シンジが父親より受け取ったという母の形見。

ミサトからその情報を受け取った夜、中身を知るためシンジに相対したレイとアスカ。

奮戦虚しく、例の小箱に関しては、なんらシンジの口からコメントを得られなかった。

その存在を忘れたわけではないのだけれど、それなりに忙しい普段の生活の流れに、なんとなく疎遠になっていく。

アスカなどは、頭の片隅に位置を確保はしていたけれど、ともあれば失念しそうになってしまう。

一緒に夕食を食べ終えてから、ああ、そういえばあの小箱の話題出し忘れちゃった……と思い出す始末。

おそらく、レイも同じような状態なのだろう。あの日以来、彼女の積極的なアプローチはお見限りだ。

…何事にもタイミングがある。一度逸してしまったら、次を待つしかない。焦ると元も子もなくなってしまう。

アスカはそう考える。

だいたい、あの小箱が二人どちらかに贈られるということは、今現在の曖昧な関係が破綻するのと同義。

確かに、現状に不満は感じるけれど、我慢できないほどでもない。

今はファーストのこと嫌いってわけでもないし。むしろ、好敵手?

いずれ決着はつけるにしても、まだ先の話でもいいんじゃないかな……。

そう、シンジを間に挟んだこの生活も、楽しくないわけじゃないのだ。

元セカンドチルドレンらしからぬ保守的なスタンスにシフトしかけたアスカであったが、不意にもたらされた情報に、襟をただすことになる。

それは、元保護者からのホットライン。

「あ、アスカ? あんただけに超々極秘情報があるんだけれど、いる?」



























××争奪戦!!






















ミサトからの携帯電話を切り、アスカ即座に馴染みの酒屋へと連絡。

エビスビール24缶入り6ケースを葛城邸に配達してくれるよう依頼。もちろん支払いはこちら持ちだ。

ベッドに腰を降ろし、アスカは先ほどもたらされたばかりの情報を吟味する。

耳の奥に木霊する、脳天気なミサトの声。

「えーとね、明日、シンジくんは司令とお墓参りに行くらしいのよ。で、その時、例の小箱も持参するらしいわ」

これが待っていた機会というべきものだろうか?

確かに、帰り際にでも待ち伏せして訊ねれば、或いは。






あれ? シンジ、どっか行ってきたの?

うん、父さんと一緒に、母さんのお墓参りにね。そうそう、母さんの墓前にこれを持ってさ。

頷くシンジの手には、小さな箱が乗せられていて…。






「ミサト、その情報は確かなの?」

「大丈夫。執務室の会話を拾ったから間違いないわよ」

請け負うミサトに、別の疑問が湧いてきたので、素直にぶつけてみる。

「どうしてミサトはそんなリスクを負ってまで、情報をくれるのよ?」

不意に電話の奥の声が変わった。

陽気でふざけた感じではない、真剣で優しい声。

「…アスカ、あなた、シンジくんのことが好きなんでしょう?」

「………」

思わず息を飲み、結果、言葉を発することも忘れた沈黙を肯定と解釈したミサトは、更に言い募る。

「わたしは、貴方たち二人に幸せになって欲しいの。…その、昔、無理矢理同居させたのって、わたしでしょう?

 いくら作戦の為とはいっても、勝手極まりないわよね、まったく。
 
 アスカがシンちゃんのことをちゃんと男性と意識してくれるようになったのは、実はちょっぴり嬉しかったのよ。
 
 あのころのしたことが許されるような気がして。

 …ううん、まだ許されるわけ、ないよね? 許してもらえるわけ、ないよね?

