あたしはバカだ。

シンジからあれだけいたわられていたのに、あたしはシンジの体調の変化に気づかなかった。

思い返せば、不審な点がいくつもある。

朝食を作る手際が、いつもより悪くなかったか。

起き抜けの目は、いつもよりトロンとしてなかったか―――。

帰ってきてからの受け答えもぼんやりしていたし、そもそもの原因は先日の出来事に違いない。

自分だってびしょ濡れなのに、あたしが目を覚ますまで付き添ってくれたシンジ。

昨日の夕食時、「今日は早く寝よう」と言っていた時点で、すでに兆候はあったはず。

あの時気づいて然るべきだったのに。

血が出るほど唇を噛みしめ、アスカは横たわるシンジの顔を見つめてる。

額に触れれば、もの凄く熱い。

普段のサイズならば即座に氷枕を持ってきて看病の一つも可能だが、1/8な今、出来ることは限られている。

そしてアスカは選択を誤らなかった。

待ってて、シンジ。

唇の動きだけでそう告げて、自分の携帯電話まで走る。

今のアスカに出来ること。

他の関係者に連絡を取る。

その上で看病をしてもらうなり、病院へ搬送するしか適切な手段はない。

自身の不甲斐なさを呪いながら、アスカはリビングへ放置されていた携帯電話を手に取る。

とりあえずミサトにでも連絡を、とリダイアル番号をコールした途端、電子音を立てて画面が暗くなった。

「…え?」

電源を切る時の反応だ。すかさず電源を入れ直す。

画面が表示され、またすぐ消えた。消える寸前のディスプレイの右隅に表示されているバッテリー残量。

それがゼロになっているのにアスカは気づく。

そういえば、ここしばらく充電した記憶がない。おまけに朝からはメールを乱れ打ちした。

「ちっ!」

舌打ちを一つ残しして、アスカは充電機まで携帯を抱えて走る。

充電機からプラグの部分を分離するのももどかしく、携帯電話の側面に直接コネクトした。

これで電話がかけられるはず。

電源を入れて、明るくディスプレイが灯る。

さっそく通話すべく忙しく手を動かし始めたアスカの目前で、またディスプレイは真っ暗に沈黙した。

「!?」

ボタンを押す。電源を入れ直す。

うんともすんともいわない。

まさか、このタイミングで壊れた…?

焦燥を浮かべた表情そのままに、アスカはリビングを見回す。

そして気づいた。

点いていたはずの蛍光灯の豆電球が消えている。

TVの待機を示す電源も、DVDプレイヤーのディスプレイも消えていた。

静まりかえるリビングに、轟々と凄まじい風音が響く。

まさか―――停電?

アスカの顔面は瞳の色が拡散したように青くなった。

充電しなければ、携帯電話は使えない。替えのバッテリーも存在しない。

その上で、先日の出来事を思い出す。

プールに飛び込み、シンジは携帯電話をお釈迦にしてしまったといってなかったか?

