ひろいひろい空。

あかいあかい海。

くずれたビルのうえに。

あたしはひとり腰を降ろしている。
















































遥かに響く潮騒の音。
風はなく、海も凪いでいた。
魚影どころか海鳥の影さえない海面に、細い細い糸が光っている。
糸の先端は飾り気のない灰色の釣竿に。
釣竿は、あたしの手に握られている。

ピクリともしない浮きから目をそらし、海を眺める。
大きなアクビを一つ。
なんか眠くなってきた。


「…ご飯だよ〜」


とつぜん声をかけられて、思わず釣竿を落としそうになる。


「いきなり声をかけないでよ! 驚いて落っこちそうになったじゃない!!」


【釣竿が】という主語を省略して、シンジを怒鳴りつけた。


「うえ!? ご、ごめん!!」


光の速さで謝ってくるシンジ。


「…でも、だったら何もそんな瓦礫の上で釣りしないでも…」

「なんかいった!?」

「ううん、何にも」

「フン!」



釣り糸を巻き取り、竿を畳む。
お飾りにもならない小さなプラスチックのバケツを手に、あたしは立ち上がった。


「…何見てんのよ?」

「あ…ご、ごめん!」

「このスケベ」


ワンピースの裾を押さえながら、背を向けるシンジの前まで降りて、バケツごと釣竿を押し付けた。


「さ、行きましょ」

「う、うん」


受け取ってシンジはあたしの後ろを付いてくる。
なにやら釣竿を弄っている気配。


「ねえ、アスカ」

「なによ?」

「…なんでスルメなんて餌にしてるの?」

「ああ、それね。こうすればミサトでも釣れるんじゃないかなーと思って」

「…ははは」


シンジは乾いた笑い声をあげてくれた。
本当に釣れるなら、それは素晴らしいことだ。


「ま、暇つぶしよ、暇つぶし」


振り返って、あたしは自分に言い聞かせるように言う。


「だって、時間は腐るほどあるんだし」













ガスコンロにとろ火が燃えている。
五徳の上にはずん胴鍋。
鍋の中にはクリームシチュー。
お玉で中をかき回すのはシンジ。


「お替り、どう?」

「ちょうだい。あとパンもね」


フランスの有名ブランド製の円形テーブルに腰を降ろしたまま、あたしは顎をしゃくる。
テーブルに押しやったお皿を受け取り、シンジはシチューを大盛りで盛り付けてくれた。


「あ、食パンもうないや。…アスカ、フランスパンでもいいかな?」

「構わないわよ」


あたしは行儀悪くスプーンをくわえて空を見上げる

―――空は夜の色をしていた。

降るような星の中、鮮血の跡を残した月が浮かんでいる。
なのに、周囲は真昼のように明るい。
相も変わらず出鱈目な天気に辟易する。


「はい」

「さんきゅ」


シンジのもってきた皿を受け取って、シチューをかき込む。
コイツの料理は相変わらず味覚に心地良い。
…あたしには、逆立ちしたってこんな料理を作れやしないだろうな。
なんてことを考えてたもんだから、ちょっと険しい顔になっていたらしい。


「…もしかして、美味しくない?」

「ううん、そんなことないわよ。ごちそうさま」


おどおどしながら訊いてくるシンジに、わざとそっけなく告げてスプーンを放り出す。
そのままベッドまで歩いていって横になった。
ちなみにベッドってのは比喩的表現じゃない。
砂浜に、ぽつんと置かれた天蓋付きのダブルベッド。
客観的に見ると凄くシュールな光景だと思う。
あたし専用のこれに寝転がると、四方八方見通しは最高で、風通しも抜群。

シンジが後片付けをしているのを眺めながら、枕元をあさる。
引っ張り出したのは、イワトビペンギンの形をしたファンシーな時計。
お腹の文字盤では、長針がゆっくりと動いていた。
コチコチと一定のリズムを伝えてくる。
おそらくこれは、この世界で唯一時を刻む時計。
あたしとシンジだけの時計――――。













◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇









気づいたら砂浜の上に放り出されていて、その直後に色々されたり仕返したりしたことは今でもはっきり覚えているけれど、積極的に思い返したいものでもない。

いきなりマウントポジションで首を絞めてきたシンジ。
苦しくて、でも力が入らなくて、ビンタをし損ねたあたし。
そして手を離してくれたと思ったら、今度はいきなり泣き出したあのバカ。
まったく気持ち悪いったらありゃしない。

あの後、ようやく力が戻ってきたあたしは、即座に反攻に転じた。
マウントポジションをひっくり返しての流れるような腕ひしぎ逆十字固め。
シンジはピーピー喚いていたけれど更にスピニングトゥーホールドをかけて、トドメは波打ち際に頭をむけてのキャメルクラッチ。
しまいにゃ泣き叫ぶシンジに、死ぬほど反省と謝罪の言葉を吐かせて、あたしは取り合えず満足した。
直後、あたしは力尽きたらしい。
次に目を覚ましたときは、あたしの身体の上にはシンジではなく、毛布がかけられていた。
枕元には、山のような食べ物と飲み物。
誇張表現でなく、本当に食品の山が、立ったあたしの膝の上くらいまで積み上げられていたのだ。
もちろん気を失う前の浜辺にこんなものはなかった。
まさか食べ物たちが一人で歩いてきて勝手に積み上がるはずもない。
その山の向こう。
予想通り、疲弊しきったシンジがバカ面を晒して眠りこけていた。
まだ怒りは覚めてなかったはずなのに、その無防備な姿に笑ってしまったことを良く覚えている。



それからは寝て起きてご飯を食べる生活をしばらく送った。
始終こちらの顔色ばかり気にしているシンジが不快で、しばらく口もきいてやらなかった。
ひたすら考える。
間もなく、あたしの組み上げた推論は情報不足と判断して、不承不承シンジに質問することにした。
詰問というか尋問というか、半ば拷問チックになってしまったのは否定しない。
ついカッとなってやってしまった。
今では反省している。

とりあえずシンジから引き出した情報を加えて、事態の把握に努めた。
このヘタレ虫は、あたしを助けにこなかった挙句、実に中途半端なサードインパクトを起こしたらしい。
遥か水平線の向こうに、巨大化したファーストの顔面があしゅら男爵みたいに転がっているのが証拠だそうで。
ちなみに3回くらい寝て起きたら、ファーストの顔は消えてた。
ついでに変な天候も回復してくれたら言うことなしだったのだけれども、あたしたちのいる世界に根本的な変化はなかった。


「…人が望めば、人は形を取り戻せる。アンタ、確かにそう聞いたのよね?」

「うん。…たぶん」


アスパラベーコン巻きをブッ刺したフォークを突きつけながら聞くと、シンジはおどおどした答え。
いつもの反応に、あたしはため息をついて海を見た。
砂浜にビニールシートを敷いた上で、あたしたちは食事を摂っている。
ピクニックじゃあるまいし―――と悪態をつこうかと思ったけれど、虚しいことだと悟る。
だって誰も見ていない以上、恥ずかしくおもう必要はないから。
きっとこの世界にいる人間は、あたしとシンジ二人きり。
他のみなさんは、もれなく人間としての心の輪郭が保てなくなり、命の海へ還元されてしまったらしい。
それが集まったのが、目前に広がる海。
集合的無意識がうんぬんとシンジに軽く講義してやったけど、あんまりピンと来ていないようだった。
かくいうあたしも、半信半疑だった。
いくらなんでも人間が水になるものかって。
目の当たりにでもしないとなかなか信じられるもんじゃないでしょ?
でも、浜辺に打ち上げられるたくさんの服を見て、どうにか信じる気になった。
中にはミサトの服もあったから。


