準備できたものは爪楊枝数本に裁縫箱から掠めてきた針。

それと焼き鳥用の竹串を弓状にして大きい輪ゴムでその両端を止める。

急場でこしらえた弓だ。矢は爪楊枝で代用。気分は映画に出てくる赤いハチマキをしたベトナム帰りの主人公。

試射してみた。

何度打っても明後日の方向に飛んでいく爪楊枝を見送り、直接投げたほうが命中精度が高いこと気づく。

思い通りにいかない苛立ちをため息に溶かし、アスカが担いだのは大きなフォークだ。

シンジが入浴中にこっそり拝借してきたスパゲティー用のそれは、今のサイズのアスカがもっとも効率的に使える武器かもしれない。

そう、武器だ。シンジを護るための武器。

軽くそれを振り回し、アスカは遙か高みにある壁掛け時計を睨む。

時刻は既に深夜一時過ぎ。

覚悟を決めて、静かにシンジの部屋に向かう。














「…だからさ、きみは毎晩毎晩なにやってるのさ?」

朝。登校中に鞄を覗きこみながら訊ねるシンジの姿があった。

周囲に人間がいないことを確認済みなのは、さすがにこれ以上奇態を指摘されるのには懲りたからだろう。

「んー? …んー…。なんでもないよぉ…ふぁあ…」 

凄まじく眠そうな声で返答するアスカであったが、もちろんシンジは納得するはずもない。

なにせここの所、朝に目を覚ますと部屋の扉の前あたりにアスカが転がっているのだ。

一昨日など、ちょっと寝ぼけていたのでうっかり踏んでしまいそうになったくらいだ。まったく心臓に悪い。

それが既に一週間近く続いている。

いくらアスカの突飛な行動と発想を熟知しているシンジといえど、そろそろ詳細を把握したい。

「……アスカ?」

語尾に力を込める。やや目を細め、鞄の中を見下ろす。

なのにアスカはまったく取り合わない。

「だから何でもないって。…ふぁあ…。お昼ご飯になったら起こしてね……」

面倒くさそうに手をヒラヒラふって、あとは緩衝材代わりのタオルの隙間に潜り込んでしまう。

たちまち聞こえてくる穏やかな寝息。

後には眉ねを寄せて鞄を覗き込むシンジだけが残された。

一度こうなってしまっては、今は聞き出す手だてはない。まさか往来で鞄から引っ張り出して詰問するわけにもいかない。

仕方なく、鞄の蓋を閉じて歩きだす。

空は晴れ渡り、通学路に他の生徒も少ない。今日も暑くなりそうだ。

…赤木リツコの言を信頼するなら、再実験まで既に二週間を切ってしまっている。

今のところアスカの身体レベルでの心配はないのは幸いだが、今回の彼女の奇行はシンジに取って不安と不満があった。

根本的にアスカの行動が理解できない不安。ならばとそれの説明を求めても答えてくれない不満。

やはり、償いきれてないのだろうか。



フラッシュバックする、赤い海の光景。

両手に甦る、柔らかくもおぞましい感触。



涼しい木陰を歩んでいるにもかかわらず、シンジの全身から汗が滲みでる。

歩行こそ乱れてないが、顔面は蒼白に違いない。