昨今の一人暮らしの学生らしく、シンジは自宅に電話を引いていない。

つまり。

この状況では、アスカは誰にも助けを求められないのである。







ベッドから引っ張ってきたタオルケットをシンジの上に被せる。

シンジをベッドへ運べない以上、そうするしかなかったわけだが、えらく骨が折れた。

額に滲む汗も拭わず、金髪を振り乱し、アスカはなお奔走する。

紐を片手にシンクに飛び乗り、そこからオーブンレンジを経由して隣接する冷蔵庫へ。

冷凍庫の登頂からそろそろと紐をおろし、取っ手に潜らせる。

それから改めてシンクに移り、渾身の力で引っ張る。

これでようやく冷凍庫の扉を開けられるという寸法だ。

扉を全開にして紐で固定。そうしてからまた冷蔵庫の登頂にのぼり、冷凍庫への侵入を果たす。

停電といえど、いきなり温くなったりしないのは当たり前。肌を刺す冷気がアスカを出迎えてくれた。

しかし、まったく動じることなくアスカは目当てのものを見つけ出す。

標的は氷だった。

だが、一人暮らしの気楽さからか、製氷皿は小さめのが一つあるだけ。

これでは、頭を冷やすのもおぼつかないだろう。

それでもないよりはマシよね…。

製氷皿を引っ張り出したアスカは、それをそのまま床に落とす。

目論見通り、床に落ちた製氷皿から台形の氷が四方八方に飛び散る。

また苦労して床に降り立ったアスカは、散らばった氷をビニール袋へ回収。

それに自分専用の改造流し台の水を全部注ぎ込んで、ようやく氷嚢が完成した。

季節はずれのサンタクロースの如く引きずって、どうにかシンジの額に設置する。

呼吸を整えながら、アスカは四方に視線を飛ばした。

日も暮れたらしく、急速に暗くなっていく部屋。

電気は未だ回復しておらず、外を吹き荒ぶ風だけしか聞こえない。

だが、アスカはまだ心細さを味わう余裕も暇もなかった。

またぞろリビングへと駆け戻り、今度は救急箱探索だ。

シンジであれば常備している可能性が高い。

少なくとも体温計は手に入れたかった。風邪薬もあればなおのこといい。

救急箱自体スペースを取るため、設置場所は限定しやすい。

予想通り、サイドボードの上に救急箱は鎮座していた。

蓋を開けるのももどかしく、アスカは猛然と中身を漁り始める。

体温計はすぐに見つかった。

問題は服用薬の類だ。薄暗い中でラベルが読みづらい。加えてアスカは漢字が苦手。

間違って正露丸の蓋を開けてしまい臭いに悶絶したりした挙げ句、どうにかカプセル剤を見つけ出す。

再びシンジの元に舞い戻ったアスカであったが、そこで困惑してしまう。

どうやって薬を服用させたものか。

これで元のサイズなら、口移しとか出来るのだけど…。

臆面もなくアスカはそう考えている。

ところが、このサイズではそれも不可能。それ以前に、服用してもらう為の水はどうやってもってくる?

