まだ薄暗い寝室に、オルゴールの音が流れ始めた。

決して耳障りではない音量のそれは、目覚ましには不適当と思われるドヴォルザークの新世界。

むしろ眠気を催す旋律に、シーツから伸びてきたしなやか手がスイッチを切る。

つづいてそろりとベッドから降り立った影。

隣のベッドの住人を起こさないように、それでも軽快な足取りで寝室を出た影は長い廊下で足を止めた。

カーテンを開け放ち、東雲の空を見上げる。

窓も開いて早朝の空気を吸い込んだ影の正体は、渚カヲルのものであった。

「う〜ん、今日もいい天気になりそうだね…♪」

























40万ヒット記念リクエストなぎさけスペシャル






















時に、西暦2026年 9月13日。










渚家の朝は一般家庭と比較しても早いものと思われる。

なにせ朝6時過ぎには、家族全員で朝食を摂る。

そして家族の誰よりも早起きするカヲルは、ほぼ日の出とともに起床するのだ。

彼は、朝日が全てを山吹色に染めていく光景が好きである。

それはまさしくゴールデン・ドーン。

世界はきっと幸せに満ちていると思わせる至高の時間。

今日も今日とてその絶景を満喫すると、朝一番の新鮮な空気を吸いながら、さっそく庭の手入れを開始している。

自慢の朝露に濡れる薔薇を裁断し、雑草を引き抜く。

強さを増してきた日光に従うように、薔薇の香気が強くなる。

男性とは思えぬような細いしなやかな指先が、棘をより分け、幾つもの枝を手折る。

その手の持ち主の眼差しはとてつもなく優しい。

ともあれば、自身を傷つける棘さえ愛おしく思っているよう。






そう、彼は、この自分で作った花園を、自分を取り巻く小さな環境を、ひいてはこの世界の全てを愛していた。






クリーム色の花弁の薔薇を寄り纏め、カヲルは上体を起こす。

ちょうどその瞬間響いてくるバイクの排気音。

朝の静寂さの中では殊更響くその音は、まるでつまずくような断続的な音を重ねて、渚家の前にも停止した。

「やあ、おはよう。ご苦労様」

カブから降り、新聞受けに朝刊を差し込もうとした販売員のおっちゃんは、家主の登場にその場に硬直した。

ぽかんと口を開けた呆け顔の販売員にカヲルはあくまでにこやかに勧める。

「どうです、今朝取り立ての薔薇でも…?」

硬直の解けた販売員は、首をぶるんぶるん振るなりカブにまたがりフルスロットル。

猛スピードで角を曲がり、たちまち姿が見えなくなった。

「ふむ? げに不思議はリリンの心だね」

なんとも不思議そうな表情でカヲルは手にもった薔薇を見つめた。

朝早くから働いている労働者に敬意を表して薔薇を贈呈しようとしただけなのに。純粋な善意。親切心。

軽く肩をすくめて、その薔薇を口にくわえるカヲル。その姿はまるで一昔前のスターのプロマイドのよう。

悠々と新聞を小脇に抱えきびすを返したカヲルは、ゆっくりと自宅の玄関へと向かう。

薔薇の香りを振りまきながら向かったのはリビングで、そこはまだブラインドが落とされたままだ。

手慣れた様子で花瓶に薔薇を活けたカヲルは、次々とブラインドと窓を開け放っていく。

続いて彼が向かったのはサンルーム。

渚家のサンルームはちょっとした広さで、毎朝そこで身体を動かすのも彼の日課だった。

細身の引き締まった身体は、まるで彫刻刀でそぎ落としたように無駄な肉が一切ない。

浮き彫りの筋肉が躍動する。ただ自由に。そして華麗に。

うっすらと全身に汗をかいたころ、カヲルは踊りを止める。

軽くあがった呼吸を整えながら、思う。

うん、今日の踊りもなかなか良かった。タイトルを付けるなら「爆裂狂気の舞い」ってとこかな? ははは。

ご満悦の笑みを浮かべるカヲルだったが、彼の想像力と表現力は実のところイコールではない。

したがって、客観的に見ると、踊り自体は暗黒舞踊のごときものとなる。

誰も観客のいないスチュワート大佐ごっこを終えたカヲルは今度は浴室へ。

こちらもなかなかに広い浴室でシャワーを浴びる。

瑞々しい肉体を熱いシャワーで引き締めた。

浴室を出て髪を乾かせば、ようやくキッチンで朝食の支度の開始である。

エプロンを付けて、使い込んだ土鍋をコンロにセット。

北海道の高級昆布を放り込み、出汁がでるまでに材料の準備。

こちらも京都直送の高級豆腐に、地元農家無農薬栽培の葱に生姜。

取り皿、お玉、ポン酢、醤油を食卓にならべると、タイマー式の炊飯器からご飯の炊きあがった音がする。

急に賑々しくなるキッチンに、追従するかのようにやってくる家族の影。

白いパジャマにカーディガンを引っかけているのは妻、レイ。

