梅雨の景色の中に

           こめどころ






 どうしてこんなに愚図愚図した天気がつつくんだろうとアスカは首を傾げた。
少しづつ地球の天候は元通りになりつつあると聞いていたけど、これじゃ前のかんかん照りの方が増しよね。
そう思わざるを得ない。
寒冷地であるドイツを始めとする暗い北ヨーロッパよりも、陽射しの強い日本は景色も色彩も鮮やかだし、
輪郭がくっきりしている。歩き回っても気持ちがいい。
散歩が大好きになった。休みの日にはネルフの人たちと遠出をすることもある。
白かった肌に、健康的に薄っすらと色が付いた。
ミサトやリツコがそのたびに紫外線除けのクリームをべたべた塗りたくるのはしょうがないとしても、
年の近いマヤや、同級生のヒカリまでが塗るのはよく理解できない。おまけにサングラスだって。
有色人種はそんなに神経質にならなくたっていいのよ。全く宣伝に載せられやすいんだから。
不健康な生活していなければ大丈夫なのよ。そう言ってみたがここまで来るともう信仰だった。


「紫外線に曝されてるとシミやそばかすが増えるのよ。」

「わたしこれ以上そばかす多くしたくないものっ。」


ふーん、だけどミサトやリツコはそれこそ今更って感じよね。と独りごちる。


「先輩たちは後が無いから余計必死なのよ。」


まるで、重要な秘密を漏らすみたいに声を潜めてマヤは言うけどせっかくの色鮮やかな日本の自然の色彩を
サングラスで遮るのはなんとももったいないと思う。肌を渡る風の感触をクリームで台無しにしたくない。
何と言っても、今自分は生きていて、この素晴らしい国に暮らしていられるんだ。
この国とその自然を満喫しなくてどうする!というのがアスカの考えだった。


「戦いの間は、外をゆっくり眺めた事すらなかったもの。」


使徒はやって来なくなった。なにが起きたのか漠然とした淡い記憶としてしか残っていない。
でも、あの目も眩むような恐怖や緊張が続いた日々は終わったのだと、アスカは最近やっと信じられるようになった。
暫くは、夜中に飛び起きたり、何か訳のわからない恐怖で部屋から一歩も出れない事もあった。
戦闘によるトラウマがあるんだとリツコは言っていた。勇敢な兵士ほどこの症状に悩まされると。
たしかに、生きたいという自然な感情を最も押さえ込んで戦った者ほど勇敢な兵士になるわけだから
それは当たり前の事だろう。


「そんなトラウマを癒してくれるもの。この国の景色は。」


列車の車窓を流れていく田園と優しい山々。広葉樹のまだ新しい若葉の色。その中を散策する喜び。


「緑の中にも、何種類もの色があるんだ。」


そんな事すら気づかないまま生きていたのだ。空の青さにも、星粒一つ一つの色にも気づかないままに。
それを口にするたびに、周りの人たちは笑う。
別に悪意からではなく、この国の人たちには当たり前の感覚なんだ。
それは戦いの道具としてだけ生きる事を強いられてきた自分とかは違う感覚。
この国の人たちの培ってきた優しい文化に、現代を生きる彼らも知らないうちに包まれているんだとアスカは思う。
異邦人である自分にとってはとても新鮮な事。

それなのに、とアスカは恨めしげに窓の外を見やる。
この一週間というもの、ずっと雨が降り続けていて、降っていない日もどんよりとした低い雲が下がっている。
妙に高い湿気は空調の効いた室内には入り込んで来ないけれど、まるでドイツの冬の日々のように気分を重くさせる。
学校に通うたびに、新しいセーラー服がじっとりと重くなる。
渡り廊下が滑りやすくなり、長くした髪が湿気を含んで重くなる。それで首筋が次第に凝ってくる。
腰掛ける椅子が湿ってべたつく。雨になると壁がびっしょり濡れている事もある。


「しょうがないよ。今は梅雨だもの。」

「梅雨?梅雨ってなに?」

「大陸側から高気圧が張り出してくるでしょ。それに対して夏をもたらす太平洋高気圧がこう張り出てくるのよ。」


面倒見のいいヒカリがノートの余った部分に絵を描いて教えてくれる。2つの高気圧がせめぎ合うんだ。


「そうすると、ちょうど日本の上空に前線が出来るでしょ。これが停滞して梅雨と呼ばれるの。」

「雨が続くのはそれでわかったけど、なぜ梅雨ってよばれるわけ?」

「さぁ。ちょうど梅の実がなる頃だからかな。」

「梅って、あのすっぱくて赤い実の。あれ? 」


頭の中で、あれ『梅』って「つ」なんて読みかたしたっけ、などと思う。
そういえば『雨』だって「ゆ」って読み方は初めてだ。こんな調子だから下手な日本人よりよほどに国語の教養が高い。
よくまあ僅かな日時でここまで学んだものだと思うが、アスカにとっては人に間違いを指摘されるのが何よりも嫌いという
性癖が勝手に努力を強いてしまうということ。ふとムキになっている自分気づいて密かに苦笑する事もある。
それでも、突拍子も無い勘違いを披露する事もあって、その辺が周囲の微笑を誘う。