仮に、シンクまでよじ登ってコップに水を汲むのはいい。

その後、そこからは飛び降りるか段差を伝って降りてくることしかできない現状で、こぼさず運搬する自信はなかった。

つくづく1/8サイズが恨めしい。

少し考え込んで、アスカはまたもやキッチンへ。

ただし、直行したのはシンクではなく冷蔵庫である。

全身の力を込めて冷蔵庫を開ければ、手のついた500oLのお茶のペットボトルを発見。

薬を服用するのに、何も水でなくてもいいと気づいたわけだ。

ペットボトルを転がしてシンジの部屋へ。

ラグビーボールくらいに感じる錠剤を小脇に抱え、アスカはシンジの横っ面をペチペチを叩く。

「ほら! 起きなさいよ…!!」

この場合、シンジ自身に飲んでもらうしか服用させる術がない。

そうやってしばらく叩いていると、シンジは軽く身じろぎした。

ゆっくりと薄目が開いて、潤んだ瞳が小さなアスカを映す。

「…あ、アスカ………?」

その反応に、アスカは安堵していた。少なくとも意識不明などという深刻な状態でないらしい。

「どうしちゃったんだろ…僕。……あは、頭が痛いや…」

フラフラと身体を起こそうとするシンジを、アスカの鋭い声が制する。

「いいから! まずこれ飲みなさい!」

半開きの唇に、風邪薬の錠剤を放り込む。

続いて、転がっていたペットボトルを縦に置き直せば、シンジはノロノロとキャップを開けてくれた。

コクコクと喉が動き、半分くらい残っていたペットボトルは更に半分くらいに目減りする。

その間、アスカは噛んで含めるように説明した。

「あたしが見に来たら、あんた突然ぶっ倒れててさ…」

「そう…ごめん」

なんで謝るのよ!? 反射的にそう怒鳴ろうとしてしまい、アスカは自制した。

そう、謝る必要などないのだ。全部、シンジがあたしの為にしてくれた結果なのだから…。

「風邪でも引いたんじゃないの? とりあえずベッドへ戻って熱測りなさい」

体温計を差し出し優しく言う。

「うん、そうだね…。ありがとうアスカ…」

微笑んで軽く咳き込み、緩慢な動作でタオルケットを引きずりながらシンジはベッドに向かう。

ベッドへと腰をかけ、Yシャツのボタンを二つ外して体温計を脇に挟み、そのままころんと寝転がる。

おそらく起きているのも辛いのだろう。もはや半分以上水と化した氷嚢を引きずりながらアスカは思う。

洞察は正しく、ようやくベッドに辿り着いた彼女の目前で、シンジの呼吸は寝息に変わっていた。

それでもなお、呼吸は速く浅く、熱い。

軽い電子音が響く。シンジは目を覚まさないので、アスカはベッドによじ登った。

シンジの胸元に潜り込むときちょっとだけ躊躇してしまう。

この期に及んで感じた気恥ずかしさも、無味乾燥なデジタルの数字を見て吹き飛んだ。

38.9℃

なかなかに洒落にならない数字である。少なくとも病院へ受診したほうが賢明な数値。

アスカはベッドを飛び降りリビングを覗く。

ダメだ。未だ停電は回復していない。

今や真っ暗になった部屋には、猛烈な雨と風の音だけが響いている。まるで部屋全体が揺すぶられているよう。

暗い窓にカーテンを引く。尚更暗くなったけど、ガラスを流れる滝のような雨が視界から消えて、少し落ち着く。

充電器のコンセントを引っこ抜き、携帯電話と一緒に担ぎながらアスカはリビングを後にする。

いずれ停電は回復するにしても、シンジの側にいたほうがいいと思った。














風が止まない。むしろ強くなってきている。

停電も回復する素振りすら見せず、アスカは暗闇の中で目を凝らしデジタル体温計の液晶画面を見つめていた。

38℃台を行き来する数値に、蒼い瞳は苦渋の色を浮かべている。

