それからの一週間は、実に滞りなく過ぎた。

日中シンジは登校し、アスカは大人しく留守番。

夕方からはお互いに一緒の時間を過ごし、穏やかに談笑を交わすことさえある。

まるでずっと同じ日が続いていくかのように。

もしくは、今までずっと同じ日が続いて来たかのように。

しかし、何事にも終わりは来る。

ある日の夜。

一件の電話の着信が、静かにシンジへ終わりの始まりを告げた。

発信元は赤木リツコ。

セカンドチルドレン再生計画の総責任者は、至って事務的な口調で言う。

『全ての準備は整ったわ』













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翌朝、ミサトの回してくれたルノーに乗り込み、シンジたちは一路第三新東京市を目指す。

助手席のシンジの抱えるバスケットの中には小さなアスカ。

はしゃいでこそいないが、アスカは平然としていた。むしろシンジのほうが緊張で身体を強張らせている。

「いよいよね」

ハンドルを握りながらのミサトの穏やかな声。

「そ、そうですね」

対して声を上ずらせてしまうシンジがいた。

これから行うこと、行われることを考えて会話が弾むのも妙な話だ。なにせ一抹の不安は拭いきれていない。

準備は万端といえど、今度こそうまく行く保証もないのだから。

またしても黙り込むシンジを叱咤したのは、驚くべきことに当の本人だった。

「なに不安そうな顔してんのよ? …大丈夫、アンタは今日中に無事な身体に戻ったあたしに会えるわ」

バスケットの中から見上げてくる穏やかな顔、青い瞳。

平素のシンジだったら違和感に気づいたかも知れない。

まるで他人事のような口調。

そしてあまりにも穏やかすぎる彼女の表情は、もはや諦観に近いことを。

もっとも今日のシンジにそこまでの余裕を期待するのは無理な話だった。ゆえに気づかない。気づけない。

「う、うん、大丈夫だよね、きっと…」

「あったり前じゃないの、そんなの。…それともアンタ、小さいままのあたしの方がいいわけ?」

「そ、そんなことないってば!!」

そんな二人を横目で眺め、ミサトがからかう口調を作ったのも、きっと元被保護者たちの緊張を解きほぐすためだろう。

「そうよねー、シンジくんは学校のみんなにアスカのこと紹介しなきゃなんないから、大変よねー」

いや、案外本気でからかっていたかのも知れない。

口の端を持ち上げて笑うミサトに、元被保護者の少年の方は尋常な様子ではいられなかった。

「ミ、ミサトさん、それって……!?」

「んふふ、『僕の恋人なんだ!』なんて、シンちゃん、やるじゃん♪」

「……………!!」

たちまち赤面、絶句するシンジに、ミサトは破壊的なまでに屈託がない。

「いいわね、青春よね、うふふふふ。わたしの高校生の頃なんてそりゃあ」

ミサトは朗らかな笑顔のまま首を捻ってから、

「…………なんか段々腹立ってきたわ」

呟きとともに表情を一変させた。なにやら後ろ暗い過去を思い出してしまったらしい。

次の瞬間、噴かされるアクセル。スピードを上げるルノー。

しがみついてくる小さなアスカをしっかり抱きしめたシンジの悲鳴が、車窓の外を飛ぶように流れていく景色と一緒に長く尾を引いた。

「ちょっとミサトさああああああああんんん!?」

「いーのよ、わたしの青春は、公道最速理論に捧げたのよおおッ!!」

霞んで見えるほどの神速のシフトチェンジに続き、流れるようなハンドル捌き。

対向車も来ない山道を、凄まじい速さでルノーは駆け上って行く。













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久方ぶりのネルフ本部は、一ヶ月前の様相そのままにシンジたちを待っていた。

瓦礫を避けながら奥に進むのは、今回は傷ついたアスカではなく小さなアスカを抱えているので、楽といえば楽といえる。

巻き上がる埃やら淀んだ空気を吸い込みすぎないように、そろそろと奥へと進む。

薄暗い通路を歩く中で何かの機械の振動が感じられたのは、すでにあらゆる準備が出来ているという証左だろうか。

果たして、第三実験場コントロールルームでは、先月と寸分変わらぬ面子が出迎えてくれた。

「やあ」

片手を上げて青葉シゲルは薄く笑う。

「…二人とも、調子はどうだい?」

椅子から上体を乗り出すようにして日向マコトは手の甲同士を擦り合わせる。

伊吹マヤはコーヒーカップを両手で包むような格好で微笑していた。

こちらも微笑で挨拶を返したシンジは、隣室の実験場へと視線を移す。

押さえられた光量の中でも浮かび上がる巨大な影。

エヴァンゲリオン弐号機。

…ここまでは、一ヶ月前とほとんど変化はない。ならば、結果も準じるのだろうか?