「これからどうしよう…」

「なにを?」

「そりゃ…食べ物とか、電気とか、水道とか…」

「ん、多分大丈夫よ」


あたしは平然と食事を続ける。
仮説が正しければ、生きていくには何も心配はないはずだ。


「なんで、そう思えるの…?」


シンジは予想通りの心配顔。


「あっきれた。アンタ、本当に気づいてないわけ?」

「???」


あたしは惣菜と書かれたシールが張り付いたビニールを外す。
発砲スチロールのトレイの中身はサバの味噌煮だった。大変美味しく頂く。
これだけでも十分仮説を裏付けてくれるんだけど、シンジを納得させるのは無理か。


「じゃ、食後の一休みをしたら、街の方へ行ってみましょ」






瓦礫の山を越えてしばらく歩くと、思ったより被害の少ない地域に出た。
舗装された道路を行くと、郊外型のスーパーが見えてくる。
シンジは一度来たことがあるらしく、あたしをエスコートしてくれた。
以前、ほとんど無傷のここから、浜辺へ食べ物を運んでくれたのだろう。
さっそくあたしたちが向かったのは、食品売り場。


「…やっぱり」


電気の点いた閑散としたフロアは、明るすぎて眩暈がするほど。
その下の予想通りの光景に、あたしは自身の仮説が正しかったことを知る。


「ほら、これが答えよ!」

「え? え?」


生鮮品売り場を指差すけれど、シンジは首をひねるばかり。
仕方ないので、あたしは手近な棚からセロリを一本掴み上げる。
勢い良く齧ると、瑞々しい食感が口いっぱい広がった。
続いて、目を丸くするシンジの口に、無理やり残り半分を捻じ込んだ。


「どお? 美味しいでしょ?」

「う、うん。まるで今朝獲り立てみたいな………あ!!」

「やっとわかった?」


うなずくシンジに、よろしいとばかりにうなずき返す。
気づいてしまえば至極簡単なことだ。
人はみな、命の海へ還ってしまった世界。
あたしたち二人しかいない世界。
だったら、誰が野菜を獲ってくるというの?
誰も食品の入れ替えもしていないのに、全ての野菜が干からびもせず綺麗に陳列しているのはなぜ?
野菜だけじゃない。
肉も魚も、惣菜品だって、まるで切りたて作りたてのような新鮮さを放っている。


「…アスカの言うとおり食べ物の心配はいらないみたいだけどさ。これってどういうわけなの?」

「自分の頭で考えるって選択肢がないのか、アンタは!?」


一発頭を引っぱたき、シンジの手を引きずってあたしが向かったのは、二階の時計売り場。
予想通りの光景をあたしは受け入れたけど、シンジは素っ頓狂な声を上げてくれた。


「と、時計が全部止まってる…!?」

「ふう。やっぱりね」

「こ、これはどういうこ、イタッ!」

「だから自分の頭で考えられないのアンタは!?」


頭を押さえて涙目になるシンジを引き連れて、置時計コーナーへ。
数あるキャラクター商品の中から、選んだのはペンギンの時計だった。
ペンペンに少しだけ似てた。理由はそれだけ。


