まるで針金のように喉に食い込んでる細い彼女の指。

ギリリと噛みしめた歯の音に、荒い呼吸の音が闇を揺する。

街灯の下。

幾千もの細い雨のヴェールに包まれて覆い被さってくる加害者を、シンジは黙然と見上げている。

ボロボロの赤いプラグスーツを着たアスカ。

右腕は螺旋状に包帯に覆われている。

左目も包帯で覆われており、痛々しい。

あの赤い海に、二人取り残されていた時の彼女の姿そのままだ。

唯一違うのは、無事な右の瞳に宿る光。

生気の失せ果てたあの頃の瞳と違い、今浮かんでいる表情は紛れもない―――。







声も無き世界に、アスファルトを湿す雨の音。

なのに、魂の慟哭は確かに闇に木霊した。

喉元を締め付けながらの強烈な訴え。

呼吸もままならず暗くなっていくシンジの視界。

反して、耳にははっきりとそれは響いている。


























◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇








ヘッドライトの光を濡れた路面が拡散してしまうため、視界は決して良くない。

そんな中で、助手席で目を凝らし続ける小さなアスカの胸は、さきほどからざわつきが止まらなかった。

嫌な予感がする。それもとびっきりの。

身を焼くような焦燥感も今まで感じたことがないほどで、気を緩めれば涙がこぼれそうだ。

車は猛スピードで疾走しているのに、心ばかりが急いで仕方ない。

ハンドルを握るミサトに視線を送り、アスカは「もっと飛ばして!」と言いかけた台詞を奥歯で噛みつぶす。

ミサトが十分にやってくれているのは、ビリビリと震える車体からも明かだ。

交通法規そっちのけで運転してくれている元保護者に、恩を感じても、責めるかのような言葉をぶつけるのは八つ当たりでしかない。

直線に差し掛かり、ルノーはますます速度を上げる。

ハイビームに照らし出された看板が視界を掠めるように過ぎ去り、アスカは思わず身を引き締めた。

『第三新東京市』

忘れ去られた街。

封印された死都。

始まりと、約束の場所…。

そこをシンジが目指したという保証はない。

だが、おそらく間違いないだろうという奇妙な確信もあった。

ミサトに触発されたわけではないけれど、確かにそこにしか手がかりはないような気がする。

手がかり?

一体何の手がかり?

思考を進め、アスカは我知らず唾を飲み込んでいる。

もう一人の自分の存在は、暗雲のようにアスカの脳裏を翳らせて止まない。

あの狂気の様相ももちろんだが、存在するという現実に付随する推論が、小さなアスカの身体を恐怖の手に晒しているのだ。

アスカを怯えさせるもの。つまり、ここにいる自分の存在が偽物で、あちらが本物である可能性。

正統性でいえば、五体満足で健康にサルベージされていても小さな身体であるアスカの方にアドヴァンテージはあるとは言い難い。

むしろ、傷だらけでも等身大のサイズで彷徨うもう一人の自分の方に軍配が上がるように思える。

今回のサルベージ計画の本懐を思い出す。

…そもそもが、あたしの傷を癒す為なのだ。

しかし、計画は失敗とはいわないけれど、不完全だった。

でも、もし失敗だとしたら? その結果として、二人の自分が再生されたとしたら。

傷を癒したけれど小さなあたし。

傷だらけのまま彷徨う昔の姿のあたし。

どちらが、本当のあたしなんだろう……?

ぐるぐると不安が渦を巻く脳裏を、強烈なGが左右に揺すぶってくれる。

「ちょっと、ミサトぉ!?」

助手席で二転三転しながらアスカは怒鳴る。

「うふふ、ヒルクライムは久しぶりね……!!」

フロントガラス越しに真正面を睨み付ける葛城ミサトの目は座っていた。

既にルノーは山道に差し掛かっており、道行きは平坦ではなくなっている。

曲がりくねった道を出来るだけ早く走るとなれば、俄然ドライビングテクニックが重要になる。

この緊急時において、ミサトの中の昔とった杵柄とやらが目を覚ましたらしい。

公道最速理論がどーたらと呟き始めたドライバー席を眺め、アスカは顔を引きつらせている。

早く到着するのはありがたい。ありがたいけど…!!