小さなアスカはもっと小さくなってしまう? いや、今回はそれで済むとは思えない…。

慌ててシンジは頭を振って不吉な考えを追い払う。

そもそも僕がこんな弱気じゃだめじゃないか。失敗したことばかり考えているなんて。

手元のバスケットを見下ろせば、見上げてくるアスカと目があった。

ん? と小気味よく首を傾げる彼女に、不安を窺わせる要素は一切ない。

シンジは感心すると同時に尊敬の念さえ抱いてしまう。

やはり、ここ一番の時の度胸と思い切りの良さはアスカには敵わない。是非見習いたい資質だ。

「―――みんな、揃っているわね」

背後からの声にシンジは振り返る。

予想通りその声は赤木リツコのもので、シンジの視線を受け止めた彼女は軽く頷いて、続いて白衣を翻す。

「さあ、シンジくん、ついてきて頂戴」

うながされ、バスケットごとアスカを抱えたシンジが白衣の後を追った先は、隣室となる実験場。

もっともコントロールルームから直接行けるわけではなく、一旦階下から迂回せねばならなかったが。

まずは小さなアスカを弐号機にエントリーさせなければ、計画は始められないのだから当然である。

だが別段、シンジ自らアスカを運ぶ必要はない。リツコあたりにバスケットごと託せばそれでいいはず。

なのに、ごく自然にリツコの呼びかけにシンジは応じていた。

彼自身、それが当たり前だと思った。何も疑問に感じなかったのは無理もない。

果たして、シンジは弐号機のエントリープラグの前に立つことになる。

作業橋の上。

手元にはバスケットケース。

眼下には、蓋の開いたエントリープラグ。

中に満たされた黄色い液体。

LCL。

身軽かつ何気ない動作で、アスカはバスケットケースからプラグの蓋の上に降り立っている。

今日の彼女は、マヤの用意してくれたブルーのタンクトップと花柄でピンクのフリルパンツという格好。

この衣服を身につけたままのエントリーとなる。小さいサイズのプラグスーツは流石に準備できなかったのだから致し方ない。

「それじゃ、行くね」

器用に蓋の上でステップを踏んで、アスカはシンジに向かって身を翻して見せた。

薄暗い証明の中でも、長い金髪がクルリと綺麗な円を描く。

「うん………じゃあ後でね」

シンジもそう微笑んで応じた。ここで、元気一杯のアスカの笑顔が返ってくることを期待して。

ところが、アスカは顔を伏せてしまう。

「……アスカ?」

返事はない。短い沈黙が降りた。

さすがに不自然に思ったシンジが更に声をかけようとしたその時。

「ねえ」

青い小さな瞳が、暗い照明の中でもはっきりと光彩を放っていた。

「あたしと一緒に過ごした一ヶ月…楽しかった?」

思わずシンジは目を見開いてしまった。

唐突な質問。シンジにとっては完全な不意打ちに近い。

更に、質問そのものの意味より、この時に及んでアスカがこのような質問を発した意図こそ気になる。

それでもどうにか混乱した頭を集束させた。当然の返事を言うために息を吸い込む。

口にすべき答えは一つしか持ち合わせていない。

なのにシンジが答えるより早く、否、彼の答えを遮るが如くアスカは次の台詞をまくし立てている。

「もちろん、あたしは楽しかったよ!? そう、色々、色々あったけどさ……。それでも、楽しかったっていえる。間違いなく」

真摯なアスカの表情と瞳が、シンジを絶句させた。

この期に及んで、彼女はなぜ当たり前のことを力説するのだろう。その行為の意味が理解できない。だから口を噤むしかない。

それでも、何かがシンジの感情に訴えかけた。唇が無意識で言葉を紡ぐ。

「……アスカ?」

対してアスカは笑った。まるで華が咲くような、豪奢で可憐で儚い笑顔を浮かべている。

続いて口にした台詞も、浮かべた表情に準じた。

「だから、あたしのこと…………」

明るい口調は失速し、萎み、紡がれることなく止まる。

ここでシンジの顔にようやく焦燥の色が浮かぶ。

アスカは何を言いかけて止めたのだ? 