「これも止まってるんだけど…?」

「いいから、ちょっと電池出してみなさい」

「う、うん。出したよ」

「じゃ、もう一回、入れてみて」

「うん…? あれ!? 動いたよ、アスカ!」

「ガキみたいにはしゃがないでよ…」


それだけで喜んでいるシンジを妙に微笑ましく眺めてしまった。
その帰り道。


「つまり、この世界の時間は流れてるけれど、現実の世界の時間は止まっているわけよ」

「へえ〜」


感心するシンジだけど、理解しているかとことんアヤシイ。
ため息をついて、もう少し噛み砕いて説明することにする。


「アンタが、サードインパクトとやらを起こした時点で、世界の時間は止まったの。これはいい?」

「え!? そ、そうなの!?」

「…………証拠はね、このみょうちくりんな天気を見てもわかるでしょ? いつまで経っても太陽は出てこないし」

「あ、いわれてみればそうだね」

…少しだけ、こめかみあたりの血管が切れたような気がしたけど、我慢して続けた。


「それと、さっきアンタも見たじゃない。野菜も肉も何も腐ってなくて」

「うん」

「電気だって止まってなかったでしょ?」


ぶっちゃけていってしまえば、あたしたちは時間の止まった世界を動き回っているということになる。
SF漫画やアニメなどでよく展開されるアレだ。
だから、食べ物なども、あたしたちが手に取るまで、その食べ物自体の新鮮さは失われない。
時計などの無機物もそうだ。
あたしたちが使用しないかぎり、停止したまま永遠に劣化することはないだろう。

原因はサードインパクトのせいなのかどうなのか。
それは分からないけれど、ありがたいと思うこともある。
もし世界が止まることなく、人類があたしたち二人だけだったら?

空には飛行機が。
陸には自動車が。
海には船が。
それぞれが乗り手もいないまま暴走し、事故が多発しただろう。

発電施設や処理施設も監督されず、実験施設や管理施設は暴走するかシステムダウン。
社会機構を支えるハード面が全て崩壊したはず。


これを神の力が働いていると認定するのに、激しく抵抗を覚えた。
だいたい宗教は好きじゃない。結局のところ、神さまって存在は、責任を丸投げする相手でしかないとあたしは思う。
まあ、そうすれば楽になれるから信者も増えるんだろうけどね。
なによりそう肯定すると、シンジのバカタレは神の意思の代行者ということになってしまうのが嫌だった。
時計を弄っている能天気な横顔を睨みつける。
一瞬、シンジの背中に翼が生えてる姿を想像してしまった。
それはどう考えても落第天使にしか見えなくて、腹筋が引きつる。


「…? どうかした、アスカ?」

「なんでもないわよ!」


乱暴に言って視線を逸らす。
待ってよアスカ〜と追いかけてくるシンジを無視して歩く。
だって振り向いたら、絶対笑い出す確信があったから。

さて。

とりあえず、生きていける目途は立った。
あたしたちは生きている。
でも、他の人類が戻ってくるのはいつだろう?










◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇









――――それから、長い時間が過ぎていた。

寝転がったまま、ペンギンの時計を撫でる。
この世界での生活サイクルの指針は、これ一つだけ。
昼も夜も関係ない空の下。
自堕落な生活を避けるためには頼るしかなかった。
朝、昼、夜の時間を定める。
きちんと三食を食べて、夜の時間帯は眠って過ごす。
最初のころはアイマスクが必須だったけど、今は慣れた。
浜辺で寝ることにも慣れた。
シンジが砂浜にビニールシートを広げて、その上に敷布団をしいて寝ている光景にも慣れた。
あたしのベッドは、二週間かけてシンジに運搬させた。
だったら何も砂浜で寝起きしなくてもいいんじゃない? とも考えたけれど、どういうわけかあたしたち二人して離れ難かった。
小さなテントを張って、着替えなどの最低限のプライバシーを守れる場所も作った。
あとは快適だ。
雨を気にする必要もない。加えて開放感は抜群。
砂浜全体が自分の部屋になったみたい。
まさにプライベートビーチだ。
でも、はしゃげたのは一日二日がいいところで、あとは特に目的のない日々を送っている。
ただシンジに命令して、シンジを眺めて、シンジと話して。
シンジが何か忙しいときは、一人で暇を潰して生きている。


「ふう」

ため息が出た。
仰向けのまま、正面にペンギン時計を持ってくる。
大きな目のところがカレンダーになっているこの時計。
24時間経過するたびに、律儀に日付は変わっていってくれている。
見つけたときから動き出したそれは、過ぎて行く時間を刻む。
あたしとシンジの二人だけの時間は、もう数ヶ月に及ぼうとしていた。
積もり積もった時間も、表面的にはこの世界を何も変えてくれやしない。
そう、表面的には。


