碇シンジは目を覚ます。

ぼんやりと輪郭を取り戻す視界。

滲んでいた映像が鮮明になるにつれ、一番最初に目についたのは、金色の色彩だ。

それがアスカの髪であると認識すると同時に、シンジは疑問に思う。

あれ…? どうして天井がこんなに高いんだろ…。

軽い頭痛のする頭で考えることしばし、シンジはようやく合点が行く。

単純な目の錯覚だ。天井が高いわけはない。アスカが小さいのだ。

そうアスカは小さくなっちゃってて…。

小さなアスカの顔に焦点を合わせる。

? どうしてアスカはそんな心配そうな顔をしてるんだ…?

上体を起こした途端、シンジは喉に痛みを感じる。

同時に、細い雨の降りしきる暗い光景が脳裏にフラッシュバックした。

…そうだ。

僕は、傷だらけのアスカに……。

シンジは左手で顔を覆い、右手を喉元に当てる。

包帯の手触り。柔らかい生地越しでも、痛みが走った。傷は深いのだろうか。

夢じゃないんだ。これが証だ。

やはりアスカはもう一人いて、僕は彼女に会って…。

「……シンジ…?」

傍らから声。

ベッドの端に横座りをしている小さなアスカの姿がある。

…なんて不安そうな顔をしているんだろう。なんて心配そうな顔をしているんだろう。

「アスカ…。僕は一体?」

「………」

小さな頭は項垂れた。シーツをきつく握りしめる彼女の様子に、シンジはそれ以上訊けない。

痛々しい姿のアスカから視線を周囲に移す。

今さらだが、どうやらここは病室のようだ。

…あの時、僕は、もう一人のアスカに首を絞められ、意識を失った。

殺されるかも知れない、と思わなかったといえばウソになる。

でも、あのアスカを恨む気持ちも更々なかった。

与えた痛みと苦しみは返されて当然だ。世界最古の法典にもそう記されているではないか。

もっとも、それで恨み辛みが綺麗さっぱり無くなるわけでもないだろうけど…。

とにかく僕は助かったのだろうか? 許して…貰えたのだろうか?

分からない。

シンジは頭を一つ振る。

時間はどれほど経過したかはわからねど、どうやら夜の山道から誰かが運んでくれたのは間違いない。

おそらくそれは元保護者であるミサトだろうとシンジは見当を付けている。

同時に更なる疑問が湧いてきたのも当然だ。

僕は助けられたとして、一体ミサトさんたちはどこまで見たのだろう? どこまで知ったのだろう?

疑問に至り、ハッとシンジは顔を上げた。

ミサトが現場に居合わせた以上、小さな方のアスカも一緒だった可能性は極めて高い。

その推測を裏付けるかの如くの先ほどからのアスカの態度。

気まずさにシンジも項垂れてしまう。

今回の独断専行は、もう一人の傷だらけのアスカの為に起こしたもの。

覚悟は決めてはいたものの、反面、小さなアスカをないがしろにしてしまったという忸怩たる感情がある。

―――小さなアスカを置いて、傷だらけのもう一人のアスカに殺されてもいいと思った自分。

どちらもアスカであるにせよ、小さな彼女にとっての自分の行動は、裏切りに等しいのではないか?