急カーブを曲がるたび、助手席の上をゴロゴロと転がる羽目になったアスカ。

あまつさえ、突然のブレーキに座席から投げ出されてしまう。

勢いそのままにダッシュボードに叩きつけられそうなったのを、ほとんどドロップキックの要領で両脚で踏ん張ってどうにか回避。

そのまま助手席の足下に墜落したのは仕方ないにせよ、乱暴極まりないミサトの運転は小さなアスカの忍耐の喫水線を越えていた。

どうにか無傷で済んだけれど、無茶苦茶に乱れた髪の頭を起こしてアスカは叫ぶ。

「あたしを殺す気!?」

ドライバー席のミサトは答えない。

いつのまにか斜めに停車したルノーの窓から、首を傾けて外へ視線を注いでいる。

「……?」

アスカも助手席に這い上り、ミサトと同方向へと視線を向けた。

ハイビームに照らし出される道。

細い雨が糸のように流れていく中、その光の輪の中心には人影があった。

ヘッドライトに照らし出された黄色いレインコート姿。フードを目深に被り、その正体は窺い知れない。

ひょっとしてシンジなの!?

思わず口に出しそうになったアスカの目前で、正体不明の人物は素顔を夜気に晒した。

「…リツコ」

運転席のミサトの呻くような声が、レインコートの主の正体を語っている。

もちろん驚いたのはミサトだけではない。小さなアスカも目を見張っていた。

どうしてリツコがここに!?

