常夏だった第三新東京市に雪が降る。

この珍しい光景に、碇シンジが目を見張ったのはいうまでもない。

同居人である惣流・アスカ・ラングレー嬢も同様で、彼女の喜びようはより直截的である。

雪が降り積もった翌朝、それこそ童謡の犬のように雪道へと飛び出した挙げ句、盛大に転倒した。

「あはは、あのねーちゃん、だっせー!!」

「うわあ、パンツ丸出しだぜー!!」

道行く小学生に指さして笑われる始末。

痛みと羞恥に顔を真っ赤にしてアスカは立ち上がる。

寒さにめげずおめかししたチェックのミニスカートが仇となった。

もちろん生足では寒すぎるので黒いタイツを着用してはいたが、毛糸のパンツはびしょびしょである。

「…シンジが悪いんだからね!!」

「え? え?」

困惑する少年に、雪まみれの金髪の少女は更に言い募る。

「そもそもアンタがサードインパクトなんか起こすから、こうやって雪が降るようになったのよ!
 だからあたしが転んで無様を晒す羽目になったのも全部アンタのせい! おわかり!?」

完全な八つ当たりどころか牽強付会。さながら責任転嫁の四次元殺法。

「そんなこと言われても…自然現象まで僕のせいにされたって…」

ぐっとつまり、それでもどうにか反撃を試みるシンジに、アスカは完全無欠なまでに容赦がない。

「いくら自然現象でも、原因があったからこうなったんでしょ!?
 因果応報、自業自得、言語道断、覚悟完了よ!!」
  
四字熟語の羅列で一刀両断。更に返す刀で追撃までしてくるのだから恐ろしい。

「ああ、アンタに締められた喉がうずく…」

わざとらしくマフラーの隙間から白くて細い喉を晒し、手でさすって見せてくれる。

この決定的なパフォーマンスに、シンジは涙目で口を閉ざすしかない。

嫌でも思い出すのは二人きりでの砂浜の光景。

彼女に馬乗りになって握った原罪。

決して忘れられない記憶。

思い出すたびに、罪の意識にさい悩まされるのだけれども。

こうやってアスカが巫山戯た調子で責めてくれるのはある種の救いではあった。

「…ほら、アンタのせいなんだから手ぇ貸しなさいよ」

そういって差し出して来る手こそ、なによりも本気ではない冗談であることの証左ではないだろうか?