 でも、今のわたしには、これくらいしか罪滅ぼしの方法が思いつかなくて…」

後は水っぽい声になり、言葉にならない。

アスカも胸が詰まったが、結局沈黙を守った。

声を出せば、一緒に泣いてしまいそうな気がしたから。

「じゃあ、アスカ、頑張って。シンジくんのことお願いね…?」

そういってミサトは通話を終えた。超々極秘情報というわりには、一切の対価も求めないで。

よって、先ほどの酒屋へのアスカの注文は、純然たる彼女の謝意である。

少しだけ胸の奥が暖かくなった。

反して、頭の隅では冷水が流れている。

ミサトがくれた、あたしだけへの情報。

つまりこの事実を、シンジと司令のお墓参りのことを、ファーストのヤツは知らないのだ。

これはフェアといえるのだろうか?

本来なら対等の立場で勝負するのがスジというものだ。

だけど…。

なによ、アンタ、この間のファーストの行動を忘れたの? お母さんの格好なんか、ファーストにしかできないじゃない。

あれがフェアっていえるわけ?

アスカの中で、自己正当化の声が響く。

咄嗟に反論を試みようとするが、どういうわけか今回は肯定の声が断然優勢なのである。

そうよ! そもそも、情報の収集だって勝負のうち。特に現代は情報戦。

より多くの情報を得て戦局を見定めたほうが勝つんだから!

おおよそ自分を納得させられるだけの理由が、脳裏に次々と並んでいく。

なのに彼女が忸怩たる思いを拭えないのは、やはり先ほどの情報が一方的にもたらされたものだからだろう。

その不均衡な立場を対等にする方法なんぞ、はなから分かり切っている。

今すぐ、ファーストへ電話をすればいいのだ。そして、先ほどのミサトの情報一切をぶちまける。

ほら、電話帳の一番最初なんだから、あの子のナンバーは…。

携帯にそろそろと伸びる手。

それをカメレオンの舌のように引っ込めて、結局彼女が掴んだのは枕だ。

大きなピンクの花柄の枕をかぶり、アスカは敷き布団に声を埋め込む。

ファースト、ごめん………!!




