ここに至るまで、自分に出来うることは全てしたとの自負はある。

ただ、もう一つの選択しえなかった方法。

そちらの方が有効だったのではないか。

喉の奥の苦みを飲み下しながら、その想いが消えない。

シンジが倒れた直後、すぐ表に飛び出し、近所の部屋へと助けを求める。

直接訴えれば、少なくとも救急車は呼んでもらえるだろう。

同時に、現在の小さな自分の姿を見て、大騒ぎになる可能性も極めて高い。

シンジは助かっても、自分が捕まってしまってはお話にならない。

ゆえにその方策は取り得なかったのだが、今となって鈍い後悔がアスカの小さな胸の中で揺れている。

本当にシンジが大事ならば、そうするのが正しかったのではないか。

今のあたしに出来ることなど、たかが知れている―――。

もはや水と化した氷嚢。

氷も既に切れている。停電が回復せねば、新たに冷蔵庫で作ることも出来ない。

アスカは、シンジの額に乗せたタオルを引きずり降ろす。

すっかり温くなったそれを抱えて、アスカはベッドを飛び降りキッチンのシンクへ。

そこで、タオルをすすぐ。たっぷりと水を含んだそれを、蛇口に巻き付けその両端を握り、力の限り絞る。

ここまでで、どれだけ頑張っても10分強の時間がかかる。

そしてアスカは既に幾度となくそれを繰り返していた。

疲労するのも当然で、シンジの枕元に寄り添いながらもうっかり舟を漕いでしまい、慌てて顔を起こす。

両頬をはたいて気を取り戻し、じっとシンジの顔を見据えた。

まだ頬の赤みが抜けない。薬は効いているのだろうか。

耳を住ませばシンジの呼吸音。それに風と雨の音。

まるで部屋の外から自分たち二人を握り潰そうとしているような気がした。

アスカは壁掛け時計に視線を走らせる。よく分からないが時刻は午後10時に近いと思われた。

時間の感覚が麻痺してしまっている。

夕食も摂ってないが、空腹感もまるでない。

「…ん…くぅ…」

シンジの呻き声がアスカの注意を引いた。

「どうしたの、シンジ! ねえ!?」

声をかけるが返事はなかった。

替わりとばかりに、奥歯が激しくカチカチと鳴っている。全身も小刻みに震えている。

「もしかして、寒いの!?」

またもや返答はなかったけれど、アスカは勝手にそう判断する。

高熱を発せば悪寒に襲われる。彼女にも経験があった。

対処方法はいわゆる頭寒足熱。

頭を冷やし、足下から温める。

現在、シンジはタオルケット一枚だ。何かを上に掛けたりして暖めるのが適当。

全く適当なのであるが…。

毛布は、開けた押入の真ん中に辺りに発見できた。

暗闇の中早速アスカは引っ張り出そうと悪戦苦闘。

これを引っ張り出さねばならない。これをシンジに掛けてやらねばならい。

髪を振り乱し、小さな身体の全力を振り絞る。

果たして、努力は報われなかった。

どれだけ力を込めても、毛布の端が精々伸びたくらい。

仮に毛布を引っ張り出せたとしても、倒壊の危険性も極めて高かった。

毛布の上にぎっしりつまれた服やらなにやら。

引っ張り出した拍子にそれらに押しつぶされでもしたら目も当てられない。

…諦めるしかないの?

肩で息をするアスカ。背後では、またシンジの苦しそうな呻きが響いている。

この時になって、不屈の色を浮かべていた蒼い瞳に、ようやく涙が滲み始めた。

なんてあたしは無力なんだろう。

シンジを救えない。

唇を噛む。掌を強く握る。皮膚を穿とうとばかりに爪が食い込む。

…こんな近くにいるのに好きな人も助けられない。

悔し涙は、抑制していた感情の枷を解き放つ。

激情は、自分自身を罵る。

どうしてあたしはこんな小さく再生されたの!?

どうして!? どうして!? どうして!?

