等身大のハピネス


























「あら、加持さん? いらっしゃい!」

満面の笑みを浮かべて迎えてくれたアスカに、加持リョウジはこの男にしては珍しく戸惑ったような表情を浮かべた。

「さあ、どうぞ。あがってあがって!」

そう促されて、これまた珍しくためらう加持である。

碇家を訪問する回数は、妻であるミサトに準じて頻回だ。

しかしながら単独の訪問となると、皆無でないにせよ希有な例に属することになる。

今日のように出張から帰ってお土産を届けるパターンは通例のことになるが、出迎えにアスカが出てくるのも異例だ。

普段はエプロン姿のシンジが出てくるはずなのに。

まあ、いいか。どうせシンジくんは、奥にいて手が離せないのだろう…。

そう高をくくって玄関に上がり込んだ加持は、やけに広いわりに手入れの行き届いた廊下を進む。

更に広く豪華なリビングへ通された直後、加持は微かな苦みを脳の端に感じた。

リビングと続きのキッチンには火の気がない。それはシンジの留守を意味するものではないか?

それでも一応加持は訊ねた。

「…シンジくんは留守なのか?」

「ええ。夕方まで用事あるんだって」

キッチンの陰からアスカの返事。カチャカチャ音がするのは、ティーセットでも準備しているのか。

「そうか…」

つぶやき、加持は軽く後悔を覚える。

だからといって帰るわけにもいかない。突っ立ていても仕方ない。

気が進まないながらもコートを脱ぎ始めた加持は、遙か下方から小さな影が見上げていることに気づく。

「…こんにちは、ミコトちゃん」

軽く上体を曲げ、加持は小さな頭の真っ黒な髪をかき回す。

すると訝しげな表情をたちまちゆるめ、碇家長女はまるで花が咲くような笑みを客人に向けてきた。

この子は間違いなく将来美人になるな…。

感想に付随して頬を弛めながら、加持は小柄な身体を抱き上げる。

屈託なく笑う四歳になるこの娘は、本当に可愛らしい。

いやいや、ウチの子だってそう負けたもんじゃないぞ?