結果、言葉をかけあぐねるシンジ。

ベッド上で静かに項垂れる二人だったが、その沈黙を破ったのは室外からの第三者たちだった。

「どお、アスカ? シンジくん、起きた?」

ノックもへったくれもなくドアを開けて顔を出したのは葛城ミサトである。

思わず顔を上げる二人の前に、元保護者はいやに陽気な表情で近づいてきた。

「あー、良かった目ぇ覚めたみたいね、うんうん」

しかも勝手に納得して頷いていれば世話がない。

シンジとアスカは、むしろミサトの後についてきた人物にこそ注視する。

「…大丈夫そうね、シンジくん」

柔和そうな笑みを浮かべている赤木リツコ。

彼女もいつも通りの白衣を纏った姿で、ベッド上の二人の元へやってきた。

「喉の裂傷は全治一週間ってとこかしらね。しばらくアザが残るだろうから、包帯をしておいた方がいいわ」

常ならぬ優しい眼差しに、シンジは思わず見かえしてしまう。

ほとんど見つめ合っていると形容していいほど長い時間視線を搦めてしまい赤面。おずおずと頭を下げた。

「その…ありがとうございます」

顔を起こしきらず、上目遣いでリツコとミサトの反応を窺うシンジは、ある意味したたかだったかも知れない。

しかし、やはりというか何というか、大人たちの方が一枚上手だった。

「今は午前六時よ。退院しても構わないけれど、今日一日大事をとって泊まっていく?」

「帰るなら、送ってってあげるわよん♪」

二人の表情から何も読み取れない。

つまりは、シンジが知りたい件についてはここでは触れたくないのだろう。もしくは語る気そのものがないのか。

これ以上粘っても無駄だと悟ったシンジは、視線を傍らのアスカへずらしながら答える。

「…そうですね」

小さなアスカは何も言わない。彼女の態度もなんとも解釈しかねたが、このまま曖昧な状態でいいわけでもないだろう。

なおアスカに視線を注ぎながら、シンジは短い答えを口にした。













◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇











数十分後。

「本当に、色々とありがとうございました…」

マンションの前で、慇懃にドライバー席に頭を下げる碇シンジの姿を見いだす事が出来る。

「ああ、気にしないでね。またなんかあったら、いつでも力になるから」

殊更陽気にミサト。笑って手を振ってくれる姿からは微塵も疲労は伺えない。

「それじゃ、またね。…アスカも、あまりシンジくんを困らせちゃだめよ…?」

発進したかと思ったら、たちまち姿が遠ざかるルノー。

完全に見えなくなるまで見送って、シンジは手の中にいるアスカを見下ろす。

リツコらが用意してくれた巾着の中に大人しく収まっている小さな彼女は、病室からそのままのテンションを維持していた。

つまり、明らかに精彩を欠いている。

「…アスカ?」

シンジが声をかけるも、返答はない。だからといって意図的に無視している雰囲気ではない。

なにか他のことに気を取られて、こちらの言葉が耳に入っていないような…。

更に何度か声をかけるも、やはり反応はなかった。

とりあえずシンジは自宅に戻ることにする。午前7時を回ったばかりの早朝だが、ボチボチ人通りも見え始める頃合いだ。

当たり前だが誰も迎えてくれることのない1LDKの部屋。

自分でもよく分からない空白感を覚えたシンジは、誤魔化すようにリビングのTVのスイッチを押す。

でも、やはりにぎやかなだけのニュース番組は、自分の中の何かを充たしてくれそうもなかった。

ぼんやりとTV画面へ視線を這わせ、画面右端の現在時刻に注視する。

午前7時18分。

…どうしよう。学校へ行こうかな?