「じゃ、アスカ。今日は五時からするからね。腕によりをかけるからね!」


すぐ隣で声がして、反射的にビクッと震えてしまった。
エプロンで手を拭いながら、片付けを終えたらしいシンジが立っている。
曖昧な表情で疼いた。
歩いて行ってしまうシンジの後ろ姿を眺めながら、一度乱れた心臓は、なかなか正常なリズムに戻ってくれない。
胸の上から押さえつけるようにペンギン時計を抱きしめる。
カレンダーの日付は、12月4日。
あたしの誕生日になっていた。












ぱんぱんぱーんと実に散文的なクラッカーの音が響く。
潮騒にまぎれてしまいそうなほど、頼りなく寂しい。


「アスカ、誕生日、おめでとう!」

「はいはい、ありがと」


鼻ヒゲ眼鏡に三角の帽子まで被ったシンジの顔に、苦笑するしかない。
足元に視線を落とせばパーティーグッズの山、山、山。
ったく、二人きりで盛り上げてどーすんのよ? まあ気持ちは嬉しいし、別にいいけどさ。
なんて思いながらも、あたしは目ざとくハンディカラオケを見つけて引っ張り出していた。


「一番、惣流・アスカ・ラングレー。怨み節、いきまーす」

「…わー、どんどんどん、ぱふぱふぱふ!」

「目ぇえが覚めたと思ったらぁあああぁああ バカが馬乗り首絞めプレイぃいいィ くぉの変態くぉの変態〜」

「ごめんアスカ勘弁してもうやめて」


寛大にも中止してやったあたしは、テーブルいっぱいに並べられた料理を眺める。
どれもこれも凝っていた。高級な食材もふんだんに使ってあるから、間違いなく美味しいだろう。
ちなみにお酒もある。
シャンパンコーナーの、とびきり値札の高いものを適当に選んで持ってきた。
もちろんあたしたちは未成年だけど、こんな世界で法律も何もない。
手当たり次第に抜栓して飲み比べ。
贅沢だとは思うんだけど、あまり嬉しくもない。
制限されてない自由なんて、そんなの全然ありがたくないものなんだと、最近しみじみ考える。


「アスカ、こっちのシャンパンも甘くて美味しいよ?」

「…そう?」


満面のシンジの笑顔に、今日はあたしの誕生日だということを改めて意識する。
そして覚悟も決める。
…でもその前に楽しもう。
受け取ったグラスを一息で飲み干す。
喉から胃にかけてカッと熱くなる。


「ああ、すきっ腹にそんなに…!」
「別にいいでしょ? あたしの誕生日なんだから」


いきなり酒臭い息が出た。


「それより、アンタ忘れてない?」

「え?」


きょとんとするシンジのグラスに、シャンパンを注ぐ。
細かい泡がたくさんの琥珀色の液体の入ったグラスを掲げてみせた。


「乾杯よ、乾杯」

「あ、う、うん!」

「かんぱーい!」

チン、と鳴るグラスとグラス。
あたしは久々に思い切り笑って見せた。
だって、シンジが祝ってくれるんだから。





チキンもビーフも食べ散らかし、十種類もあったケーキも万遍なく手をつけた。
満腹満腹。
身体全体がほんのり温かく、頭がふわふわしている。
ほろ酔い加減ってこんな感じ?
気づくと、素足で波打ち際に立っていた。


