2月14日、聖バレンタインデー当日。

その日、朝からシンジは気が気ではなかった。
昼休みに入ってもせわしなく教室の扉を眺め、何度も心配そうなため息をつく。
これは、意中の彼女からチョコを貰えなかったため―――ではない。
むしろその逆なのだが、事情が分からぬ人は首を捻るしかないだろう。

『今年のバレンタインデーは、クラスの男子全員に手作りチョコを配るわよ!』

先日、そうアスカが公言してしまったのが、そもそもの発端だった。
しかしながら、昨夜、つまり2月13日の夜に至っても、アスカはなにもアクションを起こさなかった。
最近お気に入りのTVのバラエティ番組に爆笑している姿に、むしろシンジが気を揉んだほど。
そのままお風呂に入って就寝してしまったのには、本気で開いた口が塞がらなかった。
もちろん、彼女が真夜中に起きて作業をした形跡がないのも、翌朝のキッチンを見れば一目瞭然である。

放課後、学校や洞木さん家で作ってるわけでもなさそうだし…どうするんだろ、アスカ?

もはや数えるのも馬鹿らしいほどの数のため息をつき、シンジは昼休みになるなり教室を飛び出していったアスカのことを思いやる。

…まさか、逃げ出したりしないよなあ?

クラスの男子連中はあのアスカからチョコを貰えると色めきたち、対照的にシンジは意気消沈していく。

種明かしをしてしまえば、実に単純な話だ。


「おまたせ〜」

その声に、クラス中の視線が集中した。
視線を独り占めにして、アスカは豊かな胸を反らす。
彼女がファンシーな鍋掴みをして大きな鍋を抱え持っていたことを、疑問に思った男子も多いだろう。
だが、その鍋から溢れる甘い匂いが、疑問を氷解させていく。
鍋の中身は溶かされたチョコレートだった。

でも、なんでそんなものを持っているんだろう?
新たな疑問を粉砕するように、アスカは鍋を適当な机の上に置く。
続いて取り出して見せたのは、幾つものタッパーだった。
タッパーの中身は、一口大に切られたフルーツが幾種かとマシュマロ。
目を丸くする男子連中に、アスカは竹串を配り始めた。
というか押し付けている。

「ほら、さっさと好きな果物を突き刺して、チョコに潜らせるのよ! 早くしないと固まっちゃうからね!
 あと、二度漬けは厳禁だかんね!」

まるで串カツ屋のような物言いだったが、多くの男子はその意味を正確に理解した。
アスカが目の前に展開しているこれは、即席のチョコフォンデュなのだということを。
もちろん、理解が納得に直結するとは限らない。

「…こんなのが手作りチョコなんかい!?」

不満爆発の急先鋒のトウジに、アスカは満面の笑みで応えた。

「そうよ、アンタたちが自分で好みの具で作って食べるわけでしょ? 別にあたしが作るって明言したわけじゃないし」

「詭弁だ…」

そうポツリとケンスケが漏らしたのも、アスカは聞き逃さない。

「ペテンみたいな言い方はしないで欲しいわね。これだけの準備をしたのはあたしなんだから、そこは評価してくれなくちゃ」

思わず頷いてしまいそうなくらい力強く清々しい口調を前に、クラスの男子たちは粛々と行列を作り、並び始めた。
アスカの思惑はどうあれ、チョコ自体は蟲惑的な匂いを放っていて美味しそうだったし、早く食べなければ本当に固まってしまうだろう。

「あ、ホワイトデーのお返し、期待してるからね♪」

一通り全員に行き渡ったあたりでそう宣言するタイミングは、絶妙である。
その声に男子の面々は、半ば絶望的な表情で、半ばやけくそ気味に、ガツガツとチョコフォンデュをかっ食らうのであった。

「何やっての? アンタも早く食べないとなくなっちゃうわよ?」
「う、うん」

鍋を取り囲む男子の輪に入りあぐねたシンジに、アスカが声をかけてきた。
ニコニコ笑うアスカの顔を見ながら、シンジの内心は複雑なものになる。

アスカが約束を違えず遂行してくれたことが嬉しい。
チョコフォンデュも最初はどうかと思ったけれど、大人数を相手と考えれば、中々の名案なのではないか。
同時に、自分がその大人数の中にカウントされていたことが、少し寂しかった。

そりゃあアスカから、僕にだけ手作りチョコが貰えるなんて思って無かったけどさ…。

「グズグズしてないでさっさと取ってきなさいっての!」

挙句お尻を蹴飛ばされては、心情的には文字通り踏んだり蹴ったりだ。
竹串の先にマシュマロを一つ差し込んで、シンジは人垣の輪に身を投じる。
途端に、人垣は解散した。理由は明白。鍋の中身が限りなくカラになっていたのである。
あ〜食った食ったと串の先端でシーハーシーハーし始めるトウジたちは、明らかに一人前以上の分量を食べていた。
それでも、一人いじらしくマシュマロにチョコを絡めようとするシンジは、どこか健気だった。
とうとう見かねてアスカは口と手を出す。

