HOUSE1:かみかみ
































お風呂上がりのシンジがキッチンをのぞくと、その妻であるところのアスカがテーブルの前で頭を抱えているところだった。

シンジにとってその光景は、アスカの学生時代を想起させた。

唯一の苦手科目だった古典の採点済み答案用紙を手にして、頭を抱えているアスカの姿。

それと酷似しているものだから、我知らずシンジは苦笑を誘われてしまう。

過去の風景と現在の状況は変わりすぎているけれど、彼女の本質は変わっていないと思う。

僕と結婚して、子供を三人も産んで、以前より髪は長くして背中に流していても、アスカはアスカだ。

その証拠とばかりに、いきなりワシャワシャと髪をかき回し、おまけにキーッとばかり短く悲鳴を上げてくれた。

いやに子供じみた仕草を微笑ましく想いながら、シンジはシルクのパジャマに包まれた妻の肩に手を置いた。

「あ、ああ、シンジ、いたのね…」

振り返り夫の姿を認めると、バラバラになった髪を慌てて撫でつけながら、アスカは照れたような困ったような表情を作る。

「どうしたの、アスカ?」

訊ねながらも、彼女の肩越しに見えたものに、シンジはだいたいの見当がついていた。

テーブルの上に置かれた一枚の画用紙。

原色の色彩がふんだんに使われたクレヨン画は、子供たちが描いてくれたものなのだろう。

子供たちが幼稚園で描いた絵を両親にプレゼントしてくれることはよくある。

そのたびに、若すぎる両親二人して大喜びしているのは、いわゆる親バカというやつだ。

なのになぜ、今回のこの絵にアスカは頭を抱えているのか?

それは、描かれている内容とその作者に起因する。

「ちょっとシンジ、これ見てみてよ〜…」

どういうわけか半べそをかくアスカに首を捻りながら、シンジは手ずから画用紙を受け取った。

なんでも、今日幼稚園で描いてきた絵だという。

絵は、中心に真っ赤な服を着た人物が大きく描かれている。

黄色の長い髪と、大きな胸の隆起のラインからして、これはアスカだろう。

そして、左端に、申し訳なさそうに小さく描かれている黒髪の人物。

これは僕なんだろうな…。

子供の絵には、対象の力関係が如実に現れるというけれど。

推測を証明するかのように、画用紙の下の部分にミミズがのたくったような字が書いてある。

『おかーさんとおとーさん』

ご丁寧に、どう見ても『おとーさん』の文字は後から付け足されたもの。

少しだけ情けない気分になったが、全体的に微笑ましい絵だ。

二人の背後に大きな家と緑の芝生まで描いてあるのがケッサクだね。

「いい絵じゃないか。これがどうかしたの?」

笑いながらそういうと、アスカはあからさまに不機嫌な表情になった。

「…アンタ、ちゃんと絵を見たの?」

慌ててシンジは絵を見直す。この声の響きはすこぶる危険な前兆だからだ。

どこを見落としたのだろう? いったいどの部分が気に入らないのだろう?