小学一年生になった自分の娘の姿を思い浮かべ、反射的に弁護してしまう加持である。

そろそろ生意気なことをいうようになってきた娘は、親の贔屓目を省くにしても十分可愛いと思う。

本人は、父親譲りのたれ目が気に入らないらしいが…。

キャッキャッと騒ぐ碇家長女を抱えていると、お盆をもったその母親がやってきた。

「加持さん、紅茶でいい? それともコーヒーのほうがお好み?」

「ああ。何でもかまわんよ」

豪華な革張りのソファーに腰を下ろしながら、腕の中の大人しい娘も傍らに座らせてやる。

慣れた手つきでテーブルにカップやらシュガーポットやらを配るアスカを見て、加持はしみじみ思う。

ずいぶんとアスカも落ち着いたものだ。そりゃあ子供を三人も産んだんだしな。

そこで加持ははたと思い至る。

「他の子供たちは?」

碇家には、他に長男次男がいるはずだ。

「そういえば、どこにいったのかしら…?」

お茶を注ぎながら小首を傾げるアスカである。

なんとも適当な返答に、加持は広いリビングを見回してしまう。

50インチ以上あるTVの裏、ホームバーのカウンターの後ろ、机の影など隠れられそうなところはいくらでもある。

かくれんぼ遊びなどにはうってつけだろう。

「こらー! アスマ〜、リュウジ〜、どこいったの〜!?」

お茶を淹れ終えたアスカは立ち上がり、リビングを探し回り始める。

その姿を苦笑して眺め、加持は茶請けのシナモンパフの袋を開けて碇家長女にわけてやった。

そして自らもカップに口を付けようとした時。

ソファーに沈めた尻のあたりにモソリと来た。

「!?」

思わず腰を浮かす加持の姿を見とがめ、アスカはダッシュで戻ってくる。

「ちーょっとすみませんね?」

「あ、ああ…」

ティーカップごと加持が待避すると、アスカはやおらソファーに手をかけた。

半ばひっくり返すようにソファーのカバーを捲ると…。

「なーにやってんのよ、あんたたち!?」

アスカの怒声が炸裂した。

無理もない。ソファーの空洞のスペースにすっぽりと収まるように碇家長男次男が隠れていたのだから。

怒髪天をつかんばかりの母親に、長男坊が半ばおびえるように答える。

「…ぶらいでんごっこ」

「なによ、それは!? いいからさっさと出なさい!!」

叱られせかされ、跳ね起きるように子供たちはソファーの中から出てくる。

むろん、そのまま逃がすアスカではない。がっちりとその二人の耳たぶをつまみ上げている。

「まったく、変な遊びはしちゃいけないていってるでしょ!!」

この家において、母親は絶対の存在である。

まるで子ウサギのようにガクガク震える子供たちが不憫に思え、加持は助け船を出してしまう。

「かくれんぼしてたけど、俺が座ってしまったから出るに出られなくなったんだろう? そんなに怒らなくても…」

加持の言を受け、一応納得する素振りを見せたあと、それでもジロリと息子たちを睨み付けるアスカ。

「…そうなの?」

ブリキのオモチャみたいな動きで首を前後させる長男次男を見下ろし、アスカは軽く息を吐いて口調を変えた。

「まあ、いいわ。とにかく三時のおやつにしましょ」

あからさまにほっとした表情になる碇家長男次男を眺め、加持も改めてソファーに腰を落ち着ける。

全員の前にカップが配られ、加持の分のお茶も淹れ直された。

「いただきまーす!」

元気よく声をあげる子供たちに、アスカも満足げにうなずく。

「はい、おあがんなさい」

モシャモシャとケーキやらなにやらのお菓子をほおばる子供たちの上で、大人たちは会話を交わす。

「加持さん、ドイツへ出張だったんですって?」

「ああ。三日前にかえって来たばかりでね。おっとこれがお土産だ」

「わ〜、ありがとう! 開けてみていい?」

「もちろん」

がさがさと細長い包みを開けて、アスカは感嘆の声を上げた。

「きゃ〜、ドイツワイン! BERNCASTELER DOCTOR(ベルンカステラー・ドクトール)!!」

どうやら喜んでもらえたみたいだ、とこちら安堵の息をつき、加持は説明する。

「セカンドインパクト前の逸品だよ。ネルフの輸送機に便乗させてもらったけど、ま、大丈夫だとおもうが…」

はしゃぐ母親を眺め、子供たちはみな一様に不思議そうな顔をしている。

その視線に気づいたのか、アスカは説明した。

「これはね、お母さんの故郷のお酒なのよ?」

しかしながら、今ひとつピンときていない様子。

結局上機嫌な母親はホームバーへワインを置きに行き、ここぞとばかりに子供たちは席を立つ。

「よし、あっちで遊ぼう!」

碇家長男を筆頭に、次男、長女が続く。

「こらっ、後かたづけしなさい!」

と母親が戻ってくるころには、先頭はドアの向こう、勢力圏外へと脱出を成功していた。

仕方なくアスカは声だけを投げつける。

「遊ぶなら隣の部屋でねー! 二階に上がっちゃだめよー!?」

元気な声の輪唱が返ってきたので、アスカはヤレヤレといった表情になる。

最近は変な遊びばかり覚えてとひとしきり愚痴ってから、苦笑を浮かべっぱなしの加持に向かって、

「ちょっと後かたづけしますから、待っててくださいねー」

腕まくりをして、子供たちが使った茶器を流し台へと運んで行く。

加持は五分も待つ必要はなかった。

新しく淹れ直された三杯目の紅茶を前にアスカと向かい合う。

いざ二人きりになると、加持の胸に形のない不安が鎌首をもたげてきた。

実は、不安というのは正確な表現ではない。

居心地の悪さというか、罰の悪さというか、後ろめたさというか。

それの発生源は重々承知している。

今から10年は昔の話だ。

まったくいい歳になったというのに、そんな昔のことに拘ってどうする?

自分を叱咤してみても、未だ忸怩たる感情が残るのは、アスカと二人きりで話す機会がなかったからだ。

10年前から現在に至るまで。

理性では十分すぎるほど理解しているのに、感情が追従してこない。

全く情けない。仮にそうだとしてもどうなるものでもないだろう。

いや、いっそ、このまま有耶無耶にしてもいいんじゃないだろうか…。

そんなことを考えていたものだから、アスカの不意に発したコメントに、心底驚いた。

「…そういえば昔、あたしは加持さんのことが好き、っていってたわね…」

その独白めいた台詞は、加持の考えていた内容と、ものの見事にリンクしていた。

そう、加持が味わっている苦さはそれに起因する。

あえて例えるなら、家庭を得た過去の恋人と二人きりで向かい合うような背徳的な気まずさ。

なにより、そこから派生する想いが悔恨となり、加持を苦しめている。

急速に加持の脳裏のカレンダーが逆にめくられていく。

まぶたに浮かんだのは14歳のころのアスカだった。

碇姓ではない、惣流・アスカ・ラングレーだったころの彼女の姿。

力強い自信満々の笑み。

比類ない攻撃性。

可憐な花であると同時に脆さも感じさせる二面性。

あの頃のアスカの告白は、子供の背伸びとだと受け止めていた。

誰にだってそういう時期があるだろうし、実際にそれを望んでいるハズもないことを承知していた。

なによりあのころは自身のことで精一杯だった。

…言い訳だ。

あのとき、自分大人だったはずなのに。

アスカが関わり合いだけを求めていることを知っていたのに。

ただ、自分の都合で関わり合いを避けた。

今となって、今だからこそ、考える。考えてしまう。

あのとき、彼女を受け入れれば、何かが変わっていただろうか? 

