ゲンドウ、シンジ、碇親子の和解。

この慶事の話で、ネルフ本部はもちきりだった。

陰鬱で無愛想な上司から解放された彼らは、プライベートでさえこれを話の種に盛り上がる。

極めて局地限定的な話題にせよ、他にとって変わるべき椿事も存在しなかったことは事実。

よって世間の平穏は推して知るべしだ。

実のところ、暇を持て余し気味のネルフ本部においては、半ば公然と賭けが催されていたくらい。

つまり、

実父の碇ゲンドウ氏が、息子に侘びを入れるのか。

息子の碇シンジ氏が、父に関係の修復を懇願するのか。

…ぶっちゃけ、どちらが先に頭を下げるのだろう?

前者が有利なオッズの非公式ギャンブルの結末は、当事者らと他に列席していた二人の人間、赤木リツコと冬月コウゾウが口に箝をしており、謎のまま。

確かなのは、胴元であった葛城三佐が見込み分の収益金を使い込んで払い戻しができず、吊し上げを喰らったことぐらいである。

あらゆる私物を差し押さえられ凹んでいる胴元のオフィスの前を、碇親子はぎこちなく、それでも仲良さそうに歩き過ぎたそうな。

そんな碇親子に物陰から視線を注ぐ、二人の妙齢の女性。

一人目の名は綾波レイ。

彼女の常になく和んだ赤い瞳には、連れだって歩く親子の姿。

良かったわね、碇くん。

自分の耳にも優しく響くつぶやき。

あれ? 私、泣いているの……?

二人目の名は惣流・アスカ・ラングレー。

彼女の常である不満そうな青い瞳も、連れだって歩く親子の姿を映していた。

なによ、半分はあたしのおかげでしょ? 

自分自身にしか聞こえない、分からないつぶやき。

同時に、瞳の色は更に濃く深くなる。

彼女自身は認めないだろうが、それは一般に『嫉妬』と呼ばれるもの。

しかし、碇親子の邂逅を邪魔をしようと撃って出ないあたり、彼女の精神的成長が伺えるのではないだろうか?

以上、大まかな人物相関図。

時に、西暦2021年のことである。



























××争奪戦!!



