まだ半覚醒状態の彼女であるが、長めの青い髪は決して寝癖がつかないという奇妙な特技(?)を持っている。

「おはようございます…」

キッチンへ入ってくるなり深々と腰を折って頭を下げたのは娘のミレイだ。

「やあ、おはよう。さあ、ご飯にしよう!」

可愛らしいネコの鍋掴みで土鍋を運搬しながら、カヲルが陽気に叫ぶ。

箸と茶碗を目前に、礼儀正しく「いただきます」と声を揃える家族は今時珍しいかも知れない。

そして、朝っぱらから湯豆腐ばかりを喰らう家族も希有だろう。

エプロンを付けたままなのに優雅にナプキンを襟元に差し込むカヲルは、明らかに何かが間違っているのだが、食卓の誰もが気にしない。

妻であるところのレイは黙々と箸を口に運び、娘のミレイは小さな豆腐の一かけに可愛らしくふーふーと息を吹きかけ冷ましている。

元来無口である妻にくわえ、行儀正しい娘も静かに食すため、喋るのはもっぱらカヲルの役目となる。

「んー、そういえば今朝の出来事なんだけどね…」

だからといって、彼に世間一般のニュースを期待するのは無理な相談。また、それらの話題に乗ってくる家族でもない。

従って、彼が口にする話題とは、専ら自分の体験談だけになる。

「せっかく朝摘みの薔薇を上げようとしたのに、そのおじさんたら逃げちゃったんだよ。不思議だねえ〜…」

ニコニコ喋る夫をチラリと一瞥するレイ。出汁を啜りながら、非常に珍しいことに、ポツリと感想らしきものを漏らす。

「その格好じゃ当たり前…」

「え? 何かいったかい、レイ?」

「……」

耳ざとくカヲルが聞きつけたが、レイはまた無言で豆腐を咀嚼している。

ふうむ? と妻を見つめたカヲルだったが、それ以上追求せず、また朝食を続行した。

にこやかにご飯を口元に運ぶ彼の格好は、実は寝間着にエプロンを付けただけ。

ちなみに彼の就寝スタイルは、ブーメランパンツ一丁というセクシー&バイオレンスなもの。

情操教育的に問題があると思われるその格好も、この渚家ではもはや馴染みの光景。故に、幼い娘も疑問を抱くことはない。

将来、幼なじみの少年のパンツ姿に赤面する彼女が、父のこの姿に免疫を確保できなかった理由は、それはそれで興味深いことかもしれないが。

「ご馳走様…」

家族全員で手を合わせ、実に小一時間にも及ぶ渚家の朝食は終了した。

甲斐甲斐しく裸エプロンに近い格好のカヲルが後かたづけに奔走する中、妻と娘は手持ち無沙汰だったりする。

なぜなら本日は日曜日。小学一年生の娘も休みで、ゴミを出す日でもない。

しかしカヲルだけはご出勤。

彼の経営する渚カルチャースクールは祭日のみが休みとなる。

後かたづけを終えたカヲルはウォークインクローゼットへ行き、エメラルドグリーンのスーツを着込む。

キワモノとしか思えないカラーのスーツを見事着こなすのが彼の特技の一つである。

「じゃあ行ってくるさ」

自家用車を持たない渚家の唯一の所有移動車両、マウンテンバイク。特に有名メーカー製ではないそれがカヲルの愛車だった。

日曜日ゆえに人通りの少ない朝の通勤路。長めの髪をなびかせ、颯爽とカヲルは自転車を漕ぐ。

巧みに裏路地を駆け抜け、到着したのは駅前の六階建てのビル。

一等地に建つそのビルと土地の名義は渚カヲルのものである。事実、彼は資産家でもあるのだ。

青年実業家という肩書きも定着して久しいが、彼の笑顔は相変わらず若々しい。

見る者に、天真爛漫といった印象を与える笑顔。

鼻歌を歌いながら玄関をくぐれば、掃除婦のおばさんたち数人が床にモップをかけていた。

「やあ、白石さん、加納さん、東海林さん、おはようございます」

それぞれににこやかに挨拶をするカヲル。

「ああ、若社長さん、おはようございます…」

別に二代目でもないのにそう呼ばれるのは、彼の見た目が単純に若いからに起因する。

それにしても、知命は越えていると思われるおばさん方の熱い視線はどう形容すべきか。

この憧憬と称してもいいような視線は全てカヲルの人柄による。

彼はこのビルで働いている人間の顔と名前と誕生日を完全に記憶していた。

更に、誕生日にはバースデーカードとプレゼントを贈るマメマメしさ。

とにかく彼は老若男女、誰からもモテるのである。

そして彼も、従業員の全員を愛していた。






そう、彼は、この自分が作った会社を、自分を取り巻く環境を、ひいてはこの世界の全てを愛していた。





















渚カルチャースクール。

総社員34名(講師兼任も含む)の中堅所帯。

それでも第二ビルでも建てようかと企画が持ち上がるくらい儲かっている。

これもひとえに経営者本人より部下の尽力が大きい。

なにせこの若い経営者は、開設当初は経済というものをまるで知らなかったド素人。