もちろん、今から支度をすれば十分学校に間に合う時間帯だ。

深夜に出歩いて昏倒したにもかかわらず、疲労感も眠気もない。

病院で何かしら投薬されたせいかも知れないけれど、学校に行くには支障もなさそうだ。

どうせなら、早速にでも先日の情報提供者たちに直接顔を合わせて礼もいいたい。

そう考え、ソファーから腰浮かしかけたシンジ。

卓上に置かれた巾着から出てもなお無言だったアスカが口を開いたのは、その時だった。

「ねえ、シンジ! あんた今日は学校サボりなさいよ!」

「…え?」

シンジは思わずマヌケな声を出してしまった。

そりゃあアスカを連れていけるわけではないけれど、ここまで直截的に学校へ行くなと言われたのは初めてである。

戸惑うシンジに、アスカは上目遣いで続けた。

「…だいたいね、アンタそんな首に包帯して学校いく気?」

その台詞に、シンジは首に手を当ててしまう。

かなり大仰に首筋に巻かれた包帯。

ただでさえここ数日、学校では目立つことをしっぱなしなのだ。

真相こそ看破できないだろうが、この首のケガをそれらと関連づけて考えるなというのは無理な相談だ。

少なくとも、クラスメートから、場合によっては担任からも問いつめられるだろう。

もちろん誤魔化せないこともないだろうが、色々と面倒なことになるのは目に見えている。

「…そうだね、今日はサボっちゃおうか」

しばらく考えてからシンジはそう口にした。

別段単位が足りないわけでもない。風邪がぶり返したと連絡すれば、それほど変に思われないだろう。

さらにシンジは、「ねえ、アスカ疲れてない? 一眠りする?」と続けようとして、叶わなかった。

彼の台詞を遮って、小さなアスカは宣言するようにこういったのだ。

「学校をサボって、今日一日、あたしとデートしなさい!」













◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇











「…アンタさあ、もうちょっと何とかなんないワケ?」

露骨に揶揄するような口調と視線で小さなアスカはそう訴えてくる。

「だってさ…」

答えようとして、シンジは慌ててアスカの入ったバスケットの蓋を閉じる。

そのまま何気なさを装いながら歩くことしばし、対向からきた一般人をやり過ごした。

背中に刺さってくる奇異の視線を感じなくなってから、ようやく蓋を開ける。

「…やっぱりさあ、男がバスケット持って歩いているのって、不自然かなあ?」

そうのたもうシンジを見上げ、アスカは呆れ顔も隠さない。

「それ以前に、アンタの格好が問題だと思うんだけどねー?」

「そう…かなあ?」

きょとんと悪びれない表情をするシンジの顔にはサングラス。

ハイネックの黒シャツで首筋を隠すのはともかく、黒いジーンズに黒いスニーカーで全身黒ずくめとなれば、嫌が応にでも目立つ。

ところがシンジ自身、黒色が一番目立たず、忍んで出かける時はこのスタイルが一般的だと頑ななまで信じ込んで、実行している次第である。

たしかに、平日の真っ昼間から男子高校生が遊び歩くというのは褒められたものでない。運が悪ければ補導されることもあるだろう。

…にしても、これじゃあ逆に悪目立ちしてるだけじゃないの?