もちろんシンジは即座に手を差し出している。

あたかもそれが新たな現在の二人の絆だとでも主張するように。

雪にまみれて冷たい彼女の手をガッチリ握る。

力を込めて引っ張る過程で、微妙に足の立ち位置を変えて踏ん張った。

その軸足が雪で接地面との摩擦係数を減少させていたものだから、結果としてシンジは盛大にバランスを崩すことになる。

「どわぁ!?」

「きゃあっ!?」

アスカを途中まで引っ張り上げていたものだから、当然アスカも巻き添え。

唯一の救いは、シンジこそ露骨に仰向けに転倒したが、半ば胸元に引き寄せられる形のアスカは彼の上に倒れ込むことになったこと。

明らかにアスカのダメージは少なく、シンジの方は倍加している。

それはそれで傍目からは抱き合って路上に転がっている風に見えるのだから、ある意味救われない。

「いててて…」

呻くシンジの上で身体を起こしたアスカは、顔を真っ赤にして強烈なビンタをお見舞いしようとして―――思いとどまった。

シンジの転倒は先ほどの自分のそれと殆ど同じ。

あたしでさえ転んだのだ。それをシンジだけ責めるというのは酷というもの。

「…大丈夫?」

道行くガキンチョどもの笑い声と面白そうな視線を無視して、シンジをいたわる。

「う、うん、なんとか…」

その後二人は、まるで生まれたての子鹿のような感じで支え合いながら立ち上がる。

シンジは思う。

正直、雪を甘く見ていた。歩き慣れてないにしても、ここまで転ぶものだなんて。

やはり、ここは一旦帰って出直したほうが…。

「ほらシンジ! ちょっと公園まで行ってみましょ!」

アスカにそう促されては否応もない。精々注意を促すくらいである。

「滑るから、気をつけていこうね」

「分かってるわよ! でも、あたしの辞書に後退の二文字はないの! こんな雪くらい完全に攻略してあげるわ!」

力強く断言するアスカを、シンジは眩しそうに見つめた。

こんな曇天下においても、なお彼女は輝いて見えた。羨ましく、少しだけ誇らしく思う自分がいる。

「それに…」

アスカの声は続いていた。彼女はシンジを見てからニヤリと笑ってこう言う。

「とことんアンタにも付き合ってもらうわよ? ……死なばもろともなんだから」

後半の台詞を言った後、照れたように視線を逸らすアスカに、シンジは元気いっぱいの返事をしていた。

「うん!」






…しかしながら、彼、彼女らは十数分後に戦略的撤退を余儀なくされた。

詳細を記すのは二人にとっても不名誉であるだろうから、簡潔な被害状況だけを記そう。


碇シンジ

・左腰部打撲  

・左肩胛付近打撲

・右膝打撲 

・右頬周辺に擦過傷多数  






惣流・アスカ・ラングレー

・左膝下擦過傷 

・両臀部打撲

・両手指にアカギレ多数

・物的被害:タイツ全損
 






コンフォートマンションからわずか10メートルの途上においての惨劇である。









































「…で、わたしに雪道でも滑らないコツを教えて欲しい、と?」

「そうなんです。お願いします、ミサトさん!」

右ほっぺの白い絆創膏後も痛々しく、シンジは保護者に頭を下げた。

ビール缶片手の保護者葛城ミサトはというと、面白そうな表情を浮かべ目前の少年とリビングのコタツから首だけを覗かせた少女を眺める。

一瞥しただけでも被保護者たちは満身創痍の様子。

ビールを飲み干しミサトはひとりごちる。

…シンジくんもアスカも雪慣れしていないのは無理はないか。

なにせ、産まれた年がセカンドインパクトの翌年の二人である。

そのころの世界は大混乱で季節もへったくれもなく、ようやく落ち着いた日本は夏盛り絶頂。

雪なんぞTVや本で間接的な知識を持っているのが精々だ。

彼らが雪道に苦戦するのも頷けるというもの。

まあ、二人に限らず西暦2000年前後産まれの子供たちは物心がついた頃に世間は常夏だったわけで、この世代は雪と触れあうのは実に今日が初めてなのである。

おそらく、降雪地域では、シンジとアスカのように怪我を負った同年代で溢れていることだろう。

彼らとて決して雪を甘く見ているわけではない。

しかし、雪道の危険性などについては全く知識がないのは如何ともしがたい。この先、知る必要もないと思われていたから尚更だ。

セカンドインパクト以前産まれの世代は、もちろんある程度雪には耐性がある。

ネルフスタッフで比較的若年層である青葉、日向、伊吹のオペレーターズも、幼少のみぎり雪で遊んだ経験はあるのだ。

その点においてもミサトは申し分がない。

あまり思い出したくないけれど、南極観測隊にも参加したことがあるので、雪道の踏破には自信がある。

「でもさ、アスカは乗り気じゃないみたいだけど?」

分かってはいるけど、ミサトはシンジをからかうのが止められない。

