「ねえ。さっさと食べないと遅刻するよ?」

訝しげなシンジの声に、食卓の上のアスカは弾かれたように顔をあげる。

「え? あ…、うん」

そのまま子リスのようにパンに齧り付くアスカを微笑ましく思いながら、シンジはワカメと豆腐のみそ汁を口に運ぶ。

現在時刻は7時半。

こんな早い時間にアスカも起きだしてシンジと朝食を共にしているのは、今日から一緒に登校するからに他ならない。

いや、どちらかといえば、一緒に登校ではなくシンジのオプションとしてくっついて行くといった方が近い。

自宅では1/8サイズの暴君であるが、学校に行けばシンジの恋人に似せて作られた守り人形。

それが現在の彼女に課せられた役割とも言える。後者は多分に自業自得だけれど。

形はどうであれ、ある意味堂々と登校出来るわけだ。

今までの退屈な日々におさらばよ! とアスカも喜んでいいはずなのに、彼女の表情が浮かないのには理由がある。

それは、昨晩シンジの寝室で見た光景。

眠るシンジの上にまたがって彼の首を絞めていた、狂気を孕んだ―――自分。

思い出すだけで背筋が泡立つ。

そのまま震えながら夜明けを迎え、白み始めた空と鳥の声にひょっとしたら夢だったのかも、という甘い期待は叶わなかった。

シンジの喉もとに薄く残る赤い痕。

本人は気づいていないのはある種の救いかも知れないが、アスカの抱く微かな希望は粉砕されていた。

つまり、あれは現実なのだ。

まるで怨嗟が形をもったような真紅のプラグスーツ姿。幻想ではない。

同時にアスカの身体を貫いた戦慄は、彼女以外、誰にも共感できなかっただろう。

…あれがあたしなら、このあたしは何なの?

昨晩見た狂気の自分を肯定するならば、それは今ここにいる自らの存在を否定することになる。

あたしはあたし。惣流・アスカ・ラングレーという、たった一人の存在であるはず。

むろん二重存在という可能性にも、当然アスカは思い至っている。

表面的にも冷静さを取り戻した頭脳は、既に幾つかの推論を確立していた。

更にそれらを吟味して行く上で、アスカは口中の苦さを自覚せざるをえない。

自分でも気づかないうちに、呑気に白米を頬張るシンジを目線で追っている。

最も有力な可能性。

現在の自分は1/8サイズとはいえ、溢れんばかりのシンジへの好意を内包している。

元々は一旦エヴァ弐号機に取り込まれ、そこからサルベージされた存在。

何らかの異常により、1/8サイズで再構成されたのはしょうがないにしても、残りの7/8の存在は一体何処に?

これが単純な疑問だった。

アスカは必死で頭を振るが、一度思い浮かべた解答は容易に排除できるものではなかった。

むしろ、思い浮かべないようにすればするほど、意識野に浮かんでくる。

…もしかしたら、あの狂気に憑かれたあたしの姿こそ、残りの7/8なのだろうか。

その仮説に、アスカは恐怖した。

仮説を肯定するならば、本来の自分の大半が、シンジへ対する憎しみで構成されていたのかも知れないということなのだから。

















碇シンジは両手に学生鞄を抱えて、その中を覗き込むようにしながら学校までの道のりを歩く。

傍目には妖しいことこの上ない歩法にも、今は形振り構ってはいられない。

いくら鈍感な彼でも、今朝からアスカの様子がおかしいことに気づいている。

出かける段になっても、なにやらボーっとしている。それでなくてもあらゆる反応がワンテンポ遅い。

普段の果断即決の彼女と比べると、あまりにもギャップがありすぎる。

これはなにやら良からぬ兆候ではないのか。

心配するシンジの中で警鐘を鳴らすのは、単純にアスカの体調だ。

もともと1/8という言語を絶する復元を果たしたアスカである。

赤木リツコは健康だと請け負ってはいたけれど、ある程度の時間を経て、なんらかの異常が生じたのではないだろうか?