だからこそ、今現在の状況でも信頼してもらえないのかも知れない…。

それはある意味当然だ。

アスカには、復讐する権利がある。

自分は、それを甘受する義務がある。

どれほどの月日を経ようと癒えない、それは傷痕。

もしくは契約―――。

ともあれば翳りそうなシンジの瞳は、今朝も部屋の入り口で眠りこける小さなアスカの姿を思い浮かべている。

彼女の小さな身体の横。おそらく本人が隠したのだろうマガジンラックの影に見つけたそれ。

一本のフォーク。

それは、本来の用途の為に隠されているわけではないのだろう。








ここ数日、教室でアスカが大人しいのは、楽といえば楽である。

登校時から寝っぱなしで、昼食を摂ったらまた鞄の中でご就寝。

本格的に目を覚ますのは大抵夕方以降で、色々夕食に注文を付けたりといわゆるハイテンションの状態になる。

つまりは学校に来ている間ほとんど寝て過ごしているわけで、だったら連れてこなくてもいいんじゃ、とシンジは幾度となく考えたものである。

なのに実行しないのは、過日の話が未だ根強く浸透しているからに他ならない。

「碇くん、お人形さん見せて!」

昼休み。今日も今日とてクラスの女子がシンジの机までやって来た。

【恋人の】人形を【肌身離さず】持っていることになっているシンジだ。

ここで取り出して見せなければ不自然というもの。

…アスカ、お願いだから寝言なんか言わないでくれよ…?

表面上爽やかに、内心では渋々と鞄から取り出したアスカは熟睡中。

「あれ? 今日の人形、関節柔らかくない?」

「……え? そ、そんなことないと思うよ。もしくは、きっと暑いからだよ」

「でも、本当に不思議な素材よねえ。ホッペタなんか本当にプニプニしてるし」

アスカが弄くり回される間、シンジは全く気が気でない。

おまけに、

「ねえ、碇くん。お人形さん、もっと可愛くしてあげていいでしょ?」

「へ?」

意味を計りかね、シンジは曖昧な返事をしてしまう。

それを了解ととったのか、たちまちアスカは女生徒たちの手の中に沈んでいく。

その様子やまるで風の谷の大型甲殻虫の群れの触手の如く。

ようやく意味するところを悟り救出に赴くも、

「大丈夫、大丈夫! 大切なお人形さんだからねっ!」

全く根拠もなにもない自信満々の返事とともに突っぱねられた。

これ以上食い下がるのも不自然に思える。しかし、アスカ自体は心配だ。

逡巡するシンジは、男子生徒のグループの一人から首根っこを捕まえられた。

「おい、碇、ポーカーは出来るか? ん? ブラックジャックでもいいぜ?」

「えっと、僕は…」

「心配すんなよ、レートはチップ一枚10円だからさ」

ほとんど無理矢理参加を余儀なくされる。

気づけば手渡された五枚のトランプのカード。

ダイヤとハートのクイーンでワンペアが出来ていた。あとはクラブの2と5。スペードのA。

二枚交換で引き込んだジョーカーと片目のジャックは、果たしてなにかを暗示していたのだろうか?