「…そ、そりゃあ今は不貞寝してますけど、ホントはアスカは誰より外で遊びたいんですよ…」

顔を真っ赤にし声を潜めて抗弁してくる少年を眺めるのが、この保護者のささやかな愉しみなのである。

「ま、あとはおねーさんにまかせておきなさい!」

シンジには理解不能な満足げな笑みを漏らしてから、ミサトはリビングまで足を運ぶ。

そこでコタツに潜り込んだ被保護者の少女に声をかけた。

「ほら、外行きましょうよ。雪道で転ばないコツ教えてあげるからさ」

「…いい。雪がなくなるまで寝てる」

コタツ布団から首だけ出してそっぽを向き、アスカはとりつくしまもない。

ふうむ、と腕を組んだミサトは、口元に嫌らしい笑みを浮かべると更に語りかけた。

「ねえ、アスカ? 雪やこんこんって歌、知ってる?」

訊ねられ、ようやくアスカも首を反転させ床から保護者を見上げてくる。

「知ってるわよ。雪やこんこん あられやこんこん 降っては降ってはずんずん積もる―――ってやつでしょ?」

「じゃあ、当然続きもわかるわよね?」

「…ミサト、何がいいたいワケ?」

訝しげな表情を浮かべる被保護者の質問を澄ました表情で聞き流し、ミサトは続きを歌う。

「犬は喜び庭かけまわり〜」

「……」

「猫はコタツで丸くなる〜」

『丸く』のところのイントネーションに力を込める。

予想通りアスカはコタツから跳ね起きた。

慌ててはね除けられたコタツのテーブルを受け止めるシンジを横目に、アスカはびしぃっ! とミサトに指を突き付けている。

「そこまでいうならレクチャーを受けてあげるわ! 確かに冬場だからってこもっていれば運動不足になるもんね。
 ……そもそも一度敗退したくらいで引くのはあたしらしくないわよ、そうよ!」

台詞の後半は誰にいっているのか定かではないのだが、彼女がやる気を駆り立てられたのは事実。

見事なまでにアスカの思考を誘導、操作したミサトの手腕はまさしく賞賛に値する。

これだけ長く一緒に暮らしていればいわば当然かも知れないが、決して年の功などとはいってはいけない。

葛城ミサト3×歳。なかなかに微妙なお年頃なのである。

そんな自称永遠のおねーさんは、豊かすぎる胸を突き出し宣言した。

「さ、二人とも、寒くない格好して玄関先に集合!」

そして数分後。

考えられる限りの防寒具に身を包んだ被保護者の少年少女に、さっそくミサトのチェックが飛ぶ。

「あーダメダメ! 根本的に間違ってるわよ!」

ミサトの指し示すのは二人の足下。

シンジはスニーカーにアスカはキャメルのローファーである。

「いい? 雪道はスノーシューズか長靴、ブーツが基本よ。スニーカーなんてもってのほか」

「…そういうものなんですか?」

「凍った路面じゃあ、これから転びますよ〜って宣言してるみたいなもんね」

戸惑いながらもシンジは反論。

「でも、だからといってスノーシューズなんか持っていないし…」

確かに現在の葛城邸には防寒具は数あれど、冬用靴類の在庫はない。

寒くはなっても積雪するとまでは予想していなかったからだ。

「ふん! どっちにしろ買いに行かなきゃならないわけでしょ?」

アスカは鼻を鳴らし、結局ローファーのままで再度出撃を申請する。

「…まあ、そうなるわね」

ミサトは不承不承頷く。自分用のスノーブーツはあったけど、アスカとはサイズが合わない。

「車が整備中じゃなきゃ、買い物まで乗せていってあげるんだけど…」

つい先日ルノーはディラーのところへ定期整備に出したばかり。

雪が降ったからついでにスノータイヤへの交換も依頼できたので、丁度いいとは言えなくもないのだが。

「どうする? 靴屋さんまでタクシーでも呼ぼうか?」

そう提案するシンジをアスカは一蹴。

「勿体ないわよ、そんなの。それよかミサト、歩き方教えてよ。別にスニーカーだから確実に転ぶわけでもないんでしょ?」

「そりゃそうだけどね、素人にはお勧めできないのよね〜」

呟くようなミサトの台詞に、ブルーアイズがキラリと光る。

「それでこそ攻略しがいがあるってもんよ! そもそも不慮の自体に対応できなきゃ一流とはいえないからね!」

保護者の台詞のどこらへんがアスカをムキにさせたのか、何をもって一流というのか、色々と疑問は尽きないけれどシンジも追従する。

「そうですよ、ミサトさん。とりあえず歩き方だけでもレクチャー、お願いします」

被保護者二人にそう挑まれ、ミサトは青黒い髪を一つ掻き回し、結局了承した。

「―――まずは、いい? とりあえず雪道では前傾姿勢が基本だからね?」

マンション前。へっぴり腰の少年少女に、ミサトはそうアドバイスを開始。

「それはどうして?」

怪我をしたところを庇いながら、アスカは視線だけで訊いてくる。

「とりあえず滑って転んだ場合、後ろ向きに転倒するのは極力さけなければいけないのよ。
 前に転倒する分にはどうにか手で支えたり出来るけど、後ろにひっくり返るのは無防備がすぎるわ」