そもそものサイズが異常なのだから、一度そう考えてしまえば不安は募るばかり。

「…もしかして、具合悪いの?」

恐る恐る訊ねてみた。

「う、うん…? え、なに…?」

鞄の底につめた緩衝材替わりのスポンジの上で、アスカの反応はやっぱり鈍い。

見上げてくる微笑みも、何か憔悴して見えた。シンジの目には痛々しくさえ映る。

「やっぱり、アスカ、どこかおかしいよ。ね、今からリツコさんとこに行って、詳しく診てもらおうよ!?」

そのシンジの提案に、アスカはハッと目を見張る。

確かに妙案だ。というか、それが殆ど唯一の打開策に思えた。

なのに、小さな金髪の頭はゆっくりと左右に振られた。

「いいの、本当に具合悪いわけじゃないの…」

これは全くの事実。体調的にはやや寝不足ではあるが、特に具合の悪いところはない。

「で、でも…!!」

深刻な表情で食い下がってくるシンジの気持ちが嬉しかった。

なのに、彼に見えないようにそっとため息をついたアスカは、覚悟を決めて顔を上げる。

憤慨と諦めの中間の表情を作ると、ヤレヤレとばかりに肩をすくめた。

そして彼女は嘘をつく。





「あのね、あたしがユーウツなのは、全部アンタが悪いんだからねーっ!?」



わざと苛立った声で。

「『恋人』の『人形』なのよ? 下手すりゃクラスの連中に弄くり回されるのよ? しかも、昨日はスカート捲られそうになったし…」



昨日の高ぶりを蒸し返して。

「だいたいね、アンタと恋人同士って思われるのも不本意だし、そもそも人形のフリするのも疲れんのよっ!!」



本心とは裏腹で。

「全く、誰かさんが適当な言い訳してくれるからさー」



心が、イタイ。




…上目使いに睨めば、予想通りシンジは困惑していた。

「で、でも、だからそれは、そもそもアスカが勝手に…」

「うるさーい!! 男だったら言い訳してんじゃないわよー!!」

「…無茶苦茶だよう…」

涙目になるシンジであったが、どこか嬉しそうな様子。心なしか表情も明るいものになっている。

「あー、本当に嫌になるわ。行かなきゃ行かないで詮索されるだろうし…」

アスカはジロリとシンジを見上げて、

「なんせ、肌身離さずもっていなきゃいけない大事な大事な人形ですもんねー」

『人形』の部分にわざとアクセントを付ける。

「…え? 何もそこまで…」

シンジは訂正を試みるが、アスカはそっぽを向いてしまう。そして身振りで鞄の蓋を閉じるよう指示。

あまりにも不機嫌そうな様子に、シンジは黙って指示に従った。

ぱたんと蓋を閉じ、手厳しく扱われながらもシンジは胸をなで下ろしている。

あれだけ悪態がつけるなら、とりあえず健康上の心配はなさそうだ。

それでも、しっかり様子を見なきゃ。

今、一番そばでアスカを守れるのは僕しかいないんだから…。

「おっす、碇」

不意に肩を叩かれ振り向けば、クラスの男子が笑っていた。

おはよう、とソツのない挨拶を返すシンジだったが、いきなりその首を抱え込まれる。

困惑するシンジに対し、神妙な顔つきで男子生徒は忠告してくれた。

「あのな、今さらおまえの人形趣味がどーとかこーとかは言わないけどよー…。

 でもな、いくらなんでも朝っぱらから鞄に向かって話しかけてるのはどうかと思うぜ?」






















一夜明けた教室では、やはり全員が全員で理解を示してくれたわけではない。

露骨に奇異の視線を送ってくる生徒こそいなかったが、少なくとも未だ半数の生徒は懐疑的であろう。

離ればなれになった恋人を模した人形を、絆とばかりに持ち歩く。

そのまま受け取れば、美談である。

しかしながら、疑わしく思えば幾らでも訝しいところが出てくる。

離ればなれになる恋人同士が、互いに想いを込めて物品を交換する。これはまあ良くある話だ。

だが、どうして人形である必要があるのだろうか?