あくる日は、秋晴れの上天気だった。

タータンチェックのジャンパースカートを着たアスカは、駅前の公園にいた。

常夏だった日本の記憶も薄れゆく昨今、緩やかに戻ってきた季節の変化も、最近はくっきりと意識できるようになる。

暑くもなく寒くもなく、なんともいえない陽気に包まれながら、アスカの青い瞳は、道行く人々の中に若い夫婦とベビーカーを見つけてふと和む。

あの子は、あの暑い季節を知らずに成長していくのだろう。この日本の四季を当たり前に受け止めながら。

そう思うと、少しだけ羨ましく、少しだけ誇らしい。

少なくとも、この世界を守ることに、自分は合力してきたのだから。当時はそんなことを意識しなかったにせよ。

ゆっくりと過ぎゆく時間の楽しみ方を、アスカは知っていた。

ちょっと意識を切り替えて街を見回せば、そこは全て新しいものばかり。

在って当たり前という先入観が、人の感覚を摩耗させ、新鮮さを駆逐しているのだ。

だから、今の彼女は、駅前のテナントの看板をつぶさに眺めるだけで、楽に一時間は退屈しなくて済む。

なのに軽いあくびを漏らしてしまったのは、いい加減このベンチに腰をおろして二時間も経過しようとしていたから。

彼女が現在ここにいる理由は、言明するまでもなく帰ってくるシンジの待ち伏せである。

確かに、本日早朝、シンジはマンションを出た。

しかし、ミサトの情報を持ってしても、何時の電車で第三新東京市に帰ってくるのか、そこまでは分からない。

だから適当な到着時刻に目星をつけ、駅に電車が入ってくるたびに一喜一憂しているのである。

ならば当てずっぽうに待つのではなく、携帯電話でも使って直接シンジに連絡を取ればいいだろうに。

その方法を選択しなかったのは、実はアスカなりの思いやりの発露。

いつ帰ってくるか訊ねたら、あの馬鹿のことだから一度口にした帰宅時間を遵守することだろう。

だけど、そうなると、せっかくの親子二人きりに、水を差す結果になってしまわないだろうか。

仲良くなったのだから、親子水入らずを堪能して貰いたい。

結果、向こうに泊まって、今日は帰ってこなくったっていいや…。

呟いて、アスカは襟元を寄り合わせた。

いつのまにか日は暮れかかり、風がずいぶん冷たく感じる。

人工の明かりが所々に咲いて、夕焼けの太陽を圧倒しようとしていた。

この時分に、急におセンチになるのは、乙女にはよくあること。

なによ、帰ってこれないなら電話の一つくらい、メールの一つくらい入れなさいよね。

いつまでも待つつもりでいたのに、携帯電話を弄びながら、アスカは悪態をつく。

くしゅんと可愛らしいクシャミをして、ノロノロと視界の片隅を行く焼き芋屋の軽トラックを目線で追う。

…焼き芋でも買ってかえろうかな。そんで、ファーストにもご馳走してあげよう。

ベンチを立ち上がった途端、腰がミリミリと嫌な音を立てる。

拳で軽く叩きながら、なにげなく周囲に視線を放って、アスカは硬直した。

いた。シンジだ。

先ほど電車が到着してから大分たっている。きっと、駅構内で何かしてたので、出てくるのが遅くなったのだろう。

声をかけたい衝動に駆られたけれど、ぐっと我慢。

替わりに、人ごみと建物の影を巧みに縫って進軍。

見つからないよう腐心しながら、シンジの右斜め後ろから声をかけることに成功した。

「あれ? シンジ、なにやってんの?」

自然に声をかけた、つもり。

なのに、シンジはこちらを振り向いてくれない……んじゃなくて、どちらの方を振り向いたらいいか戸惑っているよう。

ということは…?

アスカは見た。自分の反対、つまりシンジの左斜め後ろから声をかけた人物を。

その人物は、青い髪で、デニム地のシャツの上に白いハーフコートを着ていた。

いうまでもなく綾波レイである。

結局、シンジは身体の向きを180°反転させ、二人に向き合った。

「あ、綾波にアスカ。どうしたの二人とも?」

その問いに答えず、アスカはレイの首根っこを掴むと、抱え込むようにしてその耳に囁く。

「…どうして、アンタがここにいるのよ?」

「…偶然」

「本当?」

「………」

「………」

ほとんど顔と顔をくっつけるようにして、青と赤の瞳がにらみ合う。

先に視線を逸らしたのは、赤い瞳の方だった。

「ごめんなさい。葛城三佐から、私だけへの特別情報を貰って…」

「…皆まで言わなくていいわよ」

空いた手で自らのこめかみを押さえながら、アスカは呻くようにいう。

全く、何を考えているんだあの女は!