ある日の夕方、葛城ミサトが二人の元チルドレンを自宅へ招聘したのは、実に久方ぶりのこと。

相も変わらぬタンクトップ姿で、ビール缶片手にふんぞり返る家主。

テーブルを挟んで右手側には綾波レイ。左手側には惣流・アスカ・ラングレーである。

「…いったい、今日は何のようで呼びつけたワケ?」

遠慮なく三本目のエビスビールのプルタップに手をかけながら、アスカは詰問する。

「うふふのふ。アンタたちが喜びそうな事に決まっているじゃない♪」

上機嫌で元保護者は豊かな胸を反らす。

いまだ張りを保つそれも含めて、疑わしげな視線を向けたのはレイ。

そんな彼女の手元には既に空き瓶が四つ整然と並んでいた。自腹で持ち込んだギネスである。

「喜びそうなこと…ねえ」

一方のアスカは露骨に疑わしそうな声。

この三十路も半ばの独身女が、暇に飽かせてロクでもない企画をブチ上げるのを承知しているからだ。

ミサト自身、企画が頓挫しようと成功しようと、それを酒の肴にするものだから、余計タチが悪い

二人とも、そんな葛城三佐の趣味と性格を熟知しているゆえに、警戒を深めるのは当然と言えよう。

果てしなく胡散臭いものを見るような二対の視線も意に介さず、葛城ミサトはビールを一気に空にした。

「くうぅうう! 染みるわねえぇえぇ!!」 

親父臭い行動で酒臭い息を吐き出し、酔いで紅潮した片頬をくっと上げると、

「…シンジくんのことよ?」

途端に身を乗り出してくる綾波惣流両名。

ほとんどテーブルの上に上半身を乗り出すような格好になっていたことに双方赤面し、それでも身を引く刹那、互いに鋭い視線を投げつけるのを忘れない。

「…で? シンジのヤツがどうかしたの?」

ごほんと咳払いをしてアスカが口火を切った。穏やかな声を装っているのが返って不自然さを際立たせている。

その内心が手に取るように分かるだけに、結果ミサトから足下を見られる羽目になるのだが。

「うーんとね、これはハッキリいって、超極秘情報よ? この間、シンちゃんが執務室でね…」

そこで一端言葉を切り、葛城ミサトはニッコリ笑ってみせた。二人の聞き役に左手を差し出して。

「…なに、その手?」

「だから、超極秘情報っていったでしょ? はい♪」

面食らうアスカの目前を、レイの白い手が往来する。

青い瞳が見開かれる先。なんとミサトの手に千円札が乗っていた。

「毎度♪」

タンクトップの胸元に神速めいた動きでそれを収納すると、ミサトは情報提供を再開。

「シンちゃんが執務室で、司令と二人きり。そこで、あるものが渡されたらしいのよね〜」

固唾を飲んで見守るアスカとレイの前で、そこまで喋ってまた口を閉ざす。当然左の手を差し出すのを忘れない。

今度はアスカが財布を開けた。素早く乗せたのは五千円札。

ひゅう♪ と口笛を鳴らし、お札は再びタンクトップの中へ。

「渡されたのは、小さな箱よ。これは間違いない。で、中身はお母さんにまつわるものらしいわ」

情報料に満足したらしく、ミサトは一気に残りの情報を開示。

「……」

聞き終えるなり無言で席を立つレイ。そしてなんとそのまま葛城邸を辞して行ってしまう。