「そうよ、冬が終る頃っていうか、春先って言うか、あの頃に白や紅の花がいっぱい咲いた木があったでしょ。あれよ。」

「桜とは違う?」

「あれよりずっと前ね、2月末頃かな。雪が降ったでしょ、あの時に咲いていた。」

「ああ、うちのマンションの入り口にあるあれ。変な形の木、あれかな。」




 なるほど、マンションの入り口にある木をまじまじと見ると「梅(白梅)」と言うプレートが付いていた。
このマンションが建った時に植え込まれたこの木についていたのがそのままになっているのだろう。
エントランスポーチの反対側には「梅(紅梅)というプレートが付いた木が対である。
紅って事は、これに実がなるのか。梅干を思い出して覗き込むようにして実を探してみたが良く見えない。
赤い実はもう取りつくされてしまったのかもしれない。

反対側の木を見てみると、そこには緑色の大粒の実が葉陰に隠れるようにびっしりとなっていた。
まだまだ食べれるようになるまでにはだいぶ時間が掛かりそうだった。敷石の上にその実が何粒かこぼれていた。
これがあのすっぱい実になるのが不思議だ。赤く柔らかく熟れてから何か加工するんだろうか。
それを拾い上げる。丸い大粒の実だ。細かい毛がびっしりと生えてクリクリとした固い感触が指に伝わってくる。
まるで小さな子の頬の産毛の様だとアスカは思い、3つほど拾い上げてポケットに入れた。

部屋に戻って制服を着替える。誰もいない居間にすわり、手に持ってきた梅の実をクリスタルの灰皿の中に入れる。
ミサトはこの部屋では煙草を吸わないのでこの灰皿はただの置物だ。そこにちょっとした緑があるだけで、殺風景な
ガラスのセンターテーブルが潤ったように思う。こういう感覚自体、以前のアスカには無かったものだ。
ミサトとの二人での暮らし。ネルフは今ではあの火のついたような忙しさから開放されている。
市役所の方がよほど忙しいだろう。だからミサトも夕方6時前には必ず帰宅する。

二人でかわるがわる作る夕食を静かに食べる。
世の中が平和になるのと歩を併せるようにミサトは普通に料理を作れるようになった。
リツコに言わせると極度のストレス継続による亜鉛欠乏性味覚障害があったのだろうということだ。
だったらあの頃に亜鉛の錠剤を飲ませればよかったのにとアスカは思ったが、
そんなことにいちいち構っていられなかったと言うのが実際の所だったろう。

穏やかになった日々に二人で家具を観にいくゆとりも出来た。居間に敷いた毛足の長いセンターラグや新しいカーテン。
寝心地のいいベッド。趣味の良い版画やタペストリーを壁に飾る。
ミサトは本当に変わったな、と思うアスカだったが、ミサトも多分自分をそう見ていることはわかっていた。
自分自身、朝食や夕食や弁当を作るようになって料理を作ること自体を楽しめるようになった。
このゆとりとか、静かな調和のようなものはどこから来たんだろうと思う。
あの頃、そんな気持ちのゆとりなど無かった。
料理を作ると言う一種の創作行為は、破壊の限りを尽くし神経が焼ききれる寸前を行きかう戦闘とは並存しえないものだった。

ミサトが帰ってくるまでにはまだ時間がある。今の季節は7時近くになっても空が仄かに明るい。
今日の当番はミサトだからアスカは暇だった。窓際に立って、レースのカーテンを開く。窓を開けてベランダに立つ。
僅かに吹いている風。
雨は下校した時とは違い、霧のように細かくなり、まるで雲が降りてきたように街中が煙っていた。
それが時たまアスカの顔や腕に触れて濡らすが、風が吹けば再び気化したかのように消える。
霧の中に浮かんでいるような中層マンション群や低層住宅の影。その間を埋める公園やグリーンベルトの木々の輪郭。


