自分の家庭環境が一般的でないということは薄々気づいていた。

だからといってそれは卑下には繋がるものでもないということも理解している。

むしろ、女手一つで自分を育ててくれる母親を誇りにすら思っていた少女時代。

飽くなき探求心を日々のたつきとまで昇華させた頭脳。

我が母親ながらそれは刮目に値し、憧憬の眼差しを注いだのも一度ではない。

母と同じ道を選んだ時も、ずっとその背中を追っていくことを確信していた。望んでいた。

栄枯盛衰の理に従い、いずれ追い抜くにしても、それがずっと未来であることを願っていたのは本当。

なのに。

親子二人で、一人の男を愛した―――。

母は確かにあの人を愛していたように思う。

自分だって彼を愛していた。

しかしあの時の自分の感情は、母に対する幼稚な対抗意識が混在していたことも否めない。

ただ、確かなこともある。

当時のあの人は親娘二代に渡りその頭脳を利用していただけだった。

そして自分は、亡き母に対する優越感と共に、彼の背中に記憶にもない父親の背中を求めていたこと。

大人の付き合いと割り切るには冷たすぎる。恋愛と呼ぶにもまた齟齬が大きすぎたあの時代。

これじゃあミサトを笑えないわね。

クスリともらし、リツコは灰皿にバージニアスリムの半分以上残ったそれを擦りつける。

増税やら過剰な禁煙キャンペーンの影響もあるけれど、最近は滅多に吸わなくなった。

独身時代、煮詰まると日に二箱は楽に開けていたはず。

いつしか喫煙しなくなったのは、自分自身の健康もあるだろうけど、もっと別の理由があった。

その理由に想いを馳せるたび、なんとも背中がむず痒いような嬉しさが胸中を暖かく満たしてくれる。

反面、リツコは少し憂鬱な気分になる。喜びが大きいゆえの揺り返しのように。

その度に煙草に火を灯し回想にふけるのは、ある意味悪循環と言えるのかも知れない。































80万ヒット記念いかりけすぺしゃる


旧姓赤木リツコの憂鬱
























「あ、お疲れ様です、碇博士」

「ご苦労さま」

ネルフ本部を闊歩するリツコに、すれ違う女性職員が挨拶をして通り過ぎる。

24時間人の出入りのある職場である以上、朝と夜の挨拶ははっきり区分されず、互いを労うものが多い傾向にある。

事実、今は午前11時過ぎという時間帯であるからとして、挨拶としては適当かつ無難なものだろう。

問題は、その呼称である。

碇リツコ。

変わった姓で呼ばれる喜びは、初期のころの感動こそ薄れはしたが、それなりに胸をときめかせてくれる。

最近では、その呼称に慣れてきた自分に気づき、ほくそ笑むことさえある。

たいていそんな時、近くを通りかかった一般職員は、回れ右して全力で歩き去ることがしばしばだ。

精神衛生上、自分がどんな顔で笑っているのか、リツコは詮索しないことにしている。

ところで、姓が変わったということは、すなわち婚姻したからである。

それも、くだんの碇ゲンドウと。

リツコ自身の内情としては、過去のことを一切気にしていない。それでも間違いなく彼を愛していると思う。

ゲンドウとしてみれば、一命を賭したあの計画が水泡に帰してからは、まるで憑き物が落ちたよう活力を減衰させていた。

その時、必死に寄り添い彼を支えたという自負がリツコにはあったし、ゲンドウもゲンドウで、寂しげな表情を浮かべながらも本心を吐露するようになってる。

要は、お互いに不器用な愛し方であったということだ。この心の変遷ばかりは余人の理解の及ぶところではない。

また、恋愛の形と帰結も人それぞれである。よって、リツコ自身、この結末は望むところであり、十分に満足していた。

…問題は、他人という人種は、理解が覚束なくても詮索はしたがるということだ。

なんで司令と赤木博士が?

婚約発表当初、ネルフ職員の間でこの話題が俎上にのぼらない日はなかった。

また、この問い掛け自体も、非常にフクザツな意味を内包している。

18歳という年齢差は、まあ一般的な許容範囲内だ。

赤木リツコ自体が司令の愛人だったとのウワサも薄々浸透している。

なのに皆が一様に囁きかわすのは、一つに、彼、彼女らほど一般家庭のイメージを想起しにくい組み合わせはなかったからだろう。

碇ゲンドウが家庭放棄をして久しいのは、息子に対する保護者の役割を葛城ミサトに委任していたことからも窺い知れる。

また、発令所での会話や初号機との通信内容を耳にした職員たちの間では、彼らに親子としてのコミュニケーション能力が薄いのは明らかだった。

冗談や軽口を一切叩かず、鉄面皮を晒して腕を組む鬼の司令。いるだけで陰鬱たる気分をもたらすネルフ最高責任者。

多少割り引くにしても、それがネルフスタッフの総意であった。

となれば、このような人格の持ち主がどのような家庭を営むというのか?

