妹が泣き出すとシンジは速やかに教室を出て行く。

そのまま隣の教材室へと駆け込み、授業中のおしめの交換やミルクの摂取はこの部屋で行う。

雑然としてホコリっぽかった部屋は、今やチリ一つないほど掃き清められ、空気清浄機が年中無休で稼働中。

ここに至るまで父と義母の気配りは行き届いていた。

しかも放課後ともなれば、人影のいなくなった校舎に、一個大隊に匹敵するお掃除部隊が出没する。

もちろんネルフの私費で投入された彼らは、教室はおろか校舎全体を徹底洗浄してまわるのだ。

クリーンスーツに面体を着けた彼らが闊歩する姿は、さながら百鬼夜行のようであったという。(相田ケンスケ・談)

清潔を旨としなければならない乳児へ対する配慮なのであるが、そこまではさすがにシンジも知るところではない。

金のかけ方が根本的に違うような気がしても、突っ込むのは野暮というもの。

むしろゲンドウ・リツコ夫妻の息子への思いやりこそ汲むべきである。

両親の気づかいを肌で感じながら、シンジはおしめの交換を終える。

匂いなんてなんのその、汚れた紙オムツを実に手慣れた様子で備え付けのダストシュートに放り込む。

石けんをたっぷりつけて洗って消毒。よく拭いた手で、機嫌を戻した妹の頭を撫でてやる。

くすぐったそうに身をよじり、伸ばしてくる紅葉のような小さな手。

それに人差し指を掴ませ、軽く振る。

「ん〜? どうしたのかな?」

目を細めるシンジの表情はこの上なく優しい。

思えば、自分が嫌いだった。

誰も気にかけてくれなくて、誰も守ってくれない自分が、死ぬほど嫌いだった。

そんな僕より脆弱な存在があるなんて。

ましてや実の妹だ。

血の繋がった存在が、こんなに愛しいなんて初めて知った。

歳が離れているからといって父親ぶるつもりはないけれど、可愛くて可愛くてしようがない。

頬ずりしながら、お兄ちゃんなんだからしっかりしなきゃ、僕が守ってあげなきゃと決意を新たにする。

おっと、だったらいつまでも、ここで油を売ってはいられない。

「よし、教室に戻ろうね。いい子だから大人しくしてるんだよ?」

派手に両手を振り回して腰を捻る妹を抱え直し、シンジは教室へと舞い戻る。

静かにドアを引いて入ってくるシンジに、特に注意を払う生徒はいない。もはや慣れっこの光景であるから。

だが、例外が二人だけ存在した。

そっと振り返ってくるレイに、呆れたように三白眼で見てくるアスカ。

むろん、大事に大事に妹を抱きかかえたシンジは彼女らの視線に気づきもしない。

当然、彼女らの心理も知りうるべくもない。

いや、それなりにシンジは知っていたつもりだろうが、事実は小説より奇なるもの。

ゆえに笑い話と形容するにはちょっと微妙なこの事件は、起こるべくして起きたともいえるかも知れない。




































午前中の授業終了のチャイムが鳴り響く。

教師が出て行くと同時に、辺りには雑然とした空気が蔓延した。

机の上にパンやおにぎりやらを広げるもの、弁当包みを持って教室を出て行くもの、購買部へ駆けていくもの。

みなが思い思いに昼食の準備を進めて行く中、不機嫌なアスカの声が炸裂する。

「アンタ、赤ん坊のばっかに気ぃ配って、あたしたちのお弁当忘れてどーすんの!!」

さすがのシンジも妹を抱えたまま、しまった、という表情になる。

確かに出がけにバタバタしてしまった。だから、自分たちの弁当の分まで気が回りきらなかった。

お弁当の包みはおそらくキッチンの流しの脇に仲良く並んでいるはず。

でも、アスカがもたもたしてたのも、原因だよなあ…?