「…なるほど」

熱心に頷くシンジに微笑みかけ、ミサトは続ける。

「それと、決して歩幅は広く取っちゃだめ。足もあまり高く上げないほうが無難ね。
 雪面に接地するときも爪先でなく足の裏の真ん中から」

またまた頷いている被保護者に、ミサトは命令した。

「ほら、ちょっと歩いてみせなさい」

「あ、はい」

ミサトとアスカが見守る中、おそるおそるシンジは雪道に足を踏み出す。

さっそく軽くよろけたところへミサトがアドバイスを飛ばす。

「ほら、重心は真ん中に保って。そうすれば、左右どちらに足が滑っても対応しやすいからね」

ヨタヨタという感じで、シンジはマンション前の決して広くないスペースを進む。

なるほど、確かに前傾姿勢でそろそろと足を進める歩き方は、通常の歩行との安定感とは雲泥の差がある。

爪先からでなく足の裏の中心を使う接地方法も、多少前後に滑っても体勢をリカバリーしやすい。

「できましたよ、ミサトさん!」

無事に一周して戻ってきたシンジに、ミサトは言う。

「じゃあさ、シンジくん。ちょっと爪先に力を込めて歩いてみ?」

「爪先…ですか」

つまりは、通常と同じ歩き方をして見せろということだろうか。

素直に実行に移したシンジは、わずか一歩目で盛大に前方にバランスを崩す。

力を込めた爪先がつるりと滑ったのだ。

「うわあ!!」

そのまま雪の中へ転倒―――とはならなかった。

代わりにシンジは暖かくて柔らかいものの中に顔を埋めていることに気づく。

「わお、シンちゃんってばだーいたん♪」

自分の胸で少年を抱き留めて、ミサトは嬌声を上げてみせた。

「ほらほら、さっさと行くわよ!」

なぜか不機嫌な表情でやってきたアスカが、シンジを保護者から引き離す。

「う、うん…」

「まずは靴を買いに行くわ!」

そういってシンジの手を無理矢理引っ張った挙げ句、第一歩目で足を滑らせていれば世話がない。

「…大丈夫?」

気遣わしげなミサトに、どうにかアスカの転倒を支えて阻止したシンジは答える。

「ええ、大丈夫ですよ、たぶん…」

アスカは無言。ミサトからはその表情が伺えなかったけれど、果たして怒っているのか恥ずかしがっているのか。

ただ、どっちにしろ顔が真っ赤なのは確実だろう。

支えられて支えれば、必然的に互いの身体を掴んだりひっついたりするわけで…。

「…せいぜいあたしをしっかり支えてみせなさいよ! 転ばせたら殺すわよ!?」

視線も合わせずアスカは自分の腕をガッチリと少年の腕に絡める。

「う、うん」

しどろもどろになるシンジと、彼に縋り付く形になった少女を眺めミサトは呟く。

「アスカ……開き直ったわね…」

果たして、シンジはどもりながら言う。

「ミ、ミサトさん! そ、その、行ってきます!」

「はい、いってらっしゃい〜」

笑いを堪える表情のミサトの目線の先。

見た目、完璧に寄り添うカップルと化した二人が、そろそろと雪道を進んでいく。

…ま、なるようになるでしょ。これで二人の仲が進展すれば儲けものってヤツ?

