カレンダーの前でため息を一つ。

今年も6月6日が近づいてくる。

ここ数年、この時期、シンジはひどく憂鬱になることが続いていた。


















































「明日のメニューはかぼちゃのクリームスープ。前菜はサーモンと季節野菜のマリネ。メインはシャリアピンステーキね!
 あ、デザートはチーズクリームスフレよ、絶対!」

胸を張って宣言してくる金髪碧眼の少女に、シンジはげんなりとした顔つきなった。

「あの…さ。僕の誕生日なのに、どうしてアスカが料理のリクエストをするのさ?」

「そんなの当たり前でしょ? このあたしが祝ってやるっていってんのよ? アンタみたいなイジケ虫の誕生日をわざわざね。
 だったら、お礼にあたしの好きな料理を作るなんて、常識よ、常識。アンタがいちいち疑問に思うこと自体が間違いなワケ。
 つーか、その程度のこと、あたしがリクエストする前にさっさと察して準備しなさいよ、このバカ!」

「……………」

ガナリたててくるアスカの青い瞳は、射抜いてくるように鋭い。
その剣幕に、シンジは不承不承うなづくしかなかった。逆らうことなど思いもよらぬ。
だいたい1を言い返せば、30、40にもなって返ってくるのだ。
速射砲のごとき嫌味の数々は、正論と独善でコーティングされている。
シンジの防御力を軽く凌ぐそれらの銃弾は、彼の古傷を抉ることも珍しくない。

「…分かったよ。でも、トウジとかケンスケも呼んでいいだろ? アスカも洞木さんとか呼んでいいからさ」

ズタボロの穴だらけになりながら、それでもシンジは譲歩を求めたのだが。

「却下」

「なんで!?」

「ヒカリは明日は都合が悪いのよ! それでなくてもアンタも含めて三バカが雁首並べたら、美味しい料理も不味くなっちゃう!」

「…じゃあ、せめてミサトさんとか」

「アンタねぇ…。あんな不良大人とか招待してどーすんのよ? 清らかな晩餐が穢されまくるだけでしょうに!
 あー、いやだいやだ」

心底おぞましそうにキャミソールの両肩を抱きしめるような仕草をするアスカに、シンジは至極真っ当な疑問を抱かざるを得ない。

…アスカのいう清らかな晩餐って、どういうのをいうんだよ?

もちろん、それを口に出すような迂闊な真似はしない。
長年培った学習機能と危機回避能力の成果である。

「今年も、アスカと二人きりなの?」

「そうよ! 何か文句ある?」

「いや、文句っていうか…」

「ないならいいじゃないの」

「ええと、その、こんなのは普通の誕生会とは違うというか…」

「普通? いまアンタ、普通っていったわね?」

「う、うん…」

「…はっ、笑うしかないわね。普通なんてね、まともな人間が口にするべきことよ?
 それを、アンタが普通? 全然普通じゃない、アンタが?」

思い切り恩に着せてくるような口調に、どこが? とシンジは言い返せない。
穿たれた古傷が、ジクジクと痛みだす。

「いままでの人生を振り返ってご覧なさいよ。どこに平凡があるわけ? そして、アンタに普通を望む資格があるの?」

「そ、それは…! っていうか、アスカ、落ち着いてよ、論点がずれて…!」

「アンタにとっては、これが普通でいいでしょ!?
 これが当たり前なの! まさか嫌とかいわないわよね…!?」

アスカの手を置いたテーブルが、ミシミシと音を立てた。

「何か、問題ある?」

机の表面に右拳をめり込ませ、花も恥らうような笑顔を見せるアスカ。しかし、青い瞳は笑っていない。
ゾクリとシンジの背筋が震えた。
反射的に視線をそらし、明後日の方向を見ながら肯定する以外なにが出来るだろう?

