカにはシンジの如き勤勉さの持ち合わせはないらしい。

酷く不機嫌そうに顔を歪めると、シンジを睨み付けながら言い放つ。

 

「うるっさいわね〜。

 だいたい、古文とか漢文なんて現代じゃ使わないんだから、勉強する意味ないじゃない。

 こんなことばっかやってるから日本の基礎教育はダメなのよ」

 

自分の愚昧を社会の責任に転嫁する、典型的な怠け者の論調である。

そもそもアスカ本人のためを思って警句を施しているシンジに対して、何たる言い種であろうか。

忘恩の謗りを受けて然るべき暴言であるが、シンジは憤懣を漏らしもせず、困ったように眉を潜めただけだった。

 

「そりゃあアスカには意味ないかもしれないけど、授業なんだからしかたないよ。

 ミサトさんも言ってただろ? 少しはこっちの学校にも慣れてくれって」

 

ふむ……話の流れは今一つ呑み込めないが、要するに格言で言うところの、「剛の者にはとにかく従え」ということであろう。

如何に普段の生活態度がどれだけ杜撰でいい加減であろうと、ミサトの個人戦闘力は私の知る限り最強だ。

勇武を以てその誇りとする温泉ペンギンたる私でさえ、あと一歩のところで及ばぬ無双の実力者、それが葛城ミサトである。

ましてや私の半分ほどの戦闘力しかないアスカやシンジなど、ミサトの前では虫ケラも同然。

正攻法で説き伏せることが適わぬと判断するや強者の名に頼るシンジの判断は、実に的確で優秀なものと言えよう。

しかし、賢明で謙虚なシンジとは対照的に、アスカはあくまで不遜で不敵な態度を崩さなかった。

 

「――ったく、あいかわらず男のクセにゴチャゴチャうるさいんだから。

 オウムみたいにミサトさんミサトさんって、あんたもいい加減ミサト離れしたらあ?」

 

見るからに不機嫌そうな表情でシンジを睨み付けながら、刺々しく吐き捨てる。

その険悪な雰囲気から察するに、まず間違いなく痛いところを突かれて虚勢を張っているのであろう。

私ですら恐れるミサトの名を、このメスが恐れない道理がないのである。

しかし、シンジに私程の洞察力など望むべくもない。

切り札とも言うべきミサトの名を出してなお一蹴されたことに鼻白んだのか、シンジが唇を尖らせる。

 

「なんだよそれ。どういう意味だよ?」

 

「そのまんま、聞いたとおりの意味でしょ。

 シンちゃんはミサトママの言うことならなんでも聞くヨイコでちゅもんね〜」

 

ふん、と鼻を鳴らし、アスカがシンジから顔を背ける。

全く以て我儘なメスである。

推察するに、シンジの中で自分がミサトの下に位置づけられているのが気に入らないのであろう。

しかし、そもそもミサトはアスカよりも強い上に、この葛城家の家長である――たとえ生活態度が一家の規範として相応しからぬものだとしても。

なれば、葛城家の構成員であり扶養者でもあるシンジが、自分と同等の立場にあるアスカよりも保護者たるミサトに重きを置くのは至極当然なことではないか。

だからこそ、彼はミサト―私―自分とアスカ、というピラミッド型のヒエラルキーを想定した発言を心がけているのに違いない。

その程度の道理も理解できず我が身の優位ばかりを主張するアスカに心底呆れ果てたのか、シンジは疲労の滲む溜息を吐き出した。

 

「なんでそういう話になるんだよ……。

 ミサトさんがどうこうとか、今は関係ないだろ?」

 

……あれ、そういう話ではなかったのか、シンジ?

おかしい……私の賢察が外れることなど有り得ないのだが。

ああそうか、シンジも年頃のオスだからして、メスであるアスカに弱みを見せたくないのだな。

うむ、シンジもようやく男子としての気概を身に着け始めたと言うことか。

善哉善哉、シンジも成長したものだ。

一人頷く私に気付きもせず、シンジが言葉を続ける。

 

「別に、アスカがこっちでの進学あきらめるって言うんだったら、僕はそれでもいいけどね。

 でも、確か委員長たちと一緒の公立校狙ってるんじゃなかったっけ?」

 

「う……」

 

