NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


最終話

「そして、涙」

























「……知ってましたよ」

闇の中、震えるシンジの声が響いた。

まるで砂地から滲み出るような声が、黒い空間に静かに染み渡っていく。

「知ってました。分かっていました……」

『あのアスカは、アスカであってアスカではないわ』 
 
以上のリツコの台詞に対する、それがシンジの応えだった。

そう、知っていた。気づいていた。

なのに、気づかないフリをしていた。

あの小さなアスカは、アスカであっても惣流・アスカ・ラングレーという単一存在ではないことを。

そもそも1/8サイズでサルベージされたことからして疑問に思うべきなのである。

単純に、残り7/8もどこかに存在していなければおかしいはず。

もう一人の傷だらけのアスカとの邂逅が、シンジにそれらの啓示を与えていた。

だからといって、どこかに消えてしまったあのボロボロのプラグスーツを着たアスカが7/8の存在を担っていたというのも、釈然としないものが残る。

今思い出しても、背筋が粟立つような憎悪を向けてきた彼女。

実にアスカの7/8が憎しみで出来ていたと想定することは、シンジの精神状態を平穏とはほど遠いものにしてしまう。

仮にそれを肯定した場合。

再生計画に至るまでの、サルベージされる以前のアスカは、胸底の激しい憎悪を隠して自分と接していたことに繋がってしまうのだから。

ゆえにシンジは別の仮説を立てる。

つまり、あのボロボロのアスカも小さなアスカと同じ1/8の存在なのだと。

いや、1/8と限定するまではいかなくても、本来のアスカを構成する要素の一つではないのか?

もっとも、この仮説を説得力を持つものに昇華させる場合、小さなアスカ、傷だらけのアスカをそれぞれ1/8とした場合、残り6/8の所在を説明、証明しなければならない。

…仮説を認めたくない為に仮説を立てて反証する愚かさを、シンジは自覚していた。

この期に及んでアスカに嫌われていたくないと考えること自体、虫が良すぎる話なのかも知れない。

それでも、『あの小さなアスカが、アスカであってアスカではない』というリツコのコメントには、賛同の意を示すことは出来たのである。

一気に真実味を帯びた話に、束の間脳裏を漂白されたにせよ。

「…じゃあ、本当のアスカはどこにいると思う?」

シンジの返答を聞いて、しばらくの間をおいてからのリツコの質問。

「それは…」

闇の中、シンジはちらりと目だけを動かす。

視線の先は隣室だ。更にその先の実験室を、シンジは透視している。

シンジの動向が見えたわけでもあるまいが、ゆっくりとリツコが頷く気配があった。

「そう。本当のアスカの身体は、ずっと弐号機に留まっている。…一ヶ月前から。理由は不明だけどね」

「………」

対してシンジは無言。しかし内心では非常に納得していた。

残りのアスカの所在はこれで判明したことになる。

となれば、自分の仮説が正答に近づいたということだ。リツコが断言してくれたことも勿論大きい。

やはり、再生計画のプロセスで何かしらの問題が生じ、溶けたアスカから、それぞれがサルベージされたのだろう。

なのに、リツコは新たな煙草に火をつけながらこういった。横顔一瞬照らし出され泣きぼくろが映える。

「多分、シンジくんの考えていることは、真相と異なっていると思うわ」

「…え? ……それって、どういうことですか?」

ふーっといった息を吐き出す音。沈黙がそれに続く。

質問を発しながらも、シンジの頭は忙しく回転を続けていた。

違う? 僕の考えが……違う?