後にはぽつねんと残されたアスカは考え込まざるをえない。

一体、シンジは何を渡されたというのだろう? そして、ファーストの行動…。

頭に疑問符を浮かべる元被保護者を眺めるミサトの視線が、ふっと和らいだ。

「アスカ、あんた、今回の和解にはずいぶんと奔走したらしいじゃない」

「え? あ、うん…」

不意に話題を振られ、不覚にも認めてしまう。

仏頂面になりながらも、アスカは元保護者を前に回想してしまった。

あれから五年も経っているのに、未だグズグズとしているあのバカ。

叱咤するうちに、どういうわけか、自分がまずドイツの継母と仲の良い様子を見せる羽目になった。

さあ、あたしだって出来たんだから、今度はアンタの番よ!?

そういって、お尻を蹴飛ばしたっけ。

まあ、結果として、あっちの両親にアイツを紹介できたから、差し引きでいえばプラスかも知れないけどさあ…。

「ご褒美に、アスカ用の追加情報をあげちゃおうかな?」

脳天気なミサトの声に回想を断ち切られ、一瞬機嫌を悪くしてしまうところだったが、彼女の台詞自体は無下にできるものではなかった。

「追加情報ってのは有り難いけど、あたし用って…」

答えず、ミサトはニンマリ笑う。

「大抵、父親から渡されるものって、母親の形見じゃない? となれば、外国生活の長いアスカなら分かりそうなもんだと思うけどなー」

「……どういうこと?」

「だってさ、向こうの方が多いんじゃないの? お祖母ちゃんの代から連綿と娘に受け継がれる品物って。おもにアクセサリーとか」

「………」

「で、シンジくんに姉妹とかいないわよね? となると、彼がもらった小さな箱の中身って…うふ♪」

ミサトは、最後まで語る必要はなかった。

彼女が酒精でよろけた目の焦点を合わせたとき、青い瞳の聞き手は室内から綺麗さっぱり姿を消していた。















暮れなずむ繁華街を早足で歩きながら、アスカの脳裏で情報が処理、推論が確立されていく。

そして、最初のインスピレーションと比較。

双方とも、それほど齟齬が生じなかった。

それでも、念のため、再処理を試みる。

まずは情報を入力。

シンジが父ゲンドウから受け取ったもの。

母親にまつわるもの。

…写真か何かだろうか?

否。

小さな箱という情報に抵触する。

更に、予備情報としてのミサトの台詞も看過できるものではない。

確かに、欧州などでは、祖母から母へ、母から娘へと受け渡されるものがある。

その家伝来の指輪とかネックレスとか何とか。

…そして、ファーストの不可解な行動。

おそらく、あたしより先に、その仮説に至ったのだろう。

以上の情報を統合。

結論。

現時点で考えうるかぎり、小箱の中身は、母親の形見。それも指輪等に類するであろう確度高し。

アスカの動悸が高まる。早足と先ほど飲んだビールのせいだけではないだろう。

次に彼女の脳裏に展開されたのは、論拠もなにもない妄想だ。



夕食の席。

互いに差し向かいで座って、シャンパンで乾杯した後。

すっと卓上を滑ってくる、古ぼけた小さな箱。

アスカ…これを受け取ってくれないか?