別に、他のものでも代替えが効く。というか、本来はもっと別のものが適当なのではないか? たとえば小物類とか。

また、あまりに精巧なその人形の造型にも疑問が出る。

何ゆえそこまで細かく作り込まねばならないのか―――。

昼休み。

シンジとしてはアスカを伴って屋上にでも脱出したかったわけだけど、早々にクラスの女子らに捕まった。

皆が興味津々といった視線で訴えてきたのだ。

碇くん、恋人の人形を見せて、と。

昨日の手前、ここで拒否するわけにもいかない。

また、逆説的になるが、それがアスカの役割で学校まで来た理由である。

覚悟を決めて鞄を開け、アスカを手に取る。

外の状況も聞こえていたのだろう。アスカも硬直してくれていた。

そっと机の上に横たえれば、たちまち女生徒らの手が四方八方から伸びてくる。

乱暴にこそ触れはしないが、シンジは気が気でない。

「綺麗ね…まるで本当に生きているみたい…」

との声に冷や汗を流す。

「髪なんか、本物の金髪みたいじゃない。一体、どんな材質なの?」

この質問には、よく知らないけれど、と笑って誤魔化す。

「ねえねえ! これってインナーもきちんと着てるの? 脱がせてみてもいい?」

これには凄まじい勢いで首を振って拒否を示した。

きゃあきゃあ騒ぐ女子の脇で、男子の連中も黙っていない。

「なあ、碇。もしかして、おまえ、ガレキ作りとか得意なのか?」

「え? ガレキ? って、瓦礫?」

首を傾げるシンジに、別の女子の追撃。

「でもさ、着ているこの制服、縫製が素人じゃないわよねー。既製品なわけはないし、誰が作ったのかしら?」

「それは知り合いにそういうのが得意な人が…」

全くの事実を言いかけて、シンジは空気が変化していることに気づく。

これこそ奇妙なことなのだが、この時になってようやくクラスメートたちは気づいたらしい。

碇シンジの主張。

恋人の人形。

そもそもが、真実なのだろうか?

シンジが虚言を用いただけではないのか。

まず、話だけで、誰も彼の恋人を実際に見たわけではない。

だいたい、金髪の恋人というだけで存在自体が怪しい。

もしかして、碇シンジは、実は精巧な人形に固執する、それこそ二十四時間身につけていなければならない変態なのではないのか。

シンジ自身の柔弱な容姿も、疑いの眼差しで見ればいわゆる根暗に見えてくる。

となれば、恋人うんぬんは、先日奇妙な性癖が発覚した時、咄嗟に口にした言い訳ではないという保証は何もない。

そう考えれば先の疑問も納得のいくことが多すぎる。

ここに至り、ようやくシンジも空気の正体に気づく。

だが、気づいたところで、何喰わぬ顔で演技が出来るほどシンジは器用ではない。

むしろ元々が嘘の重ね掛けという後ろめたさもあるわけで。

「…碇くん。恋人って、本当にいるの?」

「え…」

ズバリ切り込んできた質問にも、即答できない。

結果、他者の目に映るのは、もはや挙動不審者のそれだ。

先日乗りきったと思ったけれど甘かった。

今朝、登校時に忠告してくれた男子生徒の視線も、まるで汚いものでも見るようなそれに変わっているではないか。

全く予想もしないところで絶体絶命の危機を迎えたシンジ。

はっきりいって救援は期待できない。四面楚歌だ。

どうする? もはや人形フェチとでもカミングアウトするしかないのか?

仮にカミングアウトすれば、自動的に先日の恋人人形発言もデタラメということになる。

どうやっても責められるのは目に見えてるわけで…。

この期に及んでシンジが考えたことは、自分のことではなかった。

自分へ向けられる非難をさておいて、シンジはアスカの身だけを案じていた。

もし自分が変態扱いされたら、アスカが公明正大に学校に来る理由は消失する。

それはそれで構わない。昨日みたいに隠れてくるのも不可能ではないから。

問題は、たったいま、彼女が自分の手の中にないということだ。

一人の女生徒の手に握られたアスカ。

まさかカミングアウトすると同時に投げられたり破壊されたりすることはないとは思うけど、危険なことには変わりない。

集団心理は容易に暴走する。小さいアスカが素っ裸に剥かれる可能性も0ではないのだ。

だけに、シンジは身動きが取れない。反対に周囲の不信感は増すばかり。

いっそアスカをかっさらって教室を飛び出そうかとも思う。

しかし、それなりのリスクは伴う。下手をすればより事態を悪化させることにもなりかねない。

どうする? どうする―――?