「こういうのをフーリューっていうのかしらね。」


自分の中にだって日本人の血は流れてるはずだけど、今だ完全には発動していないらしい。
着物や浴衣は素敵だと思う。ミサトに買ってもらった和服を着て出かけたこともある。帯の結び方も憶えた。
お茶とかワビとかサビとかワサビとか言われると、もうとんとわからない。

ただ古いものをありがたがるというものではないらしいし、それなりの価値基準もあるようだ。
しかし、大金を積んで大量生産の古い箪笥や火鉢や七輪を騙されて買い込む愚は犯したくない。
第一そっちの方は仮にありがたくても趣味ではないのははっきりしていた。ヨーロッパにだって骨董趣味の人は多い。
むしろ十字軍の頃の甲冑だとか、キリストが手にした木の枝から彫り出した杖だとか。十何代前から伝わる机とか
椅子だとか、石造りの館だとか。それをありがたがる神経自体がどうもわからないと思ってしまう。
人が使った古茶碗をありがたがるのがよく理解できない。汚いとしか思えない合理的精神が今のところ勝っている。
いずれわかるようになってからも欲しければ買えばいいのよ、とアスカは至極健全な判断を下している。
多分一生買わないけどね、と呟いた。アスカにとって風流とはもっと清らかで自然な価値観と結びついている。
貨幣に換算できるものは違うと感じている。





チャイムが鳴った。
ミサトなら自分でキーを解除して入ってくるから誰か他所の人だとわかる。テレビフォンを取り上げると男の子が映った。
あ、と思わず口から零れる声。その声を頭を振って払う。


「シンジか。キー解除したわよ。」

「ちょっと両手が塞がってるんだ。開けてくれよ。」

「ん。ちょっと待って。」


シンジは同級生の男の子だ。同じエヴァの搭乗員だった。
そしてちょっとボーイフレンドって言うか、デートなんかをしてた事もある。
毎日が死と隣りあわせである時に一緒に暮らしてたら、互いに生に縋る気持ちが簡単に擬似恋愛に変換するというのが公式見解。
確かに使徒がふっつりやってこなくなって、シンジが別の部屋に分離されてからは二人で出かけることはめったに無くなった。
高校では、まあ仲のいい友達の一人だけど、特定の彼ってわけではない。同じ中学からやってきた友達の一人というところで。
周りにはそう理解してもらっている。自分でもそう思うようにしている。
そこにシンジの存在があるのに、影だけしか見えていないかのように振舞っている。


「暫くぶりじゃない。元気してた。」

「まぁね。これ持ってきた。」


そう言って抱えていた鍋を持ち上げて見せた。
ガラスの蓋に水滴がついていて中身は見えづらいかったが、出汁のいい匂いが微かに香った。


「え、一体何持ってきたのよ。」


男の子の癖にエプロンなんかつけてお鍋の取っ手をタオルで包むようにして持っている。
おかしな奴だと思う。同時に、懐かしさに思わず微笑んでしまう。


「これさ、貰ったんだ竹の子。炊いたらミサトさんが喜ぶだろうと思って。」


蓋を取ると、竹の子と大根とがおいしそうに湯気をたてていて、その中から鰹節と山椒の香りがぷんとした。
日本に来るまで食べた事の無い味付けだったはずなのに、シンジの作ってくれた味噌汁や、こういった家庭料理の類を
何の抵抗もなくアスカは受け入れていた。ミサトやリツコが言うには、味覚が作られる3歳くらいまでの時期に、
両親が日本風の料理も食べさせていたのだろうということだった。だからアスカもそう信じている。
それでも竹の子の煮つけや、きんぴら牛蒡を初めて出されたときはこんな木の根をどうやって食べるのかと驚いた。
口に入れてから、溜息がをつくほどの懐かしさを憶えたのだった。


「あんたってほんとにこういう料理上手よね。いいお嫁さんになれるわよ、きっと。」


定番のからかい文句だったが、思春期の男の子にとっては半ば侮辱とも言える冗談だ。


「全くアスカは口が悪いんだからっ。ミサトさんに作ってきたんで、おまえの為になんかじゃないからなっ。」

「あ、生意気っ。いつからそんなクチきくようになった。このクチか、えいえいっ。」

「ひ、ひきょーだぞっ、熱い鍋持ってると思って。」

「ふっふっふ。それを計算してないうぬの愚かさをこそ呪え〜。」

「ふがっ、ふがふが〜。」


いい様にシンジがやられてしまうのはいつもの事。
このじゃれあいが二人には貴重な時間なのだが、お互いそれを公式には認めていない。
そのじゃれあい自体も別れて住んでからはめったに無い。その事を急に寂しく思う、だからこそ嬉しい。


