風は気まぐれに。

好機に向かい風

困難には追い風。

意のままに吹かせることは難しい。

だけど、風が吹けば、自分がどこかに進んでいることが分かる。

世界に存在していることが分かる。





































〜二人の指標〜





































蒼天に、海が凪いでいる日だった。

海岸を一組のカップルが歩いている。

男性はチェックの開襟シャツにジーンズ。女性の方はキュロットパンツにブラウス、カーディガンという格好だ。

身なりが示すようにまだ若い二人に見え、そしてそれは事実であった。

やがて二人は浜辺のベンチに腰を降ろす。

「ねえ、良かったのかな、僕たちだけで来ちゃって…」

と、声を上げたのは男性の方。名前は碇シンジという。

「まだグズグズいってるの? 大丈夫だって!」

その腕を半ば抱え込むようにして、妻であるアスカは呆れたようにいった。

「ちゃんと子供は司令が預かってくれているでしょ?」

この二人、まだ20歳にも満たぬ身空で結婚をしたうえ、なんと子供までいるのである。

なお渋い顔をしている旦那を、アスカは優しく諭す。

「あたしたちが新婚旅行へ行けなかったからって、こうやって北海道旅行プレゼントしてくれた司令の心意気を無駄にしちゃっていいの?」

「…うん、それは分かるし、凄く嬉しいんだけど…」

「司令、じゃなかった、お義父さんだって、実のところ初孫を預かってたっぷり独占したいんだから…」

そこでようやくシンジの頬も綻んだ。

旅行当日、子供を預けに行くと、父である碇ゲンドウ始め副司令の冬月コウゾウまでが、指をワキワキさせて待ちかまえていたものだ。

全く、孫が可愛くて仕方ないんだから。旅行に行ってこいなんて、口実よ、口実!