噛んでいた唇が切れた。血の味が口内に広がる。

鉄臭い匂いが、アスカの憤りを冷ます。

いくら自分を責めたところで、状況は好転しない。

まだ、何か出来るはず。たとえこんな小さな身体でも。

ゆっくりと、アスカは振り返る。


―――今のあたしに出来ること。


ベッドで寒さに震えるシンジを見る。


―――今のあたしでも出来ること。


部屋の扉を閉め、少しでも気温の流出を防ぐ。

蒼い瞳に、紛れもない覚悟の色が灯る。

ベッドにはい上がり、呻くシンジの顔を見下ろした。

風の音が遠くなる。

世界にたった二人しか残されていないような錯覚に襲われる。

こんな感覚は、前にも一度あった。

そう、あの赤い海のほとりで。

あの時と違うのは、胸中に響く憎しみの潮騒が、全く正反対のベクトルを奏でていること。

汗で張り付いたシンジの頭髪を一房撫でる。

「まったく、アンタは果報者よね…」

ポツリと唇から零れた台詞は、きっと照れ隠し。

軽く目を閉じ、アスカは胸元のブラウスのボタンを外す。

そして、ためらいもなくそれを脱ぎ捨てた。

続いてスカート。更に靴下と下着も。

産まれたままの姿になった少女は、薄闇に佇む。

その中でさえ仄かに白く浮かび上がる見事な裸体。

小さなサイズでも均整の取れたプロポーションは、異性の目に晒したことはなかった。

…そう、シンジ以外には。

すっとタオルケットをたくし上げ、全裸のアスカはシンジの胸元へ潜り込む。

汗の匂いが鼻をついたが、そんなことは気にはならなかった。

敵愾心など元から無い。羞恥心など、犬に食べさせたって構わない。

今のアスカは、震えるシンジの身体をひたすら不憫に思うだけ。



………ごめんね、シンジ。今のあたしには、アンタを病院に連れていくこともできない。

看病だってロクロクできない。

だからせめて。

こんな小さな身体のままだけど、アンタを暖めてあげる………。



シャツの中、熱いシンジの匂いに包まれ、胸元に顔を埋める。

早鐘のように打つ鼓動を宥めるが如く、アスカの小さな手はシンジの胸のあたりを愛撫する。

結構逞しくなったのね、コイツ…。

つぶやき、汗ばんだ胸にもっと身を寄せた。願わくば、シンジを苛む病熱をすべて吸い取ってしまえるように。

願いながら、裸で抱きついている自分をちょっとだけ可笑しく思う。

そもそも元のサイズであれば、引きずってでも病院へ運搬する自信がある。

反面、今のサイズだからこそ、裸になって暖めるという現状で殆ど唯一といえる選択が取り得たという現実。

裸で寄り添っても、この小さな身体では、どうやってもそれ以上への発展は期待できない。

艶っぽい展開へ至る可能性は皆無なのだ。

好意を持った相手と裸で抱き合いながら、正しい愛し合い方はできない。

まったく、なんという皮肉だろう。

…アスカも非常に疲れていた。

シンジの胸元に潜り込み、互いの温もりを交換しあううちに睡魔が訪れたのは、いわば当然の流れ。

矛盾を抱えながら、彼女は夢の谷を転げ落ちていく。













どれくらい時間が経ったのだろう。

ふと目を覚ましたアスカは、全身が汗まみれなことに気づく。

それを不快と思うことすら忘れ、彼女は目前の少年の顔を見上げていた。

頬の赤みが軽減している。心なしか呼吸も落ち着いてきているよう。

裸の胸をなで下ろし、アスカは耳を澄ます。

シンジの呼吸音を圧するように、風と雨の音がなお聞こえてくる。

天候は回復まで至っていないようだ。

胸元から這い出し、小さなアスカは体温計を探った。

眠気が取れず、少しだけ足下がふらついたけれど、なんとかそれをシンジの脇に挟み込む。

続いて彼女が洩らしたのは、なんとも可愛らしいクシャミ。

未だ全裸なのは仕方ないにせよ、外に吹き荒ぶ雨風のせいで室温はかなり低い。

暗闇の中、素っ裸ではしたなく胡座をかき、ぼーっと時間が過ぎるのを待つ。

電子音。

37℃後半の数値は、安心していいものだろうか。

だがシンジの様子を見る限り、悪化はしていないように思われる。

ならば、献身の甲斐があったというもの。報われたのは素直に嬉しい。

汗を吸ってすっかり重くなった髪を振る。

自分とシンジのが混ざり合った臭いにシャワーを浴びたくなったが、今は我慢。

とりあえず、額のタオルだけでも替えてあげよう。

素肌にブラウスを一枚だけ羽織り、アスカはベッドから降り立つ。

またもやくしゅん! とクシャミをしてしまい、ブラウスの胸元を寄せ合わせる。

肌寒い。あたしも風邪引かないようにしなきゃな…。

キッチンへ赴くため、リビングへ続く引き戸を開けようとした時だ。

全く質の違う冷気がアスカの背中を貫いた。

まるで氷柱で背骨が構成されてしまったように、全身を悪寒が満たす。

これは…………一体なに!?

分からない。理解できない。

だから戸惑う。

戸惑ったまま、引き戸に手をかけようとして、アスカの聴覚は異音を聞いた。

雨と風の音とも違う。

何かが動く音。

誰かが歩いている音―――?

でも、誰が?

こんな真夜中に。

もしかして、ミサトとか…。

悪寒を振り切り、戸に手をかけた瞬間。

アスカの全身から、冷や汗が吹き出す。

心拍数が跳ね上がり、唇がわななく。

その感情も理解できぬままに、アスカの次に取った行動は自分でもよく分からない。

とにかく、必死だった。

力の限りマガジンラックを押し、足下に転がる箱やらなにやらを総動員し、引き戸が開かないよう支え棒代わりにする。

なぜ籠城するような真似をしているのか。

答えは―――それが近づいてくるから。

荒い呼吸を整えながら、脳裏思い浮かべる戦慄。

ほぼ同時に、闇に響いた声が、その予想を肯定した。





自分のものではない、自分の声。

これは、あたしの声。

ひび割れていて水っぽい。でも聞き間違うはずもない。

つまり、この向こうにいるのは、あの夜に見たもう一人のあたし。

やはり幻ではなかったのだ。現実の光景だったのだ。

あれから姿を見せなかったのに、どうして今日、この日の夜に。

扉を揺らす音が、小さなアスカの思考を中断させた。





まるで地の底から響いてくるような声。

恨みがましい台詞に、アスカは耳を塞いでいる。

違う! こんなの、あたしじゃない!