しかも、よりによって情報を二重売りしてるなんて…。

「…苦しい」

「あ、ごめん!!」

慌ててレイを解放し、おそるおそるアスカは背後を振り返る。

律儀にもシンジは待っていてくれた。顔面に?マークを貼り付けて。

「…どうかしたの?」

首を捻るシンジに、アスカはとってつけたような説明をする。

「あ、あ、あたしもファーストも、偶然駅前に用事があって、そんで偶然帰ってきたアンタを見つけただけよ、ええ!!」

隣でレイもゆっくり頷いてくれたけれど、これで誤魔化せるとすれば、よほどの鈍感お人好しくらいだろう。

「へえ、そうなんだ。偶然ってのもあるもんだね〜」

よほどどころでない鈍感お人好しのシンジは、あっさり了解。

「じゃあ、みんなで一緒に帰ろうか」

陽気な、さも当たり前のことをいうような口調で宣言してくれる。

どうにか窮地を逃れ胸をなで下ろしつつ、アスカは隣で併走するレイに小声で訊ねた。

「アンタはミサトに何を贈ったの?」

ようやく事情と事態を把握したらしく、赤い瞳を冷たく光らせ、レイはぼそっと答えてくれる。

「インスタントカレーとカップラーメン一年分…」

「…そう。あとでしっかりケジメをつけなきゃいけないみたいね」

背中で物騒な会話を交わされているのもつゆ知らず、シンジは上機嫌のよう。まさしく知らぬが仏だ。

もしくは、この場合、知らないことが罪になるんじゃないの? と思えるほどの脳天気ささえ伝わってくる。

そんな温度差を抱えた三人組は、河川敷の土手の道へとさしかかる。

狭いくせに車が通るというなかなかにデンジャラスなコースなのだが、マンションへの近道なのだからしようがない。

しかもこの時は、特に車も来る気配もなかった。

三人はシンジを中心に、道路をいっぱいに使いながら歩く。

不届きな情報提供者への罵詈雑言を一頻り胸の中で喚いてから、ようやくアスカは訊ねた。

「シンジ、アンタ、今日はどこへ行ってきたの? ずいぶん朝早くから出てったみたいだけれど」

「うん…。実は、父さんと一緒に、母さんのお墓参りにね…」

よほど嬉しかったのだろう。夕日の残光でオレンジ色に照らされているにもかかわらず、シンジの頬はなお赤い。

「よかったわね、碇くん…」

これはレイ。赤い瞳はひたすら優しい。

そして、二人にとって待ちに待った瞬間が、全く不意に訪れる。

なにやらジャケットのポケットをごそごそしていたシンジが取りだした小さな箱。

正方形というより長方形に近い立方体が、薄闇が迫る中でも、アスカとレイにははっきりと見えた。

「これをお墓に供えて…お参りしたんだ。母さん、僕を産んでくれてありがとうって……」

「……」

その独白は、アスカの心の深いところに共振するものがあった。

全くだと思う。

たちまち脳裏に、うん幼い自分とまだ優しかった母親の姿が浮かぶ。

でも、優しい記憶はそれでおしまい。それ以上は進まないほうがいい。

自分に言い聞かせ、淡い思い出に名残惜しげに指を這わせながら、アスカは声に出さず呟いた。

ありがとう、ママ。あたしを産んでくれて。

この世界で、たくさんの人に合わせてくれて。

だから、あたしは、大事な人に巡り会えた。

次の瞬間、その大事な人を守るため、彼女が行動を起こしたのは当然といえよう。

かなりのスピードで迫ってくるスポーツカー。

庇うように、シンジとレイを道路より押し出す。

狭い道でほとんど回避スペースはない。となれば、土手のほうまで足が踏み出るのは仕方ない。

急に押されたシンジが、大きくよろけたのも無理なからぬこと。

バランスを取るために、半ば無意識で振られた腕から、小箱がゆっくりと宙に舞うのが、青と赤、双方の瞳にはやけにはっきりと映る。

「危ないなあ、あの車…」

遠ざかる車のナンバーに呑気に呟いた本人は、手からそれがなくなったことに気づいていなかった。