アスカが珍しく言葉に詰まった様子を見せた。

イインチョウとは、かつて私が一時期世話になったメスのことであろう。

名は、確か洞木ヒカリだったか。

アスカとは妙に馬が合うらしく自他共に親友と認めている様子だが、アスカと似通った印象はまるで受けず、シンジを更に穏やかに細やかにしたような人間である。

どうやら私の高貴さと男らしさに種族を越えた愛情を抱いてしまったようで、彼女の家に預けられていたときは毎夜その手に私を抱き、共にベッドに入ったものだ。

私がこの葛城家に戻ることになったときは笑顔で手を振っていたが、恐らくあの仮面の下には惜別の涙が隠されていたに違いない。

無論、高貴風雅を身上とする温泉ペンギンたるこの私が、異種族のメスに心奪われるはずもない。

しかし、私を慕うヒカリの気持ちを考えると流石に憐憫を禁じ得ないのも確かだった。

容姿と性状、共に人を引きつけて已まぬ恵みを賜った身の宿命とは言え、我ながら罪作りなペンギンである。

フッ。

それにしても、コウリツコウとは聞かぬ響きの言葉だ。

狙うと言うからには獲物を意味するのであろうが、私の知らぬ種類の獣か何かであろうか。

ヒカリのイメージとは程遠いものの、武器を手に持ち野を駆け獣を追うアスカの姿は、実に似つかわしいものと言えるだろう。

要するに、今はそのコウリツコウを仕留めるための方策について学んでいると言うことか。

確かに、嘴も爪も翼も持たぬ人間の身であっては、強力な武器を用意するか策略を練らねば狩猟など覚束ないであろう。

テレビを見て収集した情報ではガッコウなど机上の論理を頭に詰め込むだけの場所かと思っていたが、戦闘訓練まで課せられていたとは驚きである。

時々シンジに対して発揮されるアスカの戦闘能力も納得できるというものだ。

そのアスカは不自然なまでにシンジから目を逸らしながら、明らかに平静を装っているだけと知れる乾いた声音を出した。

 

「い、いーのよ、あたしは本番に強いタイプなんだから。

 あんたみたいにジミ〜な努力なんかしなくても、受験にだけは成功するようにできてんのよ!」

 

「ハイハイ、どうせ僕は地味ですよ。

 でも、アスカが勉強してないって知ったらガッカリすると思うよ、委員長」

 

特に憮然とした様子もなくアスカの嫌味をさらりと受け流し、何でもないことのようにシンジが言う。

しかし、アスカにとってその言葉は絶大な効果を持つものであったらしい。

血相を変え、ばね仕掛けのような勢いで起き上がると、アスカはシンジに指を突きつけた。

 

「あ、あんたまさか、ヒカリに言いつけるつもり!?

 それってキョーハクじゃないのよ!」

 

「脅迫って……人聞き悪いこと言わないでよ。

 本当のこと言っただけだろ?

 委員長だってアスカと同じ高校行くの楽しみにしてるんだから」

 

「くっ……こ、このっ……!」

 

目角を立ててシンジを睨み付けながら、しかしアスカは歯軋りをしながら言葉を詰まらせた。

立て板に水を流すように淀みなく罵詈雑言を量産するアスカを知る私からすれば、とても信じられぬ姿である。

ましてや、相手はアスカがこの世で最も遣り込めることを得意としている筈のシンジなのだ。

わなわなと肩を震わせた後、遂に反論の言葉を見出せなかったのか、アスカは無言のまま拳を振り上げてシンジの頭頂に打ち下ろした。

 

「イタッ!?

 な、なにするんだよアスカ!」

 

「うるさい!

 さっさと勉強するわよバカシンジ!」

 

シンジの抗議の声を一喝し、アスカは再びシャープペンシルを取ってノートと向かい合った。

どうでもいいがアスカ、それは俗に言うところの逆ギレという奴ではないのか。

全く、どこまでも論理的でないメスである。

殴られたところをさすりながら、シンジもむくれた視線をアスカに向ける。

 

「なんだよもう……。

 言い負かされたからって人のこと殴るなよな」

 

「フンッ! あんたみたいな無神経にはお似合いだわ!」

 

「ハイハイ、どうせ僕は無神経でバカですよ」

 

溜息混じりにそう零して、シンジもまた勉強に戻った。

それにつけても、言い争いの絶えぬ二人である。

善良なシンジと悪辣なアスカ、この組み合わせで仲良くしろと言う方が無理なことなのかもしれないが。

……いや。

 

「ね、シンジ。

 ここ、これどーいう意味?