いくら想像の翼を働かせても、幸福な状況を思い浮かべられない。

いわんや、相手が赤木リツコ博士とあっては。

一方、リツコにしても、これまた家庭的なイメージから縁遠い。

眼鏡をかけ、白衣を纏い、コンソールに向かい合う第一線級の研究者。

明けても暮れても研究第一。真理の探究こそ我が人生。

そのような研究者に対しては偏見の目が向けられるのが常であり、大概が生活能力に乏しいと思われている。

困ったことにこのレッテルは概ね正しいので、リツコも声高に偏見を訂正する気にはなれない。

家事能力が絶無とはいかなくても、得意ではないから尚更だ。


『三度の飯は施設の食堂。お風呂は施設の大浴場。寝泊まりは執務室か研究ラボ。いやー、羨望に値する新婚生活ね♪』


旧姓葛城ミサトにそう揶揄されたときは、本気で彼女との親友付き合いを考えたくなったリツコであった。

また、この親友の想像通りの生活でも構わないと思っていた自分に赤面する。

家庭のあり方は人それぞれと抗弁することもできたが、そこはそれリツコも女性である。

小綺麗かつ瀟洒な住まいで、新婚家庭の朝の団欒というものを一度はやってみたい。

他にも、体裁というべきものもあるだろう。組織の長が非常識な生活を送っていては、部下たちに示しがつかないという面もある。

そこで新妻であるリツコがゲンドウをどう説き伏せたのかは割愛する。

結果として記せば、出勤してきたネルフ職員一同、誰一人例外とせず非常に驚いたということだ。

一般職員の通勤にも使われるジオフロント内空中モノレール。

そこから見下ろす広大な自然と、近代科学の粋を集めたネルフ本部施設は、ちょっとした壮観である。

なのに。

ネルフ本部脇にちょこんと鎮座する日本家屋。それも平屋建て。

ハッキリ言って違和感バリバリである。

どっかの元三重スパイが勝手に作ったスイカ畑は除いて、目立つことおびただしい。

つまりはそこが、ゲンドウ・リツコ夫妻の新たな愛の巣であった。

しかも、いたずらにこの場所を選んで建設されたわけではない。

ネルフの全職員が驚愕したように、具体的な視覚効果・宣伝の役割も果たしている。

これは、ミサト以外にも、碇夫妻が本部施設で陰鬱な新婚生活を送ると予想していたフラチな職員への掣肘の意味もあったのだ。

にこやかに新居引っ越し祝いの招待状を差し出してくるリツコに、さすがのミサトも二の句を継げなかったとか。





話を戻す。

白衣を翻してリツコが向かうのは、自分のラボではない。かといって、親友のオフィスでもない。

更にいってしまえば、夫であるゲンドウが常駐している執務室でもない。事実、夫はそこにはいない。

現在、彼女が向かっているのはネルフ第三食堂である。

ラウンジからの眺望が素晴らしい食堂であるが、一番人気である理由はそれだけには留まらない。

とある時期を経て異様に増えたデザートバリエーションは、女子職員のハートを鷲づかみ。

月に一度行われる新作試食会のチケットを求めて、血みどろの争奪戦が繰り広げられていると聞く。

それもこれも全てゲンドウの差し金なのであるが、別に彼が女子職員の好感度を得るために行ったわけでもない。

後述するがハッキリ言ってエゴイスティック極まりない理由である。

そしてそれを笑って許容してしまうのが、現在のネルフの雰囲気であった。

そこに、現在、彼女の夫は待っているはず。

知りつつも、リツコの歩みは心なしか遅延する。

夫と一緒に彼らと会うのは嬉しくないわけはないのだ。

しかし、僅かながらのためらいも生じるのを否めない。

断言してしまえば、それが唯一リツコの抱えている憂鬱と言っても良い。

きっと今頃食堂で待ちかまえている面々を、リツコはつぶさに思い浮かべる―――。









旧姓六分儀ゲンドウ氏が既婚者であるのは厳然たる事実である。

妻である碇ユイが鬼籍入りしている以上、赤木リツコとの婚姻に、法的にも人道的にも、なんら憚ることはない。

ただ、碇ゲンドウには亡妻との間に息子が一人。

いわゆる連れ子にあたる。

その息子本人ともリツコは面識があった。むしろありまくりといっていい。

碇シンジ。エヴァンゲリオン初号機パイロット。サードチルドレン。

ゲンドウと再婚することは、いわばその息子であるシンジの義理の母、継母になるのと同義である。

シンジの人となりは熟知していた。ネルフへ訪れたばかりの気弱で内罰的な頃に比べれば、後年ずいぶん逞しくなってきたと思う。

その変化をつぶさに見てきた身としては、それなりに身近な存在であったと主張するのもやぶさかではない。

したがって、彼と義理の親子関係になることに、リツコは異存はなかった。

シンジも特に異議を口にしていない。しばらくぎこちなさはついて回ったにせよ。

わずか15歳という年齢差も、まあ親子と抗弁できない溝でもない。

むしろ他の溝の方がなかなか埋めがたく、一時期リツコを悩ませた。

しかしそれも今となっては時間が解決してくれるだろうと楽観している。

ゆえにリツコは、彼が若くして結婚するということにも反対はしなかった。

その相手が、元同僚であるセカンドチルドレンなのには、ああやっぱりと納得したことをおぼえている。

むしろ嫁になるはずのアスカの方が子供が欲しいと言ってきたことにこそ驚いた。

結果として、まだ婚約すらしていなかったゲンドウへ便宜を図って了解を取り、応援する形になったのは、リツコ自身がアスカに羨望をおぼえ、少なからず自己投影をしてしまったからに違いあるまい。