「…うん、何も問題は、ないよ」

「そう。そうよね? そうでしょう?」

にっこりと頷いて、アスカは椅子に腰を降ろす。そして、これ見よがしに、ホットパンツから剥きだしの美脚を卓上へ放り出した。
彼女の横柄な態度はともかく、どうにか地雷を回避できたようだと胸を撫で下ろしたのもつかのま、シンジはエプロンを外して財布をひっつかんだ。

「じゃ、じゃあ、明日の買い物に行ってくるね」

事実、買い物も必要だったが、逃げ出したといったほうが正しい。
キッチンを出ながら、チラリと背後を顧みる。
アスカは、なぜか睨むようにこちらを見ていた。

「早く帰ってきなさいよ? 道草を食う権利さえ、犬以下のアンタにはあたしは与えてやってないんだから!」









「というか、それっていわゆる『ツンデレ』ってヤツじゃないの?」

「…デレはどこにあるのさ? さすがに、蹴飛ばしたりされるのは少なくなったけどさ。
 台詞の語尾には、バカ、ドジ、グズ、ノロマ、どれかが必ずついてくるし、内容も超傲慢だし」

「んじゃ、ヤンデレか」

「だからデレがないんだってば…」

ファミレスのテーブル席。
正面の友人から顔を背けたシンジは、クリームソーダを意味もなくかき回した。
わざとらしいメロン色の液体が濁り始める。

「とにかく、明日の件は了解したよ。…おまえが家で惣流から不当な扱いを受けてるってのも全然承知している」

相田ケンスケは口に運びかけたコーヒーの手をわざとらしく止めて、

「じゃあなんで、おまえは未だに同居してるんだよ?」

「それは…」

シンジは露骨に口ごもる。
言えない。これは、アスカと自分だけでしか共有できない事情なのだ。
いわば二人だけの秘密に拠るとこが大きい。
いくら親友といえど説明できる道理がなかった。
それを承知でこうやって愚痴っているのだから、シンジ自身非難されてもしょうがないとは思っている。

「まあまあ。蓼食う虫も好き好きってゆーやん?」

そこで初めてケンスケの隣の鈴原トウジが口を挟んできた。
どうにか追及の矛先は逸れそうだ―――と胸を撫で下ろして、ついでシンジは落ち合ったときからずっと疑問に思っていたことを口にした。

「どうしたの、トウジ、それ…?」

トウジの左頬には大きな絆創膏が張られて、いまもその上に冷たいオシボリが当てられている。

「ん? あ、歯痛や、歯痛。親知らずが急に痛んでのう…」

「ふ〜ん………?」

あからさまに妖しい素振りだったが、シンジは深追いしなかった。
自分も助けてもらったみたいなものなのだから、これでお相子だと思う。

「しかしまあ、惣流のヤツはなんでお前の誕生日が近くなると機嫌が悪くなるんだ?」

ケンスケが別の方向で訊ねて来る。

「…うん。前に訊いた時はさ、『アンタが半年だけでもあたしより年上になるのが気に食わない!』だって…」

「…………」 

「真正面から訊いたんかい、おまえは!?」

二者二様の反応を見ながら、シンジは苦笑とともにため息をつく。
本当にそんな理由なら、なんとも理不尽極まりない話だ。
そして、シンジにはその理由を否定する材料もない。

「普通そういうのは、そこはかとなく察するもんだが…まあ、いいや」

ケンスケは半ば無理やり気を取り直した様子で、

「その理由も滅茶苦茶説得力あるけどさ、惣流はお前の方のアプローチにも不満があるんじゃないのか?」

「僕の…?」

ケンスケは語った。
普段のシンジ自身の生活態度に省みるべきところがあるのではないか。
まったく預かり知らぬところで、アスカの機嫌を損ねている部分があるのではないか。
ゆえに、アスカは常からシンジに辛く当たってくるのではないか…。

「他にもちゃんとイベントクリアはしてるのか? そうだな、たとえば去年の惣流の誕生日とか。ちなみにおまえは何を贈ったんだ?」

「クリアって…ゲームじゃないんだからさ。…去年はゴールドのペンダントを贈ったよ。無茶苦茶高かった…だけど」

「だけど?」

「アスカに渡したら『ふ〜ん?』って言ったきりで喜ぶそぶりも見せなかったよ。あとは真っ直ぐ部屋に戻っちゃった。
 その後、もう凄くってね…」

「凄かったって、何があったんだよ?」

シンジは少しだけ躊躇う素振りを見せた。顔から少しだけ血の気が引いている。

「その日一晩中、アスカの部屋から壁やら床やら叩く音が聞こえたんだよ。時々、奇声まで聞こえてくるし!
 あれはつまんないプレゼントだったから、絶対怒ってたんだろうな。その日は、いつ怒り狂ったアスカが僕の部屋に踊りこんでくるか怖くて眠れなかった…」