これは、僕の母さんの形見の指輪で…。




…どうやら、とんでもない顔をさらして歩いていたらしい。

アスカは、道行く中学生の驚いた視線で我に返る。

まだ日も沈みきっていないうちにいけないいけない、と自分を戒めつつ赤面。

顔を伏せ、足早に通り過ぎたつもりだったが、口元から低い声が漏れ続けている。

フフフ……うふふふふふふふふふふふふふ!!

存分にすれ違う通行人を怯えさせながらも、今の彼女はそれすら瑕瑾にはならなかった。

金髪で覆われた頭の中で、妄想が現実へとすり替わるべく胎動しているのは明白である。

…その小箱、絶対、あたしが貰ってあげるわよぉ!!

ヘッドセットと同色のスカートをはためかせ、彼女は自宅のマンションへ駆け戻る。

サンダルを脱ぐのももどかしく、サイドボードの中から適当に見繕ってボトルを一本取り出した。

貰い物のドンペリ。

結構高かったと記憶している。

贈り主の名前と顔は思い浮かばなかったが、別に構わない。綺麗に忘れることにする。

まるでそれを剣のようにひっさげ、アスカが向かったのは同じマンションの隣室だ。

実に直線距離で1メートル足らず。そこが碇シンジの現住所なのである。

…あんな地球規模的のとんでもない出来事があった後も同居を主張するほど、アスカは神経が太くなかった。

また、未婚で未成年の男女が暮らすという世間体や、周囲の人間があまり良い顔をしなかったこともある。

とまあ、これは建前。

アスカの本心は全く正反対のベクトルでもって、彼女に囁いていた。

このままでは『家族』になってしまう。

もちろん、『家族』というカテゴリーを厭うわけではないが、彼女は心配しているのは愛情の結実の姿だ。

『兄妹愛』もしくは『姉弟愛』の定着は、彼女が最も忌避すべきもの。

そう彼から見なされることだけは、是が非でも避けねばならなかった。

だから以前の住居を出て(もっとも前のマンションは跡形もなくなっていたけれど)新たなマンションで、互いに一人暮らしをすることを選択。

前の生活とそれほど変わらない距離感。実際、専らシンジの部屋にお邪魔して食事を摂っている。

だけれども、壁を隔てたあくまで『家』単位の付き合い。

曖昧だったプライベートを確立させた今、世間的にもこれは『男女』の付き合いに見なされるはず。

プランは完璧だった。

完璧なはずだった。

青い瞳は、<惣流> <碇>と表札の下げられたそれぞれのドアを見る。

問題は<碇>と表札の下げられた隣の部屋。

つまりは、アスカの借りてる部屋の隣の隣。

その部屋にかけられた表札には、こう記してあった。

<綾波>

憮然とした目線で表札を眺めながら、アスカは誰ともなしに呟く。

まさか、ファーストのヤツまで越してくるなんて…。

これはまったくの予想範囲外だった。

なんでも、本人たっての強い希望だそうである。

隣室が空き部屋であり、賃貸マンションである以上、アスカが難色を示す理由にならないだろう。

だいたいシンジのヤツが拒否しないのだから、あたしにはどうしようもない…。

いつの間にか三つ並びの部屋で三人の生活は始まり、現在に至る。

眉間に寄った皺をほぐし、アスカは顔の険を取った。

本日の目的を再認識したからに他ならない。

出来うる限りのいつもの雰囲気をまとい、陽気な声を作る。

ドアノブを捻るとあっさり開いた。在宅中、ここの家主は決して施錠しない。

「やっほー、シンジ?」

「あ、アスカ、いらっしゃい」

夕食の支度中だったのだろう。エプロン姿の碇シンジが菜箸片手に姿を見せた。

このマンションの1LDKの構造上、玄関を入ってすぐがダイニングキッチンになる。

ドンペリを掲げて見せながら、アスカはサンダルを脱いだ。

「ね、一杯飲も…?」

脱ぎつつも、青い瞳は既に脱ぎ揃えられたバンプスを発見。

ファーストのヤツ、先に来てるみたいね…。