だって、アスカが分裂して、その一部がサルベージされたって考えれば、とりあえず辻褄があうじゃないか…。その原因はわからないけど。

沈黙は続いている。

その間、シンジは存分に頭を巡らせたが、答えを見いだすことはできなかった。

とうとう痺れを切らして、再度質問を発しようと口を開いた時。

「………シンジくん、これから話すことについて、二つだけお願いがあるの」

低い小さな声だったが、はっきりとシンジの耳に届く。同時に、足をその場に縫い止めている。

「一つは、この話を聞き終えたら、私を恨んでもいいわ」

シンジの返答も待たず、意外すぎるリツコの主張。

「もう一つ。これから話す真相は、推論でも推察でもないわ。想像…というより妄想といって差し支えないかも知れない。それでも構わない?」

リツコの申し出と願い出に強制性は一切ない。むろん拒否したところで、得られるものもない。

表面的にはデメリットはないように思える。

思えるのだが。

それだけに、なにやら不吉な予感がシンジの首筋をチリチリと刺激していた。

これから聞く話は、心躍る楽しい内容では決してないはずだ。

それでも、僕は真相に至りたい。あの小さなアスカと傷だらけのアスカの真実を知りたい。

リツコの発言に矛盾するが、自分の考えに抵触するが、どんな形にせよアスカはアスカであったと思う。

シンジは意思を込めて頷いた。

「構いません。お願いします」













◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇











「それじゃ…まずこれを見て頂戴」

不意にペンライトのスイッチが入れられ、シンジは目を細める。

リツコは白衣の懐に手を入れ、束ねられた紙を取り出した。

右隅をクリップで留められたそれは、おそらく何かしらの資料なのだろう。

ペンライトごと手渡され、羅列する数字の群れにシンジは眉をしかめる。

それでも、資料の冒頭には、『惣流・アスカ・ラングレー』と名前が冠してあるので、なにかしらの彼女に関連性のあるものだとはわかった。

「…これは?」

シンジは率直に訊ねた。

小さなペンライトの灯りの下で見る細かい字の専門用語のテキストは、はっきりいってどういう内容なのか見当もつかない。

下へ向けられたペンライトの光が届く範囲内にいたリツコの表情が軽く動く。

「その資料で重要なのはね、むしろ日付なのよ」

笑いの波動が闇に浮かぶ埃を波立たせた。その笑みに、なにか自虐の要素が含まれていると感じたのはシンジの錯覚だろうか。

ともあれ、シンジは再度資料に視線を落とし、日付とおぼしき数字を見つけた。

「…………?」

日付には、見覚えがなかった。何かその日に特別なことがあったとは思えない。であればこそ記憶には何も残っていないんだろうけど。

困惑するシンジに、リツコもやや躊躇うような口調を作る。

「シンジくん、昔の話で思い出したくないかも知れないけれど…」

そこで軽く言い淀んでから、

「第拾弐使徒に飲み込まれた時のこと、覚えている?」

「……!! …はい」

答えつつシンジは回想している。口中に苦みがわき上がり、背筋が一瞬で寒くなる。

あの時のエントリープラグの中での孤独感、絶望感。そして死へのとてつもない恐怖。

決して二度と体験したくない心の奥底に封印した記憶。…でも、あれからたった一年ほどしか経ってないのだ。

しかし、なぜにリツコはそのようなことを今さら…。

そこまで考えて、ようやくシンジは日付との関連性を見いだす。

資料に打たれた年月日。それは、自身が第拾弐使徒と対峙する少し前の日付を示していたのだ。

でも、その事にどのような意味があるのかは分からない。

更に考え込んでしまうシンジの顔を、微妙に方向性を変えたリツコの声が上げさせた。

「ネルフの定期実験と検診で、私たちがチルドレンのデータを事細かく採取していたのは知っているわね?」

「はい」

これはシンジにも覚えがあることだった。

あまり協力的だった自分だとは思っていないが、使徒の襲来時を除いても、かなりの時間をネルフで過ごしたような気がする。

その大半はリツコも言明した通り実験と検診と、それと各種テストだった。

「…アスカの傷ついた身体を癒すにあたって、私たちは過去の膨大なデータから、最適と思われるものを選出することにしたの」

「最…適…ですか」

答えつつ、シンジは今ひとつ釈然としない。そもそも何を持って最適とするのか。

「この場合の最適の定義は、肉体的にも精神的にも最も安定、もしくはバイオリズム的に上昇していた時期を指すわ」

読心術というよりは、ペンライトの弱い灯りの中でも疑問が顔に反射してしまっていたのだろう。リツコが説明してくれる。

このヒントを得て、ようやくシンジは答えをたぐり寄せることが出来た。日付の意味も含めて考えれば、おそらく間違いない。

リツコを前に、今回は第拾弐使徒戦の前まで遡ってシンジは回想をしている。

そう、思い返せばあの頃のアスカが一番輝いていた。

日本での生活にも慣れ、自信満々で(ともあれば傍若無人で)、本当に活き活きしていた。

―――そんな彼女が壊れ始めたのは何時頃だっただろうか。

当時の自分には、それが分からなかった。

だけど、今なら分かる。今だから気づくことが出来ることがある。

…兆しは、おそらく第拾使徒戦前のシンクロテストだ。

あの時、僕が初めてアスカのシンクロ率を抜いた。

その慢心が、結果的に第拾弐使徒の展開したディラックの海に飲み込まれる勇み足を産み、アスカとの関係の均衡を微妙に崩し始めることに繋がったのだ。

エヴァに寄ることでしか自身を維持できないアスカ。彼女のプライド。

それを傷つけても、何もいいことなんか無かったはずなのに…。

「だから、私たちはこの日付のアスカのバイタルデータを選出したわ」

アスカの心身が最も安定していた時期。残酷な未来とその結末を知らなかった頃…。

「だから、一ヶ月前の計画でこのデータを使用したのも、それがアスカにとって最適だと思ったからなの…」

歯切れの悪いリツコの台詞は続いている。

「でも、失敗だった。結果として、おそらくそれが小さなアスカと傷だらけのアスカ二人を産み出すことになった」

その台詞は、シンジの耳道を滑り落ちて行く時、妙な違和感を残した。

シンジ自身の考えと微妙にニュアンスが異なる気がしたのだ。うまく言葉で説明できる自信はないが。

となれば、それがリツコの言う『真相と異なっている』部分なのだろうか?