「ほら、ミサトもお祝いしてよ〜」


どぼどぼどぼっとエビスビールを海に注ぎこむ。


「かんぱーい!」

「ちょ! 駄目だよ、アスカ!」


シンジに取り上げられた。ちぇっ。


「ああ、もうこんなに酔っ払ちゃって…」

「酔ってらい! 酔ってらいよ〜?」


肩を貸してもらって、ベッドまで。
ごろんと横になるのが気持ちいい。


「う〜お空がぐるぐるまわるろぉ〜」

「…二日酔いになっても知らないよ? いま、水もってくるから」

「いっちゃらめ〜」


シンジの袖を掴む。


「でも」
「あたしが眠るまで、いっちゃらめ〜」

「…うん、わかった。わかったよ」


ベッドが少し沈み込む。腰をかけたシンジが、見下ろしてくる。
優しい眼差しを見ていると、なんか腹が立ってきた。


「らによ! そんな保護者みたいな目ぇしてんじゃらいれろ!」

「い、いや、僕はそんな…」

「確かにあたしら二人きりらけろね、アンらしか男手ないけろれ、調子のってんじゃらいれろ!」

「別に調子にものってないってば…」

「うるはーい! さからうんららいれろ!?」

「…はい、ごめんなさい」


うん、おどおどした声と態度。
いつものシンジだ。
シンジはこうでなくちゃいけない。
こうじゃないシンジじゃなきゃ、訊いてあげない。


「しんり〜?」

「なに?」

「アンら、あらしのころ、好きれろ?」

「…え」


シンジは、一瞬だけ呆気にとられたように思う。
それでも笑顔で、


「はいはい、好きだよ」

「らによ、酔っ払いらと思って〜…」


袖を掴む手から力を抜いていく。


「真面目に…こたえ…れ…」


瞼を閉じる。
すぐに行ってしまうかと思ったけれど、シンジは立ち上がらない。
むしろ躊躇うような気配が伝わってきた。


「…僕、アスカのこと、好きだよ。本当に」


シンジは、真面目な声で呟いた。
あたしが全神経を聴覚に集中しなきゃわからないくらい小さな声で。
集中力はそのままに、次のアクションへ移る。
ベッドから腰を浮かす寸前のシンジの腕をがっちりキャッチ。


「わああああああ!?」


悲鳴を上げるシンジは、気づいたときはベッドの上。そしてあたしの身体の下。
馬乗りのまま、顔を近づける。


「んー、聞ーぃちゃった、聞いちゃった♪」

「…アスカ、まだ酔ってる?」

「ふん、あの程度で酔うわきゃないじゃない」

「うそ!? んじゃなに? さっきのは全部…!?」

「そ。なかなかの演技でしょ? ラズベリー賞くらいもらう自信はあるわ」

「それって最低映画の賞じゃ…」

「うっさい」


ピンとシンジの鼻を指で弾く。
たちまち涙目になる顔に、なんかこう背筋がぞくぞくした。
もしかしてあたしってばヤバイ趣味に目覚め始めてる…?


「…ま、確かに言質はいただきました。ごちそーさま」

「………」

「それと、あたしの本心もいったんだからね」

「な…?」


何か言いかけるシンジの唇を塞ぐ。
シャンパンとケーキの味がした。
唇を離す。そのまま顔を下にさげ、シンジの胸に埋めた。
自分でも頬が火照ってるのが分かる。


「仕方…ないじゃない」

「…え?」


呆然といったシンジの声が降ってくる。
あたしは顔も上げず続けた。


「だって、この世界にはアンタとあたししか人間はいないのよ?
 だったら他に選択肢はないじゃない!」

「そう…なんだ」


傷ついたシンジの声に胸が痛い。
心の中で謝って、それでもシンジの答えを待つ。


「…いいよ。構わないよ。僕は、精一杯、自分に出来ることをするから。
 それでアスカが満足できるかわからないけれど。幸せに出来るか分からないけれど。
 こんな頼りないヤツでごめん。情けないヤツでごめん。
 それでも僕は……アスカが好きでいいですか?
 本当に、本当にアスカのこと好きだから…」