ビルのフロアと事務所を借りただけで資金はゼロというていたらく。

具体的なビジネス展望もなく、あるのは無駄に爽やかな笑顔だけ。

しかしその笑顔に引っかかったお間抜けさんは極めて優秀な面々ばかりだった。

元エリート商社マン、神林サブロウ(27歳)を筆頭に、間抜けで優秀という矛盾した社員たちは知恵を絞る。

どういう経緯でカルチャースクールなどという発案に至ったのかは知れないが、彼らは実現させるべく精力的に活動を開始した。

川本ミスミ(21歳)フリーターは、友人のインストラクターに声をかけた。

坂田キョウスケ(25歳)元会社員は、実家の華道の家元を務める母親を招聘。

榊ケンゴ(33歳)元私塾講師は、趣味のPC弄りに磨きをかけ、他人にもレクチャーできるよう勉強した。

ワンフロアー4部屋。

それぞれエアロビクス、華道、PC講座、料理教室。

これが渚カルチャースクール開校時の全容である。

ほとんど陣頭指揮すら取らなかったカヲルの役割は、各フロアを廻り講師に混じってレクチャーをすること。

不思議なことに、彼は教えて貰ったことはなんでもそつなくこなしてしまう。

物事の本質を掴むことが巧いというか、わずか二、三回でまるで熟練のような腕を見せる彼に、講師一同舌を巻いた。

プラス魅惑の微笑み。鬼に金棒。

この時点で社員全員が成功を確信、未来の扉が開く音がしたと証言しているが、甚だ妖しい。

とにかく、四部屋掛け持ち、神出鬼没のレクチャーを繰り返すカヲルは評判になった。

どんな相手にも懇切丁寧。いつも笑顔を絶やすことがない。

なんといっても、気まぐれに覗きにきた有閑マダムの一人に受けた。

裕福且つ暇を持て余すセレブリティの情報伝達力はマスコミを軽く凌ぐ。量、質ともに。

口コミで話題は広がり、着々と受講者は増え続けた。

さらに、外国の俳優の微笑みに狂った古傷をもつオバサマ改めオバアサマ方までも、この微笑みに飛びついたのもむべなるかな。

あまりにも過剰な売り出し方法に、別に笑顔をバラ撒いているわけじゃないんだけどね……とカヲルが苦言のようなものを呈す。

そこで社員一同口を揃えて「社長は笑っていればいいんです!」

さすがのカヲルも苦笑を浮かべたという。

もっともカヲルの立場でいえば、彼も自身のことは知悉していたと思われる。いわば自分は御輿であることを。

本来は、親子三人、慎ましく生きて行けるだけの収入があればいいんだけれど。

ところが収入は伸びゆく一方。その気になれば専属ドライバー付き高級車の送り迎えも可能である。

しかしその外見と趣味に反して未だ自転車通勤という地味な彼だった。

他の社員も出勤してきて一応の朝の訓辞。

業務が開始されるとカヲルの行動は奇抜になる。奇矯と表現しても差し支えないかも知れない。

彼はよく働く。実際に忙しい。

今やビル全体が会社所有になったため、カルチャースクールの規模は比較的増大している。

当然講座も増設されている。社交ダンス教室は当然、タップダンス教室やオペラ教室まであるのだ。

その全ての講座に、アトランダムに出現するカヲルは人気の的であるのだが、いちいち着替えるその姿は差詰め七変化だ。

レオタードに着流しをひっかけ革靴をかき鳴らし、朗々たるソプラノヴォイスを響かせながら廊下を駆け抜ける姿。

『ヴィックリスルフォドォユゥゥゥゥトォピィアァァァ〜♪』

各教室を渡り歩くその奇態の目撃者は、しばしの茫然自失の後、みな見たことは忘れることにしているらしい。

全くもっていい消費者である。

忙しく舞いに舞うカヲルであるが、その姿がふと見かけなくなることもある。

そういう時は、屋上に上がってみるといい。

大抵彼はそこにいる。鼻歌などを口ずさみながら。

給水塔の上に腰を降ろし片膝を立て、眼下の景色を睥睨する。

日差しよけにビーチパラソルが設えてあるあたり、使用頻度の高さが伺えるというものだ。

そんな彼のすぐ近くにスズメが二、三羽飛んでいく。

また、一匹の野良猫が、フェンスの影で微睡んでいる。

愛らしいその姿に、カヲルの頬が笑みを形作る。

その頬に、繊手が触れた。

自らの頬を触れるカヲルはやはり笑っている。

しかしその実、彼は深く悩んでいる。

鳥や猫に悩みはあるのだろうか。

人は、表情によって感情を表す術を持っている。

表情に、声に出来ないだけで、彼らの悩みはより深いのではないだろうか。

このとき、カヲルの中にあるのは、むしろ小動物たちに対するシンパシー。

誰も自分が悩んでいるなど察してくれてはいないだろう。もちろん、察せるような振る舞いもしていないが。

自分の頬をつまむ指に、少しだけ力が入る。

これが僕の本当の貌? ペルソナ? 擬態なのだろうか?