「ミサトさん、すぐ帰ってくるよね。」

「うん、多分ね。6時には。」

「もし遅くなるようだったら、外で冷ましてからラップして冷蔵庫にしまうんだよ。
熱いまま入れたら他のものが傷むからね。」

「はいはい、わかりました。あら、なによ帰っちゃうの?」

「うん、竹の子御飯が上がる頃だから混ぜないと。」

「えっ、竹の子御飯あるんだ。いいな。」


そう口走ってから、慌てて口をつぐんだがもう手遅れだ。
シンジの顔に嬉しさと、こういうとこ可愛いなぁという表情と、苦笑が同時に浮かんだ。
それを見たアスカは負けたような気がして一瞬くやしかったが、もうしかたない。
ふん、確かに引き止めたかったのよ、と珍しく素直な気持ちで呟いたが無論声には出さない。


「なんなら竹の子御飯も分けようか?」

「そうねー、あ、そうだ。お鍋もってもらいに行ってやるかな?」


一瞬で開き直る事に決めたアスカは、後ろを振り向いてキッチンに向かいながら言った。


「え、ま、まぁいいけど。いっぱい炊きすぎたとこだったし。」


シンジにしてみると突然の事で困るけど、アスカが自分の部屋にやってくるというのがちょっと嬉しくもあった。
別れて住むようになってから、丸1年ちょっと。二人きりで話すことはめったに無くなった。
それはアスカにしてみても同じ事で、言い出してはみたものの、少しばかり動悸が上昇していた。
照れ隠しに持って出た2重底の保温鍋があまり綺麗でなかったのも恥ずかしくて気になっていた。
結構この二人は、表向きはともかくかなり意識しあってる。
ただこの感情は一時的な偽りの感情だとリツコに決め付けられてから、表面になかなか浮上してこない。


「へぇ、きれいにしてんじゃない。」

「その辺に適当に座って。」

「ふーん、2LDKなんだ。南向き12畳洋間プラスこっちは6畳間ってとこかな。」

「お、おい。勝手にそっちにずかずか上がり込むなよっ。」


電気がまを掻き雑ぜながら叫んだが、素直に聞くような子じゃないことはシンジもよく知っている。
ああしまったなぁ、と思った時には既に寝室にしている6畳間にまで踏み込まれていた。
布団が敷きっぱなしになっている。
雨で洗濯物が乾かないせいか部屋の隅のカゴの中には汚れ物と思しき下着や制服のカッターシャツが溢れそうになっている。
シンジにしては割と片付いていない部屋だなと女の子は思った。
その分、男の子から少し育ったんだなとも感じたアスカだった。

部屋のカーテンを開ける。彩のあまり無い、殺風景ともいえる部屋だ。その窓から見える景色も今日はモノトーン。
アスカとミサトの部屋からの景色とさほど違いはない。昔3人で住んでいたマンションと同じような丘陵地帯にある。
あそこからどんな景色が見えたのか、記憶ははっきりしていない。たぶんろくに外も見ていない毎日だったからだと思った。
こうやって墨絵のように煙る世界を眺めると、ともすればあの時間がここにそのまま続いているようにさえ思える。
もしそうであったなら、あの3人での世界がそのまま平和に続いていたなら。どんな風に暮らしていただろうか。

あれから変わったこと。ミサトや自分が料理や洗濯をするようになったこと、変化の無い、精神的に落ち着いた毎日を送り、
互いの交流がずっと優しくて柔らかいものに変わったこと。そう、色々変わったのだ。
今になってみれば、あの頃何故あんなに追い詰められ、他人を払いのけずにいられなかったのかが不思議だった。

この変化は何なのだろう。
ぼんやりとはっきりとした区切りや境界のない、半ば融けあっているようでいて、確固とした他人との区別もあるこの世界。
不思議なこの日本という国。仮にドイツやアメリカに帰って、同様に平和であったとしても自分は変わっただろうか。


「アスカ、竹の子御飯分けたよ。このくらいでいいのかな。」

「え、うん。」

「どうしたの。」

「優しい景色だなあと思って眺めてたのよ。」


二人は窓際に並んで立った。細かい幾重もの霧雨のカーテンと薄く煙った低い雨雲が暗い山肌を背景に通り過ぎていく。
遠く所々に雲の切れ目があるが、この辺りは暗い空のままだ。部屋の中も暗くなったり幾分明るくなったりを繰り返す。
優しい景色と言えばそうだけど、とシンジが言葉を引き取った。