そういってベンチから立ち上がり、アスカは砂浜まで歩いて行く。

その後ろ姿を眩しそうに眺め、シンジも肩の力を抜けている自分に気づいた。

確かに子供が生まれてから育児に追われ、夫婦水入らずなんて時間は激減している。

特に苦労した、なんて考えたこともなかったけれど、疲れていたのは否定しきれない。

なんとなくベンチを立ち上がり、アスカの足跡を追って歩き出したら、不意に顔面に水が飛んできた。しょっぱい。

正面を向き直れば、波打ち際に素足を突っ込んで、アスカが海水を両手ですくっているところ。

「それそれ〜」

「うわっ、ちょっと、やめてよ…!」

ところが、まったく攻撃は容赦がない。やられっぱなしになる気のないシンジは、とうとう自分も波打ち際に飛び込んだ。

両手に海水をすくい、妻となった女性にめがけ投げる。

とはいっても北海道の海水は比較的冷たいため、せいぜい散布する程度だが。

しかしながら、生来『徹底的』とか『殲滅』とかいう言葉が大好きなアスカである。

夫の手加減なんぞまったく忖度せず盛大に水をばらまき、挙げ句、浜辺にあった小石を投擲。

シンジの近くを狙って着弾させたそれは、見事な水柱を上げ、結果旦那はずぶ濡れになってしまった。

勝ち誇る妻を、それでも嬉しそうに旦那が眺めるのだから世話はない。










白い砂浜に腰を降ろし二人は日光浴をすることにした。

日射しはそれほどきつくはなく、服を乾かすには物足りないけどポカポカと気持ちがいい。

「どう、楽しいでしょ?」

どう考えても自分が目一杯楽しんでいたようにしか思えない妻の声に、シンジは笑みを浮かべて返答の代わりにした。

確かに、二人きりではしゃいだのなんて久しぶりだ。

新鮮さを感じる自分に違和感を覚え、苦笑する。

世間的には、まだそんな行動が相応しい年齢であるはずなのに。

「ねえ、シンジ…」

隣で膝を抱えたアスカが声をかけてきた。寝転がったままのシンジは首だけそちらを向ける。

「あたしと結婚して、後悔してない…?」

アスカはよくこの質問をする。もっぱら寝る前とか、夜二人きりのときとかに。

そして、いつもシンジの答えは決まっている。

ようは二人だけの儀式みたいなものだ。

ちなみに、これと同じ質問をシンジ側からした場合、アスカは烈火のごとく怒る。

『このあたしが結婚してあげたのに、自分を卑下してどーするのよ!? それともなに、あたしの審美眼を侮辱するわけ!?』

とまあ、けなしているのかなんなのか容易に判断のつきかねる返答を突っ返されてから、シンジから質問をすることはなくなったわけで。

普段は、シンジが肯定の行動を示すと、そこで大輪の花が咲くような笑顔を見せ安堵した表情になるアスカであったが、今日の彼女は違っていた。

「その…子供が生まれたことも、後悔してない…よね?」

弱々しい追加の質問に、シンジは驚く。

だけど、即座に答えた。

「もちろん、子供が生まれてことだって後悔してないよ。なにより、可愛いし、僕も子供好きなんだなって発見できたし。

そりゃあ最初はさ、自分が父親になれるなんて思ってなかったけど、今はけっこう上手くやれてると思うし。

そうそう、父さんたちも喜んでくれてるから、子供が生まれて本当に良かったと思ってるよ」

思い入れが強すぎるとき、人は返って感情的な言葉を羅列するしかない。

シンジの脳裏には、現在へと連なる光景が、幾つも閃光のように弾けている。

初めてのアスカとの出会い。

初めての二人きりの夜。

初めてのキス。

もちろん辛い思い出や後悔だっててんこ盛りだ。

どっちかというと、アスカには専ら苛められ、貶されていたと思うけど。

それが今こうやって一緒にいることが、嬉しくて胸の奥がくすぐったくて。

好きになったことが、好きになってくれたことが誇らしくて。

だから。

更に言い募ろうとしたシンジの唇を、アスカのそれが塞いだ。

人気のない海岸で重なる影は、まるでそれが一枚の絵のように。

ゆっくりと顔を離すアスカ。その両頬が染まっている。

そして、なお呆気にとられている夫に対し、彼女は思いきって口にした。

「じゃあ、もう一人できても、大丈夫だよね…?」

数秒の忘失の間に、過去から現実の急降下がもたらされた。どうにか着地に成功して、ようやくシンジも口を動かす。

「もう一人って…赤ちゃんができたの?!」

無言で頬を染めたまま顔を伏せるアスカに、シンジは文字通り飛び上がる。

おまけにそのまま妻を抱え上げ、砂浜を全力疾走。

「ちょっと、シンジ、いきなりなによっ!」

お姫様だっこされたまま抗議してくる妻を、旦那はしかりつけた。

「お腹に赤ちゃんがいるのに、冷たい海なんかにつかっちゃダメじゃないか!!」

「え、えーと、少しなら、足首くらいまでなら大丈夫だって! もう三ヶ月目だし…」

「そういう問題じゃないだろ!? ああ、身体もこんなに冷えて…!! 早くホテルにもどらなきゃ…!!」

「…そりゃ、アンタがずぶ濡れで抱きついてくるからでしょ!?」

最後が悪態になりながらもアスカはうっとりとシンジの胸に頬をよせた。

浜辺の風を切り、腕の中の自分をこの上なく大事に抱えたまま疾駆する夫に全てを委ね、彼女は目を閉じる。

お腹の子が将来、ロクデナシになったっていい。

臆病者と他人から蔑まされても構わない。

まあ、将来なんて不確定なものだし、だいたいそんな風に育てるつもりはないれど。

まずは、生まれてくれなければ始まらない。

だからどうか、この子も元気で生まれてきますように。







































風は気まぐれに。

新しい風はいつ吹くものか。

風に逆らわず、でも流されず。

逆巻く風にも悲観することはない。

ただ自分を信じて歩けばよい。

風は道を教えてくれる。






















そして辿りつける場所が、君たちのいるところ。


そして辿ってきた道こそが、君たちの生きてきた証し―――。



















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