アスカの心配をよそに、アヤシイ格好のシンジは言う。

「とりあえず、駅前まできたけど…?」

時刻は9時を回ったばかり。

定番のデートとするならば、まだ早い時間帯ではあるが、アスカは気分を切り替える。

「じゃあ、まずは映画館よ!」

というわけで向かった平日の映画館は空いていた。一回目の上映なので尚更である。

したがって、席は選び放題。

真ん中の中段という絶好席を確保したシンジは、上映ベルが鳴って館内の灯りが落ちてからバスケットを解放した。

隣席に這い出したアスカであったが、どうにも視界が確保できない。

座席の背もたれを這い上ったりした挙げ句、結局シンジの肩に定位置を確保。

チョイスした映画がアクションであることにいやーな予感を覚えるシンジ。その予感は間もなく的中することになる。

大音響に大画面の大迫力。小さなアスカにしてみれば一大パノラマで見ているに等しい。

興奮してボルテージが上がるのは、まあ仕方ないだろう。

全身を使って喜んでくれているなら、映画に来た甲斐があるというものだ。

だけど、僕の肩の上で暴れるのは、本気で勘弁して欲しい。

「そこよぉ!!」

興奮仕切りのアスカが思わず放つ右回し蹴り。

瞬間、シンジの左の耳朶には、千切れんばかりの激痛が走る。

「よーっし、よしよし!」

地団駄を踏まれれば、鎖骨を踏み砕かれんばかりの激痛が。

おかげでシンジは映画どころではない。

アスカの叫びと行動が、他の上映客に見えてやしないか気が気ではないのだ。

結果としてシンジの心配は杞憂で済んだ。が、被害自体は甚大である。

肩は痛いわ耳はキンキンするわ映画の内容なんぞちっとも頭に入っていないわ。

「いやー、面白かったわね!」

それでも、朝と比べれば雲泥の差のアスカの笑顔を見れば、仏頂面ではいられない。

「次はどこに行こうか?」

映画館を出て、明るい日差しに軽い眩暈を覚えながらシンジは訊ねる。

対してバスケットの中で自分の携帯電話を操作するアスカの姿があった。

「ほら、ここ! このレストランの限定50個のランチが凄く美味しいんだって!」

小さいアスカが抱え上げる携帯電話のディスプレイ。

表示されているのは簡略化された地図。ポップな文体と絵文字も踊っていた。

「そう…だね、そんなに遠くないね」

地図と同時にシンジは携帯の隅に表示されたデジタル時計にも視線を走らす。

午前11時半前だ。今から行けば十分間に合うだろう。

かくしてシンジたちは混み始めた駅前を歩き始める。

当然といおうか訝しげな視線に幾つも晒される羽目になったが、これは許容範囲であるとシンジは主張。

並ぶこともなく無事レストランに入店した後、より一層訝しげな視線を集めたことに関しては、この店がお洒落だからとも主張した。

当然アスカの意見は異なる。いや、正確を記せばシンジの主張+αな意見だ。

土台が全身黒ずくめの妖しい格好なのだ。童顔にサングラスをかけているのはまあ良いにせよ、首には大仰な包帯が。

そんなナリの少年が意味不明のバスケットを片手に一人でランチタイムとしゃれ込んでいる。

不可思議に眺めてしまわないほうがおかしいだろう。

それらを滔々とアスカは説明しようとして断念した。どうにもシンジの認識と世間のそれには齟齬があるように思われたので。

なにより、限定のランチが美味しすぎたこともある。

鹿肉のローストをメインに、パスタとサラダがついて980円。

味もなかなかでお得感・満足感、共に高い。

当然頼んだのは一人前ぶんだ。小さなアスカが食べる量などたかが知れている。

わざわざ一番奥の席へ案内してもらい、入り口に背を向けてシンジはせっせとランチに取り組む。

背中でアスカを隠しながら、ナイフとフォークを動かすシンジ。

「もうちょっとパスタちょーだい!」

遠慮無い声で要求してくるアスカの声が周囲に聞こえやしないかとヒヤヒヤしながら、それでもシンジはフォークの先端に乗せた一片けを渡してやる。

アスカは行儀悪く鷲づかみでそれを口に運ぶ。

小さいサイズなので仕方ないわけだが、彼女がパスタの欠片を貪る様は、シンジにとって齧歯類の小動物を連想させた。

思わず頬を弛めて見下ろせば、パスタをくわえたままのアスカと目が合う。

「はにみへんおよ?(何見てんのよ?)」

シンジは反射的に目を伏て、

「あ、うん、いや別に…」

「…ふん」

アスカはくるりとこちらに背を向ける。逆鱗に触れたかと思ったシンジはホッと胸をなで下ろすしかない。

自分が食べる手を止めて見守っていると、振り返ったアスカはナプキンで手を拭いながら口をモゴモゴ。

ごくんと飲み下すなり、居丈高に指を突き付けていった。

「お昼、終わり! さあ、さっさと次行くわよ!!」

「ええ!? ちょっと待ってよ、僕はまだ…!!」