あたしはシンジを恨んでなんかいない!

あたしはもう、シンジを恨んでなんかいない……!!

異様に喉が乾く。許されるなら、その場にへたり込みたい。

揺れる扉。

ビクッとアスカは全身を震わせる。





ガタガタと扉は揺れ続ける。

風の音とは違い、目前から聞こえる音。

恐怖を振り切り、アスカは隠しておいたフォークを手に取る。

シンジの横たわるベッドと扉の間、部屋の中央でフォークを構えた。

所詮間に合わせの支え棒。突破されるのも時間の問題だ。

震える指先を叱咤し、フォークを握る手に力を込める。

こんなちっぽけな武器が、どれだけの効果があるか心許ない。

それでも、アスカはシンジを護るつもりだった。

例え、自分自身を傷つける結果になっても。

あたしは、シンジを大切に思う。

だから護る。

それがもう一人のあたしであっても関係ない。

理由はそれだけで十分だった。

心のままに。想いを隠さず、偽らず。

それこそが、今のあたしのアイデンティティ―――。

ガタン!!

揺れ続けた扉が、一際大きな音を立てた。

背筋が凍る。

隙間が開く。

だが、健気なマガジンラックはまだ奮闘しており、開いた空間は指一本ほど。

部屋の闇よりなお濃い空間。

這い出てくる包帯に包まれた指。

激しい息づかい。もちろん、シンジとも自分とも違うそれは。





冷たい声。

暗い声。

苦しい声。

そして―――悲しい声。

別人にすら思えるのに、これは紛れもなく自分の声。

叫ぼうとして、小さなアスカの舌は喉の奥に張り付いたように動かない。





覗くは、蒼い瞳。片目だけの凍えた瞳と、小さなアスカの双眸が絡み合う。

「う、あああああああああああああ!!」

小さなアスカは吠える。

フォークを振りかざし、跳躍する。

銀色の凶器を隙間に突き入れたとき、躊躇いがなかったといえば嘘になる。

手応えはなかった。

替わりに、眩しい光がアスカの見開いた瞳孔を射る。

「アスカ!? どうしたの、アスカ!?」

真っ白に染まる視界。聞き慣れた声が、凍り縮み上がった心に微温を注いでくれた。

確認の意味も込めて、叫ぶ。

「ミサト!! ミサトなの!?」

「そうよ! …って、何この扉! なんで開かないの?」

いつの間にか隙間から差し入れられた手が、扉をガタガタならしている。

そこから差し込む光がリビングの灯りと気づくより早く、アスカはワタワタとマガジンラックへ走っている。

「ちょっと待って…!」

支え棒代わりのそれを外し、全開になった扉から現れた人物を見上げて、アスカは心底安堵した。

化粧ッ気もない顔を晒し、葛城ミサトが立っている。

雨を吸って重そうな髪もそのままに、元保護者は目を丸くしていた。

「アスカ、あんたその格好…?」

「え? ええ?」

言われて気づくアスカの格好は、先ほどと同じ裸にブラウス一枚のまま。

「そ、そんなことはどうでもいいのよ! それより、ミサトはどうしてここに…!?」

ブラウスの前を寄り合わせ、アスカは訊ねる。

連絡はしていない。取れなかった事も言うまでもない。

「あのね、今日メール打ったのは、アスカ、あんたでしょ? 夜になって連絡しようにも全然電話繋がらないし。

 おまけにシンジくんの携帯もダメだし…」

更にこの夜の季節はずれの嵐も加えて、一旦床にはついたけど、心配のあまり駆け付けてきたという。

その心遣いは、アスカにとって何より嬉しかった。おかげで窮地を脱せたといってもいいのではないか?