とにかく、その時のリツコはアスカの心情ばかりを慮っていたのは間違いないだろう。

直後に巨大すぎる落とし穴が存在するのも知らず。












「なーにやってんのよ、リツコ?」

背後からの声に、リツコは思わず背筋を震わせてしまう。

現在、彼女をこの名で呼び流す人物は夫も含めわずか三名。

残りの二人は女性であるが、この声は親友のものではない。

おそるおそる振り返れば、そこには予想通りの人物が立っていた。

碇アスカ。旧姓惣流。

リツコと同じ姓を冠しているのは、義理の息子の嫁であるからに他ならない。

思わずリツコは息子の嫁の全身をマジマジと眺めてしまう。

相も変わらず傲岸不遜な佇まいに自信に溢れた笑み。

自慢の金髪は陳腐な照明の上でも光り輝き、その自然な美しさは過去に自分が染めていた頭髪のそれとは比べるべくもない。

「アスカこそ、なにやってるの?」

内心の動揺を悟られぬよう、逆にリツコは訊ねる。

するとアスカの青い瞳は呆れたように歪み、

「あのね、いつまで経ってもリツコが来ないから、探しに出てきたのよ!」

まあ、あたしもトイレに行きたかったから、ついでだけどさ。

悪びれずいってハンカチで手を拭くのを再開するアスカ。

「ったく、みんなもう集まっているんだから!」

「…全員?」

確認するリツコに、

「そ。呼んでもいないのにミサトまで来てるわよ」

あっさり告げてくるアスカの前で、碇博士は回れ右をしていた。

「ちょっと! どこへ行くのよ!?」

白衣の裾を掴むアスカに対し、リツコは形振り構わず首を振る。

「嫌よ! ミサトがいるなら余計嫌!」

「えー? みんな楽しみにしてるのよ?」

ブーブーいいながら口元が笑っているところを見ると、アスカも事情は察しているらしい。

「だって、食堂には他の職員だっているんでしょ? 絶対に嫌よ!」

一体、なにがここまでリツコを必死にさせているのだろうか。

もはや涙目の義母に対し、アスカはにっこりと笑った。

「大丈夫、大丈夫。リツコの懸念は分かってるわ。ちゃんとばっちり対策してきてあげたからさ」

「…本当なの?」

「本当よ。だから、安心して、ね? 子供たちも会うの楽しみで来てるんだから」

請け負うアスカに、リツコはまだ不安な様子。

それでも、アスカが渡してくれた新しいハンカチで目尻を拭くと、連れだって食堂の入り口を潜る。

食堂の一角、六人掛けのテーブル。

そこには、夫であるゲンドウと冬月コウゾウが並んで腰を降ろし、対面にはシンジと彼に抱えられた三人の子供の姿があった。

そのテーブルを遠巻きにするように他のネルフの一般職員。

全員がなにげない風を装ってはいるが、例のテーブルに対し耳を峙てているようにリツコには見えた。

隣のテーブルでかけうどんを啜りつつ露骨にニヤニヤ笑いを浮かべているミサトを黙殺し、リツコは夫の隣に腰を降ろす。

「ご無沙汰してます…」

腕の中で、二歳半になんなんとする次男坊をあやしながらシンジが微笑む。

アスカも彼の隣に腰を降ろし傍らのベビーカーを覗き込めば、そこにいるのはようやく一歳を超えたばかりの長女だ。

さらにその反対側に座っていた、シンジとアスカの長男坊の元気いっぱいの大きな声。

「お…じゃなくて、リツコさん、こんにちわ!」

「ほう、偉いな…」

名前を呼ばれたリツコが茫然とする中、身を乗り出したゲンドウがワシワシと初孫の頭を撫でている。

物怖じしない長男坊に対し、やや人見知りのきらいのある次男坊は父親の胸にしがみついたまま。

ベビーカーのアスカへ視線を向ければ澄ました顔でコーヒーを啜っていた。

片目でウインクしながら「ね、大丈夫でしょ?」と青い瞳が無言で語っている。

思わず安堵の息をつくリツコの目前で、なお頭を撫でられる初孫は、元気いっぱいにゲンドウに抗議。

「くすぐったいよ、おじいちゃん…」