とは思ったものの、口には出さずグっと堪えるシンジ。

替わりに、

「じゃあ、購買部でパンでも買ってくるよ」

「あのね、そんなもんであたしが満足すると思う?」

「……我慢してよ」

シンジの懇願を、アスカは断固拒否した。

胸を張り、眉を吊り上げ、金髪の少女は盛大に指を突きつける。

「最近のアンタはタルんでるのよ! そりゃあお兄ちゃんになって浮かれるのはわかるけどさ。もっと大事なこともあるでしょ?」

大事なことって毎日おまえさんの弁当を作ることかー? という鈴原トウジのツッコミを、アスカは完全無視。

「そもそもね、面倒見る方も体調万全にしておかなきゃならないのよ! それが出来ないで相手の面倒見るなんて片手落ちだわ!」

さもアンタの為に言ってるんだからね、と匂わせつつ、更に勢いは加速する。

「そんな些細な失敗から連鎖的に大失敗することもあるんだからね!? あとで後悔しても遅いんだから!!」

その勢いは、シンジも神妙に頷いて拝聴してしまうほど。

「とにかく、いい? 一つの事にばっか集中していると足下の石にもつまづいちゃうんだからっ!!」

弁当を忘れたことからここまで関係のない結論に発展させたアスカの弁舌は、たぶん賞賛に値するだろう。

そんな日頃のストレスを多少なりとも発散させた彼女の脇で、ポツリと漏らす人影がある。

「…足下の石がよくいうわ」 

「…ファースト? アンタなにかいった?」

「別に…」

しれっと明後日の方向を向くレイに、アスカが半ば掴みかかる。

「ちょっと、アスカ止めて! ね? ね?」

委員長を務める洞木ヒカリが仲裁に入るが、どうにもアスカは止まらない。

彼女がヘッドセットのように顔を紅潮させ、灼熱の言葉を吐き出そうとしたとき。

「うん、わかった。じゃあ、今からお弁当とってくるから」

反省十分といった声と表情で、シンジはアスカとレイの間に割って入る。

「ごめんね、アスカ」

「え? え、ええ…」

こう素直に来られては完全に毒気は抜かれてしまう。

拍子抜けする同居人の少女に、シンジは言う。

「じゃあ、ケイのことよろしく頼むよ」

「……はい?」

「大丈夫、タクシー使うからすぐ戻るよ」

気がつけば、シンジが駆け足で教室を飛び出していくところ。

…あれ? どうして腕の中が重いのだろう?

なにがワキワキ動いているんだろう?

青い瞳が視線を落とす。

だー、という言葉にならない声を響かせ、小さな手がアスカの肩に流れる髪の一房を無造作に掴んだ。

「いたたたたっ…!!」

小さく悲鳴を上げるアスカが果たして何に見えたのか。赤ん坊はふくふくとした頬を歪ませる。

これはたまらないとばかりにアスカは周囲を見回す。

ところがみんな笑って見ているばかり。手を差し出してくるものはいない。

仕方ないから、

「ファースト、パス!」

「……」

仏頂面で受け取ったレイだったが、腕の中の赤ん坊に向ける笑顔は花も恥じらうくらい優しげなものになる。

抱えた腕ごとゆっくりと身体を前後に動かす姿は、ずいぶんと様になってきていた。

「…アスカが碇くんに頼まれたんじゃないの?」

咎めるような感じで見てくるヒカリの視線に、アスカは少しだけたじろいだ。

「でも、ほら、あのね、適材適所という言葉もあるし…」

どういっても言い訳にならないことは自覚していた。その証拠にレイと赤ん坊に群がる他の女生徒の視線が冷たい。

…っていわれても、あたしには出来ないんだからしようがないじゃない!

むろんアスカにはアスカの言い分がある。

学校だけにはいうに及ばず、マンションでも赤ん坊の面倒を見ているシンジだけど、殆ど一人で片づけてしまうのだ。

そりゃあこっちが手伝う気もないわけではないけれど、アイツが好きでやっているんだもの。

その楽しみを奪っちゃ可哀想でしょ?

心の中で唇を尖らせてみても、誰も同意してくれない。

仕方なく、赤ん坊を取り巻く輪の外で所在なさげに佇んでみせる。

やっぱり誰も同情どころか構ってもくれやしない。

なんなのよ、もう! …全部シンジのバカが悪いのよ、そうよ!!

だいたい、おしめの10枚20枚くらいでケチケチするんじゃないわよ! 失敗は成功の母って言葉知らないのかしらね?

もう、アスカに頼まないから、ですって? こっちからお断りよ!