激しく脈打つ鼓動に、シンジは半ば無意識で胸に右手を宛てた。

Yシャツの左胸に硬い感触。

几帳面なシンジは、胸ポケットに生徒手帳を所持していたことに気づく。

まさしくそれは天啓だった。この窮地を脱する為の、逆転サヨナラホームラン。

むしろ今の今まで思いつかなかった自分を罵倒する。

だが、これを使うのもわずかながらためらわれた。はからずとも、それは最初の嘘を補強することになるのだから。

それでも背に腹はかえられない。シンジは起死回生の一手を打つ。

「…これを見て」

言いながらシンジが生徒手帳から引き出した一枚の写真。

周囲の視線が残らず集まった、小さな長方形の紙片に写っているもの。

それは、アスカがシンジの頭にヘッドロックをかけて笑ってる姿だった。

「彼女の名前は、惣流・アスカ・ラングレーっていってね。日独のクォーターなんだ…」

まるで波が引くように、穏やかな了解が伝播していく。

多くの生徒の顔に納得の色が浮かびかける。

シンジ自身も写真に視線を落とし、全く状況に似つかわしくない感慨に耽っていた。

懐かしい写真だった。中学校時代の制服の二人。まだ、残酷な未来とその結末なども知らないままの姿。

ある意味、二人が一番仲が良かった頃の、それは象徴だった。

「でもでもでも!」

女生徒のヒステリックな声が、シンジの感慨を破る。

「一枚の写真だけで信じるってのも…」

「他にも写真はあるよ? なんなら、携帯電話に残っている留守電のメッセージも聞かせようか…?」

穏やかなシンジの声と態度。

ごく自然な仕草で携帯を取り出す姿は、皆の猜疑心を吹き飛ばすには十分すぎる。

プラスシンジの頬を伝う涙。これがトドメだった。

「碇くん、泣いてるの…?」

指摘されて初めて気づいたシンジは、慌てて頬を拭う。

「ごめん、色々思い出しちゃって……」

これは本当だった。一枚の写真が、自分でも思いも拠らぬほど過去の記憶を揺り動かしてくれた。

ところが、事情を知らない他のクラスメートにとっては、シンジの涙は離ればなれになった恋人を偲ぶものに見えたらしい。

まさしく怪我の功名というヤツなのだが、双方誤解したままの事態は一気に収拾への坂道を転げ落ちる。

「その…ごめんなさい! 碇くんのこと、誤解してたわ」

数人の女生徒から頭を下げられる。

「おい、碇、一緒に飯を喰おうぜ」

男子の連中からは昼食に誘われた。

どうにも断る雰囲気ではなかったので、シンジはアスカを鞄にしまうと、自分の弁当を抱えて男子の輪の中へ走る。

ごめんと心の中でアスカに謝りながら。













放課後。

橙色に染まる誰もいない屋上。

グラウンドから部活の声が響いてくる。

昼間の熱気が風に乗って流れていく。

穏やかで郷愁をそそる空気。

そんな光景の中で、へこへこと頭を下げるシンジの姿があった。

無人のベンチにはちっこい影。

腕と足を組んだ不機嫌全開のアスカである。