「そ、そんなことより! シンジが、シンジが!」

アスカの状態も鑑み、速やかにミサトは事情を察してくれた。

素早くベッドへ駆け寄り、シンジの額に手をあてる。

熱や状態の経過をアスカに二、三質問して、顎に手をあて考え込んでいた時間は極めて短い。

「これは、今すぐにでも病院へ連れていったほうが良さそうね」

アスカも異存はあるはずもない。

手早く脱ぎ捨てた服を身につければ、ミサトがシンジを負ぶっているところ。

あたしの車で行った方が救急車より早いからね。

説明するミサトの表情が微かに曇る。

「アスカはどうするの? 一緒に行く?」

即座に頷き返すアスカ。当たり前だ。置いて行かれるわけにはいかない。

「でも、あたしはシンジくんを背負うだけで精一杯だから、アスカを隠して運んであげられないわよ?」

「大丈夫よ、駐車場まで走るから! こんな夜中に誰もいないわよ」

チラリとアスカが部屋の時計に走らせた視線。

時刻は真夜中の三時を少し過ぎたあたり。

「…わかったわ。じゃあ、行くわよ!」

部屋を飛び出していくミサトの後を追いかけるアスカの心に去来するもの。

いつ停電が回復したかなどということではない。

それは、もっと即物的な疑問であると同時に、凄まじい戦慄を小さな身体にもたらす。

低い視点ゆえに気づいたその現象。

玄関からシンジの部屋の扉の直前まで等間隔に出来た小さな水たまり。

もちろんミサトのものではないだろうそれは、動かしえないもう一人の自分の来訪の証明だった。












明るい朝の日差しがアスカの頬をくすぐる。

いけない、眠っちゃった…。

目をこすり、アスカは上体を起こす。

白い清潔な部屋。微かに消毒薬の匂いが漂う。

きちんとメイクされた病院のベッドへ横たわるシンジ。

腕から伸びる点滴に合わせ、穏やかな呼吸が続いていた。

顔色も全然良くなっている。もう大丈夫だろう。

ここはリツコらのコネがある病院だ。1/8でサルベージされたアスカが運ばれた場所でもある。

明け方、ミサトの手により搬送されたシンジは、手厚い治療を受け、念のため個室へ収容された。

特別な個室であるため、アスカも付きっきりで看護できる次第。

それにしても、ただの風邪で済んだのは僥倖といえるだろう。

結果としてあの時の手当が功を奏していたとすれば、アスカも誇らしい。

同時に、冷静に思い返せば赤面を禁じ得ない。

後悔なんぞはする気はないけれど、なんとも大胆な真似をしたものだ。

まあ、シンジは覚えてないだろうけどね…。

それはそれで嬉しいような残念なような。

複雑な乙女心を噛みしめているアスカの目前で、うっすらとシンジの目が開く。

「…シンジ!」

縋り付きたいのを我慢して、黒い瞳を覗き込む。

焦点の合った瞳には、反射する自分がいた。

「アスカ……」

和やかな色を浮かべて、シンジは微笑む。

もう大丈夫。

これで全部元通りだ。

明日からは普通の生活に戻れるはず。

微笑み返すアスカは、昨晩の異常事態を決して失念していたわけではない。

でも、今、この少しの間だけは忘れていいと思った。

それに、あのもう一人の自分の存在は、ミサトとリツコらへは伏せている。

アスカ自身、あくまで自分個人の問題だと思ったから。

自分だけで解決するべきだとも思う。同時に、あのようなおぞましい自分の存在を、シンジに知られたくもない。

…おぞましい? 自分のことなのに?

胸中の複雑を隠し微笑み続けるアスカの前で、急に引き締められるシンジの表情。

「…アスカ」

悲壮な色を瞳に浮かべ変え、少しだけ口ごもった果ての少年の台詞は、小さな彼女の心中を氷結させた。


















「昨日の夜の、あのもう一人のキミは、いったい………?」


























NEON GENESIS EVANGELION AFTER 

“ MY LITTLE LOVER ”



りとらば!


嵐の夜に 〜了





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(2006/6/11 初出)




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