ゲンドウへの初孫の呼称。

『おじいちゃん』。

その対比となるべき呼称は、当然リツコへ向けられるものだ。

そしてその呼称こそ、最もリツコを恐れさせ、憂鬱にさせるものだと極言してよい。

すなわち、

『おばあちゃん』

である。

ゲンドウと夫妻になった以上、息子の子供からそう呼ばれるのは、ごく自然の成り行きだ。

しかしながらその息子は義理の息子。くわえて年齢差はわずか15歳。

となると、どのような結果が生じるか。

なんとリツコは、四十歳前でおばあちゃんと呼ばれることになるのだ。

覚悟がなかったとはいえ、これは精神的にキツイ。

もともと研究一筋で、健康状態にそれほど気を配らなかった独身時代。

その不摂生のツケとでもいうべきものが、ここ最近お肌に厳しい。

加えて、これを耳にしたミサトからからかわれたのも相当応えた。

また、この呼称は一般職員の耳に及ぶにつれ、様々なうわさ話となって流通されているようにも思える。

曰く、

『碇博士も最近ずいぶん落ち着いてきたわねえ』

『そりゃあそうよ、なんせ三人の孫のお婆ちゃんですもの』

うわさをした本人たちに悪意はないのかも知れないが、この手の話題を聞き及ぶたび、リツコは自身が一気に老け込んだような感触をおぼえるのであった。

また、若い女性職員の輪から、そことなく避けられているのも拍車をかける。

輪の中心にいるのはたいていミサトだから間違いない。だからといって面向かって抗議するのも大人げない。

義理の息子の子供たちを責めるのも、全く筋が違う。

まだ小さい彼らに、そこはかとなく察して欲しいと願っても、それも無理な相談だ。

つまるところ、打つ手は無し。耐えるしかないのだ。

孫たちが本部に遊びに来るたびに、リツコが憂鬱になるのも頷ける話だろう。

ところが、今日は違う。

八方ふさがりだと思っていた状況で、リツコはなんとアスカという強力な味方を得たのだ。

そう、まだ小さいといえ、子供に言い聞かせられるのは母親しかいない。母強しである。

リツコも思い切って孫の頭へと手を伸ばす。

「そう…お母さんのいうことを良く聞いているのね、偉いわ」

優しく頭を撫でられ、シンジの長男坊は言われたことは理解してないが褒められたことは分かったらしい。得意満面の笑みを浮かべている。

「ご褒美に、私がいっぱいご馳走してあげるわ。好きなものを頼みなさい」

メニュー表を広げたリツコであったが、ああ、もう面倒くさいわ、というが早いがウエイトレスを呼びつける。

「ちょっと、リツコさん…!」

シンジたちが止めるのも聞かず、手当たり次第に注文した。

しばらくしてテーブルに運ばれて来たものを見て、リツコは絶句、他の面子はヤレヤレと天を仰ぎ、子供たちだけが歓声をあげたのも無理なからぬこと。

六人掛けのテーブルにも関わらず、そこからはみ出さんとせんばかりの色とりどりのスイーツの数々。

味も折り紙付き。加えてこの種類の多さが、女性職員垂涎の的なのはいうまでもない。

常軌を逸しているのは、全てゲンドウが来訪した孫たちを迎える為だけに強引に追加したメニューという事実だけである。

「あの…リツコさんが注文する前も、父さんたちがはりきって注文してたんです…」

シンジが苦笑いをしながら、リツコの注文よりあからさまに多い品数の理由を説明してくれた。

リツコは赤面したが、大喜びでジャンボゼリーとホットケーキに貪りつく初孫を見れば、微笑まずにはいられない。

シンジは次男坊にも食べさせようと膝に抱えなおし、アスカは長男坊の口についたチョコをナプキンで拭ってやる。

「ほら、そんなに急がないで、落ち着いて食べなさい…」

ところが拭うたびに汚れが広がるものだから、これには冬月・ゲンドウ両名も、普段の重厚さをかなぐり捨て苦笑するしかない。

和やか空気の流れる中、離れたテーブルで一人つまらなそうにしているのがミサト。