「降りるヤツはいないか? じゃ、コールな」

ディーラーが宣言する。

「キングのワンペア!」

「よっしゃ、Aと3のツーペアだぜ」

にぎやかな声に続き、おずおずとシンジもカードを差し出す。

「…えーと、クイーンとジャックのツーペアかな?」

「碇、おまえ…それはクイーンのスリーカードだろ?」

結局、数ゲームしてシンジが勝てたのはその一回だけ。

どうにもゲームに身が入らないのは致し方ないにしても、普通の話題に対する反応も遅れてしまう。

「そういや、この間国道に幽霊が出たってさ…」

「ああ、俺の兄貴の友達も見たっていってたぜ?」

「やっぱ、幽霊とかも春になると浮かれて出てくるもんかねえ?」

「俺は霊感ないからわかんねーけどな」

「そういや、この学校にも七不思議とかあるん?」

「えーっとな、音楽室のベートーベンの肖像画の目が光るとよ」

「へえ、見たことあるのか?」

「見たことないけど、俺が目の所に画鋲さしておいた」

「犯人はおまえかよ!!」

「碇、おまえは霊感とかあるか?」

「…碇、碇! 聞こえてるのか?」

廊下の喧噪が聞こえるほど静まりかえる一同。

「……………え?」

そこでようやく弾かれたように顔を上げるシンジ。同時に、持っていたカードも散らばらせてしまうのだからどうしようもない。

「仕方ないか、碇はお姫様が心配でたまらないんだからな…」

揶揄され、参加している男子全員から苦笑が漏れる。

事実なだけに赤面するシンジに、女生徒の一人が駆けてきて肩を叩いた。

「見てみて、碇くん! じゃっじゃ〜ん!!」

差し出された手の先にシンジが見いだしたもの。

それは、金髪を三つ編みにされて綺麗に結い上げられたアスカの姿だった。

目を見張るシンジは、小さなアスカの変容がそれだけでないことに気づく。

小さな桜の花びらのような唇は薄紅色に染まっている。

頬もほんのり桜色で、つぶったままの目にはアイシャドウも引かれていて………。

「……宝塚?」

あまりに素直な感想がシンジの口をついて出た。

対して、女生徒たちは微妙な表情。

渾身のメイクを一刀両断にされてしまったのである。つまり、立つ瀬がない。

「ま、まあ、お化粧はちょーっと濃かったかもしれないけどね…」

笑顔を引きつらせた一人がひび割れた声を出す。

「でもさ、髪の毛は綺麗でしょ? ほら、こうやって陽光にかざすと…」

窓際の席。日当たりの良い場所。そこにちょこんと座るアスカはまだ眠っているのだろうか。

起きていたら恐ろしい。眠っていたとしても、目を覚ました時の反応がやっぱり恐ろしい。

人をオモチャにするのは大好きだが、自分がオモチャにされるのは大嫌いなアスカである。

戦々恐々するシンジの目前で、午後の陽光がアスカの頭上に差し込んだ。

途端にキラキラと輝く、結い上げられた金髪。

両脚を投げ出して軽く俯くアスカは、まるで宝石のように煌めいている。

女生徒らが感嘆の声を上げる中、シンジも見取れてしまった。

制服のままなので頭髪とのバランスは悪いけど、確かに一見に値する艶姿。

その時、窓が開いていたのは、おそらく誰の責任でもない。

次に展開された光景も、誰にも予想できなかっただろう。

開け放たれた窓から飛び込んできた黒い影。

教室内の人間が驚き、気づいたときにはアスカの姿が卓上から消えている。

皆が事態を把握しかねる中、真っ先に動いたのはシンジだ。

飛び降りるような勢いで窓から身を乗りだし、目を凝らす。

いた。

校庭の一番高い木の辺りを旋回する一匹のカラス。

足下に捕まっている輝くカラフルな色彩。

あれこそがアスカだ。

シンジ自身、顔面蒼白になっているのに気づいていない。

それどころか、クラスの全員をさらに顔面蒼白にさせるような行動に出る。

階段を使っていては間に合わない。相手は空と飛んでいるのだ、見失うわけにはいかない。

だとすれば、ベストな方法は至ってシンプルだ。行動に移すのに、今のシンジは躊躇はない。躊躇している暇もなかった。

窓から身を乗り出し、ひさしに着地。

「碇君、ちょっと、ここ三階………!!」

女生徒の悲鳴じみた声も、もはやシンジの耳には入らない。

一応カラスに背中を見せるも、肩越しに振り仰いだ視界から逃さない。

ちょっとだけ足下に視線を走らせ、ひさしの縁を両手で掴む。

一瞬見えた地面までの高さが怖かった。でも、アスカを見失うほうがもっと怖い…!!

ひさしをがっちり掴んで、両脚を宙に躍らせる。

思ったより衝撃がない。ひさしにぶら下がったままのシンジは、二階部分のひさしへ狙いを定め、着地。

急に表れた人間に、階下の教室の連中が騒いでいるけど知ったことか。

振り向き、視線を宙に戻す。

まだカラスは旋回していた。更に目を凝らせば、どうやらアスカが暴れているよう。

シンジの頭の奥が冷たくなった。

カラスの爪は鋭いと聞く。その一本でもアスカに突き立てられていたら。

まだ一階分の高さはあったけど、視線をカラスに見据えたままシンジは飛ぶ。

コンクリートに着地。膝を曲げて衝撃を殺しきれず転倒。そのまま花壇エリアに突っ込む。

無様な格好から身を起こし、土も落とさず走り出す。

痛みはない。

大丈夫だ、走れる。走れ!

自身を叱咤し、カラスが舞う木へと疾走する。

しかし、そこへ行ったとして、次の手だては? 