慌ててランチをかきこむシンジを横目に、アスカはさっさとバスケットに移動している。

せかされ、ロクロク味わうこともないまま、シンジはレストランを後にする羽目に。

まだお昼を少し回ったばかりの時間にかかわらず、次にアスカの指定した場所が、高級そうなホテルの前なのは謎だった。

「何ぼーっとしてんの? さっさとエレベーターに乗るわよ?」

アスカの指さす看板を見て、さすがにシンジも戸惑いを隠せない。

『スカイレストラン・ステーキランチフェア』

…先ほど昼食を食べたばかりなのに、梯子をさせる気なのだろうか。

「あの…アスカ、僕もうお腹いっぱいだよ…?」

小食ではないが決して大食漢でもないシンジは、おずおずとバスケットの中に囁く。

「はん?」

なのにアスカは不思議そうな顔で応じてくれる。

そうして、シンジの顔とその視線の先を見比べることしばし、ポンと手と手を打ち合わせた。

「ああ、違う違う。あたしたちが行くのはその下の看板の方」

アスカの言に従って、シンジはそろそろと視線を下に移動。

なのに少年の顔に浮かんだ表情は、先ほどにも増して狼狽しきりのものだった。

『最上階レストランにて、ケーキバイキング開催中』

「…えーと、僕、男なんだけど」

ヒラヒラと手を振りながら、アスカはケロリとした表情。

「なによ、デザートなのよ? だいたい甘いモノは別腹っていうじゃない!」

「………」

論点が完全にずれている。

シンジの危惧は、男が一人でケーキバイキングの店に入るということにこそある。

その羞恥たるや、さっき昼食を摂った時のレストランの比ではない。

世の甘いもの好きの男性の中には単独で甘み処へ突撃を敢行する勇者もいるらしいが、生憎とシンジはその資質に欠けていた。

当惑するシンジをアスカは怒鳴りつけたりしなかった。

ただバスケットの縁を両手で掴み、上目遣いで見てくるのみ。

これは彼女にとって珍しく、かつ非常に似つかわしくない表情だった。

訴えてくる眼差しが、シンジの胸を揺さぶる。また、脳裏で今朝のアスカの台詞が再生されていた。

『今日一日、あたしとデートしなさい!』……。

一度ホテルを振り仰ぎ、シンジは覚悟を決める。

毒くらわば皿まで。大丈夫、そんなの一時の恥にすぎないさ…。

抱えなおしたバスケットの中では、アスカの「GOGO!」という無責任な囃し声。

受け付けのお姉さんの顔色一つ変えないプロの態度には救われたが、席に案内され、いざケーキを取りにいこうという段になってから、シンジは己の認識の甘さを悔いることになる。

平日の昼間である。

この時間帯にいるのは、OLか女子大生と相場が決まっている。

これが休日であればまだデートしているカップルや家族連れがいるのだろうが、本日の男性客は絶滅状態に等しい。

そんな中に、ぽつねんとシンジは一人。プラス黒づくめのサングラス。

目立つのは当然で、居合わせるその他大勢の女性客の想像力を大いに刺激したのは疑いない。

つまり、甘味もの好きの男の子が変装して食べに来ているのだろう、と。

―――可愛らしいバスケットを抱えているところを見ると、少女趣味なのかしら?

お姉様方のクスクスといった笑いとともに、沢山の視線が自分の顔の表面を撫でていくのをシンジは感じる。

元々線が細いシンジである。そんな彼も、まさか一部の視線の持ち主の頭の中で、自分が可愛らしい女の子の服を着せられているなど思いも寄るまい。

とにかく、注目を浴びるのにはどうやっても慣れない性分のシンジ。

それでも勇気を出して、中央の大テーブルに鬼のように並ぶケーキを取り皿に載せては、これまた一番隅の座席へと運搬する。

取ってくるケーキは純然たるアスカの指示によるもの。シンジの嗜好はこの際完璧に無視されている。

大喜びでシンジの持ってきたケーキにかぶりつくアスカの姿は、極めて幸福そうだった。

彼女曰く、巨大なケーキに齧り付くのは、乙女の願って果たされない夢の一つだとか。

ほとんど無邪気といっていい様相で、オレンジムースケーキとラズベリーのポワゾン、プレミアムモンブランにベイクドチーズケーキ、苺のミルフィーユとパンナコッタを貪るアスカの姿を見れば、さすがにシンジも喜びで羞恥を忘れた。

問題は、その直後にこそ訪れた。

「…けぷっ。うう、もう食べられないー…」

そういってバスケットの中に寝転がるアスカに苦笑したシンジだったが、テーブルの上に放置されたケーキの数々を見て顔を青くする。

確かにアスカは幾つものケーキに齧り付いた。しかし、その摂取量は、小さな身体に比して微々たるもの。ネズミが囓った程度に過ぎない。

となれば、卓上のケーキのほとんどは手つかずといっていい状態なのである。

青ざめた顔で大量のそれらを睥睨し、シンジは唸る。

…もしかして、これ、全部僕が食べるの?