それともやはり…人間でない証左なのだろうか?

そこまで思考が昇華されると、カヲルは常に孤独を意識する。

正確に言えば、自分は『人間』ではない。

単体生物『ヒト』なのだ。

使徒としての命を受けた自分。

アダムの飛沫。

人類の別の可能性。

脆弱ゆえに複数の意思を持つ群体となった人類と違い、単体の意思で成り立つという、人類の理解の範疇を越えた単一存在種…。

そんな存在の自分が群体社会の中に組み込まれているという矛盾。或いは奇跡。

その瞬間、彼は間違いなく世界で一番孤独だった。

本来、世界で、彼は誰も必要としない。

なぜなら、彼は一人だけで完結している生命体なのだから。

だのに…。







「すみませぇぇぇぇん!! 社長ぉぉぉ!!」






事務員の女の子の声が、カヲルを沈思から呼び戻す。

素早く給水塔を降り立った彼の表情は、誰もが安心する例の微笑を湛えていた。

「どうしたんだい?」

にこやかに微笑んでくるカヲルに、女の子は晴れ晴れとした顔をしたのも束の間、すぐ曇らせる。

「実はその、お客さんが…」

「ふむ?」

クレーマーだろうか? カヲルは思う。

今までだってクレーマーが居なかったわけではない。

しかし、大抵は社長まで上がってくることもなく処理される。それでも社長まで来たものは100%穏便に処理されている。

「その、えーと、凄く綺麗な女の人なんですが、アポなしで社長を出せと一点張りで…」

その報告に、珍しくカヲルの表情が微かに曇った。















一階ロビーに降りていくと、案の定、予想通りの人物がいた。

思えば、いつでも騒ぎの渦中にいる女性。

赤いワンピースに同色のヘッドセット。

豪奢な金髪を背中に流し、青い好戦的な瞳が、たちまちカヲルを見つけてくれた。

「あ、いたいた〜!!」

元気よく手を振るその姿に、カヲルは非常に珍しくこめかみに手を当てた。

「…社長?」

心配そうに覗き込んでくる事務員に、カヲルは指示を出す。

「すまないけど、応接室を開けておいてくれないかな?」

そんな彼の目前には、人の輪を抜け出してきた金髪の持ち主が、元気いっぱいに到着している。

「あはは! 遊びにきて上げたわよ〜!!」

その眩しい姿の直視は避け、カヲルの目線はむしろその人物の背後に付き従う三つの影に注視されていた。

兄妹とおぼしき三人。全員が恥ずかしげな表情を浮かべているあたり、一般常識の教育は成されていると見える。

そして一般常識を欠いていると思われるその母親のテンションは底抜けに高い。

「なによ、お茶も出せないわけ?」

旧姓惣流、現姓碇アスカは、目前のカヲルを睨み付けながら、堂々と言ってのけた。

「…お母さん、お母さん!! 恥ずかしいよ…」

赤いワンピースの裾を引っ張りながら頬を染めているのは彼女の次男坊。

間髪おかず、声のボリュームすら落とさないでアスカはカヲルに指を突きつけている。

「ふん! 本当はあたしたちが来て嬉しいんでしょ!? 素直に喜んだらどーなの!!」

「そりゃあ、嬉しいけどね…」

これも非常に珍しくため息付きの苦笑を浮かべ、カヲルは彼女に付き従う子供たちを見ている。

子供たちが遊びに来てくれたのは素直に嬉しい。しかしその母親となると、彼の心証はやや微妙な色彩を帯びる。

想い人の伴侶。

彼の血を継いだ子供たちにはなんら罪はないしむしろ好意に値するが、その彼を独占する存在となると…。

邪険に思うわけではないが、万物へ同等に注ぐべき愛情も、彼女へ対しては多少なりとも変化、複雑化することになる。

応接室へと案内されると、さっそくソファーでくつろぐ母親に対し、子供たちは所在なさげだ。

好対照にすら見える光景は、子供たちのほうの胆力が父親似である証明かもしれないが、将来的にはどうなるかは分からない。

事務員が持ってきた盆を受け取り、自らテーブルにジュースなどを並べながらカヲルは訊ねる。

「今日は一体どうしたんだい?」

質問すること自体は社交辞令のようなもの。答えなんぞ分かり切っている。

果たして、遠慮なくアイスティーを飲み干したアスカは答えた。

「だから遊びに来てやったのよ! アンタ、シンジにいつでも遊びに来てっていったらしいじゃない?」

それは言った。確かに明言した。しかし、実際の発言のニュアンスは微妙に異なる。

指摘する意味も込めて、カヲルはこう答えた。

「僕はね、『今度是非遊びに来て。シンジくんだったらいつでも大歓迎だよ』って言ったんだけどね…」

人によっては皮肉に感じるかも知れない台詞であるが、発した本人は皮肉っている意思は希薄だ。むしろ淡々と事実を告げる様子。

そして、碇夫人アスカに至っては、この程度では痛痒すら感じるわけがない。

結果、堂々いってのけたものである。

「シンジの権利はあたしの権利! さあ、精一杯サービスしてよね♪」

「………」

微笑のまま硬直してしまうカヲルに、子供たちの三対の気の毒そうな視線がささる。

なんとも珍しい光景。あの渚カヲルがペースを乱されっぱなしではないか。

「…まあ、好きにしていってくれたまえ…」

そう返すのが精一杯。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

さっそく席と立った母親は、まだジュースを啜っている子供たちに声をかける。

「ほら、いくわよ!!」

号令一過、わたわたと後をついて行く小学三年生の長男を筆頭とした碇家の三人の子供たち。

颯爽と振り返ろうともせずにドアをくぐる母親に対し、子供たちはみなペコリと頭を下げる。

最後の幼稚園年長組の長女に至っては、きちんとドアまで閉めていく。

誰もいなくなった応接室でカヲルはネクタイを弛めながら思う。

子供たちが礼儀正しいのは、きっと父親の教育の賜物だろう。

しかし、まるで台風一過だ。いや台風一家かな?

くだらない冗談とともに、カヲルはかいてもいない額の汗を拭う。

自分に天敵が存在するとするならば、まさしく彼女がそうだろう。

と、ちょっと待てよ? 

自分は人類とは異なる存在。

群れと単独の違いはあれど、種の重みは同じハズ。

その点を勘案すれば、つまりは 人類=自分 という比重にならなければならない。

そんな自分と単独で張り合えるとなれば、彼女一人が全人類に比肩するバイタリティーを持っているということなのだろうか?