ああ、お弁当を持って戻ってきら、もっとネチネチいじめてやる。

そう決意を新たにするアスカの耳に、爆発的な赤ん坊の泣き声が響いた。

「ど、どうしたの!?」

クラスメートの輪を抜け中心へ辿り着けば、レイが机の上に赤ん坊を寝せて、おしめを外しているところ。

「…汚れていない」

おしめを当て直す手際は、シンジに負けず劣らずの鮮やかさ。

目を見張るアスカの前で、デイバックからミルク缶を取り出したレイは、困惑した声を上げた。

「哺乳瓶…どこ?」

取り巻いていた全員があたりを見回す。

「予備もないのかよ?」

相田ケンスケが声を張り上げるがレイは首を振る。

「なによ、本当にないわけ!?」

ここぞとばかりにアスカが参戦、バックの中を引っかき回すが目当てのものを見つけられない。

「シンジ! アンタいったいどこに…!!」

言いかけて、アスカは罰の悪そうな顔になる。

他ならぬ自分がシンジを弁当取りに走らせたのだから。

しかしながら他の生徒たちはアスカの心情を斟酌している余裕などなかった。

赤ん坊、碇ケイの泣き声が、もえさかる炎のように大きくなったのである。

開け放たれた教室の入り口から響いた声に、廊下を行き交う他のクラスの生徒たちも覗きにくるほど。

「おい、まず教室の扉をしめーや!!」

トウジの号令一過、教室のドアはぴしゃりと閉ざされた。

「やっぱりお腹空いているのかしら?」

困ったような表情で、ヒカリは赤ん坊の涙で濡れた頬に手を当てる。

他のクラスメートたちに至っては右往左往するだけで、どうしようもない。ちょっとしたパニック状態である。

だから全員気づかない。

三時限目の休み時間に、シンジが哺乳瓶を洗ってをバケツに浸け起き、ベランダへと出しておいたことに。

誰かしら目にしていた光景のはずなのだが、火のついたような赤子の泣き声に、みな冷静さを失っている。

「なんかくわえさせるものないのかな? おしゃぶりみたいなの」

ケンスケの主張はナイスアイデアに思えたが、おしゃぶりそのものが無ければしようがない。

赤ん坊を抱き上げ、必死でレイはあやすが、まるで火に油を注ぐかのよう。

アスカも迂闊に手を出せず見守ることしか出来ない中で、青い髪の少女は思いがけない行動を取った。

「…抱っこしてて」

手渡され、今度は素直に赤ん坊を受け取ったアスカの目の前で、なんと彼女は制服のブラウスのボタンを外し始めたではないか。

「ファースト!! あんたなにやってんの!!」

「男子は全員後ろ向いて!!」
 
ヒカリの悲鳴にも似た命令に、男子は全員その場で回れ右をする。

「綾波さん、一体なにを…?」

アスカと同じ問いを発する委員長に、レイは恥ずかしげもなく答えた。

「おっぱいをくわえさせるの…」

小さな声にも関わらず、耳をそばだてていた男子の連中が動揺するのがロコツに分かる。

「ちょっ…!! それはいくらなんでも…!」

叫びかけて、ヒカリは何も言えなくなってしまった。レイの表情こそ茫洋としているが、赤い瞳に宿る真剣な色。

となれば、自分に出来ることは限られている。

「男子は背中を向けたまま出来るだけ遠くにいって! 絶対振り返っちゃだめよ!?」

隣で難しげな顔をして黙り込むアスカを横目に声を張り上げた。

「女子は丸くなって壁を作ってあげて!」

赤ん坊を囲むレイとヒカリとアスカの三人を中心に、たちまち女子ばかりで構成された円陣が完成した。

泣き叫ぶ赤ん坊の声にみなが気遣わしげに眉を顰める中、粛々とレイはブラウスのボタンを外し終える。