もっともこれは予想の範囲内。構わず上框に素足を乗せる。

一方、シンジのほうも料理に気を取られたのか、アスカの台詞もシャンパンも目に入っていない様子。

じゅーじゅーと何かを焼く音を響かせ、脳天気な声を出す。

「ああ、綾波が先に来ているから」

ピクリと片眉をしかめただけで、どうにかアスカは笑顔を保持。

勝手しったるなんとやらで、ずけずけと家の奥へと侵攻開始。

奥のリビングのソファーに綾波レイの姿を認め、アスカは目を見開いた。

青い髪の隣人の格好は、アスカの予想の範囲を超えていたから。

薄い桃色のブラウスに、焦げ茶色のタイトスカート。

野暮ったい印象を受ける人もいるかもしれないが、アスカは知っている。

いまの綾波レイのファッション。その上に白衣でも羽織らせれば、シンジの亡母、碇ユイにそっくりであることを。

…やるわね、ファースト。

平静を装いつつ、アスカは内心で舌を巻いていた。

彼女にしか思いつけない、彼女のみ可能なアプローチ。しかし、これを反則とはいうまい。

ことシンジに対する攻勢は、人倫に悖らない限りあらゆる手段が肯定される。

綾波、惣流、互いの名にかけて交わされた二人だけの暗黙の協定。なお、死して屍拾うものなし。

涼しい顔でコーヒーカップを口元に運ぶ綾波レイの対面に腰を降ろし、油断なく睨め付けるアスカ。

ファーストも考えに考えたのだろう…。

思わず感心のため息を漏らしてしまう。

このように相手を賞賛するのもやぶさかではない今のアスカである。

今更ながらであるが、本日の二人の目的は、シンジが父より貰ったという母親の形見にある。

それを、シンジから直接貰うのがいわば究極の目的であるが、説明するまでもなく形見の箱は一つ。

どちらかが貰えて、どちらかが貰えない。

更に恐ろしい問題もある。

碇シンジが、男女の機微に疎いというのは、長年の付き合いからレイもアスカも熟知している。

でなければ、今日のここまで、想いを寄せている二人に挟まれたままという曖昧なスタンスをキープできまい。

この微妙なトリニティこそが、現在の碇シンジという男を形作ってしまったのかも知れないけれど、まあ責任の所在は置いておいて。

さらに問題となるのは、このシンジというヤツが平素から鈍感極まりないこと。

こちらから催促の一つでもしなければ、母親の形見を想い人である女の子に贈ろうなどと考えないかも知れない。

冗談でなく、普段のボケボケッとした彼の言動は、そう危惧を抱かせるのだ。

だからといって、『お母さんの形見をちょーだい!』とダイレクトな声をかけるには、アスカは大人になりすぎていた。

そんな露骨なことは下品である。恥ずかしい。

だいたいあたしたちは、ミサトの超極秘情報とやらで形見の所在を知ったのだ。

つまり、シンジはあたしたちが形見の情報を把握していることを知らない。

なのにいきなり手を差し出せばどうなる?

訝しがるだろう。勘ぐるだろう。

自分が監視されて喜ぶ人間なんていやしない。

そこまで読めるだけに、アスカは直裁的なアプローチは選択しえなかった。

精々、ワイン片手に酔っぱらわせて気分を良くしてから、それとなく話の水を向けるくらい。

対して綾波レイの攻撃は、ギリギリ品性を保ったものと賞揚できよう。

亡き母に酷似したレイを見て、碇シンジは何を思うか。


…なんか綾波の格好って、写真で見た母さんを思い出すよ。そうそう、母さんといえば、この間本部で父さんがね…。


ブンダバー
Wunderbar!!(素晴らしい!!)

小声のドイツ語で賞賛を呟くアスカである。

いくら自分でも、そこまでナチュラルに形見の話を引き出す自信はない。

となれば、あとはその現場に居合わせるだけ。

その時、果たしてシンジがどちらにそれを手渡すのか。

もちろんそこで露骨に『欲しい』などというのも頂けない。

あくまで、贈られるのを待つ。

単純に確率は二分の一? 