「雨がきっぱり上がらないし、はっきりしない天気が続いてるからね。洗濯物も乾かないし困るよね。」

「なんで?うちにはガス乾燥機があるから何も困らないわよ。持ってないわけ?」

「だって、乾燥機って高いじゃないか。」

「馬っ鹿みたい。コインランドリーまで持っていく手間と乾燥機の使用代考えたら、さほど変わらないじゃない。」

「そんなのわかってるよ。でも最初に買う初期費用がないんだ。未成年者だからまだカード使えないしさ。
それに同じランドリーに集まる人と話したり、本読んで待ったりしてるの、好きなんだ。」

「あんた、あいかわらずねぇ。何のためのネルフカードよ。」

「あんなもの、坂下の商店街でなんか使えないよ。それだけで敬遠されちゃう。」


一般の人々にとってはネルフはまだまだ恐ろしい秘密機関で、関わったらどうなるかわからない魔窟。
この街には勤務者も多く住んでいるはずなのだが、皆その事を明らかになどしていない。
実際アスカにしてみても銀行からお金を引き出して現金で色々必要な物を購入している。
ネルフカード自体も昔の紅色に金のイチジクの半葉などという派手な物ではなく、国際公務員(特)共済組合会員証と
記されている薄緑色の地味なカードに変容した。機能的には前のものと変わりはないが水戸黄門の印籠的効果は消滅した。
それが半年ほど前だったか。ネルフが変わりつつある事を初めて実感した。
今以前のカードを所持しているのは挑発や特殊任務を行う可能性の高い高級幹部だけだ。それだとて共済組合会員証と
2本立てで所持しているのだ。普段は財布の奥にしまわれたまま。ここでも物事は少しずつ変わっている。


「まさか今でも使ってるの?」

「とんでもない。あのミサトだってよほどの事がなけりゃ仕事用にだって使わないってば。」

「そうだよね、ただでさえあの人目立つから。」

「ああいうの悪目立ちするっていうのよ。酒場で暴れるくだ巻くスピード違反する。それで結構美人だったからね。」

「寂しいのかなぁ。加持さんはもういないのに。」

「粉々になったはずの自分が生きてるだけでも…奇跡みたいな事なのにね。まぁこの頃は大人しいもんよ。」


シンジが曖昧に肯いたのを視野の端に感じてアスカは振り返った。正面で御飯を入れた鍋を抱えている少年に言う。


「こんな、何もかも輪郭がぼやけてるような日には何か思い出しそうになるわね。」

「なにを?」

「この国の人たちは、この国の自然に溶け合って生きてる。まるでこの国の景色そのもののようにね。」

「それは、日本人なら当り前だと思うけど。」


アスカはゆっくりと髪を揺らすように頭を振った。


「あたし。シンジと同じ血が流れてるんだね。
どこか根っこのところでシンジと繋がってるのがわかる。こんな景色の中では。」

「そ、それってどういうこと。」

「落ち着きなさいよ。異母姉弟だとかってわけじゃないんだから。」


まさか、あの赤い海で溶け合ったり意志を共有したりした、あの時間を覚えてるというの。シンジは戦慄した。
恐怖から背に異様な感覚が走るのを感じた。もし記憶が戻ったのなら、自分は到底生きていることなんか出来ない。


「同じ日本人の血が、いくらかでもあたしに流れてるってことよ。だから懐かしいと思うのね。
前はそれを気にした事も無かったし、もっと前は嫌でしょうがなかった。でも今はむしろ嬉しいと思うんだ。」

「そうなんだ。でもアスカがそんなこと言うなんて。そりゃ日本人が嫌いだとは言ってなかったけど。」

「日本人自体は大して好きじゃないわよ。ドイツ系のあたしにとっては、なんか癇(かん)に障ることが多いのよね。
でも日本の自然は好きだよ。自然と溶け合って無理をせず、傲慢ではないけど言うべき事はしっかりと言う、
自分の意志で事を行える人、自分の思いを現実に行動で表せる人。そういう誇り高い日本人もいるってこと。」


アスカの顔は紅潮し、日本に来てから出会えたそんな人々を嬉しく思っているのが明らかだった。


「大多数に隠れて付和雷同するしか出来ない奴は大嫌い。みんなと同じじゃないと安心できないくせに、
表向きだけは事なかれの人間を嫌う奴もいや。あたし、割とそういうのがはっきりしてるみたい。」