彼が気づいたのは、アスカとレイが即座に小箱が落ちたらしい地点で上体を屈めた段になってからである。

「あ…!!」

短く声を漏らし、同じくはいつくばるようにしてシンジも土手下の草むらに分け入る。

「…ここいらへんだったわよね、ファースト?」

「ううん、もう少し右だったかも知れない」

今やほとんど四つんばいになりながらのアスカとレイの問答。

日は殆ど没して、あたりは急速に暗くなりつつある。

河川敷に灯りはあることはあるけれど、常夜灯の光も土手下までは届いてこない。

さすがに、これ以上探すのは無謀だろう。

なのに、二人は捜すのを止めようとしない。

「…とりあえず、もういいよ。明日、明るくなってから探そう?」

そう提案したシンジだったが、思いも寄らぬ剣幕で報われた。

「なにいってんの! お母さんの大事な形見なんでしょ!? 今夜、雨が降ったり、他の人に見つけられたらどうすんの!!」

顔も上げず怒鳴るアスカ。

対して、小さく悲鳴を上げたのはレイだ。

「…いたっ」

「だ、大丈夫、綾波!?」

もはやあたりは真っ暗闇だ。その中で手探り状態なのである。何かで手を傷つける可能性は極めて高い。

「…平気。大丈夫」

さらっと答え、また暗闇を探っている気配に、シンジは絶句してしまう。

「二人とも、とてもありがたいけれど…。確かに大事なものだけどさ、こんなになってまで探すのは…」

呻くような意見に、レイは答える。

「…お母さんのもの。とてもとても大事なもの。大切にしなきゃいけないもの…」

アスカは口を開くより手を動かせと言わんばかりの大声。

「アンタも喋っている間に探しなさいよ!」

もはや逆らう術もなく、シンジもは再度地面にはいつくばる。このままさっさと見つけるのが最良の選択に思えた。

それにしても、暗い。何か灯りは…。

ここでジッポライターでもあればいいのだが、三人とも非喫煙者。

少しだけ考え込んだシンジは、懐から携帯電話を取り出す。

ディスプレイの灯りが、周囲を仄かに照らし出した。

でも、それほど効果は望めない。光が弱すぎる。ないよりマシという程度。

それでも、アスカはシンジを呼びつけた。

「ほらっ! あたしがこの雑草を押さえてるから、間を照らしてみて!」

いわれてシンジが近づいてくる気配。

本当に、よほど近づかなければ顔も分からないほど暗い。

「どこ?」

「そこらへんよ、うん、そこらあたり…。ないみたいね」

肩をおろし遠ざかろうとする気配に、アスカは声をかけた。

この状況下にも関わらず、訊ねてみたい衝動を抑えきれなくなったのは、シンジの先ほどの発言がある。

「ねえ、シンジ。もし、その箱を見つけたら…あたしにくれる?」

暗闇にも関わらず、シンジが驚いた顔をしたのは分かった。

答えを遮るように、アスカは言い募る。半分は自分に対する言い訳が混じっていたことは否めない。

「ほ、ほら。アンタさっきいったじゃない。大事だけれど、そんな必死で探すほどのもんでもない、みたいな…」

そして、シンジは答えてくれた。

「…悪いけど、アスカにあげられないよ。…ううん、違うかな。アスカにあげても意味がないというか…」

誇張抜きで、アスカは目の前が暗くなった。もう顔も、自分の手すら見えやしない。

お母さんの形見。多分、中身は指輪。それを、あたしに、あげる気はない。意味がない…。

一気に冷えた頭の中で、ぶつぎりの単語がグルグル廻る。

そのまま泣き出したい気分だった。事実、涙腺は決壊寸前だった。

だけど、一縷の望みを託し、もう一つ質問を、確認をする。

「……じゃあさ、ファーストのヤツにだったら、あげるの?」

シンジは少しだけ迷ったように思える。

でも、彼は気軽に答えた。

「綾波か…。綾波だったら、欲しいっていうなら、あげてもいいかもね」

聞きたくなかった。でも聞こえてしまった。