唇を震わせ力説するシンジに、ケンスケとトウジ二人は揃ってズッコけた。

「…そういうことなのか?」

「本当だよ! 信じてないね!? 翌朝のアスカの部屋なんか、ひどいことになってたんだよ!?
 壁はベコベコだわ、布団の羽毛が散乱してるわ、蛍光灯のカバーは半分壊れてるわ…」

「つーか、センセェがあの女の部屋の掃除までしとるんかい!?」

「トウジ、そこ突っ込むところ違う」

大学生になったにも関わらず万年ジャージ姿の友人の胸元へチョップを見舞い、ケンスケは眼鏡を意味ありげにずり上げた。

「で? シンジは惣流に、プレゼントの感想は訊いたのか?」

「そんな恐ろしいこと出来るわけないじゃないか! 翌朝は、ご機嫌とりのハンバーグを焼きながら、生きた心地がしなかったよ…」

「朝っぱらからハンバーグかい…」

「だから、そこ突っ込むところ違うって」


………………
………………
………………。


あらかた愚痴を吐き出したのか、友人たちの突発的な漫才に気が晴れたのか、存外サッパリとした顔でシンジは立ち上がった。

「そろそろ行くね。買い物もまだしてないし…」

「ああ、気をつけてな」

自分の注文ぶんの小銭をテーブルに置いてシンジが立ち去ったあと、ケンスケは対面の席に移ってトウジと顔を付き合わせる。

「…しっかし、あれほど噛みあってないヤツらってのも、珍しいなあ」

「全く同感や。傍から見るには立派なもんやのに、シンジは自覚がないんやもんなあ」

苦笑を湛えるケンスケに、トウジには自らの左頬を差し出すように見せた。

「シンジの手前、黙っといたけどな。これは、一昨日、惣流のヤツに殴られて出来たんや…」

「マジかよ!?」

「マジもマジ、大マジや。…ったく、惣流のヤツ、あれは独占欲の塊みたいなもんやで?
 今年のシンジの誕生日はワシらも一緒に祝わせろってゆーただけやのに」

「それは酷いな…。まあ、惣流らしいといえば惣流らしいけどね」

「別に惣流のヤツをハブるってわけでもないし、おまえさんたちの仲を邪魔するわけでもないんやないって説明したんやけどなあ。むしろ、一番大事な役回りを提案してやったのにこの仕打ちや。
 電光石火の右フックかましおって…つつつ、あのアマ。思い出してもむかついてくるわ」

「リアルで馬に蹴られてなんとやらだな、ご愁傷様」

笑いながらコーヒーを飲み干したケンスケだったが、そこでふと真顔に戻る。

「あのな、参考までに、おまえはどんな役回りを提案した?」

「よくぞ訊いてくれた! まずな、人がすっぽり入れそうなデカイ箱を用意するんや! 
 で、そんなかに、ウシシ…素っ裸にリボンだけ巻いた惣流が入っているって寸法や!
 そんでな、シンジに『アタシがプレゼント♪』。 どうや!? 萌え萌えやろ!? 
 キリストさまもたまげるウルトラサプライズやろ!?」

「………トウジ、おまえって友達思いのいいやつだけど、アホだな」










買い物を済ませたシンジであったが、未だ帰路についてなかった。
夕暮れの公園のベンチに一人佇みながら、ボーっとしている。
マンションへは戻りづらいのはもちろんだが、友人たちへこぼした愚痴程度では解消されないものが、腹腔に鎮座している。
腰を降ろしたまま、手を握ったり開いたりと繰り返し、ふと、夕陽に視線を転じる。
沈み始めた太陽は燃えるような発色で、その反射が鱗雲も赤く染めていた。

「…赤い空、か」

浜辺に残された二人。
黄金の海。

全ては薄れゆく記憶だ。
溶けて拡散していくような光景を思い出しても、痛みを伴わないならそれでいいんだろう、きっと。

相談したとき、アスカは思い出せなくなることは正常な反応だ、幸せなことだ、と言った。
でも、あたしは忘れてやんないけどね。
そうともはっきりと言われたことは覚えている。