驚きは不審へ代わり、すぐに疑問と確信へ昇華された。

赤木リツコがここにいる理由。おそらく、彼女もシンジの動向を把握していたのだろう。

それは取りも直さずアスカたちの予想を首肯する形になる。

だが、なぜここでミサトのルノーの前に立ちふさがるのかが分からない。

助手席側のドアを開けて、リツコは上半身だけを車内に覗かせた。

ひやりとした夜気とレインコートの水滴が小さなアスカの頬を打つ。

「すぐに車のエンジンを切りなさい」

「え?」

「いいから早く!」

細く鋭い声に気圧されたように、ミサトはエンジンを切った。

震える車体は静止し、ライトも落とされる。

静まりかえる闇のなか、雨が宙を滑る音だけが響く。

「…アスカ、こっちにきて」

ほとんど真っ暗の中、リツコが手探りで小さなアスカに触れた。

いきなりの展開に茫然としていたアスカであったが、ここは逆らわず黄色いレインコートの袖に掴まる。

「ミサトも、静かにドアを開けて降りなさい」

指示には素直に従ったミサトだったが、車外に出るなりレインコートのリツコに詰め寄ったのはある意味当然だろう。

「ちょっと! なんであんたがここに…!」

「しっ!」

リツコは小声で制し、アスカを抱えてない方の手首を二回屈伸させる。

ようやく闇に慣れて来た目でミサトもそれの意味するところは悟ったらしい。

つまりは黙ってついてこい、というわけだ。

未だエンジンの熱気を発散するルノーから離れ、二人と小さなアスカは真っ暗な山道を歩く。

「………っ!!」

そして、アスカもミサトも息をのんだ。

程なく見えてきた常夜灯の下。

光の輪の下に展開される光景に。








◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇









―――――白いカーテンが風にそよぐ。

空は快晴で、明るい光が室内を照らしていた。

清潔な病室の白い壁は、時には冷たく迫ってくるものだが、陽光を十分に反射させたそれは暖かみを感じさせる。

病室の中央のベッドの上。

背中の部分にクッションを敷いて、少女は上体を起こしていた。

今の彼女の左腕には、点滴が一本だけ。

数ヶ月前のスパゲティ症候群とは縁を切ってはいるものの、代わりとばかりに右腕にと頭に巻かれた包帯が痛々しい。

茫洋と正面を見据えた青い瞳には、病室の白壁が映っている。

正確には、壁に掛けられた名も知らぬ画家の描いた額縁も映っているのだが、なんら興味をそそられた素振りすらない。

ただ黙然と前を見つめ、黙って窓から入り込む風に金色の髪を嬲らせている姿は、酷く気怠げだった。

頬も唇も健康的な色をしているのに、明らかに精彩を欠いている。

その理由は、さして医療に詳しくない人間でもおのずと看破できただろう。

彼女は、肉体より心の傷が深い。もしくは心を病んでいる、と。

おそらく上体を起こしたのも彼女の意思によるものではあるまい。

また、誰も手を貸さなければずっとそのままの体勢でいるだろうと危惧を抱かせるような彼女の様相は、静かな音で破られた。

二度、病室のドアをノックする音。続いて、おずおずとドアを開けて入ってくる少年。

「…アスカ、元気?」

少年―――碇シンジのオドオドとした双眸が、ベッド上の住人を見る。

少女の青い瞳は途端に躍動した。金髪を振り乱し怒鳴る姿なぞ、豹変と形容しても足りないほど。

「遅いわよ! 何やってんのよ、アンタは!?」

憎々しげに唇の端を歪め、剣呑に少年を睨み付ける。

その姿から、およそ先ほどまでの彼女の様子を想像することは不可能だろう。それほどの態度の変わりようだった。

「で、でも…時間通りだし。大体病院の面会時間は13時からなんだし…」

睨まれ、尻すぼみになるシンジの弁解は、即座に粉砕される。

「いちいち言い訳してんじゃないわよ、シンジの分際で! あたしがお腹減って死にそうだってことぐらい察しなさいよ!!」

理不尽な物言いに、それでもおずおずと言い返すシンジ。

「えーと、病院のお昼ご飯は…食べてないの?」

お昼の時間はとっくに回っている。

また、病人が病院の提供した食事を取るのは至極当然のことであるだろうに、アスカはいささかの怯みも見せない。

「あのね、何が悲しくて三度三度不味い食事を摂らなきゃなんないのよ! 食事は、人間の最大の娯楽なんだからね!?」