「心って、デジタル化出来ると思う?」

「はい!?」

またもやリツコの突飛な質問に、シンジは暗闇にもかかわらず目を見開いてしまう。

大声に比して空気が動き、埃が巻き上がって軽くむせた。

チカチカする目を瞬かせ、シンジはリツコの方へペンライトを向ける。

ライトの光の帯びの中に、案の定粉雪のように埃が舞っていた。

光から目を逸らし、三本目の煙草へ火を灯しながら、リツコは独白するように言う。

「心の在り方をシミュレートするとしたら、僅かな思考だけでも膨大なデータが行き交うわ。
 
 その情報はあまりに膨大すぎて、現代科学では、特定個人のパーソナルをデジタル化するのすら無理。

 もっとも将来的にはどうなるか分からないけどね…」

リツコの独白は更に続く。その殆どが専門用語ばかりでシンジには理解できなかった。

しかし、リツコのいわんとすることは程なく理解することが出来た。

「つまり…」

シンジは唇を舐めて湿らす。舌先が苦味を伝えてきたが、埃のせいだけではあるまい。

「アスカのバイタルデータは身体のデータばかりで、心を数値化して入力できたわけではない、と?」

「…ちょっと違うわね。要は、心の在り方、変遷は、現代科学の範疇外ってことよ」

埃が舞っているにも関わらず、リツコは開いた右手で髪を掻き上げる。

「だから、その時点で気づくべきだったわ…」

震える声と同じく、左手の赤い光点が小刻みに揺れていた。

「で、でも、それが小さいアスカが生まれるのとどんな関係が…!!」

自分でも判然としないまま、声を荒げてしまうシンジ。

そもそも関係がなければリツコはこのような会話をしていない。

そのパラドックスを越えて、得体の知れない焦燥感がシンジを狼狽させる。

一方、リツコは落ち着きを取り戻していた。

シンジの振り回すペンライトの光輪を白衣に反射させて、淡々とした口調を作っている。

「そして心は……身体に引きずられるものなのよ」

分かる? とばかりに小首を傾けるリツコ。

「たとえば、整形したら性格が明るくなったというケースから、幻肢痛などまで」

狼狽しながらも、極端すぎる例にシンジは異議を唱えかけて―――止めた。

確かに整形や幻肢痛を同列に扱うのは無理があろう。だが、身体の変化が心に与える影響が存在することは間違いない。

「だから…何なんですか」

シンジはこめかみを押さえながら訊いた。

酷い頭痛がしてきた。この先のリツコの説明を聞くことを本能が拒否しているようにも思える。

なのに、白衣姿のリツコは、あくまで落ち着いていた。淡々とシンジの質問への回答を口にしている。

「まずは、今回の計画の認識から改めて欲しいの。すなわち、今回の再サルベージ計画は、アスカの身体を健康体に回復するものではない。昔の身体に組み直す―――回帰させることだったことを」

「…はい」

頷きつつ、シンジは今さらながら不安を覚えずには居られない。どうして、事ここに及んで、リツコの言葉はある種の残酷さを帯びて耳に響いてくるのだろう。

「だから…アスカの身体を第拾弐使徒戦前まで戻した場合、心も変化せずにはいられなかったの」

ゴクリとシンジは唾を飲み込む。いつの間にか、額に汗をかいていることに気づく。

「傷だらけの身体から一転、健康な身体へと回復―――いえ、正確を記せば、昔の頃の健康体に回帰している」

汗を拭い、シンジは次の言葉を待ち受ける。

「その回帰をアスカの心が認識した時。彼女の身体に起きた変化は、回帰以後の記憶の排斥なのよ……」

その意味を理解するのに、数秒の時を要した。

そして理解すると同時に、シンジは叫んでいる。

「じゃ、じゃあ! あの小さなアスカと傷だらけのアスカは…………!!」

後は言葉にならない。回答と、それから喚起される諸々の記憶の総和がシンジから言葉を奪う。

絶叫するシンジの反応を見越していたように、リツコは台詞を引き継いだ。

                    ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「そう。健康体に回帰したアスカにとっては経験していなかったことになる記憶。傷を負う前の彼女には無かった感情たち」