ううん、あたしの方が有利だわよ。

だって、アイツは、あたしに色々借りがあるんだしさ…。

だからといって、貸し借りで貰うのも不本意だ。

シンジには自分の意思で選択して欲しい。

より好意のある方へと贈って欲しい。

そっと相手の手をとって、形見の指輪は薬指へと。

その光景を想像するだけで、アスカは鼓動が早くなり、頬に血が昇るのを感じる。

思わず両頬に手を当てると、対面の赤い瞳と目があった。

相も変わらず綾波レイは表情に乏しい。

まさしくポーカーフェイスというヤツで、そこが彼女の最大の強みでもあり弱みでもある。

今も無表情でコーヒーカップをソーサーに戻し、そこでカチカチカチ! と三回音を立てた。

アスカはあえて知らんぷりをしたけれど、内心では安堵していた。

なによ、ファーストのヤツも緊張してるんじゃない?

同じ条件を抱えるだけに、相手の心情はよく分かる。

無表情の仮面は、時にして物事に動じない余裕を演出する。

そのペルソナをはがしてしまえば、その下の素顔はただ純朴で世間知らずの女。

今現在の綾波レイはそれであった。

「ご飯が出来たよ〜」

家主の声が、束の間の共有時間を破る。

緊張をおくびにも出さず、まだ普段通りの振る舞いを意識しながら、二人はダイニングキッチンへと足を向けた。

「…せっかく持ってきたんだから、飲むわよ!」

改めて瓶を掲げてみせれば、シンジは渋い顔をした。

「えーと、今日は和食なんだけど…」

「いいから! シャンパンは何にでも合うのよ!」

引っ込みがつかず、そう宣言して抜栓させたアスカであったが、食事開始早々後悔することになる。

そもそも、箸と茶碗にシャンパングラスという取り合わせが微妙だ。

おまけに、本日のメニュー、みそ汁、鮭の粕漬け焼き、塩辛の大根おろし和え、キュウリの酢の物。

酢の物を一口食べて、シャンパンを一口。

「…………不味…」

塩辛を一口食べて、シャンパンを一口。

「…………激不味…」

確かにシャンパンは和食にも合う。しかしよりによってこの二つのメニューとは相性が最悪だった。

気分まで悪くなったアスカは、ロマンティックさを演出するどころではない。

「…このシャンパン、今飲まないでさ。あとでカナッペでも作ろうか?」

「お願い、そうするわ…」

シンジの提案を有り難く受け入れる。

結局、話の矛先が定まらないまま夕食は終了。

シンジも特にレイの格好を疑問に思わなかったようだ。

「あ、今日の綾波の格好って、母さんに似ているね」

食事の終わり際、わずか一言のみのコメントだけを残して席を立ち、カナッペの制作を始めてしまった。

せっかくのレイのコスプレ(?)攻勢も、不発に終わった形である。

とりあえず使い終わった食器をそれぞれ流しに運び、リビングへと河岸を変える。

なにげなく互いにいつもの定位置をキープ。

手持ちぶさたでTVを点けたけど、二人とも無言だ。

一瞬だけ非難がましい視線をレイが送ってきたけれど、アスカは片手を上げて謝意を示す。

その時ちょうどシンジがやってきて、新しいシャンパングラスとカナッペの載った皿をテーブルへ置いた。

「…どうかしたの、二人とも?」

鈍感男と目される彼も、さすがに微妙な雰囲気を察したらいい。

「なにが? 別になんでもないわよ。ねえファースト?」

ソファーに腹這いになって、アスカはカナッペの一つを口に放り込みながらいった。

無言で賛同しながら、レイもシャンパングラスを傾ける。

「そう? ならいいけど…」

後かたづけのために再度キッチンへと戻るシンジを見送って、アスカは上体を起こす。

なんかまったりとした雰囲気。いつものことと言えばそれまでだけど、なんか不本意だ。

だいたい、当初の目的のやる気を削がれることおびただしい。

アスカは奥のシンジの寝室へと視線を送る。

そこに確かにあるのだろう、例の小箱が。

そして、シンジは今、キッチンで洗い物の真っ最中。

…一瞬だけ、家捜ししてみたい誘惑に駆られる。

手に入れるとかじゃない。せめて中を見たいのだ。

ふと、アスカは視線を感じて前を向き直る。

レイの鋭い視線が無言で訴えてきていた。

それはダメ。

ふう、と息を吐き、アスカは提案する。

「ねえ、ファースト。ゲームでもしようか?」

…その後、対戦TVゲームでそれなりに熾烈な争いを繰り広げ、洗い物を終えたシンジも交えて大接戦。

更に、健全極まりないことにトランプで盛り上がり、碇邸を二人が辞したのは、12時も廻ったころ。

これもいつものパターンなだけに、<碇>とプレートのあるドアを閉めるや否や、レイとアスカは顔を見合わせた。

なにやってんだろ、あたしたち…。

二人とも、胸中で異口同音に呟く。

気負いに反して報われることのなかった疲れた身体を引きずり、お互い無言で別れを告げそれぞれの部屋へ。

自宅の扉を閉じるなり、アスカは電気もつけずツカツカと奥の寝室へと進む。

さらに特注の寝室の扉を閉じてから電気を点け、彼女は深くため息をついた。

全く不甲斐ない。シンジも。あたしたちも。

毅然と顔を上げた彼女の前。

部屋の中心にぶら下げられたそれは、でっかいサンドバッグ。

へのへのもへじに毛の生えたような顔を描いた紙が貼られているが、これがシンジの似顔絵らしい。

拳を痛めぬよう、アスカはオープンフィンガーグローブを身につける。

構え、呼吸を整える。

裂帛の気合いとともに、力強く踏み込みながら強烈な右フックをお見舞いした。

小気味よい音とともに、彼女の金髪とスカートがひらりと舞う。

間髪いれず左ストレートも放つ。今度は叫びのおまけ付き。

「シンジの鈍感ばかたれぇぇ!!」

夜半過ぎに近所迷惑な、と眉を顰めるなかれ。

実にこの部屋は特別注文完全防音仕様なのだ。

だから、いくら騒いでも、隣には何も聞こえない。

完全防音にした理由が思い出せない今、壁向こうにこの叫びが届かないのは、実のところ少し悔しい。

「このにぶちん!!」

ドン!

「いい加減、はっきりさせなさいよ!」

ズバン!

「アンタ、あたしとファースト、一体どっちが好きなのよ!?」

ズババババン!