空を見上げたまま走りながら、シンジの焦燥は薄れることがない。

石でも投げるしかないのか? アスカに当たる可能性もあるけれど…。

翼なき身をこれほど呪ったことがない。せめて木登りくらいできればいいが、ここに至るまでほぼ全運動神経を使い切っている。

歯噛みするシンジの頭上でカラスは旋回。

つかまったアスカが藻掻いているのは、教室にいたときよりハッキリ見えた。

痛いからか、苦しんでいるゆえか。

手をこまねいているシンジの視線の先で、一際大きくカラスが旋回した。

その足下から投げ出されたものに、シンジの目は釘付けになる。

黄金色の軌跡を描きながら落下するもの。

認識すると同時に猛ダッシュ。落下地点へ向けてひたすら足を動かすが、形振り構わない走行は物理的に阻まれた。

まったく不意に目前に表れた金網に、シンジはもろに衝突する。

プールのフェンスが行く手を阻んでいる。そして今まさに、そのフェンスの内側にアスカが墜落していくところ。

あの高さで、硬いコンクリートの上に落ちれば。

最悪の光景を奥歯で噛みつぶし、金網に手をかける。

ぽちゃんという思ったより軽い水音が、シンジに一縷の希望を抱かせる。

アスカが落ちたのは、丁度50メートルプールの真ん中あたりだ。

それでも、あの高さから今のサイズのアスカだと致命傷に成りうるかもしれない。

気ばかり急いでなかなかフェンスを登り切れない。登り切ったら登り切ったで、ほとんど転げ落ちるようにフェンスを下る。

そしてシンジは、最後の力を振り絞りプールへと飛び込んだ。

まだプール開きにほど遠い汚れた水にも構わず、抜き手で泳いでプールの真ん中まで。

ぷかぷかと水面に浮いているアスカへと手を伸ばす。

「大丈夫!? 大丈夫、アスカ!?」

掬い上げ、揺さぶる。

化粧も落ち真っ白い顔。崩れた金髪が身体のあちこちに張り付き、痛々しい。

「…う……うー……」

微かな呻き声がシンジを安堵させる。

大事に大事に、プールサイドへ運び上げた。

ようやくどうにか一息つくシンジだったけれど、未だ困難を脱していないことに気づいてしまう。

ずぶ濡れのまま見やった校舎とグラウンド。

クラスの連中は窓から唖然とした顔で雁首を並べ、生活指導と体育の教師がプール内への入り口の扉を開けようとしていた。











「アスカ…アスカ…」

遠く、聞き慣れた声が聞こえる。

フワフワと漂うような感覚の中にいて、素晴らしく気持ちが良かった。なのに、なおその声は耳に心地よい。

声の響きをもっと明確にしようとして、アスカは手を伸ばす。

目の前一杯に光が弾けた。

………漂白された視界が、徐々に輪郭を帯びてくる。

高い天井を見上げている自分。

アスカは横たえられていることに気づくも、軽い既視感をおぼえる。

それは、シンジの大きな顔が視界を占有したとき、確信へと変わった。

そう、この光景は―――二度目だ。

「良かった…良かった、アスカ…」

ボロボロと涙をこぼすシンジ。

「なかなか目を覚まさなくて、心配したんだ…。ねえ! どっか痛いところとかない?」

一転、鋭く問い掛けてくるシンジの剣幕に、ようやくアスカは思い出す。

…えーと、確かあたしはカラスに攫われて……?

そう、そうだった。気がついたら、いきなり空中にいたのだ。

幸か不幸か掴まれた爪が食い込むことはなかったけれど、あれほど間近でカラスを見たのは初めてだ。

あまりにも突然ゆえの混乱に、カラス本体の不気味な様相も相まって、必死で暴れたことは記憶している。

そうしたら、いきなり空中で放り出されて………後はどうなったんだろ?