大きく変わっていただろうか?

そのようなことを考えることは無益と重々承知しながらも、加持は未だその妄執から解放されていない。

軽くまぶたを閉じで、開けた。

目前には今のアスカがいた。

力強い笑みは変わらないが、同時に芯の強さも感じさせる。

攻撃的な雰囲気は、とてつもなく丸くなったと形容していいだろう。

雰囲気にも艶やかさが加わり、ガラスの剣のような冷めた脆さは全て霧散してしまっていた。

結婚したからだろうか。

ならばシンジくんがアスカを変えたのか。

それはもちろんなことなのだろうけど…。

加持は考え込む。だから、アスカの次の言葉に反応が遅れた。

「ドイツ支部はどうでした? まだ何か言ってました?」

「…あ、ああ、古参の職員はボヤいていたよ。平凡な主婦にするのは惜しいってね」

もっともアスカは専業主婦的なことは全然やってないが、との続きを加持は飲み込んだ。

その答えに、ふっとアスカの表情が弛む。

「あの人たちは、いまだにあたしの未来を愛しているのよね…」

次に見せた彼女の儚げな笑みは、なぜか加持をドギマギさせた。

「あっちの人は、みんな昔のあたししか知らないから…」

視線を落とし、アスカは紅茶を啜る。

沈黙が流れた。

加持も口を閉ざしているのは、アスカの発言に思い至ることが多々あるからだ。

いくら本人の意志で日本に留まっていると説明しても、納得しない研究主任がいた。

本部が無理矢理勾留しているのだろうと、加持に食ってかかる技術課長もいた。

それらは皆、14歳までのアスカを知悉していた人物で構成されている。

アスカの将来を嘱望していた連中だ。

いかにアスカ本人が抗弁しようと、昔の彼女は紛れもなく天才少女だったのだから。

わずか11歳のころ偽名で発表した論文が、国内外で多大な評価を受けた実績もある。

その元天才少女は今、しみじみと述懐する。

「…今のあたしはこれで満足してるのに」

あまりに寂しそうな響きに、反射的に加持は口を開いていた。

「そうでもないさ。君に好意を持っているヤツや、幸せを祈ってくれている人もいたよ」

曰く、

彼女が戻ってくるなら、ポストはいくらでも空けるのに、残念だよ。

グリュックスブルク並の豪邸だって準備するんだけどな。

あの子が結婚したって!? 信じられないなあ!!

彼女のハートを射止めたロミオってのは、いったいどんなやつなんだ?

…子供が三人? 冗談だろ!?