額に汗を滲ませながら、アスカはサンドバックを叩き続ける。

これが、この部屋の越してきてからの、彼女のストレス解消法。

傍目に可愛く見えるかどうかは置いておいて、無害なことには違いない。

罵倒の言葉も吐き尽くし、ほとんど無心でサンドバックをどつき続けるアスカ。

ひたすらそうやっていると、昔のことが思い出される。

いや、昔の自分に近づいていく。

渾身のリバーブロー。トドメとばかりの強烈なチョッピングライト。

無抵抗なサンドバックは、衝撃に大きく吹っ飛ぶ。

…あの時のシンジもそうだった。









赤い海のほとり。

膝を抱えて、海を眺めている自分。

少しは慣れた場所にはシンジが立っていて、二人して馬鹿みたいに大きなファーストの白い顔を眺めて。

そのうち、とつとつとシンジが語りだす。

自分が何をしたのか。この世界を現出させた理由。

そして謝罪。

昔、君を助けられなくてごめん。

君の首を絞めてごめん。

でも、怖かったんだ。

もう一度、誰かに拒絶されることが。

許してくれとは言わない。とても言えない。

でも、聞いて欲しかったんだ…。

やがて、ゆらりと立ち上がる自分。

ぼんやりとこちらを見てくる馬鹿の顔面に右ストレートをお見舞いした。

左目が塞がっていて遠近感が狂っていたけど無事命中。

腕の傷? そんなの関係あるもんか。

よろめく学生服に、今度は左アッパー。

更に、右。左右左右右左右。

全然体重の乗らないパンチしか放てないのが悔しい。

チルドレン時代、近接格闘は指導教官の折り紙付きだったのに。

当然といおうかなんといおうか、シンジの顔面は血にまみれていた。

もしかしたら、自分の腕の開いた傷口からのものかもしれなかったけれど。

砂浜にうずくまるシンジ。

殴り疲れ、同じくへたり込む自分。

ようやく身体が痛みを訴えてきた。

おそるおそる腕を見れば、巻かれた包帯から新たに滲む血はない。

むしろ別のところが痛む。砂浜について身体を支える手。見た目的にもひどかったのは、その両拳だった。

もともと女性の拳は、他人を殴るのに適していない。

おまけに入院生活で痩せて肉づきの薄くなった手は、暴力の行使に耐えきれなかったらしい。

指の付け根から甲にかけて、擦り傷と切り傷のオンパレードだ。

よろよろとシンジは立ち上がる。

自らの唇と鼻から流れる血も意に介さず、彼が心配したのは、自分をこんな目に遭わせた相手の方だった。

「ああ、手が!! 大丈夫、アスカ! こんなに血が出て…」

肝腎の加害者の方は、息が上がってそれどころではない。

もし、この時点で少年が反撃してきた場合、ろくに抵抗もできず蹂躙されたことだろう。

なのに、ひたすら優しく少女の両拳を手に取るシンジがいた。

「はやく消毒しなきゃ…!!」

アンタの顔の方がよっぽど消毒が必要よ、と内心で呟きながら、アスカは疲労で動けない。口を開くのも億劫だ。

だから、次に少年の取った行動にも抗えなかった。

傷だらけの彼の顔が両拳に近づく。

温かな、腫れに伴う熱とは違う感触が、そっと傷口の上を這うのを感じる。

ただ、茫然としていた。

消毒といっても、まさか傷口を舐めてくるなんて。

彼なりの咄嗟の行動だと理解はしても、全く動けず身を任せた自分。

ようやく顔を上げたシンジは、自分のシャツの袖を引っ張る。

どうやら破いて止血帯に使うつもりなのだろうけど、貧弱な少年の握力には手に余る。

結局、全部脱いだシャツで、両拳を併せてグルグル巻きにされた。

あらまあ、まるで手錠みたい。

あまりの展開に茫然としてしまうアスカ。

しかし、気を取り直し、怒鳴りつけようとした矢先、

「…碇くんをそれ以上苛めちゃダメ」

いつの間にか制服姿の綾波レイがすぐ傍に立っていた。

呆気にとられる二人は、海の方からから響いてくる声にさらに唖然とする。

ぞくぞくと海の中から身を起こす全裸の人々。

…おい、ここはどこだ?

一体何が起きたんだ?

……きゃ!? 私…裸ぁ!?

戸惑い、悲鳴、質問、訴えの四重奏。

見知った人もいた。見知らぬ人のほうが多かった。

声をかけるのも忘れ佇む少年少女。

そんな中、全裸に白衣を引っかけただけという扇情的な格好で登場した赤木リツコ博士が、人々を先導した。

とりあえず、服を調達しに行きましょう。

みんな異存はなかったらしい。

開き直った連中は全裸で、羞恥心が捨てきれない面子は手頃な布きれや葉っぱで身体を覆う。

そんな中に、リツコの白衣の影に隠れるようにしたマヤの姿もあった。

…どうして、三人は服を着ているの?