被保護者の二つの背中を見送ってそう呟いたミサトであったが。

彼女の予想は、色々な意味で裏切られることになる。













200メートルを踏破した時点で、転びそうになること八回。

それでも、なおアスカとシンジともに無傷であった。

ミサトのレクチャーが確実に功を奏しているのだろう。

副作用で見た目がやや間抜けではあっても、当事者たちは必死である。

「ほ、ほら、シンジ、そっちの雪のない方に行きなさいよ…」

「う、うん、アスカもそこは固まって滑りやすいから気をつけて」

寄り添いながら、そろそろと歩を進める。

そんな彼らの傍らを、元気そうに子供たちが駆け抜けていく。

「…ねえ、なんであの子供たちは転ばないのよ? あの子たちも雪は初めてじゃないの?」

膝を震わせながら、アスカ、素朴な疑問。

「そりゃあ…順応性が高いからじゃないかなあ…」

カラフルなスノーウェアを着込んだ子供たちの背中を眺め、シンジは答える。

「って、きゃっ!? 腰、触らないでよ!!」

「あ、ご、ごめん!」

実にいつもの五倍の時間をかけて辿り着いた駅前の商店街は、さすがに除雪が行われていた。

どうにか通常歩行に復帰し、さっそく向かった大手シューズショップにて。

「売り切れ? これのサイズも? あっちのサイズも? 全部?」

素っ頓狂なアスカの声に、慇懃な店員の声が応じる。

「ええ。朝方からたくさんのお客様がいらしてくださいまして…申し訳ありません」

つまりは急すぎる積雪に対する反応、考えることは皆同じということだろう。

冬用の靴を求めて殺到するのもいわば当然で、初動の遅れたアスカが買いそびれてしまったのも無理はない。

「えーと、このスノートレイの在庫もないんですか?」

この質問を発したのはシンジ。

「申し訳ありませんが、そちらのサイズも生憎と売り切れで…」

頭を下げる店員に文句を言っても始まらない。またシンジはこのような状況に苦言を呈するキャラでもない。

不満全開のアスカを宥めつつ、シンジは再度訊ねる。

「じゃあ、他に何か冬用の靴はないですか?」

「それでしたら、こちらに…」

店員が指し示したのは何の変哲もないゴム長靴であった。

飾り気も何もない剥きだしの真っ黒い表面が異様に艶やかである。

「これでしたら、サイズさえあえば男女で兼用できますが」

「…うーん」

迷うシンジと正反対にアスカはブンブン首を振る。

「いやよ、そんなダサダサなのは! 絶対あたしはいらないからね!」

確かにこれはお洒落とは言い難い。だからといって、何かしら購入しなければ、わざわざここまできた甲斐もない。

もうしばらく迷った末、シンジはゴム長靴の一足を購入した。

「…あんたも物好きねえ」

店を出るなり遠慮なくアスカは言う。

「だって安かったし…」

ささやかながら反論するシンジであったが、アスカは歯牙にかけるはずもない。

「そーゆーのを『安物買いの銭失い』っていうんでしょ、確か?」

「別に安いのは装飾がないからであって、実用性は高いんだってば…」

ここぞというときに限り正しい日本のことわざを使って攻めてくるあたり、侮れないというかなんというか。

出来れば平素から日本語を正しく使って欲しいと思う。

『人の嫌がることは進んでしましょう』という言葉を受けて、シツコク嫌がらせをしてくるのが普段のアスカである。

「僕はこれ履いて帰るけど、アスカはどうするのさ?」

そもそもこの買い物は滑りにくい履き物を入手するのが目的。

手に入らなければ、既存の装備でたっぷり時間をかけて帰路につかなければならないのは自明の理。

しかしアスカは鼻息一つでシンジの憂いを吹き飛ばす。

「帰りはタクシー使えばいいじゃない!」

「………」

そもそもここまで買いに来るときタクシーを使おうといったのを、勿体ないの一言で一蹴したのはアスカじゃなかったっけ?