「はあ…」

論点の違う物言いを胸を張って宣言した後、茫然とする少年に指を突き付けるのも忘れない。

「だからといって、アンタの作るご飯が美味しいってわけじゃないんだから!! そこんとこ勘違いしないように!」

引きつった笑顔を浮かべ、シンジは返答を避けた。ベッドに近づき持ってきたトートバックを開けて、中身をサイドテーブルの上へ並べ始める。

カラフルな蓋のタッパに入っているのは、シンジ手製の料理の数々。

以前は同居人たちから無理矢理押しつけられた果ての素人料理だったが、最近メキメキと腕を上げていた。

もっとも本人にその自覚はない。なにせ唯一評価を下してくれる相手が素直な感想を口にしてくれないのだ。

「なによ、このハンバーグ。肉だんごの間違いじゃないの?」

いただきますも言わず勝手にタッパを開けて指で中身をつまみ、アスカは不満げな声を出した。

「それ、消化にいいように煮込みハンバーグにしたんだけど…美味しくない?」

水筒から紅茶を注いでいるシンジをジロリと睨み、指先についたデミグラスソースを舐め舐め金髪の少女はボソっという。

「不味くはないわよ。凄く不味くないわ」

捻くれすぎてもはや360°回転してしまっている台詞を吐きすて、代わりとばかりにハンバーグを口に運んでいる。

「アスカ、せめて箸使おうよ…」

シンジの哀願も届かない。たちまちハンバーグ入りのタッパを空にして、アスカは鋭い視線を投げつけてきた。

無言の青い片目で凄まれることしばし、ようやくシンジも欠食児童と化した彼女の言いたいことを察する。

「ごめん、ハンバーグはそれで終わりなんだ…。か、代わりに野菜のテリーヌがあるよ。おにぎりもあるし牛乳寒天も…」

シンジが差し出す端から、アスカはそれらを貪り喰った。

それはもはや制作者が呆れるほどの食べっぷりだったが、口の機能は咀嚼に使われるだけで賞賛の言葉などを一切紡ごうとしない。

そんなに食べちゃあ…というシンジの心配を余所に、さすがに完食は無理だったらしいアスカは、散々食い散らかしたサイドテーブルの前でケプッと可愛らしい息を一つ吐く。

トドメとばかり冷めきった紅茶をグビグビと一気に飲み干すと、間髪おかずベッドへ転がった。

あまりに唐突なアスカの行動に、思わずシンジは心配の声をかけてしまう。

「ど、どうしたの、どっか具合悪いの?」

枕に頭を預けたまま、面倒臭そうに片目を開けるアスカ。

「…あんたのせいでお腹一杯になったから、寝る」

「…………」

リアクションに困るシンジに、アスカは目を閉じながら手の平をヒラヒラと二度振った。

「夕飯も持ってきてもいいからね………」

振られた手は出て行けという意味なのか別れの挨拶なのか。

困惑するシンジの耳に、安らかな寝息が聞こえてくる。静かにタッパ類を片づけ、そっと病室を後にした。

リノリウムの廊下を歩く少年の顔は明るい。少なくとも虐げられた者の表情ではなかった。

事実、シンジの胸中を占めるのは温かい嬉しさだった。

アスカが健康を取り戻してくれたこともある。

自分の作った料理を食べてくれたこともある。

なにより、別れ際に見せた無防備極まりない彼女の寝顔が、シンジのひび割れて湿った心を癒してくれていた。

少年の原罪。

彼は、無防備な彼女に対し許されざる罪を犯した。

激しく悔い、泣き、許しを請うた記憶も生々しい。

冷たい青い瞳の色は、思い出しただけでも後悔と戦慄に背筋が粟立つ。

そんな彼女が、今の自分に向かって再度無防備な姿を晒してくれているという奇蹟。

アスカなりの許すというアピールなのだろうか。いや、そんな簡単に僕は許されるはずはない。許されるべきでもない。

でも。

だからこそ。

本当に許して貰えるその日まで、ずっと彼女の側にいようと思った―――。



「……っ!」

鋭い痛みがシンジの意識を呼び戻す。

白かった世界がブラックアウトし、次にぼんやりと薄暗い光景が視界に像を結んだ。

涙で滲む瞳がプリズムのような効果を果たし、網膜に幾千もの小さな同じ世界を描く。

自分の首を絞めつけているボロボロのアスカの姿。

喉元に走る鋭い痛みが、拡散した彼女の姿を一つに戻す。

同時に、酸素が足りず茫洋としていた脳も一瞬だけ活性化した。

気づけば、苦しい。気が遠くなりそうなくらいだ。