それが気になる。いや、それがとてつもなく重要な気がする。

だが、シンジがその答えを与えられることはなかった。永遠に。

笑顔のまま、口調を改めたアスカが口にした台詞。

小さな彼女が最後にシンジへ向けた言葉は、たった一言。

「……ばいばい」

咄嗟にシンジが伸ばしかけた手は、何も掴むことは出来なかった。

代わりとばかりに素っ気ないほど無味乾燥な水音が室内に響く。

ぽちゃん

何か、小さなものが水面に没した音。

「アスカッ!?」

思わずシンジがプラグ内を覗こうとしたが、無慈悲な機械音と共に半瞬で蓋は閉じられてしまう。

かくして、特殊金属の壁で二人は遮られてしまった。

こじ開けようと反射的に蓋に手をかけるシンジに、スピーカー越しの声が響く。

『離れて、シンジくん。機体内にプラグをエントリーするわ』

コントロールルームの伊吹マヤの声だった。

おそらく彼女に悪気はない。気を利かせたのかどうかは定かではないが、実験場の音声は拾っていなかったに違いない。

二人の会話を聞いていないので、単純にアスカがプラグに搭乗した風に見えたのだろう。

思わず抗議の声を上げそうになったシンジの肩に、そっと手が置かれた。

その手を伝わってくる波動めいたものが、シンジを落ち着かせ、かつ振り向かせる。

振り仰ぐ視線の先には、赤木リツコがいた。

薄暗い上に逆行で、シンジの位置から表情こそ読めなかっが、白衣姿の博士ははっきりとこういった。

「戻るわよ、シンジくん。……アスカの意思を尊重しましょう」

シンジには従う他なかった。













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実験室を揺らす異音。強化ガラスを隔ててさえ響く絶叫。

何度聞いても慣れるものではない。積極的に聞きたいものでは勿論ない。

二度目の人為的な弐号機の過剰暴走。

弐号機本体の危うさはおそらく前回より進行しているだろう。

であればこそ、自我崩壊線を消失させて小さなアスカが命の水へ溶けるまでの時間は、引き絞ぼられた糸を更に引き絞るがごとく、薄氷の上を渡るがごとく、関係者各位の神経をヤスリにかけて止まないものだった。