彼女のスタンスが朝令暮改なのは百も承知してはいたが、シンジがジト目で見ても平然としているあたり、自分の発言も忘れているのかもしれない。

「さ、行くわよ!」

意気揚々とタクシーの待合場所まで足を向けるアスカ。

やれやれとばかりに後を追うシンジであったが、間もなく思いがけない光景を目撃する。

待合所前に並ぶ長蛇の列。

「なによ、この人数は!?」

アスカが悲鳴を上げるのも無理がないほど人でごった返している。

隣接するバスの停留所も同様で、下手をすると三桁を越えてそうな数の人々がたむろしているのだ。

「えーと、ちょっとすみません」

適当なタクシー待ちの人にシンジが訊いてみたところ、既に一時間以上待っているとのこと。

さらにバスは来る気配もない。

記録的な積雪で、ここ第三新東京市の交通網は完全に麻痺してしまったのだろう。

よくよく見てみれば、大通りも自家用車で大渋滞。

どこかしらからか救急車やパトカーのサイレンが響いてくるあたり、事故が多発しているのかも知れない。

「…待つ?」

訊ねるシンジにアスカは渋い顔。彼女のこの反応はどう解釈するのが最適か、シンジは知り尽くしている。

結論。徒歩での帰宅。

とりあえずさっそく長靴に履き替えるシンジであったが、当然ながらアスカが気になって仕方ない。

彼女の足下だけノーマル仕様。となれば僕がエスコートして帰らなければならないわけで…。

なにか嫌な予感がした。そして間髪いれず的中した。

「ほら、シンジ。屈みなさいよ」

「え? う、うん…」

とりあえず従った矢先、背中に飛び乗られて思わずシンジは歩道に顔面から突っ込みそうになる。

背中に飛び乗られたことはさておいて、転びそうになったことはいきなりで驚いたゆえと弁明した。

ここで、アスカが重かったから、などと口走ってしまえばそれこそ命に関わる。

「シンジがおんぶして、あたしを家まで載っけていけばいいのよ。アンタだけ長靴履いてるんだからさ」

耳元で甘い息とともに囁かれる。

「そんな…アスカも長靴買ってくればいいじゃないか」

なぜか頬を染めてしまうシンジに、負ぶさったままアスカは軽くウインク。

「それは、い・や♪」

「語尾に音符をつけられても…」

「…あのねえ、さっきの店であれだけ啖呵切った以上、戻ってやっぱり買いますなんて情けないじゃない!」

「啖呵を切るなんて、これまた難しい上に使用頻度の低い日本語を…」

「いいから微速全身! いざコンフォートマンションへ!」

無理矢理顔を前に向けられる。

「分かったよ、分かりましたよ…」

トホホな表情を貼り付けて、シンジは雪道へ一歩を踏み出す。 

なるほど、スニーカーに比べて長靴は滑りにくい。しかし、歩きにくいことに代わりはないのだ。

プラス、背中にアスカ。

決して彼女が重いわけではない。防寒具を着込んでいたとしても、それほど苦にならない。

したがって全身に汗が滲んでくるのは運動ゆえの生理反応。

それなのに、

「もしかして、あたしって重い?」

訊いてくるアスカに、シンジは額から汗をしたたらせながらも必死で首を振る。

「いやあ、コートとか着込んでいるから暑いんだよ、うん」

「そお? ならいいけれど」

背中から響く鼻歌に、なんで僕がアスカに対して気を使わなきゃならないんだろ? と素朴な疑問が湧いてくる。

この状況、どう考えても自分にメリットはないのに。

アスカの体温や身体の感触を愉しむ余裕すらはっきりいってない。

むしろ本当に暑くて体力の消耗も著しい。雪道で普段より気を使っているから尚更だ。

「ほら、シンジ! あっち見て! 雪だるまよ、雪だるま!」

無理矢理首を45°以上ねじられる。

「そ、そう、良かったね」

返事するだけで精一杯。

まるで地獄行と化した道程も、小休止が挟まれた。

雪を払いのけたベンチにアスカをおろし、シンジもその隣で呼吸を整える。

「…アンタ、少し鈍っていない?」

泣き笑いに似た顔でシンジは無言。

しかたないのでアスカも身体をほぐし背伸びをする。

勝手にしたこととはいえ、背中に負ぶさりっぱなしも結構くたびれるのだ。

へばっているシンジを尻目に青い瞳は周囲を見回す。

裏道は、車が通らないとはいえガキンチョどものおかげで無法地帯だ。

勝手に雪を盛り上げて簡易スロープを造っている。その上はひっきりなしにソリが往復を繰り返していた。

少しだけソリ遊びをしたい誘惑に駆られたけど、我慢して視線を逸らす。

逸らした先には、複数のカップルが雪道で奮闘していた。

おそらく、雪に浮かれて遊びに出たのだろう。

しかし、雪道に慣れていないのか、転倒してはそこらかしらに転がっている。

その光景を眺めささやかな優越感に浸るアスカであったが、まもなくその笑みは性質を変えた。

理由を知るために、とあるカップルを例に挙げてみよう。

『きゃあ、タロウさん、転んじゃったあ♪』

『ははは、大丈夫かい、ハナコさん? どんなに転んでも、ボクがソフトに受け止めてあげるよ』

いちゃいちゃいちゃいちゃ。

他には受け止めても一緒に雪の中に倒れ込んだカップルなどは、雪の中でお互い抱き合ったままゴロゴロ転がっている。

いわば雪原お花畑状態である。

その隣でガキンチョどもがはしゃぎ廻っているにも関わらず、棲み分けがなされている辺りが恐ろしい。

…羨ましくなんかないわよ。

カップルたちの光景を眺め、アスカは口中で呟く。

なにも雪が降ったくらいでそんな風にべたべたする必要はないと思う。

普段はそんなに飢えてるのかしらね?