見ているだけで甘さが口に溢れてきたシンジは、逃げるように視線を上げる。その先には、店側が用意したらしいプレートが。

『食べきれる分だけお持ちください。大量に残すのはバイキングのマナー違反です』

別段、残したところでペナルティはない。なのに、提示されたルールを遵守してしまうのが、碇シンジという少年の素直にして救われない部分であった。

「…ううっぷ…」

甘いものが食べられないわけではないけれど、これだけ大量には辛い。

一欠片でもいい、フライドポテトが食べたい、などと念じながら、強烈に甘いそれらを律儀に全部平らげるのに約三十分。

支払いを済ませ、フラフラとホテルのレストランを出れば、アスカは快復していてさっそく次の指示を飛ばしてくる。

「ほら、次! 次!」

「ごめん、ちょっと休ませて…」

思わず木陰のベンチに腰を降ろすシンジに、アスカは頬を膨らませている。

「ちぇ、これからジャンボパフェ食べに行こうとおもったのに」

「…勘弁シテクダサイ」

寛大にもアスカが許してくれた。

どうにか気分を持ち直したシンジが次に足を向けたのは、大手玩具チェーン店である。

一般のデートコースでいえば意外かも知れないが、小さなアスカにとってはそれほど変な展開ではない。

現在、彼女が家で使っている家具は、シンジの手製か、オママゴト用のオモチャで賄われているからだ。

新しい家具でも買うのかな?