「貸しなさいよ! ったく、アンタはホントぐずで不器用なんだから…!」
「…ごめん」

謝るシンジの目前で、アスカは奪い取ったマシュマロを鍋の側面にへばりついたチョコでコーティングしようとするが。

「くっ、なによ、もう固まってきてるじゃないの……あっ!」

竹串が敢え無く耐久限界を突破した。串は真ん中からへし折れ、なべ底に転がるマシュマロを二人して見つめてしまう。

「…僕の分はないんだ…」

シンジは呆然と呟いた。見たままの感想を言っただけで、決して嫌味を口にしたわけではない。
だからアスカがいきなり鍋の中に指を突っ込んだことに驚く。

「こうやって…集めれば…一人前くらいになるわよ…!」

こそぎ落とすようにしてかき集められたチョコは、アスカの人差し指の先端を覆うくらいの量になった。

「ほら、じゅうぶんアンタのぶんもあるでしょ?」
「…う、うん、ありがとう。えっと、新しいマシュマロ…」
「そんなのまどろっこしいじゃない」
「え?」

次の瞬間、シンジの口の中に、アスカの指が突っ込まれていた。

「…ね? 美味しいでしょ?」
「…………うん」


教室内の全ての生徒たちが驚きに目を見開き、直後になんとも言えない空気が蔓延した。
トウジが臆面もなく「やってられんわ!」と悪態に近い声を上げるなか、ただ一人異なる空気を発散する人物もいる。
「碇くん、これは私からの…」と言いかけて差し出す格好の綾波レイの手から、綺麗に包装された箱が床に落ちる音がやけに大きく響いた。








その晩のこと。

午後11時15分も過ぎたころ、アスカは静かに自室のドアを開けた。
周囲の気配を探る。どうやらシンジは眠ってしまったようだ。
なにせ午後10時半には自室に戻り、11時には就寝、朝の6時に起床という、健全すぎる生活サイクルの持ち主だ。

抜き足差し足でアスカが向かったのは、葛城邸のキッチンである。
普段の彼女は、飲み物を取りに来るときくらいしかこの場に立つ機会はない。
しかし、今日ばかりは事情が違う。
シンクの前の電灯のスイッチを入れ、アスカは壁掛け時計に視線を走らせる。時刻は11時20分弱。
まだ2月14日だ。バレンタインデー当日だ。

タンクトップのお腹の部分に隠し持ってきた包みを取り出す。
包装を乱暴に破って出てきた中身はでっかいチョコレート。
元々シンジにくれてやるつもりだったそれを、アスカはペキペキと割り出した。
小さな銅鍋に割ったチョコを入れ、それより一回り大きな鍋に水を満たす。
水の入ったほうの鍋をガス台にかけ、お湯に変える。
お湯の中に銅鍋を入れ、湯煎でチョコを溶かしていく。

こんな時間に、なぜアスカはこのような行為に耽っているのか?
それはズバリ、昼間の出来事に起因する。

…シンジのやつ、あたしの指舐めて、満更でもなさそうな顔していたじゃない♪

あのときは面倒くさかったのも本当だけど、まあ、クラスの連中に見せ付けてやってもいいかな、と思ったのも本音。
おそろしく恥ずかしい行動だったけれど、凄くドキドキした。
シンジの舌の感触が、むず痒く指先に残っている。
同時にその感触は、アスカの新たな官能を開花させてくれていた。
そしてその花は、さらに大きな実を結びつつある。

アスカは今の自分の服装を見下ろす。
着古したタンクトップは、襟が伸びて大きく胸元が開いてしまっていた。
汚して捨ててしまっても惜しくないその服の下は、ブラをしていない。

フヒヒヒ…という奇妙な笑いがアスカの口から漏れる。
自分が今からしようとしていることを考えただけで、背筋を走る痒さと頭の熱さが際限なく加速していく。

…待ってなさいよ、シンジ。いまからとびっきりのチョコレートを上げるから。
指についてくれたのを舐めて喜んでくれたんだから、きっとこっちも美味しいっていってくれるよね…?

彼女がこんな夜中にチョコを溶かしているのは、とある大切な場所にコーティングを施すため。
自らの胸の谷間を見下ろし、アスカは旋毛まで真っ赤に染まった。直後に頭をぶるんぶるん左右に振る。

いいや、違う違う。そんな下品なものじゃないの。
これはね、その、あたしの気持ちを、ハートを、チョコに包んで差し出すってことなんだから! 
…ちょっと唯物的すぎるのは否定しないけどさ。

リアルおっぱいチョコだなどと、乙女の意地にかけて、口が避けてもいえないアスカなのである。


「…そろそろいいかな?]

チョコが液体状になって大分経つ。うっすらと湯気も立ちのぼって、甘い匂いが漂う。
粘度を確かめるように、お玉にいっぱい掬い上げた。
タンクトップの襟を引っ張って、胸元をオープン。

いきなりかけると熱いかしら? まず最初は少しだけ垂らしてみようかな。少しずつ少しずつ。
…よし!
アスカ、行くわよ…!!