咀嚼するようにシンジはリツコの説明を噛みしめている。

つまり、アスカの身体は治ったわけではない。過去の肉体へと戻ったのだ。

更にリツコはこういった。心の存在構造は、現代科学の範疇外だと。

また、肉体に心が引きずられるとも。

…おそらく、本来のアスカの肉体の再構成、もとい回帰は成功したに違いない。

だがしかし、現代科学の及ばない領域の出来事か、はたまた更に未知数の力が作用した。

昔の身体に戻るということは、傷を負っていなかった頃の身体に戻ると同義とした場合。

すなわち、傷を負った過程の記憶も失われることになる。

結果、アスカの経験していなかったことにされる記憶の中から、二つの感情が、心が、形を伴ってサルベージされたのだ。



―――それは、碇シンジに対する憎悪と愛情―――。



それぞれがサルベージされ、人形(ひとかた)となったのが、あの二人のアスカの正体。




「アスカがシンジくんに明確な憎悪の感情を抱くようになったのは、あの頃以降だと思うわ」

リツコの言う時期。

アスカは、シンクロ率でシンジに追い抜かれ、第拾四使徒に敗北し、第拾五使徒に心を犯された。

半ば精神崩壊を起こしていた彼女に、最悪の陵辱をもたらしたエヴァ量産機の強襲。

じわりと汗の滲む手をシンジは握りしめる。

そして―――僕はアスカを助けにいかなかった。

「逆説的だけど、ボロボロのプラグスーツ姿のアスカの存在が、この仮説を裏付けているんじゃなくて―――?」

夜の山道。

包帯で片目を覆ったアスカ。

馬乗りになって僕の首を絞めてきたアスカ。

我知らず、シンジは自分の首に手を当てている。

既に包帯は取れていたが、焼き付くような痛みがわき上がってきた。

冷たい汗が心臓をつたっている。リツコの声を遠くにどこか聞きながら、シンジの両手にも生々しい感触が甦っている。



―――最後の最後に、二人きり投げ出された砂浜で、僕はアスカの首を絞めた。




遠い赤い海の光景。二人だけの記憶。原罪の犯された場所。

酷く気分が悪い。耳鳴りがする。

アスカの心から排斥された憎しみの心が形となり、夜ごと訪(おとな)ってきていたというのだろうか?

理由は―――もちろん復讐だ。

憎しみを果たす為だけの存在になった彼女。もう一人のアスカ。

シンジはよろけてロッカーの一つに背をぶつけてしまう。出来ることなら気を失ってしまいたかった。





「でも」

優しげな声。場に不釣り合いなほどに柔らかい声が闇を渡る。

「アスカがシンジくんに好意を抱き始めたのは、その後でしょう?」

「……」

咄嗟にシンジは二の句が継げない。

冷汗を伴っていた心臓に熱が加わる。もっとも血流にのって全身に行き渡るまでは、しばらく時間が必要だったが。

そしてリツコは、辛抱強く、少年が体勢を立て直すのを見守ってくれた。

「そ、そんな僕がアスカなんかに…!!」

恨まれる覚えは数あれど、感謝されることなんて。許されることなんて。ましてや、好意を向けられるなんて………!

「今さら謙遜しなくてもいいんじゃない?」

リツコの陽性の声が明らかに悪戯っぽい響きを帯びる。



「……二人砂浜で発見されて入院した後。シンジくんの甲斐甲斐しい看病ぶりは、未だに病院の語りぐさよ?」

「あれは…」

ただ赦しを乞うために、少しでも罪を償うのが目的で。



「アスカが退院してからも、わざわざ同じマンションのフロアに住んで、色々世話を焼いて上げていたんでしょ?」

「それは…」

退院したとはいえ、傷を負ったままのアスカだと日常生活にも支障が出るかと思って。



「なにより、今回の小さなアスカへの献身ぶりは、傍で見てても普通じゃなかったわね」

「………」

返答のできないシンジの頬に、ようやく心臓の熱が上って来た。

相手には見えないだろうが、きっと赤くなっているに違いない。

自分でも見えないだろうに、シンジは頬に指を当てる。いつのまにか不快さも治まっていた。

ククッと軽い笑い声が闇を揺らす。

和やかな波動が埃っぽい室内の空気を染め上げようとして―――一転、リツコは口調を改める。

「シンジくんがいくら否定しようともね、あの小さなアスカが何よりの証拠なのよ」

答えは分かっている。気恥ずしさにシンジは耳を塞ぎたくなったが、リツコの口調にはそれを許さない真摯さが垣間見えた。

「なぜなら、あの小さなアスカこそが、シンジくんに向けられる愛情が顕在化した姿なのだから」

そう、小さいくせに破天荒で、無駄に行動力に溢れて、元気一杯なアスカ。

実際のアスカが大きくなって元気になればこうなんじゃないかな、と思えてしまうほど。

暴力的で傲岸不遜な態度だって変わらない。

なのに、憎まれ口の端々に滲む、柔らかな感情の存在。

それらを完璧に気取れないほどシンジは朴念仁でもなかった。素直に言葉と態度で応じられるほど勇者ではなかったにせよ。

ああ―――。

今となってシンジは気づく。一週間前の二人きりのデート。

やはりあれは、小さなアスカの望みだったのだ。

同時に、何かが繋がろうとしている。

なぜアスカは、最後までそんな本心を隠して僕に接しなければならなかったのか?

この質問には、シンジなりに自分の回答を用意していた。

曰く『元の身体に戻った時、恥ずかしいから』

本日、ネルフ本部へ向かいながらミサトから冷やかされた通り、クラスメートたちに小さくなった彼女を恋人だと紹介したりした。

咄嗟のこととはいえ、我ながら大それたことをしてしまったと、今さらながら赤面ものである。

これをアスカの立場にたってみれば、赤面を通り越して顔面から火炎放射みたいなものだろう。

なにせ、登校したその日からみんなに顔を知られている挙げ句、恋人認定されてしまっているのだから。

また、小さな身体の時に晒した数々の醜態。これらも殆どがシンジに目撃されているのだからバツが悪い。

後日になって苦みを増す思い出というものもある。

元の身体に戻って思い返すには、嬉しくないものもあるのでは…。

ハッとシンジは顔を上げる。

小さなアスカが本心を隠した理由は、元の身体に戻った時バツが悪いから。

元の身体に戻った時。

元の身体に……?

ならば、なぜ、小さなアスカはエントリープラグに入るとき…?