答えられるわけがない。

滅茶苦茶になった第三新東京市。

ボコボコになった道路を乗り越え、麓の街まで移動する強制ヌーディスト集団。

着いた街にも、どういうわけは人影がなくて。

手頃なブティック、スーパーに我先と走り込んでいく人々。

シンジの背中に負ぶさったまま、アスカはぼそっという。

「お腹空いた」

リクエストに従ってシンジが向かった無人のコンビニで。

止めておいたほうがいいという忠告も無視して、傷だらけの手のまま囓ったサンドイッチ。

喉にへばりつくのを無理矢理飲み下し、直後に気持ち悪くなる。

しばらく固形物を摂取していなかったことを思い出しても後の祭りで、ゲーゲー吐いて意識を失ったよう。

気がついたときは、病室で天井を見上げていた。身体に三本くらい点滴を付けられて。

上体を起こす力も残っていなくて、どうにか目線だけを斜め下へ向ける。

そこにいた。

顔を腫らせたシンジが、ベッドに突っ伏して寝ていた。

なぜかその姿に笑ってしまった…。







だからあたしは忘れない。

アイツのしたことを。

とんでもなく酷くて許し難いあの出来事もひっくるめて、全部。


そしてあたしは忘れない。

アイツがくれた温もりを。





視線は、グローブに包まれた自らの手の甲へ。

まだそこにくっきりと残っているような気がする。

あの優しい感触と温もりが。





…ところで、かのゲーテが記した著書に『ファウスト』という有名な作品がある。

その作中で、ファウスト博士は、悪魔メフィストフェレスに問う。

「ところで、お前はどれだけ速いのだ?」

「人の思いの速さです」



アスカの回想していた時間も、その量に反して現実に換算すればごく僅かなものに過ぎない。

ただ、深い記憶を見つめるとき、人間は現実の視覚が束の間機能しなくなる。

気がついたときには、殴り飛ばしたサンドバックが、物理の法則に従い戻ってきていた。

「きゃあ!?」

短く悲鳴を上げ、アスカはサンドバックを抱き留めるような形で弾き飛ばされる。

そのまま運の良いことに、ベッドの上にジャックポッド。

おかげでほとんど衝撃が吸収された。怪我もない。

さっそく憤慨して上体を起こしかけたアスカだったが、結局力無くベッドに突っ伏す。

枕に顔を埋め、グローブはベッドの外に放り出した。

彼女は、誰ともなしに呟く。

あたしは、どうしてシンジを好きになっちゃったのかなあ?







本来なら憎んで然るべき存在。

病院へ見舞いに来るたびに、冷ややかな視線を浴びせていた。

なのに。

いつのまにか、理解しようと努める自分がいた。

最初から誠実な人間などいやしない。

誠実足ろうと努める人物が、努め続けた人物が、結果的にその評価を得ることができるのだ。

そりゃあ失敗することもあるけれど、間抜けは相変わらずだけど、そう努めるシンジを目の当たりにしたとき。

悔やんでも悔やみきれないけど、それでも償おうとする彼の姿勢を見たとき。

いつまでも過去に固執する自分が、偉くちっぽけな存在に思えた。

ずっとずっと前からシンジを意識していたのは間違いない。

でも、思い返せば、この時期からだろう。より身近な存在と彼を意識し始めたのは。

それでも、なかなか偽悪の甲冑は脱げなかった。

リハビリに積極的になったのは、いわゆる対抗意識というヤツ。

シンジを占有したがる理由は、美味しい料理を振る舞ってくれるのももちろんだけど、自分の個人情報が彼を介して流出するのを防ぐため。

お風呂の温度は41℃じゃなきゃダメだとか、風呂上がりの牛乳は雷印じゃなきゃダメだとか、あたしの好物がアイツ手製のハンバーグだとか、他の人に知られたら、ほら、恥ずかしいでしょ?

自己欺瞞と自己暗示で武装しつつ、ジリジリと距離を測っていたあの頃の自分は、ある意味シンジより臆病だったのかも知れない。

いつの間にか、彼に拒否されるのを恐れるようになっていた自分。

そんなやや緩慢なスタンスが、なりふり構わないものに強制移行したのは、ひとえに綾波レイの存在がある。

無口無表情無愛想の三無女王が、ことシンジに関してはアクティブな対応を見せるのだ。

隣の空き部屋に越してきたことこそ、その最たるものだろう。

あまりにも局地戦仕様の彼女の参入に、アスカは大あわてで隠し秘めていた想いを戦線に投入。

どうにか膠着状態に持ち込んで協定を結び、現在に至るわけだが。





…この壁の向こうにシンジがいるのに。

近いのに伝わらないこともある。

近いゆえに伝わらないことも。

ううん。

あたしは、きちんと伝えようとしている?

何か不意に堪えられなくなる。

叫びかけて、彼女はまた枕に顔を埋めた。

こんなところで叫んでも無駄だ。

きっとアイツには聞こえやしない…。

これほど壁一枚が恨めしく思えた夜はない。

でも、半ば無意識にアスカは壁に手を這わす。

具体的な彼の温もりが得られるわけではないのだろうけど。

手の甲に感じた熱さが、再燃するような気がして。

こうして、また一つ夜が重ねられていく。










続く




<2012.6.25再掲載>