 かは虫の……心ふか……きさま、したるこそ、心に……くけれ?

 ああもう、古文ってどこで言葉切ったらいいかわからないからムカつくのよ!」

 

「ん?

 ……ああ、かは虫っていうのは毛虫のことだよ。

 だから――え〜と、毛虫が心深いのは素晴らしい、かな?」

 

「ゲッ。なんで毛虫が心深いワケ?」

 

「さあ……。

 虫が好きなお姫様だから、かなあ?」

 

「そんな理由なのぉ?

 ったく、感受性豊かな年頃の乙女に、こんな人格破綻者の話なんて勉強させんじゃないわよ」

 

「あはは。

 まあ、古文の登場人物ってちょっと変わった人が多いよね」

 

「そうそう!

 ほら、こないだ授業で習った――」

 

和気藹々と、二人はガッコウでの話に花を咲かせ始める。

……うむ。シンジとアスカの場合、これはこれで巧くいっているのだろう。

かつての一時期、ただ二人が一緒の場所にいるだけで室温が低下し、音を立てて空気が軋み、臓腑が痛みを訴える、そんな状態とは比べ物にならない程に、今の彼らは自然で穏やかだ。

あの頃、二人の間に何があったのか私は知らないが、こうして今、その関係が修復されて笑顔を向け合っているのだからそれで良いのであろう。

何であれ、平和が一番ということだ。

二人の姿から得た結論に満足し、私は二人の勉学の邪魔をせぬよう寝床に引き上げるべく立ち上がった。

ミサトが帰宅の声を告げたのはそのときである。

 

「ただいま〜」

 

「「おかえりなさ〜い」」

 

アスカと声を揃えてミサトに答えながら、シンジが立ち上がる。

ダイニングに姿を見せたミサトを笑顔で出迎えながら、シンジはせわしく立ち働きはじめた。

 

「お帰りなさい、ミサトさん。

 すぐにおかず温め直しますね」

 

「ありがと、シンちゃん。

 も〜疲れておなかペコペコなのよ〜」

 

甘えるような声音でシンジに礼を言いながら、通りがけに私の頭を一撫でし、ミサトは自室へ向かう。

それに応えるように、レンジから取り出した皿を食卓へと並べるシンジ。

うむ、実に微笑ましい家族の肖像である。

さながらシンジの姿は仕事から帰ってきた夫に甲斐甲斐しく尽くす新妻の如くにも見える(ドラマと呼ばれる人間の家庭生活をドキュメントした情報番組で得た知識である)。

男子としてそれはどうかと思わないでもないが、まあシンジのそうしたまめまめしさがこの葛城家の内奥を支え、我々の健康で文化的な生活を保障しているのだから、難癖を付ける筋合いではあるまい。

暖かな気持ちに満たされながら二人を見守っていた私は、しかしその時、背後から漂い来る不穏な空気に気付いて体を強張らせた。

恐る恐る振り向いたそこで見たものは、「ドドドドドドド」という独特の力強い書き文字が見える程に緊迫した空気を身に纏い、尾を踏まれた獅子の如き鬼気迫る表情でシンジを睨み付けるアスカの姿であった。

 

「あたしがおなかすいたって言ったときはアイス持ってきてくんなかったクセに……」

 

今まで聞いたこともないような低く押し殺した声音でアスカが呟く。

お――恐ろしい……。

今のアスカは瞋恚に狂った肉食獣だ。目が合っただけで殺される。

己の直感に従い、私はそそくさとアスカの視界の外に移動した。

怯懦に因る行動ではない。

私の中の野生が、生き残るための正確な判断を下しただけのことである。

今まで実感したことはなかったが、もしかするとこのメス、ミサトに互する戦闘力の持ち主なのかも知れぬ。

これまで侮ってきた反省も踏まえ、決してアスカを本気で怒らせる真似はすまいと私は固く決意した。

 

「準備できましたよ〜、ミサトさん」

 

「はいは〜い」

 

シンジの呼びかけに妙に浮かれた声音で応えながら、普段の裸同然の服に着替えたミサトがダイニングに戻ってくる。

その様を見据えるアスカの眼は、一層剣呑さを増してゆくようだった。

しかし、ミサトはそんなアスカの様子に気付く気配もなく、舌鼓を打ちながら料理を口に運んでいく。

 

「ん〜、さっすがシンちゃん。

 また腕上げたんじゃないの〜?」

 

「そうですか?