ある意味、この場で唯一の不道徳者は、まだ真っ昼間にもかかわらず大ジョッキを呷っている。

そんなとき、ぐずり始めたのがベビーカーの末っ子だ。

両親そろって自分にかまってくれないのに機嫌をそこねたのか、それとも単なる気まぐれか。

娘が泣き出す一歩手前と承知しつつも、アスカは長男坊がウルトラマウンテンパフェという大物に押しつぶされそうになっているため、手を離すわけにはいかない。

「リツコ、お願い…!」

シンジは次男坊にかかり切りである以上、残った面子では最も適当な人選といえた。

複雑そうな、ともあれば不満そうな表情を浮かべる夫と冬月を尻目に、リツコはベビーカーに駆け寄った。

そのまま抱き上げあやす姿は、ずいぶん様になっている。

傍目には、親子と主張しても違和感はないだろう。それくらい今のリツコは若々しく見えた。そして事実若いのだ。

そして、このような機会が増大したため、孫ら乳幼児の健康も鑑み、リツコは煙草を止めたのである。

紫煙の匂いをプンプンと身体に染みこませていては、なかなかに幼児の笑顔は引き出せない。

その効果というわけでもあるまいが、リツコの腕の中の末孫の表情は見る見る明るいものになる。

あまつさえ、まだ生えそろってない歯を覗かせて満面の笑みを浮かべたではないか。

さらに上機嫌の末孫は、祖母であるリツコに縋り付くようにして、元気いっぱいにこういった。






























「ばぁば♪」






























リツコは凍り付く。

喧噪の中の聞き間違いかと思い、もう一度末孫の顔を覗き込む。

この碇家長女は、身じろぎしながらさらに元気一杯の声でいってくれた。

「ばぁば♪ ばぁば、ばぁーばぁ」

食堂の喧噪を圧して響き渡る声に、皆が固まる。

一瞬、静まりかえる食堂。

僅かな間をおいて、元通りの喧噪が戻ってきたのは、そこに居合わせた全員の思いやりかも知れない。

それでもなお続く上機嫌の呼び声。

「ばぁば、ばぁば、ばーばぁ!」

アスカは、あちゃーという表情で天を仰ぐ。

この状況はいわば不可抗力とでもいうべきもの。いくら母親といえどさすがに一歳児に口止めは敵わない。言い含めるなど不可能だ。

そして実際に祖母である以上、リツコに出来るのはせいぜい泣き笑いの表情を浮かべるだけ。

ところどころで職員が笑いを堪えるように顔を伏せて肩を震わせていたが、それももはや彼女の滲んだ視界には入らない。

ただ、ミサトだけが大喜びで、椅子にふんぞりがえり、パンパンとドライビングシューズの底を打ち合わせている音が響いていた…。















このように、碇リツコ博士の憂鬱は、あと数年ついて回ることになる。

また、リツコ自身も、親友の「もう手遅れじゃないの〜?」という意地悪な声にめげず、必死で肌の手入れを始めた。

激務の合間を縫って、エステとジム通いも行ったらしい。

もっとも孫たちが長じるにつれ、この憂鬱も霧散した。

孫たちが皆気を使える年齢になったこともある。

しかし実際に彼らの目にも、リツコをおばあちゃんと呼ぶのは憚られるくらい若々しく見えたのである。

それがミサトの言うところの「無駄な努力」が結実したものなのかは定かではない。

それでも後年、リツコが稀に孫の小学校の送り迎えなどをした際、「若くて綺麗なおばあちゃん」という眼差しに、やや倒錯した快感をおぼえるようになったのもまた事実。

いわば代償行為であるかも知れないこの精神防衛機構は、その後も立派に稼働し続けることになる。






碇リツコ。

世界に誇る若き総合科学者にして、三人の孫持ち。

いかな彼女とて、還暦前に自身が曾お婆ちゃんになるという未来は予測するべくもない。

















(2006/5/18)





戻る