アスカは氷柱と化す。

全てのものが、表面を滑り落ちていく。

なのに、レイの「…見つけた」という言葉はヤケにはっきりと、重く響いた。

本当の氷になれたらいいのに。

そうすれば、きっと、今の言葉で粉々に砕けてしまえたのに。







マンションのシンジの部屋。

リビングでお茶を振る舞われても、アスカの気分は一向に改善しなかった。

むしろ、今にも砕けてしまいそう。

シンジに手の治療をして貰っているファーストを見るのが、辛い。

でも、せめて、見届けなきゃ。

あの箱の中身を。

…贈られたら、ファーストは喜ぶんだろうな。

そして、薬指にはめて、ゆっくり微笑むのだろう。

いやに具体的な像が浮かぶけど、もはやそのイメージを散らす気力も今のアスカにはなかった。

あらゆる嫌な想像が、まるで空っぽになってしまった体内で反響するだけ。

リビングのテーブルの上に置かれた小さな箱。

絆創膏を貼られた手が、ゆっくりとそれに伸びる。

「…碇くん。これ、私が貰って、いいの…?」

普段のレイらしからぬ、おそろしく真摯な問い掛け。

場の雰囲気が全然読めないらしいシンジは、あっさりと首を縦に振る。まるで、夕食にハンバーグを作るのを引き受けるかのように。

「綾波になら…うん、構わないよ」

シンジの顔には照れたような笑みが浮かんでいる。

アスカも、微笑ましくその光景を眺めていた。

むしろ、レイのことを祝福してやるつもりだ。

なのに、アスカの視界から、どんどん二人が遠ざかる。

やがて、完全に見えなくなるだろう。

そうなったら、静かに部屋を出よう。

そして、明日にでも引っ越そう。どこか、シンジのいない、シンジを思い出せなくなるまで遠くへ。

そっとアスカは目を閉じる。

まだシンジの笑顔が目蓋に残っているうちに。

むしろこれだけは、しっかりと焼き付けておこう…。




















「…これは、なに?」















歓声でも、嬉しい悲鳴でもない。

朴訥とした、完全無欠の疑問形のレイの声が、アスカを現実に引き戻した。

同時に、ほとんど反射的に箱の中身を覗き込んでいる。

果たして、アスカも全く類似した声を上げてしまった。

「…なにこれ?」

長方形の空間。そこに敷き詰められた赤い布。それはいい。

問題は、その中心に長々と横たわる正体不明の物体。

干涸らびたミミズというかなんというか。

そう、むかしTVのCMでみた、朝鮮人参の干物。あれに近いかも。

でも、これは、なんかもっと生々しい感じがする。

二人に再度尋ねられ、シンジはきょとんとした顔で答える。

「これは臍帯っていうんだけど…。あれ? 二人とも知らない?」

「…さいたい〜?」

遠慮ない、むしろ全力で訝しげなアスカの声に、シンジはご丁寧にも解説してくれる。

「つまりは、ヘソの緒だよ。赤ちゃんとお母さんを繋いでいる栄養の管」

それは理解できる。でも…。

「日本ではこうやって大事に保管する習慣があるんだけど…。外国にはないのかなあ?」

………………。

あらゆるわだかまりが氷解して、アスカは脱力した。

そのままソファーにふんぞり返ってしまう。

凄まじい徒労感に襲われたのである。

するってーと、なになになに!? あたしたちは、へその緒の為に、あれだけ奮闘したわけ?

中身が指輪だったならばいざ知らず。

種が割れてしまえば、幾ら思い返しても、徒労と虚しさしか浮かんでこない。

このあたしをしてもそうなのだから、ましてやファーストに至っては…。

むしろ気の毒そうな色を瞳に浮かべて、アスカはレイを見やる。

ここまで唖然とした彼女の姿を見るのは初めてかも。

そりゃあ、幾ら貰えるといっても、ヘソの緒なんか指に巻いて見せるわけにもいかない。

ショックの大きさでいえば、あたしとどっちが大きいかしら?