土下座して這い蹲って、拝み倒して許しを得た。
もう4年以上前のこと。
なのにそれからずっとアスカは、僕に対してキツク当たるばかり。

…やっぱり、許してくれていないのかなあ。

一連の暴虐と傍若無人さには、それで説明が付くと思う。
同時に、ケンスケの突っ込みが胸に重く響く。

『じゃあなんで、おまえは未だに同居してるんだよ?』

自分に関してはいい。
いくら虐げられても、アスカを放っておけない。
それはなぜかといわれても、そうしたいんだから仕方ない。
本当は、自分の中でももう一つはっきりとベクトルを持った感情もあるのだが、確認出来ないでいる。
そしてシンジがその心情に至る原因には、取りも直さず親友の言がアスカにも当て嵌まるということだ。

どうしてアスカは、僕と一緒に住んでいるんだろう?
本当に憎い相手なら、顔を見たくないと、一方的に断絶してくるのが普通なのでは?

なのに、アスカはなんだかんだいって、僕と一緒にいてくれる。
それって、まさか…。

そう考えると、不思議とむず痒い感触が胸の底で一瞬だけざわめくのをシンジは感じる。
しかし、慌てて首を振った。

単に便利だから一緒に住んでくれているだけかも。
奴隷のように行使して、ボロ雑巾のように使い捨てる気でいるだけかも知れない…。
恐ろしいことに、その可能性の方が高く思える。
それでも、胸の底の感触は捨てがたい。否定しきれない自分の感情が、本気で不可解だった。


「…リツコさんのところに寄っていこうか」


ベンチから立ち上がったシンジは、残された懐かしい知り合いの名を口にした。







商店街の裏手の、小ぢんまりとした建売住宅。
そこが、不世出の天才となった赤木リツコ博士の住居だった。

「あら、いらっしゃい、シンジくん」

突然の訪問だったが、リツコは快く邸内へ誘ってくれた。

「また増えましたね…」

玄関先で靴を揃えながら、シンジは足元にまとわりついてくる猫の鼻先を撫でる。
しかし、いくら人懐っこくても、決して抱き上げる気にはなれなかった。

「それはVer3・12ね。大分軽量化に成功したけれど、まだまだ改良の余地があるわ」

ゴロゴロと鳴き声を上げる猫の群れは、実は全て最新式のロボットだった。
趣味と実益を兼ねてリツコはこれらロボットの開発をたつきとし、このようにひっそりと暮らしている。

「…市販されるのはいつくらいなんでしょうね?」

「まあ、あと数年は無理でしょうね。コストパフォーマンスの問題面が多すぎる。
 最新式は一体数千万は下らないでしょうし」

「へえ…」

そんな技術の塊を、モニターと称してリツコは周囲にはべらせていた。
今も四匹の猫が、リツコの手の前ですんすんと鼻をヒクつかせている。

「猫はいいわよ。それに、機械なら死ぬことはないし。なんなら一匹くらいシンジくんの家に持っていってもらってもいいわよ?」

「謹んで遠慮します。壊すとおっかないし…」

あえてシンジは主語を省略。
数千万の価値を説明したところで、アスカは平気で蹴飛ばしそうな気がする…。

「それで? 今日はどうしたのかしら?」

椅子に座らせたシンジにコーヒーを勧め、自分のぶんもカップに注ぎながらリツコは口火を切った。

「…………」

すぐに返答せず、まずはシンジはコーヒーを啜った。
カップを傾けながら、どうして自分がリツコに相談しにきているのか、今更ながら考える。
かつての保護者であったミサトが物理的に離れた場所へ引っ越して、近場に住んでいるのがリツコだけという理由はあるだろう。
でもそれはそれで、なにもミサトに相談したいなら電話ですればいいだけの話。
なのに、わざわざシンジがこの場所へ足を運ぶのは――――。