なかなかに興味深い命題に思えたが、考察を中断しカヲルも立ち上がる。

そろそろ午後の講座が再開される時間だった。












というわけで、午後のエアロビクス教室へと向かった若社長渚カヲルは、教室へ入るなり掃除用具入れにガンパレードをかますことになる。

慌てて駆けつけてきたインストラクターの手を借りて立ち上がりながら、カヲルは長めの髪を軽く振った。

そりゃあエアロビクス教室内にご年輩の方がいないわけではない。いないわけではないのだが…。

彼は見た。

レオタード姿の碇ゲンドウ、冬月コウゾウ両名が、ふんはふんはとばかりに身体を動かしている姿を。

「…何をなさっているんです?」

戸籍上の義父にあたるゲンドウにカヲルは声をかける。

上辺といえど笑みを崩さないのは大したものだが、固有名詞を発せないあたりに彼の複雑な心境が垣間見えるだろう。

「むう…」

この期に及んでサングラスをかけたままのゲンドウが、荒い呼吸のまま呻くように言う。

「よ、嫁が…、ま、孫とな…」

小声である。しかし、その二つの単語から、カヲルは事態をほぼ正確に把握していた。

どうせ嫁である碇アスカから一緒に行こうとでも誘われたのだろう。

もともと過去絡みで弱み満載なゲンドウは、息子の嫁が本気でかかってきたら逆らう事は出来ぬ。

ましてや冬月と二人そろって孫に対してはすこぶる甘い。

孫という餌をぶら下げれば、盛りのついた馬の如く突進してしまう溺愛ぶり。

今日の出来事も、おそらくその事例に洩れないものだろう。

しかし寄りによってエアロビクスとは…。

ふと教室を見回したカヲルは、教室の隅で金髪の女性が笑い転げている姿を発見した。

子供を三人も産んだとは思えぬ肢体をレオタードに包んだ、この笑劇の仕掛け人。

立ち上がったカヲルは彼女に近づく。

「…あまり関心しないね、こんな羞恥プレイのさせ方は…」

目尻の笑い涙を拭いながら、アスカはあっけらかんと、さも心外そうな口調。

「あたしは司令と副司令の健康を慮(おもんばか)っただけよ?」

わざと難しい日本語の言い回しに、未だゲンドウ・冬月を役職で呼ぶあたり、とても本気の発言とは思えない。

首を振ってカヲルは気分を切り替える。

言い争うのは彼のキャラではない。そもそも言い争う気はない。言い争ったって勝てる気がしない…。

むしろ少しでも論争を挑もうと考えてしまった自分に、少し驚く。

戸惑うカヲルは、胸を張る金髪の母親の隣の影に平常を取り戻した。思わず頬が綻ぶ。

子供用のレオタードに身を包んだ碇家の子供たちはそれはそれは愛らしい。できるなら全員そのままお持ち帰りしたいくらいである。

「さあて、今日はよろしくお願いしますね、せ・ん・せ・い♪」

その物言いに反射的にむっとしてしまうカヲル。これも非常に珍しいことと自覚しながら、彼に異存はなかった。

自分は社長兼インストラクターなのだから。










エアロビクスのワンレッスンをこなし終えたカヲルが教室を見回すと、アスカとその子供たちの姿はなかった。

既に他の教室へといってしまっったのだろう。

カヲルもレッスンの続きを専属講師に一任すると教室を出る。

まあ、あの母親のことは放っておこう。彼女の行動を制限するのは事実上不可能だし。

それと、不本意だけどあの容色は他の受講者の目を楽しませるくらいの効果はあるだろう。

それによって会社の売り上げが伸びるかどうかは微妙だけど…。

さて、文化系の講座へでも行こうか。

料理、華道、ビーズアクセサリー・ビーズステッチング、手芸、陶芸などがひしめく階下のフロアへカヲルが降りようとしたとき。

「社長ぉぉぉぉぉぉ!!!」

まあぞろ響く女性職員の悲鳴にも似た声。

「…今度はどうしたんだい?」

あくまでにこやかなカヲルだが、だいたいの見当はついていた。

「実は、こちらの教室でさっきの女の人が……!!」

予感は大的中。

足早に誘導された教室の看板は卓球教室。

比較的地味な球技であるが、決して競技人口は少なくないスポーツ。

それでも、このような教室を開けるカルチャースクールは、近隣を見回しても、ここ渚カルチャースクールくらいだろう。

扉を開けるなり、凄まじい歓声が轟く。