飾り気のない白い下着があらわになった。それを外そうと背中に回された腕が、不意にむんずと掴まれる。

不可解そうに見てくる赤い瞳には、アスカの姿が映っていた。

「…そこまでよ、ファースト」

「……どういう意味?」

不愉快そうな右目と心配そうな左目が、アスカと赤ん坊の間を往復した。

意外と器用なのねファーストって、などと思いつつ、アスカは胸を張る。……大丈夫、ホッペタは赤くなっていない。

「あとは、あたしがやるわ」

その宣言に、驚く視線が四方八方から突き刺さってくる。

表面上、アスカは平然とそれらを受け止めて、自分のブラウスへと手をかけた。

「いい。私がするもの…」

「いいから!! だいたい、あたしが最初にシンジから頼まれたのよ!?」

レイの腕を掴んだまま、器用にアスカは片手でブラウスのボタンを外していく。

もはやこれは意地の張り合いだ。

アスカ自身、それを意識している。

とにかく、頭の中で警報が鳴ったのだ。

これ以上、ファーストの好き勝手にさせちゃダメ。

このままじゃ、ファーストの方が赤ん坊の世話、上手くなっちゃう。

そうなれば、ファーストがシンジと一緒に世話をするようになって…。

根拠もなにもないヴィジョンが浮かぶ。

一緒にベビーカーを押しながら楽しげに歩く碇シンジと綾波レイの姿。

そんなもの見たくもない。実現させたくもない。

自分でもイマイチ不確かな衝動が、アスカを突き動かしたのだ。

かくして、上半身をはだけた美少女二人が赤ん坊を取り合うという珍妙な光景が出現するに至る。

「いいからかしなさいってば!! あたしがするから!!」

「…ダメ。私がするの。碇くんの妹だもの…」

赤ん坊自体も泣き叫んでいるいるものだから、姦しいことこの上ない。

それでも、基本的な身体スペックの高さゆえか、アスカが赤ん坊を強奪することに成功する。

泣き声を上げる小さな身体を抱え込み、アスカはブラジャーのホックへと手をかけた。

周囲は女子ばかりとはいえ、それなりに緊張する。

…ええい、女は度胸よ!!

そろそろとカップの部分をずらしながら、ふと思う。

これって、くわえさせたからってお腹が膨れるわけじゃないわよね? じゃあ、するだけ無駄?

でもとりあえず泣きやんでくれないことには。

アスカは改めて赤ん坊を抱えなおす。

どういうわけか心臓の鼓動が高鳴った。なんでだろう…?

羞恥以外の感情で頬を染め、アスカが真っ白い乳房をさらけ出そうとしたとき。

「どうしたの? 何かあったの!?」

ひょっこりと円陣の中に姿を現した人影。

息をせき切らし、弁当を抱えた碇シンジその人だった。

「ああ、碇くん。ケイちゃんがね、お腹をすかし……て………ね?」

ヒカリの声もそこまでだった。

どうしてここにシンジがいるのか。

男子禁制のこのサークルの中に。

残念なことに、ヒカリには詮索する暇も悲鳴を上げる間もなかった。

次の瞬間、顔を真っ赤にしたアスカの強烈極まりないドロップキックが、シンジの顔面を捕らえていたから。

「なんでアンタがここにいるっっ!?」

赤ん坊を抱えたまま、そのままくるりと宙で一回転して着地したアスカの運動神経は絶賛されてもまだ足りないほど。

怒りのあまり熱い鼻息を拭きあげる彼女の目前から、シンジが遠く教室の端まで吹っ飛んでいく。









「だから、ごめんってば。見てないってば…」

「うっさい!!」

放課後。家へ帰る道すがら。

一体自分は何度謝ったことだろう?

