スコッチウイスキーを満たしたグラスを片手に分厚いアルバムをめくると、自然と頬が緩んだ。一仕事終える度に行う私のささやかな楽しみである。

くたびれたアルバムには、10歳の頃から始めた趣味の成果が全て収められていた。

幼少の頃から所謂軍事マニアだった私であるから、その八割以上が戦闘機や軍艦やらの写真で占められている。

デジタル保存が常識となった世の中で、なぜにアナクロなスタイルで保存を続けているのかは、別段年寄りの怠慢ではない。

セピア色に褪せていく過去の景色も、それは味わい深いものだ。最近の若い連中は共感してはくれないが…。

何ページ目かに不意に被写体が変わる。今までの無機物の塊ではない生きた人間の写真。

ページの隅に記された四桁の数字。

2015。

そう、西暦2015年。

私の今までの人生で、もっとも感慨深い時代。






















    黄金の季節

     〜THE GOLDEN SUMMER〜                



























どこかでチャイムの鳴る音がする。

ざわざわと人が動く気配。

熱せられた空気。

鼻先に滲む汗。

グランドの土の匂いが開け放たれた窓から流れ込む。

山の上には入道雲。

蝉時雨。

それは、どこまでも太陽が高かった季節。












彼女の名は惣流アスカ・ラングレーといった。

我らがクラスに転校してきたドイツ生まれのクォーター。

当時、彼女に対して憧憬を禁じ得なかった男子生徒はいなかっただろう。

例外は私の悪友くらいのものである。

『写真に、あの性格の悪さは出ぇへんからなぁ…』

珍しく学生服姿で彼はぼやいていたものだ。

私も概ね賛同していたのを良く覚えている。友人三人と、転校してくる前の彼女を、猫の皮を被っていない彼女の本性を見知っていたからに他ならない。

しかしながら、実は私も憧れていたクチなのである。

それを表明しなかったのは、彼女が世界を守る秘密兵器のパイロットというエリートであり、彼女をこれ以上煩わせてはならないという騎士道精神の発露であった。

…年齢以上に賢しげだった私は、いつもそうやって最もな理由をつけて傷つくのを畏れていた。

手に入れる為には傷つくのを覚悟しなければならない、と自覚するのはずっと後になる上に、実行する機会が永遠に失われてからだ。

ともかく、当時の私はそのポジションで満足していた。

私のもう一人の友人である碇シンジが彼女と同居していたのも、作戦の一環ということで納得していた。

本当にそう思っていたのかも知れない。だってその頃の彼と彼女はあまりにも不釣り合いだったのだから。

それでも、私の想いが純粋なそれに昇華されるまでに、自覚できるまでに、告白できるまでに、あの夏は短すぎた。

あまりにも短すぎた。




あの季節を正しく形容する術を私は知らない。

私自身まだ子供であったし、私たちを取り巻いた事象はそれこそ普通に説明できない。

あの時、あの街に居合わせた子供たちは永久不可侵のマイノリティだ。

そのように自覚できるだけ、私はまだしも幸運といえる。

何も知らず去っていったクラスメートたち。彼らとはもはや連絡のとりようもない。

紫の巨人。

超常的な兵器に、非常識な敵。

その戦いを間近で見て、なおパイロットに憧れた自分など、思い返せば赤面を通り越して滑稽ですらある。

蜃気楼のような時間は、熱風となって私の傍らを駆け抜けていった。

私の知らないうちに崩壊は始まり、そして終わっていたらしい。後悔も友情も悲しみも、14歳の私たちの想いの全てを飲み込んで。

気がついたとき、あらゆる記憶は鉛色に塗りつぶされていた。

2015年という年は、つまりはそういう年だったのだ。

























だから二年後、私たちクラスメートが一つの学校で再会できたのは、きっと偶然ではないのだろう。














二年ぶりにあった碇シンジと惣流アスカ・ラングレーは変わっていた。

上手く表現できないが、変わっていたのだ。