「リツコさんッ!?」

シンジは叫ぶ。

露骨に声が裏返る。焦燥感に語尾が震えた。

「あの! あの! アスカは…あの小さなアスカは、元の身体に戻れるんですよね!?」

シンジの声は、もはや哀願だった。

なぜならリツコの答えは分かっている。ここまで十分なまでの情報を与えられている。

なのに気づかなかった自分をシンジは罵倒し、それでも既に取り返しがつかなくなっている現状を否定したかった。

果たして、赤木リツコ博士はゆっくりと首を左右に振った。闇の中にもかかわらず、シンジにははっきりそう見えた。

「言ったわ。…彼女たちは、排斥されるはずの記憶と感情が心を伴って人形にサルベージされた存在だと」

茫然とするシンジの脊髄を、リツコの台詞が冷感とともに貫いていく。

「一度排斥されたものが、再融合する道理はないわ」

それは至極当然の答え。

拒絶され、一体と成る道を閉ざされたものは、消えるしかない。

ならば、ならば。

何を思い、何を願い、何を求めて小さなアスカは再度プラグ内へ身を投じたというのか!!

「もう一つ、覚えておいて」

リツコの声は、まるで無慈悲な鉄槌のようにシンジに振り下ろされた。

「今回のサルベージ作業は成功するわ。でも、説明した通り、再構成される彼女はシンジくんが知っていたアスカとは異なるの。  シンジくんが昔知っていたアスカが、あの頃のアスカがサルベージされるのよ」

「どういう意味ですか…」

もはや抑揚さえあやふやなシンジの声は、泣き声と形容してもいいかも知れない。

答えは分かっている、聞きたくない、聞きたくないんだ…!!

されど、最後の鉄槌は振り下ろされる。

「あの頃のアスカは、それ以後の記憶を持っていないわ。シンジくんへの特別な感情も含めて、全部」

壁を殴りつけ、シンジは絶叫した。

拳に血を滲ませ、彼が見つめる壁の先には実験室があるはず。

「アスカァアアアアアアッ……!!」

闇を振るわす哀惜の声。

少年の声は、果たしてどのアスカに向けられたものか。


























◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇











まるで水底のような空間に、彼女はたゆたっていた。

一糸まとわぬ裸身であるが羞恥心はない。長い金髪がなびいている感覚があるから、やはり液体の中なのかも知れない。

それらを自覚すると同時に、彼女は目を開いた。

水面から光が射し込んでいるかのような光景。

まだらに染まる視界に、もう一人の自分がいた。

軽く目を閉じて身を赤子のように縮こまらせている、もう一人の、自分より大きな自分。

…違う、あたしが小さいのだ。

そして、目前の等身大のあたしが本物。

本物から溢れ出した感情が、碇シンジへの愛情が形となったのがあたし。

にしてもややこしいわね、こりゃ。

小さなアスカは不敵に腕を組む。

今の彼女には、それくらい冷静に周囲を認識できる余裕があった。

だから、全て知っている。自分という存在が間もなく消失するということも。

ふわふわと漂いながら、小さなアスカは大きな自分を睨み付ける。

あちらも全裸だ。予想通り本来在るべき傷が見あたらないのにホッとする。

もうすぐ、本物のあたしは目覚めて、シンジと再会するだろう。

今朝、ミサトの車の中での予言は、万が一にも外れることはあるまい。

少なくとも、シンジのヤツを悲しませずに済む…。

裸の胸をなで下ろすと、安堵からか更に余裕が出てきた。

「…もしかして、とんだお節介なのかしらね?」

目蓋を閉じたままの自分へ話しかける。案の定、返事はない。眠っているのだから当然だ。

構わず、小さなアスカは語りかけている。

「本来、ただ消えてしまうだけのあたしたちに、形を与えて一ヶ月の猶予をくれるなんてさ」

それは一体、誰の意思に拠るものか。

おそらく知りうるべくものではなく、小さなアスカにとっても、もはやどうでも良い。

「ったく我ながら、難儀な性格だわ…」

自分自身に向かってひとりごちる彼女の隣を、一つの泡沫が通り過ぎていく。

ボロボロのプラグスーツを着た自分。シンジへの憎しみを担った彼女。

しかし横顔にはとうに憎しみは無く、透けるように霧散していく姿を、小さなアスカは横目で眺めている。

憎しむ心は復讐の果てに赦しを得て、満たされた。

満たされた心は、本来在るべきところに戻り、消えゆくのみ。

なのに、いまだ消えないあたしは…。

理由は単純だ。

なぜなら、あたしは満たされていない。

小さなアスカは、本体である自分を睨み付けた。

今さらながら、自分がシンジに対する好意と愛情で出来ていることを悟っている。

では、どうすれば愛情は満たされる?

世間一般の恋人たちは、どうやって愛情を確かめあう?

…なんのことはない。

本来、潰えるだけの愛情を充足されるべく形を得たというのに、初期形態からにして無慈悲で残酷な罠が仕掛けられていた。

根元は、あたしがシンジに対して臆病だったのか、それとも本体の妬心ゆえなのか定かではないけれど。

それでも、どだい最初から無理な話だったのだ。

―――この小さな身体では、シンジとキスを交わすことも、ましてや抱き合うことも出来やしないのだから。

知ったのは、傷だらけのもう一人が消えた夜。

翌日のデートを最後に、アスカは自らの気持ちを、それを充足させることを考えないことにした。

だって、泣き叫んだとして、どうになる?

