(Telop in)
A.D. 2016 June.
Tokyo-3, Residental quarter in suburbs.





以前に比べるとすっかり人の気配がなくなった第3新東京市に雨が降り続いていた。

その市街地のほとんどの面積は第16使徒との戦闘により失われている。

暗い空と降り続く雨によって風景は全てくすんだ灰色に塗り替えられていた。


街外れのひっそりとした住宅地にひとり佇むアスカは、雨に濡れていた。何時間も、何時間も。


あの日もこんな雨だった。


衛星軌道からの精神攻撃。

なすすべもなく木偶人形と化した弐号機。

傷ついた心。

失われたシンクロ率。

そして、人生の中で最も思い出したくない母とのあの忌まわしい思い出。

全てが彼女の心を弄んだ。

凌辱した。

それ以降、弐号機がアスカに心を開くことはなかった。


セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレーは自らのレゾン・デートルを失った。


今の彼女には生きる目的も価値も何も見いだせはしなかった。

目的があって生きているというよりは、死ねないから生きている、そんな存在。


ここに来たのもだれにも会いたくなかったから。

しかし、だれかにそばにいて欲しくもあった。

アンビヴァレントな感情が彼女を支配していた。







































常夏の第3新東京においても長く冷たい雨は彼女の体温を確実に奪っていった。

唇は紫色に腫れ、皮膚の感覚は痺れたようなものから無感覚へと変わりつつあった。

たっぷりと水分を含んだ少女の赤みがかった金髪と制服はまるで彼女を縛る戒めのように身体全身に纏わりつく。

やがて、立つ力もなくなった少女は街路樹の根元に寄りかかり、崩れるように座り込んだ。

(ここで、このまま死ねたらいいのに。優しかったママにもう一度会える。)

アスカはぼんやり考え、目を閉じた。



「…アスカ…アスカ…」



どこかからだれかが呼んでいるような気がする。

ママなの? アスカがさびしそうだからお迎えに来てくれたのかなあ。

アスカ、ママに会いたいな。

ママ、どこにいるの?



遠のきそうな意識を現実の声が呼び戻した。

「惣流!何してんだよ!こんなところで!」

気がつくとアスカは両肩を誰かに揺さぶられていた。
うっすらと目を開けると心配そうなケンスケの顔が浮かんだ。

「あ…相田…なの?」

「ああ、オレだよ。しっかりしろ。こんなに冷たくなっちまって。」


その見慣れた顔はアスカをホッとさせた。

しかし、こんな自分の姿はだれにも見られたくなかった。

ケンスケと目を合わせることも躊躇われた。


「ここにいちゃダメだ。オレん家にいって、身体を拭こう。」


アスカは虚ろな表情のまま、微かに頷き、ケンスケの腕に掴まった。

ケンスケはアスカを半ば抱えるように自分の家へと連れて行った。

歩いて5分ほどの住宅街に彼の住まいがあった。

町はずれであるが故に第16使徒の爆発からは辛うじて逃れてはいたが、周囲の住人は殆どがその居を変えていた。

それでも彼が第3新東京に残りたいと主張したのは、やはりアスカのことが気になっていたからである。


アスカは何とかひとりでシャワーを浴びられるようだ。

浴室の使い方を説明し、清潔なタオルと着替えを渡すとケンスケはすぐに脱衣場から退散した。

ケンスケ自身は、アスカがシャワーを浴びている間に体を拭いて衣類を替えただけだった。

彼自身はそんなに長く雨に当たっていないし、なにより少しの間もアスカから目を離したくなかった。

彼女の様子は普通ではなかった。

少しでも長くそばにいてやりたかった。


少しでも温まるようにとコーヒーの準備をしているとアスカが覚束無い足取りで浴室から出てきた。

シャワーからあがってきたアスカは、頭にバスタオルをまいて大きなTシャツとケンスケの新品のショートパンツだけを着けていた。


「惣…ア、アスカ。大丈夫か。ここで楽にしろよ。」

ケンスケは抱きかかえるように大きなクッションの上にアスカを導いた。

まるであやつり人形の糸が弛んだかのようにアスカはそこに座り込んだ。


湯上りの彼女はこの上なく色っぽかった。

呆然とした表情はまったく外界に対して無防備に見える。

素肌にTシャツだけを着た上半身は身体の線がくっきりと浮き出ていた。

ショートパンツから出た脚は驚くほど白い。


顔を赤らめたケンスケは思わず顔を背けた。

(まいったなぁ。今のこいつの姿はとてもまともに見られないよ。)

「ちょっと待ってろ。女物の下着を探してくるよ。」

そう言って立ち上がろうとしたケンスケは抵抗を感じて、はっとした。

アスカがケンスケのシャツの裾を引っ張っていた。

目は虚ろに宙を見たまま。

「…いい…ここにいて…」

「でも……」

この状況に躊躇するケンスケ。


アスカの頭からバスタオルがするりと落ちる。

まだ半ば濡れている彼女の金髪が露わになった。


アスカは目線を虚空からケンスケの顔へと滑らせた。

「 ねぇ 相田ぁ 」

そう呼びかけたアスカの声はぞっとするほど艶色を帯びていた。

「な、何だよ。」

「 キス…しようか 」


 ドクン


ケンスケの心臓は早鐘のように打ち始めた。

想いを寄せる女性からのキスの誘惑。

それは男にとってこの上ない天上の調べに聞こえるはずだ。


しかし、今のケンスケにはそうは思えなかった。


『キスしちまえよ!おまえこいつのことが好きで好きでたまらないんだろ!』

もうひとりの自分の声がする。


ちがう!ちがう!ちがう!

こんな風にアスカとキスしていいわけないだろ!いくらオレがこいつのことを好きでも!!