なのに喉元の灼熱の痛みのせいで、それもままならない。

ああ、きっと喉に爪を立てられているんだろうな、と茫洋と思う。

苦痛と激痛の狭間にあってなお、シンジにこれらを回避しようとする意思はなかった。

なぜならこれは、自分が一度は彼女に与えたもの。

自分がアスカに与えた痛みと苦しみ。

返されるのなら、進んで享受しなければならない。それは当然の報いなのだから。

この期に及んで、湿った地面に組み伏せられたシンジの中を占めるのは、激しい後悔だけだった。

もちろんそれは、傷だらけのアスカの暴力に身を晒す羽目になったことではない。

…僕に首を絞められた時、アスカはこんなに苦しかったんだ…。

今さらながら暴力の威力に愕然とする。

しかも、肉体よりなお心が痛かった。

あの時の浜辺にいたアスカの心情を慮った時。

シンジの胸に去来するのは、恐ろしいまでの恐怖。付随したであろう混乱。

拠るべき者もなく、事態すら把握しかね、全くの無抵抗だったあの時のアスカ。

茫然と宙を見上げるだけの彼女に、自分が下した殺意。

それはきっと、アスカの心こそを激しく傷つけたはず。

肉体的なものと違い、その傷を肉眼で見通すことは叶わない。

だからこそ、シンジの心は激しく痛む。

アスカの傷は全てアスカのもの。それを肩代わりできない現実。

同時に、今この瞬間も自分に向けられている肉体への痛みから、彼女の傷の深さの片鱗が伺える。

僕が感じる痛みが強ければ強いほど、アスカの受けた傷は重いのだ。

喉元の肉が裂ける感触がある。

シンジは思う。

この身などどうなろうか構わない。それでアスカの憎しみが減殺されるなら、それでいい。

自己犠牲などと形容すれば語弊がある。むしろこれは通過儀礼だ。

いずれ贖わなければならないとは思っていた。ずっと胸の奥にわだかまっていた。

解放されることを夢見て、アスカの傍らで彼女の庇護者を自認して過ごした日々。

…やはり、刻まれた罪は決して消えはしないのだ。

それが顕在化したのが、今自分の上で殺意をぶつけてくるアスカだろう。

このまま擦り切れるのを期待していなかったといえば嘘になる。

でも、罪は贖わなければならない。ツケは払わなければならない。

少しでも、彼女の気持ちが晴れるなら。

再びシンジの視界がぼやけ始めた。

周囲の暗さに反して明滅を繰り返すアスカの姿。

雨を背に受け、ボサボサの金髪をこちらに垂れ下げる彼女の表情をもう一度みたいと願う。

ゆっくりと目の焦点を引き絞る。

見えた。

「………………」

ああ、どうして。

なんで、君は。

そろそろとシンジの右腕が持ち上がる。片目のアスカに向かい持ち上がる。

濃い闇をかき分け、霰のような細い雨を弾き、ゆっくりと手が添えられた。

アスカの頬。こんなに冷たい。

ぶれる目の焦点を合わせる。

口角から伝う唾液にも気づかないまま、シンジは最後の力を振り絞った。

「アスカ…アスカ…」

言葉になった自信はない。でも、ありったけの想いと力を込めて、蒼白な顔に微笑を浮かべてみせたと思う。



















「そんな、悲しい顔をしないで…」
















包帯で右目を覆ったアスカの顔に浮かんでいたのは怒りではなかった。憤りもでもなかった。

むしろ彼女は泣いていた。

理由は分からないけれど、シンジは悲しい。

昔日の恨みを晴らしているのなら、積年の痛みを肩代わりさせようとしているなら、そんな苦しそうな表情を浮かべなくてもいいのに。

ひゅーひゅーという呼吸音が鼓膜を微かに揺らす。これは果たして自分のものか彼女のものか。

薄れゆく意識の中、青い片目が大きく見開かれるのをシンジははっきりと見た。

直後、闇を切り裂くような絶叫が響いたが、もはや彼の耳には届いていない。

傷だらけのアスカが両手で頭を抱えて仰け反っている。

それがシンジが意識を失う寸前、目蓋に残った光景。








◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇








リツコの手の中で、アスカは身じろぎした。

叫び声もあげようともがくが、ままならない。

それも当然で、リツコの両手は小さなアスカの口元から下半身まですっぽり覆う形になっている。