逞しくなった、などという陳腐な表現が似つかわしくないほど、彼らは強くなっていた。

二人とも、同い年と思えないほど達観していて、どこか寂しげだった。

一瞬、別人に見えたほどで、まるで異星人に遭遇したような印象を受けたのは、果たして私だけだろうか。

しかし古い記憶のそれと認識が一致し、お互いをお互いと認めたあとの再会はすごかった。

彼女は泣き叫び、元クラス委員長に抱きつき、彼の方は悪友の義足を見て滝のような涙を流していた。

何度も確かめるように私たちは声をかけあい、抱きしめあって会話を交わし、その日は夜遅くまで一緒に過ごしたものだ。

驚くべきことに、彼らは未だ一緒に住んでいた。

場所こそ違うが、高校生風情には不釣り合いな広いマンションの間取りは彼らの昔の住居に酷似していた。

懐かしい匂いがよみがえり、同時に胸が痛くなったのを覚えている。

そう、そこには彼らの保護者がいなかった。青い髪の少女の姿もなかった。

全ては似ていても、決してあの時と同じではない。

過ぎ去った時間は、誰にも再現できない。

彼らがポツリポツリと洩らした物語は、正直私の理解の範疇を越えている。

それは世界の崩壊と再生の物語で、直截的にこそ口にしなかったが、彼と彼女の壮絶な苦難は伺いしれて余りある。

何ら感想らしきものも捻り出せなかった私は、もしかしたら乾いた人間だったのかも知れない。

友人とその彼女が一生懸命励ます横で、私は回想に耽っていたのだから。

ひたすら思い出していた。あの暑く眩しい季節だけを。

だから、みんながさめざめと泣く中で私の流した涙は、二度と戻らない多感だったあの季節に捧げられたものだった。





















その後の高校生活は、それなりに楽しいものだった。

しかし、それは黄金時代と私の中で定義しえない。

どういう理由か定かではないが、私の回想の中では奇妙に印象が薄くなる。

みんなが笑っている記憶は、夏場の陽炎のように揺らぎ、どうにも精彩を欠く。

原因は、高校生活中には判然としなかった。

高校を卒業して判明した。彼と彼女が結婚してすぐに。

ウエディングドレス姿の彼女を見て、違和感を抱いたのはおそらく会場で私一人だけだったろう。

なぜなら私は、その姿を14歳のころの彼女と重ね合わせていたのだ。

嬉しそうに微笑む彼女。

はにかんだ表情を浮かべる彼女。

それは、14歳の頃とそれほど変わらないのに―――なのに決定的に何かが違う。

必然的に悟るしかなかった。

ああ、私は、この少女だけではない。あの季節に恋をしていたのだ。

それは分かつことの出来ない対象で、どちらか一方では成立しない片想い。

二年後の再会を素直に喜べなかったのは、私の恋した少女があの風景のものではなくなっていたからだろう。

暑い季節の残滓をまとう少女の匂いが薄まりいくさまを、私は無意識で感じ取っていたらしい

だから、その後の記憶は、真綿にくるまれたように柔らかく温かであっても、まどろむような印象しか残らないのだ。

似ていても、それは過去の物でしかありえない。しかも、日々移ろいゆき、決して立ち止まってはくれない。あくまであの季節に固執した、呪縛された私だけを取り残して。

…つまり、再会した瞬間に私は失恋していたのだ。告白すらままならなかった恋に。

自分でも意識しないまま求めあがいていた季節は遠い昔。

それでも追いかけていた季節も過ぎ去り、彼と彼女の結婚式を経て、完結する。

ようやく私の二つ目の季節は終わりを告げた。

それは、先の季節よりなお色あせた鈍色の季節。











20代の私は決して恋に臆病だったわけではない。

30代の私は結婚を考えなかったわけでもない。

40代になった頃には、しつこく結婚を勧めてきた友人夫妻もあきらめたらしい。私の主義主張をどのような解釈してくれたかは定かではないが。

自分でも記憶巣の奥深く、彼女の幻影がたゆたっていたのは否定しない。

だが、やはり、出会いやタイミングというものが重要だろう。

ならばこそ、私と彼女の出会いは、どのような性質に帰属するタイミングだったのだろうか?