深く息を吸い込んで、やっとの思いで言った。

「…オレはイヤだよ。今のおまえとそんなこと…できない。」

「…どうして…?」

「そんなのアスカじゃない!オレの知ってる惣流・アスカ・ラングレーじゃないよ!!」



アスカの大きく見開いた目がケンスケを見た。表情を失った顔は能面のようだ。

二人の間に完全な静寂が流れた。


「ふふふふ」


いつのまにかアスカは笑っていた。


「あっはっはっはっはっはっ!」


次第に笑い声は大きくなり哄笑ともいえるものになっていた。

身体を揺すりながら立ち上がり虚空に視線を彷徨わせるアスカ。

虚ろな目でケラケラと笑う彼女は、空恐ろしさすら感じさせた。


突然、興奮状態のアスカの絶叫が始まった。

「やっぱり!やっぱりアンタもなの!アンタもアタシがキライなんでしょ!」

「パパもママもアタシを嫌ってた!シンジやミサトだってアタシのことなんかキライなはずよ!こんなわがままな女のことなんか!」

「ファーストには『機械人形』だなんて言ってやったわ!ザマーミロ!だからあの子もアタシをキライなはずよ!」

「世界中の人がみんな‥みんなアタシのことをキライなのよ!こんな役立たずの女なんかぁ!!」

がくりと座り込み、声が小さくなった。

「Scheisse…NERVにだって見捨てられてるのよ。今までなら雨に濡れてたりしたら黒服がすっとんできて連れてくくせに…おおかた役立たずのパイロットなんか雨に濡れてくたばったらいいと思ってるんだわ。たぶんアタシが死んでも替わりはいるのよ…これがエヴァを動かせなくなったパイロットの末路なの。 あははははは。」

顔を伏せた彼女の顔を纏めていない金髪が覆う。


ケンスケはアスカの肩を掴み、懸命に呼びかけた。

「アスカ!」

身体を小刻みに震わせ、小さく虚ろな声で笑い続けるアスカ。

「アスカ!!」

肩を抱いて顔を上へと向かせる。



その顔は笑っていなかった。

涙でくしゃくしゃになり、悲しみに歪んでいた。



ケンスケは思った。

今、目の前にいるのは世界を守るために戦っている完全無欠のスーパーヒロインではない。

孤独と必死に戦っている、か弱い少女。

そして、今彼女を守ってやれるのは世界で自分だけしかいないのかもしれないということ。

どうすればこの娘の魂を救ってやれるのか。

彼には見当もつかなかった。


ケンスケはアスカの肩を両腕でしっかりと抱いた。

苦しくないように、しかし、しっかりと。

最初アスカは抵抗したが、次第にそれは力を失った。

いつしか彼女の頭はケンスケの胸にすりつけられていた。

ケンスケの腕の中のアスカの感触は今まで感じたことがないほど、儚く、弱々しかった。


シャツを通して、胸がアスカの涙で濡れるのを感じた。


ケンスケの腕の中からアスカの、か細く震える声がする。

「…相田…ごめんね…」

「…何がだよ。」

「前に言ったことがあったよね。『あきらめなければ夢は叶う』って。」

「ああ。」

「えらそうなこと言って…ごめん。アタシにそんなこと言う資格なんて…なかった。」


「何言ってんだよ。オレ 本当に勇気づけられたんだよ!おまえの、あのことばに。」


「ホントはね。アタシ怖かったんだ…そう信じていないと自分が消えてなくなりそうで。」


「もういいよ!もういいから…」

「あの手のヒラの話もね。ホントは…アタシ自身のことなの。」

「えっ?」

「ホントはね。アタシがね、今まで挫けそうになったときは、自分の手のヒラを見て『がんばれ!アスカ!』って自分に…」


ケンスケの脳裏に、悲しげな顔をして何度も小さな自分の手のヒラを見つめる幼い頃のアスカの姿がよぎった。

歯をくいしばらないと自分が涙を流してしまいそうなほど悲しかった。

『チクショウ!なんでだよ!なんでこいつがこんなつらい思いをしなくちゃならないんだよ!こいつは今までずっと必死にがんばってきたんじゃないのかよ!なのに!なんでなんだよ!!チクショウ!!』

彼はアスカを取り巻く運命を呪った。

今ここで自分まで泣くわけにはいかないと必死で涙をこらえた。


ケンスケの身体の震えはアスカにも伝わった。

アスカは思った。

この人はアタシのために悲しんでくれている。

それだけで荒みきった心が少し救われたような気がした。


アスカは腕をケンスケの背中に労るように沿わせた。

「相田…もういいの。アタシには全部なくなっちゃったから。ただ、相田には謝りたかったの。でも…」

アスカは涙を拭おうともせずにケンスケを見た。

「相田にしてあげられることなんて何も…思いつかなくて。」


(オレはいったいどうしたらいいんだよ?どうしたらこいつを救ってやれるんだ?)


思考の迷路に陥ったケンスケに、震える声が不安そうに問いかける。

「相田は…わたしのこと…嫌いじゃないよね?」

涙で溢れる瞳が息がかかるほどの距離でケンスケを見つめた。

いつもの強気なヴェールが取り払われたそれは哀願するような縋るような悲しい瞳だった。

まるで『わたしを嫌わないで!』と叫んでいるような瞳。

ケンスケは思った。

この瞳にウソはつけない。

「嫌いなわけないだろ…好きだよ。」

そのことばを聞くとアスカはケンスケの胸にそっと頭を埋めた。

「じゃあ今だけでいいの…わたしを抱きしめて…お願い…」

「アスカ…」

「ケンスケ…」

見つめ合うふたり。


ゆっくりとふたりの唇は近づいた。





そして……








つづく









(2006/10/24掲載)


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