ベビーカーを押しながらぼやくシンジの顔面には、絆創膏とシップがべたべたと貼ってある。

キックを喰らって吹っ飛んだあとも、制服を整えたアスカから追加攻撃を貰ったのだ。

「あ、あ、アンタってヤツは…!!よりによって…!!」

後は言葉にせずボッコボコである。

帰り道、ずっとこちらに背を向けたままのアスカの姿を視線で追う。

彼女が、身を挺して赤ん坊の面倒を見てくれたのは嬉しい。

嬉しいけど、哺乳瓶がないからといって本当におっぱいを飲ませようするとは思わなかった。

アスカは、ファーストが発案したのよ! と五月蠅いくらい言っていたけど。

残念なのか幸いなのか、肝腎の光景を目にすることはかなわなかった。

彼の網膜に焼き付いた光景は、アスカの内履きの底。正真正銘それだけである。

ところが、先ほどからいくらそう説明しても、アスカは一向に機嫌を直そうとしない。

「ケイ、どうしたらいいんだろうね?」

苦悩と苦痛に悩まされる兄の顔を見上げ、ベビーカーから笑い声が響く。

妹の無邪気な笑顔に笑顔で応じ、シンジは思う。いつまでもクヨクヨしてはいられないや。

「じゃあ、僕はネルフ本部へ拠っていくから…」

まだこちらを見ようともしないアスカの背中に、シンジは声を投げる。

今日はゲンドウとリツコが久方ぶりに帰国する日だ。

二人とも、本部で、娘の到着を心待ちにしているだろう。

時間があれば、久しぶりにみんなで食事くらい出来るかもしれないな…。

ぼんやりとそんなことを考えていたものだから、隣にアスカが来たことにも気づかなかった。

首をすくめて横を向けば、静かな青い瞳が併走している。

とくに何の感情も湛えていない色が返って恐ろしい。

「あたしも行くわよ」

「…どうして?」

と質問してから、シンジは自分の迂闊さを呪う。

案の定、アスカは目を大きく見開き、唇を尖らせて……そっぽを向いて言った。

「…ふん。どうせアンタたちだけでなんか美味しいもんでも食べる気なんでしょーが?」

「え? う、うん、どうかな…?」

動揺してしまうシンジに、アスカはなおそっぽを向いたまま続ける。

「あたしにも、ご馳走になる権利、あるわよね?」

「そりゃもちろんだよ」

今度は即答した。自分でもそう思うし、否定出来るほど命知らずでもない。

「うんと高いもの奢らせてやるんだから……!」

なお視線を合わせぬまま言ってのけるアスカに、シンジは内心で安堵していた。

とりあえず、アスカの機嫌の直る目処は立ったかも知れない。












ネルフ本部の人間は、さすに二人がベビーカーを押してやってきても、劇的な反応を見せることはない。

むしろ青葉シゲル、日向マコトらの知り合いは、顔を合わせれば労ってくれるほどである。

「ああ、司令たちは先刻から執務室でお待ちだよ」

教えてくれたシゲルに丁寧に礼を述べてから、二人とベビーカーはエレベーターへ。

それなりに厳重なセキリュティを突破して辿り着いた執務室には、教えて貰ったとおりすでに碇夫妻が待機していた。

「…ご苦労だったな、シンジ」

入室早々ゲンドウが短く労い、リツコは笑みを浮かべながら近寄ってくる。

「ありがとう、二人とも。…ごめんなさいねケイちゃん。忙しいママで。もっと一緒にいて上げたいんだけど…」

悲しげな申し訳なさそうな義母のその顔に、シンジは少しだけ妹に嫉妬を覚える。

…いや、僕も母さんから愛されていたと思う。覚えてないけど、きっとこんな風に。

頭をふって雑多な感情を追い出しながら、シンジは、ここ数日の出来事を申し送った。

特に変わりはなし。

そう、ご苦労さま。笑いながらリツコは娘を抱き上げ頬ずりした。

その隣で、デスクに座ったままのゲンドウの右手が、娘を求めるように斜めに揺れたのが微笑ましい。

照れ隠しのように咳払いをして、厳ついヒゲに覆われた口が開く。

「ごほん。…ど、どうだ、これから食事にでもいかんか…?」

「うん…そうだね」

答えつつ、シンジの視線は妹に釘付け。

妹の面倒を見るのは正直大変だ。真夜中におしめを交換したりミルクをやったりも当たり前。

だけど返すとき胸に去来するこの寂しさ。

どうせすぐ会えるのに、可笑しいね…。

兄の視線に気づいたのだろうか、幼い瞳がこちらを見た。

続いて伸ばされた手に指を預ければ、力一杯握ってくる。

愛おしげに余った指で小さな手をさすっていると、赤ん坊を抱えたままのリツコの顔が近づいてきた。

黒く染め直された髪が、シンジの頬をくすぐる。

「…アスカがおかんむりみたいね。今日は真っ直ぐ帰ったほうがよさそうよ?」

クスクス洩れた忍び笑いが耳朶を打つ。