顔を上げる。
目と目があわせられないまま、ボソッと言ってしまう。


「ばか…」

「うん、バカだよ、僕は」

「そうじゃないわよ」


上目遣いでシンジの顔を見つめる。
なんか泣き笑いを浮かべていて、胸の奥がきゅんとなった。


「あたしこそ、嘘ついてごめん」

「…嘘?」

「うん、嘘。さっきいったこと全部ウソ」

「あ……。そうか、そうだよね…」

「アンタを好きって以外、全部ウソ」

「………ええっ!? それじゃあ」 


最後まで言わせない。
あたしは再びシンジの唇を塞いだ。



















…ささくれ立った心がすっかり癒されていたことに気づいたのは、いつころだったろう?
それは、たぶん、シンジに対してコンプレックスを抱いたころから。
甲斐甲斐しくあたしの世話を焼いてくれたのは、最初は当然だと思っていた。
だって、そうでしょ?
シンジがこの世界の創出責任者なみたいなもんだし。
そしてあたしは被害者みたいなもの。
だから、どうしても最初は斜に構えていたあたし。

でも、シンジが一生懸命働いてるのを見ているうちに、自分が情けなくなってきた。
あたしはシンジに世話してもらわなきゃ生きていけない駄目な子に見えてきた。
頭脳労働的には、シンジの数十倍上を行ってる自信はあったけど、こんな世界じゃ、今のあたしの能力なんて、毛ほども役に立たない。
それなりに体力に自信はあったとけど、病み上がりということもあって肉体労働の一切をシンジが片付けてしまう。
他にあたしに出来ること、と思っても、女の子らしい仕事も、全てシンジが片付けてしまう。
炊事、洗濯、料理、ほぼ完璧。
あたしの方が自信喪失してしまうような見事っぷり。
コンプレックスを感じて、感じてしまっている自分に愕然とした。

気づけば、あたしはシンジを憎むのを止めていた。
むしろ尊敬の眼差しで見たことも少なくない。
ベッドを分解して浜辺まで運ばせるなんてあたしのわがままを、愚痴もこぼさずにしてくれたことには本当に感謝している。
たとえそれがシンジの贖罪だったとしても、もうあたしは十分許していた。
むしろ余剰な罪滅ぼしは、愛しさに姿を変えてあたしを包んでくれた。
あたしだけを、包んでくれた。


…選択肢がないなんていって、ごめん。
本音をいうと、こんな世界も嫌いじゃない。
二人だけが良かった。二人だから良かった。
二人きりなら、シンジはあたし以外の誰も見ないだろうから。
あたしだけを見てくれると思ったから。

でも…そんなの杞憂だよね?
だって、シンジは、これからもずっとあたしだけを見てくれるんでしょ?

だから――――。




















「…本当に、僕なんかでいいの?」

「ううううるさい! もう二度と僕なんかっていったら、ぶっ殺すわよ!?」

「ご、ごめん」

「謝るのも禁止! ………って痛っ!!!」

「い、痛かった!? ごめん!」

「…だから謝るなっていってるでしょ!? つつ…」

「じゃあ、えーと…。アスカ、好きだよ」

「…………両極端な男よね、アンタは」

「は、はは。だめ、かな?」

「…繰り返してよ。アンタの心臓が止まるまで」




















ベッドの上から空を見上げて、ぐったりと呟く。


「産めよ増やせよ大地に満ちよ、か…」


隣でもぞもぞとシンジの動く気配。


「…アスカ、いまなんかいった?」

「うるさい、この鬼畜」

「う、ごめ…」

「だから謝るなっていってるでしょ?」

「アスカ、好きだよ」

「…あうう………って、はっ!? そ、それはもう口に出さないでいいわよ! 心の中で唱えてなさい!」


痛む腰を摩りながら、あたしは邪険にシンジを押しやる。
シンジのヤツ、中性的な顔立ちで、体毛が少なくて、筋肉質でもなくてなよなよしてると思ったら。

何気にすっごいタフだった。

もちろん、あたし自身の絶対的な経験数が不足してることもあるだろう。
でもそれをいってしまえば、シンジだって経験不足なはずで…。

これから先の繰り返しを想像すると、正直背筋が寒い。
ま、まあ時間はたっぷりあるんだし。なんとかなるんじゃないかな…?