初めて焦がれたそれは、恐ろしいまでに私の心を捕らえたままに。

…被害者ぶるほど私は落ちぶれてもいないし後悔もしていない。

しょせん私の一方的な感情に過ぎなかったのだから。

だからあの季節を共有できた誇らしさにだけに胸を張ればいい。

それが自慰行為だと唾棄するような感情は、少なくとも今の私には無縁のものだ。


































この間久々にあった彼女は、まったく変わっていなかった。少なくとも私にはそう見えた。

産んだ二人の子供は既に高校生だというのに、自信満々の瞳は相変わらずである。

14歳の頃と変わらない表情で彼女は悪戯っぽく笑ったものだ。

ああ、幸せなのだな。

私は素直に感動し、そう思った。

「いいのかい? 旦那を放っておいて、男となんか会ってさ」

こんな台詞を吐かせたのは、四十も半ばになったというのに多少なりとも私の中に未練たらしめる何かが残っていたからだろうか。

「…あたしが浮気するってコト?」

魅力的な顔つきでストローをくわえながら彼女は笑う。

私は少し後悔しながら曖昧に微笑み、違う角度で言葉を放った。

「旦那の浮気は許さないって宣言してたからね。もししたら殺すっていってたし」

微笑が苦笑に変わるのが自分でも分かった。

彼と彼女の結婚式の時の光景がまぶたによみがえる。




















聖なる十字架の前で、純白のヴェールを被った金髪の花嫁は高々と宣言する。


『いい? アンタは生涯愛していいのはあたしだけ。

 他の女に1ミクロン単位でも心を動かしちゃダメ。

 浮気なんてしたら、神にかけて殺すから』


参列者は度肝を抜かれ、神父さんも泡を噴いていたっけな。


新郎のほうがこの上なく真剣な表情で返事をしたのは、忘れたくても忘れられない。


『はい、誓います』


不思議と誰も笑わず、新婦の大変満足そうな笑みが結婚式を締めくくった。




















「今も浮気したら、ぶち殺すのかい?」

どうしてそのような質問をしたのか、我ながら謎である。

「そうねぇ…」

彼女は少し遠い目をしてから破顔した。

「今なら、半殺しくらいかな?」

妙に納得して私は頷いた。

優しくなったな、というのが感想だった。

そして、これが歳を取るということだとも。さすがにその場では口に出さなかったが。

結局のところ私は、彼女の笑顔を見た瞬間、全てに満足していたのだと思う。

それは14歳の頃の記憶を包み込んでくれていて。

その笑顔が、過去の全てを肯定、いや保証してくれていると私は信じている。

「お互いに歳をとったわね」

喫茶店を出て、彼女の口にした台詞にドキリとした。前述の感想を見透かされていたような気がしたのだ。

「過去を懐かしむようになったら老人だぜ?」

外見上、ほとんど老けていないような彼女を半ば羨望しながら取り繕うようにすぐ答える。

穏やかになった蒼い瞳で、そっけなくとも優しいとも取れる不思議な口調で彼女は笑った。

「構わないわよ。振り返る気になれる過去があるだけマシだし」

その時は軽く苦笑を返して別れたが、今思えば彼女も随分と意味深なことを口にしていたのではないだろうか。

もはや思い出の中にしか存在しない青い髪をした同僚へ捧げた言葉か。彼女はもはや彼岸の人間であるがゆえに。

刺をまとって傷をもたらした過去も、思い返せるほど優しくなったためか。現在へ連なるがゆえに。

個人的には後者であって欲しい。

すなわち時間とは魔力を持っていて、鈍色も黄金色に変えてしまうということを。






















アルバムの写真に視線を戻す。

学生生活最後の時期に撮った写真である。

屈託のない彼女がVサインで、こちらに向けて不敵な笑顔を作っている。

途中で切れてはいるが、彼女に首根っこを抱え込まれているように彼の姿があったはずだ。

なぜ彼と一緒に撮らなかったのだろう?

彼女に対する淡い憧憬か、彼に対する微かな妬心か。

それとも私自身の芸術的才能ゆえか。

今となっては分からない。

分からなくてもいいと思う。

ただ、彼女の笑顔の写真を見るたびに、黄金へと変わり果てたあの季節を私ははっきりと思い出す。












〜fin