慌てて、それでも横目でゆっくりと振り返れば、なるほど、アスカは右肘を左手で掴むようにして不機嫌に立ちすくんでいる。

だからシンジは言った。

「ごめん、父さん。食事はまたの機会にするよ」
















「何よ、なんで食事の誘い断るのよ…」

食卓の上に皿を並べながらアスカが悪態をつく。

それでも心なしか嬉しそうな声に、シンジは胸をなで下ろしていた。

これで食事に行ったりしたら、壊滅的にアスカの機嫌は悪くなっていただろう。

父さんが寂しそうな顔をしてたけど、今回は許して貰って。

リクエスト通りのハンバーグを焼きながら、シンジはふと疑問に思う。

でも、とりあえず今は料理に集中しよう。

一方、シンジの推察通り、アスカの機嫌は大分回復していた。

奢ってもらう、などといってはみたものの、家族水入らずを邪魔する気はサラサラない。

もし本当にシンジが食事へ行ってしまったら、一人寂しくコンビニでサンドウィッチでも囓るつもりでいた。

それがマンションに帰ってきて大好物のハンバーグ。まさしく雲泥の差だ。

いい匂いに期待を高めながら、忙しく働くシンジの後ろ姿を眺める。

やっとこれで二人きりだ。ようやく予定どおりだ。これが本来のあるべき姿なのだ。

…別に二人きりだからああなったりこうなったりするわけじゃないけれどさ。

自分のなかにある独占欲に、アスカはとうに気づいていた。

本来、シンジはあたしにだけ従順な存在であるべきだ。

それが、他ならぬアイツにとっての罪滅ぼし。贖罪になるのだから。

そう認めさせて、了解させて、言質までとったのに。

横からしゃしゃり出てきたアイツの妹。

だからどうにも邪険にしてしまう。触ろうとして手を引っ込めてしまう。

シンジの妹だとは頭で分かっているんだけど。

これは、嫉妬? 嫉妬…なのかなあ?

それはそうとシンジのヤツだ。

あのバカ、たちまち生活スタイルをあの子中心に切り替えてくれた。

正直、気にくわない。

そんなもの、後出しじゃんけんと同じでしょ?

あっさりと誓いを破ったシンジは、もっと馬鹿で気にくわない。

あたしを二の次にしてしまうアイツの思考が。

…結局、アイツは、あたしのことをどう思っているのだろう?

さすがにそこまではっきり言質を取っていない。明言させていない。

相手の傷口に指を突っ込んで『愛しているといってみろぉ!!』と強いるほど、あたしは恥知らずじゃないのだ。

と自分で自分を慰めてみるも、少しだけ不満なのは事実。

一言『好きだ』とか面向かっていってくれれば、安心できる。確証がもてれば安心できる。

もっとも、易々と応じてやるつもりもないけどね。

せめてもっと態度ででも示してくれれば、こんな不安も消し飛ばせるのに。

「はい、アスカ。出来上がったよ」

卓上に、良い匂いのするお皿が滑って来た。
 
…あたしの好きな料理を作ってくれるのは、態度の内にカウントしないことにしよっと。

そう決めて、アスカはハンバーグに齧り付いた。






食事もあらかた食べ終えるころ、お代わりのお茶を注ぎながらシンジが質問してきた。

「ねえ、アスカ。もしかしてキミって、子供苦手なの?」

アスカは答える。

「そりゃあ子供なんてキライよ。うるさいし、手間かかるし…」

本心でなくなったことを言い返す。

「そんなこといっても、僕らも昔子供だったんだよ?」

一般論を聞き流し、ハンバーグの最後のカケラを頬張る。

今日のは特に美味しい出来だった。満足満足。

冷たいジャスミンティーで口のなかの油を流していると、シンジは空いた皿を重ねながら言う。

「でも、出来たら、好きになって欲しいんだよ…」

ジロリとアスカは睨んでしまう。それはこっちの台詞だっつーの。

心の中で叫んでも、やはり聞こえないのだろう。

でも少しくらい感じ取ってくれりゃいいのに…。

期待に反して、シンジは朴訥に言葉を紡ぐ。

しかし内容は、アスカにとってショッキングなものだった。

「その、ケイは僕の妹だけど、アスカや綾波にとっても妹みたいなものじゃないか…」

満腹で鈍くなった脳に、じんわりと意味が染みこんでくる。

それを理解したとき、アスカの心拍数は跳ね上がった。

見つめてくるシンジと目を合わせ、反らしてしまう。

いつの間にか右手は心臓の上のシャツをわしづかみにしてて、テーブルの上に載せた左手は小刻みに震えていた。慌てて卓上から下ろす。

「それって…」

奇妙なイントネーションのかさついた声が出る。

明確な答えを期待している自分がいる。同時に怖がっている自分もいる。

「うん…」

なのに無慈悲にシンジは答えようとして。

ああ、ちょっと、それはまずいってば!!