抱いてと訴えても、それは物理的に無理な相談だというのに。

確かにシンジは愛情を持って接してくれるのは間違いない。

それでも、満たされないまま、このままの姿形で生きていくことも出来るかも知れない。

だけど、本当の自分が還って来たとき―――あたしは、邪魔な存在に過ぎない。

等身大の自分ならば、シンジと愛し合うことも可能だろう。

第三者としてその光景を目の当たりにした時、小さな自分は無用で惨めなだけの存在になりさがる。

…そもそもが歪んだ存在のあたしが消えるべきなのだ。

そう悟ったとき、小さなアスカに出来ることは最早皆無だった。

ひたすらシンジとの深い関わりを避け、この日に備えた最後の一週間。

ゆえに、今日の小さな彼女が取った行動は自殺と形容しても遜色ないものといえる。

―――シンジに、別れの挨拶は済ませた。

アイツは聞き取ってくれただろうか?

ま、無理ね。最後の最後に飲み込んでしまったもの。


『あたしのこと……忘れてもいいからね』


どうせ消えるのなら。

綺麗さっぱり、シンジの心からも消えてしまいたかった。

なーに、あたしが消えても、本当のあたしがアイツの傍に行くんだから、同じことよ…。

あたしはあたしであって、他の何者でもないのだから、シンジにとっての意味は変わらない。

だから、小さなアスカは最期を楽しむ。

自らが消えるまでの残された時間を、この一ヶ月の出来事を思い返して楽しむ。

楽しかった。本当に楽しかった。

そう、この思い出だけはあたしだけのもの。

本当のあたしだってもってない、あたしだけの宝物。

へっへーん、羨ましいでしょ?

欲しいったって分けてあげないもんね。

……でも、アンタは、これからシンジともっと思い出を作っていけるんだからね……。

………

……

…あれ?

なんで、あたし、泣いてるわけ?

はは、おかしいよ。

おかしいよね…………。




ぼこりと、周囲が泡立つ。

終わりの予感が、小さなアスカの全身を貫いた。





大丈夫。

あたしは大丈夫。

怖くない。

だって、あたしは、あたしはシンジと一緒にいるんだから……。






視界が歪む。世界が歪む。







大丈夫、大丈夫…。

怖くない、怖くない。







指先が崩れ始める。

小さな肢体の崩壊が始まる。











とうとう、小さなアスカは絶叫した。





いや、消えたくない!!

シンジと一緒にいたい!!

アイツと一緒にいたいずっと一緒にいたい!!

この気持ち、無くしたくないのぉっ!!









しかし、崩壊は止まらない。














いや!
                    いや!
            いや!
                        いや!
         いや!
  いや!
                   いや!
                          いや!
      
      いや!

