辛うじて覗く小さな蒼い双眸に映る光景。

人気のない山道の街灯の下、赤い影がもう一人の誰かを組み伏せている。

影が何者かを確認したときの驚愕は、ミサトも小さなアスカに準じた。

思わずミサトは、リツコの手の中のアスカと赤い影とを見比べてしまった。

闇の中でも大きく見開かれた瞳が、無言で訴えてくる。

どうしてアスカが二人いるの、と。

一応は小さな方のアスカから説明は受けてはいたが、実際に目の当たりにするとなると受ける衝撃が違うのは是非もない。

基本的に同じ人間が同時に存在すること自体が不可思議だ。

最も事情を把握していそうなリツコは、レインコートのフードも被らず微動だにしない。

ただ降り注ぐ細い雨が、佇む三人を濡らしていく。

リツコの手の中でなおも藻掻くアスカ。

彼女の瞳は雨によらず既に濡れそぼっていた。

口を押さえられ、叫びたいのに叫べない。

焦りと不安が小さな身体を破裂させんばかりに溢れている。

離して! 離してよ、リツコぉ! シンジが死んじゃう!!

声もなく絶叫して、アスカはますます身もだえする。

もう一人の自分がシンジに覆い被さりその首を絞めている光景。

ぐったりと地面に横たわるシンジの様相は、傍目にも酷く危険なものに見える。

アスカの焦燥が伝播したのかも知れない。ミサトが屈んでいた茂みから上体を起こす。

「…ミサトっ」

リツコの鋭い叱責に、ミサトの顔はすぐ目の前にきていた。

「無理よ、これ以上は。…あんたが何を知ってるかわからないけど、シンジくんを見殺しにする気!?」

小声ながら高ぶった親友の響きに、初めてリツコも身じろぎした。

闇の中、雨を吸ってべったりと頬に張り付くショートカットの頭部が微かに動く。

「…そうね、もう限界ね」

ようやくリツコも腰を浮かしけたその時。異変は起きた。

組み伏せられたシンジの右手がゆっくりと持ち上がり、赤い影に触れる。

次の瞬間、まさに魂消るばかりの悲鳴が夜を奮わした。

何事かと茂みの影の三人が注視するなか、霞むように赤い影―――もう一人のアスカの姿は闇に溶けていく。

後に残されたのは、ぐったりと路面に横たわるシンジだけ。それと彼を見下ろす薄暗い街灯。

「はやく病院へ連れていかなきゃ…!!」

事情はわからねど、即座に駆け寄りシンジを抱き上げたミサトは、とりあえず少年が無事らしいことに安堵しながらも叫ぶ。

ところが、同様に騒ぎ立ててもいいはずの小さなアスカは、蒼白な顔で絶句していた。

おそらく心配の極みに達したのだろう。そうミサトは予想してはみたが、アスカの浮かべる表情が彼女の推測を裏切る。

小さな顔に浮かぶ戸惑いと混乱。

それでもルノーにどうにかシンジを搬送する。

イグニションキーを捻りながら、ミサトは大きな声を黄色いレインコートへ投げつけた。

「リツコっ! あんたの足はあるの!?」

「大丈夫、この先に車を停めてあるから。…病院で落ち合いましょう」

短いやりとりがかわされた。では出発というところで、小さなアスカは助手席の窓ガラスへとへばり付く。

「ミサト、ちょっと待って!!」

動きだそうとしていた車体は静止する。ドロドロといったアイドリング音の中、意を決したようにアスカはリツコに訊ねた。

「…もう一人のあたしは……どこに消えたの?」

闇の中、ウインドウ越しに、リツコは躊躇う素振りを見せた。常ならぬアスカの不安そうな様子を看取したからだろう。

しかし、真っ直ぐアスカを見下ろして答える。

「―――満たされた魂は、あるべき所へ還ったわ」

「…………」

それ以上アスカは訊ねなかった。沈黙が降りる。

会話は終わったと判断したミサトは憮然とアクセルを踏み込んだ。

かくしてルノーは街めがけて走り出す。

山を下り終えてバイパスに出てから、ミサトはようやく助手席に声を放る気になった。

「リツコの言ってた台詞の意味って…?」

小さなアスカは答えない。

助手席に横たわるシンジの喉元をハンカチで止血しながら、彼女は慄然とした表情を浮かべている。































NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


充たされたモノと 〜了





NEXT










(2006/8/7 初出)




戻る