小首を傾げながらオモチャ売り場をそぞろ歩くシンジは、ここに至ってようやくサングラスを外すことを思い立つ。

さすがに平日の昼下がりのオモチャ店は閑散としているので、その分目立つのだ。

ホテルと違って、アルバイトらしき店員の視線が露骨に痛い。

かくして胸ポケットにサングラスをしまったシンジがしゃがみ込んだのは、着せ替え人形のコーナー。

それなりに煌びやかな衣装が透明なケースに入れられて吊されていたが、伊吹マヤ手製のそれに比べると、縫製もなにもかも安っぽく見える。

シンジには、なぜアスカが玩具屋のこのコーナーに来るかが分からない。実際、家にはマヤの置いていった服が沢山あるわけだし。

小さなアスカは答えない。シンジの抱えたバスケットの中で片手を腰に当て、もう片手の人差し指を顎に当てて熱心に眺めている。

「…いっそ、マヤさんが教えてくれたお店にいこうか…?」

おずおずとシンジは提案してみた。

アスカの衣装を持ってきた時、伊吹マヤは教えてくれていた。この街にも、ドルフィーの専門店があることを。そこには同好の志が沢山いることも。

「別にそんなとこいかなくてもいーわよ」

こちらも見ずに、視線を衣装の棚を向いたままのアスカの返事。

「そう…なんだ」

イマイチ釈然としない気持ちを抱えながらも、シンジはなんとなくアスカの視線の先を追ってしまう。

小さな蒼い瞳はゆるやかに動いていたが、ある衣装に注がれて停止した。

棚の上。ショーケースに収められたそれ。

―――純白のウェディングドレスだった。

「もしかして、アスカ、あれが欲しいの?」

シンジの問い掛けに、残酷なまでに他意はなかった。単純に、女の子はそういう服を着てみたいんだろうな、という意識くらいしかない。

一方激しく狼狽したのはアスカである。

「なっ…はっ、はん! いらないわよ、あんなの!!」

叫ぶようにいうなり、バスケットの蓋を閉じてしまう。

「ちょ、ちょっと、アスカ? どうしたのさ?」

中から蓋を押さえているらしく、どうやっても開かないバスケットを抱え声をかけるシンジ。

気づいたときは、こちらを見ながら遠目にもヒソヒソと声を掛け合う店員たちの姿が。

年輩の店員が電話をかけるような素振りを見せているのを見て、シンジは全力でその場を離脱した。

店を出てじゅうぶんに離れたころに、バスケットの蓋も開く。

シンジが、アスカの機嫌がもう回復していたのを疑問に思う間もなく、彼女は次のコースを声高に提案している。

「あ、シンジ、ゲーセンいこ、ゲーセン!」













◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇












湖岸から吹き付ける風に、シンジは髪を嬲らせている。

彼の黒ずくめの身体を、地に没しようとする太陽が橙色に染め上げていた。

「…アスカ、楽しかったね」

蓋を開けたままのバスケットの中へ声を落とすシンジ。

「そうね、楽しかったわね」

負けず劣らず橙色に染まりながらアスカも答える。

…珍しく素直だなあ。

不遜にもシンジはそう考えてたりしたものだから、不意にアスカが腕をよじ登ってきたのにビックリする羽目になる。

「あ、アスカ、一体何…?」

「何よ、あたしも風に当たりたいのよ」

シンジの肩まで上ってから、アスカは直接耳に囁く。

小さな吐息を頬に感じ、シンジは頬が微かに熱を持つのを感じた。

強い風に、アスカの髪が舞う。

すっとアスカが肩に腰を降ろした気配。

頬に重みを感じ、シンジは軽く狼狽した。

「動かないで。こっち向かれると落ちちゃうわ」

シンジの頬に寄りかかりながらのアスカの声。

事実がその通りなだけに、自然シンジは金縛りとなる。

そのまま二人は黙って湖から吹き付ける風を浴びながら、沈みゆく夕日を眺めた。

一日が終わる。どこか寂しく切ない光景。

アスカが小さくなってから、一緒に都合二度この光景を見てる。一回目は、学校の屋上で。

そんな二人の脳裏には、今日のデートの内容が等しく反芻されていた。

映画に始まり、ランチ、ケーキバイキング、ショッピング。

その後に入ったゲームセンターではUFOキャッチャーのぬいぐるみを求めてアスカが景品口からの侵入を敢行したり、カラオケでは小さな全身でシャウトした挙げ句過呼吸をおこしかけたり。

そして最後の最後に、この湖の見える高台へと来た次第だった。

それにしても、ほとんどの料金がシンジ一人分で済んだため、極めてコストパフォーマンスの高いデートだったといえる。

楽しかったことも紛れもなく本当だった。

その、色々と恥ずかしかったけどさ…。

口の中で呟きながら、シンジは横目で肩の上のアスカを窺う。残念ながら表情は良く見えない。

…しかし、なんでいきなりアスカはデートしようなんていったんだろう?

シンジにとってそれは疑問だった。

自分にしては先日の後ろめたさがあったから付き合うのに否応もないが、アスカの唐突な提案に至る心情が今ひとつ理解できない。

単純に気晴らしなのかな? うん、きっとそうなんじゃないかな…?

あえて弁護すれば、シンジ自身先日の疲れも残っていたのだろう。くわえて、今日一日ふりまわされっ放しだったともいえる。

疲労のためか思考力が減退し、単純な結論に落ち着いたのは、アスカの穏やかな態度からも仕方ないのかも知れない。

だから、とうとうシンジは気づかなかった。

自分の頬に身体を預けたまま、アスカが泣いていたことに。

また、彼女の小さな唇が紡いだ微かな呟きも。












「…これで、おしまい」







風に吹き散らかされ、夕闇に溶けた台詞。




それを聞き逃したことを、シンジは死ぬほど後悔することになる。


















NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


充たされぬモノへ 〜了





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(2006/9/1 初出)




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