朝方の記憶を完全に忘却、三段くらい上の棚に放り投げてアスカはそう評する。

しかし、この手持ちぶさた感はなんだろう?

いちゃついているカップルたちの中で佇んでいるのはあたしだけ。

振り返れば、シンジがまだベンチで反っくり返っている。

……………これって、チャンスじゃない?

わずか0.5秒ほどでアスカはそう決断を下す。

もう0.5秒で自己弁護を開始。今回の行動理由は比較的簡単だ。

せっかくだから。

せっかくだから、この機会に、その他大勢のカップルたちの真似をしてもいいんじゃない?

雪が降るなんて、ましてや積もるなんて、滅多にないことなんだから。

つまり、アスカが具体的な行動に移るまで、わずかに1秒。

ベンチにもたれるシンジに向き直る。

正確に三歩目で、ミサトの言葉を思い出す。

『爪先に力を込めるのは厳禁よ?』

実行に移せば、警告通りに盛大に足が滑る。

予想通りの転倒。倒れ込む先にはこちらの行動に気づかず、なお呼吸を整えているシンジがいるわけで―――。

倒れ込む先にシンジがいるのは不可抗力。シンジが抱き留めてくれるのも不可抗力よ!

僅かに心に甘みを感じながらアスカはシンジめがけて飛ぶ―――!!