幾度か画用紙に顔を近づけては離し、三度くらい見直して、ようやくシンジは気づく。

いわゆる、あまりにも自然に描かれていたり、ひときわ大きく描かれていたために見誤ってしまう類の見落としだ。

一度気づいてしまえばあまりにも明確な箇所。

アスカとおぼしき人物画の大きな口に、これまた大きな牙が描かれていたのだ。

「これは…」

絶句してしまうシンジに、アスカは詰め寄る。

「これ、どう思う? あたしって、こんな風に子供たちに見られてるの!?」

まさか、その通りとは言えないシンジは、必死でフォローする台詞を考える。

当初全く違和感を覚えなかったという後ろめたさもあって必死だ。

「こ、これを描いたのはアスマだよね? だったら…」

「リュウジよ」

間髪入れない答えにシンジは愕然となる。

もうすぐ小学生になる長男坊アスマは、父親に準じて描く絵は人並みかそれ以下だ。

母親の方は極めて多才なのだが、画才は持ち合わせていないことにも寄る。

絵を書き出した頃は、抽象画の天才よ! などと褒めそやしていたアスカも、最近ようやく認識を改めたらしい。

年齢並に上達してきた彼が得意とするのは、子供の絵であること承知して、あえて象徴主義と分類する。

すると、それに対して弟であるリュウジの方は写実主義なのである。

長男や両親と違い、画才に恵まれている(らしい)次男は、二歳下ながらも同じ程度の絵を描いてのける。

ここで、主義の違いが問題となるのだ。

つまりは、同じテーマで絵を描いたとしても、長男の描く絵は、いわば印象をデフォルメした絵である。

しかし、次男が絵を描いた場合、それは彼が見て現実に存在する光景を描いているわけだ。

「あたしが、牙を剥いた鬼みたいに見えてるなんて…」

なればこそ、アスカの落ち込みようも納得できよう。

「それは…、えっと、鬼が出てくる昔話とかしてあげたから、それが印象に残ってて…」

「…最近してない」

「じゃ、じゃあ、怒られたとき、本当にそう見えたからじゃない…?」

「…あたしは牙を剥いてまで怒らないわよ!!……たぶん」

不器用にシンジは宥めるが、どうにも効果が薄い。

かける言葉を失いたたずんでいると、アスカは頭を抱えたままテーブルに両肘をつく。

それでもなんとか慰めようと思い、シンジは自分も椅子を引いてテーブルに着いた。

「…気にすることはないよ。この絵、アスカのことを嫌いで描いたわけじゃないだろうし…」

「そんなこと言われても、気になるもん」

まるでだだっ子みたいな素振りが可愛らしくて、シンジはまたしても言葉を失う。

…いやいや、見とれている場合じゃない。

ゴホンと咳払いをして、再度言葉を探す。

「じゃあさ…」

不意にアスカは立ち上がった。

口を開いたままシンジが視線で追っていると、そのままアスカが背中に回ってくる気配。

次の瞬間、背中にふわっとした感触とともに、柔らかいいい匂いに包まれた。

茫然と、続いて香りにうっとりしてしまうシンジの耳もとに、アスカの囁きが響く。

「慰めてくれて、ありがと」

同時に、首から前に回された両腕にぎゅっと力が入った。

その細い手に、優しくシンジは触れる。

前に流れてきた艶やかな妻の髪が、頬にしっとりと心地よい。

「あたしの方が子供を信じてあげなきゃならないのにね…」

返事の代わりに、シンジは触れた手に力を込める。

「まったく、理想のお母さんになるには、まだまだだわ」

背中越しにクスッと笑う気配。

あたしの思い描くお母さん像と、子供たちに見えてるお母さん像は全然違うのよね。

だから、これからも努力しなきゃ。子供たちが胸を張って自慢できる母親にならなきゃ…。

「違うよ」

シンジは強くアスカの手を握った。

「アスカはそのままでいいと思う。そのままで十分だと思う。

そんなの努力するもんじゃないよ。だいたい努力してどうなるものでもないと思うし…」

どうして? と言葉にはせず、手を握り返してくる事によってアスカは訊ねてきた。

「それは…」

君はもう立派なお母さんだろ?

素直に言葉を継げず、結局シンジは照れ隠しで誤魔化すことを選んだ。

「だって、アスカが努力したら、僕の方は3倍も努力しなきゃ理想的なお父さんに慣れないじゃないか…」

唐突な沈黙。

直後、クックッと笑う振動が、アスカの全身から伝わってきた。滑らかな髪が豊かに波打つ。

「何よそれ〜」

ひとしきりアスカは笑い、陽気の微粒子を含んだ声で断言した。

「大丈夫よ、シンジは十分お父さんしてるわ」

「…そうかな?」

「そうよ!」

肩越しに振り向き、青い瞳と視線を絡める。

なぜか照れくさくなって、シンジは自信満々の大きな瞳から目を逸らし、前を向き直った。

背中にはなお面白そうな気配の妻を貼り付けたまま。

「相変わらずウブなのね、アンタは。こういうときくらい、黙ってキスすりゃいいのに…」

などとからかわれても、それが性分なのだからしようがない。

それに、こういわれてから、はいそうですかと行為に及べるほどの度胸もないわけで。

夫婦になって長いけど、未だ初々しい二人なのだ(と少なくとも旦那の方は思っている)。

などと思っていたら、耳にふーっと息を吹きかけられた。

ゾクリときて背筋をただした途端、今度は耳たぶにカプリとくる。

チクッと痛くて生暖かい感触が耳を上ってきた。

結局、耳全体を甘噛みされてしまう。

「…やめてよ、アスカ」

とりあえず抗議はしてみたけど、

「ら〜め(だ〜め)♪」

とのお返事。

諦めて、シンジは好きにさせる事にする。

最近のアスカは、とみにこれがお気に入りなのだ。隙あらばしょっちゅう耳に齧り付いてくる。

はね除けることも出来ず、シンジは固まったまま、なにげに目だけを動かす。

そして見た。

「…アスカ」

「? ひゃにほ?(なによ?)」

「わかったよ、あの絵の意味…」

シンジの声に促され、同じ方向を見て、アスカはなお耳に噛みついたまま瞬間沸騰、赤面した。

視線の先。キッチンからリビングへと続く扉が少し開いている。

その長方形の空間に、長男次男末娘の顔が串団子よろしく縦に並んでいた。

幼い六つの瞳が、好奇と不思議の色をたたえ、じーっと両親を見ている。

そうすると気持ちいいのかな? そうすると楽しいのかな?

果たして、硬直する両親の目前で、彼らは行動に移った。

一番上の長男は次男の耳たぶへと噛みつき、次男はその下の末娘の耳たぶへと噛みついたのである。

噛みつく先のない末娘が、ギュッと目を閉じてふるふる震えている姿は不憫だ。



要は碇家次男坊が、噛みつくものには牙があることを知ったのだ。絵本やTVやなにやらで。

幼い心は解釈する。

犬とかライオンとか、噛みつくものは牙を持っている。

幼い心は予想する。

そして最近母親は、父親に噛みついてばかり。









不思議そうな顔のままカミカミし続ける子供たちに、両親はどう叱りつけたらいいのやら、今度こそ本当に頭を抱えたとか。






























2004/11/19




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