似ているのだ。ミサトはどちらかといえばアスカに似ているような気がする。
対して、自分はリツコと本質的に似ている人間なのかも知れない。
長じるにつれ、その思いは強くなった。
明確な根拠こそ口に出すのは憚られたけど、結構な頻度でシンジはリツコ宅を来訪するようになってはや数年。
その度に、リツコも邪険に対応したことは一度もない。
片や19歳の大学生で、片や女盛りともいえる才媛だったが、二人の間には俗的なものは何ら生じていなかった。
あるのは、ミサトと同居していた時ともまた違う、年の離れた姉弟のような連帯感。

「まあ、きっとアスカのことなんでしょうけどね」

呆れと苦笑が半々ずつの顔を向けながら、リツコは煙草に火を点けた。
プンと甘ったるい匂いが鼻先をつく。そういえば、アルコール臭もする。
部屋のサイドボードに載せられた酒瓶の数は決して多くはない。
ただ、そのどれもが口を開けている。もしかしたら中身が残っているのかも知れない。
大人の女の爛れた部分を見せられるようで、思わずシンジは身を固くしてしまう。
その様子に気づいたのかリツコは笑いながら、

「年々ミサトに似ていくような気がして嫌だわ。だからシンジくんに頼られるというなら、それも喜んでいいのか複雑ね」

「そんなこと…」

シンジは口ごもる。完全にこちらの内心を見透かされているような気がした。
そしてそれは事実だろう。
リツコ自身の洞察力も凄いのだろうけど、アンタの場合、口よりなによりまず態度に出てしまっているのよ! とはアスカの弁。
ならば、これ以上見苦しくいいわけを重ねても仕方あるまい。
そもそも夕食時に押しかけてきているのだ。手早く相談して辞するのが礼儀というものだろう。

「実は…」

申し訳なさも手伝って、シンジは訥々と口を開いた。
内容は、昼に友人らにファミレスで話したものより、一歩踏み込んだものといえる。
黙ってリツコは耳を傾けてくれた。
少年が話し終えるのを確認するように、新しい煙草に火を灯す。

「シンジくんは、アスカの気持ちが分からない。何を考えているか理解できない―――ということかしら?」

「―――はい」

「ふふ…可愛いわね」

「…はあ?」

ぽかんと口を開けてしまうシンジに、リツコは目を柔らかく細める。

「そう思ってるのは、独占したい証拠でしょう? それとも独占されたいのかしら?」

「………そんなこと」

「そのためにも確証が欲しいといわけね。まったく、惚れた弱みとでも言うべきかしら?」

「ぼ、僕は、惚れたとかどうとかじゃなくて! 普通にアスカの境遇に同情してるだけです。とても可哀想だと思ってますし!」

図星を指されて狼狽するシンジだったが、思わず口走ってしまったことに嘘もない。
本当にアスカの境遇を思えば、可哀想だと同情を禁じえなかった。
弐号機のパイロットとしての資格を失った彼女は、エリートであるということを否定されたに等しい。
同じエヴァパイロットとして、彼女がどれだけそのポジションに執着していたのか、痛いほど目の当たりにしている。
もっともこちらはそれほどパイロットに執着していなかったわけだけど。

もし、自分が一番大事にしていたものを失くしたら?
想像するのも嫌だ。怖い。

そして、アスカはその一番大事なものを全て失くしてしまっている。
彼女の絶望はいかばかりか。
想像するのも恐ろしいので、シンジは我が身に例えてなぞらえるばかりだ。
それだけでも、十分に同情に値すると思う。

少年の真っ直ぐな視線を前に、リツコはなぜか長々とため息をつく。
それからの彼女の表情の変化を、シンジは見過ごせるものではなかった。
リツコは、眉ねを寄せ、この上なく厳しい顔になっている。

「…たぶん、私の勘だけど、アスカはとっくにシンジくんを許していると思うんだけどね?」

表情と裏腹に、声は優しい。そのギャップにシンジが戸惑っているにも関わらず、リツコは続ける。

「結局アスカは自分の思いに奔放に従っているだけよ。そこには過去の確執も何もないんじゃないかしら、きっと」

「そう…ですか?」

自分の考えていることと真逆のことを指摘され、シンジは狼狽してしまう。
過去のことを気にしていない? じゃあなんであんなに意地悪するんだ?