人の輪のできた中央の卓球台。

そこで衆目の関心を一身に集める女性は、ラケットでパタパタと顔を仰ぎながら傲岸不遜な笑みを浮かべていた。

「さあ、あたしに勝てる人はいないわけー?」

対面の初老の男が悔し涙を流しながら奥歯をギリリと噛みしめている。確か元国体選手だと自慢しており、事実腕前も大したものだと記憶していたが。

なお勝ち誇るアスカの姿に、がっくりと項垂れている連中もみな負けたのだろうか。こちらも全員腕利きなはず。

「まったく、キミって人は…」

一体なにがしたいんだい? と続けながらカヲルは室内へと踏み込む。

途端に敗残者たちの視線がカヲルに集中した。

そして彼らは口々に訴える。

「おお、社長がまだいらっしゃった!!」

「社長なら勝てる!!」

「どうか社長、わしらの仇を取ってくだせえ!!」

気がついたとき、カヲルは卓球台の前に突き出される形になっていた。ご丁寧にもいつのまにか右手にはラケットまで握らされて。

「なんなんだい、この流れは…」

ぼやくカヲルに反して、場の雰囲気はヒートアップ。

異様な熱気は戸惑ってしまうくらいだが、アスカの方は委細構わずピンポン球を宙に放っていた。

鋭すぎるスマッシュを反射的に打ち返えしてしまうカヲル。

ヒュー♪ と短く口笛を吹いてアスカは更に打ち返す。

カヲルにとって唐突かつ不本意ながらも、場の空気に引きずられ応戦してしまう。

かくして、素人目に見てもハイレベル極まりないラリーが展開された。 

アグレッシブかつダイナミックなアスカの攻撃に対し、カヲルのスタイルはまるで大海のよう。

全ての攻撃を受け止めるかのような懐の大きさは、本人の器量の表れだろうか。

まさしく静と動。対照的だ。

だが、その底なしかと思われる器を突き破るほど、アスカの攻撃は苛烈だった。

さすがのカヲルも失点を繰り返す。

しかし、直後に予備動作なしのリターン、スマッシュという変態じみた攻撃で点数を取り返すあたり、やはりこの若社長は尋常ではない。

必然的に大接戦となったその戦いは、とうとう9−10までもつれ込む。

リードしているのがカヲルの方なことに、場内の興奮は最高潮。

一方、悪役を満喫しているらしいアスカの表情はまだまだ余裕綽々といった風。

これで舞台は整った。

ほくそ笑む彼女が最も好きなパターンは、窮地からの一発逆転。

状況が揃えば彼女は否応なく燃え上がる。普段使えないような強力な技を使用することも可能だ。

黄金のオーラを纏ったその姿は、さしずめスーパー地球人。

元が金髪なので、具体的な変化を視認できないのは残念である。

そして今、カヲルのサービスを渾身の一撃でアスカは打ち返す。

「ひぃぃぃっさぁぁぁつ、ローリングフラッシュうううっ!!」

強烈なスマッシュが、目前で急カーブを描き横に曲がった。

あまりの急角度の軌跡に、さすがのカヲルもリターンできない。

「ふっふっふ、これはうっかり使うと監督を失明させてしまう禁断の技なのよぉぉ…」

ガッツポーズを決めるアスカ。

対して、唖然として、それからぼやくカヲル。

「…キミ、本当は幾つなんだい?」

呟きを無視して、アスカはピンポン球を握る。

サーブ権のある彼女の猛攻は続く。

「必殺、エックス攻撃!!」

「いや、エックスの形になってないし。そもそも一人じゃ無理な技だし」

カヲル、鮮やかにリターン。

「やるわね…。じゃあ、忍法三年投げ! 受けてごらんなさい!!」

大上段に構えた腕を振り下ろすアスカ。

強烈な一撃に、なんとネット上のピンポン球は三つに分裂した。そのまま三つのボールはカヲルの手前で再び一つになり襲いかかってくる。

その威力たるや凄まじく、迎撃したカヲルのラケットは弾き飛ばされてしまった。

これでデュースである。

思わず手首を押さえるカヲルに、アスカはニヤリと笑う。

そして懐からピンポン球を取り出すや、ラケットを構える。カヲルが素手なのにも関わらず。

「ふっ…これでトドメよ!!」

金髪が翻り、彼女の右手が揺らめく。残像付きの妖しい予備動作。さながら一子相伝の暗殺拳のような動き。

「必殺!! ジャコビニ流星スマッシュ!!」

強烈なスマッシュに、ラケットの表面が裂ける。それだけに留まらずコルク部分まで抉られた。