「あんたね、あたしを飢え死にさせる気!?」

そんな彼女の前にはうずたかく積まれた惣菜パンの山。

「だから、忘れていたわけじゃなくてね…」

必死で弁明に努めるシンジだったが、アスカの態度はダイヤモンド以上に硬化している。

目前のパンの山に全く手を付けないあたりからも、それは明らかだった。

結局、昼休み、アスカは食事を摂ることが出来なかった。

元々は、人目につかない場所で、シンジのお弁当を二人でこっそり分けて食べるつもりだったのである。

今のアスカのサイズからして、弁当の極一部分を分けるだけで事足りる故の予定だった。

ところが昼休みには例の騒ぎ。

どうにか切り抜けるも、シンジは男子生徒に一緒に食事に誘われて、断ることが出来ず参加。

その間アスカは鞄の中でひもじい思いをする羽目に陥った。

まさかアスカ共々一緒に食べるわけにもいかないのでやむを得ない処置といえるだろう。

なのに、物の見事に彼女はヘソを曲げてしまった次第。

シンジも重々承知してるから、五時限目後の休み時間に宥めようとするも完全無視。

短すぎるその時間に加え、昼休みの余熱も引ききらないうちにシンジも迂闊な行動が取れない。

六時間目が終わり、HRが終了すると同時にシンジは購買部へダッシュ。

残っていたパンを買い占め教室へ舞い戻って鞄をひっつかみ、家に帰るのももどかしく人気のない屋上に驀進したのであった。

そして鞄の中からアスカ大明神様をベンチへ据え、恭しく供物を捧げ現在に至る。

「まったく…」

鼻息荒く、アスカはシンジと目線を会わそうとしない。

なお怒り冷めやらぬらしく、夕日に照らされその顔は真っ赤だ。

「…でもさ、鞄の中にお弁当箱戻すときに、少し残しておいたっていったでしょ? それ食べればいいのに…」

シンジがボソボソいえば、間髪おかず身体の八倍増しの怒声。

「あんたバカぁ!? あたしに残りもの食べろっての!?」

心情的には分からなくもない主張だったので、シンジは黙り込む。

だから、こうやって、いまパンを買ってきたんだけどな…。

そっとため息をついていると、今度はアスカの方がなにやらボソボソと言っている。

「…って…………に……じゃ……の」

「え? 聞こえないんだけど…?」

「またまたアンタのバカな行動で、ますますややこしくなっちゃったっていったの!!」

耳を近づけたシンジへカウンターの大音声。

キーンという耳鳴りとともに脳がかき回されるような感覚に耐えながら、シンジはどうにか聞き返す。

「い、いったいなにがややこしく…」

実は聞き返しながら、薄々バカなことをいってるなーという自覚はある。

そして概ね予想通りの返答。

「なにが『彼女の名前は惣流・アスカ・ラングレーといってね…』ですって!? 

 これ以上あたしのプロフィール晒してどーすんのよ!?」

別にどうもしないけど、シンジは黙って御拝聴。

「そもそもね、アンタとあたしが恋人同士なんてのは、う、嘘なんだからね!? 
 