 ありがとうございます」

 

嗚呼、何故彼らはそんなにも平然とした笑顔を浮かべていられるのだろう。

十歩の距離も隔てぬその傍らで、鬼女の如き形相でアスカが睨め上げていると言うのに。

 

「ほんと、これならいつお嫁に出しても恥ずかしくないわね〜。

 あたしが貰っちゃいたいくらいだわ」

 

機嫌良くミサトがシンジに微笑みかけ、シンジが頬を赤らめる。

――その瞬間、アスカの手に握られたシャープペンシルが、異音を立てて真っ二つにへし折れた。

私の股間の羽毛にほんの少し尿が滲んでしまったのは永遠の秘密である。

 

「もう、ミサトさん、からかわないでよ。

 だいたい、ミサトさんの方が先に結婚しちゃうでしょう?」

 

「あら。言うようになったわね〜、シンちゃん。

 お姉さんは嬉しいわん♪

 でも、案外シンちゃんの方が早く結婚したりしてね〜。

 昔のドラマみたいに高校生で事実上の夫婦生活とかさ。

 ね、アスカ?」

 

「なっ……!」

 

突然話の矛先を向けられて、アスカが素っ頓狂な声を上げる。

私は思わず天を仰ぎ、偉大なるペンギン神に祈りを捧げた。

今ミサトが不用意に刺激したこのメスは、夜叉だ。修羅だ。闘神なのだ。

アスカの頬が薔薇色に紅潮しているのは、腹中に燃え滾る憤激と殺意のためであろう。

直後に巻き起こるであろうミサトとアスカの直接対決によって、私はこの葛城家が物理的に壊滅を遂げるであろうことを予測した。

しかし、

 

「なっ、なんであたしに振るのよ!

 バカシンジがいつ結婚するかなんてあたしの知ったこっちゃないわよ!」

 

アスカはそう怒鳴っただけで、ミサトに襲いかかる気配も見せずそっぽを向いて沈黙してしまう。

私にとっては意外な成り行きであったが、強者は強者を知るとも言う。

恐らくアスカも、ミサトと正面からぶつかり合えば自らもただではすまぬことを悟ったのであろう。

存外冷静なアスカの判断力に、私は敬意と感謝を込めて一礼した。

一方のミサトはアスカが戦いを避けたことにより自分の優位を確信したのか、けらけらと愉快そうに笑っている。

 

「あ〜らら、真っ赤になっちゃって。

 あたし、なにかヘンなこと言ったかしらね〜、シンちゃん?」

 

「し、知らないよ!」

 

……はて。シンジが怒りを見せているのは如何なる心境に因るものであろうか。

優しい心根の持ち主であるシンジのことだから、無用な争いを引き起こそうとしたミサトに対する義憤でも覚えているのだろうか。

ともあれ、シンジは動転を押し殺すような顔付きでミサトから離れ、アスカの隣に腰を下ろした。

 

「ま、まったく、ミサトさんにも困ったもんだよね、アスカ」

 

「ど、どうでもいいわよそんなの!

 そんなことより勉強するわよ!」

 

共に首筋まで赤く染めながら、二人は妙にそわそわとした雰囲気で言葉を交わす。

と、シンジがアスカの手元に目を留めた。

 

「あれ……アスカ、シャーペンどうしたの?」

 

「え? あ……ふ、不良品だっただけよ」

 

シャープペンシルの残骸を見下ろして、アスカは決まり悪そうに呟く。

異様な膂力を以て握り潰しておきながら不良品呼ばわりとは大した神経である。

そもそも、不良品であろうがシャープペンシルが真ん中からポッキリと折れることなどある筈もない。

如何に相手が単純なシンジと言えど、そんな幼稚な嘘であっさり騙せると思っているのであれば、アスカの底も知れたものだ。

シンジは眉根を寄せてアスカを見つめ、それから再びシャープペンシルに視線を落とした。

 

「買ったばっかりなのにひどい話だね。

 明日、交換してもらいに行こうよ」

 

……あっさり騙されるな、シンジよ……。

剰りにも簡単に鵜呑みにされたことに流石に罪悪感を覚えたのか、アスカはシンジから目を逸らして唇を尖らせた。

 

「い、いいわよそんなの。

 どうせ安物だったし、デザインもなんか気に入らないな〜って思ってたところだったし」

 

「だけど……」

 

「いいったらいいの!