「むしろ引きずっているのは、シンジくん。貴方の方じゃないかしら?」

「………」

これも思わぬ指摘だった。
確かに引きずっているといわれればそれまでだが、忘れるわけにも行かないと思う。

「結論を言ってしまえば、噛み合ってないということになるかしら?
 片方は過去を忘れ、片方はまだ拘っている。くわえて、アスカの態度がEとするなら、シンジくんはSでしょう?」

「えーと、どちらかといえばアスカの方がSだと…」

「そういう意味でのSではないんだけどね」

リツコは苦笑する。

じゃあ、どういう意味なんだろう? と首を捻るシンジに、

「英語の頭文字ということだけは間違ってないわ」

「英単語なんですか」

「もう一つヒントをあげましょう。Sはアスカがもっと嫌うことよ。もしシンジくんが分かってしてるなら、それはアスカも怒るわけね」

さあ、あとは自分で考えなさい、と全く出来の悪い生徒に課題を出す教授のような口調でリツコは言う。

EとS? 一体なんの頭文字? そして、Sはアスカが大嫌い?

混乱し、またぞろ首を捻りまくるシンジを一転微笑ましく眺め、ちょっと待っててといいおいてから、リツコは隣室へと消えた。
間もなく戻ってきた彼女の手には、琥珀色の小瓶が載せられている。

「一日早いけど、シンジくんにプレゼント。…私も、貴方の気持ちに共感できないわけじゃないから」

虚無的な笑いに、シンジはドキリとした。
かつてどこかで見たような気がしたけど、さてどこだったか。

「要は、ちゅうぶらりんは嫌ということでしょう? それに、このままじゃ、貴方達も破綻しそうだし、手をこまねいているのも忍びないしね」

「…ご、ごほん。これは?」

動揺を押し隠して尋ねてくるシンジに、リツコは意味ありげに笑った。

「とっても素直になるクスリよ」

「素直に…!?」

「シンジくんは、アスカの本心が知りたいんでしょう? これを飲ませれば、アスカは間違いなく素直になってくれると思うけど、どう?」

リツコの申し出そのものは嬉しかったけれど、差し出された小瓶を訝しげに見てしまったのもむべなるかな。
そもそも、素直になる薬ってなんだろう? リツコ博士謹製というのもどこまで信用していいものか。

そんな少年の内心を正確に洞察するように、リツコはイタズラっぽい声で言う。

「大丈夫。効果は折り紙つきよ。なんせミサトもこれを加持君に飲ませて結婚まで持ち込んだんだから」












「今年も、まあまあね。うん、まあまあ。ヘタレなアンタにしては良くやったわ。褒めてあげる」

夕食を終え、椅子にそっくり返りながらアスカはそうのたもうた。
ありがとう、と返事をするのも何かおかしいような気がして、シンジは流しで黙々と後片付け。

「でも、ちょっと待って? 考えてみれば、去年とあまり味が変わらないような気もするわね? 
 すると、アンタの腕自体は上がってないってことじゃない?」

食卓に背を向けているせいでアスカの顔は見えなかったけど、どんな表情をしているか、シンジには完璧に把握できる。
いつもどおり人差し指を頬に当て、柳眉を寄せているのだろう。文句をいう、というより難癖をつけるときのいつものポーズだ。
それが分かっているからこそシンジはまたもやノーコメント。
だいたい去年は『トルコ料理がいい! なんせ世界の三大料理の一つなんだからね!』と今年と同じく誕生日前夜にリクエストしてきたものだ。
今日の帝国ホテル風のメニューと比べること自体どうかしている。
それに…そもそも今日は僕の誕生日なんだってば!

「だとすると怠慢でしょ、これは! アンタみたいなゴミカスには炊事くらいしか取り得がないんだからね!?」

と怒られても、シンジは耐えた。というか慣れてしまっていた。
さすがに罵詈雑言のボキャブラリーの種類をカウントするほど余裕があったわけでもないが、今日の彼には秘密兵器がある。
リツコに貰った誕生日プレゼント。
飲んだ相手はとても素直になると言う。
効果に対しては未だに疑問だったけれど、使用例としてミサトを出されたのは説得力があった。
三十路も越えて、もはや厭世的な雰囲気のミサトと、いつも飄々と逃げまわる加持の組み合わせ。
もうこの二人駄目なんじゃないの? とアスカにさえ冷たい目で眺められていた二人の結婚は、それこそ電光石火のような勢いでまとまったと記憶している。
一体なにがあったのか?
当事者同士も黙して語らない背景に、リツコの薬があったとしたら。
それも、どうやらミサトが加持に飲ませたらしい。
素直になった相手から、様々な言質を引き出して、一気に結婚に持っていたんじゃないだろうか?
式の直後に妊娠が発覚して、『出来ちゃった婚じゃないから』と笑っていたミサトの姿も懐かしい。
そんな彼女も、いまや立派な一児の母だ。