振り抜く腕から解き放たれた一撃は台の対面を猛烈な勢いで進む。コルク破片をまるで流星のように纏いながら。

これぞアスカの文字通りの必殺技。

リターンするにしても、コルク片が物理的に対戦相手を殺傷するという恐ろしいフィニッシュホールド。

これは避けきれない!! 

誰もが慄然としたその時。

平然とピンポン球を素手で掴むカヲルがいた。

凄まじい勢いのそれを素手で掴んだのはまだ納得できないこともないが、不可思議なのはコルク片の全てまでもその手中に収められてたことだ。

当然、観客への被害も皆無。

「…まったく、危ないなあ」

全然緊張感のない顔でいうカヲルに、アスカは胸ごとそっくり返る。

「はっ! 打ち返せなかったんだから、どっちにしろあたしの勝ちだかんね!?」

「あのね、この技自体反則に決まってるよ…。だって故意だろ?」

「…そーなの?」

「故意のフェイントを交えたサービスは反則。…フェイントとか以前に問題の多い技ではあるけどね…」

なんだつまんないわねー、などと呟きながら、アスカは卓球教室を出ていってしまう。

やれやれといった表情でそれを見送ったカヲルだったが、途端に教室中の受講者から囲まれた。

「さすが社長じゃあ!」

「社長万歳!!」

「ムッシュムラムラ!!」

なぜか胴上げされる流れに。

一頻り文字通り持ち上げられて、ようやくカヲルは解放された。

どれ、今度こそ文化系のフロアに、と歩を進めた彼は、またぞろ職員に呼び止められた。

「社長ぉぉぉぉっ!! さっきの女の人がまた…!!」









結局、カヲルはその日、文化系の教室を廻ることが出来なかった。

午後から徹頭徹尾、アスカに振り回されっぱなしだったのである。

カヲル顔負けの機動力を発揮し、各運動系教室へ出没を繰り返すアスカは、実に様々なトラブルの種をまき散らしてくれた。

それらを処理する中で、彼女の子供らが楽しそうにしているのを眺めるのだけが、カヲルにとっての救いだったかもしれない。

珍しいことにその白皙の頬に疲労の色を滲ませ、カヲルは社長室へと足を動かす。あとは事務仕事が待っている。

既に多くの受講者も引き上げ、閑散とした廊下を進む彼の目前に人影が。

窓から差し込む夕日を背にしたシルエット。

声を聞くまでもなく、彼には誰だか分かった。

「…カヲルくん?」

相手の問い掛けに、白皙の頬から疲労の影が飛ぶ。羽根でも生えたかのような軽い足取りで、カヲルは駆け寄った。

「やあ、シンジくん!!」

喜びという単語を具象化させ、バラ色に飾り立てるとこのような声になるのだろう。

声の持ち主の喜びは、声色を軽く凌駕する。

あまりの歓喜に、シンジがエプロン姿の格好であることに違和感を抱くこともない。

「ごめんね、カヲルくん。なんかアスカが色々と迷惑をかけたみたいで…」

ここじゃなんだから社長室へでも、と案内するなり、シンジはそう口火を切った。

「ははは、そんなこと全然大したことじゃないよ」

全然大したことであったのだが、コーヒーメーカーからコーヒーを注ぎながらカヲル。

香ばしい薫りに混じって、胸中が温かく満たされていくのをカヲルは感じる。

なぜなら、彼の目前には想い人がいるのだから。

元来、使徒でありタブリスである自分は、単一種族であるゆえに性差が存在しない。

男女の概念は非常に曖昧だ。彼自身の中でも、便宜上男性という形を選択しているにすぎない。

そんな自分が執着を見せる相手。世界に対し万遍の愛を注ぐ自分にとっての特別。マイノリティ。

だから、もし、彼に嫌われたら、この世界で生きていく自信はない。未練もない。

この『人間』が生きる世界にとって、自分はオンリーワンな存在なのだから。孤独な存在。

そう呟くようにつれづれと喋ってしまったのは、やはり疲れていたからだろうか。

独白を聞き終えた碇シンジは、穏やかな笑みを湛えていた。

「やっぱり、カヲルくんも悩んでいたんだね…」

そう肯定して貰えるのは嬉しいけれど、同時にコンプレックスも持ってしまう。錯覚にも陥ってしまう。

シンジしか自分を理解してくれていないという錯覚。

いや、それは錯覚なのか? 現実ではないのか?