「あ、にーちゃん、そのボールとってー!」

「え? ああ、これだね」

ひょいとベンチから立ち上がり、足下に転がってきたサッカーボールを拾いあげるシンジ。

「!?」

必然的に目標を消失したアスカは、ベンチを飛び越えてその向こうの雪山の中に転がり込む。

その音は、ボールを蹴り返したシンジが振り向いてしまうほど盛大なものだった。

「ちょ! なにやってるの、アスカ!?」

「………なんでもない」

仏頂面で雪の中に転がるアスカである。

手を貸して立ち上がらせたシンジであったが、彼女の不機嫌の理由は想像もつかない。

「もう一回、ベンチに座って」

「…なんで?」

「いいから座る!」

有無をいわせぬ口調でベンチから距離を取るアスカを黙って見送るしかない。

続けて彼女の口にした台詞には、本気で首を捻ってしまう。

「こっち見ないで!」

本当に意味が分からない。

それでも素直に従って、ベンチに腰を降ろし明後日の方向を向くシンジである。

しばらくすると、

「あ、にーちゃん、そのフリスビーとってー!」

「ん? ああ、いいよ」

ベンチから立ち上がり、フリスビーを拾った途端、また背後で音がした。

見れば、またぞろベンチを飛び越えたアスカが雪の中に転がっていた。

「……アスカ、何やってるの?」

新しい遊びかな? などと思いながらフリスビーを放り返したシンジだったが、その一瞬の隙に首ねっこをひっつかまえる。

「痛い、痛いよ、アスカやめて」

ギリギリと首を掴み上げてくるアスカの両眼は、怒りに燃えていた。

今度こそシンジは本気で困惑する。

アスカが何をしたいのか、何で怒っているのか皆目見当がつかないのだ。

首を掴まれたまま、シンジはなぜか道路の真ん中まで引っ張り出される。

正面には、雪で出来た滑り台。

そしてなぜかアスカが遊んでいる子供たちを蹴散らしている。

「ほら、見せもんじゃないわよ!」

当然、子供たちからブーイングが上がる。

「なんだよ、このねーちゃん」

「ぶーぶー」

それでもよろめきながら、アスカは雪の滑り台に上まで登る。

「アスカ、大人げないよ…」

というシンジのぼやきも意に介さず。

滑り台の頂点まで登り詰めたアスカは、周囲の視線を黙殺して腰に手を当て胸を張った。

「さあ、アンタは今から絶対にあたしを受け止めるのよ?」

「…なんで?」

「うるさいっ!」

叫ぶなり、滑り台の上をローファーで滑り落ちてくるアスカ。

見事なバランス感覚は喝采を浴びるに値するだろう。

しかし、この期に及んで周囲の状況へも視線を配れる彼女の運動神経の良さが、シンジにとって災いした。

背中を向ける形になっていた彼はいざ知らず、アスカは見た。

こちらに向けて歩いてくる親友、洞木ヒカリの姿を。

そして聞いた。親友の声を。

「あら? アスカ何やってるの?」

シンジへ向かい、抱きつくために広げられた両手が微妙に縮こまる。

更に、滑降した身体は勢いが着いて止められないので、どうにか方向を修正。

そのプロセスで、右腕を伸ばしバランスをとったのは致し方ない。

親友の姿を見て抱きつくのを急遽中止、シンジの脇をすり抜けるべく体勢を変えたわけだが、完璧とはいかなかった。

それこそがシンジの不幸へと直結した。

伸ばしたアスカの右腕が、シンジの横をすり抜けざまに、彼の喉もとに命中したのである。

俗的にはラリアットという技で、滑降を得たその威力たるや、少年の身体を腕の高さから一回転させたほど。

「おお! クローズライン・フロム・ヒルやな!」

興奮気味にそう評したのは、洞木ヒカリにくっついてきた鈴原トウジである。

彼をしてそうなのだから、周囲の子供たちも興奮しきり。やんややんやと喝采を送っている。

「すげえ、ねーちゃんすげえ!」

「廻ったよ! いまびゅーんって廻ったよ!?」

強烈無比な一撃をお見舞いして、さすがにバランスを崩したアスカであったが、近づいてくる親友たちを前に慌てて立ちあがる。

「アスカ、あなた何やってるの? 碇くんを苛めるのにも程があるわよ?」

心配そうな責めるような口調のヒカリに、慌ててアスカは弁明。

「いえ、違うのよ、これは、違うくてね……!!」

しどろもどろになりながら、足下に伸びたシンジとヒカリを等分に眺めながら、必死で手を振る。

アスカが慌てていたのは、間違いなく自業自得である。焦りゆえに、身体バランスが著しく低下していたの仕方ない。

結果、転んだのもむべなるかな。

不幸なのは、彼女の足下に転がっていたシンジであって、ダバダバと手を動かすアスカが降ってきたところで避けようがなかったこと。

「ぐふうっ!?」

本人の意思はいざ知らず、見事なまでのエルボードロップがシンジの胸元に炸裂した。

「おおお!? ぴーぽーず・えるぼーか!?」

また感嘆の声を上げる鈴原トウジであったが、加害者たるアスカは自分が何をしたのか未だ理解できず、茫然と雪の中に腰を降ろしたまま。

ただ一人、洞木ヒカリのみが事態を正確に理解、そして自分の成すべき事を実行した。

「ちょっと碇くん大丈夫!? 誰かっ! 救急車呼んで!」



















碇シンジ、頸部捻挫と胸骨亀裂骨折にて緊急入院。

連絡を受けて病院まで駆けつけてきた保護者は、バツの悪そうなアスカと対面する。

「…いったい、何がどうなったらこんな怪我をするわけ?」

ミサトの質問に対し、金髪の少女はこうのたもうた。

「いやあー、本当に雪って怖いわねえ」

ベッドの上でシンジは呻きながら言う。

「僕はアスカの方が怖いよ…」










理不尽なアスカの行動の果てに、碇シンジは長い入院を余儀なくされた。

彼にとって幸いなことは、入院している間に雪は綺麗さっぱり消失してくれたことだろう。

その間、惣流・アスカ・ラングレー嬢がつきっきりで看護をしてくれたのは、少年にとって幸福だったかどうかは次の会話から窺がえるかも知れない。






「だから、ごめんって言ってるでしょ? こうやって謝ってるでしょ? これだけ謝ってるんだから、男だったらいつまでもグダグダいってんじゃないわよ!」


「…アスカ、それ、全然反省してないよ…」


「何よ、反省してるってば。だから、罪滅ぼしにこうやって付きっきりで世話してあげてるじゃない」


「余計、悪化しそうなんだけど…」


「なんか言った!?」


「ウウン、ナンニモ」


「ふん! まあ、いいわ。…それよりアンタ、何さっきからソワソワしてるのよ?」


「ウウン、ナンデモナイヨ」


「―――そっかそっか、今はアンタ、一人でトイレも行けないもんね」


「って、何アスカ、それは―――尿瓶!? うわー、止めてアスカアスカ止めて、看護婦さあーん!!」























(2005/12/27)





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