「ちょっと! 食後のコーヒーまだ!?」

突然の怒鳴り声に、思わずシンジは手を滑らせた。
今まさにそのコーヒーの投入するかどうか迷っていた、とっても素直になる薬。
その瓶が大きく傾いて、中身のほとんどが黒い液体の中へ没していた。

『使用上の注意は…あまり一気にたくさん使わない方がいいかもね』

リツコの声が甦る。
…ほぼ全部入っちゃったよなあ…。

「……………」

迷っていた時間はそれほど長くはない。
シンジは残っていた生クリームをひっつかむと、コーヒーの上に注意深く注ぐ。

「はい、ウインナコーヒー、お待ちどうさま」

慇懃にアスカの前までもって行く。
これで味が誤魔化せていればいいんだけど。
そのまま反応を見ないのも怖いので、自分のぶんのブラックを持って、食卓の対面へ。

「あれ? アンタはなんでブラックなわけ?」

「それは、その……生クリームはカロリーが高いから……」

シンジの稚拙すぎる言い訳に、一瞬アスカは鼻白む。
それから、さもバカにするような目と声で、

「男のクセにカロリーがどうとかバッカじゃないの!? 
 それにね、身体動かさなくても、頭を働かせれば、ちゃんとカロリーは消費されて身につかないのよ!」

このあたしみたいにね、と口には出さず、アスカは一気にコーヒーを煽る。
ほとんど一息に飲み干して、

「…なんか、味が違うわね?」

「そ、そう?」

「妙にコクがあるというか、甘味が複雑っていうか…」

鼻の下に髭のように生クリームをつけたまま、アスカは首を捻った。

「もしかして、アンタなにか隠し味でもいれた…?」

いいながら、彼女の表情は変化を開始していた。

青い瞳が一際大きく見開かれたと思ったら、まもなくトロンとしてアルコールを摂取したように腰は座る。
白磁の頬は、朱色の絵の具で染めたのかと思うほど赤みを帯び、小さな桜色の唇まで物憂げに半開きになった。
実に劇的な変化だった。

「…ふう」

ちいさく漏らして全身で脱力し椅子の背もたれにもたれる姿に、シンジは薬が訊いていることを確信する。

「…あの、どうしたのアスカ?」

それでもいきなり肝腎のことを訊いたりせず、確認してしまうのが小市民シンジである。

「…ん? なんか、ふわふわして気持ちいーの…」

潤んだ瞳と上気した頬のままで、アスカは大変素直に答えてくれた。
むしろ、どこか甘えてくるような口調に、シンジは心拍数が跳ね上がるのを自覚する。

「それでさ、今日は僕の誕生日なわけじゃない?」

「おめでと。本当におめでとうね、シンジ」

にっこりとアスカは笑う。
なんのてらいもない、心からの祝福の声と、優しくて温かい笑顔だった。

対してシンジの心臓は乱れを通り越して踊り狂っていた。

こんな素直な彼女の反応、いままで見たことがない。
それに、薬が効いているなら、この言葉こそ、彼女の本心なわけで…。

全身が震えてくるくらいの感動に襲われながら、それでもシンジがその質問を口にするのに、少しだけ時間がかかった。

「アスカは…僕のこと、どう思っているの?」

苛められ罵倒される毎日。
それでも一緒にいてくれるのは、恨んでいるから? それとも…?