 明日はどうせ日曜なんだし、もっとマシなやつ買ってくるわ」

 

「そう? それじゃあ……はい」

 

自分のペンケースからシャープペンシルを取り出し、シンジはアスカに手渡した。

きょとんとしてそれを見下ろすアスカに、柔らかく微笑みかける。

 

「アスカ、予備のシャーペンとか持ってなかっただろ?

 とりあえず今日のところはそれ使っておいて」

 

シンジの笑顔に、アスカは先刻までよりも一層顔を紅潮させ、不思議な表情をした。

私の語彙の中には表現する言葉の見つからぬその表情のまま、数秒間シンジの顔を見つめると、囁くようにアスカは声を漏らす。

 

「あ……ありがと……」

 

「え!? あ、そんな……べ、別にお礼なんて言われることじゃ――」

 

何とも言えぬ緊張が二人の間に張り詰めた。

いつぞやのように、見ていて胃が痛くなるような不快で重たいものではない。

ではないのだが……一体何なのだろうか、この、見ていて背中がむず痒くなるような居心地の悪さは。

そんな微妙な雰囲気を断ち切ったのはミサトであった。

 

「ハイハイ、ごちそーさま」

 

嘆息混じりの、しかし笑いをも含んだ声がリビングに届いた途端、シンジとアスカは揃って飛び上がった。

滑稽なまでの過剰な反応を自覚しているのかいないのか、アスカは憤然と立ち上がりミサトを睨み付ける。

 

「なによ! ごちそーさまってどういう意味よ!?」

 

「ん〜?

 どういう意味もなにも、ご飯食べ終わったからごちそーさまって言っただけよん?」

 

シンクに食器を運びながら、当然のことのようにミサトが答える。

うむ、さもあらん。「御馳走様」という言葉が他の意味で使用されることなどあるまい。

西欧からやって来て一年足らずのアスカは、恐らく何か用法的な勘違いをしているのであろう。

自らの誤りに気付いて逆上したのか、アスカの眉が一層吊り上がる。

 

「わ、わかってるわよそんなこと!」

 

「あらそう? じゃあ別にいいわよね〜」

 

突っ掛かるアスカをミサトはあっさりと躱した。

うむ、やはり流石はミサトと言うべきか。

アスカもなかなかの手練れであろうと見直しこそしたものの、やはりミサトとでは役者が違う。

悔しそうに歯噛みして反論の言葉を探すアスカを後目に、ミサトは洗面所に向かった。

 

「シンちゃん、わたしシャワー浴びてくるから、洗い物よろしくね〜」

 

「あ、はい」

 

「それからわたし、明日はお昼ご飯いらないから」

 

「え……明日って非番じゃありませんでしたっけ?

 どこか出かけるんですか?」

 

きょとんとして尋ねるシンジに、ミサトは悪戯っぽく微笑んだ。

 

「そっ。ちょ〜っち加持と買い物にね〜」

 

「ええっ!? 加持さん!?」

 

その名を聞いた瞬間、アスカが素っ頓狂な声を上げる。

シンジがアスカに隠れてうんざりしたように溜息を吐き、ミサトは自分の失言を呪うように顔をしかめた。

 

「なによそれ! まさか、デートってワケじゃないでしょうね!?」

 

「や〜ねえアスカったら。

 加持とはそんなんじゃないって何度も言ってんじゃないの。

 ちょっと買い物に付き合ってもらうだけだってば」

 

一瞬で極めて自然な笑顔を貼り付けて、ミサトはさらりと言ってのける。

が、アスカは明らかにミサトの言い分を信じておらぬ様子で、疑わしげに半眼でミサトを睨んだままだ。

ミサトは軽く肩を竦めて苦笑した。

 