そろそろと、お玉のふちを傾けたその時。

「…アスカぁ? まだ起きてたんだ、何やってんの?」
「!?」

突然ひょっこり顔を出したシンジに、お玉を傾ける角度はほぼ垂直と化す。
結果、アスカの胸元に、お玉一杯ぶんのチョコレートがぶちまけられた。

「うあちゃちゃちゃちゃ〜!?」
「ど、どうしたのアスカ!?」

瞬間的にアスカは行動を選択した。
覗き込んでくるシンジに、カウンターで後ろ回し蹴り。
一撃で昏倒させると同時に、流し台の中に仰向け飛び込み水道の蛇口をフルオープン。
彼女の判断力はともかく、行動力だけは賞賛されてもいいだろう。

しかし、タイミングの悪いことは重なるもので、流し台に寝転がったまま胸元を冷やしているアスカの前に、家主であるミサトが残業から帰宅。

「…ア、アスカ、あんたいったい全体、シンジくんをどうしたっての…!?」

柱の影でガクガクブルブルと震えるミサトに、アスカは流し台からキッチンの床を見下ろした。
なるほど、床の上で倒れ付したシンジの周囲には、お玉に残っていたチョコの飛沫が幾つも散らばっていて、まるで血痕のようだった。
見ようによっては惨劇の現場と見えなくもない。

「ええとね、これはね、ミサト…!」

説明しかけて、あまりの面倒臭さにアスカは天を仰いだ。
時刻は午前0時を回り、バレンタインデーはとっくに過ぎ去っていた。






翌朝、登校するなりアスカは不機嫌全開だった。
深夜の後始末で寝不足なこともあれば、一夜明けてそもそもの自分の行動に疑問を抱いたこともある。

…つーか、あたしってば、なんであんなことを思いついたんだろう?

出来れば時間を遡りたい。無理ならせめて昨日の自分を消し去りたかった。
つくづく正気じゃない。何を血迷って、シンジのヴァカに、この純情可憐な胸を晒さねばならないというのだ。

単に冷静なった、熱が醒めたと解釈すればそれで済むのだが、アスカはその単純な解答を由としない。
何かもっと原因があるはずだ。シンジ絡みの。むしろシンジ抜きで語れないくらいの。
というか、全部きっとシンジのせいなのだ!

ところが肝腎のシンジが、今日は未だ登校してきていなかった。
昨夜、蹴り飛ばされた首はともかく、なんか歯の噛みあわせが悪くなったとのこと。
朝一で、ミサトと一緒にネルフの病院へ向かったはず。
結果、八つ当たり先を見出せないアスカは、更にイライラを募らせている。

気に触るといえば、胸の火傷あともヒリヒリして仕方ない。
昨日の夜、ミサトに薬を塗ってもらったあと、包帯とサラシでぐるぐる巻きにしてもらった。
すぐに冷やしたしチョコもそんなに熱かったわけでもないので、たぶん痕にはならないと思うけど、包帯の感触が煩わしい。
必然的に他の下着は身に着けていない。この事実も含め、こんな場所に火傷を負ったことは、決してクラスメートに知られてはならなかった。

やむを得ず、ミサトにはある程度正直に話しはしている。
シンジにあげるチョコをこっそり作っていたら、不意に声をかけられて驚いて、溶けたチョコをぶちまけてしまった。
チョコは偶然胸元に降りかかった。いきなり背後に立ったシンジには、あたしがゴルゴ13よろしく反射的に攻撃した。

…これで誤魔化される方がどうかしているだろう。
聞き終えてからゆっくりとニヤニヤ笑いに変わっていったミサトの表情を思い出して、またムカついてきた。

アスカの憂鬱そうな青い瞳は、まるで深海魚のようにゆっくりと教室を回遊。

「…あれ? ファーストのヤツは?」

いつも本を広げている座席に、当人の姿はなかった。
もうすぐ予鈴がなるこの時間にいないとすれば、ほぼ欠席で間違いないだろう。

…ファーストの顔を見れば多少イライラが収まるかも知れないと思ったのに。
とゆーか、あの子、昨日シンジにチョコ渡し損ねていたわよね? 
もしかしたらファーストのヤツ、シンジにチョコを渡せなかった失意で、今日は寝込んで欠席だったりして。

他人の不幸は蜜の味。
自分がシンジに指をくわえさせたことが原因なら、溜飲も多少は下がるというものだ。
そこから発展したリアルおっぱいチョコという暴挙は、相変わらず派生した思考もろとも記憶から抹消したかったけれど。
ああ、思い出したら、また胸の火傷がヒリヒリしてきた!

制服の上から胸元をかきむしっていると、ふらりとヒカリがやって来る。

「綾波さんなら、今日はおやすみするって連絡あったわよ」
「へえ、やっぱりそうなんだ。珍しいわねー」
「なんでも、全身のあちこちに火傷を負ったんですって。アスカ、何か聞いている?」
「………………」















2008/3/9




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