シンジにしてみると、それはアスカが自分を嫌いだと宣言したのも同然のように思えた。
そこに自分が含まれているとは思えなかったから。
アスカにしてみればそれは全然逆の、いつもは情けなくても臆病でも、いざと言う時に結局は自分を助けに来てくれた
シンジに礼を言ったつもりだった。こんなすれ違いも二人には良くありがちなことだった。

いずれにせよ、細雨のこんな天気の日は、風景だけではなく人影もそこにあるのかどうかはっきりしない程だ。
何もかも揺らいで輪郭がはっきりしない。人の形も人の想いも。溶け合って曖昧なままの世界に人々は存在している。
アスカは携帯電話を取り出して、既に6時を回っている事を確認した。そろそろミサトが帰ってくる時間。
そう思ったところでコールが鳴った。ミサトだ。もう家に着いているらしい。


「ちょっとアスカ、遅くなるなら連絡しなさいよね。」

「あ、今シンジのとこにいるのよ。竹の子御飯貰いに来たの。」

「おっ。こっちでも竹の子を発見。葛城3佐、試食開始します! 
ビ、ビ、ビールはどこかいなっと。」


バシュッとプルタブを引く音がした。続けて竹の子を咀嚼する音。


「う、うううまいよ。えーん旨いよほ。」

「ええい、いい年して泣くんじゃねぇ。今帰るわよッ。」


パタンと携帯電話を閉じた。そして苦笑しながらシンジに近づくと、竹の子御飯を入れた鍋を受け取った。
シンジもアスカも別々に住んでからこんなに近くに身体を寄せ合ったことなど無かった。
1年ぶりに感じる暖かさ。鍋の柄を手渡す時に触れた指がじんと痺れるのは何故なんだろう。


「じゃ、帰るわ。これありがとうね、シンジ。 …もう、これからは碇くんって呼ばなきゃいけないのかな。」


アスカは、だんだん遠ざかっていくように感じているこの男の子に、ふと自分の本音を漏らしてしまった。


「・・・! 」


その言葉。表現上ではなく、少年の心臓は絞り上げられたように痛みを訴えた。
そう言った少女本人にしても、自分が口にした言葉にはっとして、涙腺から目の縁に何かが滲んだのを感じた。
自分の心もまた、この日本の風景のようにはっきりせず、揺らいでいるのだ。
そうじゃないのなら、何故こんなに感情が震えることだろう。なによ、馬鹿みたい、と自分に悪態をつこうとした。

だが、思い出したのは、いつだったか山に分け入って小さなせせらぎに手を差し入れた時のこと。
清らかに見えた流れの中からも細かく砕けた木の葉の欠片が雲のように舞い上がり小魚がすばやく走った。
こんな一筋の流れの底にも命が溢れ、それを育む優しい母のような自然の手がある。それに触れたと感じた。
そんなせせらぎの中に、また指先が触れてそれで指先が痺れてしまったように思った。


「じゃあ、僕は君を惣流さんって呼ぶわけ? アスカ、」


本当はその後に「…じゃなくて。」と続くはずだった。
だがその言葉は何故か息が詰まって、アスカと呼びけたようになったまま止まった。
二人の間に、衝動が走った。正面から見据えた視線が絡み合って、強く輝き、忽ち気弱く萎れた。
そして、それから何が起こったのか。勝手に身体が動いていた。眩暈がした。
互いに、神かけて何もやましい事を考えていなかったのは間違いなかった。
ただ、岩の間から吹き出た冷水が岩苔の上を走るように当たり前で自然な事が起こっただけ。
もう一歩、アスカは下がり、シンジは進んだ。がたん、と襖にアスカの背中がぶつかった。しんとした部屋の中に微かな吐息。

6月の夕方は暗くなるのが遅い。空はまだ暗くはなっていなかったが雨雲に遮られた光は、部屋の中を明るく保つためには弱すぎた。
碇シンジの寝室は互いの存在を確認できるほどには明るかったが、俯いてしまったお互いの表情を確認するには暗すぎる。
竹の子御飯の入った鍋を二人で持ったまま、少年と少女はいま行われた行為をどう弁解すればいいのか途惑ったまま立ち尽くす。
一歩、シンジが引き、二人の顔が離れた。鍋は少年と少女の手に残されたままだ。