それでもどうにかその第一フェイズは終了した。

第二フェイズ―――アスカの身体の再構築データの打ち込み作業へと移行する。

前回と同じデータを流用するのはもちろんなのだが、状況に応じて色々と細かい修正をしなければならないので時間がかかるということ。

説明し、紙コップのコーヒーを渡してくれるミサトに礼の述べ、シンジは実験室を見やる。

―――あの中にアスカはいる。

今に、もうすぐ、無事な身体で出てくるはず。

僕は信じている。そう確信している。

………なのに。

頭の奥に張り付いたそれをコーヒーで流しこもうとして、シンジは失敗する。

小さなアスカがいいさして止めた台詞。

続いて口にした素っ気ないほどの別れの言葉。

この二つがシンジの脳裏に染みつき、焦燥感を炙って止まないのだ。

僕は…僕は……何かを見落としているのだろうか。

それとも読み違えているのだろうか。

チラリと、シンジは視線を白衣姿の人物へと走らせた。同時に、ぎょっとする。

後ろを向いていたはずの赤木リツコは、少年の躊躇うような視線を正面から受け止めていた。

なぜか気後れして視線を逸らすシンジに、リツコは緩やかに近づいてくる。

「不安そうね…?」

いつの間にか正面に立ち、真っ直ぐリツコは見てくる。図星なだけに、シンジはその視線を受け止めかねた。

身体ごと実験室の方を斜めに向き、即答を避ける。

そんなことありませんよ、と強がってもいいはずなのに。

それすら出来ない自分が不甲斐ないと同時に、やはりアスカが気になってしようがないのだ。

無意味に強化ガラスに片手を押し当て、起動中の弐号機を見つめる。

先ほどの暴走を終え、力なく項垂れているような赤い巨人。

あの中にアスカがいる。

直線距離で、およそ5メートルもあるまい。

しかし、シンジは強い距離感を意識する。

こんなに近くにいるのに、傍にいるのに、遠い―――。

気づけば、隣でリツコも弐号機を見つめていた。

「…少し、お話をしましょうか、シンジくん」

え? と問いかけ直す間もなく、リツコはミサトへ話かけていた。

「ここをお願い。何かあったら教えて。隣の部屋にいるから」

無言で頷くミサトに頷き返し、チラリとリツコはシンジを見やる。

止められたままの足が、彼女の意向を言外に物語っていた。

話をする、聞く気がないならこなくてもいいわ。強制はしない。シンジくん、貴方の思うままに…。

少しだけ考えて、シンジは窓際を離れた。

どちらにしろ、ここにいるだけで埒があくとも思えない。

リツコが何かを知っているなら、語りたがっているなら聞くべきだ。アスカに関わるであろうことは間違いないのだから。

シンジが動いたのを見て、リツコも歩を進め始めた。

二人、コントロールルームを出ていくのを、残った誰もが咎めるようなことをしない。

声すらかけてこないのは気を使ってくれているのか、それともみんな知っているからだろうか? 

僕が知らないことを。僕が疑問に思っていることの答えを。

無言でリツコの後を追うシンジ。暗い廊下に出て一瞬視界を奪われているうちに、白衣の後ろ姿は隣の部屋のドアに手をかけている。

「さあ」

促され、シンジはドアを潜った。

その部屋は、元々は職員のロッカールームなのだろうか。

整然と壁際に並ぶ長方形の箱がシンジの目に映る。もっとも背後から入ってきたリツコのペンシルライトの光によって分かったことだが。

ここも使われなくなって久しいのだろう。空気が澱んでいる。

深く呼吸しないよう気を付けながら、シンジは手頃な椅子に腰をおろした。

座席の埃を払いたかったが余計空気を汚しそうだったので、ゴミを舞わせないようできるだけ静かにゆっくり座る。

リツコはロッカーの一つを背にしたらしい。途端にペンシルライトのスイッチを切られたので判然としないが。

重苦しい空気と闇が二人の間に横たわった。

まるで闇がのしかかってくるような錯覚に襲われ息を詰めてしまうシンジの耳に、リツコの声だけが響く。

「…煙草、いいかしら?」

「……どうぞ」

一瞬、リツコの顔のあたりが闇に浮かび上がる。

ライターの火だとシンジが認識するが早いが、その炎は消えている。

代わりに、赤い光点が一つ。

煙草の先端に灯る小さな光。

それでも、闇に支配された部屋において、確実に光を周囲に投げかけている。極少の範囲であるにせよ。

光を受け、シンジの目にもリツコの顔が視認できた。

ぼんやりと闇に漂う白い霞のようなものは、きっと煙草のケムリだろう。

甘い刺激的な香りが漂う。もっとも、もともとの空気が澱んでいるため、混じってしまって今さら気にならない程度。

細く、リツコの息を吐く音が、室内の空気を対流させる。

鼻で浅く呼吸を繰り返すシンジに、煙草の光の方から言葉が投げかけられた。

「色々と訊きたいことがあるんでしょう…?」

シンジは答えない。

リツコの問い掛けは正鵠だった。

訊きたいことは、それほど山のようにあった。

いや、一つ沸いた疑問が芋づる式に次なる疑問を生んでいってるといってもよい。

更に、自分の考えとリツコのそれを照会したいとの欲求もある。

それら諸々が頭のなかでぶつかり合い、または反撥し合ってまとまらず、逆にシンジの口を閉ざさせたのである。

どう口火を切ったらよいか迷うシンジを、リツコは看破しえたのだろうか。

いや、どちらにしろ彼女のこの台詞は、事前に用意されていたに違いない。

「まず、始めにいっておくわね」

顔を上げるシンジ。次のリツコの台詞を待ちかまえてしまったのは、自分の中の疑問をまとめる材料にしたかったからだ。

なんにせよ、質問の方向性を定める指針にはなるはず。

「あの小さなアスカは…」

なのに、リツコの発言は、シンジの脳を完全に漂白してしまった。





































「あのアスカは、アスカであってアスカではないわ」




























NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


…ばいばい 〜了





NEXT










(2006/9/21 初出)




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