アスカは、一瞬だけきょとんとした顔つきになったと思う。
そして、まもなく破願すると、臆面もなく口を開いた。





「好き。好き。好き。大好き。いっそ食べちゃいたいくらい」




………唇から舌が伸びて、艶かしい動きで口元の生クリームを舐めとっている。
一方シンジは、今度はこちらが脱力していた。
報われた。報われていた。
僕の考えは間違いじゃなかった。


「うん、僕もアスカのことが…」


顔を上げ、そう言おうとした彼の目前に、いつの間にかアスカの顔があった。
大きな青い瞳が溶けて落ちそうなほどの光彩を湛えている。
文字通り吐息のかかる距離で、甘い匂いがシンジの鼻腔をくすぐった。
そのままじっとアスカはシンジを見下ろしてくる。

「…あの、アスカ…むぐっ!?」

唇を、ふさがれていた。
この上なく柔らかい感触が唇を締め上げ、熱く口の中を蹂躙する舌先はこの上なく甘い。
情熱的なキス。脳みそがとろけそうなほどの快感。
驚きながらも、シンジはその快感に一方的に身を委ねたわけではない。
勇気を出してこちらからもおずおずと舌先を動かすと、強引にからめとられ吸い上げられる。
もはや暴力的とさえ思える動きに、そこに直結しているであろう想いがなによりも嬉しかった。

…どれくらいお互いの唇を貪りあっていたことだろう?
ちゅぽん! と音を立てて濃密なキスは終わった。互いの唇の間に出来た銀の橋が、名残惜しげに崩落していく。

「…シンジ。好き。好きよ」

「僕も…」

それ以降、アスカは一切声を発さなくなった。
やおら自分のブラウスの胸元へ手をやると、ボタンごと引きちぎっている。

「!?」

驚くシンジの目には、はだけられた胸がなぜかリボンで覆われている光景が飛び込んでくる。
その谷間に、去年の誕生日に贈ったペンダントが輝いていたのは嬉しかったが、次のアスカの行動の前にはもはや冷静ではいられなかった。

ビリビリビリィ!!

「ちょっ! アスカ!?」

少女のたおやかな細い繊手が、まるで紙を破るように少年の着ているポロシャツを裂いていく。

「止めて! アスカ! 駄目だよ!!!」

思わずシンジは悲鳴を上げるが、アスカの暴虐は止まらない。

そこでようやくシンジは理解した気がした。
リツコが、あまり飲ませないほうがいいと忠告してくれたこと。
それと、『とっても素直になる』という言葉にこめられたニュアンスの違いに。
そう、今のアスカは、この上なく素直だ。
自分の欲望に、とてつもなく素直に従っているだけなのだ!


反射的にリツコを恨みそうになったシンジであるが、どうにか思いとどまる。
この状況、自業自得ともいえなくない。
それに、今はそれどころではない!
シンジの上半身を完全剥いたアスカの視線は、今や彼の下半身を覆う布へと向けられている。

胸元を手で覆いながら、シンジはひきつった笑いを浮かべる。

「アスカ…冗談だよね?」

しかし、アスカは半裸の少年の言葉に反応すらしなかった。
瞳をらんらんと輝かせ、頬を真っ赤に上気させ、むふーむふーという荒い呼吸だけが狂気を帯びてキッチンへ響いている。
シンジの全身から血の気が引いていく。
反面、心が暖かいというのも実に贅沢で奇妙な感覚ではなかろうか?

助けを呼ぼうにも、現在は完全無欠の二人暮らし。
仮に携帯で誰かを呼んだところで、助けに来てくれるまで間に合うはずもない。
結論。
絶望的なまでに回避不能。

飛び掛ってくるアスカの上半身も、ブラウスを脱いで裸に近い。
それでもシンジは抵抗を試みた。
思わず流されてしまってもいいかな、と考えてしまった自分を叱咤する。

ここで、ここで戦わなきゃ、男としての大事なものを失いそうな気がする!

だが、彼我の戦力差は圧倒的で、たちまちシンジは組み伏せられた。
床に押し倒され、馬乗りになったアスカの手がゆっくりと伸びてくる。
頬をなぞり、薄い胸板の上からヘソの辺りまでつつーーっと一直線に。


「ああ、アスカ、そんなところ触っちゃっ駄目! 駄目だよ…! …駄目ぇええええええ!! 
 いやっ、止めてっ! …………アーーーーーーーーッ!」


























The answer match at the end.

“E”is empathy(共感)
   
“S”is sympathy(同情)

…………thank you for reading!
 




(2008/6/7)



戻る