いやだよ 消えたくないよ

消えたくないよ

忘れたくないよ

消えたくないよ

忘れたくないよ

消えたくないよ

忘れたくないよ

消えたくな


























◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇











コントロールルームから実験室を窺うガラスの表面に額を付き合わせ、シンジは凝っと弐号機を見入っている。

リツコの説明を聞き終え、落ち着きを取り戻し、他のみんなに会えるだけの気力を回復させた時には、すでに計画は最終フェイズに達していた。

『私のことを恨んでもいいわ』

隣室でのリツコの声が甦る。しかし、実際恨む気は毛頭無い。

こっそりミサトからも聞いていたし、薄々シンジなりに察してはいたのである。

再生計画にかけなければ余命はあと数年。それほどアスカの身体は傷んでいたことを。

最先端の医療をもってしても回復不能な彼女の身体を癒すには、他に取るべき方法はなかったはず。

よって感謝こそすれ恨むのは筋違いだろう。

ゆえに、今の彼の心を支配するのは自責の念だけだった。

僕がもっとうまく…なにかやりようがあったのではないだろうか。

もちろん、いくら自分を叱咤しようが結末は変わらないだろう。

であればこそ、出来ることはなかっただろうか…。

「あまり思い詰めないほうが良いわよ、シンジくん」

紙コップのコーヒーを手渡しながらリツコ。

素直にシンジは忠告を受け入れることにする。

話でもしなければ気を紛らわせなかったこともあるが、ふと疑問が残っていたことに気づき、率直に訊ねてみた。

なぜあのアスカは小さくサルベージされたのか。傷だらけのアスカは夜だけしか現れなかったのか。

シンジ自身の推論もあるので、どちらかというと答え合わせの意味合いが強い。なんにせよ今となっては建設的な話ではないが。

「…たぶん、小さなアスカは24時間シンジくんと一緒に居たかったからじゃないかしら?」

仮説其の壱と前置きをしてリツコは説明を始める。

もともとが排斥された心であり、心という全体にとって愛情はその一部に過ぎない。

本来、等身大で顕在することが出来ないと仮定した場合。

傷だらけのアスカは夜間、しかも午前0時〜3時までの三時間しか顕在化された様子を目撃されていない。

等身大の顕在時間を三時間とすれば、単純に1/8サイズであれば24時間顕在できるのではないだろうか。

また、傷だらけのアスカが真夜中に現れた理由は、もともと人間の負の感情自体、そのような人目に触れない時間帯に顕在するのではないだろうか―――。

後付ならいくらでもできるわ。だからこれも推測ではなく妄想ね。

そういって笑うリツコに、シンジも曖昧に応じるに留めた。

そう、推測だろうか妄想だろうが今となってはどうでもいいことだ。

―――もう、傷だらけのアスカも小さなアスカも、どちらもいないのだから。

コーヒーを口に運ぶ。苦みが口中に溢れ、飲み下した後も喉の奥に残る。

それが液体の仕業ではないことをシンジは知っていた。

この苦みは、後悔の味だ。

小さなアスカに対する諸々であることは勿論だが、今のシンジの胸は、彼女の最期の前の言葉を聞き損ねたことに対する意識が占めていた。

あの時、アスカはなんといったのか。

答えは比較的簡単に二つに絞り込めた。

『あたしのこと…忘れないで』

『あたしのこと…忘れていいからね』

おそらく、後者だろう。後者だと思う。

それでも、本人が自ら口にしてくれなかったのが寂しかった…。

涙がこぼれそうになったので、慌ててシンジはリツコに話題を振る。

「じゃあ、仮説其の弐は…?」

その台詞を、伊吹マヤの声が切り裂いた。

「…弐号機が! 弐号機が!!」

間髪もおかず、シンジもマヤの絶叫の原因に気づいた。

いや、気づかざるを得ないといったほうが正確かも知れない。

コントロールルームと実験室を隔てる強化ガラス。それをビリビリ震わせるほどの咆哮。

「……再暴走なの!?」

ミサトの声が室内に響く。

オペレーターの三人は答えない。いそがしくディスプレイとコンソールを目で往復し、答えを模索しているようだ。

シンジも絶句して、隣室の半壊した紅い巨人が咆哮するのを眺めるしかない。

しばらくしてただ一人、リツコだけは青ざめた唇から震える台詞を吐き出した。

「………これは、断末魔よ」

茫然とシンジは強化ガラス越しの光景を見る。

断末魔。生き物が死に至る寸前の魂の悲鳴。

ネルフに初めてきた時、リツコからこういわれたのを思い出す。

『人造人間エヴァンゲリオン』

人間であるなら、死ぬのだろう。断末魔をあげるのも無理はない。

では…中にいるアスカはどうなる? いまだサルベージ作業は完了していないのに。

「シンジくん!?」

マヤたちの声を背に、シンジはコントロールルームを飛び出していた。

行ったところで何か出来るとは思えない。それでもじっとしては居られなかった。

アスカがいなくなったら、僕は…僕は…!!

照明がついてないにも関わらず階段を全力で駆け下りるシンジ。

おかげで二回ほど転んだが、気にしてはいられない。

歯を食いしばって痛みをこらえ、実験室の扉を開け放つ。

途端に、断末魔の声が風圧のようにシンジの全身を包んだ。

しかしそれも一瞬のことで、静寂に取って代わる。

静寂?

…不吉な予感に囚われ、ゆっくりと弐号機を見上げるシンジ。

力なく項垂れる弐号機の片腕。まるで生気を感じない。

予感を確信に変えるかのように、機械音がシンジの耳朶を打った。

エントリープラグが強制エジェクトされる音。

溢れ出すLCLがもはやピクリともしない弐号機の身体をつたい、床に滝のように降り注ぐ。

足首まで生命の水に浸しながら、シンジは現実を受け止めるべく努力を重ねていた。

…アスカは?

見渡す範囲内に、金髪の少女の姿はなかった。

作業橋を駆け上る。何度か足を滑らせかけたけど、無事登頂。プラグの中を覗き込む。

空席がシンジを出迎えてくれた。

作業橋にうずくまり、同じ目線となったコントロールルームへと視線を走らす。

強化ガラス越しに、マヤは口元を押さえ顔を伏せた。

シゲルとマコトは、険しい顔でシンジの視線を受け止め損ねている。

ミサトは横を向いてコンソールを拳で叩き、リツコは額に手を当てその表情は判然としない。

……失敗、したのか?

シンジの身体から、力が抜けていく。思わずその場に腰を降ろしてしまう。

おそらく、母体となる弐号機が保たなかったのだろう。

一ヶ月のスパンは、半死半生の弐号機の余命も損なっていたに違いない。

咄嗟に、シンジはどこかに怒りの矛先を見つけ出そうとして―――何もできなかった。

ただ一回、鉄橋を拳で殴りつけた。それだけだった。

…ジワジワと、心の奥底から悲しみがはい上がってくる。

認めたくない実感が現実を浸食していく。

そう、アスカは永遠に失われてしまった。

狂乱の悲しみに至るまでの僅かな静寂。

完全に悲嘆に推移してしまえば、碇シンジという少年の人格は、おそらく再起不能に陥ってしまったことだろう。

だが、実験室内に響く極めて散文的な音が、少年の致命傷に至る道筋を遮った。

反射的にシンジが見下ろした先。

死に絶えた赤い巨人の足下に転がる赤い円球。

弐号機の…コア?