「カラスに放り出されたアスカは、プールに落っこちたんだよ。運がいいっていうのかどうかは分からないけどさ…」

シンジが引き継いで説明してくれる。

「だから、アスカ、どこか怪我してない? 痛いところない? あれだけの高さから水面に落ちたんだから」

言われて、何気なく身体を動かすアスカである。

別段、どこか痛いとも思えない。ただ、髪の毛がひっちゃかめっちゃかになっているのに加えて、

「…なんであたし裸なのよ?」

タオルを口元まで引き上げ、シンジを睨み付ける。

「い、いや、だってそれはビショ濡れだったからね…!!」

両手をダバダバ振って、見てないから! と必死で弁明するシンジの身体から飛沫が飛んだ。

そこでようやくアスカは気づく。

「アンタ、もしかして水に濡れたままなの?」

口にして、アスカは自身のバカな発言を悔やむ。

自分がプールに落ちたとして、シンジ以外の誰が助けてくれるというのか。
 
そうなれば、水に飛び込むのも当然だろう。

「…いいから、さっさとシャワーでも浴びて着替えてきなさいよ!!」

「え? で、でも…」

「ほら、駆け足!」

怒声一つでシンジを浴室へ追いやり、アスカはタオルをかき集める。

彼女の胸中を温かい感覚が潮騒のように満たす中、浴室からシンジの盛大なクシャミが一つ響いた。








「逃げてきたぁ!?」

その日のちょっと早めの夕食の席。温かいコーンポタージュを茶さじで啜る手を止めて、アスカは驚愕の声を出す。

「だって…仕方ないじゃないか…」

困惑気味の笑顔を浮かべるシンジは、自分でも感情の整理が出来ていないのだろう。

更に説明を求めるアスカに、辿々しく語り始める。

とりあえず、アスカをプールから救出したこと。

直後、プールに至るまでの無茶な行動を目撃した生徒の通報を受け、教師陣が出張ってきたこと。

まず第一に容態の分からないアスカを放っておけないと思ったこと。だから、捕まるわけには行かないと思ったこと。

強行突破で教師陣の間をすり抜け校門を飛び出し、運良く通りかかったタクシーに飛び乗り帰宅したこと…。

「とりあえず家に帰ってきてからも大変でさ。

 僕の携帯、プールに入ったとき壊れちゃったみたいで、ミサトさんたちにも連絡取れないし…」

最終手段としてアスカの携帯電話を無断拝借しようとした矢先、アスカは目を覚ましたという。

「とりあえず、明日はリツコさんの所へいって検査してもらおうよ。今は異常なくても心配だからね」

いいさしたシンジの台詞を、アスカは即座に遮った。

「あたしは大丈夫よ。それより、あんた、明日は…」

蒼い瞳を伏せ、歯切れは悪い。

本日のシンジの行動。またもや自分を救うための、形振り構わない献身。

今回の場合、責任の所在を問うても無意味。

だからアスカはシンジの身をひたすら案じている。

立ち入り禁止のプールへの無断侵入。

教師陣への釈明もせず、有無をいわせぬ自主早退。

今でも学校から呼び出しの電話が入らないのが不思議なくらいだ。

あ、シンジの携帯は壊れたんだっけ…。

とにかく、明日登校すれば、シンジは生徒指導の名目でこってり絞られるのは目に見えている。

いや、下手をすれば停学。退学の可能性さえ否定できない。

それというのも、原因を辿れば、あたしが学校に行きたいっていったから…。

「僕だって大丈夫だよ。心配しないで。だけど、明日はアスカは学校には…」

シンジの言いたいことは分かった。

教師たちから目を付けられた以上、アスカを連れていくのは得策とはいえない。少なくともほとぼとりを冷ます必要がある。

また、そもそもの鞄を学校に起きっぱなしなこともある。さすがに今から取りに戻る気力も、シンジにはないだろう。

ふとクラスメートの誰かが届けてくれるかも知れないとの希望を持つ。

だが住まいはクラスの誰にも明かしてはいない。調べれば分かるだろうが、そこまではしてくれるとも思えない。

…今日一連の行動で、更に引かれたのは間違いないだろうし。

なんとかしたいけど、何も出来ない。

歯がゆさを両手一杯に抱えたアスカの目前で、シンジは頭を軽く左右に振って口調を改めた。

「過ぎちゃったことは仕方ないよ。クヨクヨしないで、今日は早く寝ちゃおう?」