刹那、電話のベルが奇異な雰囲気を切り裂いた。

「あ、僕がでるから」

「あ…うん」

駆けていくシンジを目だけ動かして見送って、アスカは椅子に背中を預けた。

大きく漏らした息が熱い。頬が火照ってる。

思い切り脱力してしまった。どう考えても心臓に悪い。

ぼんやりと天井の蛍光灯を見上げていると、耳をシンジの声が通りすぎていく。

「もしもし……あ、父さん? どうしたの? 何かあったの?」

今頃、司令から? なにがあったんだろー……。

後は何も耳に響いて来ない。

だから、シンジがいつの間にか戻ってきているのにも気づかなかった。

「…アスカ、ちょっと相談があるんだけど…」

おそるおそるといった口調に、先ほどの熱がまたぶり返しそう。

「…何よ?」

アスカはどこか投げ槍に答えた。わざと不機嫌を装えたのは、我ながら上出来だ。

「…えーとね。父さんたちが急遽出かけなきゃならなくなったんで、ケイを預かって欲しいって…」

語尾が尻すぼみになる。思わず睨んでしまったことに気づき、アスカは慌てて目尻をほぐす。

「…いいわよ。連れていらっしゃいよ」

素っ気ない声を作るのに全力を振り絞った。苦虫を噛みつぶすような口調で、アスカは付け足す。

「あの子は、その、あたしにとっても妹みたいなものだし……ね。そうでしょ?」

たちまちシンジの顔が明るくなった。まるで100Wの電球みたい。

「うん、ありがとう!! じゃあ迎え行ってくるから!! あ、洗い物は帰ってきてからするからね!!」

言うなりエプロンを外し玄関へと駆けていくシンジの後を、一応見送りについて行くアスカである。

「じゃあ行ってくるね!」

「気をつけなさいよー」

ウキウキといった口調と足取りで出て行く背中に、アスカはぶっきらぼうな声を投げつける。

そして玄関先からシンジの姿は完全になくなって――――――それが限界だった。

金髪碧眼の少女は身を翻すと自室まで猛ダッシュ。

そのままベッドの上にダイビングして、一人で蓑虫運動を八回繰り返す。

次にむくっと起きあがったかと思えば、同じくベッドの上で行き場を無くしていたサルのぬいぐるみをひっつかむと、その頭を叩き始めたではないか。

ぼふぼふ叩くたびに、アスカの口から『なははは』といった感じの笑い声が飛び出す。

あのシンジが。

鈍感のバカたれが。

あんな殺し文句を使えるなんてねー。

満面の笑みを浮かべぬいぐるみを抱きしめ、先ほどの会話をリフレイン。

『アスカと綾波にとっても妹みたいなものじゃないか…』

ファーストに限っていえば、あのバカと血縁関係が生じる以上、ケイとは戸籍上も立派な姉妹となるだろう。

でも、あたしは違う。

あたしがケイを妹にするには。

つまり、アイツの中ではそれが既に確定事項なワケで…。

きゃーとばかりにアスカは妄想と一緒にぬいぐるみを投げ捨てた。

罪のないサルのぬいぐるみは、天井にぶつかってから床に転がる。

黒い瞳のビーズは抗議したそうな色を湛え、なおベッドの上で飛び跳ねる持ち主を眺めていた。



 










夜道を急ぎながらシンジは思う。

よかった。アスカが引き受けてくれて…。

足を動かしながら、先ほどの自分の台詞をリフレイン。

『アスカと綾波にとっても妹みたいなものじゃないか…』

これが効いたんだろうなあ…。

自分でいっておいて、全くだと納得するシンジである。

辛い時代を終えて誕生した新たな命。

それは、あの時を生きた僕たち全員にとっての希望。

あの頃の僕たちは、まさしく世界のチルドレン。子供たちだった。

そして新たな世界の始まりを象徴する子供。

新たな時代と一緒に産まれた子供。

すなわち新しいチルドレン。

碇ケイ。僕の妹。

何もケイに限った話ではない。

僕たちチルドレンにとって、新しい時代に産まれたチルドレンは、本当に弟妹みたいなものじゃないか…。

それに、妹を守るのに、理由なんかいらないよね?

街灯越しに月に微笑みかける。

月も微笑み返してくれたように、シンジには見えた。

























さて、このような事象の積み重ねが、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの二人の未来を左右したのは厳然たる事実。

更なる紆余曲折を経て、将来の二人はそれなりにお互い満足したポジションを得るが、それはまた別の物語だ。








また、碇ゲンドウ・リツコの赤ん坊にくわえ、加持リョウジ・ミサト夫妻の一粒種も、上記の紆余曲折に大きく関わってくるのだが、それもまた別のお話である。

















(2005/05/12)



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