 それを否定するならともかく補強するって、何考えてんの!?」

成り行き上、あれは仕方なかったとシンジは思う。でも、あえて口は挟まない。

「だいたいなによ、あの写真! いつの間に持ってたのよ、もう〜…」

そういって頭を抱えたアスカの前で、シンジは回想している。

友人である相田ケンスケから貰った写真。他にも何枚か貰ってはいたけれど、これが今では一番のお気に入りだ。

回想から立ち返ると同時にシンジは密かに安堵する。

もし今のアスカが小型化していなければ、まちがいなく写真は没収されていたことだろう。しかもおそらく力ずくで。

そうやって沈黙を守るシンジであったが、安堵の色は表情に出ていたらしい。

見咎めたアスカが、ちょいちょいと指でシンジを手招きした。

「?」

「もっと近く」

無防備にも顔をアスカの正面にもっていくシンジ。

とうとう鼻先がくっつくくらいまで近くなる。

それがアスカの間合いだった。かわすことは不可能な、ほぼゼロ距離での鼻っ柱に対するモンゴリアンチョップ。

「フギャ!!?」

珍妙な悲鳴を上げのけぞるシンジに、アスカはガッツポーズ。

「ふん、天罰覿面、因果応報よ!」

あからさまに使い方を間違えている四字熟語を胸を張って豪語するアスカを、それでもシンジは嬉しそうに見守っている。

痛みで滲む視界の中で勝ち誇るアスカの姿。

まぎれもなくあれこそが彼女本来の姿なのだから。

朝に感じた違和感を微塵も感じさせない勇姿。

そんな彼女は威風堂々と指をこちらに突き付け、まるで宣言するかのようにいう。

「今日の夜はね、ハッシュド・ビーフよ! あとデザートはケーキが二つ! これが最低条件ね!」

膝を折ってベンチの前にかしずきながら、シンジは了解の意を示す。

「うん、分かったよ」

「いっとくけど、最低条件だからね、最低条件!」

「はいはい」

苦笑して立ち上がりかけたとき、突然アスカが膝の上に飛び乗って来た。

「ちょっと、アスカ…?」

シンジが驚いているうちに、スルスルとアスカは彼の肩までの登頂を果たす。

そうしてから彼女はこう命じた。

「屋上からの景色見てみたいから、フェンスの方へ連れて行きなさいよ!」

「わかった、わかったから耳元で大声ださないでってば…」

ゆっくりとシンジはフェンスの方まで歩く。アスカはその耳のあたりにつかまり、落ちないよう踏ん張った。

「わあ…!」

まもなく子供のような歓声がシンジの耳朶を打つ。

アスカが感嘆するのも頷ける話で、事実、それなりに綺麗な眺めだった。

まだ空は橙色で、夜の気配はその上を霞ませて染める程度。

それでも、ところどころに灯りの点る眺望が、この高校の屋上からは望めた。

更に現在のアスカは1/8サイズ。それにシンジの身長分の高さもプラスして、より壮大な景色に見えてるのかも知れない。

夜気を孕んだ涼しい風が頬に心地よい。そしてその横にはアスカがいる。

思わず微笑むシンジにアスカが気づいたのは、距離の関係からも当然だ。

「…なに笑ってるのよ?」

前を向いたまま、シンジは答える。

「えーとね、昨日と同じだと思って…」

「同じ?」

「うん…」

頷いて、すぐ隣のアスカを見る。もちろん、身体の構造上、肩に乗せたアスカを横目で見るのが精一杯。

向けられた大きくて穏やかな黒い瞳に、アスカは戸惑ってしまう。

それに気づいた風もなく、シンジは続けた。

「考えてみれば、昨日と全く同じでしょ? 教室で誤解を受けて、それをどうにか切り抜けて。

 そんでもって、後から『迂闊なことするな!』ってアスカに怒られるとこまで、まんま同じじゃない?」

まあ、今日は場所が違うけどね、と笑うシンジに、アスカはなにやらゴニョゴニョいいかけて、中断。

言葉を飲み込んだまま黙っていると、シンジはまた前を向き直る。

「だから、大丈夫だと思う。このまま明日も明後日も乗り切れるよ」

遠くを見つめたまま、真っ直ぐな台詞。

口にはしない続きが、はっきりとアスカの耳に響く。

――――キミが元に戻れるその日まで。

前を向いたままのシンジの顔が赤い。

夕焼けのせいだけど、きっとあたしも赤いんだろうな。おかげで誤魔化せるけど…。

シンジの肩でたたずみながら、アスカの怒りはとうに冷めている。

いや、端から怒っていなかったといっても良い。

そりゃあお昼抜きは辛かったけどね。

激しい空腹をも些末なものにしてしまう感覚。

それは、嬉しさに他ならなかった。

シンジが、自分の名前をみんなに紹介してくれて、嬉しかった。

涙を流すのを見て、ドキドキした。

あんな写真を大切に持っていてくれたのには、嬉しくて叫びそうになったくらいだ。

空腹なのに暖かくなったお腹を抱えて、ずっと鞄の中で過ごせた。

なのに鞄から出された途端、正反対に振る舞ってしまう自分。

疑問に思わないこともないが、しょうがない。まあ、これもあたしの性分ってヤツ?

偽悪的にほくそ笑んで、アスカの瞳も遠くを見る。

シンジと同じ場所を見つめている自信はないけれど。

すっと青い瞳に真剣な色が宿る。

彼女は決意する。

シンジが、今日も教室で戦ってくれたように。

あたしも、戦う。

それは、昨晩見た、自分自身への宣戦布告。


























陽光の熱い決意を帳に飲み込み、暗く冷たい夜が来る――――。

































NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


平日・3→夜へ 〜了





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(2006/5/18 初出)




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