「あたし、…あたしそんなつもりで来たんじゃない。」


アスカは手を口元にあて、はにかむように擦れた声で言った。


「だ、だって。 でも、――僕は謝ったりしないからね。」


寄せ合っていた頬の線が離れた。一瞬の間をおいて少年は開き直ったように言った。


「リツコさんたちが何て言おうと、僕はずっと、アスカと一緒に居たかったんだ。」

「そ、んなの――いまさらズルイ!」

「ずるくないよっ。ホントはずっと一緒に居たかったんだ。アスカのこと、…アスカのこと。」


アスカは耳を塞ごうと思ったかもしれない。シンジは最後の瞬間に言うのを止めようかと考えたかもしれない。


「好きだからっ!」「あたしだってずっと好きだったわっ!」


最期の一瞬は、二人の声が見事に重なった。唖然とした。


「なんだ。いまさらそんな。」

「馬鹿みたい。――馬鹿みたいね。」


日が部屋いっぱいに差し込んだ。西空の雲が切れて、今日最後の陽射しが西向きのシンジの部屋に差し込んだのだ。
二人の目には、お互いの表情がくっきりと鮮やかに、その夕方の日差しの中に浮かび上がって見えた。
まるで、舞台の最後のクライマックスシーンでピンライトを当てられている主役の二人のようだった。


「ほんとに馬鹿みたい。」


いつの間にか再び持っていた鍋。アスカは片手で目元に溢れかけた涙をもう一度拭った。


「何よこれ、竹の子御飯の入ったお鍋なんか抱えちゃって。かっこ悪いたらないわね。」

「僕なんか、エプロン姿のままで、お鍋持ってるんだぜ。」


片手を離してしまったアスカの分、しっかりと鍋を持っていた。つまり二人は鍋を真ん中にして片手で繋がった
状態でいるのだった。確かにあまりロマンチックな光景とは言えないかもしれなかったが、二人は笑顔だった。
あっという間に霧が風に吹き飛ばされ、目の前の景色は鮮やかな初夏を迎える前の新緑に塗り換わっていく。


「想像していたより、ずっといい景色じゃない、この部屋。」

「だからこの部屋を選んだんだ。それに建物がL字型だから、ホンの少しだけアスカ達の部屋の灯りが見えるんだ。」

「覗いてみた?」

「まさかね。ベランダの奥にあるゴムの木の葉っぱが見えるだけだもの。
夜になると君の部屋の明かりが反射するんで君が部屋に戻ったのがわかるってだけ。」


ドイツ的合理主義者であるアスカは部屋の電気をこまめに切る習慣がある。


「ああ、あの簡易温室の中のゴムの木ね。」


アスカは肯いて、自分の部屋からはシンジが時々洗濯物を干しているのを見かけたと白状した。
土曜日の午前10時ころ、決まってシンジは洗濯物を干す。アスカはベッドの上を匍匐前進してその様子を観察していた。


「そんなことしてたんだ。」

「あきれた?」

「なんか、ちょっと信じられたような気がする。アスカが僕のこと好きだって言ってくれたこと。」

「ば…馬鹿。」


夕日は既に翳りつつあった。それでもアスカの赤くなった頬をシンジは見る事ができた。
その事が、シンジの心の中にゆっくりと細波のように広がり、その細波は今まで感じたどんな感情より暖かかった。


「じゃあ、これしっかり持ってね。」

「ありがとう。」


靴を履きなおしたアスカに、タオルを掛けた鍋を手渡す。ドアが開き、アスカは廊下に踏み出そうとした。
両手の塞がったアスカを引き寄せる。
驚いたように見開かれた少女の瞳が目の前にあって、シンジはかまわずその肩と後頭部に手をあてた。
何か言おうとしている唇に自分の唇を押し当てた。
驚いた表情のまま少女の青い瞳がゆっくりと閉じた。暫くして白い頬に片手をあて、そっと撫でた。
柔らかなその感触。唇がすぼまって離れる。潤んだ目が現れ、鍋がシンジのおなかをそっと突き放す。


「――卑怯もん。両手塞がってるのに。」

「さっき自分だってやったじゃないか。」

「それは、そうだけど。」


くすりと二人は向き合って微笑んだ。元通りになるだけのために1年も掛かったんだと思う。


「ねえ。一緒に竹の子掘りにいかない?この竹の子くれた人が誘ってくれてるんだ。梅雨の間なら何時でもいいって。」

「あたしも頼みがあるの。このマンションの入り口のところに大きな梅の実がいっぱいなってるんだけど、あれって
梅干とかジャムとか梅酒になるんでしょ。作り方教えてほしいんだけど。竹の子堀りはもちろん行きたい。」

「梅の方は、僕も狙ってたんだ。ネルフの総務部に許可貰えばいいと思うよ。」

「じゃあ、こんど。」

「うん。」


ああ、そうだよね。本当にこうやって普通に約束をして、遊びに行きたかったんだ。もう一度最初から。
アスカとシンジはそう思った。そして満足して溜息をつき、笑った。すっきりとした笑顔だった。