などなど。

最後は、『結婚おめでとうと伝えてくれ』と全員が、まるで示し合わせたように口にしていた。

「そっか…」

感慨深げなアスカの声がひどく珍しく聞こえ、加持は今度は目を見張る。

カップを持ったまま硬直していると、隣室へと通じるドアを眺め金髪の主婦はポツリと言った。

「でも、あの子たちの故郷は日本だから…」

次に彼女が浮かべた笑みは、けぶるように優しかった。

加持は低くうなる。

「なるほど…」

確かに彼女には才能がある。しかしその使い道は彼女が選ぶべきだ。

それでも、アスカの才能の発露が妨げられるのを、余人が勿体ないと愚痴るのは止められないだろう。

だから、加持もつい夢想してしまう。

アスカがその気になれば、学歴や社会的地位、容姿までそろった連中からよりどりみどりだ。

なによりまだまだ若く、その先には無限の未来の枝が伸びているように見える。

そしてその枝の先々に、栄光と富の果実が鈴なりになっているはずなのだ。

なのに彼女はそうそうに結婚を決め、すかさず子供を三人も産んでしまった。

それが社会的なハンディを意味するなど明言はしないが、少なくとも世間的なラベリングは終了してしまう。

<昔の天才少女も今はただの子持ち主婦>

いわば、自らの可能性を自分で刈り取ったに等しいはずなのに。

進んで狭い服に袖を通しているに違いないはずなのに。

「加持さん。あたしは今、幸せよ?」

それなのに。

臆面もなく微笑むアスカがいる。

そう、彼女は世間体などどうでもいいのかもしれない。

自分の選択で得た幸せを享受しているのだとその青い瞳は語っている。

子供を産むことが女性の幸せなどという台詞も、今のアスカには少なくとも一片の真理足り得るように思えてくる。

そんな彼女は更に付け加えてきた。

「昔のあたしは、ただ背伸びして、馬鹿みたいだったわ。早く大人になりたくて、加持さんに猛アタックして」

そこで悪戯っぽく微笑まれ、加持は表情の選択に困る。

「でも、結局大人になりたかっただけ、なのよね」

遠い目をしながらアスカは続けた。

「誰かに保証されれば大人になれると思っていた。大人になるってのは、そんなものじゃないのに…」

「……」

黙って耳を傾けていた加持は、長年の後悔が氷解していくのを感じていた。

これで許されると言えば、あまりにも自己完結していると誹謗されるかもしれないが…。

やがて加持はゆっくりと言葉を紡いだ。

「じゃあ、今は大人になったのかい?」

その語尾に被さるように、ケタタマシイ声が隣室から響いてきた。

顔を見合わせたのも束の間、二人はリビングを飛び出す。

隣の和室では、呆然とする長男坊の周囲でその弟と妹が泣いていた。

「ああ、もう泣かないで…!!」

二人の子供をなだめながら、アスカは長男に詰問する。

「あんた、今度は何したのよ!?」

「う、ううん、何も…」

ぶるぶる首を振る息子のシャツの裾から伸びているそれを、母のブルーアイズは見逃さなかった。

電光石火の早さでシャツはまくり上げられ、そこからボロボロとこぼれ落ちたのは、ゴム製のヘビやクモのオモチャ。

「…最近のは良くできてるわねぇ…?」

底冷えするような声で呟きつつ、オモチャはそのたおやかな手の形状からはとても想像もつかない力で握りつぶされる。

一方息子の方も、ヘビに睨まれたように動けない。

ゆっくりとアスカは息子に近づくと、やおらその両コメカミに拳を突き立て、ぐりぐりをし始めた。

「こーゆーもので遊んでも、泣かせたりしちゃだめでしょーがっ!!」

悲鳴を上げる息子を頓着せず、アスカはぐりぐりのスピードを更に加速させる。

いまだ泣きじゃくる二人の子供たちを預かる形になった加持は、その光景に苦笑を湛えるしかない。

ごめんなさい、もーしません!! と泣き始めた息子を解放しないまま、アスカは首だけ後ろを振り向いた。

「加持さん、さっきの答えですけどね」

「ん? …ああ」

「つまりは、こういうことです」




























碇家を辞した帰りの道すがら、加持はずっと考え続けた。

アスカがいう幸せ。

スケールの大小なんか関係ない。

他人から何を言われようが関係ない。

あたしが幸せなんだから、それでいいでしょ!

彼女の語る幸せは、決して一方的だけに感じているものでもなかった。

子供たちにとっても幸せであればこそ、アスカはそのぬくもりに満足しているのだと思う。

夫もそうだろうと勝手に確信しているあたりは、彼女らしいといえば彼女らしいが。

そしてもう一つ。

果たして自分はいつから大人になったのだろうか。

かつて全てを捨てて挑んだ世界の謎など、どう弁護しても行動様式と目的は少年のそれだ。

何ものにも囚われないまま遊べるのは、子供だけだ。

社会のルール、伴う責任、地位、名誉、友人、知人、恋人…。

縛り縛られながら、人は生きていく。

得て、捨てて、選択しながら人は生きていく。

不意に加持は悟る。

脳裏に浮かんだのは、先ほど見た光景。

子供たちと戯れるアスカ。

その表情は、当たり前だけど少女の頃とはとても違っていて。

…そうか。

人は最良の何かを得ることで大人になるのだ。

それを守って行きたいと自覚した時こそ、保護する側へ進む第一歩。

戻らない覚悟を決めたものだけが無意識に踏み出す大人への道程。

そして今、自分が得たものは。

足を止め、加持は自宅を見上げる。

かつての一人暮らしの時にはあり得なかった、明かりの灯る家。

ドアを開け、おかえりなさーい!! と駆け寄ってきた娘を抱き上げる。

嫌がる頬に無理矢理頬ずりしてやった。

おとーさん、おひげがチクチクするよ、なんていっていたが、じきに大人しくなる。

年々重くなる身体を抱えながら加持はリビングへと向かう。

「おかえり」

ビール缶片手の妻が、あぐらをかいて上機嫌。

そのビールをかすめ取り、一口飲んでから加持は天を仰ぐ。

俺もまんざらガキってわけでもないか…。














それは同時に等身大の幸せ。
































2004/11/17




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