フラフラとシンジは立ち上がった。

胸部に収容されていたそれは、墜落の衝撃で表面にヒビが入っていた。しかも、見る見るその赤色を失いつつある。

まるで死体から剥落した魂のようだった。

少年の無意識に、何者かが囁いたからだろうか。街灯に引きつけられる虫の如く、シンジは階段を下り、それに近づいていく。

そしてシンジは、コアの前に立つや否や、猛烈な勢いでその表面を殴り始めたのだ。拳が割れ、盛大に血が吹き出すのも構わず。

隣室で見ていた大人たちは、シンジの気が触れたと思ったに違いない。アスカを失った悲しみに耐えかねたのだと。

慌てて総出で実験室へ駆け付けた彼らは、シンジを押さえつけると同時に彼の悲鳴にも似た声を聞くことになる。

「アスカが! アスカが!!」

両手から血を滴らせる少年を抱き留めようとしたミサトだったが、彼の黒い瞳が何かを訴えていることに気づく。

必死で黒い瞳の見つめる先。他の大人たちも、シンジの視線の先に気づき見やる。

色を失ったコアの裂け目に見える、鮮やかな肌色。

ミサトらも一様に息を飲む。

「誰か機材を!!」

叫ぶのももどかしく、ミサトの戒め脱したシンジは、コアの残骸へ殴りかかるのを再開している。

間もなくコアの半分が崩れ落ちた。

瓦解したその向こう側を見て、シンジの目が歓喜の涙で滲む。

生まれたままの姿の、標準サイズのアスカが包まれるようにそこにいた。


























◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇












白いカーテンを揺らす風が頬を撫でる。

優しい風は、ベッドに眠る少女の前髪も軽く揺さぶった。

穏やかな寝顔だ。

包帯でグルグル巻きにした両手のまま、シンジは安堵の表情を浮かべている。

無防備すぎる彼女の寝顔を見るのは非礼かとは思うけど、今は一時も目を離したくなかった。

今のシンジは、アスカが目を離した隙に消えてしまうという理不尽な錯覚に囚われている。

そして何より、目を覚ました彼女に早く会いたかった。

眠るアスカに傷は見あたらない。

当初の予定通り、無事回復を果たし終えたということだろう。

これで当初の余命の懸念は払拭された。

ずっとこの先もアスカは生きて行けるのだ。

それを嬉しく思う反面、ある種の寂しさがシンジの胸に去来するのは是非もない。

リツコの言うとおりならば、このアスカは自身が傷を負う前のことを知らない。

シンジに対する憎しみも忘れているだろう。

量産機の陵辱も、赤い海の記憶も全て。

それはきっと彼女にとっても良いことであるはず。

なのに、シンジの胸に微かな痛みをもたらすものがある。

一緒に消えてしまった他の感情もあるからだ。

密やかに育っていたという、自分へ向けられるアスカの好意。

好意溢れるアスカと過ごした一ヶ月という長いようで短い期間。

それも失われ、二人の関係はあの頃に戻る。

そう、もっとも良好で、もっとも表面的な関係を維持していたあの頃に。

それを厭うわけでないのに…。

ほろりとシンジの瞳から涙がこぼれ落ちる。

僕の知っていたアスカはもういない。

今目前で眠るアスカは本人であると知りつつも、涙は止まりそうになかった。

シンジ自身、なんで泣いているのか判然としない。でも、今はこのままでいいと思った。




さわさわと、アスカの長い睫毛がわななく。

続いて、うっすらと開く目蓋。覗く青い瞳。

しぱしぱと二、三回まばたきをして、ゆっくりとこちらに焦点が会う。

くっと頬が持ち上がる。その不敵な表情に、シンジはたまらない懐かしさを覚えた。










「…何泣いてんのよ、アンタは。気味悪いわねえ」












この物言い。不遜な表情。やはりアスカだ。

うん、おはよう…などと返しながら、安堵が、更にシンジの涙を加速する。

振り出しだ。

もう一度、アスカとやり直そう。

もう二度とあんな失敗はしない。僕だけ逃げ出してアスカを傷つけたりしない。

…もっとも、目を覚ましたアスカは、端から僕なんか眼中に無いかもしれないけどさ。

それでも、一度は良好な関係を築けたじゃないか。

シンジの脳裏に、小さなアスカの姿が浮かぶ。

彼女の姿が元気をくれる。

大丈夫。きっと大丈夫。

僕を、彼女が受け入れてくれるように頑張ろう。

そして、もう一度同じ関係を、もしかしたらもっと良好な関係を結ぶことが出来たなら。

お互いのことを大切に思える日が来たなら。

一ヶ月だけいたもう一人のアスカのことを。

小さな恋人のことを話して聞かせよう………。














そんな不敵な表情の彼女の右目から、一滴の涙が伝う。

驚くシンジに、ゆっくりとアスカは表情を歪める。泣き笑いの表情を浮かべる。












































「…今度は首締めたりしないでよね。あれは本当に気持ち悪いんだからさ…」










































(2006/9/29 初出)




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