「雨上がりの竹林も、とっても綺麗なんだよ。その上、今の時期の青竹の美しさって一度見せたかったんだ。アスカに。」

「うん。竹の子もいっぱいお土産に出来るかな。」

「意外とみんな好きだよ。竹の子御飯って。」


そこでまた暫く立ち話。幾ら2重鍋でも竹の子御飯は冷えてしまっただろうけどまだ気がついていない二人だった。
そのうえ結局部屋まで送って行くと言ってドアの前までやってきてしまった。無粋なお姉さんは空腹を抱えて待っていて、
足音を聞きつけてテレビフォンのスイッチを入れた。


「全く11階からちょっと降りてくるのに何時間かかってるのよ。」


叫ぼうとした画面に現れたのは、お鍋を身体の間に挟んで、額をくっ付けている二人の姿だった。




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「へえ、そんな事があったの。」

「全く当てられて困っちゃったわ。出て行くわけにもいかないしさ。
結局冷たい竹の子御飯にありついたのはさらに30分も後だったのよ〜」

「結局私達の思惑通りになったんだから、喜ぶべき事だったじゃない。あら、これほんとに美味しいわね。」


残った竹の子御飯をおにぎりにして海苔を巻いた。それが今日のお弁当。
お相伴に預かったリツコも、目を細めてもぐもぐと味わっている。溜息をつくミサト。


「それはそうなんだけどさぁ。」


二人の幸せは喜ぶべき事だけれど、これから先が思いやられるのだった。うらやましいのだ、正直に言えば。


平和になった使徒戦役終了後。
互いにギクシャクしたままのアスカとシンジを目の当たりにしてお姉さんたちは一計を案じた。
毎日毎日面つき合わせてたら喧嘩だってする。
一旦喧嘩になって傷つけあえば、全て相手の責任としか思えないのが1年前の子供達の心理状態だった。
自分の欲しいものがわかっていなかった。素直になれない事でどれほど自分自身が傷ついたか。
求め合っても相手に示すゆとりが無い。与えて欲しいと泣き叫んでいただけ。
可愛い二人に、自分たちの轍を踏ませたくなかった。


「つまり、そこに相手がいないって事がどれほど不自然かって事に気づく。それさえわかればね。
学校は今まで通りだけど、別々に住まわせる。通学路は安全確保のためにとかいって別々のルートと時間にする。」

「でも、もしそのまま縁遠くなっちゃたらどうすんのよ?」

「きっかけが擬似恋愛的要素だって言うのは確かにあったと思うわ。
でも、そうであったとしてもあの二人が互いに魅かれあっていて求めあう気持ちに溢れているならいいじゃない。
相手を喪っている間に、その純粋性と情熱はむしろ高まるものでしょ。」

「確かにわたしと加持の時もそういうことがあったかもしれないわね――」

「時間が育む要素って言うのはあるのよ。互いの心のうちで熟成していく時間が必要なのね。
もちろん咄嗟に燃え上がる恋ってあるかもしれない。でもあの子たちはそうじゃないと思うわ。」


濃いコーヒーの香りが立ち込めているリツコの研究室。1年前、ここで姉を自認する二人は企んだ。

そして、今日二人の可愛い妹と弟は、レインコートを着て、朝から出かけていったのだった。






手を繋いで歩くのがこんなにうれしいと言う事を知らなかった。
照れくさくて、温かくて、抱き合っているよりももっと隣の人に近い気がする。
時間を止めたように、傘の水滴に映る笑顔。
雨の日の、緑。ぶなや、ケヤキ、カンバやミズキ。カワヤナギ、シイや栗。
そして狐が尻尾を振っているように揺れている竹林。
一つとして同じ色は無い。山々の、丘陵の、稜線がけぶっている。その黒い影を低い雲が渡っていく。
その中に、アスカとシンジの二人がいる。
この景色の一つとなって、溶け込んでいく。6月の風景の中に。













梅雨の景色の中に 2005-JUN-14修正 komedokoro



こめどころさんから当サイトへ初投稿を頂きました。

全てが終わった後の世界。

揺らぐ互いの心を、日本の変わりゆく季節にのせて。

瑞々しく清々しい風景描写は涙出るほど素敵です。

…これ以上はコメントをするのも憚られるくらいの名作だと思います。

余韻覚めやらぬままに、みなさんもこめどころさんに感想メールを…。











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