不意に、なんだか寂しい気持ちになった。

まるで世界から自分一人だけ乖離して、どんどん引き剥がされていくような…。

ぽんと肩に置かれた手が、カヲルを呼び戻す。

「ちょっと来てくれないかな、カヲルくん」

シンジが笑っている。

どうにか微笑み返し、二人は連れだって社長室を出た。

シンジに先導されながら階段を下る。

辿り着いたのは文化系のフロア。そして彼が足を止めたのは、多目的ホールの前だった。

作成した作品などを展示するその部屋は、すでに灯りも落とされて人気がないのだが…。

不思議に思うカヲルに、シンジはホールのドアに手をかけながら、穏やかに言う。

「でもさ、カヲルくん。きみは、孤独だと思うっていったよね? それは、きっと『人間』であることの証しだよ。

 人間しか、寂しくならないんだから…」

ドアは開けられた。

「…え?」

問い返すカヲルの顔面を、強烈なライトが照らし出す。

続いて、何かが弾ける音、破裂する音。半瞬おくれて、圧倒的な歓声が彼を包む。

もはや轟音とでも形容としていい声量に、カヲルはなんと声をかけられたか聞き取れなかった。

彼が理解したのは、ようやく眩しさから脱し、ホール内に吊された巨大な看板を見たときである。






           『誕生日おめでとう!!』





シンジに促され、ホールに足を踏み入れるカヲル。

室内は綺麗に飾り立てられ、大小様々なテーブルには、いくつもの料理が所狭しと並べられている。

進む中、さかんに拍手してくるのは社員に受講者に、昔ながらの知り合いたち。

その人波の中に、ゲンドウに冬月、果ては憮然と腕を組む碇アスカの姿を見て、カヲルの疑問は氷解していた。

そう、全てはこのサプライズ・パーティへの布石だったのだろう。

彼女が上のフロアでトラブルを起こして自分を階下に行かせなかったのも。

階下では密かに準備が進められていたのだ。おそらく料理などの陣頭指揮をとったのはシンジであろう。

であれば彼のエプロン姿も納得できるというものだ。

大歓声に包まれ、なぜか壇上に上げられたカヲルの前に、花束を抱えた二人の姿。

「お父様、お誕生日、おめでとうございます…」

可愛らしく飾り立てられた娘の姿。

「…そういうこと、らしいわ」

こちらは珍しくドレスを着て、ちょっと照れたような妻レイ。相変わらず素っ気ない口調ではあったが。

受けとったカヲルの中でパラダイムシフトが起こる。

そう娘と妻がいるじゃないか。

自分は決して一人ではない。少なくとも配偶者を持っている。

でも、それは、結局、人間という種族の社会通念、枠組みの中の話で…。

悲観的な考えをしてしまうには、娘の笑顔を眩し過ぎた。

自分の血を分けた存在。

本来、産まれるはずのない命。

なぜなら、自分も妻も人間にあらざる存在。

しかも、妻の方は人の手によって作られた存在。

自分とは似て非なるもの。

或いは、より人間に近しい存在であり、自分の懊悩を共有できないはず。

今まで、そう思っていた。

でも。

そんな自分たちの間にできた『人間』の子供。

本来、産まれるはずのない子供。

発生する確率は、純然たるゼロなのに。

ひょっとして、イレギュラーなこの子の存在が、僕の考えの全てを覆す証明なのかも知れない…。

思い至り、赤面する。

顔に血を昇らせてしまった理由は、余人が理解するには複雑すぎるだろう。

それでいいとも思う。

単に照れて赤面しているのだと見えているよう願う。

壇上からホールを見回す。

幾つものの見知った顔が口々に叫ぶ。

おめでとう。

幾つもの見知った顔が声に出さず語りかけてくる。

君は、ここにいていいんだよ。










壇上から降りながら、彼は考える。

誰も彼のステージに来られないのなら、こちらが降りて行けばいいだけではないか?

生物の高等性を論議するつもりもないけれど、優位性のある生き物だけが、階下層の生物を理解できる。

猿は人間を意識出来ても、決して保護はできないように。

それは特権? もしくは傲慢?

でも、『人間』と『ヒト』の間にはどれだけの隔たりがあるというのか。

…答えはカヲルの中に既にある。

彼は単体であるゆえに、群体のように協議したり争うことはない。

ようは一つの種として彼は単純に思う。

やはり、僕は『ヒト』だけど。

『人間』として生きて行こう。

彼がそう決めた以上、誰も掣肘することなどできやしない。

そう、きっと神様でさえも。





壇上を振り返る。

家族を振り返る。

ホールを見回す。

全員を見回す。

人間を見回す。









そう、彼は自分を取り巻く環境を、ひいてはこの世界の全てを愛していた。

そして、周囲の全ても、彼を愛してくれていたのである。





人の輪にとけ込んでいくカヲルの中に、新たな感情がわき起こる。

新鮮で、どこか懐かしく、でも今は形容する術はない。

名付けるには温かすぎる感情だから。







それはきっと、以前よりも人間寄りの感情。


































(2005/7/30)



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