そんな意地悪いことを考えつけたのも、彼女の調子が戻ってきたからに他ならない。

…でも良かった。

ファーストには悪いけど、とにかく良かった。

予想通り、綾波レイの受けた被害は甚大だったらしい。

天国から急転直下の奈落行き、の見本みたいなものだ。

真っ白い顔を更に蒼白にし、うつろな瞳で立ち上がった彼女は、フラフラとリビングを出て行く。

「ちょっと顔洗ってくる…」

との台詞を置いて。

その間隙を見逃さないほど、アスカは調子を取り戻していた。

心配そうにレイを見送るシンジに、小声で、それでも鋭く訊ねる。

「アンタ、なんであたしにはダメで、ファーストにはあげられるっていったのよ。その…ヘソの緒」

これが残された疑問だった。

どうして、あたしが貰っても意味がないのか。ファーストが貰えることにどんな意味があるのか。

シンジはまたもやきょとんとしたけれど、一転破顔。声のボリュームも落とさず説明してくれた。

「綾波が、僕の母さんをサルベージして産まれてきたんだって、アスカも知ってるでしょ?」

そのことは、アスカもリツコやミサトから聞いている。

…あの子は遺伝的には、シンジくんのお母さんと変わりないわ。でも、一人の普通の女の子と扱ってほしいの。

もう、あの子に予備はいないんだから。正真正銘、世界でただ一人の人間、綾波レイよ。

知っていた。だからといって、人倫に背くような態度で接した覚えはない。

むしろ、友人として、恋のライバルとして、彼女を認めてきた。

息を飲み、アスカは先を促す。

「だったら、綾波は僕の母さんの生まれ変わりみたいなもんじゃない? 

 だとすれば、息子のヘソの緒を持っていてもおかしくないと思ったんだけど…」

直後、洗面所の方から何かが倒れる音。

アスカは天を仰いだのも束の間、立ち上がり、リビングを飛び出す。

案の定、洗面所ではレイが床に昏倒していた。

そんな彼女の両頬には涙が二筋光っている。

先ほどの会話が聞こえたのは間違いない。さぞかしショックだったのだろう。

なんせシンジの発言自体、「いつまでもいいお友達でいましょうね」という断り文句の強化版みたいなものだったのだから。

しかも、本人には全く邪気がないようなのだから、どうしたらいいものやら。

…ファーストも気の毒に。でも、ぶっ倒れるなら、自宅に戻ってからにして欲しかったわね。

後を追いかけてきたシンジに指示を飛ばし、二人してレイをベッドまで運搬する。

さすがにレイを残して自宅へ引き上げるのは気が引けた。シンジと二人きりにすることにも不安がある。

仕方がないので、アスカは自宅から手つかずのワインを数本運搬した。

その晩、アスカとシンジは、彼の父の話題を肴に、信じられないくらい健全に酔いつぶれて眠った。
















それから三日後。

葛城三佐襲撃事件が発生。一時ネルフ本部は騒然となる。

時刻は深夜。

ダベるだけダベって残業代をせしめ、意気揚々と帰宅しようとした葛城ミサト三佐が、駐車場付近でなにものかの襲撃を受けた。

即座に発見、ネルフ直下の病院へ搬送された彼女は、命に別状はなかったけれど、襲撃犯の顔を覚えていないと主張。

それゆえに、物議を醸し出すことになる。

後頭部に一撃を食らい、薄れゆく意識の中で、それでも彼女が書き記したダイイングメッセージ。

アルファベットの『A』

この解釈を巡って、ネルフ本部では喧々囂々の議論が交わされた。

これは犯人のイニシャルであるという意見が圧倒的で、さっそく職員の名字が幾つかピックアップされる。

被害者本人と馴染みの深い面子ということで、青葉シゲル二尉、赤木リツコ博士が注目を集めたのは無理もない。

もっとも、二人とも呆れ顔でアリバイを主張し、それも万人の認めることになった。

だいたい、彼、彼女らに、葛城三佐を襲ってなんの得があろう?

…『A』という単語に関しては、実に穿った意見もある。

これは『A』ではなく『∀』と書かれたのだ。そして、『∀』とは、すなわちヒゲ。

つまり、犯人は、碇司令だったんだよっ!!

な、なんだってーーーーーー!

極少数の賛同しか得られなかったのは、いうまでもない。

更に、昏倒した被害者の背中に貼り付けてあった『人誅』と書かれた紙から、おそらく、犯人は、相当の恨みがあった人物と推測された。

実行犯と真犯人は別かも知れない、複数犯かも知れない、との意見もでる。

また、施設の構造に詳しいあたりから、外部のものの犯行も考えにくい。

面子をかけて動き出した保安部であったが、犯人を特定するまでには至らなかった。

そもそもの被害者が、非協力的なことおびただしい。

おまけに、探れば探るほど、葛城ミサト個人の他の嫌疑が浮かび上がってくるのだ。

まず、襲撃された際、彼女が多額の現金を所持していた疑いがもたれているが、本人は否定している。

従って、その現金の出所も不明。在るはずのないモノは調べようもない。

更に、最近、職員間で行われている通称「123(ひふみ)賭博」の元締めも彼女と見られているが、これにもなんら物的証拠は存在しない。

(注:123とは、それぞれ元チルドレンのナンバーを示しているらしいが、具体的な内容は不明)