朝から天候が悪い。

空には真っ黒い雲が厚くたれ込め、横殴りの強い風が吹く。

これで雨でも降ってきたら、外を歩くだけでも大変だろう。

そんな中、シンジは出かけていった。

一緒に朝食を摂ってるとき、「大丈夫だよ」と笑ってはいたけれど。

一人残されたアスカに出来ること。

とりあえず、知り合いの大人にメールを打ちまくった。

なるべく事情を簡潔にまとめた上で助けを求める内容。

しかし、今のミサト、リツコらにどれだけの力があるのだろうか?

中学校の時こそネルフが関わっていたせいで、色々融通は利いたけど。

メールの着信音が、アスカの注意を引く。

リツコやミサトの返信は、判を押したように一緒だった。

『分かったわ。なんとか働きかけてみる』

正直、あまり期待はしていなかった。

…もうこれで、アスカに出来ることは何もない。

ベランダへ続く窓に寄り添い、頬をあてる。

無機質なガラスの冷たさは、何ももたらしてはくれない。逆に、そのガラス越しの光景が、彼女の不安を燃え立たせた。

昨晩は忘れて熟睡してしまった自分を罵倒する。

あれから現れてはいないけれど、シンジは狙われている。

だから、寝ずの番をするつもりだったのに。

何事もなく今朝を迎えたからいいものを、もし取り替えしのつかない状況に陥っていたら、後悔してもしたりないだろう。

アスカは黒雲のスクリーンに、あの晩の光景を思い浮かべる。

シンジに馬乗りになり、彼の首を絞める、赤い自分。

異変に気づき駆けつけた小さい自分に向けた、あの凄惨な顔が――――あれ?

あの時の、表情は……あれれ?

全く不意に沸いて出た違和感は、同じく唐突すぎる風に中断を余儀なくされた。

ガラス戸全体をビンビンと震わせるような強い突風。

そこに身体を密着させていた小さなアスカは一溜まりもない。

耳を押さえて飛び退いて、バカになった鼓膜の回復をまってると、玄関の開く音がかろうじて聞き取れた。

「ただいま〜…」

予想通りの声。期待した声。

本当は飛びつきたいのをこらえてアスカは出迎える。

「おかえり、シンジ!」

「いやあ、雨が降る前に帰れてよかったよ…」

風に吹き乱されたのだろう。髪を整えるシンジに、アスカは噛みつかんばかりの勢いで訊ねた。

「で! で! どうだった!?」

「…え〜と。大丈夫…かな? たぶん」

茫洋とした返事と表情。もちろん、アスカの心中を納得させるには不十分だ。

「何なのよ、それ! もっと詳しく…」

「ごめん、せめて着替えてからにさせてもらっていいかな…?」

不承不承頷くアスカであるが同時に安堵している。

これだけのんきな反応が返せるなら、きっと結果はそう悪くはないんだろう。

隣の寝室への引き戸を開け、その中に消えるシンジ。どさっと何かが落ちる音は、鞄でも放り出したのだろう。

…音? そういえば先ほどから、まるでマシンガンのような連打音が耳朶を打つ。

視線を巡らせば、更に強くなった風に大粒の雨が乗り、ひっきりなしにガラス窓を打ち据えていた。

どうやら本格的な雨になったらしい。しかも大雨だ。

ふと思いついたアスカは、シンジの寝室を覗き込む。

「ねえ、シンジ。あんたの部屋の窓って、ちゃんと閉まって……?」

アスカは最後まで台詞を言い終えることはなかった。

彼女が見たのは、部屋の主が床に転がっている姿。

「シンジ!」

叫びながら、横たわる少年の顔の前に回り込む。

薄暗い部屋でもはっきり分かるほど紅潮した顔。

短く紡がれる呼吸も、常ならず速く熱い。












―――伏せられたカードは三枚。ハートのクイーン。片目のジャック。そしてジョーカー。

なお配り手は眠ったままに―――。

























NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


平夜→墜落→嵐の夜へ 〜了





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(2006/6/11 初出)




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