「ねえ、アスカ、これからどうする?」

「…疲れたから眠るに決まってんでしょ、バーカ!」

「シャワーとか浴びにいかなくても大丈夫?」

「んなもん、あとあと」

「あ、アスカ…!」

「あー、うるさい! もう何も聞えない!」


気恥ずかしさもあって、タオルケットを頭から被る。
なのに、シンジはしつこく肩を揺すってきた。


「アスカ、アスカ、アスカ…!」

「あーシツコイわね! いい加減にしてよ! 女の子の身体は男と違ってデリケートなんだからね!?」

「ち、違うよ、そうじゃなくてね…!」


シンジの指差す方向。
海が広がる方向。








ざば


ざばざばざば


ざばざばざばざばざばざばざば 







連鎖する音。
なお音の続く方向を見て、あたしは絶句した。

海から次々と立ち上がる人間。
続々と立ち上がる人間の群れ。

先頭の一人が、こちらに歩いてくる。
全裸の女性だった。
こっちも二人して裸だったから、恥ずかしいとは思わなかった。
それでもタオルで前を覆ってしまったのは、良く見知った顔だったから。


「ミサト…さん」


素っ裸のまま、シンジが震える声を出す。


「ただいま、シンちゃん」


濡れた前髪を掻きあげ、ミサトはにっこりと微笑んだ。


「…本物のミサトよね?」

「失礼ねえ。でも、相変わらずみたいで安心したわ、アスカ」


ようやく嬉しさがこみ上げてきた。

…還ってきてくれた。
人類が戻ってきてくれた。
あたしとシンジが気持ちを確かめ合った以上、二人きりの世界はもう必要じゃない。
絶妙なタイミングに、神様以外の何かに感謝する。
これで、止まっていた時間が、正常な世界が動きだすんだ。

すぐにでも立ち上がって抱きつきたかったけれど、身体の痛みとミサトの台詞があたしをベッドに釘付けにする。


「そうそう。お誕生日、おめでとう、アスカ」

「…え?」


…なんでミサトは、今日があたしの誕生日だということを知ってるのだろう?
ずっと、ついさっきまで命の水になっていたはずなのに…。

おそろしい考えが脳裏に去来する。
ひょっとして、ひょっとして。
人間は心の輪郭を保てなくなって個体を消失、命の水に還元された。
でも、それと個人の意識の消失は別問題だとしたら?
命の水になった人々が、あたしたちとコミュニケーションを取ることはできなくても、観察することが出来たとしたら―――?

全身から血の気が引いた。

それの意味することはただ一つ。
浜辺で生活していたあたしたちの生態は、全人類に丸見えだったってこと…?


「あの…ミサト、もしかして…?」

「んー? 違うの? ほら、枕元の時計の日付、今日なんでしょ? アスカの誕生日じゃなかったっけ?」

「…あ、あははは。そうよ! そうよね!? 今日はあたしの誕生日よ、ええ!」


胸をそっと撫で下ろす。
良かった、どうやら予想は外れていたようだ。
きょとんとした顔で見てくるシンジに、少しだけ腹が立つ。
まさに無知は力だわ…。
これで一件落着。
そう思ったのに。


「あ、そうそうアスカ。ビール、ご馳走さまね」
「………!!」


あたしは、なぜかシンジの横っ面を思い切り殴り飛ばしていた。























…こうして12月4日は、あらたな人類が歴史を歩み始めた日として、長く人々の記憶に留められることになる。
後年、全人類の意識が統合されるという史上初めての集団体験を、個人的な観点と見解としてまとめたものが、幾つも出版、発表された。
それらの記録のなかに、たびたび一組の少年少女の描写が散見されるが、国連に提出された公式報告では一切言及されていない。












2007/12/4




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