ただ、葛城家の冷蔵庫のビールが、全て中身をメッコールに入れ替えられていた件。

買い置きのカップラーメンの中の麺が全て粉々にされていた件も、くだんの襲撃事件と関連性はあるのだろうか。

謎が深まるだけの一連の事件は、いつのまにか有耶無耶になってしまった。

どこからか圧力がかかった、とまことしやかな囁きも交わされる。

しかし、葛城ミサト本人が元気に出勤してくると、多くの職員の興味も持続しなくなった。

陰惨な事件ではなかったこともある。第一、被害者自体、事件のことを忘れている節があった。

やがて、平々凡々な日々が戻ってきた。

ネルフの一部の高官が苦虫を噛みつぶしたところで、世は全てこともなし。
















そして、三人の元チルドレンらの生活に、変化はあっただろうか?

微妙な正三角形を形成していたはずの彼らの関係は……実のところ、それほど大それた変化は見られなかった。

いつも通りシンジの家に集まって、食事を摂り、茶飲み話に華を咲かせる。偶に宴会だってする。

崩壊を免れた関係を楽しみながら、それでも内心でアスカはちょっとだけ優越感に浸る。

ファーストと違って、あたしのほうは、少なくとも恋愛対象になっているのだから。

だからといって、シンジの馬鹿に確認したわけでもないけれど…。

態度に出さないよう努めてはいるけれど、ささやかな優位性は滲み出てしまっているらしい。

最近、なぜかレイがアスカの部屋にやってくることが多くなった。

そして、全く突然に、ドアや窓の段差、棚の上あたりに人差し指の先端を這わせるのである。

ピンと伸ばした指先。微かに黒く変色しているのは、埃のせいだろうか。

その指をアスカに突きつけて、彼女は言う。

「…汚れている」

「ああ、掃除してないからね」

「だから、汚れている…」

指を立てたままのレイに無言で追いかけ回され、気味悪さにアスカは思わず叫ぶ。

「ちょっと、ファースト! 一体それ、なんのマネ!?」

レイは答える。

「…姑ごっこ」

いわゆる、シンジに母親認定されたヒガミゆえの行動らしいのだが、付き合わされるアスカは堪ったものではない。

「あたしは、アンタみたいな姑、いらないからねー!!」

笑いながら逃げ回る。

見ると、レイも薄い笑みを頬に浮かべていた。

なんだ、ぜんぜん凹んでいないんじゃない。むしろ、まだまだやる気があるみたいねー。

本来、ライバルの復調は歓迎すべきものじゃないはずなのに。

なんだか、楽しくてしようがない自分がいる。

「アスカー、サンドイッチ作ってきたよー」

ちょうど大皿を抱えたシンジがキッチンへ入って来たところ。

そうそう、今日はあたしの家でランチにする約束してたっけ。

皿の上のサンドイッチを一個かすめ取り、口にくわえてシンジの影に滑り込む。

当然のように、追いかけてくるレイ。

そのまま二人は、シンジを中心にグルグル廻る。

「ちょっと、二人とも、一体なにやってるんだよ…っ!?」

レイは無言。アスカは答えず、声を出して笑った。

戸惑うシンジの顔が面白い。

息を弾ませながら、彼の周りをただグルグル廻っているだけなのに、それがとても楽しくて。

ファーストだって、きっとそうだろう。

アスカは思う。

このままバターになったっていいや。



















こうして、一つの争奪戦は一応の決着を迎えた。

しかし、二人の戦いはまだまだ続く。















<2012.6.25再掲載>