「本当だから安心しなさいってば、アスカ。

 ちゃんと夜ご飯には帰ってくるから。

 出張先からおみやげ買ってきたとか言ってたから、多分加持もくっついてくると思うけど。

 ――ま、そういうことだから、明日の夜はあのバカの分もよろしくね、シンちゃん」

 

「あ、はい。それは全然構いませんけど……」

 

ミサトの言葉に頷きながら、シンジは猛獣の檻を覗き込むようにアスカの様子を窺った。

シンジが恐懼に駆られるのも無理はない。

アスカは野犬のような唸り声を上げながら、全身から不服と猜疑の感情を立ち上らせているのだ。

先刻の殺気を考えればまだ可愛いものだが、その重圧感たるや、シンジのような修羅場を知らぬ雛鳥に耐えられるものではあるまい。

私はシンジに憐憫を抱きながらも、これも良き人生の糧となるであろうと要らぬ干渉はしないことにした。

……アスカの傍に寄ってとばっちりを受けることを恐れたわけではない。念のため。

ちなみに、加持とはしばしばこの家を訪れる人間で、オスである。

私との接点は皆無に等しいので詳しくは知らないのだが、どうやらミサトの古くからの知己であるらしい。

ミサトも何くれとなく頼りにしているようだし、アスカとシンジも子犬のように懐いていることから見て、それなりの人望の持ち主ではあるのだろう。

無論、カリスマの権化とも言うべき私とは較ぶるべくもないが。

結局、その場ではそれ以上の諍いが起こることはなく、ミサトは鼻歌を歌いながら脱衣所に姿を消した。

カーテンが閉められた後もなお、アスカはその向こうのミサトの姿を透かし見るように目を細めていたが、シャワーの流水が浴室を叩く音が聞こえてくるや、その唇からぼそりと不穏な囁きがこぼれる。

 

「邪魔してやる……」

 

「え?」

 

恐らく本当に聞き取れなかったのだろう、何とはなしといった風に聞き返したシンジの方を、ぐりんっと機械じみた動作でアスカは振り返った。

その目は完全に据わっており、口元には怪しげな笑みが浮かんでいる。

異様な迫力を湛えたアスカの表情に、怯えたようにシンジは一歩後退った。

明らかに聞き返したことを後悔しているシンジの様子になど頓着もせず、アスカはふっふっふっ……と不気味な笑い声を漏らす。

 

「明日のデートよ。加持さんとミサトの。

 このままおめおめとミサトに加持さん渡してたまるもんですか……!」

 

言いながら、どうやらテンションが高まってきたらしい。

握り拳を構え、だんっ!と片足を上げて椅子を踏み鳴らしながら、ちょっと逝っちゃった感じの笑顔のままアスカは高らかに声を張り上げた。

 

「そうよ! ミサトなんかに加持さんは宝の持ち腐れ、ブタに真珠!」

 

「ぶ、ブタってそんな……」

 

「あんな毎日ビールばっかガブ飲みしてたら10年後にはブタかタルよ!

 だいたい、家事もロクにできないクセに加持さんとくっつこうなんて考え自体が甘いのよ!」

 

「……シャレ?」

 

「とーにーかくっ!」

 

シンジのささやかなツッコミを完全に黙殺し、アスカは両拳を天井に向かって突き上げた。

 

「なにがなんでも明日のデート、邪魔してやるわっ!

 そして、あたしが加持さんのハートをゲットするのよっっっ!」

 

背後に燃えさかる炎を背負って高笑いするアスカを見つめ、シンジは色々なものを諦めた表情で溜息を吐く。

アスカの言葉の真意もシンジの落胆の理由も私には見当が付かなかったが、取り敢えず人生の先達としてシンジを激励すべく、私は彼の肩を優しく数回叩いてやった。

何だかシンジが物凄く情けない表情になって泣き出しそうになっているのは、気宇壮大たる私の度量に感銘を受けて緊張が弛んだたために違いない。

うむ、さすがは私だ。

自らの偉大さに満足しながら、何故か一層落ち込み出したシンジを、私は慰撫し続けたのだった。

 

 

続く













香さんからひっじょーに笑える作品をいただきました。
ペンペンを主軸にした、香さんの新機軸。
にしても、えらくエスプリのきいたペンギンだ…(笑)

はてさて後編ではどのような展開を迎えるのか。
楽しみな貴方は全力で催促してみましょう。


香さんへの感想はこちらから〜。





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